2010年6月30日水曜日

子どもの実力のほどに脱帽



おはようございます。仕事先のマンションの近所に宮様の邸宅があります。そこに警備の皇宮警察が警戒にあたっています。BOXは座布団2枚位、お臍位の高さの警棒に両手を添えて立っています。
おそらく24時間勤務でしょうが、警察署の前なら、署内の交代要員があるでしょうがどうなのでしょう。床屋さんも立ちっぱなしですが、ここの場合は折りたたみの椅子が畳んで立てかけてありますが、トイレなどどうしているのか心配したくなります。

岡本真(おかもとまこと)
アカデミック・リソース・」ガイド株式会社代表取締役・インターネットの学術利用を提案するメールマガジンに関係し、ACADEMICRESOURCEGUIDEの発行で図書館関係者に刺激を与えている。図書館を使った調べる学習コンクール※審査員でもある。下記の作品を「図書館」の関連雑誌で紹介しています。
※http://www.toshokan.or.jp/shirabe-sp/14youkou.pdf

千葉県市原市姉崎小学校3年生の大野元暉君の「大事な心臓ありがとう」

彼が自分の心臓を手術するにあたり、じゃあ心臓ってどんな働きをするんだろう。ぼくの心臓はどこが悪いんだろうといって調べていった作品です。

自分自身の小学3年時を思い返すと、心臓の手術、体を切り開く手術を受けるなんて、とても耐えられないと思うんです。家族の中で愛されて育ってきて、大野君にしたら
最初の大きな不安、もしかしたらはじめての挫折のようだったのかもしれません。でも彼は、その不安に向き合って、恐怖に打ち勝つために「知ろう」としました。」「知ること」で怖い気持ちを克服しようとしたんです。
彼は「心臓はどこにあって、どういうものでできていて、どんな仕事をしているのか」「血液はどんな働きをしてどこで作られているのか」など自分なりに徹底的に調べて知識を得た上で、ニワトリの心臓を解剖、観察し、お父さんお母さんと一緒に何人もの医師、看護師に話を聞いていきます。最終的には小学3年生が、大きな病院の執刀医と差し向かいで話会えるまでに」なって、ここまで真摯に病気に向き合う患者に対しては、医師も全力で説明、執刀せざるを得ないでしょう。この「知る」という行為を通して恐怖と向き合って大野君は納得して手術を受けた。こういう経験をしたとうことに私は感動しました。これを見守った両親もすごいですね。応募者の数を見ると小学校生10906、中学生3585、高校生600、大人40※)※大学生おそらくもここに入っているのでしょう。これを見る限りこのコンクールは高校以上については
成功していないようです)

2010年6月29日火曜日

メディアねたはアメリカ製


おはようございます。昨夕は市ヶ谷で仕事の帰りに寄った図書館を出る頃は、凄い夕立だった。折りたたみの傘では防ぎきれない雨脚だった。坂のある道路の上も流れができるほどだった。
やっと駅にたどりついて安堵した。自動改札機の一歩手前で、ちょっとツルっとした途端、転んでしまった。すると改札を出た若い女性が、小脇抱えたチラシが散乱したのを拾ってくれて「大丈夫ですか」「ええ大丈夫」
こちらは、転んだことの恥ずかしさで、すぐ人ごみに紛れたかった。どうして転んだのか床をみると、自動改札でのSUICA使用のビニール表示があり滑りやすくなっていた。ホームへ下りる階段もしっかり手すりを掴んでおりた。駅に入った途端、傘を畳むと雨雫が床に落ちていて、滑り剤を撒いたような状態になっていたのではないか。
ちょっと冷静になってみると、優しい美人の女性のようだったが、シカト顔を覚えていないし、礼もそこそこで、その場をさった。失礼なことをしたと思った。老人の至りだった。それにしても、幸いなことにどこも打ちどころなくよかった。

パリ日本文化会館館長磯村尚徳:日本人はなぜ世界が読めないのか。(2002年11月発行)

日本のリーダーの多くはアメリカ留学をし、「インターナショナル・ヘラルド・トリビューンやジ・エコノミスト誌を読み、CNNをみて物事を判断する。日本のメディアのネタも全てアメリカ製である。
いまや視覚メディアはコインランドリーと呼ぶ人もあるほどの自動洗濯機なのである。石油のビジネスがセブンシスターズ※1と呼ばれる一握りの国際資本の寡占状態に支配されているように、世界の情報・通信・娯楽はファイブ・ブラザーズ※2ともいえるアングロサクソン系のメディアの寡占の下におある。インターネットにいたっては、もっとひどい。首位ワールドコムにはじまり、上位13位までがアメリカの情報通信会社。日本からヨーロッパへ、またヨーロッパからアジアに交信しようにも、アメリカを経由しなければならず、アジアは国内交信でさえアメリカを経由するケースがある。(こんなに米英両国に手の内が分かられているのなら、中国がgooogleを拒否したのもわかるように思うが、そのような日本のメディアの報道はない)このような情報通信からの利益のみならず、米英など英語圏5カ国が共用運用している通信傍受システム・エシュロンのようにアングロサクソンは全世界の情報をおさえている。フランスでは民間会社の商談でさえ、エシュロンを警戒して秘密厳守の措置をとるところがある。
※1:http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/seven_sisters.html

※2 http://journal.mycom.co.jp/column/media/006/index.html

2010年6月28日月曜日

記憶は思い出せないとき作ってしまう


おはようございます。裁判員制度が始まって、免罪事件に関心をもつようになりました。「疑わしきは罰せず」というのは日本ではまだまだという感じがします。
又人間の記憶の結構曖昧な点があるということが分かるようになると、ますます『疑わし木は罰せず』への心配りが必要です。又裁判の怖さを感じます。
下記はややっこしい話でした

証言の心理学:高木光太郎著

日常的に販売しているごく普通の部品についてだった。

実際、捜査の協力を依頼されているTは捜査員に「よく覚えていない」とこたえていた。
店にT自身のサインがあることを示して、この日の販売について思い出すように求められた。伝票をみたTは自分がこの日に「AB41-03-5」という型番の電磁弁10個をK電機のKなる人物に売ったことを認めた。しかし出来事を事実として認めることと、その出来事の記憶(思い出せる)を持っていることとは別である。

肝心のKなる人物の容姿は伝票に記載されていることはないので、Tの記憶に残っていなければそれで終わりである。しかしTは善意であろうが思い出す努力を始めてしてしまった。Tは捜査員の用意した写真帳から選ぶことになる。このとき捜査員は「見たことのある人は何人でも選んでください」この説明は捜査員のミスなのだそうです。

Tが探す必要のあったのは電磁弁を10個買っていた人物なのである。つまり特定の時間と場所に結びついた人物を思い出すことであった。それが「知っている」「見たことがある」これは今朝電車の中でTの足を踏んだとか、昨夜みたテレビのニュースで何かのインタビューにこたえた会社員に似ているかもしれない。しかし伝票に自分のサインTをみたので、自分の「見た」「知っている」と感じた人物を容易に電磁弁の販売日のあいまいである記憶らしきものに、結びつけてしまうだろう。こうしたTの記憶のなかにFが登場する様々な出来事を思い出しはじめ「客がきたとき、表に車はいなかった」「客が入ってきたとき、私は整理戸棚の前にたっていた」「客が声をかけるまえに自分のほうからいらっしゃいませと言った」「自分のポケットからボールペンを出してサインを求めた」日常よくありそうな出来事のパターンで記憶の穴を埋めるのである。

T証言の構成はひとつの仮説が、自分の記憶の脆さを、周囲の人々の記録に支えを求めそれを自分の中に取り入れてしまうのはむしろ普通で、実際には体験していない事柄が多くが混入してしまった可能性がきわめてたかい。

写真帳から選び出すときに、346枚の写真をみせた。この枚数は8枚程度から大きくて50枚位がよいそうで、それも首から上など顔以外は見せていないことが大事。多いと自分の出会った人物、五百羅漢の中に自分が出会ったことの人に似た人がいるようなる。類似しているから、歪めてしまう。それがFの写真は他の写真と違ったパターンの特異なスナップ写真を見せたので、この写真は浮き立ってみえ、それだけで相当の影響をうけ記憶を鮮明にしたかのようだった。

こういう繰り返しで下手に補強されたFの写真が「合った」という記憶になってしまった。(このように浮き立った写真について実験した早稲田大学の富田達彦の興味深い際限実験で、被実験者60は名は一度もあったことがない人の「浮き立った顔」について何と25名の人が「見たこと」と答えたといのである。見たような気にさせるという要素が極めてたかいことが分かる。
結局Tの記憶が捜査員、サイン入り伝票、偏った写真帳、これらがTの記憶の「脆さ」に出会ったとき、Fを主人公にした「記憶」が生まれ、動き始めたのである。

Fは10年の裁判ののちに無罪になった。

2010年6月27日日曜日

生活者>企業への転換


おはようございます。昨日の陶芸教室の仲間から聞いたのは娘さんの近眼が手術によってなおったとのこと。費用は24万円、手術可能か事前に検査するそうです。
視力0.5が1.5に、手術時間はたった15分、費用も紹介があると、-5万円。手術できる年齢は60歳まで、もちろん健康保険はきかないが、個人的に加入している生保からなにがしか
支給されるそうです。

アジア三国志:中国、インド、日本の大戦略:英《エコノミスト》誌元編集長・ビル・エモットより

日本の企業や業界団体は、戦後の高度成長期を通じて、官僚機構と密接に協力してきた。1970年代に経済の方向性が変わり、世論が重要になってきても、日本はすぐには生産者ではなく消費者や有権者によって動かされるようにならなかった。企業と政府の結びつきは依然として強力で、あらゆる環境規制を跳ね返した。だから20年後の1990年に至っても長年日本に駐在していたアレックス・カーは「日本はきわめて原始的な産業廃棄物規制しかないままで、新世紀に突入した」と言い切る事ができた。
日本ではアメリカや西欧に比べて政府の規制の対象になっている物質が遙かにすくないが、それでも規制違反はしばしば隠蔽される。所沢市清掃工場での排出ダイオキシンの測定値が法律で決められた水準の150倍を市と関係者が共謀して隠していた。瀬戸内海の汚染、琵琶湖の藻のはびこり。それでも人びとは健康に元気に暮らしている。それは事実だが不幸にも有毒な排水の直接の影響を受けた場合にはそういかないし、補償を受ける場合の障害が立ちふさがっている。水俣病では1973年から1995年まで法廷闘争が続いた。日本でのもっとも恥ずべき話の一つである。

2010年6月26日土曜日

「ラジオ体操人」の延長戦


おはようございます。甲子園の高校野球でもそうですが、毎回著しい成長や進歩を示す場合があります。まさにそのような例が今回のW杯の日本チームの様子で、逆にまさかのイタリアやフランスの敗退もあり、
サッカーとは大変なスポーツですね。
昨日の続きですが、雨が降ろうが、槍が降ろうが、毎朝会場にでかけ、6時30分にあわせて体操せずにはいられない人々、彼らを「ラジオ体操人」と呼ぶ。何故これほどまでに人々の心を惹きつけるのか。実際に作り話ではなく、笑いを誘うほどの熱心さがあるそうです。

絶対感動本50:斉藤孝のおすすめブックナビ;素晴らしきラジオ体操(ノンフィクション):高橋秀実:の紹介ページから


 呪術?

「朝早く起きて身体を動かせば、」なんとなく健康になった気がするでしょう。誰かがラジオ体操のおかげで胃の具合がよくなったと言い始める。するとあれは胃によいのかと本気で信じてし
まう人が現れるわけです。そういったいわば信者の輪がどんどんひろがってゆく、一種のおまじないみたいなもんです」

体操の会場は台東区に39ケ所もあるが、それぞれ縄張りがある。そういう「しがらみ」
が嫌いな人は上野公園まで遠征するそうです。
ラジオ体操人というかたは、入院中でも毎朝、病院を抜け出して会場に通うほどの人までいる。「お百度参りと同じです。行かないと気がすまないんです。旅先でも旅館のロビーでやっちゃいます。」
「ラジオ体操していると死なないんです。」
「雨が降ろうが、雪が降ろうがあたしは休めません」
―――休めないんですか?
「そうです」
―――なぜですか
「休むと死んだと思われてしまうからです。」

2010年6月25日金曜日

夢は大きくと ラジオ体操


おはようございます。W杯一次リーグから決勝T戦に進出が決まりました。AM3時半からのキックoffからの観戦は遠慮して、目覚ましを4:45に設定し、11時半には就寝。目覚ましの必要はなかった。
あわててチャンネルを回したが、他国の試合の録画、これは敗退したが故の消化放送と思ったが、念のためもう少しまわして日本テレビで日本選手がうつっている。後半30分頃2:0で日本が勝っていました。その後日本がペナルティで2:1になり、引き分けでも決勝というものの、終了までの15分は長かった。岡崎が追加点をいれて3:1になってかなり安心しました。
本田選手「深夜の応援ありがとうございます。まだ満足はしていません。諦めないでがんばれば出来ることを証明できました。いいました優勝のはまだ遠いですが(岡田監督はベスト4目指して)頑張ります。」のコメントでした。
望みは大きいのでした。まず望みが大きくないと、目標も小さくなるのですね。

絶対感動本50:斉藤孝のおすすめブックナビ

素晴らしきラジオ体操(ノンフィクション):高橋秀実:の紹介から
雨が降ろうが、槍が降ろうが、毎朝会場にでかけ、6時30分にあわせて体操せずにはいられない人々、彼らを「ラジオ体操人」と呼ぶ。何故これほどまでに人々の心を惹きつけるのか

ラジオ体操が生まれたのは1920年代のアメリカで、ある生命保険会社が商品を宣伝するために始めた。保険会社は、自社の生命保険により多くの人を加入させ、保健が満期になるまで確実に保険料を払ってもらう、ラジオ体操を普及させて長生きしてもらおうという戦略があったそうで、その目論見が見事あたったのだそうです。
1925年には400万人がこの体操に参加、主な保険加入者である白人の死亡率がみるみる低下した。
それまでは『死を待つ不吉な商売』等と言われた保険会社のイメージを健康なものに変えるという恩恵までもたらした。
日本ではやはり保険事業にからむ思惑で、独占していた簡易保険の逓信省が、『保険にはいると早死にする』といわれるほど保険のイメージが悪かった。そこでNHKと共同でこのラジオ体操をはじめたのだそうです。
軍国主義下「国民体操」さらには「ヨイサ」と呼ばれ、全国的に広められた。大企業も職場でも取り入れられ、労働者と経営者が一緒に「ヨイサ」しており、当時の「サボタージュ」がなかなかできにくかったという。

2010年6月24日木曜日

生活基盤の選択


おはようございます。女性が考えている「生活基盤をどう安定させるか」は現実的で、ここは男性と違う点です。男性は流された生き方になりがちですが、足許を見つめ直してみたいとおもいました。

GOETHE2010・6月号(幻冬舎)
林真理子の「下流の宴」の紹介記事から

格差社会できれいごとはもう通用しない。下流も中流もいつでも逆転する世の中であることを突きつけた小説。「現代の幸せの形」は?
下流の宴、専業主婦の由美子は中卒で無気力な息子に気を揉むことへの同情の声。「他人事ではないって言う人が多い。由美子の悩みはもう一つ、娘の加奈は大卒だけ有名女子大を出て学歴をトッピング。恵まれた容姿を武器に”セレブ婚活動”に励んでいる。由美子の逆鱗にふれたのは、息子・翔が結婚したいとつれてきた珠緒の育ちの悪さに「私の実家は医者だった。あなたの実家の飲み屋とは違うのよ」と啖呵を切った。驚いたことに彼女は「じゃ、私が医者になりますよ」そこから始まる究極の受験は見物だそうです。
林真理子さんの「最近ガツガツ頑張る人はごく一部デダサイという風潮がすごく強い。努力する人を軽んじる風潮は間違っていると、思います。どこかの評論家が『屑鉄屋さんから弁護士になった人に「くず鉄拾いも弁護士も立派な職業だ」といったらいわれ弁護士が「そんなの嘘だ!屑鉄拾いは誰にでもできる。わかったか?」』いままでそういうことを言ちゃいけない空気があった。南の島で暮らして貧しくとも、それぞれ違う価値観で幸せ生きているからいいんじゃない、みたいな、でもそれはやっぱり嘘だったなという思いをこの本に込めたそうです。(小生は所得これにはのおおきな格差は是正すべきでしょうが、職業に貴賎はないという立場ですし、自分の仕事に打ち込んでいる姿は美しい。)

じゃ何が幸せ

①加奈の経済力ある男性を捕まえたい。これも危うい土台
②今は300円のお弁当を食べて1000円の服をきていれば生きていける世の中で、翔みたいにいくらでも怠惰になれる。選択の時。特に子供がいる親は頑張れば視野が広がる世界があることをちゃんと教えてあげなければいけない」
結局珠緒の快進撃は意外な結末を迎える(これだの甲斐性がある彼女が怠惰な翔と結婚するというのがわかりにくい)。幸せな生き方とは何か?という答えは読者の想像にゆだねられている。林さんも「どういう風にいきればいいのか、私自身もわかりません。」と語っているそうです。痛快なまでに本音をさらけだす彼女の姿勢にバブルも不況も関係ない。

2010年6月23日水曜日

パイフオルガンが400年の眠りから覚める


おはようございます。5月20.21の通信でフランスでは田窪恭治さんが、林檎の礼拝堂(※1、※2)を修復され、今度知ったのはスペインの辻宏さんの下記パイプオルガンもそうでした。
日本人はその古さの荘厳さをよく分かり、外国のものであっても、救いの手を差し伸べている。これは素晴らしいことで、下記のテレビ番組で次はどんな日本人が善行を積んでいるのかを
知ることになります。日本の外務省や、それぞれの大使館でもこれらの紹介をしてくれているといいですね

世界を変える 100人の日本人:辻宏:パイプオルガン製作者2005年没
日本を代表するオルガンビルダーの辻宏さんが逝去されてから5年が経ちます。
辻さんはスペインのサラマンカ大聖堂のオルガン修復を通して岐阜県とサラマンカ、日本とスペインの親交に大きな功績を残した方だそうです。。
サラマンカホールという名前の由来となったスペイン サラマンカ市との交流と共に辻さんの代表作となったサラマンカホールのパイプオルガンをより一層響かせていきたいとの思いで辻さんと交流の深かった皆様を 出演者に迎え、記念のコンサートが企画された。世界最古で国の宝でありながら、400年も放置されていたパイプオルガン
12年もその大聖堂に通い続けて、現地の人達の信用を得、3000万円もの資金を日本国内で支援者を募り、1989年から修復開始8ヶ月の期間をかけて修復。オル ガンにたまった埃は100kgにもおよんだとか。
残念ながら、辻宏さんは2005年に永眠。翌年にはサラマンカ大聖堂で追悼ミサが行われた。
岐阜県県民ふれあい会館サラマンカホール館にスペイン・サラマンカ市の大聖堂にある ルネサンスオルガンのレプリカがある。
その記録のいったんはhttp://kageran.seesaa.net/article/149700891

※1:http://efemeral-spring.blogspot.com/2010/05/blog-post_20.html
※2:http://efemeral-spring.blogspot.com/2010/05/2.html

2010年6月22日火曜日

監督の正規業務<雑務


おはようございます。W杯の強豪国ブラジル以外のイタリア、フランス、スペインは苦戦しているようです。キーパーの選手は自分で点をいれられないし、好守によって自分のチームの危機を救うことにはなっても、
逆転する力にはなりえない、点をいれられても、それに拘って、守りを疎かにできない、大変な役目のようですね。日本も1勝・1敗でこの先どうなるのでしょうか。
監督の仕事は、作戦、選手の選択、だけでなく、マスコミ対策までもこなさくてはいけない。ウルサイ外野は常にいるようです。大変です。

日本人はなぜシュートを打たないのか?湯浅健二より
<オシムとギド>
1990年のイタリアW杯のグループ第一次ドイツ対ユーゴスラビアだった。その試合でダークホースの呼び声が高かったユーゴを「4対1」で粉砕した。そこでドイツのギドハユーゴの天才サビチェビッチを完ぺきに抑えきった。
組織的なサッカーを目指すオシムさんは、ユーゴには天才が並みいるほどだったが、天才を中心に使うのではなく、組織を重視しているタイプをうまくバランスさせる選手起用で発展ベクトルに乗せていった。
本国のメディアやファンはボール扱いの巧みな魅力的プレーヤーをベンチにおくオシムのやり方に対して、不満をあらわにしていた。これにはオシムも仕事がやりにくい。W杯の初戦ということもあって、ドイツ戦では一般ファンが望むとおり、天才たちを中心の布陣にした。もちろんドイツは組織プレーに長けていたので願ってもない、編成だった。ユーゴの選手は動かずに足許ばかりのパスを要求する(また守備はおざなり)ユーゴの天才達をことごとくピッチから消しさった。その一人が天才サビチェビッチを徹底的にマークした。その後オシムは「外部ノイズ」という邪魔者なしに推しすすめることができたという。その天才連中のなかで言わずとしれたドラガン・ストイコビッチがいたが、彼は攻守にわたる汗をかく組織プレーに長けた天才で、
日本サッカーに対しても理想的なプレイイメージという視点で多大な貢献をしてくれた。

ドイツの選手ギドはユーゴの天才のサビチェビッチをどうやって抑え込んだか?
先ず選手を知ること:ビデオを見て相手の特長を把握する。相手の得意なプレーを観察し、そのタイプや勝負のタイミングをしっかり頭にいれる。アクションを起こすときのの身体の動きのクセなんかも気のつく限り把握した。それで相手のプレーに対処するという意識が強すぎたら、受け身のリアクションになってしまう。相手がどのような体勢でパスを受けるかというところまで意識して自分のポジションを調整したりするんだ。「もちろん天才肌の相手にはボールに触らせないのが一番だよな。まともな
体勢でトラップできないようにプレシャーを掛けるんだ。

2010年6月21日月曜日

スポーツは政治に引きずらている


おはようございます。W杯をみていると、野球よりも一段とおもいしろい。強者がかならず勝つとは限らず、結構相性や戦術や、怪我人などもろもろの要素があって番狂わせがあるので、目まぐるしい。
であるがゲームの中で選手の動きは解説があってもなかなか分かりにくい。段々分かってくるでしょう。

ニッポンはどうすれば勝てるか?玉木正之×金子達仁;アスベスト発行

北京五輪開催決定の背景:
とにかくアメリカが北京でオリンピックをやりたかった。決定の99年の段階で、大阪が「立候補する」といったとき、ニューヨークが立候補して「敵はNY」になっていた。そのとき北京は全く沈黙だった。1週間でNYが取りやめたのは、米政府かコカコーラの圧力だった。米中の国交回復したニクソンのバックはペプシの影響で、それまではペプシの舞台だった。あの広大なマーケットにコカコーラも参入するために、画策した。北京は北京で立候補をずっと言わない。99年の長野オリンピックのときに、中国の体育局長が日本にきて記者に取材されても「まだ考えていない」とかいう訳だよね。もっとアメリカに金を出せよというメッセージですよ。
続いてパリが立候補したのは、北京有利の危険を感じたIOCが裏で動いたと推測される。これは第二の天安門事件を恐れたため。ヨーロッパは中国との経済的な交流に遅れていたので北京を推したくなかった。その後中国がどんどん国際社会に入ってきた。IOCも「これはもう北京でもできるだろう」という判断をしたんだよね。
「2012年はオレ達で決まり」とNYは思っていたが「9.11」が起こってしまった。アメリカはイラク戦争に反対したパリだけには絶対やらせたくない。ロンドン・2012年開催が決まったのは裏の国際的な経緯がある。
オリンピックは政治でスポーツじゃない。
クーベルタンはフランス人で、第1回をフランスでやろうと思っていたら、オリンピックと名前をつけるなら絶対に譲れないギリシャがでてきた。
ヒトラーのベルリン、モスクワ、ロスアンゼルスを出すまでもなく、全世界で聖火が問題になっているから、東京五輪の時、日本もしぶとく、旧大日本帝国占領地を全部回った。全部「ごめんなさいルート(素直にいえば平和の聖火)」ですね。YS11でまだ占領下の沖縄にいって日本に上陸。その時の最終ランナーが45年8月6日生まれの坂井義則さんは19歳広島生まれ。

モスクワ五輪で79年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻で翌80年にボイコット、日本は追随、ヨーロッパの選手たちは開会式に自国の国旗ではなく、五輪旗で出場した。ソ連はテレビにこの五輪旗は写さなかった。
オリンピックには政治の部分と、スポーツの部分の2面性があるが、ヨーロッパはいまもこのスポーツの面で騒いでいない。

実行体制とズッコケ



おはようございます。ある人から高級ブランドのグッチではなく、「手作り愚痴」をいただきこまりました。愚痴をゆったり聞いてあげるにしても、愚痴をいう人も聞き手の配慮があってほしいが、愚痴ばかりをいう人はそれに気づいていない。やはり近寄らないに限るかな、影響度が大きいから。自分をどう他人の目でみるかも難しいのはたしか。

問題を解決するに当たり、少子どもの対策も、子育ての親の意見を聞き、それを施策にいかしているフランス人の実行力には感心します。
分業というか、「知恵」を出すには少数精鋭は日本の戦前の教育制度もフランスに倣ったものだったそうです。

パリ日本文化会館館長磯村尚徳:日本人はなぜ世界が読めないのか。(2002年11月発行)
日産が奇跡的復活を遂げた理由

カルロス・ゴーン氏が日産に乗り込んだ時、その若さに不安や驚きを隠せなかった人も多かったと思う。日本人ならせいぜい課長ぐらいの年齢だから。
フランスは典型的ナメリトクラシー(能力主義)、エリート主導社会である。名門校をでれば39歳で首相になれる国だ。300人程度のポリテクニク校出身のポリテクニシアン、未来のゴーンたちである。

夢のような百戦百勝の軍隊を作るには、兵士がドイツ人、下士官は日本人、若い将校はポリテクニシャン(国立理工科学校出身=イックスという)のフランス人、そして将軍や政治家はアングロサクソンがいいという小話があるそうです。
このイックス出身はハリウッドのユニバーサル・スタジオのまで進出したジャン・マリー・メシエ社長、ルイ・ヴィトンの総帥ベルナール・アルノー。

日本進出のフランス企業のイノックスに聞くと、彼らは企業戦略の策定ヴィジョン・コンセプト作り、大原則の樹立などは自分たちでやる。実行のこまかいところは、目配りする優秀な日本人にすると異口同音にいう。
ゴーン社長は「日仏の補完性は赴任する前に考えていた時より、よっぽど有効に働く」と語った。日本人の若い優秀な人が育ち、また育つような環境作りが必要だといいたい。
今の日本でカッコいいのは、頭が良いことではなく、ずっこけることだ。ビートたけしは非常に頭がいいが、それを日本で見せては損なので、フランス向け映画監督として北野武の知性を見せるという使い分けをしている。頭の良い人材を盛り立てる周囲の寛容さが」ないと、秀才のほうも人気を得ようとして東大出がカラオケでばかを演じるようなムダをやめないと、永久に国際競争には勝てない。カルロス・ゴーンの最大の教訓はそれだと磯村さんはいう。

2010年6月19日土曜日

ラーメン道


おはようございます。日本人は○○道という礼儀作法の様式化を好むようだ。弓道もその様式の傾向が強いので、武術の要素をないがしろの方向に傾きすぎて世界大会の惨敗にもつながったように思える。
ラーメンは庶民の食べ物なのに、それを作法のごとくにしたことを茶化した映画でもあり、この映画ははやらない美人の未亡人のいるラーメン屋を地域の人気ラーメン屋にしたて、仕立てる過程の高揚感が終われば又別の人生の生きがいタネ探しへとその場をさる。なかにはラーメン屋開業のノウハウがカイマ見られた。


「たんぽぽ」という伊丹十三監督作品

ラーメン道とはいっていないが、40年という老先生大友柳太郎(O)が、渡辺謙(W)にそれを教えるシーンだった。
店主が2人の前のカウンターに出来あがった丼を丁寧に並べた。受け取った渡辺謙は丼に両手をそえ、早速にも丼からスープを一口 口にした、今日の勉強のことを思い出したようにハットして
W:「スープと麺とどちらが先に食べたらよいでしょうか」と尋ねる。
先生は渡辺を制して、
O:「ラーメンをよく見なさい、そして湯気を吸いこみなさい」「しみじみラ-メンを鑑賞するがごとく見渡しなさい」

W:渡辺は「はあア」と仰天する。

先生はラーメンを割り箸の先でゆっくりと撫でるがごとくにする。

渡辺は「どうして撫でるのですか」
O:「ラーメンへの愛情の表現がそうさせるのです」  「浮かんでキラキラ光っている脂の珠、浮きつ沈みつしている輪切りのネギ、湿ってきた黒き海苔、それぞれ美しい品々のごとくです。」  先生が焼豚のところに箸をのせた。
W:「焼豚を先に食べてもよいのですか」
O:「三枚の焼き豚をいとおしむように箸でつまみ、おもむろに丼上方の右に沈めます。」
こんどはささやくように、先生は渡辺に「心の中で詫びるがごとく、焼き豚につぶやくのです」・・・・・・「あとでね(いただきますから)」

それから麺をすするがごとく。あとの詳細のシーンは省略されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%9D_%28%E6%98%A0%E7%94%BB%29

帰宅して思わず、同僚に肩が凝ったわ。なにが「あ と で ね」憤懣をぶちまけるのでした。

2010年6月18日金曜日

米・印の協定の?


おはようございます。もう夏の扉は全開で、我が家でも今年初めてクーラーをつけました。南アフルカは今冬だという、監督も背広の上に、薄い防寒の服をきている人もいる。これだけでも地球は広いと感じます。その内発展著しい中国や、インドもW杯に出てくるようになるでしょう。
米国がインドと協定を結んだ意味が偶然手にした下記本に書いてありました。

アジア三国志:中国、インド、日本の大戦略:英《エコノミスト》誌元編集長・ビル・エモット

2006年の核に関する米・印の協定は核拡散の懸念を脇におしやり、冷戦時代にはソ連と同盟を結んでいたインドと緊密で永続的な友情を結んだことになる。インド経済はそのころには力強く成長していた。インドは反西洋的な思想をほとんど捨て、世界の大国として受け入れられることを願い、そのために助力を欲していた。そのような理由で核拡散の恐怖よりも民主主義国としての地位が優先された。米・印との協定には民主主義国は核兵器を拡散しないと確信できるという意味合いが含まれていた。たとえその国が、インドのように核拡散防止条約の締結国ではなく、核実験を放棄しないとしても、信頼できると判断したことになる。さらに重要なのは、インドが中国という台頭する勢力と均衡する可能性があることだった。ブッシュ大統領は、ニクソンが中国をソ連に対抗させたように、インドを中国に対抗させようとした。当然ながら中国はこれに不服だった。米も印も、インドの核に関する両国の協定の原因が中国であることはいっさい口にしていないが、インドが特別扱いされた理由はほかに見あたらない。インド経済の支援や民主化の奨励だけなら、もっと角の立たない方法がいくらでもあった。中国政府が事情を察したことは明らかだが、表だってこの協定に文句をいいはしなかった。打つ手がないのがわかっていたからであるし、中国にたいしてとりわけ攻撃的な取り決めでもなかったからだろう。

アジアの一人当たりの所得は1950年から2005年までのあいだ7倍に増えた。西洋と比較してみると、1780年以降の産業革命で一人当たりの所得を倍増するのに、英国では60年近くかかっている。米国は1840年以後約50年かかった。韓国、台湾、中国はすべて離陸期の最初の10年で倍増を成し遂げ、つぎの10年でさらに急速にそれを繰り返している。ところが驚くべきことに、経済データーの大家のアンガス・マディソンによれば1820年には中国とインドだけで世界の生産の半分をしめていたという。この半世紀成功を収めているtpはいえ、今アジア全体でその時代のシェアの半分以下に達しているにすぎない。世界の人口の「半分を占めているのだから、シェアも半分でなければならない。1990年から2006年にかけて、世界のGDP占めるアジア諸国のシェアは20.6%から22.3%微増しただけだ。アメリカのシェアは25.5%から27.5%に増加している。
だが統計から大きな動きが見いだせない理由は、中国が元安政策をとっているために数字にそれが表れてこないのだ。ドルがアジア通貨より強かったことが、世界の生産におけるシェアの移り変わりを小さく見せていた。米国議会は、中国に人民元を再評価し、ドルに対して27.5%以上の切り上げるよう要求している。国際収支の黒字がGDPの10%を超えており、通常であれば通貨の再評価をおこなうのが当然なのだ。

2010年6月17日木曜日

世界弓道惨敗


おはようございます。茶道、華道、禅、武道などヨーロッパで愛好者以上の理解がされているそうですが、私も弓道をやっていますが毎日新聞にも掲載されていて知った、世界大会の結果です。日本は予選で敗退です。
どうも、推察するに的に当てることと、「道」ですから、舞のような所作の美しさの2つの面があり、その所作の面に重点を置いているからではないだろうかと思われる。
どのようにして、この有様を解決するか猛省が必要です。
(この結果なら、我々の趣味でやっている成績とかわるところがない又日本における大会の記録を探してみましたが、順位の記録はあっても、的中数が書いていない。武道を放棄しているのではないかと思われた。)

第1回世界弓道大会(東京)
国際弓道連盟が設立されたのは2006年のことであるが、同連盟が主催する第1回世界弓道大会が行われたのは4月25.6日の2日間(米国の参加はなく、19ケ国)
○○中⇔当たった数
団体予選は3人×4射=12射中、9中:スイス、 7中:英国、 6中:アルゼンチン、  5中:ドイツ、イタリア、スエーデン、 4中:フィンランド、フランス、カナダ、ロシア、   3中:日本、 2中:オランダ、アメリカ、ニュージーランド、ポーランド            1中:ルクセンブルグ、 0中:ベルギー、ノルウエー、スペイン
これで日本は決勝参加できず(3人がそれぞれ4射やって1中ということになる)
決勝トーナメントは4中までの10ケ国で決勝は英国8中とフランスが5中でフランスが優勝。
個人戦(記録がない)は3段以下はスイスの無段、4・5段はアメリカ4段、称号受有者優勝者:ドイツの教士6段、2位フランスの教士6段、

個人戦は1手(2射)で皆中(2中)のみ決勝進出可のハードル、
4.5段之部:1手皆中は上記の米国人1名のみで、決勝戦なくして」優勝。
称号受有者之部:上記の2名で、遠近競射でドイツのホッフ選手が栄冠に輝いた。
日本の弓道連盟などの記録を探しても、順位の記録はあっても、成績の記録がない。
団体リーグ戦の準決勝でフランスが3人×4射で皆中があったとしるされている。

審判長の講評:来賓の方々が並ぶ会場、一番最初野入場、高段者としての範示、日本が優勝して当然といったプレッシャーは大変なものだったでしょう。
一番悔しい思いをしているのは選手諸君でしょうが、しかしこの敗北は選手だけではなく、我々指導者側の問題でもある。形や技術に偏重し、心、精神、メンタル面の」指導にどう取り組んできたか、反省が求められると強く感じました。
外国選手の中には心のあり方について正直に自分と向き合っている人を多くみかけました。立派なことです。
海外の方に体験してほしいということから、今回日本選手は参加を見合わせたが、やはり海外の人たちに記憶を残して帰っていただきたかったと思いました。
次回以降、どのような形で参加するかは別にして、例えば国体で活躍している選手や大学生、さらには高校生、中学生等も海外に見ていただける方法はないか考える余地はあるでしょう。
(2010.6月号、弓道:全日本弓道連盟発行)

2010年6月16日水曜日

スポーツとお金のバランス


おはようございます。ニュースで繰り返しているカメルーンに勝利したのを見ていて、まだハラハラしているのは親ごころみたいなものですね。

ニッポンはどうすれば勝てるか?玉木正之※1×金子達仁※2;アスベスト
MLBの日本戦略が始まった時の話。それも古い話になってしまいました。
08年の大リーグの開幕戦をパ・リーグが開幕しているのに日本でやった。元巨人の上原がこれに文句をいったのはすばらしい行為だった。
メジャーへの選手流出を嘆いている人たちが、日本で大リーグの開幕線をやっているってのは「とんちんかん」だと思う。本当に流出を嘆いていたらやれないよね。
もうかるからやるわけですよ。すっごいガッカリしました。
 昔ボクシングでモハメッドアリが日本で試合するという話が持ち上がったとき、日本ボクシングコミッションが外国人同士の試合をさせていいのかと半年揉めた。これはモハメッド・アリがきても、日本のボクシングは潰さないし、日本人の世界タイトルマッチの日にアリの試合をぶつけるというのなら別です。

アメリカのスポーツ誌「スポーツ・イラストレイテッド」の記者が、『日本からアメリカに沢山選手が流れるのか?』という質問について改めて考えた。
① 高いレベルのところでやりたい
② 金もたかい
③環境も整っている。
 野球に専念できる。これは他からうるさい声が聞こえてこない。日本の体育会系の先輩の声であったり、球界の上層部の野球を知らない人の声があったり。
岩村明憲選手に取材したときに「尊敬される度合いが違う」(イチロウ選手に限らず、すばらしい美枝や記録には敵味方が立って拍手がある。これは気持ちがいいですね。反面松井選手がMVPをとっても、放出するドライな面もありますが※)
大リーグの取材のとき、クリーブランドで広報の人の話:その広報はチケットのモギリもやっていた。「エッ?広報がもぎり」。とも思ったが、彼はそれを生きがいを感じていたし「現場をこういう形でみないと、お客さんの気持ちがわからない」とも言っていた。そして彼の父も同じ仕事をしていたらしい。その親父は大エースのボブ・フェラーでワールドチャンピオンになったときを知っているというだね。そのチームのオーナー90年より前からで残っているのはヤンキースだけなんや。そのオーナーはスタインプレナーだけですね。
 レッドソックスはこの18年でオーナーが3回交代している。ヤンキースは77年当時に今のレートで11億円で買ったものが、1200億円ぐらいになっている。今のレッドソックスのオーナー会社は3年前位にチームを買っているんだけれど、彼らはこれまで持っていたチームを売ってレッドソックスを買った。すでに400億円位の利益が出ている。一種のバブルですね。
これで誰かが「買わない」と言ったら、どないなるの?しかしMLBはリーグ全体でビジネスを」やっているから資産価値が伸びている。彼らは球場の立替えをしたりして努力をしている。税金の利用がうまい。MLBも単年度黒字は10球団くらいしかないが、赤字があっても自分たちのもっている資産で十分カバーしたり、資産のアップによって借入金を引きだしている。

2010年6月14日月曜日

記憶には忘れ薬が入っている。


おはようございます。サッカーの応援も疲れます。それにしてもよく点を入れてくれました。こういうのは忘れません。ドーハの時も同様です。
 ところが昨晩のご飯のおかずは何だったかとか、買うべき品物のメモも持たずにスーパーにいって5点の内、必要に思った時のそれを忘れていて2点は思い出せなかったりと自分の記憶にはもうとっくに安心感を抱いていません。それが裁判の場合の証言は目的意識がなく、なんとなくの記憶がどんなにいい加減なものか「爆笑問題」の番組を見て思ったのでおさらいしてみました。

証言の心理学・記憶を信じる、記憶を疑う:高木光太郎著;中公新書
証言の心理学は証言にかかわる心理現象のどのような側面に振り向けようとしたのだろうか。
アメリカの心理学会の会長も務めた「応用心理学の父」ヒューゴ・ミュンスターベルグは1908年に出版された『証言台で』という著書である人騒がせな実験を紹介している。有名な犯罪学者リスト教授の講義。突然一人の学生が叫ぶ。「キリスト教徒としての道徳という観点から、そのことを解明したい」すかさず、もう一人の学生が口を挟む。「とんでもない、馬鹿なことをいうな」。それに激高した最初の学生はあろうことか拳銃を取り出した。反論した学生はそれを見て、怒り狂ったのか猛然と飛び掛かって行く。すんでの所で教授が二人の間に割ってはいり、拳銃をもった学生の腕をつかむ。銃声。騒然となる教室。だが教授は奇妙なほど落ち着いている。実はこの騒動は目撃証言の研究のために仕組まれた
芝居だったのだ。教授は受講者達に事情を説明したのち、いま目の前で起きた「事件」をできるだけ正確にレポートに書くように指示した。こうして集められた受講者たちの「目撃証言」を発砲事件の台本に対応させてチェックしてみると、非常に多くの誤りがあることがわかった。起こっていない出来事が付け加えられている。出来事の細部が実際とは食い違っている。といったエラーが多くみられたのである。目撃者の80%が同じような間違いをしているケースもあった。「事件」の後半は感情的にインパクトが強かったためか、前半部分の報告に比べて、15%も誤りも多くなっていた。この古典的実験は、人間の記憶の「脆さ」を見事に浮き彫りしている。教室にいた受講生はみな、この出来事に注意を奪われていたはずである。だが直後に報告された目撃証言であっても、そこには多くの誤りがまぎれ込んでいた。目撃証言はこれほどまでに間違いやすいのである。人間の記憶は脆く、間違いやすい。「記憶を語る」ことをとおして過去の「事実」に迫ろうとする証言という作業は、それが始まる場所であるいはそれが始まる前あら既に不安定に揺らいでいる。「記憶脆さ」を徹底的に理解すること、証言の心理学はここから出発しなければならない。
衝突実験の結果:http://d-code.org/blog/archives/2006/09/post_174.html

日本の国民性


おはようございます。だんだんW杯に引き込まれてきています。冬季オリンピックでもスケートは育成が素晴らしくうまくいっていますが、サッカーについてはもうそろそろもう少しという期待もありますが、カメルーンのエトー選手はアフリカの期待を背負っているとか、黒人の雄姿が眩しい位ですね。試合については国民性やその歴史や選手の運動能力といわないで身体能力といっていますが、いろいろ見えてきて面白いですね。今日日本の健闘を期待したいですね。

ニッポンはどうすれば勝てるか?玉木正之※1×金子達仁※2;アスベスト
※1 http://www.tamakimasayuki.com/

※2 http://wsp.sponichi.co.jp/column/archives/cat_11.php

ジーコとオシムは手法は違うが、時間をかけて、いいチームを作りたい監督=クラブチーム向き:いいサッカーがすなわち勝利⇔ジャパンとか代表チームとなるとそうはいかない:素材を育てる力量(オシムにしても選手の宝庫ワールドユースのチャンピオン、
フース・ヒディング(02年の日韓W杯の韓国の監督):勝つためだけの闘いリアリスト
岡田監督:好きなのはアイルランドの泥臭い・一生けん命やる
しかし日本はアイルランドにはなれない。日本人の根気が昔にくらべ希薄、アイルランドのサッカーはあの寒い所から生まれている。
メディアの責任;クラブチーム<日本代表チーム=クラブより協会のビルが大きい(他国は違うようだ)→イングランドがユーロ2008年の予選で負けてもプレミアムリーグは滅びない。国の代表(ドラマを楽しむ)<クラブの一番強いチーム(娯楽を楽しむ):実例バルセロナ>ブラジル代表
イタリアは勝負に厳しい⇔スペインには一部甘さがある。→スペインがW杯で一度も勝てない理由?

『なぜ日本人のシュートは入らないのか』
セルジオ越後さんがいう:「ゴールへのラストパスであることを忘れている」
ミドルシュートでもホームランみたいなものは?
代表にかぎらず、小・中・高の練習でもスパーンといったシュートがポストを叩いて入らなかった。そしたらみんなが「ナイスシュート」というんだ。ブラジル人なら「でも入ってないやん」という。だからいいシュートを打つことが目的になってしまっているんですよ。これは日本人特有ですよね。いい大学、いい会社に入ることが目的になってしまって、」そこで何をやるかがないのと同じ。
越後さんは、思いっきりインステップで蹴って「ナイスシュー」と言ってる子どもに向かって「点を取ったら100円あげるよ」という。そしたらみんなゴールを狙うわけですよ。(大笑)Iそれなんですよ。お金がかかると、インステップで思いきりなんて蹴らないんですよ。確実に入れに行く(笑い)。入れたらいいというか、入れなああかん。
もちろん、シュートで終わっておいたほうがいい場面もありますよ。総攻撃にいって、ここでパスを出して取られたたら一気にカウンターを食らうぞというときは「打って終わっとけ」はある。全部が全部じゃない。
『先制点が大事?』はピント外れその理由は
サッカーのスコアで1:0は山ほどある。野球を見すぎた感覚からきているそうです。

2010年6月13日日曜日

スプーンと焼肉


おはようございます。ワールドサッカーが始まって、韓国と格上のギリシャの闘いでは、韓国の強さが目立ちました。解説の横浜・M木村監督が羨ましそうな発言でしたし、小生もそう思いました。

馬を食べる日本人犬を食べる韓国人:鄭銀淑1976年韓国ソウル生まれ、韓国世宗大学院で観光経営学科を修めた後、日本へ留学。

韓国では飲食業が見下されているのだそうです。日本では料理人を職人として評価し繁盛店になれば小金持ち程度にはなれる文化がある。韓国には「創業ン十年」を誇る老舗は少ない。飲食店を何十年もやっているのはよほど他の事業をやる才覚がないと思われるのがオチなのだそうです。韓国の食堂では雰囲気に似合わず店主がネクタイやスーツ姿で登場したりすることもるが、コンプレックスの裏返しなのかもしれないとのこと。

スプーン文化
日本にきて食事するときに、スペーンがないので、スープ(味噌汁)をどうやって飲んだらよいか悩む。手で器をもって飲んでいるのが、いかにもぎごちない。スプーンでご飯をどっさりとってスープをたっぷり取って口に運んでこそ食事をした気になるそうです。
同じハシ利用圏の中でも唯一韓国だけがスプーンを併用する。スープ料理が多いためもある。ハシとスプーンは持ち変えるし、左手でスプーンは使わない。料理の右側にスプーン、順にハシ。食事を始めるとき、スプーンが先でスープを飲むのがマナー。

日本の焼き肉店の多くは第二次世界大戦後の混乱期に食料不足の折り、それまでゴミとして処理されていた牛の内蔵を焼いた「ホルモン焼き」メニューに加えて大人気になったのがルーツとされる。
韓国の焼き肉には醤油系のタレをつけない。寿司に醤油をつけたから、来たのではないか。韓国の焼き肉の基本は骨付きカルビ。みそをつけたり、サンチュに包んで食べたりする。
日本の焼き肉屋ではカルビ、ロース、タン塩、ハラミ、レバー、ミノ、ホルモンとバラエティに富んでいるが、韓国ではお店自体が牛カルビ店、豚カルビ店に細分化されているそうです。最近では牛カルビも豚カルビも両方出すこともある。霜降り肉のような柔らかい肉ではなく、歯ごたえのある肉が好まれる。韓国人のほうがスルメなどをよくかんでいるので顎力が強いからかもしれないという。」

2010年6月12日土曜日

何故学ぶのか


おはようございます。:H氏賞という耳慣れない賞を受けた人の話を聞くことができました。
2010.6.10武蔵野大学:講師・詩人荒川洋治http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D%E6%B4%8B%E6%B2%BB
受賞:H氏賞(エイチししょう)は日本現代詩人会が主催する、新人のすぐれた現代詩の詩人の詩集を広く社会に推奨することを目的とした文学賞。詩壇の芥川賞とも呼ばれる。


今日の講演に来ているのは3百人、今大学院で教えている、あるいは学びにきている学生はほんの2・3人なのだそうです。司会者がいうには企画されたのは詩人でもある荒川さんの素晴らしい講演が学内で聞けることを知らしめるためと前置きしてはじめられた。
荒川さんの題は「新しい読書」についてでしたが、何故学ぶのかというのが本来の趣旨のようでした。


触れられた本は一冊のみ選べといわれたらあげるのはセルバンテスの「ドンキホーテ」、(そのほかジャンジャックルソーの「告白」など)


今はエッセイの時代、自分をあらわすにあたり、事実よりもいきおい書いていることに、引きずられて、他人に合わせる文章が自動的にでてくる。この場合に自分の経験をとおしてはいない。神も通過していないので皆嘘になる。今詩集に関心を持つ人は極めてすくない。人間にはそれぞれの匂いが、他人と違う匂いがある。集団には汗臭さがある。
今分けの分からないしものや」他人を嫌がる。昨今は他人とは無縁でいる社会、これは2年前の秋葉原無差別殺傷事件に現れていて、自分以外は物質に過ぎない。
矛盾した話になるのですが、本は全て他人が書いたもの、何故他人のことを知らねばならないか?自分を知るには他人をよくみないと見えてこない。
最近の現象として自費出版が盛んであるが、自分を書くということは自分が好きだから(であるが、他人には関心がない。)
日本が西欧化にはいった明治はタコツボ型文化、詩は詩だけ、小説は小説だけで、他には関心がないいびつ
最近の学問は「実学」すぐ役に立つ技術に絞ろうとしているが、、反面日本がおかしい様相を呈しているのは、役に立たないようなもので、見えないけれど生きる栄養になるものを教えていないから。どうして学ぶのか、生きるのか、この基盤がしっかりしていないと個人は安定しない。日本人は本を読まないようになっているのは世界の先端を走っていて、他の国もそういう方向に走っている。

ここから学生への呼び掛け、荒川講師は早稲田で学び、今記憶していることと言ったら黒崎講師のことの片鱗(?)だけ。このように4.50年もすれば殆ど忘れてしまうのに、何故学ばねばならなか
勧める本:チェーホフの「大学生」等を引用した。
神学生が早春の田舎の夜道を歩いていた。焚火をしている所で分けありの寡婦とその出戻りの娘に出会った。「学生さんも火にあたっていったら」と声を掛けられた。「いいですか、あたらせてください」「学生さんは勉強で大変でしょう」こんな会話を交わしてながら、学生は新約聖書の話をし始めた。そうしている内にそこにいる2人とも感きわまって泣きだした。自分の話に感動したのではない、1900年も前の新約聖書のパウロのことに触れたのだ。(講師は4・50年も前の学生時代に学んだことはすっかり忘れているのにどうして学ぶのかを繰り返していう)。
この話は寺男の息子で宗教大学の学生であるイワン・ヴェリコボーリスキイが山しぎ撃ちからの帰り道で、突然の寒さで自然までが不気味に感じられた時だった。見渡す限りの暗闇に、空腹を抱えていて、イワン雷帝などでも、今と同じ残忍な貧しさや飢えがあったに違いないと考えていた(この時代はニヒリズムに陥っていたそうです)。同じような穴だらけの藁屋根や無知や荒涼とした周囲、圧迫感がそういった恐ろしさは過去にもあったし現在にもあり、また未来にもあるだろう。そうして1000年たったところで、人生はよりよくはなるまい。こう思うと、彼は」家に帰る気がしなくなった。そうしたところに焚火にであった。「ちょうどこんなふうに、寒い夜、使徒ペテロ※1 も焚火にあたったのさ」※と話始めた。1http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD。ペテロは遠くからイエスをながめて、晩餐の席で彼のいった言葉を思い出した。・・・・思いだすと、自分が言った言葉『わたしはあなたと一緒に獄舎にも死にもまいる覚悟です』といったのを思い出すと、彼ははっと我に返って、中庭から出て、身も世もあらず泣きだした。福音書にはこう書いてある。――『そこで外に出て激しくないた』と僕は想像するのさ。――静かな静かな、暗い暗い庭があって、その静けさの中で低いすすり泣きの声がやっと聞こえる・・・」
(イエスの受難においてペトロが逃走し、イエスを否認したことはすべての福音書に書かれている。また『ヨハネによる福音書』によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている[4]。)

寡婦は相変わらず微笑を浮かべていたが、急にしゃくりあげたとおもうと、大粒の涙がはらはらとその両頬を伝わって流れ落ちた。その顔の表情は、激しい痛みをこらえている人のように重苦しく引きつっていた。それはあの恐ろしい夜、ペテロの身の上に起こったすべてのことことに、何か思いあたることでもあるのか。・・・・
彼は振り返ってみた。闇の中に淋しげな火が静かにまたたいているだけで、もうそばには2人の人影一つ見えなかった。彼がたったいま話したこと、千九百年前の出来事が現在に。彼が人を感動させる話術を心得たいるからではなく、ペテロがこの二人に身近であるため、ペテロの心に起こったことに、身も心も打たれたためではあるまいか。
過去は、――と考えた。一つまた一つと流れ出す、ぶっつづきの鎖のような事件によって、現在と結びついているのだ。こう思うと、彼はたった今自分がこの鎖の両端をみたような気がした。いっぽうの端に触れたら、もういっぽうの端がぴくりと震えたような気がした。
自分の生まれた村や寒々とした真紅の夕映えが細い条の帯となって輝いている西の空を眺めたとき、彼はむかしのあの庭やイエスにかかわった祭司長のいる中庭で人間の生活を導いた真実と美が、そのままとぎれずに今日まで続き、何時の世にも人間の生活の、いやこの地上の生活のすべての、最も重要なものを形つくってきたにちがいないと考えた。すると若さや健康や力の実感―――彼はようやく22歳になったばかりだった。―――幸福の、目に見えぬ神秘的な幸福の、いい知れぬ甘い期待とが、だんだんと彼の心を捕え、この人生が魅惑的な、奇跡的な崇高な意義に満ちあふれたものに思われてきた。

2010年6月11日金曜日

隣国との違い


おはようございます。10人10色で隣国でもやはり違いはあるようです。、案外分かっていない自国のことが見えてくるようです。
馬を食べる日本人犬を食べる韓国人:鄭銀淑1976年韓国ソウル生まれ、韓国世宗大学院で観光経営学科を修めた後、日本へ留学。から

◆学歴インフレ
韓国にある学科:北朝鮮学科、マンガ学科、先端発酵食品科、キムチ学科、特殊装備科(陸軍に必要な人材を送り込む学科)、葬礼指導科、学歴偏重や入試の厳しさを嫌ったり、よりよい生活を目指しての移民志望も結構ある。

◆白衣の民族;
服の色は庶民は自由に選べるものではなかった。階級や思想によって色が制限されていた。陰陽5行を示す5方色(青、白、黄、赤、黒)を基本にして派手な色合いの服は日常的に着られるものではなく、一歳の誕生日や結婚式、還暦(回甲)のお祝いなどのときだけ着られるものだった。日常生活から脱するハレの日以外には、庶民は自然色である白色の服を着ていた。
それでも
百年以上も前韓国を訪れたフランス人は。透明感のある白玉のような明るい白から、広木(金巾)のような生成風の白に至るまで多様な種類の白がある。朝鮮の町のどこでも見られる多様な白色の波が生み出す調和は、まるで白色の奏でるメロディーのようだ。これから世界にどんな変化が起こっても、朝鮮民族は永遠に白色の国であり続けるべきだ。中国の三国時代の高麗建国、白色は汚れやすく、東方を表す青色を着るべきだというお触れがだされたものの、庶民は白色を着ることをやめなかったという記録があるそうです。
あるアパレル企業の調査で1位は白色28。7%、2位赤7%、3位は空色6.8%で大きく引き離している。
ところが日本人が韓国に来て受ける印象は町に色とりどりの看板があり、とにかく競いあうような派手な色使いで、町中が新宿歌舞伎町のようんば有様だそうです。看板であるからには目立たせようという結果が強烈な色使いを生むせいもあるだろうが、5方色を大切にしてきら韓国人のセンスが中間色を排した五原色の色彩に結実しているともいえるのだろう。
◆募金
はテレビ画面に「被災民救済ARS700ー××××」のテロップが流れ、電話をかけると千ウオン(約100円)から2千ウオンが自動的に募金される仕組み。「愛のリクエスト」もARSを利用しているが、不遇の主人公にタレントが密着取材する模様が放送される。涙を誘うシーンが放送されると、ものすごい勢いせ数字が跳ね上がる。」みているとついつい自分も参加したくなる心境になるようだ。毎週のように電話している主婦もいるそうです。番組が土曜日のゴールデンタイムの7時からの分は」1千万円以上集めているそうです。一年中チャリティが行われている具合になる。日本の慈善事業と違うのは寄付する人々が堂々と表にでてくるところが違うのだそうです。
欧米では定期的に慈善事業に寄付して人が7割、韓国の場合は25%(日本の場合はどうなっているのでしょう)

2010年6月10日木曜日

ポテト



おはようございます。
ポテト・ブック;(マーナ・デイヴス著)訳は伊丹十三の本はアメリカへのあこがれと料理好きな思いが込められていました。
アメリカのレストランに入ってウエイターに聞かれるのは。ステーキの焼き具合と、サラダのドレッシングの種類、それにポテトの好みだそうです。いまポテトは別にしてレストランでも同様なことをきかれます。
そんなことでいろいろなことを思い出しました。

私は昭和16年生まれですから、最初叔父が上京してきて、「お前の好きなものを注文してもいいよ」といわれ、肉がいいと答えたが、ウエイターが来たときに、焼き具合を聞かれても「選択の余地」というよりも何を言われたか分からなかったので、よく焼いたものを下さいと頼んだ。ですからいまだに聞かれて、こまるのは、サラダのドレッシングです。慣れた醤油がいいということで、コロッケやカツでも同じなのです。
関西に4年住んだので東北の塩辛い味よりも、薄味の美味しさというか、醤油もなにも掛けない味が美味しいということが分かりました。うどんなどもあの澄んだ汁のほうが美味しくかんじます。
ポテトの美味いのは、ホカホカのベイクド・ポテトです。これは魚を焼くための囲炉裏があって、ここに竈のご飯を炊いた時の消すために燃え木が置いてあった。ここの灰にジャガイモを埋めて、その周りに燃差しを載せておきます。しばらくすると、あのコオバシイ匂いがしてきます。そのを手に載せて、ころがして冷ますことの待ち遠しさ。
皮をむき、ふうふうと吹きながら、口の中でも転がします。
今ならバターを載せるとかなるでしょうが、塩をまぶす位でしたが、それはそれでおいしく満足していました。
また竈で炊きたてのご飯を握り飯にして、味噌をつけて食べました。この美味なること、御祭の出店のジャガイモはボイルしてありますが。味噌汁のジャガイモと若布の取り合わせ、これは大根の味噌汁同様においしいですね。
この本は料理好きで、ポテト好きな人ならばとても楽しい本であることは間違いありません。
この本はaostaさんの紹介で知った本ですので、そのブログhttp://folli-2.at.webry.info/201005/article_4.htmlをご覧下さい
西東京市の図書館になくて、東村山市の図書館から借りてくれた本でした。

2010年6月9日水曜日

酒常務


おはようございます。隣国の韓国は、同じような考えをしているところもあれば、下記の「酒常務」というのがあるそうで、生き残り策で大変な努力をしているようです。

鄭銀淑:馬を食べる日本人、犬を食べる韓国人:ふたばらいふ新書より


酒常務
「中国でも韓国同様酒常務(スルサンム)がいる」という。韓国ではたとえ不景気でももお酒抜きでは商談は進まない。「酒常務」というのは大酒を食らって宴席を盛り上げる職業だ。中国でも接待にはお酒が欠かせず、酒に弱い人は肩身の狭い思いをする。そこで雇われて代わりに酒を飲む「代飲」という職業があ留。職場でも同様な役割を与えられる人も多いそうです。酒常務はただ酒に強ければいいというわけではない。接待の相手にそれと悟られないようにキーパーソンの懐に飛び込むために策を弄するのも仕事なんだそうです。酒を飲んでも乱れず、頭の回転のいい人でなければならないのだそうです。
接待による飲み過ぎの健康を害した場合は労災の適用を受ける(70年代の韓国の輸出企業が海外からバイヤーを招き接待にかけた生き残り策)

肝臓機能に異常があるにもかかわらず、仕事で一日平均焼酎1本(女性は半本)を3年飲んだ場合に適用されるそうです。

2010年6月8日火曜日

「心語り」


おはようございます。介護や福祉に関係している方々の顔はどのかたも「いい顔」されています。それらの人々の優しさに支えられています。
日立製作所の小澤邦昭さんはどこかの筋肉の力で操作できる「伝の心」の次の懸案の開発はALS患者の方々で、何もどこも動かせない人(完全閉じ込め症候群)がいて、介護している人も、本人も全く意思疎通ができないが、語りかけてくるものは感じるものの、何年もどう思っているのか、せめても「いいのか、わるいのか」意思表示を知りるための機器の開発の要望がよせられ、この介護をみれば何とかしてあげたいと思った。
ALSは筋肉が動かなくとも、脳の動きは普通人と変わらず、思考能力も残っている。試行錯誤で、この思考の力は前頭葉の所に血を集める現象がある。これをYESとNOの信号として利用されているそうです。
<YESの場合>脳を活性化(暗算や歌を歌う)
<NOの場合>安静を保つ
この製品の名前が「心語り」です。これによって数年間も意志確認ができなかったのが見事という言葉でも言い表せないのですが、介護されている家族どんなにうれしかったことか。PCの存在によってそのようなことができるようになった。下記のHPに映像で記録されている。
http://www.film.hitachi.jp/movie/movie753.html

2010年6月7日月曜日

「伝の心」(でんのしん)


おはようございます。いろいろな福祉補助具は、開発者のいろんないろんな思いもあって出来ていることが分かりました。

内藤正美(現代教養学部 教授)
経歴:東工大→日立製作所→鹿児島大(難病関連の教授)→2004年東京女子大教授

2010.6.5東京女子大
武蔵野地域5大学共同教養講座「脳活動計測による障害者支援」の講義から

日立製作所の小澤邦昭さんは43歳のときに上長から福祉機器にかんする推進室の勤務を勧められた。それまでは全く福祉の「福」もしらなかっらたし、研究の方向性は暗中模索であった。
そうしているとき、研究関連の仕事で大変お世話になった永野先輩が難病ALSだとの知らせを受けて病院に見舞いにいった。
声を掛けても声の返事もなく、かすかに手が動かしただけが挨拶だった。
この見舞いを契機に、眠っていた研究の指針ができ邁進した。しかし1993年に永野先輩は永眠された。パソコンで障害者が文章を書くことを開発し、試作機ができたので、実際に試してもらったが、障害者の希望は何も聞いていなかったので、使い物にならなかった。それは当然にパソコンに向かって文章を書く作家ではなかったから。それで全国のALS患者の状況を調べあるいた。

そうしてできた「伝の心」(でんのしん):製品情報:http://www.hke.jp/products/dennosin/denindex.htm
http://www.film.hitachi.jp/movie/movie753.html

自分の気持ちを周囲に伝えたい、周りの景色を眺めたい、本やテレビを自由に楽しみたい。
それは身体の自由が奪われ、話すことさえ困難になっていく、さまざまな難病と闘う患者さんの切実な願いです。
日立にはかつて難病と闘った社員がいました。その経験を少しでも役立てようと生まれたのが意思伝達装置「伝の心(でんのしん)」です。

センサーを使用し、身体の一部をわずかに動かすだけで、文字をパソコンに入力して自分の気持ちを言葉にできるのが「伝の心」。また文章を作るだけでなく、 DVDやテレビなど機器の操作といった機能を搭載し、患者さんの生活の質の向上を支援します。さらにインターネットや電子メールを利用して、これまでの仕 事を継続する、新しい活動をはじめる、というようにさまざまな可能性をひろげることもできます。「伝の心」は患者の意思を解き放つ翼になります。
これは瞼や唇や動くところをパソコンの入力源にできた。
ところがこのALS患者の方々で、何もどこも動かせない人(完全閉じ込め症候群)がいて、介護している人も、本人も全く意思疎通ができないが、語りかけてくるものは感じるものの、何年もどう思っているのか、せめても「いいのか、わるいのか」意思表示を知りるための機器の開発の要望がよせられ、この介護をみれば何とかしてあげたいと思った。

2010年6月6日日曜日

落花生の役割


おはようございます。近所でも田んぼが少ないためか雀をあまりみかけなくなっています。

思い出したのは、メル友のaostaさんの推薦で読んでみた下記エッセイ・伊丹十三を読んだからです。
雀の巣は屋根の瓦の隙間から覗かせている藁屑の所をめくってみると、何個か卵が並んでいて、2個位失敬すると、数日以内に同様の数が補充されている。
また雀をとらえようとして、ザルを用意し、棒で片端につっかえ棒のようにして、その棒に紐をつけておく、下に餌を置いて、しばらくすると雀がきたときに、すばやく紐を引っ張ると、ザルのしたに捕獲した雀がいる筈。しかしザルは軽いので素早い雀が逃げる早さにはかなわない。数度やってみますが、やはり命かけで逃げるものにはかなわないと納得。

ところがいまだに本当の話かどうか腑に落ちない雀の話。

「伊丹十三の本」考える人編集部編:新潮社
落花生

中国の御話:村中の人間が総出で、手に手に鍋や金盥やバケツなどをもち、一斉にドラのように打ちならす。そんなことで雀がとれるから不思議だ。轟音に驚いた雀は天に舞い上がる。舞い上がったところで、音を止めると、雀は暫く空を舞った後、また地上に降りて来ようとする。そこをまたワッと囃す。雀は驚いて、又空の高みへ逃げる。ということを際限なく繰り返す。遂には雀は飛ぶ力を失って、次々に落ちてくるから、あとはそれを片っ端から拾い集めればよい。これは嘘のようだが、本当の話なのだそうです。但し雀を根絶したが故に生態系が崩れ、思わぬ数の害虫が発生し、中国は惨憺たる大飢饉に襲われた。(これだけの人数がこれだけ動いての雀の収穫も随分この苦労に見合ったものだったのか?)
日本における伝統的な雀の捕獲は興味ふかいものがある。日本式では、殻のついた落花生と酒につけた米が必要である。この2つを雀のよくのくる場所にまいておく。やがて雀が来て、まず米を食べる。米には酒が浸しましてあるから、雀は酔っぱらって寝てしまう。これを拾い集めればよい。じゃぁ、殻つきの落花生は一体何のためであったのか?酔った雀が、これを枕にして寝る、というのであって勿論これはよくできた小咄であるそうです。

2010年6月5日土曜日

あるテレビ番組製作会社


おはようござます。民放などの番組を自主的な方針で製作している会社で、調べてみると、分かったのは伊丹十三や萩本欽一さんらが株主になっていました。
いい番組ですと、たいがい製作会社にこの会社名がでています、見逃せないようになりました。
テレビマンユニオンは考えるhttp://www.tvu-company.com/の社是にも下記のような格調高いことが書かれています。

★テレビマンユニオンの受賞作;「遠くへ行きたい」「オーケストラがやってきた」「「世界ふしぎ発見」「世界ウルルン滞在記」「遠くへ行きたい」他

テレビマンユニオンは考えています。〈テレビジョンとはなんだろうか〉と…。今も考えています。
ブロードキャスティング(放送)とは、畑に種を播くブロードキャストから生まれた言葉です。
しかし、今のテレビジョンは一方的に種を播く放送の時代をはるかに越えて、その種が社会を、政治を、歴史を動かしていくようになりました。そこから芽が 出、実が生まれ、人間や社会と関わるのです。 そして、今では双方向の通信も可能なメディアとなってきました。インターネットとも手を結びます。テレビ ジョンはまた、新しいメディアにその姿を変えはじめています。〈すぐれたものを創造する〉、それを原点として、創造するという行為がなににむかうべきなの か、それを考えるのが21世紀のテレビマンユニオンです。
考えるテレビマンユニオン。 それは「テレビジョンとは思考形式である」ということであり、「テレビマンユニオンは思考組織である」というべきかもしれま せん。
テレビマンユニオンは21世紀の凛としたはりつめたメディア空気の中に身をおきます。創造は使命なのか、遊戯なのか。神のごとき未知なるものに、私たちの 熱情にみちた身を委ねようとしています。新しき世紀に祝杯を。 その日から、またなにかがはじまります。目をつぶってみて下さい。未来は暗黒ではなく、想 像力がわたしたちの新しい創造を描きはじめています。そのとき、どんな歌がきこえてくるのでしょうか。

2010年6月4日金曜日

たった一人の和平工作②


おはようございます。昨日は確かに夏です。このごろの服装は天気予報の気温、室内の温度計、外に新聞をとりのいったときの肌の感じ、それと家族との意見交換によって考えます。
ちうのは外にでると、およそ皆バラバラなのですから。おとといの続きです。軍人がこのような和平工作をしている人がいたということと、軍人にこのような和平教育が行われているかが
おおいに関心のあるところです。また負けを認めさせることのむずかしさを感じずにはいられません。

「消えた潜水艦とたった一人の和平工作」
1945年(昭和20年)3月、連合軍のベルリン進行が進むなか、藤村はついにベルリンを離れ、スイスに向かう。日本海軍の最高機密九一式暗号機と共に。

藤村はスイスに着くやいなや、ハックと連絡を取った。
対米工作ルートを開ける。
藤村はその任ぜられぬ任務に取り組むことになる。
 『君が会うべき人物はOSSのアレン・ダレスだ。』
OSSとはCIAの前身で、アレン・ダレスはそのヨーロッパ本部長の重職を務め、大統領を動かす程の発言力を持っていた。藤村がハックを通しOSSの諜報 員と会合を持ったのは4月25日。さらに会合を進める中、米軍が日本本土上陸作戦を開始していることを知る。
既に日本の大都市はB29による空襲の洗礼を受け、硫黄島の日本軍は全滅、さらに米軍の上陸で沖縄は蹂躙されるがままの状態であった。もはや日本の運命は 風前の灯火であった。
5月3日、風前はダレスと会見、すぐさま和平工作の暗号電を打つ。
 「米要人アレン・ダレスより申し入れあり。日本の取るべき道はすみやかに対米和平をはかることである。」
5月5日、第2電
 「ドイツの最後がかくも悲惨なのは、頑迷な一部のナチスが戦争を継続したからである。日本は断じてドイツの轍を踏むべからず。」
5月13日、第3電
  「ソ連軍は極東方面へ兵力を移動中。」
何度暗号電を打電しても、東京から返事は来なかった。ようやく5月21日になって、東京から返事が来た。それは藤村の想像を遥かに超える返事であった。
 「ダレスの和平工作は、陸海軍を離反させるための敵側の戦略と思われる。充分注意されたし。」
もはや東京の返事は待っていられない状況であった。陸軍によって進められていたソ連を通じた和平工作は連合軍側に筒抜けで、そもそも和平の仲介を頼んだソ 連がヤルタ会談によって対日参戦を準備していたのである。ダレスを通じてその事実を知り業を煮やした藤村はついに独自の和平案すらダレスに提示していた。
6月に入ると藤村はほとんど1日おきに情勢分析と和平工作の暗号電を打ち続ける。しかし東京からはなしのつぶて。
 「OSSの力で自分を東京に運んでくれ。首脳部を説得する。」
藤村の提案に対するダレスの回答は
 「海軍大臣か軍令部総長を海外に連れ出せないか。」
一中佐の力でできることではなかった。
6月20日、待望の返事が米内海軍大臣から届く。
 「趣旨は判った。外務省に回しておく。」
外務省では正式な交渉に入るまで、そして正式な交渉に入ってからも時間がかかる。もうそんな時機はとうの昔に過ぎているというのに。
藤村は暗号電を打ち続けた。しかし、満足のいく返事はついに東京から届くことはなかった。
8月6日広島に原爆投下、さらに9日長崎に原爆投下。
スイス時間の8月15日午後(日本時間8月15日未明)。藤村の元に奇跡的に日本から国際電話がつながった。相手は米内海軍大臣先任副官今村了之介。かす れた声が受話器から流れる。
 「藤村、あの話なんとかできんか?」
 「ダレスとの和平交渉ですか?」
その瞬間そばにいたハックが叫んだ。
 「バカヤロー! 百日遅い! 何をしていたんだ!」
藤村は受話器に向かって静かに言った。

2010年6月3日木曜日

キムチ


おはようございます。政局もあわただしいですね。最近の天気の如しですね。
伊丹十三の随筆に年齢について述べているのですが、十五年前には時間はのろのろとたゆとうようにもの憂く過ぎていたように思う。やがて1年1年が次第に早く過ぎはじめ、25歳を過ぎてからは3年、5年が一つと塊になってしまった。いまに10年20年が一塊、という時期がくるであろうと。

湘南は本来相模の国の南ならば、相南なだろうに、なぜ湘南なのか?
大磯の風景が中国の湖南省の
どうてい湖に似ているからという説がある。

馬を食べる日本人犬を食べる韓国人:鄭銀淑(1976年韓国ソウル生まれ、韓国世宗大学院で観光経営学科を修めた後、日本へ留学。)

キムチかつては日本のお新香のようなあっさりした漬け物だったものが、唐辛子やチョッカル(塩辛)、ニンニクを配合することによって、現在のような赤くて辛くて酸っぱいキムチへと姿をかえた。チュ・ヨンファ氏の「韓国人の食べ物」によると、キムチの姿が大きく変わったのは18世紀んことだったという。唐辛子粉はその2百年以上前、すでに日本経由で朝鮮半島に入っていたが、それまでキムチに使うことはなかったようだ。きっかけは18世紀の塩不足だった。当時儒教が浸透して祠祭を行う機会が増え、祠祭につかう魚の干物を作るために塩の需要が爆発的に増加した。また19世紀前後の飢饉のとき、野菜に食塩を混ぜて穀物代わりに食べたりしたために塩の需要が急増したという。不足した塩の代わりに漬け物に使われたのが唐辛子だっのた。唐辛子を加えることによって、少しの食塩で微生物の発生が抑えられ、殺菌や防腐剤としての効果が十分あるということが経験上明らかになった。唐辛子に含まれる成分、カプサイシンの働きによるものだ。この時期チョッカルの使用が始まったのも、塩不足と密接な関係がある。このような経緯で唐辛子とチョッカルがキムチに加わることになった。キムチは数十種類の材料を混ぜて発酵させた総合栄養食品、と唐辛子にはリンゴの二十倍、みかんの二倍のビタミンCが含まれている。日本のキムチは浅漬けでクエン酸、パプリカ、しょうゆなどを加えて発酵味に近い味を出しているが、韓国のは自然発酵になっているので、似て非なるものである。
チョッカルが入っている韓国のキムチは日本のそれの166倍の乳酸菌が含まれているという。
キムチチゲ(キムチ鍋)と漬け物のキムチは別物で鍋物のは酸っぱくなっている。

韓国では飲食業が見下されている。日本では料理人を職人として評価し繁盛店になれば小金持ち程度にはなれる文化がある。韓国には「創業ン十年」を誇る老舗は少ない。飲食店を何十年もやっているのはよほど他の事業をやる才覚がないと思われるのがオチなのだそうです。韓国の食堂では雰囲気に似合わず店主がネクタイやスーツ姿で登場したりすることもるが、コンプレックスの裏返しなのかもしれない。

2010年6月2日水曜日

たった一人の和平工作①


おはようがざいます。いままで放送された番組でも内容のすぐれた番組は民放でも再放送しても、あるいは上映ライブラリーみたいなものがあったらいいのになあと思います。
そんな「知ってるつもり?!」にありました。

NTV2000/5/28 放送「消えた潜水艦とたった一人の和平工作」から:http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000528.html

1998年、大西洋の海底に一隻の潜水艦が発見される。その水深は5240メートル。
その潜水艦こそ、戦時中日本海軍が世界に誇った最新鋭の潜水艦イ52である。
1944年(昭和19年)、イ52はある秘密任務を帯びて、当時ドイツの占領下にあったフランスのロリアン港に向かって呉を出港したものの、結局ロリアン にたどりつくことはできなかった。そしてそのロリアンでは一日千秋の思いでイ52の到着を待ち続けた一人の男がいた。
海軍中佐・藤村義朗その人である。
彼は潜水艦作戦の失敗を知るや、故郷を遠く離れたヨーロッパで驚くべき行動を開始した。それは破滅への坂道を転げ落ちる日本を救う為の対米和平工作であっ た。しかもそれは誰の命令でもなく、誰に頼まれた訳でもない。たった一人の和平工作であった。昭和20年5月を皮切りに、当時日本海軍の最高機密であった 九一式暗号機を駆使して、彼が日本に送った暗号電は35本。
はたして藤村が模索した対米和平工作とはどのようなものであったのだろうか?
そしてその和平工作の行方は?
イ52が果たせなかった秘密任務とは何だったのだろうか?
狂気と破壊の時代、太平洋戦争の裏側に隠された真実が、今明かされる。

1940年(昭和15年)、海軍大学を優秀な成績で卒業した藤村義朗は中佐に任じられ、ドイツ駐在海軍武官補佐官としてベルリンに赴任する。藤村の任務は ヨーロッパの戦局の情報収集と戦備物資の調達。当時ドイツは第二次世界大戦のさなか、対英仏戦を圧倒的有利に戦況を進めていた。
しかし、その戦況をひっくり返す出来事を藤村が聞いたのは翌1941年(昭和16年)11月のこと。
ドイツ軍、ソ連で大敗北。その情報を掴んだ藤村は早速日本に向かって日米開戦を思いとどまるよう暗号電を打った。元々海軍は対米戦争には消極的であったと 言われている。軍艦や航空機といった機械力によって戦争を遂行する海軍にとって、国力・生産力・技術力で圧倒的に差のあるアメリカとの戦争はあまりにも無 謀であった。
しかし時既に遅く、すでに日本は対米開戦に走り始めていた。
1941年(昭和16年)12月8日、ハワイの真珠湾への奇襲攻撃は成功を収め、日本は緒戦で大勝利をものにした。ベルリンでも日本の戦勝に沸く中、藤村 は素直に勝利を喜べなかった。
 「戦争を始めたからには終わりというものがなくてはならない。
  戦争終結をいかにうまく収めるか、それが国家の命運につながる。」
藤村宛に一通の手紙が届くのはその頃である。物資調達の任務で知り合ったドイツ人経済学者フードリッヒ・ハックからの手紙である。

2010年6月1日火曜日

未来を変える努力



おはようございます。久しぶりに地下鉄丸の内線「新宿御苑」の元勤務先で通いなれた中華やさんのタンメンと、3個餃子と白菜の漬物の味は10年たっても変わらない。
ビルも30年以上も経過しているような、よくいえば由緒あり、悪くいえば古色がある。来ている御客さんも年輩が殆どですが、20年も通っていないと、新顔の部類ですが、味がまたいい味しているのです。スープの味がいいですね。口ではつたえられないのが残念ですね。

未来を変える80人:僕らが出会った社会企業家:シルヴァン・ダニエル、マチュー・ルルー著

エルナンド・デ・ソトはペルーの人1941年生まれ、7歳の時に、ペルー大統領の側近だった彼の父が極右派のクーデターによって国を追われヨーロッパに移りすんだ。両親は彼等兄弟にペルーの主要新聞を毎日読ませ、年に数週間母国で過ごさせた。
優秀な成績で学業を終えて、彼はWTO(世界貿易機関)の前身のGATTで激しい国際交渉を行うエコノミストとして働き始めた。そのキャリアを10年積み、リマに帰った。
彼はペルーの中央銀行の総裁に就任した。世界的な著名エコノミストを招き、ペルーの経済発展ノビジョンを示すシンポジウムを開催した。そこで初めて「裏経済」の問題をしる。無法地帯でも経済活動が存在していることは確かであるが、すべて国のあずかり知らぬところで行われているのだ。調べてわかったのは、中小企業の90%、都市交通の85%、さらには世界的な水揚げ量を誇る漁船の60%、食料品の60%が「裏取引」を行っていた。
しかし多くの者たちは裏経済を地獄の状況だと感じており、決して自分から進んで裏取引を行っているわけではない。裏経済をきちんとした経済活動に取り込むためにリマのスラム街に縫製工場を作ることにした。縫製技術を教える目的ではなく、」「法的に適正な」経済活動モデルをつくるためだ。
それが行政上、営業権を手にするには、フルタイムで289日間の諸手続きが必要であり、その費用も実に平均的月収の30倍という高額な者だ。裏取引は実際に税金は払わなくても済むとはい
え、地元マフィアに払う賄賂は税額を上回る金額だ。客と業者の間のトラブルは」すべてマフィアが力で解決をはかる。
この人はペルーに限らず各国の調査もしていて、エジプト人の90%が所有権を主張できない形で富を蓄えている。所有権が保証されない以上、家も商店も車も法的保護は受けられない。こうした非公式財産が千百億ユーロ以上、ナポレオン以来の海外支援の合計額の55倍にもおよぶ見積もりになる。エジプトの場合でもリマと同様な「正規手続き」には莫大な金額が必要になる。
自分の家だと証明できないと、銀行の融資担保にも使えない。
こうした「眠れる資産」を揺り起こすためにエルナンドは3人のペルー大統領と仕事をした。彼の尽力でペルー経済近代化のために四百を超える法案が採用された。事業の商業権のシステムを変革して会社の登記は4週間に短縮され、必要な費用も百分の1になった。こうして百二十万世帯、三十八万社が「裏社会」から脱することができた。
なぜペルーでは資本主義経済が成り立たなかったのか。」それは欧米や日本の「ような「商業権利の法的認知」という大前提となる部分が欠如していたからだそうです。
エルナンドはセンデロ・ルミノソ(テロ集団・極左革命派グループ=輝ける道)から「アメリカの犬」だと糾弾され続けている。1992年四百キロもの爆発物が彼の車と自宅を吹き飛ばした。エルナンドは奇跡的に無傷で助かった。
そういう中にあっても彼はILD(自由・民主主義研究所)を創設して、エジプト、ガーナ、フィリピン、メキシコなど35ケ国に活動範囲が広げている。

2010年5月30日日曜日

街を元気にする鍼師②


おはようございます。夜の8時のまっすぐな道路の信号は8ケ所位先まで、一斉に青か赤で見晴らしがとてもよい。まるでドミノ倒しの信号の変化は見事なので車にのっている気持ちのよさを感じるし、こんなに速いもかと思ったりします。昨日の続きです。

未来を変える80人:僕らが出会った社会企業家:シルヴァン・ダニエル、マチュー・ルルー著

彼が採用したスタッフは」「理想主義で、既成概念に」とらわれていない若者たちの集まりだった。
何をいっても一言で片づける役人、変革に」けちをつけ商売を優先させる「専門家」たちにノーを突きつけた。強い意志と情熱をもちかれらは様々な分野で改革を成功させ、一見突飛に思えるプロジェクトでも市民の同意を得られるようになっていた。
そうして最初に取り組んだのが公共交通網の見直しだった。
専門家は最新技術による高額な地下鉄建設をもちかけてきた。だがジャメイはより広域をカバーするバス路線に力を入れる。彼はバス会社に対し、乗客数ではなく、路線の距離に応じて助成金を出した。バス路線が都心に集中し、採算がとれない郊外路線がないがしろにされるのを防ぐためだ。さらに路線の設定や専用レーンの設置も行った。バス停は強化ガラスを使ったエレガントなデザインはバスの待ち時間を快適な時間に変える。乗客は片側からチケットを購入し、降りる客は反対側の扉から出る(?これらは日本でも真似したものでしょうか、世界の知恵を集めることも大事ですね。)。
料金を払うために並ぶ列が短くてすみ、停車時間を減らすことができた。地下鉄建設の二百分の1の予算で、市内交通は十分機能を果たすようになった。さらにバス会社の経営業績をあげるためにジャスメはバスの切符に宝くじまでつけた。
こうした措置は30年後にはっきりと形になった。1972年の公共交通の利用者は市民の三十人に一人だったのに、今や4人に3人が利用するまでになった。バス停はバリアフリー、平均2分刻みで待ち時間がない。有害ガスの排出量も35%減。バス会社は行政からの助成金なしでも採算がとれるようになっている。彼はさらの斬新なアイディアを実現させてゆく。

「どんな街だって2年あれば変えることができる」と豪語する。彼を鍼師にたとえるのは市長の役割とは、都市という身体をつかさどる神経系統を見定め、正確に鍼を打つことの」よって全体を元気にするものであるというのだ。
彼は、ゴミ処理の問題についても、高額な複雑な自動分別可能なゴミ処理施設を建設する代わりに彼は企業や家庭にゴミの分別を呼びかけた。(西東京市ではごみ袋の有料化で20%の減量にせいこうした。またプラスチックのゴミ袋はからばるので、思ったよりも入らないし、空気を入れている感じです)
スラム街の住民にたいしては「ゴミを食品に交換します」というキャンペーンを、河川の汚濁を嘆く漁師にたいしては、網にかかったゴミを有料で買い取る、こうしてゴミの買い取り費用などは、高温焼却炉の建設に比べれば、たいした金額ではなく、巨額の投資をすることなく、河はきれいの、漁師の収入も3倍になた。

「お金がないときこそ、頭を使わなくちゃ」と彼は笑うのだった。
1992年市長の座を退いたときのジャスメの支持率は何と91%。その後大統領選に出馬してほしい声もあったらしいが、パラナ州知事を10年勤めた。現在は国際建築家連盟会長である。環境問題について意見をもとめると、「まずすべきことはふたつ。ゴミの分別と自家用車を使わないこと」でどんな大きなことでも、まず小さなことから始めなくてはと言っています。

街を元気にする鍼師①


おはようございます。昨日は背広と薄いセーターを着込むほどの気温出した。地球温暖化などは忘れてしまいかねないほどでした。
南米の情報はなかなか耳にしないが、、ブラジルのクリスバ市も一度いってみたい都市です。

未来を変える80人:僕らが出会った社会企業家:シルヴァン・ダニエル、マチュー・ルルー著(この本も世界の社会企業家等を旅する楽しい本でした)

街を元気にする鍼師・ジャイメ・レルネル

ブラジルの経済の中心は首都リオデジャネイロではなく、サンパウロでメキシコシティや東京に次ぐ人口世界第3位の都市だ。縦60キロ、横45キロの長方形の土地にびしりとビルが乱立するこの街はすでに飽和状態にある。人口増加と環境保全を両立させる難しさがよくわかった。この街は急激な人口増加が
あっても、環境への悪影響を抑制できることを示す好例としてクリスバ市の元市長・ジャイメ・レルネルに会って話を聞きたいと思っていたのが実現できた。
どんなデーターをみても、今後も都市化が進むのは明らかだ。特にメキシコシティ、ボンベイ、北京などの混乱をみるにつけ、一筋縄ではいかないことが想像できる。欧米ばかりに解決策を求めるがちであるが。
ジャイメが建築学科を卒業した60年代半ばクリスバ市の人口はわずか50万人だった。」ところがわずか30年で人口は4倍に膨れ上がった。この市はブラジルの南部に位置する工業地域。元市長は郷土の変わりように胸を痛めていた。急激な開発で、思い出深い場所が失われる一方、高速道路やけばけばしい建物や大型ショッピングセンターを建設する当時の政治のやりかたには抵抗を覚えた。「もっと人間らしいところのある街であってほしかった。
最初の挑戦は失敗に終わる。コンペに学生仲間と参加したが、フランス大手ゼネコの出した設計図の前に敗れ去った。1970年代弱冠33歳でここの市長になった。(1970年代ブラジルは民主化されておらず、市長は政府が任命していた)
彼が採用したスタッフは」「理想主義で、既成概念に」とらわれていない若者たちの集まりだった。

2010年5月29日土曜日

介護される勇気


おはようございます。介護は未知の国を探険するようなもののようですね。
おひとりさまの老後:上野千鶴子:法研
◆「介護されることを勇気をもって受け入れる」病人歴の長い柳澤桂子※さんは要介護のプロとでもいうべき存在。その人の言葉である。(詠まれている和歌は沈着冷静、よくこれほど自分を客観的にみつめられると思います。)
氷枕に頭痛をゆだね目をつぶる月をちぎって食べてしまおう      どのくらい土を踏まなかったことだろう幾年も風にも祈らなかった
※http://www.yanagisawakeiko.com/essay/index.html
◆ppk(ピンピンコロリ)が理想とはいうけれど、そうは問屋がおろさない、人間の生き死に「予定どおり」はない、という厳然たる事実がある。
この上野さんが両親を看取ってつくづく思ったのは、人間のような大型動物はゆっくり死ぬということ。小鳥ヤハムスターなどの小動物のように、ある朝突然冷たくなっていた、ということが少ない。まず足腰が立たなくなり、寝返りがうてなくなり、食べられなり、嚥下障害がはじまり、そして呼吸障害が起きて死に至る。このプロセスをゆるゆるたどるのが人間の死でそうなれば寝たきり期間は避けられない。データーによると、高齢者が死を迎えるまでに寝たきり状態で過ごす期間の平均が8.5月。寝たきりになっても長生がイヤなら衛生水準や医療水準の低い社会へ行く。(しかし介護している間にはこのように冷静でいられないのではないか。介護を終えて、振り返る余裕が出来てからの感想ではないでしょうか?)
◆介護される側にもノウハウがいる。「ケアのしかた」についてのノウハウがあるが、「ケアのされ方」を誰も教えてくれない。いくつかの答えがある。<世話されるのは針のむしろ>介護されるひと自身が「できれば介護は受けたくないものだ」と思っている。自分がネガティブな感情をもっているものに対して、多くの人が取る態度は否認、」「つまりあってもないことにするとか、できるだけふれないようにすること。女だとこの感情はもっと強くなる、もともとお世話するのが仕事だったせいで、自分がお世話されるようになることを受けいれられない。他人から責められるよいも、自分が自分を責めるほうがつらい。
介護されるひとも、両親などの介護体験をしている等以外は初体験なので判断基準がない。
どんな介護を受けても「ありがたい」「もったいない」と感謝のモードに入りがち。
プロのヘルパーさんは彼女の基準に合わせようと気をつかってくれる、結局ヘルパーさんは彼女の基準にこちらがあわるほうがスムーズにいくという経験をしている。
◆カネを払えば、経済的強者に見えるかもしれないが、カネとサービスのクオリティが連動しない。介護については「顧客満足度」はあてにならない。
今でもサービス提供事業者の選択肢は限られた地域が多い。
とくに女性は相手を不快にすることを口にしないように自分を抑えて生きてきた。イヤなことをイヤと言わなようにしていると、そのうちイヤといえなくなる。

2010年5月28日金曜日

トンチン年金


おはようございます。暇な人がいていろいろ調べたり、考えたりしている人がいます。介護に従事している人はあまり儲けようと考えている人はすくないが、
しかし旨い話で釣り、余計なことで勧誘してくる人は後をたちませんね。
おひとりさまの老後:上野千鶴子:法研

長生きすればするほどトクをする究極の年金・トンチン年金※
イタリアのロレンツオ・トンチイという人が思いついたので、その人の名前をとってトンチイ年金、日本はまちがってトンチン年金として定着した。これは同じ年齢群(たとえば70代とか)の人たちが何人かで出資して集団的な“講”を組み、その間で配当を分配するというもの。かりに70代の人が100人集まって、ひとりあたり100万円出資したとすれば、合計1億円の原資が出来る。毎年、仲間が死んでいくにしたがって分配率が良くなり、長生きすればするほど有利になる。最後のひとりになれば、分配金を一人占めできる。これを日本の金融マンが呼びかけたのは20年以上前のことだったが、普及もしていない(聞いたこともないのですが、)
長生きすることが、不幸ではなく、幸せな世に中をつくりたいという精神にはつながっているようですが、他人の死を願う気持ちを助長するから?(配当といっても今の金利1%では、出資するよりは使った方がよい。)
調べてみますと、
※http://2015nenkinhatankaihi.at.webry.info/200504/article_1.html

有名なトンチン年金というものである。トンチン年金は17世紀イタリアナポリのロレンツォ・トンチという銀行家が考えついたと言われ ている年金で、最後に生き残った人が年金を総取りするという過激なものである。トンチン年金の原理は例えば10万人が10万円を投入したとすると100億 円になる。10万人のうち最後に生き残った人が100億円をテークするというものである。実際にフランス宰相マザランにより1689年から8回にわたり戦 費調達として使われた。しかし、誰が考えても恐ろしいことに最後に残った2人は相手を殺してでも100億円をとりたいと思うに違いない。その通りトンチン 年金では殺人が続出し、欧米各国では公序良俗に反するとしてその後法律でトンチン年金を禁じた国が多いと聞いている。

2010年5月27日木曜日

ハイチのマザーテレサ


おはようございます。昨日は神頼みを2つもしました。
① は神棚のある弓道場まで自転車で出かけましたが、昼から小雨が降るかもしれないという天気予報だった。的に当てるのは個人の努力、この天気だけは神様にお願いが通じ、帰宅時の12時も降らずにすみました。
② は陶芸の釉薬を掛けるのですが、この結果は窯の中の神様のなせる業、それにしても何のお供えもしていなかった。ここ窯室には神棚がありませんでした。
2010.5.25の7:30nhkのクローズアップ現代

30年にわたってハイチで医療支援を続け“ハイチのマザーテレサ”と呼ばれる83歳の女性医師・須藤昭子さん。混乱が続く大地震の被災地で格闘する須藤さ んの姿を追った番組だった。
国谷さんがインタビューで、「もう49歳から33年間もやってお疲れでしょうから、引退の時期も考えられたら如何ですか・・・」「職業でしたら引退はあるでしょうが、使命ですから、考えていません」と応えた。
ハイチの地震のときは、丁度帰国していて、日本にいた時だったが、帰ってみると、仕事先の結核病院は瓦礫の山で、患者は内部40度もあるテントに収容されていた。
耐性をもった結核菌をもった患者が収容しきれず、自宅に帰される患者も多く、これは国内に耐性のバイ菌をばらまくことであり、ひいては世界に拡散される。
結核患者に限らず、栄養状態が悪いので、給水や畑まで面倒をみるために、80歳になって農業の勉強もされているとのこと。
「このような状態で絶望することはないですか?」に「少しだけでも、お役に立っていることがうれしいですね」と答えていた。
須藤昭子さんらを支える組織:http://www.kaigai-senkyo.jp/world/nation43.html

2010年5月26日水曜日

オ ノ・ヨーコ


おはようございます。昨日の気温は27度、天気予報の予測通りで、勤務先の部屋は狭いので、蒸し暑く今年初めて冷房にしました。
オノ・ヨーコは知っていても、日本ではどのような出身か知らなかったが、下記の本で知ることになった。安田財閥は富山の出身だったそうです。
明治時代には三菱にしろ発展の時代というか、時代にのった人のようですね。
おひとりさまの老後:上野千鶴子:法研
世界でいちばん有名な日本女性、ジョン・レノンの妻だったオ ノ・ヨーコは、安田財閥創業者のひ孫にして、銀行家・小野家の娘。ジョン・レノンのうなるほどのカネのある夫の経済力に依存して生きたアーティストだったかというと、そうではないことを知った。彼女はニューヨーク近郊の広壮な旧家を手に入れては、それを改装して資産価値を確かめ、不動産市場に売りに出し、元々大金持ちだったジョンの資産を数倍に増やしたのだという。なるほど、こういうストックゲインをビジネスにできるのも、旧華族の出身だったオノ・ヨーコの経済感覚によるものだった。
華族、現代の名家~
http://episode.kingendaikeizu.net/36.htm
安田財閥:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%94%B0%E8%B2%A1%E9%96%A5

2010年5月24日月曜日

マラソンの瀬古選手と中村清監督


おはようございます。わが住居は西武新宿線東伏見駅には早稲田の運動場があり、地元の稲門会が瀬古利彦を招いての講演会があったが、この人は落語の素質が十分ある人で絶えず
笑いを呼んでいました。

≫生年月日:1956年7月15日
≫出身地:三重県桑名市
≫主な経歴:四日市工業高校~早稲田大学~エスビー食品

野球部に所属していた中学時代、三重県中学春季陸上2000mで優勝。高校進学後に本格的に陸上を始め、2年、3年のインターハイで800m、1500m の2種目連覇を飾る。

早稲田大学で中村清監督の下、マラソンを始め、卒業後はエスビー食品に入社。福岡、東京、びわ湖、ボストン、ロンドン、シカゴといったビッグレースで優 勝。15戦10勝の生涯成績を残した。

現在はエスビー食品スポーツ推進局の局長を務める傍ら、日本オリンピック委員会理事、日本陸上競技連盟理事の要職も担っている。
●六代目・円楽披露パーティーマラソンの元五輪代表の瀬古利彦氏(53)も駆け付け、そっくりツーショットを披露し た。鏡抜きで呼び込まれ、会場は大爆笑。 マラソンの瀬古さんが楽太郎(円楽)氏に似てるというのは昔から言われてましたね
●浅田真央3.5回転、瀬古選手も地球を3.5回転は14万キロ、ハンマーの室伏選手は4回転、どの回転が優れているか、練習の距離や回転数では相当の努力をしているので、優劣はつけられない。
●早稲田の試験に落ちたので、米国留学で、南カルフォルニア大学に1年(実質10月)、寂しくて、面白くて、食べ過ぎて58kが68kgになっていた。
●箱根駅伝で、東洋大学の柏原選手の坂上りの驚異的な記録で優勝したが、この効果などがあって、東洋大学の入学試験では1万人増加、一人3.5万円の試験料で3億5万円の収入増になる計算だそうです。だから大学によっては入学金、授業料免除に加え、生活資金も出してくれるところもあるそうです。

●瀬古選手の恩師中村清が再度乞われて早稲田陸走部監督に就任したときは、ダラけたクラブだったので、当時の早大は不振の極みだった。まるで、今 の日本の縮図だ。就任したときに中村監督は以下のように部員に語りかけた。一生懸命指導するからついてきてほしい、と。ところがそれを聞いた部員たちの反 応は、馬鹿にしたゲラゲラ笑いだったそうだ。そこで中村はこう続けた。
 「中村は昔は随分、後輩を殴った。しかしこれからは、めったに鉄拳制裁はしない。ただ、どうしても1つ2つ殴りたくなったら、まず自分自身を十も二十も 殴ってからやる。これ、この通りだ」と言うなり、中村は自分の顔を力まかせに殴り続けた。唇が切れ、血が流れ出した。「部員たちは、まるで狂人を見るよう な目つきでこっちを眺めていた」とある。
 あるいは、
 「お前たちがどんなに苦しくても頑張る、という情熱を取り戻してくれるなら、俺はなんでもやる。草を食え、砂をなめろというなら、その通りにする」と 言って、地面の草を引き抜いて土といっしょに口に入れた。中村は当時、血圧250、血糖値300という半病人(糖尿病)だったのに、部員の練習の間は、た とえ土砂降りの雨でも雪が降っても、4時間5時間でも立ったまま練習を見続けたそうである。
 箱根駅伝では、選手と伴走する車の上から、ずっと「都の西北」を歌い続けることもやっていた。その映像をテレビで見たときは感動したものだった。
 まさに情熱の人であった。わが流派の最高幹部は中村清以上の情熱も理論もある方ではあるが、今日のところは中村だけに話を絞らせていただく。私も中村の 指導のあり方はずいぶん勉強になった。具合が悪くて脂汗が背中を流れるときでも、たった一人の道場生の指導のために、歯をくいしばりつつ、しかし平然とし て指導をやったものだったが、これは中村清監督を見習ってのことでもあった。
 中村清は言う「強制からは、情熱は生まれない。情熱の原点を与えるためには、何よりも監督と部員の心が彼我一体となることが肝要なのだ、という信念が、 私を支えた」と。さらに「教育とは、継続である。根くらべである。1年たち2年たつうち、荒廃したグランドは、昔の清らかさを取り戻した。部員たちの眼が 澄んできた」
 そこから早大が駅伝やマラソンに往時の迫力を蘇らせ始めたというのだ。
(中村清監督の指導者魂:
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b9bea74e670afe7760283c7aac017a8e
モスクワオリンピックが中止:子供が黄色メダルをくれた、金メダルをもらえるほど二は運がなかったから(彼一流の洒落だった)

マラソンの中村清監督


おはようございます。昨日はまた涼しくなりました。女子のマラソンは層があつく、誰かが上位に食い込んできますが、男子はもう少し新人の登場が望まれるようですね。
vol.284-1(2006 年 1月11日発行) 岡崎 満義/ジャーナリストより
2006年1月ミズノ100周年記念・スポーツシンポジウム「Sports for All Children」が、東京・新高輪プリンスホテル飛天の間で開かれた。スポーツ関係者約1000人が集まり、大盛会だった。
  その基調講演は映画監督の篠田正浩さんだった。「スポーツと子どもと教育」という講演は、大変興味深い内容だったが、その中で、中村清監督についての小さ なエピソードが語られた。
 篠田さんはリーフェンシュタール演出の「民族の祭典」という、1936年ベルリン五輪の記録映画のとりこにな り、とくに走る人の美しさにうたれた。その幼児期の記憶が、篠田さんをのちに、早大競走部に進ませたようだ。
 篠田さんは昭和25年、箱根 駅伝の“花の2区”を走った。箱根駅伝は10人で走るのだが、篠田さんの記録は14番目。だから最初は2区のランナーのアテンドを命じられた。ところが前 日、中村さんからお前が2区を走れといわれたのである。大いに驚いたが出場すると、5位でもらったタスキを4位で次走者に渡すことができたほどの快走だっ た。あとで、「なぜ14番目のタイムしかもっていなかった1年生の私を、選手として出場させたんですか」と訊くと、中村監督は「10番目までに入るタイム を持つ選手と、君のタイム差は1分。20数キロで1分差ぐらいなら、新人のとんでもない暴走があれば、わけなく超えられるものだ。その可能性に賭けた」と 言った。
 上級生の安定感、平均点の走りより、新人の暴走の可能性を信じ中村監督の人を見る目、ということを考えさせられるエピソードで あった。

2010年5月23日日曜日

ヘルパーさん;


おはようございます。昨日は家内の兄の息子(38歳)の結婚式でした。取り持った縁は故郷にいる母方の弟氏が新婦はYさん27歳を会わせたことによります。故郷からも大勢きていましたので、いわゆる庄内弁が堪能できました。

ひとりの老後を心楽しく生きる方法:吉武輝子:海竜社

「最近は自立、自立って、この言葉が流行語になっている。自分は自立しているから誰の世話にもなっていないと、本気に思っている人がいるけど、実は自立度が高くなればなるほど、いろんな人に支えられているのよね。
考えてもご覧なさいな、自立していますって胸はってみても、命のもとである米の一粒だって、農家の方たちのお力添えがあってのことじゃない。だからね、謙虚にね、自立しながら柔らかく依存するっていう生き方が、人間としてごくごく自然な生き方だと思うの」
ばばちゃんは他人に面倒を見られるようになったら死んだほうがまし、と考える勝ち気で気丈な人だった。
このようにプライドの高い「ばばちゃん」は気に入っているOヘルパーさんは、心根は優しいけれど、気のきかない嫁さんタイプで、「ばばさん」は心のどこかで、自分のほうが面倒みている、みたいな思いがあったからでしょう、その彼女に対しては柔らかく依存していたみたい。
2回目の介護度認定審査が行われた日は、わたくしは隣の部屋にいたのですが、聞いていると、「ばばちゃん」は本人にできることを聞いていて、はらはらするのは、人の手を借りてしかできないことも、全部「自力でできる」って答えるんですもの」
後でケアマネジャーが真偽をわたくしに確かめるのですが、わたくしは訂正しなかった。「ばばちゃん」が自力でできるって答えたことに対して訂正はしなかった。誰にもプライドがあるのだから。その場合まだ自分で働いてて多少の負担は可能だったので最悪自腹を切ることを考えていた。自腹を切りたくても切れない人もいくらでもいる。
できなことを自尊心のためにできるといわないように、認定審査日には軽い睡眠薬をちょっぴり飲ませてしまうんです。ぼーーっとしているから介護度の変動がない。本人には申しわけないけど、他人の助けがなくては共倒れしちゃいますもの」って。声が涙でくぐもっていましたっけ。
Sヘルパーさんは身体を動かすのが全く苦にならない人で、、月1回来てもらい、掃除と洗濯で7時間、家の中はピッカピッカ、「ご飯なんか食べている暇がないよ」とばかり。
一方Oさんは、私が外での仕事を終えて帰る途中、うれしいじゃありませんか、2人分の夕食がならんでいる。楽しかった事、うれしかった事、悔しかったことなど、ご飯を食べながらぺちゃくちゃしゃべっていると、いいな、いいな他人に助けてもらって生きるのって、なんだか心がほかほかしてくるのです。とこの著者(78歳)は呼吸障害で酸素ボンベをもって講演の旅をやっている人です。

2010年5月22日土曜日

競争社会


おはようございます。昨日は急きょ半袖のポロシャツを取り出したが、背中に汗が流れるのが分かった。また電気ストーブもあるのに、扇風機も屋根裏部屋から出した。冬ものと夏ものの交換をやったが、また明日は20度の気温に戻るという。砂漠は1日でこのような気温の変動があるそうですが、少しそんなところを感じています。
生きる意味:上田紀行著:岩波新書931

競争社会
競争には2種類あって第一にには、お互いの力を高め合うというような競争の次元があるのではないかと思っております。柔道の稽古とか、剣道の稽古を2人でしている場合に、勝ち負けにこだわるというのではなく、まさにライバル心を持って競争しあうことでお互いの力を認めあい、そしてお互い頑張ろうなといって、お互いを高め合うような競争は、これはすばらしいものではないかと思うのです。ところが、現在の日本社会が目指している競争、あるいは、アメリカナイズされた競争観というのは、勝ち負けを決めるために、勝者と敗者を決めるためにあるといった競争です。そしてその結果、勝ってしまえば勝者はすべて手に」することができ、敗者はどんな悲惨な状況におかれても、それは競争で負けたのだからしょうがないだろうということになってしまう。そうした、勝者と敗者、勝ち組と負け組を決めるためのもの」といった競争観が蔓延してきているような気がします。
米国をみると競争が完全に勝ち負けを決めるためになっています。ですので、いま勝っていても、明日は負けてしまうのではないかということで、一日たりとも心が休まることがないという厳しい現実がありました。
中国もそうです。一度負けてしまえば、もう一生おしまいなのですから。
日本社会もそういう社会になりつつあります。これまではお互いに高め合う競争でした。そこもはお互いに対する信頼があり、社会全体に対する信頼がありました。しかし今目指されている競争は弱肉強食の競争であり、そこではお互いの敬意や信頼はなく、社会全体への信頼も失われていくように思われるのです。

2010年5月21日金曜日

林檎の礼拝堂②


おはようございます。1.5月おきの手作り新聞の特集「旅」が出来ました。最近時の立つのがとても速いです。

昨日の続きになりますが、このような物語をしっていると、フランスに旅する場合に是非訪れてみたいなあと思います。

林檎の礼拝堂:田窪恭治より

初めて見た時再生前の礼拝堂のあまりも簡素な美しさにうたれた。墓碑銘の彫られた昔からの床、天井の梁の骨格、入口の前の樹齢500年のイチイの圧倒的生命力が迫ってきた。
着工の前に地元新聞の記者が「どうしてこの作家はこんな荒れた教会を修復しようとするのか、なぜ日本企業が支援するのか、何のためにここに訪れたのか」答えは結果をみれば分かることだった。
この地方の荒れ果ててはいるが、荘厳さにみちた礼拝堂をこれをどのように自己の作品にすべきか、田窪の思考の軌跡は右に左に揺れた。またそれが時代を経てどのような評価を得るのか、あるいは今日の揺れ動く時代にどのような役割を担っているのか。―――それが作家支援というものの、危うい本質であろう。
内部の壁にはほんのりと匂うよなカルヴァドスの匂いなのか、林檎の白い花が咲く枝なのか。
屋根には礼拝堂の屋根はゼリーみたいなガラス瓦でノルマンディーの光がさしこみ大層美しい感じです。
ご本人は語る
「あの11年間というのが僕にとってすごく幸せだったんですよ。というのは、余計な世過ぎしのぎとか自分の売名とかやらずに済んだんですね。とにかく楽しく てしょうがなかったんです。資金が貯まらないから僕が考えている倍くらいの時間 がかかってしまったんですけれど。この時間というのがとにかく僕にとって幸せな時間だったんです。みんなは可哀想だとか、子供はどうだとかいろんなことを 言ってくれていたんですけれど。今でもそのリアリティを説明できないんですけど、この時間は俺だけのもんだ、みたいなね。僕だって東京に残ってれば、世過 ぎをやってたと思いますよ。」

田窪氏の国内での作品は金刀比羅宮の文化顧問を務める美術家白書院に椿の障壁画がある。

製作の過程や、結果は下記の記録ビデオに詳細に紹介されている。このように過程がキチンと報告されているのも、このプロジェクトの優しさのように思います。又この紹介文も素敵です。

田 窪恭治 大型動画配信 TAKUBO PROJECT
http://sciencenet.cocolog-nifty.com/takubo_/

2010年5月20日木曜日

林檎の礼拝堂①


おはようございます。こう温かくなてくると、風も穏やかで和んで気持ちよいものです。下記の物語も同様にまことに気持ちのよいものです。

林檎の礼拝堂:田窪恭治

弓の仲間が貸してくれた本でした。テレビでも紹介された、素敵な物語でした。
この本の序文に福原義春(資生堂会長)がすばらしい率直な紹介をされています。
<天才と狂気は紙一重>、創造に携わる人物を庇護し支援することは、詐欺やまやかしに直面することと、-紙一重だ----と思っている。サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂プロジェクトを熱心に説いてまわったのはフジテレビ・ギャラリーの玉田俊雄さんであった。かねてから田窪氏の才能を評価し、支援を惜しまなかった。その田窪は玉田さんの思いを超えて、フランスの一地方の荒廃した教会の再生に、家族と生活のすべてのエネルギーを注ぐ決意をしたのだった。もともと田窪は美術館の壁面を埋めたり、商業取引の為の芸術と呼ばれる作品に生命の火を使いきるつもりはなかった。
東京の建築の解体を題材にとった「絶対現場(?)」と名付けた時間芸術(人の生活の匂いのある磨かれた柱のある旧家のような感じでしょうか?)などさまざまな試みに挑戦したあげく出会ったのがカルヴァドス地方のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂である。この遺産を再生(11年もかかることになったのですが)することが、そのまま自らの作品の契機ともなる-――という思いが、彼の決意をうながし、それが時間芸術を超えて永遠に生き続けるものの脱皮になることを、田窪は知っていたのであろうか。この何の地縁も人脈もないノルマンディーに移り住むという、その決断こそがこのプロジェクトの全てである。後に現地で田窪夫妻と食事したとき、当時の暮らしはさぞ辛かったでしょうね-----と申し上げた時、夫人の目に一粒浮かんだ涙が、その決断の容易ならざることを物語っていたろう。
日本経済はいまだバブルの時期にあったとはいえ、多くの企業にとって、遠いフランスの名もない礼拝堂に前衛作家が挑戦するというプロジェクトに参加がためらわれても当然だったそれが本野元駐仏元大使を委員長とする支援委員会の発足し、折も折世の中の風向きが急にかわり、派手なイベントの時代はさり、3年間に企業は3百万円、個人百万円を限度とする方式(総額は記されていない、善意に計算はいらないというのだろうか)は後に“福原方式”と呼ばれる今後のメセナの方向性を示唆するものとなった。
ここにかかわった私(福原さん)自身の夢は、やがて礼拝堂が再生され、数多くの支援者が村人たちとカルヴァドス(林檎酒)を飲み交わすことだった。

2010年5月19日水曜日

花の好みも色いろいろ


おはようございます。どちらのお宅でも、夏・冬両方表に出ているので、整理に困っています。もう冬ものは仕舞ってもいいでしょうね。

植物は人に頼らず生きている(年金の雑誌「長陽」2010春号):演芸家・江尻光一(NHKでも長い間出演、7月で84歳、演芸は64年間)

日本全国、花の好みも色いろいろ
暖房の完備している雪国・北海道では室内に温室で育てるようなカトレアを室内に置くと、冬でも芽が伸び、根がでます。これが北海道の方には驚きで、冬に洋ランがよく売れるそうです。陽の短いときに出た芽は花芽をつけない。カトレアにとって冬に芽が出るのはいいことではありませんが、花が咲かなくとも、気にしません。花よりも、芽や根が伸びるを楽しんでいるのです。花以外のものに、興味をもつ北海道の方の植物を愛する気持ちには深いものがあります。
不思議なことに、雪国・北海道と南国・沖縄の方が好む花の色には共通するものがあります。沖縄では気温が15度いかになることはまずありませんから、緑が一年中あり、北海道とは正反対ですが、色の濃い花が好きのようです。桜を見ても、本州の人は中間色がすきな染井吉野は薄い色ですが、北海道ではこの染井吉野はほとんど見ることができません。北海道にある桜はエドヤマザクラという色が濃い桜です。
沖縄にも染井吉野はありません。暑くて枯れてしまうのだそうです。台湾から来た寒緋桜は色が濃い桜です。
◆藤色が大好きな日本人の好み、ラベンダーが好きなのもそのためです
◆チューリップ王国オランダの理由は金曜日の男は花束を買って自宅に帰る。日常で花を愛しているからチューリップの王国の下地がある。

2010年5月18日火曜日

ティーボールとは?



おはようございます。昨日は初夏の暑さで、表にでて肌で感じる温度にあう気温に着るシャツを合わせています。自転車に乗って走ると風をよんで気持ちがいいですね。
16日は知恵遅れの37歳の子どもと一緒に、保谷小学校に行ってきました。28回目だそうで西東京市の障害者の運動会で紹介もされ、車いすの人もみんな参加しました。
高さを調整できるポールの上にボールを置き、ピッチャーはいませんので、ゆっくりボールを狙い定めて打つことができるスポーツでした。
初めての挑戦がうれしくて、うれしさの緊張でボールに当たらず空振り、3回目で飛ばすことができた人もいました。
ティーボールとは?http://www.teeball.com/


草野球やバッティングセンターに行ってボールを打ったことはあ りますか?
そんなとき、思うようにボールが打てなくて、悔しい思いをしたことがあると思います。
しかし、ティーボールというスポーツではそんなことはありません。
ティーボールでは飛んでくるボールを打つのではなく、バッティングティーと呼ばれる細長い台にボールを置き、止まっているボールをバットで打って遊ぶス ポーツなのです。
置いてあるボールを打つため、ボールを打つ楽しさを体感でき、走り、捕り、投げ、そして興奮します。
ティーボールとはそんなスポーツなのです。
ティーボールは小・中学校で行われている体育の一環としても取り入れられ、競技人口が日増しに増えてきているそうです。

2010年5月17日月曜日

「宿根草を植えよう」


おはようございます。

植物は人に頼らず生きている(年金の雑誌「長陽」2010春号):演芸家・江尻光一(NHKでも長い間出演、7月で84歳、演芸は64年間)」

「宿根草を植えよう」
樹木の種類は多くあっても、古い時代では草花は多くありませんでした。草花が少なかったのが日本です。フクジュソウやアサガオが庶民に親しまれていた位です。
春にタネをまき1年以内に枯れるのがパンジーやヒマワリです。これに対し、宿根草は一度土に植えれば何年も株が生きています。春に芽をだし、初夏から秋に花を咲かせ、冬bが到来すると、地上部がなくなりますが、冬に地上部を残す宿根草があります。日本を代表するラン科のエビネがそうです。花がさくのは5月の初めで10日から14日間咲きます。1年は54週、花が2週咲いたとはいえ、後の52週は花がありません。その52週の間、エビネは春夏秋冬に応じてからだつきを変えます。宿根草をうえようというは春夏秋冬で姿を変える植物から日本の四季が感じられるからだという。日本の花壇は季節ごと、花の咲いた植物を植えますが、花だけが植物の姿ではありません。芽を伸ばし,葉を広げ、後に花が咲く、その全てが植物です。私たちの先祖が十五夜にススキやオミナエシを飾ったのも、植物をとおして季節を楽しむためでした。四季を感じて生きてこそ人生は豊かにんさる。
洋式の庭園の最初は日比谷公園で、葉牡丹は日本で改良された傑作だそうです。フランスのベルサイユ宮殿に4月の半ばに訪ねた時、日本の公園ならいろいろな花が植えられています。ところが遠目ではこの公園の花壇は土ばかり、気になって近づいてみると、草丈3~4cmのセンパフローレンスが植えてあったのですが、遠目では分からなかったのです。日本なら冬に植えられた葉牡丹はうらぶれてくると、たちまち抜かれて、一瞬にして別の花に代わってしまいます。そういう花壇を見てきた目には咲くまで土の花壇を見せている
ベルサイユ宮殿の姿勢に感心したのでした。この草丈からすると、7月位に花が咲くとおもいました。2年位後に再訪したときには、見事なセンパフローレンスが咲いていました。
日本の花壇は常に花ばかりです。苗を植えてやがて大きくなって花を咲かせる、そのときの喜びといったら応えらえません。園芸の王道はその全てのプロセスを楽しむことではないでしょうかと。

2010年5月16日日曜日

わかば文庫


おはようございます。昨日は「わかば文庫」という子どもたちへの「読み聞かせ」を見学しました。アンデルセンの「みにくいあひるの子」の紙芝居もありました。この文庫は40年も続いているのだそうです。聞くのは自分の頭に膨らむので、随分受け取り方が違うようです。

逆境に耐えられる人、鍛えられる人の素地は少なくともこのような思い出せる童話を聞いているかどうかもあるかもしれません。「3匹の鼠とニャーゴ」というのは鼠の野外授業で、授業中にニャーゴというのは危ないから気をつけなさいという先生の注意を聴いていないで、3匹の鼠は他の事で夢中になっていて、置き去りにされた。3匹はお腹もすいたので、桃を取りに行くことになった。途中ニャーゴにあっても怖さを知らないので、一緒に桃を取りに誘う。ニャーゴは桃を食べてから、ゆっくり鼠を食べるもくろみだった。鼠3匹はそれぞれ自分の弟や妹の分も手にもっていた。ところが、鼠がニャーゴに叔父さんには「何匹子どもがいるの?」
「4匹だよ」「そうか桃1つでは足りないね。ぼくらの桃を上げれば喜ぶね」こうなると、ニャーゴはとても鼠を食べることが出来なかった。鼠3匹は「おじさん、今日は楽しかった。又一緒に遊んでね」と別れた。話手はやはり、相当の演技もあるベテランの人で4歳になる男の子は瞳きらきらと熱心に聞き入っていた。わずか子ども2人、若いお母さん達が4人の聴衆でした。窓も閉めて暗くし、紙芝居のところは蛍光灯がついていて本当に小さな劇場でした。聞き手の人数の少なさなど気になりませんでした。これは45分位で終わった3時15分に、文庫の主催者の奥さんが階下で、主人や従兄が法事から戻っているので、ご一緒に如何というお誘いで、タラバカニや日本酒のご相伴にあずかりました。ここの文庫は借りても期限がないのだそうです。ときおり童話作家も訪れるそうです。

2010年5月15日土曜日

らんを探し求めて


おはようございます。
和算の証明結果を神社などに奉納した算額(全国で900枚、3割が東北)青森4枚、岩手102枚、秋田5枚、山形県43枚、宮城48枚、福島130枚これは長い冬が関係しているのだろう、温暖な熊本や鹿児島では1枚も見つかっていない。

植物は人に頼らず生きている(年金の雑誌「長陽」2010春号):演芸家・江尻光一(NHKでも長い間出演、7月で84歳、演芸は64年間)」
野生らんを求めて世界各地のジャングルを歩いた。中南米から熱帯アジア、東ヒマラヤの南斜面、アフリカのマダガスカル、オーストラリア、54・5ケ所、ときには藪こぎをし、テント生活もした。もちろんおいしいもの
は食べられない。そこで見る植物たちの堂々とした生き方に触れると辛い旅の事など忘れてしまい、何度も何度もジャングルに足が向いてしまう。
霧の道に沿って生きているジャングルに暮らす着生ランたち。樹等につかまって食らう着生(密生したジャングルでは地面まで光が届きにくいので、わずかな陽を求めて樹上などでくらす。ところがそうなると水を吸え
るのは雨が降ったときだけ、寄生植物と違い樹木から栄養や水を奪うことをしない。では着生ランが生活する場所には、川や湖がある。ここから水蒸気が発生し、霧となって流れてくるのを利用している。この霧の道を
発見することが、ランを探す近道。
花が美しく咲き誇るのは、人を慰めるためではなく、植物自身の生存のためなのだそうです。
風媒花は松や稲は花びらが発達しないのは必要がないからです。これに対して虫媒花は花びらが発達し色もさまざま出、香りも出します。気温もほどほどになると、虫が活発に動きだすと、花はしっかり香りをだします。
〒72-0825千葉県市川市須和田2-26-20047-371-7768の江尻さんの須和田農園は年中無休で洋ランが自由にみられる。

2010年5月14日金曜日

日本人の一つの見わけ方


おはようございます。今日は2度寝をしてしまい、随分寝過ごしました。変な眠も2度寝の故でした。
正座と日本人:丁宗鐡
日本人密偵の摘発法
かつて欧米の風刺漫画に、小柄で出って歯(これがそう見えるのだろうか)でめがねをかけてカメラをぶら下げた東洋人が登場すれば、何の節の説明もなくとも、それは日本人を指すものでした。では同じ東洋人の目にはどのように映っているのでしょうか。
時代は日中戦争のころ、中国国内に潜入したスパイを見わけるポイントが中国軍側の証言で残っています。
日本人は顔を洗うとき、まず手を動かします。日本は水が豊富なので、日本人は手で水を受けて洗います。
ところが、大陸では水は貴重。そのため、中国人はまず一度手に水を掬ってから次に顔を動かします。やってみると分かりますが、そのほうが水は落ちにくく、水を節約できるのですそこで中国軍は、朝一番、兵士たちがまだ寝ているときに叩き起こして、集団で顔を洗わせます
、すると無意識に手を動かして水を大量に使っているものがいることがあります。
「あいつは怪しい」、今度は身体的な特徴をチェックそます。日本人には正座に由来するいくつかの特徴があります。その一つ。当時の日本人は足の甲に必ず坐りタコがありました。これは子どものころから習慣なので、ほぼ一生消えません。また下駄を履くために、足の指が広がっていた。どんなに中国語がうまくとも、このようにして摘発されてしまう日本兵がいたそうです。
もう坐りタコや下駄の鼻緒による足指の広がりの特徴はなくなっていますね。

2010年5月13日木曜日

左側通行か右側通行か


おはようございます。道の通行と海の通行は違いがあるようですが、米国と英国でどうして違いがあるのか不思議に思っていましたが、ご存じかもしれませんが、下記のような事情があったとのことです。

恨みの文化論・韓国人の心の底にあるもの:李御寧
左側通行か右側通行か

時折歴史学者は退屈しのぎに話題を展開することがある。昔の交通秩序は、もちろん、輪禍を防止するためにあったのではない。自動車ではなく、敵に遭遇した場合の自己防衛に、どちら側の通行が有利であるかという問題である。中世の頃から西欧社会では、原則的に左側通行を守ってきたというのである。貴族は当然のことだが、商人や旅行者たちも剣か槍を携行していた。そこで、前方から突然に敵(盗賊)が攻撃してきた場合、右側よりも左側に位置しているほうがいっそう有利であるということだそうです。すなわち剣を抜いて右手を使うためには、対手を自分の右側におびきだす必要があった。その習性が今も残っているのだそうです。ところで例外は米国ですが、米国のフロンティアたちは、剣ではなく拳銃を下げて往来していたからである。西欧では火器が発明された当時には既に治安維持が確保され、歩行者が武器を持ち歩く必要はなかったが、米国の開拓民だけは事情が違っていた。
ところで韓国人はどうであったか。歴史学者の解明がないが、辺鄙なところの老人衆の道を往く習慣をみれば、およそ正確な判断がえられそうだ。その歩行には左側も右側もまるで眼中にない。あの未知の敵の来襲をおもんばかる警戒心はどこにもみあたらない。基本的に対決の意識がない。
左側だ右側だと騒ぎたてるのはやはり万事に神経質な西欧人(日本人にしてもそうであった)の習癖である。
物事を思考する場合、道を往く習俗だけではなく、一方に偏しないのが韓国人の特徴である。永年の儒教的訓練によって、そのようになったのであるが、昔から極端なものは避け、無難な中道を選ぶというのがわれわれのセンスに合致するマナーだった。