2009年4月30日木曜日

武蔵野散歩②


おはようございます。これほど夜でも明るいのに、想像できない原野だった
舞台の中の武蔵野:羽田昶文学部教授・能楽資料センター長
ここ武蔵は地の果てだった。それも広大な原野だったから何もなかった。
泣くしかない舞台だったのでしょうか。
伊勢物語に武蔵の国と下総の国の間の大きな河をすみだ河という。この武蔵にきたが、この上もなく遠くへ来てしまったなあ、と互いに嘆き合った。渡守に眼前の鳥の名前を問うと、「これが都鳥ですよ」
名にし負はば いざこととはむ 都鳥わが思ふ人はありやなしやと よめりけば、舟こぞりて泣きにけり
おまえがその名にふさわしい鳥ならばさあ尋ねよう、都鳥よ。都にいる私の恋しい人は生きているのか、いないのかと。と詠んだので、船に乗っている人は皆泣いてしまったそうだ。
能で武蔵といえば狂言※1「入間川」、※2「隅田川」があるそうです。
能楽は能+狂言を一括したもの、しかしそれぞれジャンルは別
能には間(アイ)というナレイションや解説をする人が登場する。能は笛や小鼓がつき、舞踊劇で謡によって、室町時代以前の戦記ものや、悲恋ものの筋立てが進行する。オペラ型にちかい。
狂言は芝居型の庶民の1日の日常の断片をつづったリアルなセリフがあり、動きもリアルである現実のおかしな生き方を表現している。
※1:http://www.bunren.org/kaiho/2003092.pdf
※2:http://homepage2.nifty.com/datey/nomura-siro/nomura-utaikatari.htm;入間川も荒川にそれが今の利根川へと。この入間では逆さ言葉があり、綺麗が汚い、高いが低い
逆さ言葉の言い方と、それを外した言い方のやり取りが面白いそうです。

能の場合、結末はハッピーエンドが多いが、世阿弥の子供の元雅がつくった隅田川は唯一の悲劇。
幼き梅丸が拉致※3され、物狂い(この時代の意味は、精神的異常ということではなく、感性が鋭敏になることをいう)の母が東まで探しにくるが、もう死亡していたという筋。
※3:山椒大夫など、東国での開拓要員として誘拐される話などが多い。
地謡の合唱のなかに、幼い一つの声があの世から母を呼んでいる。
この舞台に幼き子役がでるのはやり過ぎと世阿弥が「申楽談儀」で評したが、元雅は子役がでないと様にならないということで姿勢かわらず、、元雅の方式がオーソドックスになっているが、最近になって世阿弥のいう子役がでない舞台もこころみられたそうです。
能の数は2500もあったが、現行のものは250曲でこれは室町時代にできたものがほとんどであるそうです。
現在隅田川の河畔に木母寺があり、そこに梅若丸の碑があるが、これは能で有名になったあとで建立されたものであるそうです。

2009年4月29日水曜日

平家の生・死様はおのれの鏡にも


おはようございます。もう桜並木も、道路の両側から覆うように日陰を作っています。
「平家物語」は奢る平家は久しからずという琵琶によって語られる没落過程の物語だと思っていた。この筆者がいう。「死」を視座に据えることによって、平家一門の一人一人が驚くほど多様な死に方をしている。いずれ死は避けられないし、平家の公達も現代の私たちもまったく変わることがない。この「平家物語」は我々の生活とは無縁の「昔のお話」だと思ってくれるなと。「生きている感情」として古典を読むという経験のためにこの本を書いたのだという。
死を前にすると人間は弱いものだ。ここに描かれた死の様相はさまざまなことを思わせると解説している。
忠度は文武ともに優れているとかかれているが、清盛の次男の宗盛はまったく反対の人間だった。伊豆守仲綱が「木のした」という並びない名馬を所有していたが、宗盛が権威をかさにこれを召し上げようとした。仲綱は言を左右にしたが、7,8度もこれを乞こわれてやまなかった。とうとう力及ばず献上することになった。しかしこの馬に仲綱と焼印をした上に名前よ声高にあげながら、鞭をあて恥辱を与えた。こうなると、俄かに平家に謀反を起こすことを思い立った訳で、一例をあげればこういうことだった。

ところがこの宗盛は頼朝が挙兵して攻めのぼってきたときの守り総大将であったが優柔不断で勝機を逸した。それから団の浦合戦で平家の敗戦は明らかになってみな討死し、または水中に沈みつつあったが生捕となった総大将だった。

又一方子煩悩で、「副将」という名で、愛妾の子の母は産後まもなく死んだので、不憫に」思っていて、敵の生捕になったあとでもこの子の助命嘆願する。あるはずもないのだが、大将でありながらひたすら、自分自身も助かるかもしれないという思う時期すらあった。
このように宗盛は間違いのない馬鹿殿なのだが、・・・じつは小心で非常に平凡な・・しかし無類に家族思いの人間的な男であった。

日常生活の中では見えていなかった宗盛の人間臭さが死という「非常」の時に分かりやすい形であらわれてきた。げに死は生を映す鏡だと。
往生の物語―死の万華鏡『平家物語』:林望著

2009年4月28日火曜日

歌は命よりも


おはようございます。今日は涼しいようですね。まだ冬ふくを仕舞うのに迷います。昨日は我〃が手作りのシニアかわら版を置いてもらうように接骨院を回ってきましたが、
歯医者の数位あるのには驚きで、患者のほとんどは女性でした。

林望さんの講義が面白いのできっと「平家物語」の面白さも多少は分からせてくれるだろうとおもった。そこで「往生の物語」・死への万華鏡『平家物語』を読んでみました。
そうしたら薩摩守忠度にまつわる一話は原文を舌頭に千転して、その文辞の華を味わい尽くせとありますが、その冒頭だけを複写してみました。

薩摩守忠度はいずくよりやかへられたりけん、侍5騎、童一人、わが身ともに七騎取って返し、五条三位俊成卿の宿所におはしてみ給へば、門戸をとじて開かず。「忠度」となのり給えば、「おちうと(落人)帰りきたり(逃げ帰った)」とて、その内さはぎあへり。薩摩守 馬よりおり、みづからかにの給ひけるは「別の子細候はず」三位殿に申べき事あって、忠度がかへりまいて候。門を開かれず共、此のきはまで立よら給へ」との給へば、俊成卿「さる事あるらん。其人ならばくるしかるまじ。入れ申せ」とて、門をあけて対面あり。

どうして平家の一族がこぞって落ちていった中に、忠度はいったいどこから戻ってきたのか、またそれはどうしてか。
「帝も既に都からお下りになりました。われら一門の命脈もすでにこれまでと存じます。しかしながらこの忠度も歌詠みの端くれとして、なんとか撰集の沙汰も立ち消えとなったこと大きな嘆きでございました。慮外ながらここに一軸に詠草を持参しました、もしや撰集にお採りあげいただけないかと願って参上した次第でございます。我が身が滅びましても、そうなることができましたら草葉の陰で大変嬉しく存じますと。」と心境を述べる。命と歌と同じく大切であったし、あるいは命よりも歌のほうが大事だというふうに聴こえてきます。
俊成は忠度の後ろ影を遥かに見送って門前にたたずんでいた。やがて姿はみえなくなったが、忠度とおぼしい声で朗朗と吟詠するのが聞こえた。そしてその声も次第に遠ざかっていった。

前途(ぜんど)程遠(ほどとを)し、思(おもひ)を雁山(がんざん)の夕(ゆふべ)の雲に馳(はす)。
これは渤海の周文徳という人が唐使として来日し帰国の間際の太宰府の迎賓館で詠ったものだそうです。
さざ浪や志賀のみやこはあれにしを むかしながらの山ざくらかな
これは柿本人麿の本歌があったのを詠じたものだそうです。俊成は朝敵である忠度を撰集に「読み人しらず」として載せたそうです。何と床しい処置でしょうか。忠度はその死の最後の一瞬にいたるまで、武人であると同時に根っからの歌人でもあったのだと。

平家物語の滅亡してゆく公達のなかには、この忠度のように、風流貴公子として何人かあり、その死の直前まで風雅の道を思い離れることのなかったありさまが、また一つの読み所となっているそうです。たとえば敦盛は笛の名手で最後の戦にも腰に笛さしていたというし、敦盛を打ち取った熊谷次郎直実は「あないとおし」この暁城のうちにて管弦し給ひつるはこの人にておはしけり」と言って落涙したという。

2009年4月27日月曜日

雪の降る街をの歌


おはようございます。花水木が盛んに咲いています。この花の普及のスピードは早かったですね。あちこちの街路樹にもなっていますね。その中でも白い雪のようなのが好きで、槿の花も同様に白いのがいいですね。昨日のNHKの介護保険が使えない実態がやはり本当でした。これは大変です。途方にくれます。

私が小学生のころラジオ歌謡で町のスピーカーでも流れていた歌でした。その歌が夕暮れ時に聴こえると雰囲気がピッタリとしていた。
駅前にこの歌のモニュメントができて、この歌のイメージは鶴岡だったということが分かったのです。錆びた地味な市でこんなに素敵な歌のイメージとはかけ離れていたので意外であった。しかしあの頃はもっとシットリしていたのかもしれません。それは鶴岡に限ったことでもないのかもしれません。あるいはみんなの人情が豊かだからだったのでしょうか。詩人のイメージは想像豊かだから、相当に膨らませるとこんなにもなるのだと思っていた面もあります。
それが校友会紙に顛末がかいてあった。斎村の菅原眸氏がいう。菅原喜兵衛は自分の親父が昭和21年秋から山間僻地の児童生徒に良い音楽を聴かせたいという思いから、戦争時期に疎開していた音楽家のつてをたどって東京から若い音楽家を招聘した。やはり、この辺に人情の豊かさは確かに存在していました。山間の分教場まで、音楽家の中田喜直さんを馬橇で出迎えた。そのときのイメージだと自分の父が勝手に想像していたと菅原さんは想っていた。後に漸く事実を確かめる機会があった。果たして反対であった。馬の鈴をシャンシャンと鳴らして雪道のイメージはまさにその通りだったという。その中田メロディが鶴岡市民歌、や斎村小学校校歌などにもあるそうです。検索すると校歌の数の多さにはびっくりです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E5%96%9C%E7%9B%B4

2009年4月26日日曜日

和紙千年②


おはようございます。昨日のNHK追跡!AtoZ では貧困ビジネスという群馬県の無届老人ホーム(火災)も実態は生活保護受給者を狙った事業で、福祉政策の貧困が原因で、貧困者を狙ったビジネスと国の施策の貧困と両方重なったものでした。今日は介護保険のレポートがあるとのこと、実態をよく捉えての頑張りには拍手を送りたいものです。議員さんは何をしていたのでしょうか。

昨日の続きです。金沢の古い小さな料亭で、おどろいたことがあるという。料理をいただいた部屋は落ち着いた、しっかりした造りだ。感心して尋ねてみると、その建物は明治時代に建てられものだが、どんな大雪のときにも屋根の雪下ろしがいらないという。重い雪を長い年月のあいだに、どれだけ載せてきたことだろう。だがどこにも狂いがきていない。朱塗りの壁も元のままで、ひび一本入っていない。ところが戦後に建てた新館のほうは,雪下ろしをしなければもたないそしてすでに何度も補修をしているという。旧館と新館の違いは、大工の腕の差もあろうが、何より、旧館のほうは地元の木を使っており、新館のほうは他の地の木を使っているという違いが大きい。材料の選択もまた棟梁の腕なのだが、地元の木は地元の雪で育っているから、雪の重みに強く、大雪でも、歪みが来ないのだ。漆の場合もそうだ。いまは中国産の漆が使われているが、それで仕上げたものは何年もしないでひびが入ることがある。日本の空気になじまないのだそうです。しかし見かけは国産漆を使ったものと見分けがつかないそうです。
  紙漉きの技術は、はじめから終わりまで、自然に寄り添っている技術である。それは自然を改造したり制圧したりする方向ではなく、つねに自然の恵みをより豊かに受けとるかたちで行われてきた技術改良であったそうで、これは平地の稲作文化でもなく、山の思想だ。山の民マタギや木地師の流れのようだ。たたら製鉄のような高度の技術もともと山の民のものだったそうです。

高田宏著:和紙千年より

2009年4月25日土曜日

和紙千年①


巻物を見てもその紙質の状態を下記のような観点から見ることはなかったが、祖母が漆器類を反故になった和紙でくるんでいたのは覚えています。
正倉院の和紙のように風化に耐えた美しさは1300年天平時代からの光沢を保っているという。
日本に紙が伝わったのは、610年推古天皇18年、高麗より僧曇徴がもたらした。このころヨーロッパにはまだ紙がない。8世紀半ばに中央アジアに製紙工場が、地中海に伝わるのは11、2世紀になり、初期木版印刷の中心だったニュールンベルグでの製紙工場は1391年のことだった。
海外においては大英博物館に保存されている200年前の書籍はほとんどが、風化状態に陥っているようです。西欧には日本の江戸時代で刷られた浮世絵が多く現存しています。これら浮世絵の版刷りなどでできた不良品の紙を、日本から輸出した陶器の包装紙として用い、それらを水に浸し,延ばし乾燥したもので、それらは滲まず、紙の状態も崩れておらず、博物館などで展示されています。このことは和紙の強靭さや保存性の良さの表れであり、日本の掛軸、屏風などが現存しているのも同様だそうです。。
生産の最も多い島根県の石州半紙(楮紙)は地元で栽培された良質の楮を使用して漉かれ、微細で強靭で光沢のある和紙であります。かっては大阪商人が石州半紙を帳簿に用い、火災のときいち早く井戸に投げ込んで保存を図ったんだそうです。(井戸の中でも大丈夫だった)
和紙千年 高田宏より

2009年4月24日金曜日

林望さんの枕草子


林望さんの2週間ぶりの講義でした。
この枕草子が書かれた来歴、著者清少納言の履歴、名前の由来など一切わからないそうです。本も各種あって、それぞれの内容が異なるそうです。
ここでの資料は新潮社古典集成本 萩谷朴校注、であるが、これはこれで独自の解釈ではあるそうです。
第1段:春はあけぼの。白くなりゆく山ぎわ。
     夏は、夜。月、蛍の群舞でもなく、3・4匹の飛び行く姿
     秋は、夕暮れ。風の音、虫の音
     冬はつとめては(早朝のこと)雪や、霜もおりた地面
ここでないものは・・・・・・一番最後に※答えを書きます。聴講生で誰一人分からなかったのですから。
志賀重昂(しがじゅうこう)氏の『日本風景論』のなかでいっているのは、水蒸気が日本の気候を形つくっているそうです。           

「朝→夕」の起点が違うと、同じ朝でも下記のように、朝からなら「あさ」、夕からなら朝は「あした」に変化するし、夕からこそ恋の時間なのだそうです。
      朝        昼           夕               朝
      あさ       ビジネス(情緒がない)     宵・夜半・あけぼの
                           寝ていない(恋の時間):あした
     暁(午前三時、まだ明るくなっていない)
     朝ぼらけ(冬や秋)
     朝あけ:あけぼののちょっと後:6時
     つとめて :人が起床してくる:6時半から7時
恋のことは:人前であらわにしてはいけない。邪魔が入ったり、人目につかないように。
男は女性の元へ通うので 、あしたになったら人目につかないように
周りの人が起き出す前に、女性のもとを離れることが常識とされた。 
季節の移りかわりは日本人の心の中に埋め込まれている。

※答え:昼は退屈な情緒のない時間であるという、宵の薄くらいときが谷崎潤一郎のいう美的感覚は「ほの暗さ」にあるのだという。

第25段:「にくきもの」
だらだら喋る人、硯に入った髪をとりのぞく、病人のための祈祷にやっと探してきた験者(ものの怪もとくに夜に活躍するので、それで疲れ果てるほどに精力を費やした)が眠い声では霊験あらたかではない。火桶で手や足まであぶっている上流の人のみっともなさ。酒飲みのおれの盃を受けろとかのくどくどしさ。
情人がきたときに吠える犬、ギイギイいう牛車(近所でばれてしまう)
情人が、他にも付き合っている女性の話をする。情人がいるときに、肉親がきたので、あわてて隠すがしばらくしてイビキが聞こえるとき、ノミが騒ぐとき、情人がイチンと戸を閉めないで帰るとき、寝ようとしたら蚊がプーンと飛んできたとき。
このように愚痴を書き連ねているが、自分のことが赤裸々にばれている。これは教科書で紹介されていないオツに澄ましているだけイメージとは全く違い、達観した話のように受け取られがちだけではない面白さがあるという。

2009年4月23日木曜日

武蔵野散歩①


古代武蔵野の歌:並木宏衛・武蔵野大学教授
万葉集で東北方面をうたった歌は9首で、内5種で野がつくのが武蔵野だそうです。武蔵野は多摩川、荒川、武蔵野台地一帯の広範囲だった。
当初は都からの道は東山道で上野、下野経由だった。その後は東海道からのだった。
何故ムサシノというかは分からないそうです。古語ではムザシノとサのところが濁音だった。
国の命名の仕方の中央からの指示による混乱=縁起のよい2字をもちいよ。
◎加茂真淵の説;ムサの国(ありはしなかったが)の上・下
ムサカミ(ムをとってサガミ)、ムサシモ(モをとってムサシ)は見事なこじつけ
上総とか下総の上下は文字の上、越前、越中、越後のように前中後は後部分にあるので、加茂の説は無理があるとのこと。
ムサシ=ムザシ、サシは焼くという意味で、焼き畑の名残ではないかというニュアンスは小手指、雑司ヶ谷あたりの名前にもうかがえるという。

【国の命名は良き2字を使えという命令】
●木の国(和歌山)→紀伊(この2字できのくにとよませた)
●泉の国→和泉の国
●毛野(群馬県、けのくに)を2つに分けた。
  上毛野の毛を取って上野、同様に下野
●倭(矮小の連想もあって)→大倭(これでもヤマト)→大和
●伊達は「達」の字だけでも「だて」とよめるのに、「目出度い2字」によって伊達の2字をあてた。
●春日を何故カスガと読むか→ハルビのかすが=ハルビは枕詞であったが枕詞のカスガを春日のふりがなとした読み方になった
●飛鳥も明日香の枕ことばで、今の村の名前も明日香村で字に飛鳥があるそうです。

◆現代の合併での命名はタシテ2で割る方式
国立市は国分寺市と立川市の間にあるから
◆大田区:大森区、蒲田区の合併によるので太田にはならなかった

恋しければ 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の色に出な ゆめ(巻14の3376)
 
訳;恋しく思っているから袖を振っているけれど 受けらの花(おけらという花)のように顔色に出してしまいませんように
※袖を振って示しているのに、顔色にだすなというこの時代の女性の心境はわからないそうです。


http://www.asahi-net.or.jp/~fk6n-ootk/ukera-manyou.htm
◎万葉集でよく出てくる「袖」をふる、袖は手先が見えない位に長かったし、袖は大切な魂がこもる所だった。袖先を切り取って神様に捧げる習俗があった。
◎古代の夢(イメ、ユメで、イとユはゴチャギチャで(言った、ゆったの事例でもわかる)は想う相手が自分を想っているから夢に現れるのだという。夢にもでないのは薄情な証拠だという認識だった。

2009年4月22日水曜日

オバマとカネと偏向と


学習院大学で関連の女子大学の「和」にこんなことが書いてあった。国際コミュニュケーション学科の石澤靖治教授が書かれたものでした。
オバマとカネと偏向と
黒人初の大統領を生み出した点では歴史的であることはいうまでもない。有権者が黒人候補者に対する支持を示しても、実際の投票では白人候補者に投票する傾向(ブラッドリー効果)があると言われていたが、それは米国における根深い人種差別を示したものとされていた。それが白人候補者である共和党のジョン・マケインを指示していると友人の前で語っていた白人男性が、周囲には黙ってオバマに投票したという話も聞いた。だとすれば、今までの傾向のブラッドリー効果とは逆だったことを意味しているという。
この選挙でオバマをヒーロー扱いすることだけでなく、一歩引いた見方で改めてみる必要が2点あるという。
オバマがヒラリー・クリントンと民主党の指名を争った際も、本選挙でマケインを破った際も決定的にしたのは、オバマを決定的したのは圧倒的な資金力であった。選挙CMに相手方の3から5倍以上にのぼった。マケインは連邦政府からの従来通り資金の8410万ドル(84億1000万円)の範囲内で戦った。当初しかしオバマはこの資金を受けることを表明していたが、その後それを拒否して、マケインの2倍以上の圧倒的な資金を投入し、この資金は個人以外にも、周辺組織でも集めるので全体では10億ドルを超えたといわれる。候補者への公的資金の制度は、カネによる選挙への影響を限定的にし、クリーンで公平な選挙を目指すために導入されたものだ。こんご8410万ドルという額も引き上げることが検討されるだろう。
オバマの集めたカネは大口のものもあるが、一般人からの数十、数百ドル単位(それにしても日本の定額給付金の額と比べても凄い額に思える)単で豊富な資金力はオバマに対する国民の支持の証左でもある。しかし結果的にカネのかかる選挙を促進させたことにはなる。
今回報道は大きく偏向した。まずどの情報を取捨選択するという時点でメディアの意志が働き、どのような視点から報じるかということで、メディアの意図が反映される。
それぞれの候補者が不利にならないように細心の注意を払い、有権者の投票意図にゆだねる姿勢を貫かねばならない。だが圧倒的にオバマびいき、クリントン女史批判が明確だったという。米国にある各種のメディア監視組織の調査でその傾向がはっきりしているという。
以前1976年民主党のジミー・カーターのケースでも「偏向」だったということで、事実カーターを当選させたという。しかしカーターの場合は、その4年後「何もできなかった大統領」としてホワイトハウスを去っている。いずれにしても大恐慌以来と言われる惨憺たる米国経済をいかに立て直せるかであるという。フランクリン・ルーズベルト同様な功績を残せるかカーターの失敗を再現することになるのかの動向に関心があるかという。

2009年4月21日火曜日

とける・とき


時間は小生にとって風船のようだと思いますが(長く感じたり、短く感じたり)・・・・

とける・とき
時計というものが発明された最初、時は一瞬の隙間もなしに流れてやまないもの、それに刻みをいれて、そこでいろいろな瞬間を掬いだそうとして「時計」を考えだそうとしたものだろう。大岡信さんは国文学者の大野晋の「日本語をさかのぼる」岩波新書でこの仮説を読んだそうです。
「時」のもとになったのは「とける」という語だったものではないだろうか。氷が溶けてゆく。固形物が時とともに腐敗して、ゆるみほどけ、やがて消えてゆく。そこから、「とける」→「とき」という言葉が生まれたのではないかという考えは実に面白いものだった。日本人には時に「流れ去る」ものとして見る強い習性があるだけに、印象的な「試見」だった。
だから「刻む」時計は、一層日本人にとって珍しく、魅力的だったのかもしれない。
光のくだもの:大岡信:小学館より

2009年4月20日月曜日

合唱団の人物探偵


又従兄弟のH君から招待券が届いたが、一度も会っていない筈なので、舞台にたったメンバーのどの人がそうなのか、皆目見当がつかないながらも、合唱を聞くのと、どの人がという人物鑑定とで、半分づつが関心ごとだった。パンフレットに30名の中央大学の白門グリークラブOBのパート・セカンドテナーと名前と何年卒は分かった。声のパートに相当する部分の観察を始めた。トップテナーにはH家の殿様を連想させる面長の風貌に相当する人はいるが、ご本人のセカンドテナーではないし、まだしっくりこない、そういえば母上のKさんに似てゆったりとした感じの人がセカンドにいるが、もしかしたらということもあったがまだまだである。最後のプログラムのオペラ部門ファウストに入って、以前に読んだ母上の手記にH君が一家で満州の満鉄から帰国するときに、やんちゃな子供だというに書いてあった話を思い出した。その面影も考慮しなければという思いにかられた。そうすると、団員の中でも若い方に入るということで人相を定めてみると、メガネもかけず、血色のよい、髪も黒いあの人が一番該当することに気がついた。そうだこの人に違いないと思われてきた。
全部のプログラムが終了してロビーはごった返す混雑であった。しばらくすると、団員の人も顔を出してきた。それでも声をかけるに逡巡したが、別の団員の方に声をかけ、どの人か尋ねてみると、案の定見定めた人だった。壇上にたつと大きくみえるが、目の前でみても大きかった。早速挨拶して、こちらの名前を名乗ると分かってくれた。人物鑑定の経緯を説明して、いそがしそうなので、面会もおおそうなのですぐお暇をし。失礼してきました。
好きな歌:中心は想い出の歌の中での、水のいのち、中国の歌は大海啊、故郷(海よ、ふるさとよ)、富士山(作詞草野心平、作曲多田武彦)、最後に歌われた、「今日のひととき」、司会の宮本さんはいい声でほどよく気持ちがいい。又伴奏の大庭さんも控え目でいながらハキハキしていたし、常任指揮者の松本さんの丁寧で揺るぎない指揮も見事に感じられました。

2009年4月19日日曜日

緑・翠・碧・青・黒


おはようございます。高田馬場から目白方面の山手線の内側沿いの道は、右側は切手博物館やマンション前には生垣と白いツツジ、左は学習院から下がる新緑、このゆったりした上り道を歩きました。
 交通信号の実際は緑、大相撲の土俵の一角の房も緑なのに、何故青信号、青房といい、髪を緑の黒髪というのか。碧も翠ミドリと読み、紅毛碧眼なども緑眼ともかかれたし、緑陰のことを、翠陰とも書くそうです。どうもミドリはいわゆる緑から青まで、さらには黒の色合いまで広く応用範囲が広い。それで思い合わさることがあるそうです。緑色、すなわちグリーンの色彩を直接着色できる植物染料はないそうです。植物染料から緑色を得るためには、どうしても青と黄の二種の染料を混ぜ合わせるほかはないのだそうで、地球上に緑がフンダンに存在しているのに、この緑の色素を取り出そうとすると姿を消してしまう。緑色を生み出すためには、まるで雄と雌のように、青と黄を注意深くかけあわせなければならない。そこでやっとミドリゴが生まれるということで説明している。
光のくだもの:大岡信:小学館より

2009年4月18日土曜日

やっぱり楽園でした


おはようございます。昨日の三好和義さんの仏像写真展で仏像の名前とお寺をメモしてきて、5分冊の「日本の仏像」を見比べてみました。
あの写真集の値段、通常国立博物館でも2・3千円なので15000円に驚いたのですが、10cm位の美術書などはこの値段は普通です。
事前に本やポスターと実際に仏像を見ると、極端に小さかったりしますし、とくにクローズアップしたものはそのように感じます。
この5分冊は、実際の大きさは人間の大きさと比べてこの位ですよという編集方針です。
これの購入は失敗したなと思ったのは「味気ない」仏像の作り方とかの撮影者の名前がない説明集でした。やはり写真集ならばそれぞれの仏像のこの辺が素晴らしいというところを
その写真家が精魂こめて写し取ったもののほうが感動を与えます。この値段でも高くないのだとおもうようになりました。
写真家の仏像写真は同じ寺の浄瑠璃寺の九体阿弥陀如来でも写真家が選んだ阿弥陀如来の1体と他の仏像との印象の違いも楽しい。
それぞれの写真家の被写体の切り口によって全く印象が違いした。三好さんの写真展はゆっくり拝見したのでこういうことが分かったのですが、それにしても
感度が鈍いことも自覚しました。門前の小僧もいいものを沢山みておかないととつくづく思いました。

2009年4月17日金曜日

「楽園」の仏像写真展


おはようございます。昨日は有楽町に一日おいて又でかけました。一年ぶり再開で、落ち合った先は友人の勤め先の近くで新国際ビルの地下でした。
国際ビルもこの新国際の地下も夕刻からの手軽に飲む所ができていますね。

熱いものですから、上着を椅子にかけていたのですが、それが落ちて気がつかない
で電車にのり、途中気がついて戻ったのですが、ビル全体のシャッターが下りて事情を話してもどうしても駄目でした。翌日に確認の電話をいれ、取りにいった。
2:30でしたが昼食後2;00過ぎは休憩中ですが、大丈夫とのことでした。行くとビニール袋にいれてあり、女将さんから「もうしわけありません。下に落ちていたので見つけるのが遅くなりました。これに懲りずに又おいで下さい」という気持ちのよい応対でした。

有楽町までの次いでで上野の国立博物館で仏像展があったのを思い出し、ネットで調べたら銀座の和光で三好和義氏の仏像写真展があるのでこれを見よう行ってみました。
この16日は丁度最終日で三好氏(50歳・徳島県出身)の気さくな解説もあったのです。障子一枚ほど渋い落ち着いた和紙のパネルにEPSONのインクジェットでプリントしたものだそうです。
吉永小百合、小学館の「サライ」日経のおとなのOFFからの花があった。
テカテカの印画紙ではないので、とても仏像にしっくりでした。仏像撮影は2年目だそうですが、私淑していた古寺巡礼の土門拳もこの和光で30年前に写真展を開いていたという。宇治の平等院、京都の東寺、浄瑠璃、三十三間堂、三千院、法界寺、聖林寺、神護寺、奈良の薬師寺、新薬師寺、室生寺、
機会を見つけて行ってみようとおもったのは関東では東京の真如苑の運慶仏大日如来::神奈川・称名寺光明院:大春徳明王像でした。
この人のテーマは「楽園」http://skygarden.shogakukan.co.jp/sol/rakuen/index.htmlだそうで、次は桂離宮で、ここは月見のための別荘で、この月の灯りで撮影したものが、今までなかったのですが、そうしたシーンの写真だそうです。
    無料の写真展でしたが、さすが和光ですから、 限定2000部の写真集は15000円、パネルの写真(ポスターの半分のおおきさ)は20万円でした。

2009年4月16日木曜日

富士を恋になぞらえて



おはようございます。映画「送り人」をみていて、故郷の山々・田園風景・人情などこんなに素晴らしいところだったのかと思いました。

富士の姿は富士は古代から日本最高の聖なる山として敬われてきた。けれどもたとえば例の山部赤人の

「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽(ふじ)の高嶺(たかね)に雪は降りける」のように崇高な絶景つぃてこの山を詠んだ歌は、日本和歌史の中ではむしろ少数派だったのだそうです。多数派はどんなものだったのか。

    果ては身のふじの山ともなりぬは くゆる思ひの煙絶えねば
        続後撰集・詠み人しらず 
       (宝治2年1248年奉勅、藤原為家撰)
    
    むねに満つ思ひはあれど ふじのねの煙ならねば知る人もなし
        新後撰集・鷹司院按擦(たかつかさのいんあぜち)
        (正安3年1308年奉覧、藤原為世撰)

【富士山=噴煙=胸の火=こいごころ。】
こういう観念連合をもとにした歌が歴代勅撰集の主流をしめている。この場合、「思ひ」という語は古来「思+火」という形で理解されるのが当たり前だったから、火山としての富士山は、実におあつらえ向きに、恋の常套表現に利用されることになった。つまり、「現実の富士」より「言葉の世界の富士」の方が長い間詩歌の世界では重んじられたそうです。

光のくだもの:大岡信:小学館より

1707年(宝永4年)大量のスコリアと火山灰を噴出した宝永大噴火が起こった。この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、江戸市中まで大量の火山灰を降下させるなど特徴的な噴火であった。このとき以後富士山は噴火していない。噴煙が上がっていると恋の歌になぞらえることになったのでしょうか?

2009年4月15日水曜日

ハワイの病院


おはようございます。海外旅行で経験はしたくないが、病院の明るさは常夏のハワイ故だからでしょうか。あるいはこの人は自分を心配症といっているが、楽天的なところも十分に持ち合わせているからでしょうか。
深き心の底より:小川洋子:海竜社

乗り物に弱いせいで旅行は苦手だった。新婚旅行はハワイであったが当初から断るわけいかなかった。
「先生がきてもお腹を押さえても、あなたは笑顔を見せていたでしょ?それならまだ手術しなくても大丈夫。本当に苦しい人は顔をゆがめてうめき声をだすものよ」
とさっさと出て行った。
私は決して,平気だから笑ったのではない。本当は痛くて痛くてさけびたいくらいなのだ。でもそれをけなげに我慢して、先生に愛想笑いをしただけだ。日本では、そういう我慢が美徳とされているのに。
今度はできるだけオーバーに顔中の筋肉をくねらせ、身体をよじりうめき声を出した。すると先生はあっさりと「OK」といい、そのまま盲腸をきるために手術室に連れて行った。
手術のあとはみるみる元気になった。メニューは自分で好きなものに丸をつけ、選べる仕組みで、ステーキやフライドチキンもあり盲腸が再発しそうなものもあった。夕食には必ずワインがついていた。主治医の先生ではなかったが、美男子の先生が病室の傍を通るときには、ウインクしながら私の足先をコチョコチョとくすぐった。小柄な私を子供と間違えているのかもしれなかった。
その後シンガポール、ヨーロッパ、に行ったが乏しい海外旅行経験から得た教訓は「あるものみな美しく、おこることみなよし」ということであろうかと。

2009年4月14日火曜日

新緑の散歩道


おはようございます。ドライブです。車の窓から風を呼びこんでとても気持ちがよい。もうシャツ一枚でも十分だ。
昔の都下はもっとそうだった。清瀬市は結核療養所などを隠すような森のイメージがあったが、西武池袋線の清瀬駅の南側はもう患者を見舞う人もない閑散とした町並みになっている。この道は志木と府中をつなぐ従来からの道です。北側は、都下から埼玉県の東武線沿線の志木市へつながる道は対象的に明るく、ゆき柳や連堯がのぞく生垣にかこまれた古い民家も、黒い瓦屋根で壁も版画でえがかれているような、大根や干柿を吊るすと似合う白壁もある、道も欅並木が続く。桜が散った畑は端境期なのか裸土のままで、風が吹くと土埃が舞う。ところどころに花ニラや菜の花が浮き立つようにさいている。最近建てた民家も家族数の倍もの部屋がありそうな大きさで、設計もそれぞれ工夫され、磨かれた大きな窓である。その窓に映る位の高さの雑木林は覆い尽くすほどになっている。その緑も、葉の産着を脱いだばかりの初々しさだ。
しかし高い高い欅の葉はまだ幼子の手先のようだ。その枝先から青空が高く高く見え雲がながれてゆく。雑木林はやっと通れる位の幅で続いている。そこを行きかい散歩する人の顔は新緑の顔である。お互いに爽やかですねと気持を交わしては、皆満ち足りた顔になっている。桜がすぎて、もう新緑の散歩になっている。

2009年4月13日月曜日

挽歌


おはようございます。雑木林の新緑がとても美しい。農家の欅の見上げるような大木も新緑が風を受けて揺れている。その風の中を
散歩する人の顔は春の顔です。
武蔵野地域自由大学で林望さん(http://www.rymbow08.com/profile.html)の講義の万葉集についてです。
万葉集:の歌は3分類
雑歌(宮廷の行事のとき詠われた)
相聞(恋歌)
挽歌(死者に対する恋歌、ここが西洋と違う)
肉体は魂の器、うつつ、たまもり(魂が肉体から離れての自由行動)、たまげた(魂が気絶)
死ぬ間際のときは肉体から出たり、入ったり不安定で夢うつつ。死んでも魂はまだその辺にいるだろう。西洋では一度のおわかれ、日本は通夜と葬儀と2度ある。
通夜は故人のことを思い出して話をする、それはこの世に戻ってくることもあると信じていた。同様に「蘇る」も黄泉の国・あの世から戻ってくるという考えで、2回目の葬式もあるのだそうです。ヨバウは、みんなで呼べば、戻ってくるという考えだそうです。
通夜では「お前が好きだったよ」と想いを話す。このような延長が挽歌だそうです。
巻七1408:秋山の 黄葉(もみじ)あはれび うらびれて入りにし妹は待てどきまさず(作者不明)
(紅葉があまりにもきれいで心動かされて、出かけていってしまった。あまりにも森は茂っていていて山の道がよく分からないのだ。ああ・・・戻ってきて欲しい。)

2009年4月12日日曜日

お別れ・・・古事記


おはようございます。昨日は高校時代の同級生のHくんが大腸ガンでなくなったので、6人で霊前に線香をあげにいきましたがその中で2人もガンになった人がいたが、早期発見し、最初から全部摘出などで経過は良い人であった。故人は医療関係の仕事で医師同様の知識があって延命治療(投薬、放射線など)一切拒否だった。   もう一人M君は一番親しかったが、まだ納めきれないのでしょう。遠慮したのだと推察する。
   冥福を祈ってきました。

武蔵野地域自由大学で林望さん(http://www.rymbow08.com/profile.html)の講義がありました。
夏目漱石のような風貌でしかも愛嬌のあるかたでした。以前本もよんでいて同大学で講演を聞いたことがあった。申込者多数の場合は抽選で90人の定員に対し、2.7倍の応募で当選した。
古事記と万葉集について:5回分の講義でやっとの量を1回の講義でという大車輪であったが、とてもわかりやすく興味深いものだった。
古事記:最初のところにはさまざまな神々の名前が出てくるばかりで出来事がないように見えるが、よく読み解くといろんな話が織り込まれている。大昔に天地が初めて発生した時、混沌としていて生卵でも垂らしたように天と地が分かれた。この天は中国からきた思想でもある。
天の神様は地の神様に命令した、固めてキチンとしなさいと。
神話の中にはエロティックなことがウッスラと浮かんでくる。
お互いに裸になって体を点検し、男の出たところ、女の凹んだとこを合わせてみようと。タブーや不道徳視することもなかった。このころ男尊女卑の思想はなく、天照大神のように女性尊重で、稔りをもたらす神だった。コウノトリが運んできたとか、処女懐胎のようなことではなく、誠に合理的で男女の和合で生まれるという話。二人神になるといろんなものを生み出してゆく。
【面白い参考事項】
結ぶ:大木や横綱の注連縄、おむすび(たましいを込める)
大木には神が宿る(門松や能舞台の松も春日大社の影向の松も)
高砂の松も神が寄りついているそうです。高砂や・・・の老人の男女が出てくるが、沢山の子供を育ててきた故に老夫婦はめでたいものであるという認識があったので老人を大事にした。
独神の場合は身を隠し、二人神(男女対の神)は世にでて来る。
彦は男神、妹は女神、
杭:家を建てるときに打つ、古代にあって非常に大事な聖域
宇比地:泥のこと、洲は砂のこと
斗:と:何かの出入り口、港:みなと:水の入口
ハニ:陶器
わたつみ:渡ってゆく海
山は崩すな:木を切っても、また植えて再生産の態勢を整えている。
面だる:人間の容貌をつかさどっている神もしたし、大便、小便も肥やしとして地に戻し、いろんなものを生みだした。どこにでも何にでも神様はいた。
(岩波書店:日本古典文学大系「古事記」上巻から)

2009年4月11日土曜日

ミニコミ紙の取材の極意と 映画


おはようございます。昨日は「シニアかわら版」の【医療】について医事ジャーナリストのIさんという人にあって色々なアドバイスを受けた。
地元の読者に分かるような記事を書くには、いろいろな新聞や雑誌にのっていることを集約し転写するのでは面白くなく、地元の医者、看護師、薬剤師に
恐れずにあたって聞いた話のなかから「これは面白い・役に立つ」という記事をそれも広角でなく、欲張ってあれもこれも書くのではない。まず焦点を絞りなさい。しかしここは大変難しい。
これは日頃から関心があるといろいろ見えてきて、それ集めて100のなかから疑問点を見つけ、聞きだしたことを書きなさいという事だった。
何事も日頃のあり方が問われるようだ。、極意は足で稼ぐことのようだし、その道のプロからいかに聞き出すかのようだ。

数日前にNHKでみた映画は痛快だった。
衛星映画劇場「ショーシャンクの空に」 <字幕スーパー> <レターボックスサイズ>

                      <字幕スーパー>
                  <レターボックスサイズ>
  【監督】フランク・ダラボン               
                              
                          【出演】
                      ティム・ロビンス
                    モーガン・フリーマン
                    ウィリアム・サドラー
                            ほか
                              
  ~1994年 アメリカ                 
     キャッスル・ロック・エンターテインメント制作~  
                              
【製作】ニキ・マービン                   
【脚本】フランク・ダラボン                 
【原作】スティーブン・キング                
【撮影】ロジャー・ディーキンズ               
【音楽】トーマス・ニューマン                
【原題】THE SHAWSHANK REDEMPTION  
どこかにある圧迫のない世界がないか←→終身刑であっても希望や夢をもつ→それらは期待を裏切ると言う気持ちのせめぎ合い。
アンディという刑務所では「銀行家」と呼ばれている。その親友は黒人でレッドという何でも調達の名人だった。このレッドにアンディ好きな趣味の石を割るカナトコと女優のポスターを頼み入手した前段の話から始まる。刑務所は時間のかかることには囚人たちは特に好んだ。このことが遠大な仕事を実現させることは映画の おわりごろに分かった。
アンディは全く無実の罪だった。まずアンディは何万ドルもの財産が転がりこんできた看守長に多額の税金を回避する極意を無料でコンサルして、見返りに屋根の修理に応募した10人ほどの仲間にビールをポケットマネーで飲ませてくれた。次は他の刑務所の職員の野球チームの監督、次は刑務所の所長にも節税方法を伝授し、なくてはならない存在になっていた。そこで所長が抜擢したのは仕事の楽な図書館係り兼所長の秘書役も任された。6年も費やして、囚人が望む図書費を支出することまで承認させ、これほど短い時間で議会を動かせるということに仲間や所長も実力に納得。この所長は刑務所外部での囚人による仕事の利益の大きさに期待し、仕事を欲しがる業者が持ち込む賄賂のマネーロンダリングと安全な預金方法を教えた。
それは夢多きハッピーリタイアを実現できる50万ドルにまで達している。そのころアンディが無実である証拠を持った新囚人が入所してきた。そこでアンディは所長に無実の実現への援助をもとめるが、不利な証拠を握られているので出所させてはくれない。それどころか新囚人を脱獄したというデッチアゲで看守長に命令して射殺させる。それを事前に予測していたアンディはあのおもちゃ程度のカナトコで500mものトンネルを作っていたところから、雨の中脱出し、警察犬も追うことができなかった。安全に預金された方法で50万円を銀行で入手し、難をのがれ、国外脱出しメキシコへ。刑務所は40年も入所していたがメキシコはパラダイスだったし、レッドも間もなく仮釈放となり、聴いていた謎を隠したところに行くと、アンディの待つ場所が分かりそこに辿り着くことが出来た。一時は新証人も射殺され、世の中の現実は厳しく、やはり夢は無理だと思わせておきながら、痛快なストーリーが展開されたのだった。

2009年4月10日金曜日

小川洋子さんのインタビュー


おはようございます。桜が終わりかけてきたら、鈴蘭でしょうかスノーフレークでしょうか目についた。また梨畑には白い花が、ゆき柳もいずれも白い花が目立ってきた。
気温はもう夏に。屋外においている車のハンドルも熱い。

アンネの日記を書いたアンネ・フランクが亡くなって60年になるそうです。ミープ・ヒースさんは、フランク一家を初め、隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人を支援していたグループの一人だった。これから彼女の書いた「思い出のアンネ・フランク」を読むことにしたい。  
小川洋子さんの紹介を読むと、まず一番は食べ物だった。オランダではユダヤ人でなくとも,食料を手に入れるのは難しくなっていたが、配給切符のない8人分を確保するために、あらゆる店を回り、長い時間列にならんだ。勤めをもち、家庭もあり(驚くことに自宅には抵抗運動家の大学生を匿っていた)戦時下で自分たちの生活を守るだけでも大変なのに、彼女はけして弱音を吐かない。誰かの誕生日には貴重品のバターで小さなケーキを焼いて届けたりしていた。8人は食べ物だけでなく情報にも餓えていた。みんなを絶望させないように、慎重に言葉を選びながら、それでも真実を語った。そんなとき、ミープさんにまとわりつき、一番たくさんの質問を浴びせたのはアンネだった。

1944年8月4日隠れ家を襲ったゲシュタポは紙くずのようにアンネの日記を床にばらまいていった。それをすばやく拾い集め、戦後オットー・フランクが帰ってくるまで保管していた。
1994年の夏小川洋子さんはもう既に80才半ばを超えていたミープさんにインタビューに伺った。老いた雰囲気はなく、キチンとしたスーツ姿だった。「さあ、何でもお聞きなさい」ミープさんには特別のことをやったという意識がなかった。日記を救った功績の大きさをいくら称えても、けしてその称賛を受け入れようとはしなかった。気負いなく、人間として当然なすべきことをやったに過ぎないことを繰り返すばかりだった。
インタビューが終わり、ミープさんとお別れのキスをして、アパートの階段を降りるとき訳も分からず涙がでそうになった。
『アンネの伝記』の後書きに、ミープさんは印象的な一行を記している。・・・・・私にもアンネの命を救うことはできませんでした・・・・・
彼女の心の根底を占めていたのはこれだったのだとようやく気がついた。
小川洋子著:「深き心の底」より

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF

2009年4月9日木曜日

記事拾い


おはようございます。昨日は「シニアかわら版」の編集会議でした。次回は「歩く」は健康維持でのテーマですから、記事は書きやすいが、その次の医療のテーマは専門の医師でもないので、
難しいので悩んでいる。雑談の話では記事にならないが、患者の立場から、医事ジャーナリストの意見も金曜日に拝聴しようということになった。

市の継続提案事業(3年目を迎えている、これで補助金機関は終わる)の発表会がありました。
1つは西東京市花の会の「オープンガーデン」でした。散歩の途中で素敵な枝垂れ桜だなとか、バラの香りが匂ってくることがあります。そういう素晴らしいご自宅の庭をみて交渉して、市民の人にも公開してくださいという事業だそうです。もうそのガイドマップも配布されています。雑誌にもこの運動が紹介されていました。このことによって自分の庭も飾ってみようという刺激をあたえたいという。もちろん市役所や公園に花を植えることも実行されています。それぞれの市民が自分の庭もきれいにすることで市全体が気持ちのよい街になうように努力されている息の長い事業です。これら事業への補助金20万円(オープンガーデンの表示ガイド看板の交付だけでも経費がかさむように思いました)

2つ目はMec西東京と協賛は西東京ハチドリの会でおこなわれている「西東京市にほたるを ふるさとの清流の復活」~地球温暖化防止対策環境再生事業でした。石神井川の定期清掃、川沿いの各家庭からの排水の改善を呼びかけながら、流域全体とも連携を図っている事業でした。
審議は4名の女性の市民代表の広い見識によるもので敬服しましたし、2団体への応援メッセージもあったように感じました。
また副市長、福祉部長、企画部長、教育部長も参加されていました

2009年4月8日水曜日

会計報告


おはようございます。昨日も市ヶ谷で仕事なので、1分先の千鳥ケ淵まで昼休みに桜見物です。東京ドームの何倍もあるような広さで、スタンドには桜、グランドは皇居のお濠で一面の桜です。
お濠のボートに長蛇の列、水面からこの桜を仰ぐのが一番の絶景ポイントのようですね。

4月は年度がわりなので会計報告の時期です。市の提案補助事業の決算書をすぐ出しなさいということで、おおわらわで作成し、事前確認に出向いた。195700円の補助に対して、230000円の結果ものを相談したところ、累計で20000円位の領収書なしのコピー代は残念ながら認められないということだった。それでも補助額よりは支出が超えているので問題はなかった。また全部領収書のコピーを添付しろということであったので、その分のコピーと、実物も照合するので持参くださいということであった。公的資金を利用すると、添付する領収書のコピー代のほうも結構な額になる。決算の指導が窮屈であるが、公的資金なのでやはり仕方のない部分もあるのでしょうね。今回添付した領収証には30円の印刷原紙代とか、コピー代もありました。

2009年4月7日火曜日

片側句会



おはようございます。昨日は都下の西、あきる野市の光厳寺の樹齢500年の山桜をみにいったが、未だ蕾の段階、お墓参りの人は母上の命日できたのだが、いつも遅いという4月末でないかという。
又の出直しですが、そのしたの戸倉小学校の校庭の桜は見事なものだった。

ほとんど毎日Mさんから俳句が送信されてきます。江戸川区の句会に入っていて毎月の嘱託OB会でその成果をみせてくれる。
こちらは俳句マガジンで送られてくるものを転送し、作る才能はないので、もっぱら鑑賞側にまわってMさんの句を楽しんでいる。それが結構たのしい。

今日の一句
しやぼん玉
ゆつくり息を
吹き入れて


日曜日に狭山市に桜を見に行ったら、子供等がシャボン玉を吹いていた。
小学1・2年の姉と3.4歳の男の子であったが、このそっとが出来なかったので。小さな玉ばかりだった。
ある年齢にならないと「そっと」吹いて大きくはできないのでしょうね。小玉は池の水面を走っていた。
それがカワセミのように飛んでいた。そこには翡翠を写そうと望遠レンズの砲列が待ち構えていた。

2009年4月6日月曜日

砦跡の桜



春眠暁を覚えずになってきました。
郊外の桜にゆったりを期待したが、そうでもなかったがのんびりできました。

埼玉県狭山市に2つの大きな公園がある。ひとつは智光山公園・都市緑化植物園、もう一は稲荷山公園がある、どちらも駐車場が溢れるばかりだった。
前者には桜が沢山咲いているが、まだ樹齢20年位、舞台があって祭囃子が入間市と狭山市の両連が競いあって、小寒い風景を暖めている。満開の桜に囲まれて池があり池には望遠レンズが7・8台列をなして、翡翠を撮影しようとシャッターチャンスを狙っているが、小生の近くの武蔵関公園のように、桶に小魚をいれたような仕掛けはない。ここには出店も焼き芋屋しかいない。中にはテントと椅子セット、焼肉セットを持ち込んでいる用意の良い親子もいる。一周して戻ってくると、休憩にはいって、カメラだけが待ちぼうけ。そのかわりやはり七色のシャボン玉が池面の上を音符でも書くように風に上下しながら姉・弟が飛ばしている。
もうひとつの稲荷山公園は空地がないほどの混雑であった。道を挟んで反対側に駄目元で入ってみると、そこはゴミの焼却熱利用の市営複合施設サビオ稲荷山(TEL04-2953-0573)の無料駐車場はガラガラで、大浴場もあり市外の人でも370円で利用できる。稲荷山公園駅と博物館からもわずか1分の好立地でそこの喫茶店でゆっくりできた。http://www.sapio.ne.jp/

もうひとつの見どころは柏原地区にある中世の小高い城山砦跡(上部は平たんで片方が急傾斜)でその上部の所に誰も来ない桜並木これは樹齢30年だろうか。ここではのんびりできた。

2009年4月5日日曜日

観桜会の幹事役



おはようございます。
先週の火曜日に市ヶ谷駅から三番町に向かうときに東郷公園(あの日露戦争の時にバルチック艦隊を撃滅した元帥に関係あると思います)がその中を近道するために通過した。入り口に8:15分さしかかったとき、ブルーシートをもった若い2人の男子サラリーマンが満足気に出てきた。
近くには評判の皇居の堀の千鳥ケ淵(奥まって戦没者慰霊碑もある)や東京の開花宣言の指標観測される靖国神社の境内では50軒はこえる屋台もでている。こうしたところではなく、しっとりと会社の仲間だけで観桜したいグループもあるのだろう。
この東郷公園は200坪位で桜の木は10本もないが、中央に5mくらいの段差があるので、2区分され下段のほうは風を遮る壁にもなっている。この公園のなかに15畳位がとくに見事な桜の木下に2つ陣取ってあって飛ばされないように要所には重しを載せている。桜の宴にはトイレが近いところがよい。それにここのよいところは隣が九段小学校で夜でも迷惑にならないし、公園のトイレよりさらに綺麗なトイレ先の図書館が1分先にある。これはコンビニも1分で理想的な立地である。彼らはこういう場所を選んだのは先輩の助言もあったかもしれないが、夜の照明の位置も考慮されていた。朝出勤前に場所の準備も終えている。彼らの職場はきっと楽しい職場ではないかと想像された。

2009年4月4日土曜日

口角をあげる


おはようございます。桜の花も長持ちしています。しっとり咲いていた秋川の光厳寺の山桜がみたいと思っています。

好きな音楽が多い人ほど脳を活性化させる機会が増える。モーツアルト効果というのがあるそうです。「モーツアルトを聞くとIQが10上がるという研究です。その後好きな音楽で同じ効果が得られることがわかりました。何故かというと、脳の中には食べ物や飲み物、生き物として必要なものを得たときに嬉しさを感じる回路があるそうですが、それと全く同じ回路が好きな音楽を聴いたときにも活性化されるそうです。好きな音楽が多い人ほど、脳を活性化させる機会が増える。世の中に宝物が増えるようなもの。それぞれの人にとって「島唄」や、バッハでも、算数でも足し算が解けた嬉しさでも、アインシュタインの相対性理論を理解できた場合でも、自分が凄いと思えるなら効果があるとのこと。

口角※を上げるだけで楽しい気分に:脳と感情の不思議な関係であり、どれほど多くのことで楽しむことが出来るか。それが成熟の現れだと。
同じ物語を読むときにも、笑うような表情で読むのと、つまらなそうな表情で読むのとでは、楽しさが違うという有名な実験がある。読む筋肉と脳が結びついていて、顔の表情がフィードバックされる。米国では眼があうと、にっこり笑いますよね。あの習慣と米国の楽観性とには関係があると思うんです。感情って案外、体と深く結びついている。体調が優れないと気分も感情もあれてきますよね。感情というのは人生なにが起こるかわからないという不確実性に脳が適応するために進化してきたといわれているんです。脳にも生活習慣病があるそうです。中高年になって偉くなって送迎の車が来て、秘書がなんでもやってくれるような人、これは自ら脳の成人病になる道を選んでいるようなものなのだそうです。
大事なことは好きな音楽や絵や映画や人に会って話をすることは脳にとって大切な時間になるそうです。

※口の左右
アーバンライフ・メトロ2009.4NO65の14p
茂木健一郎(詳しくは「脳を活かす生活術」「音楽の捧げもの」)

2009年4月3日金曜日

Fさんのこと


おはようございます。
Fさんのこと:歳をとれば出不精になる。ところがFさんは一日たりとも家にじっとしていることはない。図書館や公民館や町の人が集める行事などあらゆるところを効率よく利用して一日を上手に過ごしている。身体にいくつかの障害があり、近年ペースメーカーも装着されている認定1級の障害をお持ちである。
また顔を合わせて時に心配があるという。ご本人は奥さんを亡くされて14年目の87歳で病院に入院した場合に預金を事前に下ろして支払の準備をしなければならない。
権利擁護センターに期待したいのは、依頼して即刻に準備してもらいたいということらしい。姪も非常呼び出しのボタン先になっているので、権利擁護センターとしても連携したい旨の相談をするために、市のセンターが姪御さんに電話したがために、仕事中の姪が非常に心配した。Fさんは自分の方で準備を整えたい考えだった。
本人は非常時にセンターへ依頼してお金の準備をした上で姪御さんに連絡を取る方法を望んでいる。
例えば同じ状況に置かれている人が仲間になって安否確認をするとか、すでに実施されているリボンメール(日曜日は休み)の交換システムは応用できるように思われる。

2009年4月2日木曜日

思い出横丁


おはようございます。弓の会でも29日に観桜会の予定が咲き具合がまだまだなので、見送ったとのこと、でも1日の日でも運動公園の桜もまだほんのりの程度だった。
新宿の西口の北方向に思い出横丁という飲食街がある。出かけに言われたことは「外で夕食を済ませてください」なので、中華と飲み屋をかねているG店に立ち寄る。このウナギの寝床状のG店は両道に跨っているので、中間にかなりの段差がある。中央にコックさんがいてカウンター席しかなく、周囲にはいろんな年代や服装も様々であるが最近客層が飲む予算を抑えているようで、いい身成りが目立っている。ビール(瓶だけ)等を飲みながら煮込み等をつつく。若い男2人は仕事御苦労さんの話、中年男連れは小学校の教育の話、向い側では一人客もいてコックさんとスポーツの談義中、こういうのを見ていると、それら人の人生を勝手に想像するだけで面白い。入れ替わりに若い夫婦は酒なしでチャーハンだけ、どの人も楽しげな表情でした。山形にいる叔父の上京時に、又劇団の叔父もこのような所が好きだった。山田洋次郎監督もこんなところでネタを拾っていたのかもしれない。

2009年4月1日水曜日

協働


おはようございます。靖国神社や千鳥が淵など桜はまだ3分咲きですが、相当の混雑ぶりでした。夜桜もあるそうですが、その照明はエコのため、太陽電池によるものだそうです。これによって電力消費は10分の1
になったそうです。その太陽電池はある大企業の寄贈だそうです。

西東京市にもセンターができる前に経過を知る意味で、趣旨説明会があって参加したことがあった。そこで知った言葉「共同」ではなく、「協働」という言葉だった。実にいい言葉に感じました。しかし具体的にはよくわかりませんでした。公民館の芝久保祭りでも「集い・絆」の合言葉で行われました。この度のボランティア活動センターの「ウオーキングでエコ西東京2009」に参加して「協働」の意味が実感できました。
芝久保祭りは、芝久保地区が中心ですから、そこの地区の常連の発表が館内でした。そこでの集客はもう歴史が26回もあって周知しやすい。その点今度の初めての企画・ボランティアの集いの「ウオーキングでエコ2009」を知らしめることが大変難しい。しかし初めて顔を拝見した方々でしたが、今自分達で楽しんでいる歌・手品・花栽培などの活動と、模擬店の赤飯、お汁粉、綿あめなど、エコのキャップ収集がそれぞれ一同に会することでオーケストラのような響きになってくることが分かりました。少ない参加者でしたが、毎年継続することによって「実のある協働」になってくることでしょう。