2009年11月29日日曜日

先祖は皆同じ?



おはようございます。
細川佳代子さんの「花も花なれ、人も人なれ」という書籍から。
高田好胤先生から言われたこと:25代前で遡ると、あなたの先祖は何人になるか知っていますか?
一番身近な先祖は父と母で2人、2代前は4人、3代前は8人。次々数えていぃと25代前は、もう数しかわからないが、三千三百五十五万四千四百三十二人になるという。
司馬遼太郎さんが細川護煕家の菩提寺を案内されて驚いたのは、「夫婦が仲良く同じ大きさで並んでいる御墓は見たことがない」(直江兼続もそうだそうですね)とおっしゃった。江戸の初期に男女平等で仲良く並んでいる藩主のお墓はみたことがないということだそうです。
「細川家の歴史は南北朝から始まって室町、戦国、そして江戸、明治、と世の中がぐるぐる変わって戦が激しい時代に、よくもまぁ生き残りましたね」とおっしゃった。武将の家で細川家より長生きしている家は鹿児島の島津家だけである。外様大名だった加藤清正は熊本城主だったが、改易にあって2代で消えてなくなっている。
ところで「細川家には何かこのように家を存続させるための代々申し送られた特別な教えがあったんでしょうか」とお聞きになった。父は「それは家来に恵まれたからです」と答えた。間髪をいれずに、「細川先生、よい家来を育てるのがトップの一番大切な役割ですね」
それから父に教わったのは、細川家は文武両道の家、これは際立っていたそうで、このことが大名の中でも細川家が一目置かれたことと、文を大事にすることは情報収集にも力を入れてきたことを意味するそうです。

2009年11月28日土曜日

変な話をこえて、大変な話



おはようございます。
最近それぞれのマスコミの報道が相当に違ってきているとのことです。にわかには実感できないで、戸惑うばかりなのです。昨日業界紙の記者に聞いた話をお知らせします。

変な話です。まことに変な話です。
新聞などの記事というものは、事実を独自に取材した上での記事であるはず、それが長年記事は情報源の多い官庁からの提供(記者クラブ)によって記事が書かれていた。
それが民主党になって情報操作をするということで官庁の提供による報道の材料提供は遠慮すべきという歯止めがかかった。そのためにおいそれと官吏は提供できなくなったし、報道関係者は全く困ってしまっているという。それで、業界専門誌の記者は独自の取材をかさねているので、報道関係で強みが評価されている。というのは独自の取材をしてこなかった大手の報道関係者の思考停止といわれても仕方がないのですが、日本メディアは『我々の記事についてどう思うか』と米国の「ニーズウイーク」の記者にたづねたというなのだそうです。事実、いままでどの新聞も、一面の扱いでも統一見解の報道内容ほとんど類似していたのがバラバラになったそうなったのもそういうことに起因しているのだそうです。
円も円高になっても、日銀当局がこの円高判断を示さないのも、独自の見解を示す気概もなければ迷うのも当たり前と言われ、やはりそうだったのかと思います。当分どの報道機関や色々なブログが今後について予測する事実がどれほどしっかりしているかを見極めるには、其々の読者も努力するしかないのだという。
それこそ変な話をこえて、大変な話になっているのです。
これらの内容を知るにあたって参考になるのが、「主観恐怖症の日本とだいしてモジャックス Zopeジャンキー日記」だということです。いろいろなブログの価値判断は相当な努力によって判断が必要になる。
http://mojix.org/2009/10/11/shukan_kyoufu

2009年11月27日金曜日

自然は未来の子孫からの借り物


リンゴが送られてきました。故郷の匂いや味や思い出が凝縮されています。手にもってもズッシリと手ごたえがあります。
歯触りもシャキシャキしていて一味ちがいます。

私たちが作っている「シニアかわら版」※という新聞についての取材があるそうです。
※http://kirattokawaraban.seesaa.net/category/6045300-1.html

 ☆TBSラジオ取材のこと
  WAM※2の番組で「メイコのいきいきモーニング」の制作会社が12月25日定例会に取材に
きます。毎週日曜日の7時45分から15分間の番組として放送されているようです。
       http://www.wam.go.jp/wam/gyoumu/kikinjigyou/index.html

※2は厚生労働省の傘下の団体から、応募したら新聞発行について200万円の資金提供があったものです。

ハワイ:山に入れば純白のハイビスカスの原種や、首飾りに使うククイの実を拾ったり、熟して落ちた甘いパパイヤを食べたりすることも出来る。名前の分かる植物はほんの一部。見たこともない不思議な植物によくでくわす。しんとした森で、頭上からまるで天使の羽衣の切れ端のような大きな花びらが、ヒラヒラ舞い降りきたりすると、どの木だろう、どの花だろうと探しても見当たらない。本当に妖精がいるのではないかと幻想的気分になり、自分が自然と一体化したような神秘体験をすることがある。古来の人々がもち万物に霊が宿る、といった信念は当然としか思えなくなる。そんな訳もあってか、彼らには物の所有の概念がなかったという。「タロ芋1個と魚何匹」といった等価の概念がないから、欲しいものがあれば手持ちのどんな物とでも交換してしまう。昔は世界各地で「無言貿易」というものが行われていた。言葉が通じなくても、または顔を合わせなくても物々交換が出来た。ある場所に手持ちのどんな物を置いておくと、いつの間にか別のものに置き換わっている。そんな時代があったのだ。そんな所有概念の薄いハワイの古来の人々に、1948年、“グレート・マヘレ”という土地改革が行われ,すべてのハワイ人が土地をもつことになった。土地は皆のもの、という感覚しかなかった彼らは土地所有に不慣れで、結局手放して白人たちに渡り、そこがパイナップルやサトウキビ畑あるいは牧場になるまでそうは時間がかからなかったという。一方、そんな自然と一体であった彼らには部族を維持させる仕組み(つまり権力や武力)がどうしても必要とされてしまう。民主制度と貨幣経済の中で育った私としては理解しがたいジレンマである。他文化から技術・思想(宗教)・信条(価値観)の流入は一時的な安定をもたらすが、やがて生じる避けがたいストレスは現代でも世界で起きている民族紛争をみれば分かる。「先進」はなにか大事なものを埋めてしまうのだろうか。
地元の労連なダイバーの言葉、「自然は未来の子孫からの借り物なんだ」。いつも我々が口にしている「自然は未来の子孫への遺産」という考えより一歩進んでいるようで、とても新鮮に思えた。

西東京市にある「自然をみつめる」会報2009年9月VOL69より

2009年11月26日木曜日

スペシャルオリンピック(OS)



おはようござます。
昨日は国際仏教大学院大学で仏教入門講座でおシャカ様の前世のジャータカ物語のルル鹿前世物語を拝聴しました。http://www.j-theravada.net/jataka/index.html  いろんな説話があります。なぜこういう話をももっと広めないのか不思議
でした。大唐西域記などにも同話・類話があるようです。

花も花なれ、人も人なれ:細田佳代子(元細田首相の奥様)より
細川夫人はなかなか素敵な人です

パラリンピックは身体障害者の大会で知られていますが、スペシャルオリンピック(SO)はあのケネディ大統領の妹ユニスによって1968年創設された。

ケネディ家には9人の子がいたが、長女のローズマリーは知的障害者だった。両親はこのことを長く世間に隠し、ユニスは家族揃っておめかししてでかけるときに、いつもローズマリーだけがお留守番をしていなければならないのが不思議だった。ついにローズマリーは施設にいれられ、症状がさらに悪化してしまう。成長したユニスは両親の判断に疑問をいだいて、兄のJ・Fケネディの同意を得て、「サタデー・イブニングポスト」という雑誌に公表し、今の知識があれば避けられたケネディ家の不幸を綴った。ユニスはただちに知的障害のある子供たちのディキャンプを始めた。ユニスは知的障害のある子どもたちがスポーツを通して笑い始め活発に動き出すことに気がついた。このことで確信をいだいたユニスはケネディ財団を通じて、全米の各大学や地域団体が同様のディキャンプが行えるような財産支援を始めた。それがSOへと結実した。
第10回夏季世界大会でのユニスのスピーチ。
あなたがたは30年前100mも走れないと言われていた。しかし今日あなたがたはマラソンも走ることが出来る。
30年前あなたがたは施設にいればいいと言われていた。
しかし、今日あなたがたは世界中のテレビに映っている。30年前あなたがたは社会貢献など無理だと言われていた。」しかしあなた方は人々の心をつなぎ止めている。これは決して奇跡ではありません。あなたがた自身の勇気と能力と意志が勝ち得たのです。と。

2009年11月25日水曜日

花も人も


おはようございます。今朝は長男が台湾旅行で、田無駅5:20分集合で、電車もまだなので、車で見送り、駅前でも夜間の目印の照明はコンビニのみで、交差点が暗く、メイン道路が裏道にみえて戸惑いました。出迎えのバスも駐車して待つことが出来ず、1分前にぴったり到着でした。

花も花なれ、人も人なれ:細田佳代子(元細田首相の奥様)より
細川夫人はなかなか素敵な人です。

よかれと思ってやった一生懸命するのだけれど、それが相手によくない結果になってしまうのはどうしたらよいでしょうか」と自分の胸の内を話した。高校時代から、誰かに好かれたいと思ってやっているわけではないのに、八方美人と批判されたりして、一生けん命したことが受け入れてもらえないことがよくあった。すると高田好胤先生は「あんたのあるがままの、そのままでいいんだよ」と言われた。そんなに悩んだり、苦しんだりしなくとも、仏様というのは、「その人の犯した罪を全部まるごと救ってくださる」それが仏様の教えなんだと言われた。私は「ええっ」とびっくりしてしまった。カトリックの学校教育が厳しかったので、罪を犯したら地獄に落とされると思い込んでいたからだ。
身体障害者のパラリンピックとは別に、知的障害者が参加するスペシャルオリンピック(SO)があることを初めて知った。10歳の女の子が世界大会で銀メダルとあらかるには、その少女は天才に違いないと思った。しかしその記事にあった古本とも子ちゃんの体操のコーチ、中村勝子さんのコメントが心に残った。「このオリンピックはベストを尽くし、ゴールまで頑張った選手はみんな表彰されるのです」「それではどうして銀メダルなんだろう?」チラと疑問がわいたが、そのときはそのままになった。それから3ケ月後「りぶるの会」の研修会で、たまたま国会議員の講師の都合が急に悪くなった。それに代わる人として中村勝子さんにSO夏季世界大会のお話を聞くことになった。
ボランティアといえば、ミッション、パッション、アクションに加え「ウ゛ィジョン」に広がる目から鱗が落ちる」ことを伺った。SOとは知的発達障害のある人たちが、スポーツを通して自立と社会参加ができるようになることを目指す国際団体で日常的なスポーツプログラムと競技会を提供している。世界大会のメダルは「もっと強く速い人に与えられるのではなく、可能な限り自分に挑戦し努力した人」に与えられる。

これはあのケネディ大統領の妹ユニスによって1968年創設された。

2009年11月24日火曜日

日韓交流



おはようございます。トトロの森に隣接する八国山緑地という東京都東村山市と埼玉県所沢市の境の丘陵にモミジを期待していきましたが、まだまだ里山なので、うっすら色ついたばかりでした。古戦場※だったところだそうですが、全くそいう感じはしませんでした。
※:http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index084.html

WORLD CUP杯  沢木耕太郎より

日韓同時開催のワールドサッカー、来る14日の韓国対ポルトガル戦ではどちらを応援しますかと、韓国の新聞・東亜日報の記者が二人の若い男女に質問した。一人はもし韓国が負けてしまうと韓国におけるワールドカップの熱気が下がってしまうから韓国に勝ってほしい、というものだった。」それにたいして、もうひとりは韓国にも勝って日本に来てほしい、と答えたという。どちらも日本人として極普通の反応のような気がする。
しかし、その答えに対して、東亜日報の記者は、とりわけ二つ目の答えに対して、日本人に特有のヨーロッパ崇拝の精神に根ざして要る、と分析していた。たとえそれがポルトガルでなく、アルゼンチンでもブラジルでも同じ答え立ったと思われるので、単なるヨーロッパ崇拝というのとは違うような気もする。
金清美さんという知人の紹介で何回かメールのやりとりしていた人にあった。この人は上智大学で交換留学で日本の経験もある。日本人の学生は同じ留学生でも白人には関心を示すのに、韓国人には全く関心を示そうとはしなかった。
アメリカでの体験を話してくれたが、
「あなたは日本人?」「いいえ」「中国人?」「いいえ」「それならあなたは何なの?」そう真顔で訊ねられてショックを受けたという。
この日韓ワールドサッカーの開催で両国の往来で、かなり理解が深まったようですね。
(今日韓流ブームで、少なくとも日本においての感想はだいぶ違ったものになっているのではないでしょうか?)

2009年11月23日月曜日

ピンクの新聞



写真は紙細工カミカラ:中村開巳さんの作品

おはようございます。昨日は公民館祭りの最終日の「よさこいソーラン」踊りはこの3年間雨模様の予報でありながら、なんとか降らないでもってくれました。昨年好評だったハワイアン、これはミュージックと踊り、中でも今年は子どもたちも踊りに加わって、愛らしかった。
ヒースロー空港からロンドン市内へ入る道路で見かけた広告はピンク地の大ポスターに黒で見えない程細かい文字が印刷されている。その上に、大きく「ビジネスは、黒か白かではない」と書かれている。つまり、ビジネスには妥協が必要だ」、と言っているのだと思った。それはその通りだが、」ではいったい何の広告だろうと考えてみた。ビジネスの教訓を広告にするわけはないし、他にも何もかいていないし、・・・・と考えて、ハタと思いついた。ピンクの用紙が問題なのだ。権威ある新聞、フィナンシャル・タイムスはピンクの用紙を使用している唯一の新聞だ。ビジネスをするには、白黒の新聞ではなく、ピンク地の新聞を読めと言っているのだ。フィナンシャル・タイムスの広告と判るまで、しばらく時間がかかった。
(どうしてピンクなのでしょうか?)
マークス寿子著より

2009年11月22日日曜日

野球は難しいから


おはようございます。昨日は芝久保公民館祭りの1日目は「カミカラ」という中村開己(なかむらはるき)さんの躍動する紙細工http://www.geocities.jp/kamikara1967/、今後の成長株の人です。
、今日は2日目メインイベントのそうらん踊りhttp://www.woopie.jp/video/watch/6fb993d5e7f040eaで当面雨が心配。昨年も同じような心配をしたが、そのタイムだけ晴れました。多少の雨でも頑張りますといっていますが・・・。

Jリーグが開幕したのは1993年のことだがその前後に劇的に変化したことがひとつあった。少年野球チームと少年サッカーチームの数が逆転したのだ。かつて、日本においてはどこの町にいっても少年野球チームがあった。数においては、サッカーチームとは問題に
ならないくらい差があったのが、その時期を境に逆転されてしまったのだ。夏の甲子園の中継などを見ていると、まだまだ野球も根強い人気があるように思えるが、野球を始める少年とサッカーを始める少年の数に差が付いている以上、未来における勝負はすでについているといえる。ではどうしてサッカーチームが増えて、野球チームが少なくなったのか。テレビ番組によればサッカーをやっている少年たちにインタヴューすると、その答えはユニフォームの格好が悪さでもなければ、先輩後輩の上下関係の厳しさでもなければ、なんと最も多かったのは「野球はルールが難しいから」というものだった。
WORLD CUP杯:沢木耕太郎より

2009年11月21日土曜日

韓国の焼肉屋


おはようございます。昨日は土・日にある公民館祭の準備だったもう3年目になるので、結構顔見しりができていました。
第27回にもなるので、各グループがやり方を心得ていて1時から始めて3時にはあらかた完了し、ほとんど問題なく交流会が開かれた。

食べ物にもそれぞれの国の文化によって違いがあるようですね。
韓国で頼んだビールが運ばれて、女性が栓を抜いてくれる。その場で栓を抜くのは、混ぜ物などはいれていないことを証明するためだという。今どきそういうことはないにだろうが、それが慣習化されているのだそうです。
韓国でワールドサッカーの取材でお願いした
ガイド役のアン君が北海道大学に留学して驚いたのは次のことだったそうです。とりわけ焼肉屋に驚いたそうです。
「だって、サンチュとキムチにお金取られるんですね。韓国にきてみると、テーブル一杯に並べたサンチュやキムは無料であった。なくなれば次々おかわりを出してくれる。やがてアン君が注文してくれたカルビが出てきた。見ると、日本のように下味がついていない。こうしたカルビをセンカルビというらしい。韓国では下味がついている肉より、ついていない肉の方が上等とされる。下味がついていない肉は味がごまかせんからね」そして味の「ついていない肉は量がたくさん食べられるからという。
それと夜の11時をすぎて、あいているのかなと心配したが、大丈夫だったし、午前0時を過ぎても、また同様に1時になっても、結局店を出たのが2時半だった。(お客がいる限り、閉店を告げることがないのだろうか?)

WORLD CUP杯:沢木耕太郎より

2009年11月20日金曜日

指1本の行方



おはようございます。審判は大変な仕事、相撲の場合はビデオや審判員が四方にいるので、合理的ですが、野球やサッカーなど
は人間の目のみの判断だからどうしても誤りがでる。それにしても、野球のストライクゾーンも下記のように違うのですね。そういえば
ホームベースを投げて抗議する監督がいましたね。

裏方:物言わぬ主役たち:プロ野球職人伝説:木村公一:角川書店:より
指1本の行方
一試合を無難に、滞りなく終わらせることが審判の役目である。
福井は審判になったのは、高校時代、伊万里商業で甲子園を夢みたことは叶わなかった。卒業後は長崎県の親和銀行に就職した。地元で準硬式の都市対抗で優勝できれば甲子園も夢ではないが、有志のあつまりの倶楽部チームが、優秀な企業チームに勝つことは難しかった。それでもある年に運よく九州大会で決勝戦に進んだ。1対でリードしていた最終回で1死満塁、相手チームが投手之手前にゴロを転がした。捕球した投手は一塁になげたが、打者走者の左肩に当たった。ボールは転々として、逆転負けを喫した。しかしこれは一塁線の内側を走っていたので送球妨害で本来ならアウトである。審判に抗議したが、認めてもらえなかった。
そんな折審判の一般公募に応募して、32人中2人であったが、一人増えて3人目に入って合格した。
佐賀で捕手をやっていた時には、ベースをわずかでもかすめて捕手のミットに収まった球はストライクだったので、そのように判定した。ところがプロ野球での審判講習をうけてみると、先輩審判たちは指3本、ベースの外側であってもストライクだった。のちの理解では厳然と存在するものはなかった。プロでもアマでも違った。世界野球大会でも異なり苦労していたのはそういうことだったのだ。アマでも微妙に地区によって異なるのだそうです。習慣や申し合わせで、じょじょに出来あがっていくもの、それがストライクゾーンだった。
プロの投手のコントロールとは,単にストライクを投じられる能力ではない。打者が打ち気のときは外し、そうでないときはストライクを取る。球種もストレートだけではなく、横に変化する、縦に変化する、斜めにも落ちる球をも駆使してだ。それもベースを舐めるように、ギリギリのコースをついて来る。それがプロの投手の“出し入れ”だ。そうやって投手は打者を抑えにかかり、対する打者はそんな投球を見極め,打とうかと骨身を削っている。つまり打者にとって打ちずらい球、みずらい球とは、同時に球審にも見ずらく、ジャッジも難しい球ということになる。だからこそ審判は機械のように冷静に、中立にジャッジしなければならない。

2009年11月19日木曜日

食べる順序とおいしさの矛盾



おはようございます。下記のような体験は今後もないでしょうが、耳体験してもよくわかりませんでした。
日日雑記:武田百合子(武田泰淳氏の奥さん)全作品の7から:
味のないきしめんのあとに、甘いおいなりさんを食べて気をよくする。そこまではいいのです。きしめんがさめるといけないから、まずきしめんを食べるでしょう。次にさめても大丈夫なおいなりさんを食べる。そういう順序で進んでいって、おいなりさんの次にコーヒーを飲む。おいなりさんのあとにコーヒー、この瞬間の口中の凄さ、そんなことなんでもないやと、やったことのない人は思うでしょう。しかし、そうではないのです。おいなりさんを食べたあとにコーヒーを飲んでみたことのある人でなくては分からないのです。何というかオエッとなる凄さ。内の飼い猫の玉が大嫌いなへんなものの匂いを嗅いでしまったときの世にもいやな顔をする。あの顔になってしまうのです。

2009年11月18日水曜日

富士山麓の生活


おはようございます。

また一段と冬に近づき、ドウダンの葉も真っ赤に染まっています。
温度の上下が激しく、電車内の服装も女性はさすがに冬モードになっていますが、男性の場合は厚着・薄着とばらばらでです。
お茶も熱めにして身体をあたためるようにしています。

日日雑記:武田百合子※(武田泰淳氏の奥さん)全作品の7から:※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90

富士の北麓に山小屋に住んでいる。
草刈りのあと焚火をしていると、トガワさんくる。松の間から煙が見えたのできてみたという。この山小屋を作ったときの石工事をしてくれた石屋の社長さんである。胸に上等な金のボールペンを2本さしている。景気はどうかと、訊ねると、あんまりよくねえと言った。高血圧の薬を毎日のんでいるのだそうだ。これから山の工事場を3か所まわらなくてはならないと言いながら、お茶を3杯飲む。
商売は如何ですかと聞くと答えてくれました。荒収入から、人件費30%、機械などの設備投資50%、引いた残り20%が純利益。そのうちから交際費を引いたのがおらの収入。いっこうに貯まらないから、髭の濃い顔をこすって笑う。
今日は西の空をみて昼過ぎ2時頃から、雨が降るでしょう。トガワさんは立ち上がり、ズボンのバンドを締め直し、「東京の生活は賑やかだに。一人じゃ怖いことないかね。田舎のものでも、山は一人じゃ嫌がるに。夜はテレビでも見てるのですか」と、西の空を見い見い、言う。二階のこうもりと階下の部屋にくるむささびの話をすると、トガワさんはじっときいていてから、「いかなる動物も怖いということはねえです。いかなる動物よりも人間の方が怖いです」とおもむろに哲学者のように言った。雨はこず、そのまま夜になった。

2009年11月17日火曜日

インドのある一面



おはようございます。インドは一度行ってみたい国です。中国との違いはどうなのでしょうか?

知られざるイスラーム大国インド:2009.11.9亜細亜大学国際関係学部 前川輝光教授

チャイン:発展する国、中国とインドをこう呼んでいるそうです。
隠れたイスラーム大国インド:この演題に特別の意味があるわけではなくて、この国のイスラーム人口がかなりいることが知られていないことを知らせたいということだそうです。
インドの人口11.7億人(最新版2001年統計01年毎)、国内ではヒンズー教徒が80.5%、ムスリム(イスラーム教徒)が13.4%である。仏教徒は割合としてほとんどいないといっていい。
アジアでみると、インドネシア2億、パキスタン1.6億、インド1.5億、バングラディッシュ1.38億。
●インド国内でヒンズー教徒は、今は80.5%をしめているが、ムスリムが13.4%が人口増加率がムスリムが圧倒的に高いので2251年では64.67%に達して逆転が予想されるので、危機意識が高くなっている。又ヒンズーからムスリムへの改宗もたかい。
デーリーにもモスリムが多いし、かの有名なタージマハールもイスラーム教である。
●ヒンズー教は多神教、何百万もの神がいて、全部の神様の数を知る人はいない。又カースト制度があるのがヒンズー教で、清らかな身分に穢れている身分のものが接触もできないということで、最下層の人を不可触民という。カースト制度は4600もの階層があるといわれている。
賑やかな礼拝、未亡人の再婚難(法的にはそういうことはないが、慣習的には厳然としてある。)
娘が結婚するとき、多額の持参金が必要で、3人もいると、破産寸前となるそうです。
希有な例ですが、嫁イジメも相当なものだそうです。料理の最中油の炎上死に至ることもあるそうです。
●イスラーム:一神教、浄・不浄の差別なし、静寂の礼拝、未亡人の再婚可
●ムスリムとヒンズーの結婚はあり得ない(ただし芸能界はゆるやかでそういうことはないそうです)
●食事:ヒンズーは牛肉だめ、イスラムは牛肉OK。喧嘩でこれをイヤガラセに使うそうです。
●世界的なイスラ-ム原理主義(教典に間違いないという立場、アルカイダ、タリバン)の影響で、ヒンズー教にも同様な原理主義が力をつけてきた。
●ヒンディー語(サンスクリット系)はヒンズー教と結つきとウルドウ-語(ペルシャ・アラビア・トルコ)はイスラム教に結びつく。ヒンディー語はインドの公用語、ウルドウ-語ハパキスタンの公用語。しかし両者は姉妹語で、会話はお互いに通じるそうです。
●国内で使われている文字は10種類、主要言語にいたっては20もあるそうです。
●1947年ガンディ-、ネールらの国民会議派主導のもと、ヒンドウー多住地域がインド、ムスリム連盟主導の下、ムスリム多住地域がパキスタンとして英国から独立。当時パキスタンは東西に分裂、インドを挟んで西がパキスタン、東がバングラディシュである。イスラ-ムだけでは国家統合には難。
●カシミール問題は、指導者層には解決したい方向性はあるが、民衆レベルでは積年のうらみつらみがありそうはいかないそうです。
●ヒンズーの最下層の不可触民については教育の優遇策があって、ある人員枠まで成績の良しあしに関係ないそうです。モスリムについてはそういう優遇策はないそうです。
●インドにも大統領がいて、これはいわゆる象徴であって、実権は首相にあるそうです。2002年7月(2007年7月まで)、南インド・タミルナードウ州出身のムスリム、アブドラ・カラム氏が大統領に選出された。

2009年11月16日月曜日

かもかの人



おはようございます。6時15分になると、暗さから抜け出しての朝です。
「iメールから」:
田辺聖子さんの旦那はおおらかなな人でした。奄美大島の出身だそうです。

もう自分の子供(彼と前妻の間の子供なのですが、)になっているのだが、
が昭和四〇年代の学園紛争真っ盛りで、マネゴトで”ベトナム戦争反対”の
ビラを校舎中の窓にはったので、学校から呼び出しがあった。〈貼らせてください〉というのが彼の返事。別の高校からも呼び出しがあり、憤然として出かけたが間もなく帰ってくる。〈おや、今日のお説教は早かったですね〉というと〈考えたら今日は阪神・巨人のデーゲームや。学校なんて行っとれるかい〉〈あらア、ハシカみたいなもんじゃ〉といっていた。
彼は医者で、当時はやったジョギングにも反対であった。階段二段あがりもおそろしい、というそして、いちばん心得べきは「面白疲れだという。人は面白いことをしているとき、つい疲労を忘れてしまう。彼にもそれは(いえてるな)と、私も今にして思うが「面白疲れ」が重なったのだと思う。
私はうちのぬいぐるみのチビがいたずらを」して困ると、彼にいいつける。彼はそばのソファに座らされている、小型スヌーピーのぬいぐるみの”チビ”に向かって〈こら、」チビ〉と「しかってくれる。ーーーこれが」可愛い。お芝居こころのある男だ。

2009年11月15日日曜日

綿あめうり


おはようございます。昨日は西東京市の市民公園での市民祭りだった。午前中はかなりの雨で来場者の出足が危ぶまれていた。午後からボランティアセンターの職員は削減されてたった2名になったので、
しかも、祭りの現地と、センターと2分されて、現地は1名のみ、「なんとか手伝いを」ということだった。今年は会場の一番奥の端で、集客が懸念されたが来場者は時計の針の逆まわりなので、その動きにすっぽりはまっていたので、大丈夫で危惧に終わった。そこはボランティアセンターなので、3人で綿あめ売りが始まっていた。
小生と一人交代した。もう長蛇の列になっていて、親子がまっている。色の種類は、白、ピンク、青。役割3分担は①注文と代金授受、小生の役割②次の注文への砂糖色カップと、カバー袋の準備
③箸をくるくる綿球つくり(終わったら手首がずいぶん疲れたそうです)。男女共青色が人気、白は少しだが、大人びた女子中学生年代の注文。カバー袋を希望されると、ラクビーボール状にしないと、袋に入れにくい。それでもすぐに袋からて出して食べ始める。子供たちは綿が機械の中心から出てくるのを覗いてみたいようだ。とくに小さい子は。しかし機械が高く、ガードの枠も綿でかすんでいて見にくい。
一人だけガードのない後ろから抱っこしてみせてあげたらとても喜んでくれた。
長蛇の列は通路をふさいで、本部から注意が入る。列を「ヘ」の字のように曲げて通行をできるように確保。去年は500売れたそうだが、ことしは雨を予想で、少なめで300にしたそうですが、軽くクリアー。
4時に終了ですが、3時半で最後尾にコレマデ表示。しかし4時に終了しても、まだ子供たちがお金を握ってくるが、「ごめんね」と声をかけねばならない。
1個100円で300人で売上は3万円、ブースは1.25万円、で採算はとれているが、主要目的はだいぶ先の4月18日の「ボランティアのつどい」のチラシくばり、思い出してくれるかは
わからないが、お母さんたちは丁寧に折って大事にしまっているのも見受けて安心した。
子供たちにも買ってもらっているのに、手渡すと嬉しそうな声で「ありがとう」の声が多かった。やっぱり子供の笑顔は素晴らしかった。
このように列が形成されると、列が長くなるが、午前中は雨が降ると、列が途切れ、雨がやむと列ができる。となりの福祉作業所のブースはインフルエンザで出店が出来なかったので、
休憩所になったので、こちらとしては具合がよかった。
この市民祭りは人気があって、他の市のグループの出店もあり、山形県人会、大石田町も出店していました。

2009年11月14日土曜日

武田百合子さんの「いたずら好き」



おはようございます。私たちの住宅地は袋小路ですが、入口のところは都道です。
もう1週間になりますが、鍵をつけたままの自転車が乗り捨ててあります。どういう理由なのか気になります。

日日雑記:武田百合子※(武田泰淳氏の奥さん)全作品の7から:
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90
赤瀬川原平さんの百合子さんの紹介によると、「ナマコをはじめて食べた人間が書いたような文章をかく」だそうです。エイリアンとは違う。宇宙の人という感じである。
畳の部屋での対談だった。2人の横からカメラが構えられていた。目の前で百合子さんが座布団に座っていて、座り直した。そのときぱらぱらと脚が見えて、座り直してからスカートの裾をちゃんと正して脚を隠すわけだが、そのときぼくは不覚にもその脚に
視線をやってしまった。非常に困るのですが、動くものに目がゆくのは自然で、その視線が男の目になっていたのか、自分でも非常に気になる。とくに「路上観察」をやるようになってからはそうだ。そうしたら百合子さんもやっぱり、その視線にあれあれ?と思ったのか、対談しながらぼくの顔をじっとみている。顔というより僕の視線の動きをじーっと見ながら、こんどはそれとなく、スカートの裾に手をやってそうっと動かしたりするのだ。僕は蛙みいたな気持ちになった。板の上で皮を剥がれて、筋肉のところをピンセットでそうっとつままれている。それで目玉がどう動くのかじーっとのぞかれている。百合子さんに観察されているのだ。対談しながらそっちのほうが面白くて、口では対談しながらそんなことをしているのだ。百合子さんはそういうワルサが好きなのだ。

2009年11月13日金曜日

事件の被害者個人③



おはようございます。昨日は学校卒業後4年間社員寮で過ごしたもの達の4年ぶりのOB会で、4人組の一人は心筋症で遠慮するということで、一人奥様にも出席を願った。それは会社の医務室の看護婦さんが、女子社員の多いところと集団見合い・今なら合コンした各10人の中から縁があって結婚したから、2度目の出席になった。余病がないのは、この奥さんは多少腰が痛いのがあるだけで、この70歳前後となると病気説明会ではあるが、屈託ない話が交わされました。

和田嘉子:故和田栄二(JT職員)氏夫人31歳
和田さんは妊娠中に地下鉄サリン事件でご主人を亡くされ、その後に明日香ちゃんを出産された。マスメディアでしばしば報道されている人だそうです。マスメディアが自分たちで作りたいようなイメージに報道されていた。とてもセンスが良い。生きていくことのセンス、何かを選び出すときのセンス、言葉をみつけてくれるセンス・・そういうものに優れているという風に感じた。裏表のない人だ。もちろん私は亡くなった和田栄一さんにお目にかかったことはないわけですが、この人が選ぶのであれば、おそらくまっとうなよい人だったろうなと思わせるところがある。彼女は3時間にわたる長いインタビューの間終始笑顔を失わなかった。どんな質問にもはきはき答えてくれた。ただ一番最後に、こらえきれずに涙を流しただけだった。「もう泣いていいですよね」という感じで。
駅まで明日香ちゃんを抱いて近くの駅まで送り迎えしてくれました。どこにでも見かける若い幸福そうな奥さんに見える。別れ際に何か言おうと思ったのだけれど、「元気で幸せに生きてください」としかいえなかった。
録音したテープはシャイなユーモアに満ちている。それだけに、録音したテープを聞き返していると、奥にある苦しみの深さがかえってひしひし感じられたそうです。

2009年11月12日木曜日

父のおおらかさ



おはようございます。私の場合は父が早くなくなったので、これという思い出はない。下記のような話を読むといいなあと思う。

あるとき私は文房具屋で何かを買った。家に帰ってから気にいらなくなった。返品しようと思ったが自分で行くのは具合悪く、これを妹に行かせた。私はなかなかにズルい子だったのである。妹は何心もなく帰ってきて、〈お金返すのはナンやから、ほかのん買うてください、いいはったから、ウチの好きな下敷きに替えてもろたしイ〉といい、私は腹を立てて、妹といさかいになった。

 父がどうしたのかと聞く。私がそのいきさつを父には話したくなかったのは、どこか、うしろめたい気があったからであろう。妹は無邪気にしゃべってしまう。父はゆっくり妹の話相手になってやり、私に向かって、おだやかにいった。〈モノ返す、ちゅうようなときには、自分で行かな、あかんナー〉母に叱られる時は逃げ場もなく追いつめられるので、かえって反発を誘い出されてるが、父がいうと、小学生の私はそれなりに反省してうなだれるのであった。
 
父のは小言というより、世間話のついでというような口振りがあって、子供のプライドはも傷つけられないでよかった。父は母とおんなじことを重ねてしかる、ということはしなかったようだ。しかし私は、父が黙っているのがかえって怖かった。何もいわないのは叱られたも同じことで、私はしょげてしまうのであった。そうして、いつのまにか、コセコセと小さいことはいわないが、大きいところで〈オ父チャンが見通してはる〉と思うようになった。
iメール:田辺聖子著より

2009年11月11日水曜日

母親の強さ


おはようございます。昨日は植木屋さんに、10年前もなった植木の剪定をお願いした。お陰でずいぶん明るくなりました。
剪定の間、車の場所をファミレスに移動し、朝の食事もそこだった。朝の利用は初めて、60歳代の夫婦、60歳代の男性が一人で
3卓でした。テーブルがひろびろで、朝の光のなかでよいものでした。

田辺聖子著:iメール:世界文化社より

独身の女の物書はお袋に雑用を任せて、奥さん代わりに使うのが一番便利なのだ。
つながりがとても強固だったお袋に結婚の相談して反対されると、してもよい気になった(再婚で3人の子連れの医師で、亡くなった奥さんは親しい友人であった。彼の魅力と3人の子供の寂しそうな愛らしさにほだされて)。夫をとったのは、夫との生活の方が「展望」がきくし、オモシロそうだったから。そのへんからお袋コンプレックスを脱しはじめていたのだろう。
母との密着は母子家庭で、終戦のトシの12月にが死んで以来、敗戦後の混乱時代を40になるやならずのお袋が3人の子供を育ててくれたからである。大変な時代だから、かえって生きのびられた。闇市で焼け残りの着物を売ろうが、ぼろおを着ていもの買い出しにいこうが、誰もわらうものはない。女親はきりつめて節倹できたし、男なら家の外に
息抜きもほしかったろし、酒・たばこなどのささやかな慰めも要ったろう。しかし女は子供たちと、壊れかかったラジオでも聞いて笑っていれば、たやすく充足できるのだ。男はそんなわけにはいかない。
そんな訳で無一物、女所帯で、やりくりしつつ、私たちはお袋に学校をだしてもらい、つぎつぎに勤めにでるようになった。人生は綱渡りの連続ではあるが、このときはよく渡りきったとつくづく思う。
私のお袋だけでなく、あの大戦で、夫を戦死させたり、空襲で失ったしたあの当時の妻たち、何十万何百万の女たちが、きっとそうやって生き延び、子供を一人前にしてきたのだろう。本当に母というものは強いものである。これがあべがあべこべに、妻が死に、夫たちが子供を育ててゆかねばならないとしたら、それだけの底力を発揮して綱渡りができたろうか、私は大いに疑わしいと思わざるを得ない。

2009年11月10日火曜日

事件の被害者個人②



おはようございます。昨日の通信の豊田利明さん、山形県出身、当時56歳営団地下鉄社員の続きです。凄い人です。

駅員の仕事を次のように認識しているそうです。
常々家内には、「ただいま、といって帰れないこともあるかもしれないから、心しておくように」と言い渡してあるんです。仕事中に何が起こるかしれません。サリンを撒くとかそういうこともあるけれど、たとえば喧嘩で刃物を持ち出す人がいるかもしれない。また精神的におかしい人が、駅に立っている助役を突然後ろから線路に突き落とさないとも限らない。また爆発物がみつかったようなときに、部下に「お前行って取ってこい」とは言えませんよね。私の性格からして、そんなことはちょっと言えない。やはり自分で行かざるをえない。そのようなことは監督者勤務を始めた若いころからずっと考えていました。
オウムの報道もまず見ません。見なくても分かります。これは具体的にどういうことですか?
オウムみたいな人間たちが出てこざるを得なかった社会風土というものを、私は既にしっていたんです。日々の勤務でお客様と接しているうちに、それくらい自然にわかります。それはモラルの問題です。駅に「いると、人間の負の面、マイナスの面が本当によく見えるんです。たとえば私たちが塵とりと箒を持って駅の掃除をしていると、今掃き終えたところにひょいとタバコやごみを捨てる人がいるんです。自分に与えられた責任を果たすことより、他人の悪いところをみて自己主張するひとが多すぎます。
でもお客様から与えられたプラスの面もあります。始発電車でいつも挨拶を交わす50歳くらいのお客様が、私がしばらく休んでいたので、出社して顔を合わすまで、死んだかもしれないと思われていたらしいのです。「命があったということは、まだ生きて何かをやなくちゃいけないことがあるということですからね。しっかり頑張ってくださいよ」と言われました。
「そうですね。私もすべてのものに感謝しないとなりませんね。お互い頑張りましょう」と答えたそうです。憎しみは何も生み出しませんから。

2009年11月9日月曜日

事件の個人の被害者



おはようございます。11月4日成蹊大学の宮脇俊文氏の村上春樹の小説はアジアと関連して日本人の喪失感の原点はノモハン事件や地下鉄サリン事件から理解の糸口があるという講演会でした。
村上春樹の「アンダーグランド」は新聞報道で分かっている名前700人から身元が判明したのは20%(報道の病院の患者リストなどから追う)。それでももう思い出したくもない人も相当にいる。それを懸命に追った膨大な記録です。

この記録の動機は新聞の投書欄にかいてある手紙は地下鉄サリン事件の為に職を失った夫を持つ、一人の女性によって書かれていたことに始まる。彼女の夫は会社に通勤している途中で運悪くサリン事件に遭遇した。倒れて病院に運び込まれ、数日後に退院できたものの、不幸にも後遺症が残り、思うように仕事をすることが出来なくなった。最初のうちはまだよかったけれど、事件後時間が経つと、上司や同僚がちくちくと嫌味をいうようになった。夫はそのような冷たい環境に耐えきれずに、ほとんど追い出されるような格好で仕事を辞めた。
 記憶している限りでは、それほど「切々とした」という文面ではなかった。またとっくに怒っているというのでもなかった。どちらかといえば物静かで、むしろ「愚痴っぽい」ほうに近かったかもしれない。「いったいどうしてこんなことになったのかしら・・・?」と戸惑っているような感じもあった。運命の急激な変転がまだうまくのみこめずに、首をひねっているような。
 この夫婦が負った心の傷は、いうまでもなく、深く厳しいものであったにちがいない。「ほんとうに気の毒に」と心から思った。でもそれがご本人にとって「気の毒に」というだけではとてもすまされない出来ごとであることもよくわかっていた。しかし何が出来るわけでもない。

豊田利明さん、山形県出身、当時56歳営団地下鉄社員で体力を使うので週2回ほどジョギングで体を鍛えている。4時間に渡って、つらい話を聞かせていただいたが、そのあいだ愚痴や弱音は一度も口にされなかった。「自分の心の弱い面を克服し、事件のことを少しでも早く忘れてしまいたい」と語る。続く

参考以前の辺見庸氏の対談:http://efemeral-spring.blogspot.com/2009/10/blog-post_09.html

2009年11月8日日曜日

鎌倉街道



おはようございます。昨日は青梅市の西、日出町に日の出陶房(中曽根首相とロンヤス会談をやった場所の近く)で作陶の手習いにいってきました。自己流では分かっていなかった極基本的なことを教わってきました。

西東京市にも横山道と呼ばれる東西に通じる道があります。これは鎌倉時代の武士で八王子に存在した武士集団の横山党※1のいる西南方向への道筋です。
これが鎌倉街道と呼ばれています。鎌倉街道という字を読むだけで、武士集団の通過した軍馬の蹄の音が聞こえてきそうです。そのほかの古道では市内だけの限定でいえば、東西道路では青梅道、久米川道、江戸道、立川道、関道、鈴木道、五日市道(伊奈道)、札野道があり、南北道路では清戸道、府中道、深大寺道、引又道、谷戸道、片山道(この先にも片山党という武士集団がいました)があります。板碑※2はその名残にようです。
これらの道を住宅地図や古道のガイドで調べていましたが、他の用事で疎かになっています。
鎌倉街道:当時の鎌倉街道とは、御家人たちが緊急のときに、いちはやく鎌倉へ駆けつけるための軍用道路だった。おもな鎌倉街道は「上道」「中道」「下道」の3本に分けられる。
「上道」は鶴岡八幡宮の若宮大路を起点として、群馬県の高崎から信濃、越後方面へと通じていたとされる。「中道」は鎌倉の巨福呂坂(こぶくろ)から大船、戸塚、渋谷、新宿を経て八王子から宇都宮、そして奥州へ。「下道」は金沢街道から現在の都内を通って、東京湾に沿うように下総国府へ向かい、さらに常陸国へと通じていた。これらの道路が整備されたのは鎌倉幕府成立後である。当時京都と鎌倉を結ぶ東海道も、主要な鎌倉街道だったようだ。しかし江戸時代に五街道が整備されると、鎌倉街道は主要幹線道路ではなくなり、古道化してしまった。
※1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A
※2:http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=17&id=305&mode=details

2009年11月7日土曜日

追悼射会



おはようございます。もう夕方5時ともなると、とっぷり日が暮れますので、街灯の明るさに目がゆきます。又自転車の明かりをつける人も増えているようです。

5日は弓の白檀会(36年の歴史)の指導者のSさんの奥様が亡くなられて1周忌なので、追悼の射会が開催された。
奥様も同様に弓をやっておられたからです。
追悼のための弓道は初めての経験でした。
道場の稽古観覧席の台に花と写真が飾られていました。礼儀を重んじる小笠原流ではなく、武道からの日置流(へきりゅう)
なので、殊に我が会は段取得よりも楽しむ会なので、稽古着はあまり着用しない。正月とか特別のときとか、こういう改まった時に着用します。Sさんが黒い布をリボンがつけられるように裁断してくれていました。これを弓の弦の先端に結んで、弔意を表すのでした。まずSさん以外のものが標的に射るが、追悼の場合は、当てないのが礼儀なのだそうで、いったん的を狙うが、放つ瞬間にそらすという行為をするのが黙祷の意味のような態度になるそうです。これが終わると、指導者であるS先生は、礼射を披露した。
我々の白檀会以外にも、Sさんが参加している30年の歴史の穿石会(せんせきかい)の方からもお2人がみえられた。
昼食会も行われたが、もう1年でもあるし、如何に光陰が過ぎるのかも皆感じている。S先生もメソメソは大嫌いであることもあってあえて奥様の思い出は出さなかったが、自ずと弔意の気持ちは伝わった。
この追悼行事の案内ポスターは奥様が的の真ん中に的中した矢に次の矢がささった極稀なところを写真にしたものだった。他から見えられた二人の内の1人がそれを1枚頂いて帰りたいということだった。皆さりげない気持ちに配慮があった。すがすがしい追悼式になりました。

2009年11月6日金曜日

ニセモノ・ほんもの


おはようございます。意欲と欲は違うということで、一歩間違うと欲がいろいろ問題を起こすようですね。

ニセモノ師たち:中島誠之助:講談社より

人間の欲がニセモノを生む。

著名な作品、ダビンチの「モナリザ」のような作品を模写するのも大事な勉強ですが、まじめな勉学であれば問題がないが、今度はそのコピーを本物と偽って売り買いする人が出現してしまうと、ニセモノの誕生となってしまう。「非常に優れたニセモノ」は「ホンモノ」と寸分違わない出来具合です。しかし目利きの目をもってコピー作品をみれば「よく出来ているが感動がわかない」ということになり、その新旧はたちまち見破られてしまいます。

欲得抜きで本物
ニセモノ出現とは逆に、市井の雑品の中に埋もれていたホンモノが、眼力をもった人に発見されて、やがて重要文化財に出世した例があるそうです。それは尾形光琳の描いたただ一つの肖像画である。「中村内蔵助像」①という掛け軸です。
1937年(昭和12年)、青柳瑞穂②さんというフランス文学者によって中央線沿線の骨董屋で発見され、わずか7円50銭で買われた。当時でいえば、革靴一足分の値段です。この人には欲も得もなく、単に美を発見しようという気持ちがあったからこそ、そういう
埋もれていたホンモノを発見できたのです。最初から光琳が描いた肖像画ですよといわれて、都心にある一流の老舗の店頭に麗々しく飾られていたら、果たして青柳さんをして買う気にさせたり、学者たちをしてそれがホンモノであると衆議一致して断定できたかどうかは非常に難しい。
ホンモノなのに、いかにもニセモノの扱いを受けかねない作品がいかにもホンモノらしい舞台設定で登場してきた場合、自分の料簡が狭いと素直さが失われて真実が見えなくなる。自分の置かれた状況や雰囲気に気圧されて、子供の立場から裸の王様の立場になってしまう。そういうところでニセモノがホンモノになってしまったり、ホンモノがニセモノになってしまう両方の怖さがある。
① http://www.kintetsu.jp/kouhou/yamato/collection/kaiga_jpn03.html

②http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9F%B3%E7%91%9E%E7%A9%82

2009年11月5日木曜日

骨董品




以前祖母からもらった百花園の命名者の酒井抱月のお多福の掛け軸を芸大勤務の人の紹介で、鑑定してもらった時、小生が広げようとしたら、制止された。一気に広げた瞬間の印象
で決めるということでした。印鑑もほとんど摩耗(人気作家はすり減っている)していない、描き方はその弟子であることは確かですという。それがわかってから飾ることをしていない。
鑑定せずに、楽しんでいればよかったのにとも思います。やはりどうも欲目があるようです。

ニセモノ師たち:中島誠之助:講談社より

骨董品:

世間一般の人々が骨董品に抱きがちなイメージとして「ニセモノ」とか「騙される」という第一印象を持つことが大変多いようです。
それだけ世の中には、ニセモノが氾濫し、なおかつ騙されたと思って被害者意識をもつ人が多いからではないでしょうか。
それはなぜだと思いますか。
それはいたってシンプルな論理しかありません。骨董の世界は「生産性のない社会」だからです。通常、資本主義社会は、いいものは大量に、なおかついかに安く供給できるかを競う生産体制の社会ですが、骨董の世界では、もしそれを生産するという行為があれば、それは即ニセモン誕生ということを意味します。このニセモノの品物に罪はなく、欲心、悪心をもった人間サイドに罪があります。生産することができない骨董品は一度火災などで失ってしまえば、二度と戻らない。
人間の欲がニセモノを生む。
著名な作品、ダビンチの「モナリザ」のような作品を模写するのも大事な勉強ですが、まじめな勉学であれば問題がないが、今度はそのコピーを本物と偽って売り買いする人が出現してしまうと、ニセモノの誕生となってしまう。「非常に優れたニセモノ」は「ホンモノ」と寸分違わない出来具合です。しかし目利きの目をもってコピー作品をみれば「よく出来ているが感動がわかない」ということになり、その新旧はたちまち見破られてしまいます。

2009年11月4日水曜日

スイッチバック



おはようございます。昨日は「シニア瓦版」の介護特集(いつもは5000部を10倍の5万部に増刷、知名度を上げるためでもありました)みなで手分けして宅配でした。
なるべくアパートや賃貸マンションを避けて、古い家を選びながらですから、1日1000部がやっとで、かなり効率はよくなかったようです。

初めてスイッチバックにのりました。箱根登山鉄道の箱根湯本、の次の駅、塔の上、大平台の間です。急こう配のため、登山のときに、ジグザクに登りますが、まさにその通りでした。途中今来た方向に戻りますので、方向感覚に修正を加え、自分にも言い聞かせます。運転士はどうするのかと関心していましたが、案の定、前後の交代でした。これでなるほどと思いましたし、しばらくすると、高度がドンドン上がってきました。ここの電車は山の谷間や、尾根を縫うように登ります。その時の曲がる半径は30mのところもあるそうです。この半径を曲がるので、車両の長さも短めでした。
またレールの摩耗を防ぐ意味で、水を撒くのだそうです。
強羅までの登りはかなりの混雑でしたが、その先のケーブルカーも大変な長蛇の列でしたし、並行して走る国道1号も同様なので、引き返して宿においてあった車で帰ってきました。

山の急斜面を登るためスイッチバック方式をとり入れてジグザグに登ります。スイッチバックは出山信号場、大平台駅、上大平台信号場の3ヶ所で行ない、そこでは運転士と車掌が入れ替わります。
(写真は出山信号場) スイッチバックで車両の進行方向が逆向きになるため、運転士と車掌が入れ替わります。出山信号場と上大平台信号場のスイッチバックでは、お客の乗降はできません。

2009年11月3日火曜日

地図の雑学②



おはようございます。天気予報では故郷の山形県には降雪があるとのこと、やはり11月ともなると、こうなるのですね。こちらも昨晩は暖房をいれました。そちらも暖かくしてお過ごしください。
こういう日は食べ物も、おでんや、鍋もの、シチューのメニューに目がいきます。

●日本は「小さな島国」ではない。近隣の中国やロシアが広大な国なので、余計に小さく感じる。
しかし意外かもしれないが、世界の国々のなかでは、日本は「小さな国」とはいえない。
世界で2003年(平成15年)時点でバチカンや台湾などを除いて191の国連加盟国があるが、面積の広い順二ならべると、日本は59番目。ヨーロッパ諸国と比べても、日本より大きな国は、旧ソ連を別にすると、スウエーデンとフランスとスペインの3か国だけ。ヨーロッパの地図をみると大きな国に見えるドイツでさえ約35.7万平方キロで日本より小さいのだ。
そのほか、イタリアやポーランド、ノルウエーなど、ヨーロッパでは比較的大きな国々も日本より小さい。オランダやスイスは北海道の半分ほどの面積だそうです。
アジアでも、日本より大きな国は、中国やインドやアフガニスタンなど、38か国のなかで13か国だけである。フィリピンやベトナム、マレーシアなども日本より小さく、日本はわりいと「大きな国」なのである。

●地図に描かれる海岸線は満潮時でかかれている。しかし潮の干満は場所によって発生する時間が違っている。つまり日本列島が完全に地図と同じ海岸線を見せていることは、実は一度もないことになるのだそうです

2009年11月2日月曜日

地図の雑学



おはようございます。秋の空は真青、湘南の海もコバルトブルーの色でした。

「55の不思議」で読む日本地図の楽しみ方:ライフサイエンス:王様文庫から

●政令指定都市:都道府県が行う社会福祉や衛生、都市計画など市民生活に深く関わる十数項目にわたって、権限を持つことができる。しかも、石油ガス譲与税や軽油引き取り税交付金といった、都道府県に入る税金が一定割合で入る等、財源も一般都市より豊かだ。政令都市になると利点が多い。どうすれば政令都市になれるかは地方自治法252条19項では人口は最低条件人口50万人以上の市としている。実際は100万人以上。
東京都の23特別区だけが区長選挙ができる。上下水道や消防は都管轄。

●車のナンバープレイト:原則として、車を登録している陸運事務所(陸運支局及び時d婦者検査登録事務所)の頭文字がつかわれる。「湘南」は湘南自動車検査登録事務所の「湘南」をとっただけ、もし仮にこの事務所が「平塚自動車検査登録事務所」と名付けられていれば「平塚」になっていたかもしれない。
湘南を自認する鎌倉や逗子は横浜ナンバーで地域とは一致していない。箱根あたりも「湘南」ナンバーだそうです。

2009年11月1日日曜日

雑学教室3


●土砂ぶりの雨降り時にVHFやUHFの画面は何でもないのに、衛生放送の画面はぼやけてほとんど見えない、小降りになると元どおり:VNFの周波数は30~300メガヘルツ、UHFは300~3ギガ(1000)ヘルツ、こうした低い周波数の電波は、途中に建物があっても、それをうかいして目的の場所まで届くのが特徴。一方衛星放送は3ギガヘルツという高い周波数の電波を使っています。こちらは建物などにぶつかったら、反射するよりも衰える。このために土砂降りの「時は雨が障害になって電波を遮る。

●のど自慢の鐘の判定:舞台と離れた別室でNHKの地元の放送部長や音楽担当のチーフディレクターなど5人で行い、かねをたたく担当者にヘッドホンを通じて連絡するのだそうです。