2009年6月30日火曜日

子供にも哲学


おはようございます。昨日は冷房機のフィルターに赤のサインが出たので、取り出して掃除をしました。トイレもMIXIの方から使用後すぐブラシを使って綺麗にしている助言をもらったので、そうしています。いつも気持ちよく使えます。

いのちってなんだろう:子どもだって哲学1の中村桂子から

4年生の翼の父が睡眠中に突然なくなったとの報せが朝はいりました。子どもたちに「誰の命にも限りがあり、人生の長さは約束されていない。お父さんの無念、残された家族の悲しみに思いを寄せてほしい」という意味のことをかたりました、 通夜に参列した未来という子が「一人の死は一人の死ではなかった」といいました。「それはどういうことなの?」と問うと、翼のお父さんはこんなに多くの人を悲しませていた」と答えました。

3歳のとき父を亡くした光芙由(みふゆ)が翼にあてた手紙です。
今はまだお父さんの死は深い傷になっているかも知れないけれど、いつかみんなに言い出せるようになると思うから。お父さんのいきられなかった人生まで生きて、お父さんのできなかったことをしっかりやっていけばいいよ!ゆっくりでいいからがんばって。(4年生になってようやく心をひらいてその悲しみを語った)
父が大好きな陽(よう子供の名前)は、お父さんが亡くなり、せいしんてきにも悲しいと思うし、お父さんがいなくなって生活的にもつらいだろうし、夜は話はできない。前まで「つばさ!」と元気に言っていたお父さんももういない。「ただいま!」とドアをあけてもう帰ってこない。悲しいけれど、それが現実だろう。だから、つばさのことを考えるとなみだが出る。そういう面ではオレらは何ひとつできないがちがう面では応援できるから、できることなら言ってくれ。つばさ負けるなよ。子どもたちの死者と生者にたいする思いと言葉の確かさに私は圧倒されました。

2009年6月29日月曜日

方針は不動ではなく浮動


おはようございます。社内で、あるいは国でも,個人でさえも、先行きの方針を決める時に、方針策定に10年先といわれていたこともあった。しかし計算器の例でも、45年前ではA4ノートで初年給与の10倍、それがもう名詞大で100円、パソコンに至っても半年後はもう古い機種という目まぐるしい時代で、日本でも、アメリカの動向も定まらない時代になっていますね。

まず戦略思考を変えよ:田坂広志:ダイヤモンド社。からこの本はビッグバンが盛んに話題になったときの本のようですが、あのビル・ゲイツはどう動いていたかの説明されていました。

★ウイナー・テイクス・オール=  勝者はなにもかも独り占め

★ナンバーワンのナンバーツーのもぐらたたき:一番になったら安心ではない。追撃してくる相手にいつ追い越されるかの懸念をぬぐうための行動が必要という認識だった。
 情報は小さな会社でも、大きな会社でも平等の立場であり、小が大にかつ場合もあるので、油断できない。「湖畔の朝のビル・ゲイツ」というエピソードはマイクロソフトの会長、ビル・ゲイツは湖畔の豪邸で「マイクロソフトの隆盛も、今日がピークかもしれない。明日からは下り坂になるかもしれない」こうした人一倍鋭敏な危機感は天才的で、現代の市場のもつ恐ろしい性質をよく知っているからにほかならないそうです。

★ディファクト・スタンダード;公のスタンダードが出来る前に、市場を制覇しておく。VHSの例など
 JISなどの公の標準でもないが、市場でもう標準になっているもの。

2009年6月28日日曜日

取材:農業講座


おはようございます。シニアかわら版の「学ぶ」という特集の記事で取材してきました。
この講座は芝久保公民館の本格的な講座です。
それは6/20から毎週土曜日来年の3/25まで計42回もの講座です。この2回目に取材できました。参加者は30名でした(昨年は20名)。これを見ても農業には休まずの心配りが必要だということが、参加者の意見も同意見でした。
畑は尉殿神社(水の神様)の西で、ひばりヶ丘中学の北側でした。
講座の内容も、仏教用語の「身土不二」とか「環境と農業」「農産物の流通」「農業政策」「農薬」「肥料」「見学会」とても充実した内容です。

取材で一応長靴だけは用意しましたが、参加者の出で立ちは長袖、麦わら帽子、農家で講師の保谷先生のは、後頭部の日除け布、と野菜作りに馴染んだ服装でした。
畑は10m×33mを10人宛の3班編成で、原さんもリーダーとして指導しているそうです。

講座のお話のはじまりは、雑草取りでした。江戸時代に長崎から江戸城に参上したオランダ人がびっくりしたのは、道中、日本の気候はモンスーンで雨が豊富であるから、雑草も盛んに生える筈なのに、農家の畑には雑草一つない。本当に手入れが行き届いていることに驚嘆したという話をされました。まず自分の区画と歩くルートを決めて、どんなに小さな雑草も取ってください。茎だけでなく、土のなかの根も取り除いてください。自分の区画を2周してください。1周だけでは見落としがあります。そうしてもまた4・5日した別の雑草が生えてきます。雑草の種は、飛び散ると5年から10年も出てきますし、何倍もの広がりを見せますので要注意なのだそうです。一面の畑には本当に雑草は見当たりませんでしたが、プロの目はそれでも、見逃しているということで、指さすところには雑草があるのでした。

2009年6月27日土曜日

江戸と大坂


おはようございます。歌舞伎は一度玉三郎の舞台しかみたことがないのですが、これは本当の女性の如くでたまげてしまいました。
江戸と大坂の違いが下記のようにあったというのが面白いと思いました。
誇張の荒事、写実の和事
 歌舞伎には「荒事(あらごと)」と「和事(わごと)」という異質の、対照的な型がある。滅法強いスーパーヒーローの活躍するアクション劇を荒事といい、たおやかな男女を主役に、濃(こま)やかな人情の機微を描いたホームドラマを和事という。

 荒事の型は江戸の市川團十郎が、和事は上方の坂田藤十郎が創った。江戸に荒事、上方に和事が生まれたのはそれぞれの都市の成り立ちと関係がある。当時、江戸は新興都市で、武家中心の町であった。百万都市の半分が武士だった。比べて、上方にはすでに古い歴史があった。京都は公家の、大坂は商人の町である。三十万都市の大坂に武士は僅かに一割であった。

 従って、江戸と上方では気風も違った。江戸は開拓の活気に満ち、武士の社会だから庶民もどこか威勢がいい。それが荒事(荒武者事)という荒唐無稽の活劇を好む土壌になった。反対に、上方はすでに都市として落ち着いているから、人の気性もおだやかだ。そんな風土が和事という柔らかで写実的な芸風を生んだ。

 荒事は元祖團十郎が延宝元年(一六七三)に十四歳で『四天王稚立(おさなだち)』の坂田金時を演じたのに始まる。これは、足柄山の金太郎みたいな少年が大斧を手に大勢の猟師を相手に大暴れをする活劇だが、以後、荒事の主役はどれも、神がかり的な力を持った人物に描かれていて、團十郎はそれを紅と墨の隈(くま)で表現して評判をとった。

 一方、初代藤十郎が完成させた和事の芸脈は出雲の阿国の「かぶき踊り」にさかのぼり、商家の主人などが遊女遊びで身を持ち崩しながら、人の情けに触れるというのが大方の筋書き。荒事が物語性よりも、超人的な英雄の力感溢れる豪傑ぶりを強調して見せるのに対して、和事は、「狂言めかず実(じつ)を見せる」リアルさを重んじる。

 延宝六(一六七八)年二月、藤十郎は『夕霧名残の正月』で藤屋伊左衛門を演じ、柔らか味のある芸で人気を得、以来「夕霧物」を生涯の当たり役としたが、荒事と違って和事の主役はどこまでも頼りない。荒事と和事が大成されたのはともに元禄期だが、この時代には歌舞伎の正統は上方にあった。團十郎より十五歳年長の藤十郎は当代一の名優と謳われていて、江戸一番の團十郎さえ「あの人がいるうちは江戸の役者が上方に行ってもだめだ」と言って一目を置いた。その藤十郎の大名跡が来年は、二百三十年ぶりに四代目として今の鴈治郎によってよみがえる。

2009年6月26日金曜日

武蔵野のイメージ



おはようございます。今は武蔵野のイメージを拾うのはなかなか難しくなっていて、想像の世界になりつつあります。
国木田独歩※1&太宰治※2の武蔵野(武蔵野地域自由大学の講義)

国木田独歩の武蔵野の範囲は
池袋の雑司ヶ谷・板橋の中山道をへて埼玉の入間付近を甲武線(飯田橋からの今の中央線の一部)包む立川(所沢、田無を含む)、多摩川を限界とし、八王子は入らない、そして丸子、下目黒、布田、登戸,二子の以上が西反面、東反面は亀戸戸辺、小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍まで。
ツルゲーネフの「あいびき」に出てくる雑木林の美しさを、この武蔵野に重ね合わせている。日本においては新緑の雑木林よりも松が好まれていて、新局面を伝えたかったかのようだ。この国木田独歩は渋谷にすんでいた。このころ人為的な標準語がつくられ、この口語体でつずられた文章とツルゲーネフのロシア文学への憧憬も醸し出していたのではないか。

太宰治は三鷹界隈を徘徊していた。これは想像するに、奥さん津島美知子に言わせると、上下水は原始に近く、新開地というよりも、満洲開拓地のようだというが、亀井勝一郎が度々奈良や京都見物を勧めたが、古典趣味というものはあまりなかった。太宰にとっては井の頭公園、武蔵野の夕日や飲み屋などは青森津軽の自然や気軽な農家風により近かったイメージがあったからだと思う。
太宰のお墓は三鷹駅の南、禅林寺にあるが、ここに彼が尊敬する森鴎外の墓があった。この禅林寺は、関東大震災で被害にあい、ここに移転してきたのだという。太宰のお墓の前面には塚本女史が共に情死した山崎富栄※4に住む家を紹介した人であり、その塚本さんのお墓の横に森鴎外の墓がある。太宰治のお墓には生誕100年ということもあって随分花がたむけられていました。

国木独歩※1と武蔵野;http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html

太宰治※2:http://comet.tamacc.chuo-u.ac.jp/dazai/DAZAI

津島美知子※3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E7%BE%8E%E7%9F%A5%E5%AD%90

山崎富栄※4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E5%AF%8C%E6%A0%84

2009年6月25日木曜日

38億年の命の連鎖


おはようございます。中村桂子さんい関心をもっていたら、児童向けとありますが、大人でも十分に面白い。命の連鎖がとてつもない大きな物語であると思われてきましした。

物理学者ハイゼンベルグがあげている例「もし今、この船とクジラがぶつかって、船の一部がこわれ、クジラもけがしたとしよう。船は誰かがなおさなければならないけれど、クジラの傷は自然に直ってしまう。生き物は生まれて、だんだん育っていくものです。両親がいるから生まれてきたので、何もないところから出てきたわけではありません。蚊やハエなどはきたないものがあるからわいてくる。19世紀にフランスのパスツールが、消毒をした肉汁に外からバクテリアが入らない工夫をしたら何日たっても腐らない。
つまり腐敗の原因になるバクテリアは生まれてこないし“生き物は生き物からしか生まれない”(ここで必ず最初の生き物はどうして生まれたのかという問いがでます。)の始まりです。

子どもの哲学①いのちってなんだろう:中村桂子他、佼成出版社より

生きものは誰かが作ったものではなく、生き物として生まれ、自分で生きてゆく存在です。両親から卵子と精子の結合によって、両親の半分づつを受け継いでいます。兄弟姉妹でもすこしずつ違うので、けっして同じものではありません。たったひとつの存在です。38億年の生き物の荘大な歴史の途上では、地球の表面全体が凍ったことさえあったが、一度もいのちが絶えてしまうことはありませんでした。私達がここにいるのも38億年のとんでもない歴史があるから。

この歴史をもってるのは私達だけでなく、地面を歩いているアリをじっと見ていると、このアリの中に38億年の時間を共有している仲間たちだと思えてきます。自分の体よりも大きな食べ物を巣まで運んでいるのを見てすごいなと思います。バクテリアもアリもゾウもすべての生き物は38億年の歴史を体内にもって生きている。私達が38億年前から続いてきた生き物の歴史があるからです。地球の様子は厳しく変化します。その時両親から生まれ、これまでにない存在となり、多様な存在にならない限り、同じ性質で同じように暮らしている生き物ばっかりだったら、みな滅びるかもしれません。多様になっていた方がいのちが続く可能性は高い。

2009年6月24日水曜日

たまたま人間に


おはようございます。昨日の暑さで扇風機を物置きから取り出しました。又夕方は梅雨どきなのに、見事久しぶりの夕焼けでした。
歌声は心をつなぐ・東京書籍:佐藤しのぶと中村桂子※:より

長いでしょう、38億年前の歴史を私達が自分の中にもその歴史を持っている不思議さ、今の身の回りに生きている生き物たちのDNAを分析してゆくと、どういうふうにしてアリはアリになり、人間は人間になってきたのか、キノコはキノコになってきたかが書いてある、それを読んで行こうというのが「生物誌」なんです。
つまりアリになるのか、人間になるか運命の分かれ道があるのですが、もともとは一つだったんですね。
アリとキノコと人間の形がどれだけ似ているか、形をみただけでは分からないが、でもそれぞれのDNAを調べてみると、アリの方がキノコよりは人間に少しは近いとか、キノコも植物よりも動物に近いというようなことが分かる。
キノコも植物より動物に近いことが分かる。キノコも、人間も同じ部分があるという、是は大歴史物語です。500万種くらいの生き物がいるがその70%が虫、だから一番栄えていることになる。

生き物すべて兄弟、それが氷河の時代、火山、洪水、旱魃などをくぐりぬけて今あるのだそうですから、途方もない歴史を背負っていることになるのだそうです。
この中村桂子さんはなかなかの人ですね。これからも登場します。

※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%A1%82%E5%AD%90
http://www.brh.co.jp/youkoso/kengaku/

2009年6月22日月曜日

チェルノブイリ


おはようございます。昨日は八王子市の湧水を3ヶ所みてきました。とても澄んだ水で、お椀状の土地、あるいは高台の崖した(ハケ)で神社が2ヶ所でした。
案外地図は概略しか示していないので、地形の探偵の如くでした。

歌声は心をつなぐ:佐藤しのぶ:東京書籍

私はすべてを脱ぐ捨て、音楽を通して子供たちとともに歌い、踊り、抱き合いました。チェルノブイリで被爆したこども、バングラディッシュのストリートチィルドレン、何か役に立ちたいと出かけはずが、反対に厳しい現実の中で、必死に生きる彼らから私は人間の真の尊さを教えられた。
音楽は人の垣根を飛び越えて、ハーモニーは笑顔を紡ぎ、歌声は心をつなぐ。美しい声とは美しい魂。
「子供たちのほとんどは、自分の病気のことを知っています。そしてその病気を克服できるかどうかは、自分たちの気持ちにかかっているのだということもまた、彼らは理解しているんですよ」とサナトリウムの所長さんが言う。だからこそ積極的に、夢を抱き、未来を見据えている。そうしなければ病気を克服できないことを知っているから。そんな彼らに人生をかけて携わろうとするボランティアの人々、それに引き替え、私は何故こんなににも何も知らずに過ごしてきたのか。自分が情けなく、まるで目眩がするような感覚だった。
「私など呼ぶお金があるのなら、もっと多くの薬を送って下さい。医者を呼んで下さい!」すると所長さんは静かにこういった。「佐藤さん、人はそれだけじゃ生きていけないんです。医療で治せるものは少ないんです。病気を克服するには医療と同じくらい、もしくはそれ以上に、夢や希望が必要なんですよ。私は言葉一つ出なかった。

ここにいる子どもたちは「誰もあなたのステージを観に行くことはできない」この言葉を受けオペラハウスと同じように演奏するために、活動的な服装を美しいドレスに、近くのふるいピアノをやっと調律し、皆懸命にがんばった。
3・4曲演奏しただろうか、やがてリクエストはシューベルト※のアベマリアだった。
(※わずか31年の人生、五線紙も買えない、けして幸福とは言えない人生でもけして希望や愛を失わなかった人、彼が生まれたことを、誕生の夜にチェロを弾き、神に感謝した父、彼を支えた沢山の友人たち、ゆがまない純粋な愛を抱き続けた人。)
アベマリアを歌いながら私は、子どもたちの生命を讃え、愛する気持ちに満ちた。
歌い終わると、はちきれんばかりの拍手を浴びた。
心が通じあえたという喜びとどうしようもない空しさも襲ってきた。
困難なはずのその身体で、走り、大きく手を振り何か叫んでいる。
勇気を与えにきた筈なのに、逆に励まされていた。とてもな大きな花束であったが、当時の私には少し大きすぎた。その花の美しさに応えるだけの強さを、まだ持ち合わせていなかった。こらえていた涙が一気に」あふれた。

トイレ掃除



おはようございます。年に3回の陶芸窯での焼成が昨日ありました。この焼成はまったく運を天に任せることしかありません。しかしながらこれがまた楽しみです。

自宅のトイレは男性でも座って使用してというこになって、実行していますが、かなり面倒ですが、
掃除をする人にとってはとてもよいことです。


佐藤しのぶとの対談者は、鍵山秀三郎、(株)イエローハット相談役から


鍵山:私は何もなく東京に出たんですね。ですから当たり前の普通のことしかやるしかなかったんですね。

佐藤:実際に自分でなさりながらその中から真理というものを自分で体得なさっていかれた訳ですか。

鍵山:そうですね。ただ残念だったのは普通のことが大切だということは分かったんですけれども、それを人に伝えことができなませんでした。
トイレ掃除というのは人が一番嫌うことでございますし、もた身をこごめて一番低い姿勢でないとできない掃除でございますね。
私は両親から「自分の心地よい世界を作っていくと、人間が卑しくなる」ということを絶えず言われました。居心地の良さをもとめていくと必ず卑しくなると。

会社の全員がそのようにやるという、40年たってもまったくやらない人もいるわけでございまして。そうですね。異質な人が集まって、反対する人もあった方が組織は活性化してゆく。それでもだんだん分かってきて増えていってくれるというのは嬉しいですね。
最初は私が四つん這いになってトイレ掃除をしていると、脇に立って用足しをしている人がいるということもありました。そういうところから始まった会社です。
どんなに厳しい社則を作っても社風がよくないと良くない社風に従った仕事をするようになるので良い社風を作ることがもっとも大きな仕事だと思っています。

掃除していると、だんだん心が変わっていく。
たとえば学校で素行がよくない生徒、この生徒と先生が一緒に肩を並べてトイレ掃除をやりますと、ガラッと変わるんです。それを罰として、ただトイレ掃除をやらせるとますます悪くなります。先鋭が一緒になって肩をならべてやると、その生徒は間違いなくよくなります。ということだそうです。

2009年6月21日日曜日

生花その②


おはようございます。生け花には全くしらないのに、引きこまれています。早坂暁氏が生け花関係の新聞に従事していたこともあったからだそうです。

 婦人将校が押しかけてきた彼女らからの質問が数多くあった。
●沈めてある剣山の不思議、木の枝をどうやって美しく曲げるのか、知りたがった。欧米の女性たちは花瓶いっぱいに花を挿すことはあっても、木の枝を花瓶に挿すことは絶対なかった。

●戦争があると生け花の師匠が増えるというのは本当だった。
日清日露戦争で数多くの戦争未亡人が生まれたが、再婚の道はほとんど閉ざされている彼女たちを集めて、“紅会”を作ったのが小原流家元の小原光雲である。「あなたの方は生け花で生きて行きなさい。小原流は渾身の力で支援します。」光雲の励ましに応えて、紅会の戦争未亡人たちは全国に散って自分たちの教場を開いた。幼い遺児を抱えた彼女たちは必死だった。「紅会は、いうたら靖国流なあ、普通の先生方より気迫がこもっとる」
生け花を支えてきたのは戦争未亡人たちであったかもしれない。日本は明治以来、ひっきりなしに大小の戦争を繰り返し、数百万人を超える戦争未亡人を作ってしまった。そのうち数万人が生け花の世界に活路を求めたのだそうです。


華日記:早坂暁:新潮社より
代表的流派?:
http://www.flowers.jpn.org/ikebana/ryuha.htm

小原流:http://www.ohararyu.or.jp/ikebana.php?action=work&yearFrom=2009&yearTo=2009
草月流:http://www.suzuki-hisako.com/ikebana/sakuhin.htm
池坊:http://www.ikenobo.jp/ikebanaikenobo/ikebana/index.html
遠州流:http://www.kadouenshu.com/

2009年6月19日金曜日

アグネスチャンの父の頭は四角


おはようございます。丸い顔でいながら、四角い頭で、おやと思いながらアグネスチャンの親の偉さが分かった。


2人の姉は顔も頭もよくて私は劣等感をもっていたが、あるときボランティアにいって、生ごみしか食べられない、住むところもない、親もない、親に捨てられた目の見えない子、癌の末期患者の看病や葬式をだしたこともあった。そういうことをしていたら同時に自分の問題が小さくなった。その当時いつも願っていたのは、子どもたちにお腹いっぱい食べさせて、寝かせたいということでしたね。そこで思いついたのは歌って募金を集めることだったんです。

そうことをやっているときに「歌ってみませんか」とスカウトされたんです。
そのとき姉が日本でも映画にでたりしたときに、平尾昌晃先生にあってお友達になったときに、私を紹介してくださった。それで日本に来ることにになった。日本でデビューして3年位歌ってカナダに留学しました。
カナダに留学したのが、父はまるい頭で四角の頭脳でした。私のことを日本で簡単にスターになったので、長い人生で壁にぶつかった場合に対処できないだろうことを心配した。そこで私を誰も知らないカナダに留学して、頭を冷やしてきなさいという深慮遠謀のことであった。

歌声は心をつなぐ:佐藤しのぶ:東京書籍より ※http://www.agneschan.gr.jp/

新型喫茶店


おはようございます。ファミリーレストランではなくて、喫茶店と甘味店を兼ねた、食事時ではない、仲間とテニスのあと、グループの会合のあとに立ち寄れる場所、で手頃の値段、小腹を満たせるところを狙った商売のようでした。
MIXIでこの存在をしったのですが、珈琲所コメダ店三鷹店※日曜日3時にいってみたら、混雑で、広さもファミレスのようで、順番待ちの予約する。手際よくそれほど待たされずに席についたが、30分後にはかなり待っているお客が多かった。
※名古屋本店、335店フランチャイズもありで、三鷹店は珈琲所とあるのは、コヒーとは別に、甘味喫茶の「おかげ庵」もあるようです。

此の喫茶店は、女性心理をよく知っているように思えた。甘味店も経営しているので、熟知しているのでしょう。
ところが今日のコンビニの話題をみていたら、スウイートを買うのは比率でいうと、6:4の6は女性それとも男性どちらでしょうかと質問があった。それはなんと6が男性だというのです。そういえばテラミスでもおおきな、普通の3倍もの大きさは男性の要望に沿うものだそうです。これだと認識を改めないといけません.事実思いだしてみると、一人でくる男性も大きなケーキを頼んでいました。


●品揃え;お茶類が約400円、小腹の盛皿700円(3人分)、ケーキ類、
http://www.komeda.co.jp/# 店舗は東京ではまだ6店舗
チケットが9枚で3000円、お茶なら380円を333円で利用できる。3人なら3回、あるいは4人でお茶+ケ-キなど。
●駐車場の台数もそれほど不自由しない台数が結構あります。
私がいった三鷹店はテニスコートの隣で、バス便の三鷹警察の前でした。
この店は結構繁盛しているので、しっとりして落ち着いた店を好む人には日曜日等は不向きのようです。

2009年6月18日木曜日

生花



おはようございます。講演会などあると、檀上にかなり大きな生花が飾られている。最近の家を見ると、和室も小さく、床の間も狭いか、マンションに至ってはないというものもある。

 しかし庭先や、ベランダには花をいっぱい置いているし、誕生日のお祝いに頂いた花はその一角が華やいでみえますね。花屋の店先には毎年見知らぬ花が飾ってあって、名前を覚えるのに、苦労しますね。
生け花は敗戦直後1945年8月15日以降は茫然自失の状態だった。こうなっては到底元の状態には復活せんやろというふうに思われて当然だった。

 主婦の友社の石川社長は社員高村トシに命じて、神戸の御影に居がある小原豊雲の所に赴かせ、勅使河原蒼風との2人展を奇跡的に焼け残った社の東京駿河台下の体育館で開く旨をお願いした。
その神戸で焼けた大丸デパートのウインドウが2つだけガラスも割れずに残っているのを見つけた。豊雲は残ったウインドウに絵と生け花を飾ることにした。焼け跡に咲いている鶏頭、ひまわり、菊などを使った。
「高村さん、腹をへらした人間は、そんなもん見向きもせんかと思うたら、違います。綺麗なものを、食い入るように見つめとるんです。日本人は今、お腹がすいているだけじゃないんですよ」
  
 勅使河原蒼風もこれらを聞いて「2人展の企画を知らされたときは、神の声を聴く思いだった。」と語っている。
蒼風は三番町の庭に埋めた花器を掘り返したり、拾ったジョロなどを代用に花器につかい、花材は野花や野草が大半であった。
開幕の朝10時はすでに大勢の観客が扉の前に立っていた。女はモンペ、男はゲートル姿だった。トシは「無料です。どうぞお入りください」といったが胸に熱いものがこみあげてきて、満足に言葉にならなかった。会場はすぐに身動きできないほどになった。
 
展覧会に集まってきたのは日本人だけではなかった。進駐軍将兵と、その家族たちが押しかけたのだ。
米軍の高級将校たちは、花器の中にわずかな草花や木の枝をあしらうだけで、楽しく繊細な空間を見事に作り上げる日本人に首をひねった。つい数か月前までに戦場で出会う日本人は死を承知で突撃してくる恐ろしい人間たちだったから。様々な抵抗にあう覚悟をしていたが、別の日本人のように見えた。

華日記:早坂暁:新潮社より

2009年6月17日水曜日

江戸を見た人


おはようございます。江戸時代が面白いのか、そのときの周防大島が面白いのか、これの話を採取した宮本常一さんが一番凄いのでしょうが・・・
今の山口県の周防大島は宮本常一氏の生まれ故郷である。そこの島の人の江戸まで旅の話です。宮本常一:ちくま日本文学より
その生活が貧しさ故にかえって気楽であったのかもしれない。島の中で通行手形も持たないで、ぶらり旅に出る者が少なくなかった。夜逃げでもなく、庄屋にもだまって出ていくのである。ひろい世間少なからずあった。村に庄兵衛という百姓は、一人ものの気楽さで、村はずれに藁ぶきの小さい家をたて住んであちこちの家の日雇い稼ぎをしていた。その男が何を思いつたか、草鞋を作りはじめ、土間に山のように積むほどに作ったが、売るためではなかった。
理由を問われ、「江戸へ行こうと思って」。江戸で何をする?「一生に一度江戸ぐらいは見ておかにゃア」。
やはり突然ではあるが、隣家だけにはことわって、村から姿消した。背中にはいっぱいの草鞋を背負うていた。彼が村をでたのは秋の取り入れがすんでからであった。
食料といえば、その方は乞食をして来るということであった。船でいく方法もあるが、これはお金がいるし、山陽道を大坂にでて、東海道を東へあるいて行く。途中の関所も一度追いちらされたが、たびたび頭をさげていたら小声で「早く通れ」といってくれたそうです。
江戸の土を踏んで、あてもなく町をあるき、江戸にいったしるしとして、浅草へいって雷門の仁王様の前にさげてある草鞋の片方をもらって帰ってきた。かえってきたのは翌年の3月だった。箱根の山の上に四里もある池があり、どうしてこんなおおきな池を掘ることができたのか、理解できなかったという。(芦ノ湖のことかしら)

2009年6月15日月曜日

いい加減の加減②


おはようございます。考えてみれば「いい加減の加減」というのが一番難しいが、日本人には一番合っている手法だとすると、外国人には本当に分かりにくいことかと思う。
繰り返しになりますが、これらを第3者として調査してみると、これらの番組を作った人がものすごくいい人ばかりで、悪意のある人ではなかった。
納豆の事案でも30歳代のディレクター(この人は仕事が相当に出来ると感じる人だった)はねつ造を隠そうともしなかった。自分のせいで、他の人に迷惑をかけたことに責任を感じていたし、他の人をかばう態度だった。
何故ねつ造したか、米国人の報告書は番組の主張と全く違っていた。全く別の成分が含まれているからやせる。ここでは企業から研究費をもらっていた。これのサプリメント発売前だった。このサプリメントの売れ行きに影響が出てはいけないとの心配をしていた。
ディレクターが取材したサプリメントのDHEAで2人に取材していた。
1) カメラに映るのはいやということで拒否された。
2) ネズミに食べさせたが、人間でのデーターはない
DHEAは沢山食べたら、ホルモンバランスが崩れる
3.4時間のインタビューで米国滞在は2日間であったのは、そもそも時間が短すぎる行程だった。期待したことが聞けなかった。
こういう番組は、最初の企画の段階から頭にあるのは、こういうものにしたいという企画の課題にあったインタビューを集め、ねばるという態度です。
こういう問題になった事件の取材方法がどうだったか調査するに、事前にメモ程度は用意するが、事実を集めない、どうしてかというと、現地にいけば何が起きるかわからないし、=まず空っぽで出発する。現地には知りたい情報は沢山あるから。
これが日本の大学の先生は、ディレクターは黒だという思惑があった場合に、白といわれても「これは灰色ですね、そうですよね、たまにこういうこともあるでしょ」というように誘導するのがディレクターである。日本の学者は米国人と違って「それは違います」とはっきりは言わない。
吉岡さんはこういうディレクターの米国での取材方法について、ディレクターの取材先宛て2日ほど取材許可をまっていたが、もらえなかった。
NYでの滞在でこの待っている間9.11の現場見学をした。そのとき思ったのは、たかが納豆で、誰も死んだわけでもなく、大阪の人からの多少の下痢位はあったようだが、なんでこのNYまで来ているのだろうと思った。
日本は北・南からあっという間にニュースが伝わる。米欧よりもこれははるかに強い。
日本の街の空洞化現象(シャッター通り)は田舎にいけば至る所の現象です。いろんな事件和歌山カレー事件などの特異な事件は、こういう旧市街ではなく、新しい街(出来て20から30年)でおきていて、行ってみると、ほとんどがそういう新興地である。ここでは隣近所は知らないもの同士である。地域の習慣や、伝統がない。新興地では個人の考えが、地域の文化や常識を帯びるとかもないので、個人の欲望がストレートに出やすい。
この和歌山のカレー事件で取材していた時に、街の人に声をかけられた。「やあ心配です。やあ学校崩壊。」「小学校3年生ですか、どこの学校ですか、秋田です」「あの秋田の学校帰りの事件、自分の学校でもあるのではないか」、本来なら自分の子供の学区内なら知っている筈なのに、いきなりマスコミの話題で、しかも距離もある秋田だったのです。
納豆のディレクターは、自分ではやせる必要がない、みんなに役に立てばよいと思っての番組のための取材。
今日も終われば何をやったかも忘れてしまうというディレクターがほとんど。
こういう荒い・思惑の取材があるからには、いろんな隙間がある。しかしこの事態が悪いわけではない。元来情報は「いい加減」なものだから。
又情報発信は一人一人ができる時代になったのだから。
どうすれば情報の発信ができるのか。私はそれぞれの現象をこのように思うというというものにまとめる。
取材の手順を記録しておく、段々にそれぞれのテーマについてどう考え、足踏みし、考えた軌跡、これは一人、一人違う。客観的真実というものはない。このことは誰がいったのか、人に着目してゆく。人の大事さを思う。
 タイの山村、国境に近い、30世帯くらいしかない村で、宿もないので村長さん宅に泊まった。吉岡さんはコーヒー好きで、ここではインスタントコーヒーを飲むときにそこの家族にも御馳走した。ところが村長さんだけはけして口にしない。天井に干物のネズミが置いてあって、これが御馳走だった。
3.4日しても飲まないので「どうしてですか」と聞いてみますと、「これはきっと相当に美味しいものにちがいない。そうであるなら、また飲みたくなったら遠い街まで誰かをやって、買いにいかせることも村長だからできる。しかしそのことでの影響が大きいから飲まない」のだという。この村長さんの話を聞いて、どこにも凄い人がいるものだと思ったそうです。ですから信頼のおける人を見つけて、この人の、人中心のことから始めればよいと思っているそうです。
文章というのは簡単だ。以前詠んだ本をもう一回読み直してください。読んで気に入ったところ、感心したところを、かならずノートに書き、3月くらいで続けるとかけるようになるそうです。
一番書けないのが、詐欺師のこと、取材しても、ほとんど作りごとで、どこまで本当かが分からないから。

武蔵野大学で吉岡忍先生の講演:創作のすすめ「いい加減の加減、何をどう書き、表現するか」

ピアニストは孤独


おはようございます。音楽のプロの練習の厳しさの一端が見えています。ただ才能があるということでは務まらないようです。しかも孤独でもそのなかに幸福を見つけている。

人生を幸福にしてくれるピアノの話:熊本マリ※:講談社より
※http://www.marikumamoto.com/profile.html

ピアノニストの仕事の一つに、孤独と向き合うことを上げたい。
楽器を操る演奏者のなかでも“おひとり度”は群を抜く。
わかりやすい例としては、他の楽器に比べて練習時間が長いこと。
一般的に息を使う吹奏楽器や、肩と片顎、片手の筋肉を酷使するヴァイオリンなどの弦楽器等は、練習時間をある程度調整しなければならない。その点、ある意味全身を使って演奏するピアノは、耐久力がある分、練習時間も多く取れる。練習中、私たちピアニストはいつだって、独りぼっちである。

コンサートの時はどうだろうか?オーケストラとの共演、あるいは他のアーティストの方との共演以外、やはり、舞台の上でもひとりである。さらに舞台裏は、みんなの想像以上に、地味なもの。マネージャーさんに同行していただかないため宅配便で会場に送っておく。ときたま身内が手伝いにきてくれえることもあるが、基本的に一人で会場に入り、ひとりで会場を後にする、むろん、身の回りのこともすべて自分で行う。練習でもひとり、移動もひとり、なにはともあれ、ピアニストは孤独と仲良しでなければつとまらない。

2009年6月14日日曜日

いい加減の加減①


おはようございます。かかり付けの医者のところは、何でもよく聞いてくれる優しい老先生と若い真面目な先生であるが堅そうな人で、やはり人気は老先生です。
患者さんが望む態度はやはり優しさですね。時折厳しさも必要ですが。

武蔵野大学で吉岡忍※先生の講演:創作のすすめ「いい加減の加減、何をどう書き、表現するか」
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E5%BF%8D_(%E4%BD%9C%E5%AE%B6)

ものごとは曖昧に伝えられている、いい加減なのが情報である。演題にはあるものの、この出だしにはびっくりしました。
「情報」というとほとんど真実に近いかというと、両極端があり、中身について風雪に耐えて歴史が評価したもの←→馬から落ちて、落馬しての類の人の噂というか、確たる証拠もない類推による内容かで精度が異なる。ほとんどは確定していない内容を情報と呼んでもよい。そもそも情報は「いい加減なもの」ではあるが、本当にあったものと信じてしまうのが、通例である。
しかしだからといってそういう情報であっても、ないと一日も暮らしていけない。それは困ったこと思うか、逆に面白いかということで見方や考え方、行動パターンが違ってくるのではないか。またこのような曖昧模糊とした情報で成り立っている社会を構成していることも事実ではないか。
 ここのところ講演者は自分のやりたい仕事をやっていない。テレビ局の報道姿勢が問題になっている「ねつ造記事や番組」についての第三者の調査と提言を頼まれているから。一報告書で400字詰め原稿用紙で、100から150枚である(新書は200から250枚である)


これらを第3者として調査してみると、これらの番組を作った人がものすごくいい人ばかりで、悪意のある人ではなかった。次に続<。

BPO:放送倫理・番組向上機構(NHK&民放)
http://www.bpo.gr.jp/
http://www.bpo.gr.jp/bpo/statement/s_20070129.html
放送倫理員会・放送人権委員会・青少年委員会・の議事概要などを見ると概要がわかる。
1. 関西テレビの「あるある事典」の納豆を食べるとやせるの効果のあやまり
http://www.bpo.gr.jp/better/shichosha/b-iken0701.html
http://www.bpo.gr.jp/better/kenkai/seimei_1.html

2. テレビ朝日のマグドナルドの内部告発だという調理日改ざんし販売したという誤りhttp://www.asahi.com/culture/tv_radio/TKY200712070351.html

3. 不二家の賞味期限すぎたチョコレートの再利用という内部告発
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid268.html

4. 日テレの番記者の裏金作りはとんでもないくわせもの
http://www.bpo.gr.jp/kensyo/giji/2009/025.html#01

5. 講談社の奈良の少年の母と妹の焼死させた事件は警察の調書による内容が4分の3だった
http://zara1.seesaa.net/article/43960805.html

2009年6月13日土曜日

ピアノの話


おはようございます。辻井伸行さんがヴァンクライバーンコンクールで優勝し、とても爽やかななコメントでした。

人生を幸福にしてくれるピアノの話:熊本マリ※:講談社より
※http://www.marikumamoto.com/profile.html
ピアノは持ち運びできない楽器。たいていの音楽家はみな、自分の愛用の楽器を持ち歩くのが常だけれど、ピアニストにいたっては、それは不可能である。
毎回、-相手が変わるという環境にいかに慣れるか?
プロになって、ピアニストがまずつきあたる壁である。ボディはスプルース(マツ科の常緑針葉樹)やカエデ、鍵盤は象で出できているという自然の産物であるということも関係しているのだろう。
ピアノという楽器は、まるで生きているかのように変化する。
温度と湿度のバランスによって音と弾きやすさは七変化し、ときにモンスターのように太刀打ちできない存在なのだ。通常は、温度24度、湿度45度くらいが一番しっくりくる。湿度70%を超える環境にピアノが置かれていると、ピアのハンマーが湿気を思いきり吸って、鍵盤の重さ・・・・つまりタッチした時の感触がことごとく変わってしまう。
一台一台人の手で作られるピアノには、世界にひとつとして同じものはない。
ピアノは男性に、ヴァイオリンは女性的な楽器の代名詞となっている。
ピアノには寿命があり、ストラディヴァリウスのヴァイオリンは年月が経つにつれて、名器に育つが、ピアノは通常3年が弾き頃といわれ、10年選手の古いピアノにも古いピアノなりの、味わいが備わる場合がある。いっぽう真新しいピアノでも若さみなぎるパワーを発揮することもある。
最後はピアニストとピアノの相性がある。それは男女の仲となんら変わらない。「今日はどんな相手かしら?」
リハサールで鍵盤に触れた瞬間。「この人好き」という直感でわかる。その逆もしかり。相手が気に入らない場合でも、席を立つことも出来ない。本番では一夜限りの熱烈なカップルを演じなければならない。その出会ったピアノが引退したり、他のピアニストが弾きこまれたせいで)まったく様子が変わっていて面食らうといった苦い経験もある。
●大きなピアノ480KGを弾きこなすには体力が必要なのでビフテキなどよく食べる
●オスカー・ワイルドいわくの名セリフ、ピアノに関しては、私の長所は感情である。テクニックの方は人生のために残しておくんだ。
スペインでいわれたのは、完璧で正確なに弾くのならPCに任せておけばよい。聴く人に感動させられる、こころに響く音を作らねばなりませんと。
●グランドピアノの値段:1700から2000万円、スタンウエイのBモデルというのが人気があるそうです。地球温暖化の影響で素材の減少により、価格を上げているそうです。プラスチックの鍵盤は汗を吸い取らない。
●3日間ひかないと、手がふやけたような気持ちになる。

2009年6月12日金曜日

住宅&自然&地震


おはようございます。従妹(ドイツ人と結婚)の住宅で考えると、国では日本とドイツのどちらが(自分の馴染みの部分と、地震の問題)、日本での仕事のある時期、退職後・老後の時期でどう変化に対処すべきかについては、どのように考えたらよいか、結構大きな問題です。

 街の木は、たいがい花の咲く木です。もちろん花咲木は大切にしなければなりません。住まいのベースをつくってきたのはむしろ花がさかない木でした。花の咲かない木に対する関心が、とりわけ都市生活において無くなっていませんか。木と共に一緒に生きている、そういう日々の感じがなくなってきているのではないでしょうか。
 
 本当にマツの木を植えなくなったと思います。マツの木というのは「見越しのマツ」というぐらい日本文化に馴染んでいましたが、もはや現代では、マツの木によってできる塀とその後ろにある瓦屋根がものすごくむき出しで醜悪に感じらることが多くなってきているようにも思えます。その原因の一つは、瓦と景観的バランスをとるはずだったマツの木がなくなったことにあると思います。
高層のマンションなどの場合、6階を超えると木は窓の下にしか見えなくなるんですね。25階にすんでいる人は「風景にたいする考え方が変わってしまった」と言っていました。「木があると、風というのはそれほど感じなくてすむが、今は風しかない」ともいっていました。

 日本の場合、みんな建築の間取りはほとんど同じです。京都の名刹も、安普請の寺でも立体と平面を見る限りほとんど違いがない。でも配置は全く異なります。それによって空間の質がことなります。間取りだけみていると、周辺部の配置が取り去られて裸にされて街に曝されているような状態です。間取りだけでは気持ちのよい生活は見えてこないということです。

 日本にコンクリートが入ってきたのは関東大震災と、第二次大戦がありなにしろ燃えない・壊れないものにするためでした。日本の型枠大工は世界一といわれるレベルであり、木造技術の延長ですごく簡単につくれたからコンクリートは一気に広がった。コンクリートが壊れたビジョアルな印象は木造の比ではなく無残である。住宅ローンというのは頼りにならないのがよく分かったのが阪神・淡路大震災だった。

問う力、長田弘・連続対談(隈研吾の巻)みすず書房より
http://www.world-architects.com/index.php?seite=jp_profile_architekten_detail_ja&system_id=15182

保険料;http://www.mof.go.jp/jouhou/seisaku/jisin.htm#04:たとえば東京と山形では3倍以上の保険料の額に違いがある耐震性によって保険料の割引が違う。

2009年6月11日木曜日

こんばんはの挨拶


おはようございます。仕事先がいつも変わるのであちこちいきます。
西武多摩湖線というのが、中央線の「武蔵境」から「是政」まで。仕事で武蔵境から3つ目「白糸台」(ここは京王線の武蔵野台あるいて4分くらい)で降りました。そこの改札口の駅員さんはまだ20代の人だと思うのですが、どの人にも「おはようございます」と声をかけていました。しかし誰も応えませんが、がっつかりもせずに続けています。

日曜映画劇場の解説をやっていた故淀川長治さんが黒柳徹子さんの対談にこんなのがありました。
いつもの癖で、バスの運転手さんに「こんばんは」といったんですよ。それで何で僕が「こんばんは」といっているのに、びっくりぐらいしてくれたらいいのにと思っていました。こっちは寂しくて、もういっぺん、私は「こんばんは」といっているんですよ、という顔をしてね、「こんばんは」と言っても、「・・・・・・」。
もうがっかりして、そのまま座って帰りました。まあ、人がせっかく「こんばんは」言っているのに、にっこりくらいしてくれたらいいのに思ってね。それで家帰って寝て、もうそんな事忘れていました。あくる日の朝十時半頃、チャイムが鳴るのででたらね、若い男の子が色紙持っているんですね。何ですかと言ったらね。私淀川さんのファンです、言うたの。まあそんな人、いないことないんですけどね。けど時間決めて電話かけて下さい、突然みえてたら困るんです、言うたのね。で、どうしてこの家が分かっんですかと訊いたらね、「淀川さん、昨日バスにのったでしょう?」というから、ええのりましたよと答えたら、赤い顔して、「僕、あの時の運転手だった」と言うんえ。

黒柳:まあ、ご本人がいらしたの。
昨日車庫へ帰って「テレビ出ている人によーく似た人が“こんばんは”と言ったけど、あの人じゃないでしょうね」って聞いたら、みんなが「淀川さんだよ!」と言ったんで、淀川さんみたいな人が自分からあいさつしたのかとびっくりしたのだそうです。それで今日は喜んできたのだという。
その時手を後にして、はずかしそうにしている、ついにチューリップとフリージアの花を差しだした。淀川さんが母思いであることを知っていて仏壇の花を持ってきたのだという。

2009年6月10日水曜日

やればできる軍縮(糸口)



おはようございます。軍縮というのは本当にできるのかなという見方がほとんですが、じっくり・あきらめずに持続すれば出来るのだということがありました。もっと報道されてよいことだと思いました。
核軍縮のカットオフ条約への政治的プロセスを推進した。これは「核兵器の原材料をもうこれ以上つくらない」という条約だそうです。

 アメリカは勿論安保理5大国が全部反対だった。それを一国一国交渉して味方につけて行きました。やはりアメリカは最終的に残った。そのアメリカも2004年7月にはホワイトハウスでカット条約を加入に賛成の立場を正式に発表し、NPT(核兵器不拡散条約)の会議(何故インドの核保有を容認したのか?)でもアメリカはカットオフ条約に一貫して賛成の立場です。本当に信じられない結果だったそうです。

 成功したのは明確なロジックで相手の不安感に応えるために、よく聞いたことです。よく聞いてみますと、要するに「9.11が二度とないようにしたい」ということだったそうです。「9.11がもし核テロだったら」というどうなっていたかということだった。このように「聴くこと」が「呼びかけと応え」を導くことになっていないのです。発信というと、とにかく大きな声で、演説をしたり、声を張り上げるということになってしまう。それぞれの国はそれぞれに違うのですが、国の違いを乗り越えるということはやはり「概念のチカラ」、国連のアナンさんが「あなたのやっているこの小型武器nの仕事は事実上大量破壊兵器だといってくれました。小型武器は小型の問題だとみんな思っています。

 50万人もの人が死んでいるのに、広島・長崎で20万人で、毎年50万人ということは1分に1人しんでいることになります。まぎれもなく大量破壊兵器なのだ。卑近な概念でバリアフリーは人の気持ちをパッとつかむような感覚がある。この言葉の響きが概念をいっきに伝えてくれます。声をあげるというもう一つの概念、日本ではプロセスといっても何かあってから「そのあとのこと」というのをやるけど、それはフォローで、国際社会では本当に重要なのはLEAD UP・あることに向かっていくことが重要、日本は世界で何が決まると、あくまでも「さて日本どうしましょう」という具合です。その条約を作って行くのだ、この会議で認識形成を世界に定着させるのだということでなければならない。決定を受ける人ではなく、決定する人でありたい。どうしてか誰かが作ってくれるという感覚があるのがとても残念でならない。といっています確かにそういうキライがありますね。

 長田弘と猪口邦子の対談から

2009年6月9日火曜日

所かわれば


おはようございます。ところ変われば、のこぎりの引き方・押し方、水道の蛇口のレバーの上下全く逆です。
日本のエレベーターには、すべて閉ボタンがあります。
いらいらして連打する人もいます。「人生において、1秒か2秒の得がどんな意味があるのだろうか」ドイツ人はそう思っているようです。
それより重要なボタンが付いています。新鮮な空気を呼び込むファンのボタンです。ドイツ人は新鮮な空気を好みます。だから森を大切にします。
小さなエレベーターのボタンからドイツ人の国民性が浮き彫りになっていきます。

世界それほんと!会議【特派員情報】
カーワト理恵さんからの情報でした。
http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=131&agent=&partner=livedoor&name=%B9%F5%CC%F8%C5%B0%BB%D2&lang=euc&prop=500&bypass=2&disp

2009年6月8日月曜日

夜と霧④解放


おはようございます。麦秋の隣はキャベツ畑にモンシロ蝶が、また紫陽花も花に青空の色です。


気持ちが萎えときには涙することもあったが、涙を恥じることはない。この涙は苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。
夜と霧;新版;池田香代子訳:みすず書房より

しかしこのことをわかっている人はごく少なく号泣したことが折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。たとえばあるときわたしがひとりの仲間に、なぜあなたの飢餓浮腫は消えたのですか?とたずねると、仲間はおどけて打ち明けた「そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ・・・」自分を待っている仕事は愛する人間にたいする責任を自覚した人間は生きることから降りられない。まさに自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどのあらゆるどのようなことにも耐えられるのだ。
いよいよ強制収容所の最後の部分の解放された被収容者の心理だ。収容所のゲートに白旗が翻った時点で今までの精神的な緊張のあとを襲ったのは、完全な精神の弛緩だった。わたしたちが大喜びしたのだろうと考えるのは間違いだ。
疲れた足を引きずるように仲間たちは収容所のゲートに近づいた、もう立っていることも出来ないほどだったのだ。
仲間たちはおどおどあたりを見回し、もの問いたげな眼差しを交わした。」そして収容所のゲートから外の世界へおずおずと第一歩を踏み出した。「自由になったのだ」と何度も自分に
言い聞かせ、頭の中で繰り返しなぞるのだが、おいそれと腑におちない。自由という言葉は何年もの間、憧の夢のなかですっかり手垢がついてしまっていたのだ。現実をまだそう簡単につかめなかった。今までの居住棟に戻ってきて「なあちょっと訊くけど、きょうはうれしかったのか?」まさに嬉しいということさえ忘れていたのだ。心理学の立場でいうと強度な離人症だった。身体の方は精神ほどはがんじがらめになってはいなかった。ガツガツむさぼり食ったのだ。それが何日も深夜まで及ぶこともあった。数日経過してさらに何日も過ぎて舌がほじくれるだけでなく、感情もほとばしってきた。

楽しみは自分で作る


おはようございます。サッカーはらはらしました。やっとウズベキスタンに1:0で勝利しました。前回のホームでも引き分けだったそうですから
当然かもしれません。それにしても審判員が公平でないと、つまりませんね。

 映画解説で知られていた淀川長治さん「楽しみは自分でつくる。」

 北海道の中央部の芦別という所に講演にいって、終わってロビーにいったらいっぱいの人が握手したり、喜んでサインサインいって。 また来ます、別れようと思ったら、僕に左手で握手してくれというので、のね。 でね「握手は右手でしましょうね」と言ったら黙ってんの。 勝手だなこの子は、田舎の人やねと思いながら握手。で車だしたけど、出しかけにその子どこか気になってね。道の向こうで立ってるの その子右手がないんですよ。   しょぼんとしているのね。それで僕あんまりだから、ちょっと車とめてください」って車とめて、ドアを開けて跳んで道越えて、その子の左手握ったの。   そうねえ、20歳くらいかしら、涙ためていました。

「私はねえ、恥ずかしいですけど、一日一回、感激や、嬉しいことがないと寝つかれないの。今のこの時間は、とっても楽しいんです。今日は18日でしょ。すぐ頭で“いいわ”なんていう感じになっちゃうんものね。3月9日は“サンキュー”という言葉になるのね。嬉しいな、嬉しいな 今日はサンキュ、サンキュて子供っぽいけど、そういうふうに考えちゃうのね。嬉しいことを。

徹子と淀川おじさん:人生おもしろ談義より

2009年6月6日土曜日

夜と霧③


おはようございます。1年間だけであるが、助成を受けてカラーの本印刷になった「きらっとかわら版」6号を接骨院などにもお願いして、待合室にもおいてもらうようしました。
無料ですから購読者ではなく、読者ですが、これの数をどう増やしていくかが課題です。継続が一番のようで、中身もいいわよなどの意見も頂戴するようになってきました。

夜と霧;新版;池田香代子訳:みすず書房より


とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送列車の鉄格子の隙間から,頂きが今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルグの山並を見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのにーーあるいはだからこそ--何年もの間目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。

あるとき、労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に土の床にへたえりこんでいたとき、突然仲間がとびこんできて、太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただしそれだけのために。
収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場がひろがり、水たまりは燃えるような天空を映していた。わたしたちは数分間、言葉もなく心奪われていたが、だれかが言った。

「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

きらっとかわら版第6号
http://kirattokawaraban.up.seesaa.net/image/C7DBC9DBCDD1A1A1C2E86B9E620.pdf

2009年6月5日金曜日

和歌の世界


おはようございます。昨日は林望先生の最終の授業でした。いつもなら1時間半なのに、倍の3時間でした。古今集と新古今集についてでした。
今度NHKの大河ドラマにも出てくる正岡子規が書いた「歌詠みに与ふる書」という中で、これらの両書は、王朝貴族の実感のない空想・模倣の歌であるという批判をしているが、その批判は必ずしもあたらないと。
例えば百人一首にもある
月のおもしろかりける夜、暁がたによめる 清原深養父(清少納言の叔父)・古今夏166
  夏の夜はまだよひながら明けぬるを  雲のいずこに月やどるらん

この時代の歌は宮中歌会始めのように 朗朗と読み上げるのを聴くことにあるそうです。それにくらべ現代のはさらっとよんで意味を伝えるという違いがある。
あのころはゆっくりと時間が流れていたそうです。
ドラマの映写を見るようにつながる、といっても分かりずらいが
「夏の夜に」を15秒もかけて読み上げる、そうすると、聴いている人の胸に
夏の夜の情景が浮かぶ、つぎに まだよひながら、順次たどっていくと映像の物語が展開するそうです。
この時代の貴族の一大関心事は恋愛だった。そうすると冬ならば夜が長いが、夏は恋人といる時間があっと過ぎてしまう。あけがたには帰らなければならない悔しさや残念さを歌っている。
まだ「よい」今の時間でいうと夜の6時から8時の時間帯なのに、もうすぎて帰らなければならない、朝になってしまった。あの月はどこの雲の陰に隠れてしまったのか、これを月のかくれんぼと解するのは単純すぎる。情熱的な夏の夜の夢ではなく、この人生は短いのだから、恋人と一時でも長く過ごしたい想いですと。
観念的に感じるのは宮中での歌会は、「題詠」を示されてその場で当意即妙にうたうのだから当然ではあるが、それでも心ときめかせる情感は誰しももっていた。

夕立ちの雲もとまらぬ夏の日の  かたぶく山にひぐらしの聲
                             式子内親王(新古今夏232)

定家と同時代であり、彼よりも才能があるという評価をされていた。
夏の日は火照るくらいの暑さ、夕方ともなると、急にどしゃぶりの雨をもたらした雲が疾駆してゆく、もう雨宿りも間に合わない位だ。
この夕立ちが降りやむと、夕日が沈もうとしている山からひぐらしの泣く声がなんとも、夏の終わりを告げる。(恋人に会えないわびしさもあるのでしょうか)これをゆっくり反芻しながら映像として思い浮かべると、すごいカメラマンのようです。


それで3時間の意味は残り1時間になった時に、朗朗とした素晴らしい歌を聴く楽しみもあるが、それをもっと感じるにはみなさん歌を一首詠んで下さい。この休憩時間にトイレにいってそのまま帰らないでくださいと。
題は①自由、②若葉、③恋愛でやく20分の時間があった。
どうにも浮かべない。画用紙の長い紙3枚が与えられた。
皆ざわざわしたのも、静まり返っている。
とうとう回収の時間がきて3枚の裏表に修正を加えても、納得がいかず下書きの紙をだしたら、新しい紙をくれたので清書してだした。
最後に5・7・5・7・7にするために、鯉のぼりをいれたら下記のような歌になった。

鯉のぼり  赤子の指に柿若葉  我にくれたり 風のそよふく

何と3等2首、2等1首、 1等1首で最後に読み上げられたのが小生の1首だった。賞品は小生の歌を色紙に書いて、裏面に先生のサインだった。嬉しく頂だいてきました。

悔しいのは歌の解説をきくと分かるのに、自分だけで解説を飛ばされたところはよく分からないのでした。

2009年6月4日木曜日

夜と霧2


屋の店先にはもう桔梗の花がおいてありました。随分早いものです。

飢え:被収容者が大勢で作業現場にいるとき、監視の目がゆるんだとする。すると、すぐに食べ物談義が始まるのだ。ひとりが、隣りの溝で働いているだれそれはこんなものが好きなんだとさ、と始めるのだ。それから、レシピの交換やら、解放され、家にもどったら互いに再会を祝ってささやかな宴を開こう、そしてこんなものを食べようと、メニューを数え上げる。空想はそれこそきりがない。それは突然見張りが来るぞ!
最後のころの一日の食事は、日に一回あたえられる水としか言えないようなスープと、人を馬鹿にしたようなちっぽけなパンで、それに「おまけ」がついた。それは20gのマーガリンだったり、粗悪なソーセイジひと切れだったり、静養中の病人の食事はさらにひどかった。栄養不良のため性欲がきれいさっぱりなくなる。

愛する人:.わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影で占められていた。精神がこれほど生き生きと面影を想像するとは、以前のごとくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が堪えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくてらした。収容所に入れられ、なにかを自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることが出来るのだ。そうです。

夜と霧;新版;池田香代子訳:みすず書房より

2009年6月3日水曜日

アパルト・ヘイト



おはようございます。先日世界遺産で、南アフリカ共和国の子供たちが、今行ってみたいところのNO1が「ロベン島※」というところで、あのマンデラ首相も政治犯として収容されていた島だった。この島でアパルト・ヘイトから脱出する方法をまさぐったところだという。よくぞ黒人解放をまとめあげたものだと思います。まだまだその過程がよくわかりませんが、その糸口が見つかりそうです。
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%B3%E5%B3%B6。

南アフリカの黒人と白人の融合政府を作っていく過程、それはアパルト・ヘイト「隔離して恨め」ですからそういう差別を受け、人権を剥奪された黒人たちはどうやって白人との折り合いすることに至るかということだそうです。
彼らは委員会を「真実和解委員会」と命名した。真実を見つめる、加害者も、被害者も見つめなければならない。黙って真実を見つめるということが、どれほど大変かということですが、真実を見つめることで、魂から謝罪の言葉がでます。真実を見つめなければ、謝罪は和解につながりません。
しかしそれが軍事大国のパラダイム(枠組)から出てくることはなかなか難しい。彼らは別のことで忙しいから、だから日本および、ヨーロッパの小国、その他の国々、あるいは途上国、そういう国と連帯しながら、世界全体の平和に役立てるべきです。すべては聴くことから始まる、聴くことからはじめないと何も始まらない。聴くということは相手が問題視して、何にこだわっているかを知ることからでだそうです。
問う力:長田弘と猪口邦子の巻

アパルトヘイト(Apartheid)は、アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策のことを指す。南アフリカ共和国はこの政策のために32年間近代オリンピックからさえも追放されるなど強い批判を受けていた。
1948年に法制化され、以後強力に推進された。1980年代後半は、国際社会から激しい非難を浴び、貿易禁止などの経済制裁を受け、経済的に行き詰まった結果、1991年に当時のデクラーク大統領が法律撤廃を打ち出した。その後、ANC(アフリカ民族会議)など、解放勢力との長期にわたる交渉の末に、1994年全人種による初の総選挙が行われ、国際連合に「人類に対する犯罪」とまで言われたこの制度は完全撤廃された。

夜と霧①


よくも生きながらえて、この手記が陽の目をみたという感慨を覚えます。
夜と霧;新版;池田香代子訳:みすず書房より

わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」をしった。では人間とはなにものか、人間とは、人間とは何か決定する存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然としてお祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。
カポー※からの虐待は親衛隊員を超えていた。収容所ではただ生き延びるために熾烈な競争があった。生存競争の中で良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも、平気になってしまっていたのだ。そういう者だけが命をつなぐことができた。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく、生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった。
※囚人の仲間から選抜された監視人で自分の保身のために、かえって仲間に苛刻な扱いをする。
.死刑を宣告された者が処刑の直前に自分が恩赦されるという空想をし始める。最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くはないだろうと信じた。当時アウシュヴィッツで一晩を陽気に過ごせるだけのブランディが何千マルクについたか知らない。目の前の長身でスマートな真新しい制服に身を包んだ親衛隊将校が人さし指を右と左に動かしている。夜になってこの人さし指の意味をしった。私たちの90%が左にやられたのは入浴施設(実はウソ)と書いてあるが、その先で何が起きたのか言わなくても分かるだろうと。数百m先の煙突を指差した。渺々たるポーランドの暗い空をなめ真っ黒な煙となって消えてゆくのだった。

2009年6月1日月曜日

トットちゃん


おはようございます。トットちゃんという方は無類に面白い人だとわかりましたし、リンカーンの南北戦争の試練や苦しみや もだえも平明に教えてくれます。

リンカーンの演説集をトットちゃんが引用したのは、どの国も神様(多分、宗教は違っていても神様は一人だろう)に勝利の祈願している。それには理由をいわねばならない、百年も遅れてサッカーチームを出発した、必死の努力と、体が小さい人たちでも,勝つことが出来たら、どれだけの国の人々が自信をもち、練習が大切で,真剣にとりくめば、勝つことができるのだ、と知るかわかりません。もしこのことが大切とお考えなら、どうぞ勝たせて下さい」ということだった。

1865年3月4日4年続いた南北戦争が、終わりに近づいた頃、リンカーンが2度目の大統領に選ばれたときの演説。南北あわせて61万人の兵隊が死んだ。


「両者(南北)とも戦争が現在のように拡大し継続するとは予期しませんでした。(中略)。各々もっと容易に勝利を予期していたのでありまして、またこれほど重大なまた驚くべき結果が生じようとは思っていませんでした。
両者とも同じ聖書を読み、同じ神に祈り、そして各々敵に打ち勝つために、神の助力を求めています。他人が額に汗してえたパンを奪おうとして正義の神の援助を求める人があるということは、不思議に思えるでしょう。(中略)両者の祈りが双方ともききとどけられるということはありえませんでした。(中略)。

全能の神は彼自らの目的を持ち給います。『この世は躓(つまずき)物あるによりて禍害(わざわい)なるかな。躓物はかならず来らん。されど躓物を来たらす人は禍害なるかな』

もしもわれわれが、アメリカの奴隷制度は神の摂理により当然来たるべきつまずきの一つであり、神の定めたもうた期間続いて来たものであるが、今や神はこれを除くことを欲し給うのであると考え、また神はつまずきを来たらせた者の当然受くべきわざわいとして、北部と南部とに、この恐ろしい戦争を与え給うたのであると考えるとしますと、それは活ける神を信じる者が当然持ってよい考えではないでしょうか。

われわれがひたすら望み、切に祈るところは、この戦争という強大な笞が速やかに過ぎ去らんことであります。しかし、もし神の意志が、奴隷の250年に渡る報いられざる苦役によって蓄積されたすべての富が絶滅されるまで、また笞によって流された血の一滴一滴にたいして、剣によって流される血の償いがなされるまで、この戦争が続くことにあるならば、3000年前にいわれたごとく、今なお『主のさばきは真実にしてことごとごとく正し』といわなければなりません。

なんびともに対しても悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって、神がわれらに示し給う正義に堅く立ち、われらの着手した事業を完成するために、努力をいたそうではありませんか。国民の創痍を包み、戦闘に加わり斃れた者、その寡婦、その孤児を援助し、いたわるために、わが国民の内に、またすべての諸国民との間に、正しい恒久的な平和をもたらし、これを助長するために、あらゆる努力をいたそうではありませんか。


不思議の国のトットちゃん:黒柳徹子:新潮社より