2009年12月31日木曜日

棚田


おはようございます。カレンダーを変えたら「日本の棚田百選」もありました。故郷の山形県には3ケ所の朝日町 山辺町 大蔵村でした。当たり前ですが、平野が広いと棚田は少なくなっています。
山間ですから雪一面になっているところもあるのでしょう。
http://www.tamano.or.jp/usr/sumiyosi/sub10.html
百選というからには、実際はもっとあるということになります。長野県や宮崎県に多いことも分かりました。実に美しい風景ですが、山間の田ですから、耕すことや、日当たりの面や灌漑用水などで随分苦労したでしょうし、棚田にうつる月を楽しむこともあったのか無かったのか。
さすがに北海道はない。沖縄にないのは田がないからだろうか?
長野県飯田市の「よこねたんぼ」は110枚で3.0haで一枚あたりの面積が細かいようです。

2009年12月30日水曜日

のび太君のしのぎ方


おはようございます。「ドラえもん」に出てくる「のび太」君はとても親近感があって子どもらも共感するところ大なのでしょう。苗字が「野比」というのがちゃんとあったようです
それで彼のお小遣いですが、ドラえもんに頼んでいるが、そこは野放図には出していないようです。又こんなもの欲しいというアイデアが如何にも子どもらしい。
野比のび太http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%AF%94%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA#.E4.BD.8F.E6.89.80

日常生活
小遣いは毎月500円[93]。しばしば金が足りない状態となり、親に小遣いの値上げをねだり、断られるたびにドラえもんに金を出す道具を依頼する。基本的には「お金を出す道具なんてないと、何度言ったらわかるんだ!」[94]と断られるが、のび太をこらしめるためにドラえもんが道具を出すこともある(円ピツ、未来小切手帳など)。道具を使って金もうけをするというアイデアには富む。
自分がいつも朝遅刻して廊下に立たされたり、先生に叱られていることは自覚しており[95]、自己嫌悪に陥ることもしばしば。母の説教に対し家出することもしばしば。
よく遅刻する理由は「学校が遠すぎるから」と自分では分析しているが[96]、のび太の足では家から学校まで約15分の距離である[97]。運も悪く偶然犬の尻尾を踏んで犬に追い掛け回されたり噛み付かれたりすることが多い。
作者の藤子も少年時代にいじめられていたため、「のび太は私自身なんです」「僕は子供の頃、かけっこも運動も苦手でクラスの友達からいじめられていたんです。ドラえもんののび太そのものだったんです」と語っている[98]。

2009年12月29日火曜日

新人の期待


おはようございます。最近の新人は誰がいるでしょうか?スケートの場合は後輩育成が大変うまくいっています。ゴルフ界の石川遼選手以外はどうでしょうか?

会社や学校でも新人がはいってくると、新鮮な感じがします。
『ニッポンの横顔:大石静』より
松下幸之助さんは経営者としての条件に「運があるか、愛嬌があるか、背中に風格や徳があるか」を挙げたそうです。
松下幸之助さんに、若き日薫陶を受けた経営者は、来客を必ず見送るそうです。相手の背中をみるために・・・。
大石さんは新人のオーディションの時、芝居はどっちみち下手なので、大石さんが見るのは次4点だそうです。
1、 清潔感があること
2、 空間の占領度が高いこと(華があるかということだそうです)例:舞台の場合に、セリフもしゃべらず、隅っこにたっているだけで、なぜか観客をひきつける役者がいるそうで、こういう場合が空間を支配する力があると感じるそうです。宝塚のトップスターになる人は、バックダンサーズの時代から明らかに目立っている。
3、 口角※が上がっていること(口の左右):よくわからないが口元がキリットしていることでしょうか。
4、 後姿がすっきりしていること
オーデションが終了し退席するとき、印象が突然変わる人がいるそうです。背中がだらしなく,一気に印象が悪くなる。

2009年12月28日月曜日

近隣の国際交流


おはようございます。なぜ通信使というのか分かりにくいが、使節なのではないでしょうか。
朝鮮通信使:2009.12.27NHKETV特集 日本と朝鮮半島2000年(9)「朝鮮通信使 和解のために」
今までの認識は朝鮮から来た一行は、ただの普通の使節団だと思っていた。ところが時代は室町時代に始まるという。室町時代から始まったこの使節団は、秀吉の朝鮮侵略によって途絶え、江戸に入って日本が要請して再開され200年以上も続いたとのこと。それも昔の韓流ブームだった。使節団の規模は500人にもおよび、半年も滞在したのだそうです。朝鮮の意図は秀吉のような制服心を起こさないように文化交流によって親睦を目的としたものだった。
道中は音楽隊が先導した。(日本の場合の行列は、大名行列で権威の表明のように「下に、下に」とは違い親しみを表した。日本側も宿泊先の食事の準備も、日本では朝鮮が好む獣・四足の肉はないので、長崎の中国人が食した豚や、国内では鹿の肉、イノシシの肉まで準備し、宿泊先の調理場に運び込むのに、専用の出入り口まで用意した。日本の民間人などは、その食事の前に、押しかけてきては、いろいろのことを知りたがった。
静岡付近ではこの使節団に富士山が見える絶景の道をわざわざ造成さえした。文化使節団なので文化に詳しい人が来日し、書や詩が好まれて、筆談で夜通し語り合うことがおこなわれ、別の場所に移動するときの名残を惜しむ別れも実のこもったものだった。国と国の交流を越えて、庶民レベルまでになっており、人と人との付き合いになっていた。通信使が日本にきてみると、秀吉の行った野蛮な国ではないこともよくわかった。
しかし韓国側の学者の意見は、室町時代で200年続き秀吉の時代の朝鮮侵略後途絶えた期間も200年、江戸時代に再開され200年、平和交流の長い国際交流の希有な例ではあるが、回復にも長い時間を要し、この交流が途絶えると、戦が始まっていることに留意しなければならないとのこと。
朝鮮通信使のwikipediaの説明:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
を読むと、国際交流であるから、いい面や悪い面、朝鮮側は偵察の目的、日本側は入貢の為とかがあったようです。

2009年12月27日日曜日

折り込み広告の楽しみ?


おはようございます。毎日入ってくるチラシは年末は特に多いですね。おまけに不景気の影響でポストへの投げ込みも多いですね。

折り込み広告:

衝動買い日記:鹿島茂より
毎朝、新聞の折り込みを今日や日頃買いたいと思っているチラシ以外はまるごとゴミ箱にすてる人が多いと思う。
この著者はどんなパンフレットでも広告特有のポエジーがあると楽しんでいる。たとえばこのエステのモデルは、股の間からむこうが見える痩せぎすな「エステ後」の姿よりも、「エステ前」の丸ポチャ姿のほうがはるかに可愛く見えるから、モデルに使ったのは失敗だったとか、この学習塾の戦果発表は、「ここ数年の合格者」と銘打っているので、今年の戦果はよほど悲惨だったに違いない、だとか、それぞれの業界によって、オリコミの味わい方のコツがあるのだ。ただどれも自分とはまったく無縁なパンフレットだからこそ批評家として客観的に楽しめるのだそうです。
この人はころんでもただでは起きない人種でした。
腹筋マシーン(すぐ使わなくなり、片隅に放置)、ふくらはぎ暖房機(冷え性対策)、通勤カバン(男子でも同じカバンの人と出会うと嫌になる)、挿絵本(フランスの古書店探訪記はただ見るだけでは許されないと、追い払われるので、絶対にない本を探しているという言い訳を用意する。しかし探しだしてくる店主もいて慌てる)
この日記の巻末に衝動買いのその後が書いてある。
腹筋マシーン;書斎の隅で一種の洋服掛けとして使われている
男性用香水このエッセイを書いたおかげで、香水関係の審査員に選ばれ、香水をたくさんいただいた。
サングラス:これをかけて夜の六本木を歩いたら、筋ものと間違えられ、客引きの女の子は一人も寄ってこなかったそうです。

2009年12月26日土曜日

同感の衝動買い


おはようございます。思い切って買った時の善し悪しは誰しもあることですので、「分かる、分かる」と同感でした。
衝動買い日記:鹿島茂http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E8%8C%82より

衝動買いについては、女性エッセイストの独壇場だが中央公論社の編集者から勧められて書くことにした。OLや女子学生のパソコンのアクセスが多いのが日常生活の出来ごとや買い物の報告だそうです。「凡人の日常生活の小さな冒険を吐露する」ことにあるのだそうです。

香港での買い物の話です。
「毛沢東・林彪・江戸青3人の群像」を買おうか逡巡していたが奥さんの制止され通り過ぎた。次の店で見つけて決断して購入した。それは毛沢東・スターリンとの握手像を2000ドル(3万円)を800ドルの指値、1500ドルで売り手は譲らず、結局やっと1000ドルで成立。しかし又となりの店で見ると300ドルで天国から地獄へ転落の心地。
戻り道で気になっていた「毛沢東・林彪・江戸青3人の群像」は毛沢東主導の文化大革命が起こり、紅衛兵たちが毛語録を振りかざして実権派打倒を叫んだこの群像はわずか数年にすぎないレアもの。そのご多くは捨てられ破壊されたから残存しているのが極めて珍しい。
ところが先ほどの3人の群像の店に戻ると、もう売れていた。骨董品だけは衝動買いこそが正しい買い方であると述懐しているそうです。

2009年12月25日金曜日

日本サッカーの現実


おはようございます。民主党が「コンクリートから人へ」の予算案 ~医療も冬の時代から春の時代へ~などとうまいことを言っています。

日本サッカーの置かれいる状況を知るにはそれ相当の苦労が要ります。点が入ればよいのだが位しか見方を知りませんが、なかなか厳しいということは
分かります。杉山直樹のブログ:http://blog.livedoor.jp/sugicc402/からの引用です。


抽選結果は日本にとって厳しいものになった。
英国の大手ブックメーカー、
ウイリアムヒル社の予想によれば、
オランダがE組を突破する倍率は1.5倍。
カメルーン3倍。デンマーク5倍。日本8倍。
32チームのトータルな人気でも、日本は抽選の後、
25番人気から27番人気タイへと順位を下げている。
日本が厳しい組に入ったと判断したからに他ならない。
(1/8の方が理解しやすいように思いますが)

特に、3番手に位置するデンマークが、
サッカーの質的に最も戦いにくい相手だということが、
日本の突破の可能性をいっそう低くしている。
サッカー場を幅広くダイナミックかつ綺麗に使ってくるチームに、
中に固まりがちな日本はめっぽう弱い。
対戦する前から、ピッチに描かれるデザインが予想できてしまうのだ。

とはいえ、どの組に入っても状況は似たりよったり。
「5倍」以内で済む組はない。
星勘定ができそうな組は見当たらない。
日本が置かれたポジションを再認識させられた恰好だ。

それでも、「アゲアゲ報道」は後を絶たないだろう。
日本に都合が良さそうな材料を引っ張り出し、
「行ける!」「大丈夫!」と、
これでもかと可能性を煽るのが、いつものやり方。
実際、今回も「オランダとは9月に一度対戦しているので、
戦い方は分かっている、やりにくい相手ではない」なんて声が、
早くも耳に入ってくる。った。


そうした意味では両者イーブンの関係になるが、
日本が弱者でオランダが強者であることを忘れてはならない。
弱者には本来、強者からマークされにくいメリットがある。
それが今回の日本にはない。
強者が本来、知らなくてもいい情報を、オランダはもち合わせている。
オランダのファンマルヴァイク監督にも、抽選会後「日本は侮れない存在。
3-0で勝っているが、スコアほどの開きはなかった」と、
謙虚なコメントを吐かせてしまっている。
強者にあるはずの油断が、今回のオランダにはない。

これに代表されるように、日本には自分中心の考え方が横行する癖がある。
島国根性をむき出しに、ワールドカップという世界最大の戦いに臨もうとする。
それこそが、日本サッカーが伸び悩む最大の原因だと僕は思う。
ワールドワイドな視点、世界を俯瞰で眺めようとする姿勢が望まれるとのこと。

2009年12月24日木曜日

草食男子


おはようございます。『草食男子』この言葉を造語したのは深沢真紀※1さんとうコラムリストだそうです。FMのJウーブで語っていました。
はじめの頃はそんな男性はいないという評価がほとんどだった。ところが女性雑誌の読者からたしかにいますという声があがってきた。外人記者は菜食主義の男性と勘違いされたこともあったが3年かかって正しく認識されようになって世界的にも広まったとのことです。
どこでも何時でも生活物資はほとんど、コンビニやファミレスで手に入るし、食べられるからには必要以上にガツガツしなくてもよい時代になった。女性とのデートするために必死にホテルを予約もしたくないし、「まったり」※2(身についたユッタリ?)として、散歩好き、料理好き、チャリンコを愛用する。一方反対に女性はおやじギャル、烈女、モリガールであるが、それでいて男女は補完関係にある。女性がバブル期におおきく変化したが、経済のかげりもでてきて態勢の立て直しが必要。
日本人はどうもマニア体質がある、鉄道マニアは男性に限ってと思われてきているが、女性にもいるのだそうです。『登山女子』※3というのも現れてきたそうです。スカートをはいての登山だそうで、先行していた登山用スタイルにあわせたスカートも売り出されているそうです。
この深沢さんは、女性の主張は時代の先頭をゆく女性は「烈女たれ」というのも卒業してはどうか、頑張ろうとするよりも日常を維持し、機嫌よく暮らし、これまでの考えすぎる生き方を変えてもいいのじゃないか。
世の中いままでは真後ろからだけ背中を押さえれていたが、あちこちの方向から、いろんな風が吹いているので、減価償却しない、買い換えしない・草食の時代をゆっくりいきよう。男
性も中年女性のようにオプションの選択を上手にしている多様性の生活をしているのが草食男子。
今は変化の真っ最中で姿勢を制御するのが大変ですが、寄り道しながらも、「自分がすり減らないようにメンテしながら生きてゆこう。」(書籍の題名でもある)女性は烈女でなくともまだ肉食期、雑食期、にあるが、草食男子のように草食期の生き方もありますよといいたいのだそうです。
※1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E6%BE%A4%E7%9C%9F%E7%B4%80
※2:副詞
1. まろやかでこくのある味わいが,口中にゆったりと広がっていくさま
2. ゆっくりしたさま。のんびりしたさま。くつろいださま。だらだらしたさま
※3:http://yamajoshi.blog85.fc2.com/blog-entry-68.html



定義の相違:草食系男子の定義は論者によって異なる。深澤は「草食男子」を「恋愛やセックスに『縁がない』わけではないのに『積極的』ではない、『肉』欲に淡々とした『草食男子』」と定義した[1]。森岡は「草食系男子」を「新世代の優しい男性のことで、異性をがつがつと求める肉食系ではない。異性と肩を並べて優しく草を食べることを願う草食系の男性のこと」と定義した[2]。牛窪の定義は深澤の『平成男子図鑑』の論旨とほぼ同様[3][4]。森岡はその後「草食系男子とは、心が優しく、男らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」と再定義した[5]。
パートナーエージェントが30代未婚男女400人を対象におこなった調査によると「どちらかといえば草食男子」(61%)、「完全に草食男子」(13%)と「自分は草食男子」と思う男性は4人に3人にのぼった[6][7]。

2009年12月23日水曜日

鍋は底を洗います


おはようございます。昨日は冬至だったので今日からは日が長くなっていくので嬉しいです。
たまに皿洗いなどすると、ご飯粒が残っていたり、脂が落ちきれていない場合もあって、ピカピカしてキュッキュッと鳴ると気持ちがよいものです。
大石静:ニッポンの横顔:NHKの朝のドラマ「ふたりっ子」の脚本家・作家より
大石さんは養女だったが駿台荘という旅館の娘であった。有名な作家が出版社からの依頼でカンズメにされている宿屋でもあった。この旅館の板前Yさんは厳しい人で、怒鳴り声が調理場で飛び交っていた。習うより盗めという厳しい徒弟制度が生きていた時代のことである。そこで鍛えられたMさんが出した店で学生時代にアルバイトをした。これは義母の気遣いでした仕事であった。皿洗いの仕事だった。
今も忘れないことがあった。ある日洗いものを終えて帰ろうとしたら、Mさんが「静ちゃん、鍋がちゃんと洗えてないよ」というのだ。
「すいません」と詫びながら、その鍋を洗い直そうと思ったが、鍋はピカピカだ。するとMさんは鍋の底をひっくり返して、小さなほくろくらいの焦げあとを指差し、「鍋は、底をまずきれいにしないといけないんだ。いくら側面がピカピカでも、底に小さな焦げ目がひとつあったら、煮炊きするとき、火加減が均等に伝わらない。鍋は底が一番大事なんだよ」と教えてくれた。最近は仕事も忙しく,家事とは縁遠いが、たまに洗いものをすると、鍋の底だけは徹底的にきれいにする。

2009年12月22日火曜日

サッカーの人生哲学②



沢田耕太郎のサッカーの本を読んで以来、いまの内6月のワールドカップが始まる前に、冷静な目を養っておこうと勉強しています。しかしこんな単純でありながら難しいものはないことも分かってきました。

イビチャ・オシム著・長束恭行訳「日本人よ!」より

●肉体的には欧米と比べるとハンディキャップがある。
●日本人のプレス※・流動性は大変見事、「日本人のマークをはずすことはできない。いつも君のとなりに一人いるからね」と外国人の噂になっている。
●自分の頭で考えることと責任:
日本という国は規律やルールがあるからこそ、すべてがうまく機能している。つまり自分の頭をあまり使うことなく、規律やルールを重視して行動しているからこそ「アナーキー」な状態とはほど遠い国となっているのだ。それはとても尊重すべきことではある。しかしロボットではいけない。
「日本人は疫病から逃れるかのように責任を逃れる。これはオシムさんだけでなく、日本サッカーに詳しい誰もが語っている。この問題はおそらく日本の教育、学校システムにまつわる事柄だから。常に上にいる誰かの責任を負う、サッカーではこの仕組みが必ずしもそうではないのだ。日本の教育は長年に渡って罰を与え来たシステムにあるとオシムさんは考えた。どんな小さなミスでも罰せられると考え始めた瞬間に、人は罰せられないようにするために何もトライしなくなる。しかしサッカーはトライとミスなしでは進歩することはできないのだ。サッカーは自分に関するすべての責任を負うものなのだ。
責任の為の責任はミスの温床となる。どんな場面でも責任感を持ってしまうのも問題がある。だから、どうやって動くべきか、どこで何をすべきか、なぜそうするのかを知らなければならない。それを知ることが本当の責任であると。
責任感に限界を作ってしまうのも問題。誰もが限界以上のやろうとはしないのだ。これが自分のノルマだと考え、そのノルマを満たしただけで、他の事は誰かが引き受ければいいと考えている。自分の守備範囲はセンターラインまでだからと限っても、それでボールが奪われてそれでゴールを奪われたらしたら
日本で起こる多くの出来事は、日本人そのものの生き方や伝統、文化と無縁ではない。地震や洪水、洪水、交通事故等誰一人望まない不幸が起こっている。そこで日本人は多くを語らないが、彼らの表情や仕草からは滲みでている。日常生活でなら問題ないが、サッカーではそうはいかない。ある選手が味方選手に「気をつけろ、背後だ!」と叫ばなかったとする。その選手は自分の背後に迫る相手選手に気づかずに、それで終わりだ。敵のゴールになってしまう。
●「人に何かを言うことを、日本人の誰もが好まない」ということがコミュニュケーション不足の原因ではなかろうか。要するに誰もが表立って人に命令することを、日本人のだれもが好まないのだ。
※相手選手がボール持っているときに自由にプレイをさせないようにチェックをしに行くこと。プレスを厳しくすればするほどボールを持った相手選手は自由を奪われるためパスミスをしたりキープできなくなり、ボールを奪える確立があがる。

2009年12月21日月曜日

サッカーの人生哲学①


おはようございます。自転車にのると、頬の辺りが寒いが、口の中にも冷たい空気が流れてこんできて、喉の奥までつめたくなるような昨日でした。
イビチャ・オシム著・長束恭行訳「日本人よ!」より
人生で起こりうるすべては、サッカーの中に集約されている。
選手がプロとしてサッカーをプレイできるのはせいぜい5、6年運がよいものは10年暗いかもしれない。そのわずか10年の間のサッカーで、その選手は一生涯にとっても十分すぎるほどの出来事を経験うるかもしれない。一週間に一度サッカーをするなら、毎週のように、歓喜、悲劇、絶頂、ストレス、成功、失敗、栄光、挫折、勝利、敗北等を経験するのだ。
「今の日本人が勤勉であるかどうかは疑問だ。現在日本人は非常に高い生活水準を今の人々享受しているだけではないか」10から12時間働くことが勤勉であるという意味ではない。12時間オフィスに座っているより、1時間だけ勤勉に働いていた方が良いって時もある」とかたった。
「日本人は伝統的に責任を他人に投げてしまう。工場ならそれでも機能するかもしれない。けれどもサッカーでは上司も労働者も全員が一緒にいるわけだから。
日本は明治以来国際化の模倣を続けてきて成功してきた。サッカーの場合スペインのバルセロナに必死になろうとしてもそれはコピーにすぎない。しかしそれよりもまず自分たちの力を客観的にみてが、自分たちに何が本当に何ができるのかを先に知らねばならない。これはさらにずっと先まで続いていく課題かもしれないが、自分たちにできることがあるならば、それをもっと発展させるよう努めるこ。そしてそれを誇りにもつ事が大事。

2009年12月20日日曜日

震災時の頑張り


おはようござます。田舎の大雪は大変だ。高齢者の世帯には自前の除雪機や除雪ボランティアも欲しいところですね。

NHK・ETVワイド:ともに生きる:神戸淡路大震災被災者のあり様:神戸の地震後の頑張りにはいつも敬服させられます。
石倉さんはご自分の娘さんも入所している身体障害と知的障害者の作業所「くららべーかりー」(http://www.kdn.ne.jp/~kurara/what%27skurara.htm)を運営している。被災後、長田市場内にあった作業所は幸いにも無事で、皆も何とか出勤してきていたが、何をしていいいやら途方に暮れていた。いつもの利用者が自分も大変なのに、心配してきてくれた。何げなくでもあったようだが「早くパンが売れるといいね」とポツリといった。この言葉を聞いてすぐ「そうなんだ待っている人もしるし、こういう時こそ頑張ろう」とパン作りの作業を再開した。それでできたパンを被災者にも無償で配給した。(水はタンク?や熱源はプロパン?がどうしたか不思議)。他の作業所も共に情報交換し励ましあいしている内に1995年11月17日に日曜雑貨市が生まれた。他の作業所も参加し、地元住民も毎月の会議に参加、地域の学校、企業も参加し地域のつながりが日頃の活動からじわじわ浸透した。JR新長田駅前で行われる恒例の大規模なイベント一七市に発展し今日を迎えている。小学生も福祉体験のために、パンの作業所にくるようになった。こいう日頃の絆ができていると、災害時の連絡や援助網ができている。うらやましい支援体制ができている感じがする。

2009年12月19日土曜日

親雪/利雪


おはようございます。あれだけ一時にどっと降ると、克雪どころではなく、いじめ雪にも思えるでしょうね。
北海道では太平洋岸の一部を除き、年間の約1/3が雪に囲まれており、雪を無視した生活はあり得ない。雪への接し方を表す言葉として「克雪、親雪」がよく使われるが、近年これらに「利雪」が加わった。
日本建築構造技術者協会のコラムからhttp://www.jsca.or.jp/vol2/14column/200805/column200805.html羽沢昭宗(はざわ あきむね) 北海道支部


お膳立てされた親雪
低温下で降った雪は軽く乾いており、握っても固まらないためパウダースノーとも呼ばれ、一部のスキー愛好家がこの雪質を楽しんでいたが、多くは雪に親しむことはなかった。
今 年59回目を迎えた「さっぽろ雪祭り」は、戦後の混乱した生活が納まりつつあった1950年、冬期間家に閉じこもりがちな札幌市民に雪に親しんでもらおう と計画され、中学生や高校生による雪像のほか、いくつかのイベントが行われた。これが好評を得たため継続して開かれるようになり、後年、一般市民による雪 像や自衛隊の協力による大雪像が加わり、日本国内はもとより海外からも観光客が訪れる定例行事となった。
今 では壮瞥町の「昭和新山国際雪合戦」など冬期間のイベントが各地で行われ、地域住民や観光客など多くの人々が雪に親しむようになってきているが、いずれも お膳立てされた一時のことであり、冬期間通しての親雪にはほど遠い。子供の頃興じた雪中サッカーや漕いだブランコからのジャンプ(着地点までの距離を競 う)、ミニゲレンデでのスキーなどが懐かしい。お金を使わないでも工夫により雪の中の遊びを楽しむことができる。子供たちが外で遊ばなくなったと言われる ようになって久しいが、子供たちが季節を問わず外で遊べられる環境作りも親雪には必要だ。
地球温暖化対策としての利雪
近年、雪に対し新たな取り組みが始まった。雪から水に変態するとき多量のエネルギーを必要とするが、それに着目した「冷熱エネルギー」としての雪の利用である。
米は5℃以下で保管すれば劣化が進まない。収穫翌年の春先に貯雪庫に投入した雪を冷熱源として米を低温保管し、夏に新米と変わらない鮮度の米を提供出来るようになってから10年が経っている。
北海道の夏は短いが冷房が必要なときもある。雪から冷熱を取り出し、湿気のある柔らかい冷房(涼房)を実現している建物も既にある。
冷熱利用の実績は地方都市にとどまっており、大都市での利用には貯雪庫の設置や汚れの少ない雪の確保などに課題が残るが、地球温暖化対策の一環として、是非とも推進してほしい。

2009年12月18日金曜日

議会の緊張



おはようございます。雪なんて忘れていました。田舎の降雪状態で、老人宅は玄関前の除雪が心配です。どこもピンポインは○○市の□□町の天気の状態がわかるのですね。夜9時からはミゾレのようで、小康状態の方向にあるようで多少安心しました。

民主党になって、自民党の「つけ」や経済不況のおりの整理に追われて、新政策に移行できないようですが、もうちょっと現実も踏まえて
欲しい感じが拭えないようです。次の英国の場合は絶えず緊張を生み、国民にも分かり、討論のお陰で修正も効くのではないかと思います。
未来2009年12月愛すべき英国流言語生活:デラシネ備忘録14:町田幸彦より
毎週水曜日の正午、英下院では「クエスチョン・タイム」(30分間)が設定されている。
野党党首による首相への口頭質問の時間だ。
丁々発止の質疑応答が交わされる。英BBC放送などテレビ局は実況中継し、国民が画面を通じて与野党指導者がどれだけ政策と時事問題に精通しているかをつぶさに確認できる。文字通り、政治家の真剣
勝負の舞台だ。これに倣って日本の国家でも200年1月から党首討論が導入されたが、英下院での白熱した議論の応酬の厳しさは」日本の比較ではない。
大野党党首の労働党のキヤメロンが「首相、私のお目をみなさい。しっかり答えていただきたい」質問されたブラウン首相の左目は義眼になって国中知れ渡っている。
このタイムは一国だけではなく、世界全体を意識した劇場のようだ。

2009年12月17日木曜日

原節子さんの一面



おはようございます。田舎山形県の日本海側では大雪で大変そう、関東付近のスキー場では1cmもなく、欲しがっているのにに。太平洋側と日本海側との違いもあるのでしょうね。

原節子さんについて、小津映画監督の『突貫小僧』に出演し可愛がられた子役の青木さんは語っている。
水の江滝子さんから聞いた話ですけど。水の江さんが一緒に呉服屋にいったんですって。そしたら呉服屋でお茶がでた。水の江さんが飲もうと思ったら。、プンと匂う。酒っなんですよ。原さんはキューッと飲んで、また向こうで入れて二さかづき、キューッとあおって。
 蓼科の別荘にいった時、原さんが僕といったときに、小津さんは茶碗酒ですよ。原さんはお猪口でちびりちびり飲んでる。ひとしきり飲んで原さんが帰ったんですけど、僕は泊まっていけということになった。
そしたら、小津さんが「原節子、くやしかっただろうな」だって(笑い)知っているくせにわざわざお猪口で飲ませて、自分だけ茶碗でガーッと飲んでやんの(笑い)。人が悪いんだよ、そういうところは。

2009年12月16日水曜日

風は音楽の源



おはようございます。
冬の風が電線をならすモガリ笛もありますが、風雲というような言葉が浮かんできます。奄美の方や古代ギリシャ人は風に負けず、楽しんでいた「シタタカサ」を持っていたようです。

岩波の「図書」今福龍太※著
カルマンの渦列、アイオロスの風袋
カルマン渦http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E6%B8%A6

奄美という汀に深いヒダを抱えた大きな島だ。南東部分を太平洋に、北西部分を東シナ海にむけて紺碧の絶海にしずかに横たわっている。秋になれば東シナ海から強いミーニン(新北風)がだんだん冬景色白波を白波で彩るニシ(北風)が終わると、湿ったハイ(南風)の空気が背後から山から寄せてくる。
私の泊まる民家の板壁は薄く、風の拳は容赦ない。夏の台風が島を直撃するときの裏山は突風に煽られながら低い姿勢でふらふらしながら進み、耳はつんざく轟音、鼓動が高まる。危険を感じながらもなす術もない。この狂暴もてあそばれながらも身体は思わず歓喜の声をあげれている。裏山の頂にあがれば東シナ海のほうに森が開ける。そこに1本の樹齢数百年のガジュマルが屹立しているのだ。暴力的な台風もピタリとやむ。森を巡る風の咆哮の声が遠く小さくなり巨大樹の陰に気流のエアポケットが出現。無数の太い枝が大風を分散させ、その波動をお互いに打ち消している。
風が山肌を叩きつけるように吹く代わりに、巫女の霊力を我ものとしたごとく、低いトーンの唸り声をあげている神秘的な生態楽器のドローンの音色に時間を忘れて引き込まれてゆく。 唸りを伴う民族楽器は強風のカルマン渦による波動。台風の通り道の島に住む人々は身体に内化していた。奄美大島に歌い継がれてきたシマ唄は低くしわがれた唸り声このようなドローンの響き。むらむらの連絡にもホラガイが広く使われた。

どうように古代ギリシャではエオルス音があった。空洞をもつ箱に張った弦を風によって鳴らすのもカルマン渦のなせる技。これにはホメロスの物語でオデユッセウスの部下が風袋を宝物であると邪推してひらいたために、大嵐になったという。
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E7%A6%8F%E9%BE%8D%E5%A4%AA

2009年12月15日火曜日

失敗知識の伝達構造化


さまざまな失敗が多発する最近の日本を見ていると、まるで失敗のオンパレードである。なぜこのような失敗が多発するのか? そしてその失敗を起こさせないようにするためにはどうすればいいか? さまざまな組織や人が、この種の失敗が起こらないようにと一生懸命考え行動している。その最も一般的な例が失敗事例集、不具合事例集、事故事例集などを作ることである。そしてまじめな企業、組織はどこも懸命にこの種の失敗事例集を作っている。しかしそれらは少しも生かされていない。失敗事例集を作る者から見れば、十分にそれが仕事の中に生かされ、失敗を未然に防ぐことを期待しているのに、それらが生かされず同じ失敗が繰り返されるのはなぜだろうか? その原因の1つは"失敗知識の伝達"がうまくいっていないことである。
科学技術振興機構が実施している"失敗知識データベースの構築"は、まさにこれを解決する1つの方法を提供しようとするものである。ばらばらに集められた多くの失敗事例が生かされていない最大の理由は、失敗を防ごうと考える人に過去に起こった失敗から得られる知識が正しく伝達されていないからである。失敗知識を正しく伝達し、その知識を獲得した人が正しく対応すれば同種の失敗は未然に防ぐことができる。それでは失敗知識の伝達に必要なものはなにか。それは失敗を生かそうとしている人が頭の中に持っている失敗"知識の構造"(ことばを変えると"文脈"・"コンテクスト"・"脈絡"のいずれでも良い)を明らかにし、それにしたがって個々の事例を記述し、失敗知識を獲得しようとしている人が検索でき、そしてそれを頭の中に吸収、定着させることができるような構造性を持たせることである。ここで最も大事なことは"失敗知識の構造化"である。
科学技術機構失敗百選http://shippai.jst.go.jp/
• 失敗経験から得られた知識や教訓を、大学や技術者の組織学習、教育訓練などのために広く活用することを目的として、失敗知識データベースに搭載し た失敗事例の中から国内外で発生した典型的な失敗事例を100例程度取り上げ、読みやすく記述しました。これを「失敗百選」と呼びます
科学技術機構失敗百選http://shippai.jst.go.jp/
• 失敗経験から得られた知識や教訓を、大学や技術者の組織学習、教育訓練などのために広く活用することを目的として、失敗知識データベースに搭載し た失敗事例の中から国内外で発生した典型的な失敗事例を100例程度取り上げ、読みやすく記述しました。これを「失敗百選」と呼びます

2009年12月14日月曜日

子役の選定


おはようござます。多少なりとも体調がよくなったようで、よかったですね。最近の風邪は体温を測っても問題ないのに、、2・3週間寒気や肩こりなどがぬけないようですね。
お送りしたものは叔母さん用です。なるべく量も少なく、手軽なものを選びました。ご賞味ください。
青木富夫:小津監督の同名の映画に出て以来「突貫小僧」と呼ばれ、その後は作家になった。その青木さんのお話、1997年7月の雑誌「東京人」の小津特集から
当時(1930前後)の子役は歌舞伎か新派から出ていたんですね。だから可愛いし、いじらしいし、僕は子役じゃなくて撮影所に遊びにいっていただけでしょう。ズボンなんかずり下げているし、小僧っ子みたいな顔しているしさ(笑い)。その当時の小津先生は城戸四郎さんのいわゆる蒲田調の映画をとっていて、小市民的な映画だから、作られた子役はいらないんですよ。ところが子役はみんなつくられた子役だった。それでたまたま撮影所にいた僕を見つけて、これだったら面白いじゃないかと、どこにでも転がっている子どもだ、これを使おうと、こっちがわけがわからないうちに、あれやれ、これやれって。
そしたら小津さんはあの子役は面白いから次もやろうじゃないかとまた呼ばれることになった。
あのころは子ども専門の俳優養成・派遣事務所がなかったのですね。

2009年12月13日日曜日

東京物語の舞台


おはようございます。昨日は夕日がありながらパラパラ雨が降ってきました。夕日は其々の日によって違います。昨日のはかなりワイドな夕焼けでした。駅前の高層マンションからでしたが、時間帯によってずいぶん違うようです。
長谷川さんの紹介で「東京人」の1997年7月号に小津安二郎特集を川本三郎(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%9C%AC%E4%B8%89%E9%83%8E)さんが「東京物語」1953年作品という見出しの文を書いているそうです。
この映画の舞台となった東武伊勢崎線堀切駅にいったことを川本さんの書いた案内から、長谷川さんが12年後、東京物語作品の56年後に訪ねてみたのです。
この辺では主要な駅で都会的なセンスの北千住駅から2つ目の堀切駅に降り立って、あっと息をのんだ。さっきの北千住駅はどこの世界だったのだろう。堀切駅はもの寂しく古びて、やるせなかった。人影少ないホームの壁は波状のトタン、申し訳ばかりの駅舎の屋根もトタンで、時代にさらされた錆色をしている。
昭和30年代がそっくり現前したようで、狐につまされる思いがした。『東京物語』では、モンペをはいた娘がふたり、この駅に立っていたけれど、今ふたりがここに登場しても、現代という時代を忘れてみれば、さほどの違和感はない。私は不思議な空気に包まれた。
  駅前に荒川の視野いっぱいに偉大にながれている。しかし立っている道は車の往来が激しく現代そのもので、感動に浸ってはいられない。あわてて横断歩道を渡って川の土手よりの歩道に立つ。広い河川敷はよく整備され、あちこちで少年野球のチームが練習している。左手をみると、堀切橋、その向こうにまさしく映画でみた鉄橋が変わらぬ姿でがっちり荒川を横切っている。対岸の土手に見やると、高速道路をかぶと虫のようにツーツーと動いているのは車、これは映画にない光景だ。背後にはビル群が見えないのでとてもシュールな舞台にみえたそうです。

2009年12月12日土曜日

東京物語




おはようございます。若いころは小津安二郎監督の映画はあまりにもタンタンとして分かりにくいものでした。下記の長谷川さんは素晴らしい
感想を述べています。
未来2009.12号NO519号
小津の水平線:長谷川摂子:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%91%82%E5%AD%90
小津安二郎監督tp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E)東京物語の画面は土手の場合はまったく違う。
 東山千栄子の背後の空は<無>、つまり画面全部が彼女に捧げられているのだ。彼女は土手の草むらの上、空という空白を背負って、どーんとしゃがんでいる。彼女の輪郭は絶対的で、彼女の発する存在の光があたりを満たしている。神のよう、とはいえないキャラクターだけれども、彼女の体と声は人生の老境の<あわれ>をまるごと体現していて、混じりけがない。その感情の純粋さと強さは室内の場面にめったにないオーラとなって画面を圧倒的に支配している。

2009年12月11日金曜日

歴史雑感


おはようござます。こんどは魚の粕漬を御送りいただきありがとうございます。あの樽詰めが庄内らしい包装ですね。まだ封は切っていませんが、お礼を先に申し上げて
おきます。
小雑誌にはときどき面白いことがのっています。学生の生協の本屋さんに無料で置いてありました。西東京市の図書館では岩波の図書など結構揃っています。
対談:史跡めぐりの楽しみ;俳優刈谷俊介と佐藤信・東京大学大学院人文社会系研究科教授・・・本郷・吉川弘文館2009/11/no84から

作り過ぎた景観:我が市の下野谷遺跡という縄文時代の環状集落の遺跡がありますが、
竪穴式住居が何戸もあり、大分大勢の人が住んでいたように見えますが、長い年月の間に後世の人も建て替えているので、如何にも多くの住居があったように思われるのでそこは違いますよという歴史資料館の学芸委員の話でした。
吉野ヶ里遺跡も一度みてみたいと思っていますが、この対談でいわれているのは、実際に見る場合はは割り引いてみないといけないようですね。
県の教育委員会がやった範囲の建物復元はまだ穏やかだったのですが、今テーマパークになっていました。復元するさいに耐久性をあげて物持ちがよいように立派につくり過ぎてしまう。
ということでした。

馬の特別な走り方:絵や高速度写真で説明しないと、伝えにくいことですが、昔の絵では前後の足の位置からいうと、左右前後両足をそろえている犬の走り方の様でした。実際は左側が接近していれば、右側は広がっている。違っていたのは高速度写真がなかったから。
それとは別でが特殊な歩き方が説明されていました。木曽馬にしても、道産子にしても地道という歩き方ができる。要するに側体歩。これは前足と後ろ足とがおなじ方向にでるという歩き方です。これは今の馬は絶対にできない。これは通常に歩くときはやらない。駆け足のときにそういう歩き方をする。そうすると積んだ荷物がゆれないので合理的なのだそうです。

2009年12月10日木曜日

大名行列


おはようございます。大名行列ではなぜ奴が鑓をなげるのか:根岸茂夫
現在全国各地で大名行列が再現されている祭りが一〇〇以上もあるそうです。多くの行列で奴が鑓を投げあげたり、毛鑓を振ったり投げ渡しする仕草が行われ、祭りの見せ場になっている。明和八年(1771年)12月幕府は管見のやり投げを禁止した通達をだしている。怪我の心配をしてやめるように命じている。このころから江戸城に登城する大名・幕臣の行列で鑓などを投げ渡すように「なったのである。
この通達は大名は・幕臣に宛てたものであるが、このとき武家に奉公人の中間や小者を斡旋していた「人宿」といわれた人材派遣業者が呼び出されてこの通達を申し渡された。そのとき人宿は町役人ともども誓約書を提出している。武家奉公人の中間などが場所柄をわきまえず粗暴で下品な言動をしていいたことは、早くから問題になっており、幕府もしばしば禁止していた。これらの派遣された人材
は「渡り者」と呼ばれていた。この通達が暮れの押し迫った時期に出されたのは江戸城参賀や諸大名以下の晴れの場、年始回りにトラブルを心配したからである。通達は大名などに出されていながら申し渡したのは人宿に対してだそうです。何か変である。奉公人は人宿から斡旋された者ですから、年季奉公の間は大名等の家来であるからには主人である大名が取り締まるべきである。
また武家屋敷は治外法権をもち、中での出来事町奉行は関与できなかった。そうなると主人である武家の責任は問われていないのである。一方誓約書を出している人宿である。通行人に迷惑をかけたりの行動を「がさつ」と表現しているのである。
武家が軟弱になっていく様は田沼憶次時代である。中間が鑓を投げあげるしぐさは武家が下々を統制できない様なのである。持ち鑓は主人が戦場で使用する武威の鑓であり、長柄は奉公人が集団でいっせいに使用する統一された槍である。武威の象徴である者を投げてもてあそぶのは本来なら手討ちにされて仕方のない行為であるはずである。そのように重視された槍を投げるのは大胆不敵というよりも武家社会が解体に向かう時期の始まりでもあった。このような奉公人の行為は自分たちの力を見せつけることにもなった。さらに「がさつな」行為は行列そのものは華やかになり、装飾化されていくのであり、その象徴が「奴の槍投げ」だったのだそうです。
小冊子・「本郷」・吉川弘文館2009/11/no84

2009年12月9日水曜日

ローリー・ギャレット


おはようございます。私も10月位に風邪をひいたのですが、それほど熱もないのに、寒気を覚えました。結構2週間位かかりました。

プレミアム8 <人物> 未来への提言 科学ジャーナリスト ローリー・ギャレット ~ウイルスと人類文明の未来~
BShi 12月3日(木)午後8:00~9:14
世界のキーパーソンに徹底インタビューする「未来への提言」。今回はインフルエンザ・ウイルスや細菌、寄生虫など病原体と、人類との戦いの歴史を克明に調 べ上げ、現代社会へ提言しているアメリカの女性科学ジャーナリスト、ローリー・ギャレットさん。1996年、ザイールのエボラ出血熱の取材でピューリッ ツァー賞受賞し、大著「カミング・プレイグ:迫りくる病原体の恐怖」を発表、その豊富な知見と現実的な提言から、米外交評議会の上級研究員も務めている。
ギャ レットさんは疫病流行の原因が、単に公衆衛生の問題だけでなく、環境破壊や政治体制の不備、そして産業のあり方や貧富の格差といった、人類文明の課題と深 く関わっていることを指摘。番組では、ギャレットさんに、現在、世界的な大流行・パンデミックを引き起こしている新型インフルエンザのH1N1ウイルスと 人類の戦いが、どんな経緯をたどるのか推論してもらう。また将来、どんな病原体の脅威が迫り、それにどう立ち向かうべきなのか、人類とウイルスとの関係の あり方を提起してもらう。聞き手は、わかりやすいニュース解説で人気のフリー・ジャーナリスト、池上彰さん。

<BShi 再放送予定>
12月10日(木)午後2:00~3:14

<BS1放送予定>
12月20日(日)午後8:10~8:59(49分版)

新型インフルエンザの感染の機会はNYや東京であれば都会の雑踏ではだれから
どのように感染したかは調べようがないということは当然です。
米国でワクチンが必要な量1億人にたいして、準備できそうな量は3000万人分で圧倒的に不足、NYでは1400万人にたいして、1000分の1で、1.4人しかない。
こうなると、接種の順番をどうするかについて混乱をきたす。というのはワクチンを急いで製造するのが難しい。公平に行き渡らせることを流行の真っ最中に議論すると、どうしても市民の受け取り方は、感情的にならざるを得ないので、皆怒り出す。本来ワクチンの製造には時間がかかるものなのだそうです。要求されるのはひたすらより早く、より安く。
H1N1(豚インフルエンザ:致死率0.1、1918・19年のスペイン風邪の率に類似)
がやがて段々と毒性をもつ、死者4000万人、致死率2%【1957年のアジア風邪は0.5%、1968年香港風邪も0.5%】
今回の新インフルエンザがどう進展するか未知数部分多く誰にも予測できない。
H5N1(鳥インフルエンザ)1997年に香港で人に感染した。6人の死者で60%の
致死率の猛烈なものだった。これを劇的に防げたのはアジア各国で、大量の鶏を土に埋めた、市場閉鎖、病院での隔離などの成果といえる。こういう対応ができたというのは素晴らしいこと。しかしながらもう問題がないとはいえず、
インフルエンザには遺伝子がDNA型で変異性がないものと、RNAの突然変異をとげやすいものの2種類ある。毒性の強いものと、感染率の高いインフルエンザが合体したら大変なことになる。新興の感染症(エイズ、エボラ熱、ETC)は環境破壊、都市化、グローバル化によって拡大する。歴史的にみても、スペイン人がインディアンを圧迫したように思われるが、これらのスペイン人が持っていた病原菌がもたらした病気によって死亡によるものが多かったのだそうです。
エイズの薬(延命薬なのか、治療薬なのか?)は1人200万円もする、ところが年収6万円では成人の4分の1が感染し、転移率も高いのに手の施しようもない。マレーシアの保健大臣は病原菌の検体を拒んだ、というのは検体すると、新薬を提供するのは先進国で、以上の収入では購入できないので、発展途上国が購入できるうな供給にしてくださいといわば脅迫気味なのだそうです。
こういう国の医師から先進国に呼びこむことは積極的にはやらないでください。発展途上国出身の医師による大事な対策が疎かになる。公衆衛生は極めて国際的にも極めて政治的な課題で、G8でもグローバルな防御対策が世界的に協議されるべきなのに、議論されていない。最近インド、中国、ブラジルも加え、G11になるが、国数が多いほど意見多く迅速に意見が集約されるべきなのに、そうされていない。
結核は所得格差で治療費なくて途中断念すると、抗生物質が段々耐性をもって菌によって沈黙させたものが再復活して感染力をもってきている。
ロシアではいまどき1800年代から流行したジフテリアによる「1990年、旧ソ連で共産党政権が崩壊した混乱の隙をついてジフテリアが流行した。ロシアから始まり、旧ソ連構成国 15カ国を巻き込み、旅行者を通じて東欧、北欧、さらに独、米国にまで広がった。95年前半までに患者10万人以上、2000人を遙かに超える死者を出し た。
また良心的なマスコミが、たとえば米コロラド州デンバーの主要紙、新聞界最高の栄誉とされるピュリツァー賞を受賞したロッキーマウンテン・ニュースが27日付紙面を最後に廃刊した。景気後退やインター ネットとの競争による米国新聞業界の苦境はここにきてさらに深刻化しており、ほかにもカリフォルニア州サンフランシスコの地元紙サンフランシスコ・クロニ クルを含む複数の有力紙の廃刊の可能性が伝えられている。というのは有象無象のブログでは掘り下げた信頼性の記事が少なくなっている。そうはいうものの、エイズの対策についての国際協力など成果もある。

2009年12月8日火曜日

腰痛②


おはようございます。車のヘッドライトももう少し明るくしたいなと思う位トップリと日が暮れます。
昨日の夜風はやはり冬の冷たさがあり、頬をなでるので、手も自ずとポケットに入ってゆくし、襟も立てようとする。

 著者は腰痛の緩和策として腹這いになって書き、それでもつらいが仕方がない。移動はタクシーだろうが、飛行機だろうがシートに横たわった。睡眠導入剤の使用量は増し、ときには抗鬱剤を服用した。推理作家の夏樹さんは、この闘病生活を推理していったが、どの推理小説よりも迫力があった。
しかし仕事の依頼はひきもきらない。歯磨きのチューブの蓋は締めず、熱いものは急いでたべ、口のなかは始終やけどだったほどの多忙と自分にある「せっかちな」ことによる。もちまえの負けん気が強く完全主義者で休む暇もなかった。自分ではけして認めようとしなかったが、結局「心因性」としか考えられない。精神科医は「疾病逃避」による腰痛とし、本人は信じないが、家族は納得した上での入院であった。潜在意識の悲鳴と直接向き合う12日間の絶食療法だった。3年間の地獄の痛苦が身体に「指一本さわらずに」軽快し、消失する。「心」は潜在意識の深い海に浮かんでいるにすぎない。
この治療に潜在意識が抵抗して、尚も激しい痛みを呼び起こすので、耐えかねてすぐに帰宅するという抵抗する。この予想された姿勢に医師は微動だにしない。ここは夏樹さんもかろうじて踏みとどまるしかなかった。ここの機微は一読していただくとよく分かります。又痛いのねと頷いてあげるしかないようです。
「腰痛放浪記、椅子がこわい」から

2009年12月7日月曜日

アイドルを世界に売り込め


NHKの12/5AtoZ:秋元康氏:アイドルを世界に売り込め:アキバアイドル・専用劇場まであるAKB48(オニャンコクラブ後24年、PUFY、モーニング娘の延長線上)
このスタイルの実物での理解を得るため、9月NYで現地のファンは有名なライブハウスで800人熱狂的に迎えた。2時間のライブだった。アイドルの何処にひかれるか?→大学生女子21歳、心理学を専攻、自分にきわめて近い存在、自分もあんなになれたらという存在で、アメリカの人気を博した芸能人は傲慢さを感じるという。
どうような意図で台湾では黒Girl、韓国の少女時代(国の韓国コンテンツ振興院も後押ししている)
このスタイルは今まで西欧が共感呼びそうなコンセプトではなく、日本の感性で、日本語にいる、秋元康の演出による、メンバーは10代少女のグループによるもの、例えていえば、あの臭さのある日本の納豆これこそが新しい味なのだという、知られていないほど新鮮味があるという通常考えられない(幼い、エンタテイメントではなく、誰でもなれるというコンセプト)大胆さがあってけして恐れない。こういうコンサート開始前は、「これはなんなの」から開始後観客が引き込まれているのがよく分かる。”会いに行けるアイドル”を世界各国の主要都市で誕生させ、それのメンバーのなかから優れたものの世界のアイドルを誕生させようという。
アジアのこのアイドルやアニメの市場規模は13.8兆円の2.8%4000億円の売り上げ所得、アメリカの場合は77兆円の17%45.6兆円、日本の利益の獲得率がどうも下手。アメリカのワーナー・ブラザーのプロデューサーもこの手法に注目して、1000万円クイズなどの手法も日本で取り入れられているが、こういう手法が売れるノウハウなのだそうだ。ヨーロッパの大手番組制作会社のアジア担当が注目していて、イタリアや香港と打ち合わせに入っているという。

秋元康の下記をみるととても面白いことがたくさんかいてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%85%83%E5%BA%B7

2009年12月6日日曜日

腰痛①


女性のはほとんど腰痛の経験があるようで、家内も痛みに耐えかねて、夜中に病院に駆け込んだことがありましたが、どうして治ったかもわからないのですが、他の方も場合によっては様々な治療をしてたまたま自分にあった治療に出会うしかないようですね。整骨院とかの類のいかに多いかを見てもわかります。私もほんの1月位軽い腰痛がありましたが、整形外科はそのうち治りますというようなことでした。

「腰痛放浪記、椅子がこわい」から
推理小説作家夏樹静子さんは孤独な座業だった。大学時代からの36年も続いていた。それが著者が54歳になって突然腰痛が始まった。最初は腰がたよりない。だるい。椅子に継続してすわっていられない。しかし症状は驀進した。椅子にすわるどころではなく、恐怖の対象になってきた。止もうえず外出するときには、財布のコインをすべて除く。その財布もやめる。バッグに紙幣をむき出しに、1gでも減らしたい。自宅でも無意識に小ぶりの軽そうなものを手にしていて愕然とした。これは座業で腰を支える筋肉を鍛え直せば、腰痛は癒える筈と思っていた。プールで歩行訓練に励んだ。筋肉がついているはずなのに、効果はない。著者の治療遍歴は、鍼灸療法、低周波、手かざし,気功、足裏マッサージ、カイロプラスティック、赤外線照射、野菜スープ、温熱療法、体内電気のアース、尾てい骨治療、果ては霊の供養まで3,40か所はおこなった。著者は「何かにぶつかって劇的に治る」パターンをもとめて、「人に勧められることは何でも試してみずにいられなかった」。

2009年12月5日土曜日

「男の可愛げ」


田辺聖子さんがいっています。
世の母親、ことに男の子をもつ母親に私がいいつづけているのは、〈どうぞ、女に可愛がられる男に育ててください〉

日本の男だって、生まれた時から可愛げがないわけではなく、日本の男の子教育が悪いのだと思う。日本ではなぜか男の可愛げを抹殺するようなところがある。男の可愛げにこだわるのは、どうも私の場合、祖父の記憶があるからではないかと思われる。口やかましくわがままで尊大でシャベリでワルクチ好きの祖父が、あんがいドジで、女たちに叱られたりしている。そういう反応を女たちから引き出す可愛げがどこか祖父にあったのだということでした。

2009年12月4日金曜日

神様の贈り物


おはようございます。朝の冷え込みがそれほどでもないと、目覚めがゆっくりです。それでも御隣は毎日5時には電灯がついています。
武蔵関の公園の池にまたカワセミがやってきて弓の仲間が、デジカメで撮った写真を見せてくれました。1000画素、望遠で10倍あると、
結構はっきりと飛翔の姿が写せるようです。

細川佳代子さんは中村勝子さんから聞いた山本牧師のお話:
山本牧師は神奈川県鎌倉にある聖ミカエル学院の牧師だった。
この方が日本におけるSO(身体障害者のためにはあったが、知的障害者のためのスペシャルオリンピック)の組織であるJSOC92年につくった。
どんなに医学が発達しても、人間が生まれ続ける限り、人口の2%前後は知的障害のある子どもが生まれてくる。それはなぜかというと、その子の周りにいる人たちに、優しさとか、思いやりという、人間にとって一番大切な心を教えるために神様が与えてくださるからだ。彼らは神様からの贈り物なのだ。という話に中村勝子さんは聞き入った。
知的障害のある子どもたちは、本来は優れた能力や可能性をいっぱい秘めて生まれてきている。けれども自分ひとりでそれを人に伝えたり、発表したり、発揮することが不自由なのだ。だからもしご両親や家族、地域の人たちが、世間では障害いわれているその不自由さ、生きにくさ、困難さを理解せずに、能力の劣った、かわいそうな子ども、何もできない子どもと思いこんで、なにもさせず、ただ保護したり、養護したり、隠してして育ててしまったら、彼らは本来の可能性を伸ばすこともなく、大変寂しい、孤独で不幸な人生を送るだろう。この牧師さんの言葉をきいて私の頭はまさに殴られたようなショックを受けた。これまでの知的障害者をみる目がまったく間違っていたということに気づかされた。それまでは、かわいそうな気の毒な人たち、なんて運が悪いんだろう、こういう障害をもってどうして生まれてきちゃったんだろうと思い、彼らの生まれてきた意味がわからなかった。
心の中ではほどほどに距離を置いておこう、というのが本音だった。そして心のなかで「内の子どもはみんな健常児でよかった」と、どこかほっとしている自分がいたのだった。自分の価値観で、「かわいそうな人たち」と決めつけ、「同情心」しかもっていなかった私。障害があることは不幸でも不運でもない。理解トサポートがない環境に生まれてしまったことが不幸なんだ。しかし大きな光も感じた。「ああ、すべての人間には生まれてきた意味があるんだ」と。

2009年12月3日木曜日

タネは旅して②


おはようございます。又東京に戻ったら、前の富士街道や武蔵関公園の公孫樹並木や楓が一層鮮やかな紅葉色になっていました。

自分で種採りしてみるとよくわかりますが、植物が異なった環境に適応し、生育して、土地に合った子孫を残そうとする力は、真に偉大としか言い様がありません。よくできた野菜を選抜し、種採りを続ければ、普通三年も経てばその地やその人の栽培方法に合った野菜に変化していきます。もし土地に以前からあった野菜と交雑したりしてもそれはそれで、八年も選抜していると、雑種形質が固定して、その土地に新しい地方野菜が誕生したりします。これこそ人間が移動手段を提供したために、旅をしながら遺伝子を変化させ続けて来た、野菜本来の生命力の発露なのだそうです。
今食べている野菜の種はF1種といわれ、大きさが均一で収穫量が多く、大量生産に向いた効率的な野菜です。運びやすいため、流通業界でも喜ばれいつのまにかF1種しか取り扱わないようにもなった。農家も種屋さんもF1種になり、地域で育てられた野菜は幻の野菜になってしまった。直売所などで地域特有の野菜、固定種を扱っているケースがあるそうです。
埼玉県の飯能市に「固定種」を専門に扱っているタネ屋さんがあります。スギやヒノキに囲まれた山の中のタネ屋さんです。大規模市場で無理でも、パソコンによるネット販売で全国販売している。需要者は専業農家ではなく、自分で家庭農園を楽しんでいる方々だそうです。おもしろいのは昔の味を求める60歳以上、健康野菜を子供に食べさせたい30歳代と2分されている。この商売に特化したのは昭和49年、小売業の大型化が始まろうとしていた時期、ホームセンターの影響で自分の店への来店が減った打開策で考えたそうです。固定種は他の畑から花粉を運ぶ昆虫からの影響を防ぐ意味で2km離れている山林に囲まれた畑での栽培が必要。しかし木材の自由化で、山に残ったのは高齢者だけになり固定種の栽培の担い手がいなくなり、野口種苗も一時ピンチにもなったが、若いボランチアの採種が手伝ってくれ継続されているだそうです。
この固定種の一例で「みやま小かぶ」は肥料を一切やらずでも元気にそだつ。「肥料を使わないと虫もやってこないので農薬もいらない」のだそうです。しかもこの年は雨が多く、どこの畑のナスもあまり実をつけませんでした。ところが無肥料の畑のナスはたくさん実をつけていたそうです。
野口種苗研究所:http://noguchiseed.com/
042-972-2478

2009年12月2日水曜日

タネは旅して①


おはようございます。
下記URLのところをみると、山形の庄内ダダ茶豆は藩主の移封によって新潟から運ばれたものだという話など、枚挙に暇がありません。

ナスの例でいえば、原産はインドで、気温の高い地域の野菜だった。日本上陸は奈良時代以前と考えられるそうです。年を重ねるにつれ、日本列島を移動し、雪の降る東北までに広がった。仙台長ナスと呼ばれる漬物に適した作物になったが、この長ナスは秀吉の朝鮮出兵にいった仙台兵が九州の長ナス持ち帰ったのだそうです。九州のナス自体35cmで、株自体相当に大きくならないと花が咲かないので気温の高い土地に適しているが、東北は寒いので花が遅く、子孫を残すために気候に適応して、早く実がなるように変わっていったのだそうです。西日本ではナスは焼くか煮るかで食べます。東北ではナスは漬物にします。仙台にやってきたナスは漬物にあうようにタネを選別し、15cm位の仙台長ナスになった。山形県の庄内の民田ナスも早生の漬物の小ナスです。
信州の野沢菜は大阪の天王寺カブという甘いカブを野沢村の住職が故郷に持ち帰って、地元の野菜と交雑し、やがて根が太らない葉だけが大きくなる野沢菜が生まれたそうです。カブや菜っ葉などのアブラナ科は交雑しやすく、このために日本では高菜、広島菜、小松菜などの菜っ葉の品種が生まれています。カブの原産地は地中海沿岸一帯、東洋に伝わったカブは中国では山東菜や結球白菜に改良された。葉をっ食べることが求められた。日本へやってきたカブは、養分を蓄えた根が注目され、飢饉に備える野菜として栽培が奨励されたので、地方ごとにタクサンのカブが生まれた。世界の植物学者は「日本はカブの第二の故郷」といわれているほどだそうです。

長陽という年金者むけの雑誌2009年の冬号の特集「昔の野菜をもう一度食べたい」から
野口種苗研究所:http://noguchiseed.com/
042-972-2478

2009年12月1日火曜日

白鳥


おはようございます。周辺の山々や日本海を見ていると心がなごみます。
上越新幹線は「MAXトキ」というが、これはあの優美な朱鷺色のトキとはにつかない、ガチョウの嘴とそっくりでした。トキという命名でなかったら、又他の新幹線だったら、そのようには思わなかったでしょう。
新潟から故郷の山形県鶴岡市の羽越線の東側の海側の田んぼは広さは高圧線の鉄塔が何列にも連なって、最後のところは、合わせ鏡に映る姿が際限なく続くように見える。この田んぼに大きな白い鳥が数十羽も下りたっている。白鳥なのでした。いつも帰省するときは年末でしたが、このような大量の白鳥をみるのは初めてでした。田んぼは稲の切り株があるだけ、水分もない。餌を啄ばむのでもなく、まるで日向ぼっこでもしているのか集団見合いをしているのでしょうか、とてもノンビリした風景におもえた。下り11時、帰りの上りは3時頃だった。渡り鳥もこれからの厳冬を迎えるにあたっての束の間の喜びの時なのでしょう。県境にある鳥海山は雲間から頂きを覗かせているが、雪化粧でそれこそ美しいものだった。
信濃川や、阿賀野川など大きな川に野鳥の水鳥は浮かんでいなかった。それがあるとき、最上川の河口に大量の白鳥を見かけたことがあった。駅においてあった「ハラクチーナ」という食の都庄内をパンフレットをみると、河口付近はプランクトンが豊かですとある。
鳥海山の裾野から豊かな水が流れているからなのでしょう。
最上川は支流が多く、渡り鳥にとって格好の越冬地。鴨もシベリア方面から飛来。日中は河川で過ごし、夜は水田で落ち穂などを啄ばむとある。本格的な冬を迎えるため、質のよい脂が豊富、そばやでたべた「鴨なん」も、肉はちじれていて、食いちぎるには固目でしたが、脂は豊富でした。白鳥もやはり夜の鳥なのでしょうか。
白鳥の生態:http://www.thr.mlit.go.jp/sakata/river/museum/swan/observe_seitai.html

部分日食


西東京市でも観測できた部分日食
自然をみつめる」2009年9月VOL69
西東京 自然を見つめる会の『やさしい環境談義』高濱 つとむさんの稿から。

7月22日午前11時12分すぎ。新町児童館(兼福祉会館)の庭でみた最大食0.49直後の瞬間でした。
臨時の「しぜん観察教室」があって昔使った“ススをつけたガラス”での観測は目を傷めるということで、「ピンホール式の観測箱」(ミネラルウオーター2Lの6本入りの段ボールを10個を重ねあわせた投影方式の箱)と手鏡で太陽の光を壁に反射させる方法」を作り、明日の好天を祈った。
当日予想通り朝から厚い雲に覆われたことから参加者全員は観測を諦め、TVのNHKの硫黄島からの皆既日食に釘付け。諦めかけた矢先、二元中継の多摩六都科学館と連絡していたFM西東京のアナウサーが「向こう(西東京市芝久保)では見えるようだよ」と教えてくれた。再度外に出てしばらくすると、雲の切れ目から太陽が顔を覗かせではないか。46年ぶりの出来事だった。用意した観測機は不要で薄雲を通して裸眼で約30分間観測ができたのだそうです。次回は3年後の金環食(2012.5.21)だそうです

2009年11月29日日曜日

先祖は皆同じ?



おはようございます。
細川佳代子さんの「花も花なれ、人も人なれ」という書籍から。
高田好胤先生から言われたこと:25代前で遡ると、あなたの先祖は何人になるか知っていますか?
一番身近な先祖は父と母で2人、2代前は4人、3代前は8人。次々数えていぃと25代前は、もう数しかわからないが、三千三百五十五万四千四百三十二人になるという。
司馬遼太郎さんが細川護煕家の菩提寺を案内されて驚いたのは、「夫婦が仲良く同じ大きさで並んでいる御墓は見たことがない」(直江兼続もそうだそうですね)とおっしゃった。江戸の初期に男女平等で仲良く並んでいる藩主のお墓はみたことがないということだそうです。
「細川家の歴史は南北朝から始まって室町、戦国、そして江戸、明治、と世の中がぐるぐる変わって戦が激しい時代に、よくもまぁ生き残りましたね」とおっしゃった。武将の家で細川家より長生きしている家は鹿児島の島津家だけである。外様大名だった加藤清正は熊本城主だったが、改易にあって2代で消えてなくなっている。
ところで「細川家には何かこのように家を存続させるための代々申し送られた特別な教えがあったんでしょうか」とお聞きになった。父は「それは家来に恵まれたからです」と答えた。間髪をいれずに、「細川先生、よい家来を育てるのがトップの一番大切な役割ですね」
それから父に教わったのは、細川家は文武両道の家、これは際立っていたそうで、このことが大名の中でも細川家が一目置かれたことと、文を大事にすることは情報収集にも力を入れてきたことを意味するそうです。

2009年11月28日土曜日

変な話をこえて、大変な話



おはようございます。
最近それぞれのマスコミの報道が相当に違ってきているとのことです。にわかには実感できないで、戸惑うばかりなのです。昨日業界紙の記者に聞いた話をお知らせします。

変な話です。まことに変な話です。
新聞などの記事というものは、事実を独自に取材した上での記事であるはず、それが長年記事は情報源の多い官庁からの提供(記者クラブ)によって記事が書かれていた。
それが民主党になって情報操作をするということで官庁の提供による報道の材料提供は遠慮すべきという歯止めがかかった。そのためにおいそれと官吏は提供できなくなったし、報道関係者は全く困ってしまっているという。それで、業界専門誌の記者は独自の取材をかさねているので、報道関係で強みが評価されている。というのは独自の取材をしてこなかった大手の報道関係者の思考停止といわれても仕方がないのですが、日本メディアは『我々の記事についてどう思うか』と米国の「ニーズウイーク」の記者にたづねたというなのだそうです。事実、いままでどの新聞も、一面の扱いでも統一見解の報道内容ほとんど類似していたのがバラバラになったそうなったのもそういうことに起因しているのだそうです。
円も円高になっても、日銀当局がこの円高判断を示さないのも、独自の見解を示す気概もなければ迷うのも当たり前と言われ、やはりそうだったのかと思います。当分どの報道機関や色々なブログが今後について予測する事実がどれほどしっかりしているかを見極めるには、其々の読者も努力するしかないのだという。
それこそ変な話をこえて、大変な話になっているのです。
これらの内容を知るにあたって参考になるのが、「主観恐怖症の日本とだいしてモジャックス Zopeジャンキー日記」だということです。いろいろなブログの価値判断は相当な努力によって判断が必要になる。
http://mojix.org/2009/10/11/shukan_kyoufu

2009年11月27日金曜日

自然は未来の子孫からの借り物


リンゴが送られてきました。故郷の匂いや味や思い出が凝縮されています。手にもってもズッシリと手ごたえがあります。
歯触りもシャキシャキしていて一味ちがいます。

私たちが作っている「シニアかわら版」※という新聞についての取材があるそうです。
※http://kirattokawaraban.seesaa.net/category/6045300-1.html

 ☆TBSラジオ取材のこと
  WAM※2の番組で「メイコのいきいきモーニング」の制作会社が12月25日定例会に取材に
きます。毎週日曜日の7時45分から15分間の番組として放送されているようです。
       http://www.wam.go.jp/wam/gyoumu/kikinjigyou/index.html

※2は厚生労働省の傘下の団体から、応募したら新聞発行について200万円の資金提供があったものです。

ハワイ:山に入れば純白のハイビスカスの原種や、首飾りに使うククイの実を拾ったり、熟して落ちた甘いパパイヤを食べたりすることも出来る。名前の分かる植物はほんの一部。見たこともない不思議な植物によくでくわす。しんとした森で、頭上からまるで天使の羽衣の切れ端のような大きな花びらが、ヒラヒラ舞い降りきたりすると、どの木だろう、どの花だろうと探しても見当たらない。本当に妖精がいるのではないかと幻想的気分になり、自分が自然と一体化したような神秘体験をすることがある。古来の人々がもち万物に霊が宿る、といった信念は当然としか思えなくなる。そんな訳もあってか、彼らには物の所有の概念がなかったという。「タロ芋1個と魚何匹」といった等価の概念がないから、欲しいものがあれば手持ちのどんな物とでも交換してしまう。昔は世界各地で「無言貿易」というものが行われていた。言葉が通じなくても、または顔を合わせなくても物々交換が出来た。ある場所に手持ちのどんな物を置いておくと、いつの間にか別のものに置き換わっている。そんな時代があったのだ。そんな所有概念の薄いハワイの古来の人々に、1948年、“グレート・マヘレ”という土地改革が行われ,すべてのハワイ人が土地をもつことになった。土地は皆のもの、という感覚しかなかった彼らは土地所有に不慣れで、結局手放して白人たちに渡り、そこがパイナップルやサトウキビ畑あるいは牧場になるまでそうは時間がかからなかったという。一方、そんな自然と一体であった彼らには部族を維持させる仕組み(つまり権力や武力)がどうしても必要とされてしまう。民主制度と貨幣経済の中で育った私としては理解しがたいジレンマである。他文化から技術・思想(宗教)・信条(価値観)の流入は一時的な安定をもたらすが、やがて生じる避けがたいストレスは現代でも世界で起きている民族紛争をみれば分かる。「先進」はなにか大事なものを埋めてしまうのだろうか。
地元の労連なダイバーの言葉、「自然は未来の子孫からの借り物なんだ」。いつも我々が口にしている「自然は未来の子孫への遺産」という考えより一歩進んでいるようで、とても新鮮に思えた。

西東京市にある「自然をみつめる」会報2009年9月VOL69より

2009年11月26日木曜日

スペシャルオリンピック(OS)



おはようござます。
昨日は国際仏教大学院大学で仏教入門講座でおシャカ様の前世のジャータカ物語のルル鹿前世物語を拝聴しました。http://www.j-theravada.net/jataka/index.html  いろんな説話があります。なぜこういう話をももっと広めないのか不思議
でした。大唐西域記などにも同話・類話があるようです。

花も花なれ、人も人なれ:細田佳代子(元細田首相の奥様)より
細川夫人はなかなか素敵な人です

パラリンピックは身体障害者の大会で知られていますが、スペシャルオリンピック(SO)はあのケネディ大統領の妹ユニスによって1968年創設された。

ケネディ家には9人の子がいたが、長女のローズマリーは知的障害者だった。両親はこのことを長く世間に隠し、ユニスは家族揃っておめかししてでかけるときに、いつもローズマリーだけがお留守番をしていなければならないのが不思議だった。ついにローズマリーは施設にいれられ、症状がさらに悪化してしまう。成長したユニスは両親の判断に疑問をいだいて、兄のJ・Fケネディの同意を得て、「サタデー・イブニングポスト」という雑誌に公表し、今の知識があれば避けられたケネディ家の不幸を綴った。ユニスはただちに知的障害のある子供たちのディキャンプを始めた。ユニスは知的障害のある子どもたちがスポーツを通して笑い始め活発に動き出すことに気がついた。このことで確信をいだいたユニスはケネディ財団を通じて、全米の各大学や地域団体が同様のディキャンプが行えるような財産支援を始めた。それがSOへと結実した。
第10回夏季世界大会でのユニスのスピーチ。
あなたがたは30年前100mも走れないと言われていた。しかし今日あなたがたはマラソンも走ることが出来る。
30年前あなたがたは施設にいればいいと言われていた。
しかし、今日あなたがたは世界中のテレビに映っている。30年前あなたがたは社会貢献など無理だと言われていた。」しかしあなた方は人々の心をつなぎ止めている。これは決して奇跡ではありません。あなたがた自身の勇気と能力と意志が勝ち得たのです。と。

2009年11月25日水曜日

花も人も


おはようございます。今朝は長男が台湾旅行で、田無駅5:20分集合で、電車もまだなので、車で見送り、駅前でも夜間の目印の照明はコンビニのみで、交差点が暗く、メイン道路が裏道にみえて戸惑いました。出迎えのバスも駐車して待つことが出来ず、1分前にぴったり到着でした。

花も花なれ、人も人なれ:細田佳代子(元細田首相の奥様)より
細川夫人はなかなか素敵な人です。

よかれと思ってやった一生懸命するのだけれど、それが相手によくない結果になってしまうのはどうしたらよいでしょうか」と自分の胸の内を話した。高校時代から、誰かに好かれたいと思ってやっているわけではないのに、八方美人と批判されたりして、一生けん命したことが受け入れてもらえないことがよくあった。すると高田好胤先生は「あんたのあるがままの、そのままでいいんだよ」と言われた。そんなに悩んだり、苦しんだりしなくとも、仏様というのは、「その人の犯した罪を全部まるごと救ってくださる」それが仏様の教えなんだと言われた。私は「ええっ」とびっくりしてしまった。カトリックの学校教育が厳しかったので、罪を犯したら地獄に落とされると思い込んでいたからだ。
身体障害者のパラリンピックとは別に、知的障害者が参加するスペシャルオリンピック(SO)があることを初めて知った。10歳の女の子が世界大会で銀メダルとあらかるには、その少女は天才に違いないと思った。しかしその記事にあった古本とも子ちゃんの体操のコーチ、中村勝子さんのコメントが心に残った。「このオリンピックはベストを尽くし、ゴールまで頑張った選手はみんな表彰されるのです」「それではどうして銀メダルなんだろう?」チラと疑問がわいたが、そのときはそのままになった。それから3ケ月後「りぶるの会」の研修会で、たまたま国会議員の講師の都合が急に悪くなった。それに代わる人として中村勝子さんにSO夏季世界大会のお話を聞くことになった。
ボランティアといえば、ミッション、パッション、アクションに加え「ウ゛ィジョン」に広がる目から鱗が落ちる」ことを伺った。SOとは知的発達障害のある人たちが、スポーツを通して自立と社会参加ができるようになることを目指す国際団体で日常的なスポーツプログラムと競技会を提供している。世界大会のメダルは「もっと強く速い人に与えられるのではなく、可能な限り自分に挑戦し努力した人」に与えられる。

これはあのケネディ大統領の妹ユニスによって1968年創設された。

2009年11月24日火曜日

日韓交流



おはようございます。トトロの森に隣接する八国山緑地という東京都東村山市と埼玉県所沢市の境の丘陵にモミジを期待していきましたが、まだまだ里山なので、うっすら色ついたばかりでした。古戦場※だったところだそうですが、全くそいう感じはしませんでした。
※:http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index084.html

WORLD CUP杯  沢木耕太郎より

日韓同時開催のワールドサッカー、来る14日の韓国対ポルトガル戦ではどちらを応援しますかと、韓国の新聞・東亜日報の記者が二人の若い男女に質問した。一人はもし韓国が負けてしまうと韓国におけるワールドカップの熱気が下がってしまうから韓国に勝ってほしい、というものだった。」それにたいして、もうひとりは韓国にも勝って日本に来てほしい、と答えたという。どちらも日本人として極普通の反応のような気がする。
しかし、その答えに対して、東亜日報の記者は、とりわけ二つ目の答えに対して、日本人に特有のヨーロッパ崇拝の精神に根ざして要る、と分析していた。たとえそれがポルトガルでなく、アルゼンチンでもブラジルでも同じ答え立ったと思われるので、単なるヨーロッパ崇拝というのとは違うような気もする。
金清美さんという知人の紹介で何回かメールのやりとりしていた人にあった。この人は上智大学で交換留学で日本の経験もある。日本人の学生は同じ留学生でも白人には関心を示すのに、韓国人には全く関心を示そうとはしなかった。
アメリカでの体験を話してくれたが、
「あなたは日本人?」「いいえ」「中国人?」「いいえ」「それならあなたは何なの?」そう真顔で訊ねられてショックを受けたという。
この日韓ワールドサッカーの開催で両国の往来で、かなり理解が深まったようですね。
(今日韓流ブームで、少なくとも日本においての感想はだいぶ違ったものになっているのではないでしょうか?)

2009年11月23日月曜日

ピンクの新聞



写真は紙細工カミカラ:中村開巳さんの作品

おはようございます。昨日は公民館祭りの最終日の「よさこいソーラン」踊りはこの3年間雨模様の予報でありながら、なんとか降らないでもってくれました。昨年好評だったハワイアン、これはミュージックと踊り、中でも今年は子どもたちも踊りに加わって、愛らしかった。
ヒースロー空港からロンドン市内へ入る道路で見かけた広告はピンク地の大ポスターに黒で見えない程細かい文字が印刷されている。その上に、大きく「ビジネスは、黒か白かではない」と書かれている。つまり、ビジネスには妥協が必要だ」、と言っているのだと思った。それはその通りだが、」ではいったい何の広告だろうと考えてみた。ビジネスの教訓を広告にするわけはないし、他にも何もかいていないし、・・・・と考えて、ハタと思いついた。ピンクの用紙が問題なのだ。権威ある新聞、フィナンシャル・タイムスはピンクの用紙を使用している唯一の新聞だ。ビジネスをするには、白黒の新聞ではなく、ピンク地の新聞を読めと言っているのだ。フィナンシャル・タイムスの広告と判るまで、しばらく時間がかかった。
(どうしてピンクなのでしょうか?)
マークス寿子著より

2009年11月22日日曜日

野球は難しいから


おはようございます。昨日は芝久保公民館祭りの1日目は「カミカラ」という中村開己(なかむらはるき)さんの躍動する紙細工http://www.geocities.jp/kamikara1967/、今後の成長株の人です。
、今日は2日目メインイベントのそうらん踊りhttp://www.woopie.jp/video/watch/6fb993d5e7f040eaで当面雨が心配。昨年も同じような心配をしたが、そのタイムだけ晴れました。多少の雨でも頑張りますといっていますが・・・。

Jリーグが開幕したのは1993年のことだがその前後に劇的に変化したことがひとつあった。少年野球チームと少年サッカーチームの数が逆転したのだ。かつて、日本においてはどこの町にいっても少年野球チームがあった。数においては、サッカーチームとは問題に
ならないくらい差があったのが、その時期を境に逆転されてしまったのだ。夏の甲子園の中継などを見ていると、まだまだ野球も根強い人気があるように思えるが、野球を始める少年とサッカーを始める少年の数に差が付いている以上、未来における勝負はすでについているといえる。ではどうしてサッカーチームが増えて、野球チームが少なくなったのか。テレビ番組によればサッカーをやっている少年たちにインタヴューすると、その答えはユニフォームの格好が悪さでもなければ、先輩後輩の上下関係の厳しさでもなければ、なんと最も多かったのは「野球はルールが難しいから」というものだった。
WORLD CUP杯:沢木耕太郎より

2009年11月21日土曜日

韓国の焼肉屋


おはようございます。昨日は土・日にある公民館祭の準備だったもう3年目になるので、結構顔見しりができていました。
第27回にもなるので、各グループがやり方を心得ていて1時から始めて3時にはあらかた完了し、ほとんど問題なく交流会が開かれた。

食べ物にもそれぞれの国の文化によって違いがあるようですね。
韓国で頼んだビールが運ばれて、女性が栓を抜いてくれる。その場で栓を抜くのは、混ぜ物などはいれていないことを証明するためだという。今どきそういうことはないにだろうが、それが慣習化されているのだそうです。
韓国でワールドサッカーの取材でお願いした
ガイド役のアン君が北海道大学に留学して驚いたのは次のことだったそうです。とりわけ焼肉屋に驚いたそうです。
「だって、サンチュとキムチにお金取られるんですね。韓国にきてみると、テーブル一杯に並べたサンチュやキムは無料であった。なくなれば次々おかわりを出してくれる。やがてアン君が注文してくれたカルビが出てきた。見ると、日本のように下味がついていない。こうしたカルビをセンカルビというらしい。韓国では下味がついている肉より、ついていない肉の方が上等とされる。下味がついていない肉は味がごまかせんからね」そして味の「ついていない肉は量がたくさん食べられるからという。
それと夜の11時をすぎて、あいているのかなと心配したが、大丈夫だったし、午前0時を過ぎても、また同様に1時になっても、結局店を出たのが2時半だった。(お客がいる限り、閉店を告げることがないのだろうか?)

WORLD CUP杯:沢木耕太郎より

2009年11月20日金曜日

指1本の行方



おはようございます。審判は大変な仕事、相撲の場合はビデオや審判員が四方にいるので、合理的ですが、野球やサッカーなど
は人間の目のみの判断だからどうしても誤りがでる。それにしても、野球のストライクゾーンも下記のように違うのですね。そういえば
ホームベースを投げて抗議する監督がいましたね。

裏方:物言わぬ主役たち:プロ野球職人伝説:木村公一:角川書店:より
指1本の行方
一試合を無難に、滞りなく終わらせることが審判の役目である。
福井は審判になったのは、高校時代、伊万里商業で甲子園を夢みたことは叶わなかった。卒業後は長崎県の親和銀行に就職した。地元で準硬式の都市対抗で優勝できれば甲子園も夢ではないが、有志のあつまりの倶楽部チームが、優秀な企業チームに勝つことは難しかった。それでもある年に運よく九州大会で決勝戦に進んだ。1対でリードしていた最終回で1死満塁、相手チームが投手之手前にゴロを転がした。捕球した投手は一塁になげたが、打者走者の左肩に当たった。ボールは転々として、逆転負けを喫した。しかしこれは一塁線の内側を走っていたので送球妨害で本来ならアウトである。審判に抗議したが、認めてもらえなかった。
そんな折審判の一般公募に応募して、32人中2人であったが、一人増えて3人目に入って合格した。
佐賀で捕手をやっていた時には、ベースをわずかでもかすめて捕手のミットに収まった球はストライクだったので、そのように判定した。ところがプロ野球での審判講習をうけてみると、先輩審判たちは指3本、ベースの外側であってもストライクだった。のちの理解では厳然と存在するものはなかった。プロでもアマでも違った。世界野球大会でも異なり苦労していたのはそういうことだったのだ。アマでも微妙に地区によって異なるのだそうです。習慣や申し合わせで、じょじょに出来あがっていくもの、それがストライクゾーンだった。
プロの投手のコントロールとは,単にストライクを投じられる能力ではない。打者が打ち気のときは外し、そうでないときはストライクを取る。球種もストレートだけではなく、横に変化する、縦に変化する、斜めにも落ちる球をも駆使してだ。それもベースを舐めるように、ギリギリのコースをついて来る。それがプロの投手の“出し入れ”だ。そうやって投手は打者を抑えにかかり、対する打者はそんな投球を見極め,打とうかと骨身を削っている。つまり打者にとって打ちずらい球、みずらい球とは、同時に球審にも見ずらく、ジャッジも難しい球ということになる。だからこそ審判は機械のように冷静に、中立にジャッジしなければならない。

2009年11月19日木曜日

食べる順序とおいしさの矛盾



おはようございます。下記のような体験は今後もないでしょうが、耳体験してもよくわかりませんでした。
日日雑記:武田百合子(武田泰淳氏の奥さん)全作品の7から:
味のないきしめんのあとに、甘いおいなりさんを食べて気をよくする。そこまではいいのです。きしめんがさめるといけないから、まずきしめんを食べるでしょう。次にさめても大丈夫なおいなりさんを食べる。そういう順序で進んでいって、おいなりさんの次にコーヒーを飲む。おいなりさんのあとにコーヒー、この瞬間の口中の凄さ、そんなことなんでもないやと、やったことのない人は思うでしょう。しかし、そうではないのです。おいなりさんを食べたあとにコーヒーを飲んでみたことのある人でなくては分からないのです。何というかオエッとなる凄さ。内の飼い猫の玉が大嫌いなへんなものの匂いを嗅いでしまったときの世にもいやな顔をする。あの顔になってしまうのです。

2009年11月18日水曜日

富士山麓の生活


おはようございます。

また一段と冬に近づき、ドウダンの葉も真っ赤に染まっています。
温度の上下が激しく、電車内の服装も女性はさすがに冬モードになっていますが、男性の場合は厚着・薄着とばらばらでです。
お茶も熱めにして身体をあたためるようにしています。

日日雑記:武田百合子※(武田泰淳氏の奥さん)全作品の7から:※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90

富士の北麓に山小屋に住んでいる。
草刈りのあと焚火をしていると、トガワさんくる。松の間から煙が見えたのできてみたという。この山小屋を作ったときの石工事をしてくれた石屋の社長さんである。胸に上等な金のボールペンを2本さしている。景気はどうかと、訊ねると、あんまりよくねえと言った。高血圧の薬を毎日のんでいるのだそうだ。これから山の工事場を3か所まわらなくてはならないと言いながら、お茶を3杯飲む。
商売は如何ですかと聞くと答えてくれました。荒収入から、人件費30%、機械などの設備投資50%、引いた残り20%が純利益。そのうちから交際費を引いたのがおらの収入。いっこうに貯まらないから、髭の濃い顔をこすって笑う。
今日は西の空をみて昼過ぎ2時頃から、雨が降るでしょう。トガワさんは立ち上がり、ズボンのバンドを締め直し、「東京の生活は賑やかだに。一人じゃ怖いことないかね。田舎のものでも、山は一人じゃ嫌がるに。夜はテレビでも見てるのですか」と、西の空を見い見い、言う。二階のこうもりと階下の部屋にくるむささびの話をすると、トガワさんはじっときいていてから、「いかなる動物も怖いということはねえです。いかなる動物よりも人間の方が怖いです」とおもむろに哲学者のように言った。雨はこず、そのまま夜になった。

2009年11月17日火曜日

インドのある一面



おはようございます。インドは一度行ってみたい国です。中国との違いはどうなのでしょうか?

知られざるイスラーム大国インド:2009.11.9亜細亜大学国際関係学部 前川輝光教授

チャイン:発展する国、中国とインドをこう呼んでいるそうです。
隠れたイスラーム大国インド:この演題に特別の意味があるわけではなくて、この国のイスラーム人口がかなりいることが知られていないことを知らせたいということだそうです。
インドの人口11.7億人(最新版2001年統計01年毎)、国内ではヒンズー教徒が80.5%、ムスリム(イスラーム教徒)が13.4%である。仏教徒は割合としてほとんどいないといっていい。
アジアでみると、インドネシア2億、パキスタン1.6億、インド1.5億、バングラディッシュ1.38億。
●インド国内でヒンズー教徒は、今は80.5%をしめているが、ムスリムが13.4%が人口増加率がムスリムが圧倒的に高いので2251年では64.67%に達して逆転が予想されるので、危機意識が高くなっている。又ヒンズーからムスリムへの改宗もたかい。
デーリーにもモスリムが多いし、かの有名なタージマハールもイスラーム教である。
●ヒンズー教は多神教、何百万もの神がいて、全部の神様の数を知る人はいない。又カースト制度があるのがヒンズー教で、清らかな身分に穢れている身分のものが接触もできないということで、最下層の人を不可触民という。カースト制度は4600もの階層があるといわれている。
賑やかな礼拝、未亡人の再婚難(法的にはそういうことはないが、慣習的には厳然としてある。)
娘が結婚するとき、多額の持参金が必要で、3人もいると、破産寸前となるそうです。
希有な例ですが、嫁イジメも相当なものだそうです。料理の最中油の炎上死に至ることもあるそうです。
●イスラーム:一神教、浄・不浄の差別なし、静寂の礼拝、未亡人の再婚可
●ムスリムとヒンズーの結婚はあり得ない(ただし芸能界はゆるやかでそういうことはないそうです)
●食事:ヒンズーは牛肉だめ、イスラムは牛肉OK。喧嘩でこれをイヤガラセに使うそうです。
●世界的なイスラ-ム原理主義(教典に間違いないという立場、アルカイダ、タリバン)の影響で、ヒンズー教にも同様な原理主義が力をつけてきた。
●ヒンディー語(サンスクリット系)はヒンズー教と結つきとウルドウ-語(ペルシャ・アラビア・トルコ)はイスラム教に結びつく。ヒンディー語はインドの公用語、ウルドウ-語ハパキスタンの公用語。しかし両者は姉妹語で、会話はお互いに通じるそうです。
●国内で使われている文字は10種類、主要言語にいたっては20もあるそうです。
●1947年ガンディ-、ネールらの国民会議派主導のもと、ヒンドウー多住地域がインド、ムスリム連盟主導の下、ムスリム多住地域がパキスタンとして英国から独立。当時パキスタンは東西に分裂、インドを挟んで西がパキスタン、東がバングラディシュである。イスラ-ムだけでは国家統合には難。
●カシミール問題は、指導者層には解決したい方向性はあるが、民衆レベルでは積年のうらみつらみがありそうはいかないそうです。
●ヒンズーの最下層の不可触民については教育の優遇策があって、ある人員枠まで成績の良しあしに関係ないそうです。モスリムについてはそういう優遇策はないそうです。
●インドにも大統領がいて、これはいわゆる象徴であって、実権は首相にあるそうです。2002年7月(2007年7月まで)、南インド・タミルナードウ州出身のムスリム、アブドラ・カラム氏が大統領に選出された。

2009年11月16日月曜日

かもかの人



おはようございます。6時15分になると、暗さから抜け出しての朝です。
「iメールから」:
田辺聖子さんの旦那はおおらかなな人でした。奄美大島の出身だそうです。

もう自分の子供(彼と前妻の間の子供なのですが、)になっているのだが、
が昭和四〇年代の学園紛争真っ盛りで、マネゴトで”ベトナム戦争反対”の
ビラを校舎中の窓にはったので、学校から呼び出しがあった。〈貼らせてください〉というのが彼の返事。別の高校からも呼び出しがあり、憤然として出かけたが間もなく帰ってくる。〈おや、今日のお説教は早かったですね〉というと〈考えたら今日は阪神・巨人のデーゲームや。学校なんて行っとれるかい〉〈あらア、ハシカみたいなもんじゃ〉といっていた。
彼は医者で、当時はやったジョギングにも反対であった。階段二段あがりもおそろしい、というそして、いちばん心得べきは「面白疲れだという。人は面白いことをしているとき、つい疲労を忘れてしまう。彼にもそれは(いえてるな)と、私も今にして思うが「面白疲れ」が重なったのだと思う。
私はうちのぬいぐるみのチビがいたずらを」して困ると、彼にいいつける。彼はそばのソファに座らされている、小型スヌーピーのぬいぐるみの”チビ”に向かって〈こら、」チビ〉と「しかってくれる。ーーーこれが」可愛い。お芝居こころのある男だ。

2009年11月15日日曜日

綿あめうり


おはようございます。昨日は西東京市の市民公園での市民祭りだった。午前中はかなりの雨で来場者の出足が危ぶまれていた。午後からボランティアセンターの職員は削減されてたった2名になったので、
しかも、祭りの現地と、センターと2分されて、現地は1名のみ、「なんとか手伝いを」ということだった。今年は会場の一番奥の端で、集客が懸念されたが来場者は時計の針の逆まわりなので、その動きにすっぽりはまっていたので、大丈夫で危惧に終わった。そこはボランティアセンターなので、3人で綿あめ売りが始まっていた。
小生と一人交代した。もう長蛇の列になっていて、親子がまっている。色の種類は、白、ピンク、青。役割3分担は①注文と代金授受、小生の役割②次の注文への砂糖色カップと、カバー袋の準備
③箸をくるくる綿球つくり(終わったら手首がずいぶん疲れたそうです)。男女共青色が人気、白は少しだが、大人びた女子中学生年代の注文。カバー袋を希望されると、ラクビーボール状にしないと、袋に入れにくい。それでもすぐに袋からて出して食べ始める。子供たちは綿が機械の中心から出てくるのを覗いてみたいようだ。とくに小さい子は。しかし機械が高く、ガードの枠も綿でかすんでいて見にくい。
一人だけガードのない後ろから抱っこしてみせてあげたらとても喜んでくれた。
長蛇の列は通路をふさいで、本部から注意が入る。列を「ヘ」の字のように曲げて通行をできるように確保。去年は500売れたそうだが、ことしは雨を予想で、少なめで300にしたそうですが、軽くクリアー。
4時に終了ですが、3時半で最後尾にコレマデ表示。しかし4時に終了しても、まだ子供たちがお金を握ってくるが、「ごめんね」と声をかけねばならない。
1個100円で300人で売上は3万円、ブースは1.25万円、で採算はとれているが、主要目的はだいぶ先の4月18日の「ボランティアのつどい」のチラシくばり、思い出してくれるかは
わからないが、お母さんたちは丁寧に折って大事にしまっているのも見受けて安心した。
子供たちにも買ってもらっているのに、手渡すと嬉しそうな声で「ありがとう」の声が多かった。やっぱり子供の笑顔は素晴らしかった。
このように列が形成されると、列が長くなるが、午前中は雨が降ると、列が途切れ、雨がやむと列ができる。となりの福祉作業所のブースはインフルエンザで出店が出来なかったので、
休憩所になったので、こちらとしては具合がよかった。
この市民祭りは人気があって、他の市のグループの出店もあり、山形県人会、大石田町も出店していました。

2009年11月14日土曜日

武田百合子さんの「いたずら好き」



おはようございます。私たちの住宅地は袋小路ですが、入口のところは都道です。
もう1週間になりますが、鍵をつけたままの自転車が乗り捨ててあります。どういう理由なのか気になります。

日日雑記:武田百合子※(武田泰淳氏の奥さん)全作品の7から:
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90
赤瀬川原平さんの百合子さんの紹介によると、「ナマコをはじめて食べた人間が書いたような文章をかく」だそうです。エイリアンとは違う。宇宙の人という感じである。
畳の部屋での対談だった。2人の横からカメラが構えられていた。目の前で百合子さんが座布団に座っていて、座り直した。そのときぱらぱらと脚が見えて、座り直してからスカートの裾をちゃんと正して脚を隠すわけだが、そのときぼくは不覚にもその脚に
視線をやってしまった。非常に困るのですが、動くものに目がゆくのは自然で、その視線が男の目になっていたのか、自分でも非常に気になる。とくに「路上観察」をやるようになってからはそうだ。そうしたら百合子さんもやっぱり、その視線にあれあれ?と思ったのか、対談しながらぼくの顔をじっとみている。顔というより僕の視線の動きをじーっと見ながら、こんどはそれとなく、スカートの裾に手をやってそうっと動かしたりするのだ。僕は蛙みいたな気持ちになった。板の上で皮を剥がれて、筋肉のところをピンセットでそうっとつままれている。それで目玉がどう動くのかじーっとのぞかれている。百合子さんに観察されているのだ。対談しながらそっちのほうが面白くて、口では対談しながらそんなことをしているのだ。百合子さんはそういうワルサが好きなのだ。

2009年11月13日金曜日

事件の被害者個人③



おはようございます。昨日は学校卒業後4年間社員寮で過ごしたもの達の4年ぶりのOB会で、4人組の一人は心筋症で遠慮するということで、一人奥様にも出席を願った。それは会社の医務室の看護婦さんが、女子社員の多いところと集団見合い・今なら合コンした各10人の中から縁があって結婚したから、2度目の出席になった。余病がないのは、この奥さんは多少腰が痛いのがあるだけで、この70歳前後となると病気説明会ではあるが、屈託ない話が交わされました。

和田嘉子:故和田栄二(JT職員)氏夫人31歳
和田さんは妊娠中に地下鉄サリン事件でご主人を亡くされ、その後に明日香ちゃんを出産された。マスメディアでしばしば報道されている人だそうです。マスメディアが自分たちで作りたいようなイメージに報道されていた。とてもセンスが良い。生きていくことのセンス、何かを選び出すときのセンス、言葉をみつけてくれるセンス・・そういうものに優れているという風に感じた。裏表のない人だ。もちろん私は亡くなった和田栄一さんにお目にかかったことはないわけですが、この人が選ぶのであれば、おそらくまっとうなよい人だったろうなと思わせるところがある。彼女は3時間にわたる長いインタビューの間終始笑顔を失わなかった。どんな質問にもはきはき答えてくれた。ただ一番最後に、こらえきれずに涙を流しただけだった。「もう泣いていいですよね」という感じで。
駅まで明日香ちゃんを抱いて近くの駅まで送り迎えしてくれました。どこにでも見かける若い幸福そうな奥さんに見える。別れ際に何か言おうと思ったのだけれど、「元気で幸せに生きてください」としかいえなかった。
録音したテープはシャイなユーモアに満ちている。それだけに、録音したテープを聞き返していると、奥にある苦しみの深さがかえってひしひし感じられたそうです。

2009年11月12日木曜日

父のおおらかさ



おはようございます。私の場合は父が早くなくなったので、これという思い出はない。下記のような話を読むといいなあと思う。

あるとき私は文房具屋で何かを買った。家に帰ってから気にいらなくなった。返品しようと思ったが自分で行くのは具合悪く、これを妹に行かせた。私はなかなかにズルい子だったのである。妹は何心もなく帰ってきて、〈お金返すのはナンやから、ほかのん買うてください、いいはったから、ウチの好きな下敷きに替えてもろたしイ〉といい、私は腹を立てて、妹といさかいになった。

 父がどうしたのかと聞く。私がそのいきさつを父には話したくなかったのは、どこか、うしろめたい気があったからであろう。妹は無邪気にしゃべってしまう。父はゆっくり妹の話相手になってやり、私に向かって、おだやかにいった。〈モノ返す、ちゅうようなときには、自分で行かな、あかんナー〉母に叱られる時は逃げ場もなく追いつめられるので、かえって反発を誘い出されてるが、父がいうと、小学生の私はそれなりに反省してうなだれるのであった。
 
父のは小言というより、世間話のついでというような口振りがあって、子供のプライドはも傷つけられないでよかった。父は母とおんなじことを重ねてしかる、ということはしなかったようだ。しかし私は、父が黙っているのがかえって怖かった。何もいわないのは叱られたも同じことで、私はしょげてしまうのであった。そうして、いつのまにか、コセコセと小さいことはいわないが、大きいところで〈オ父チャンが見通してはる〉と思うようになった。
iメール:田辺聖子著より