2009年1月31日土曜日

大事な手渡し配布



おはようございます。昨日は「シニア・かわら版」の編集会議でした。いろんな記事を集めるよりは反響のあった記事について取材するということが一番よいことですが、
それより一番大事なのは、この新聞の存在を知らしめることと、内容の充実に努めることの両立が大変大事なことが痛感しました。
配布は市の高齢支援課の理解もあって、公民館、福祉会館(60歳以上の人々が自主的に諸活動に利用できる制度)、包括支援センター(介護度認定制度相談所とおもわれていますが、シニア問題何でも相談所)、
に自動的に配ってくれるのですが、自分でその場所にいってみると、ラックに並べてあるがほとんど、減っていないとか、残部数がすくないとか場所によってまちまち、またそれぞれの会館の多くあるラックの位置が見渡し
やすい場所にあるとかで反応がことなります。ある福祉会館にいってみると、「ほとんど置いても見ないかもしれませんよ」というところもあったのでロビーにいる5・6人の人に手渡したところ、これから始まる
市長選挙に関連するものだと誤解されたところもあった。この福祉会館でいろんなチラシや地元のミニコミ紙等が置いてありますが、この福祉会館にこられる人々は、カラオケとか民謡とか俳句の会、とかそれぞれが所属している
倶楽部の活動に参加するために来館されるので、他に関心がいかないようだということです。しかしながらシニア情報に特化した・身近な情報は不足しているので、知らしめることでこの存在がわかれば、認めていただけることに
なると思います。そういう動機で始めたのですから。継続すべき地道な作業ですが、委託配布ではなく、自ら配布することによって、読者の反応を確かめることは非常に大事ですし、それなりの努力が必要だということが分かったということです。

2009年1月30日金曜日

乳母役


 
 おはようございます。昔殿様の子供・若様・お世継がうまれたら、乳母役が選ばれる。この選定にはあちこちの人を見て、家柄とか、乳母の教養の具合など諸々を考慮し、
心身共に健康で、子供アがいて、次の子供イが生まれて、母乳も富にあることが条件で選ばれる。これに召しだされることはとても名誉であることのように思われる。
 ところが残された夫は、妻が宿下がりで御盆のときとかたまに帰ってくるときに合える位で若様の生育に専念し、子育ての幼児段階が終われば、卒業ということにはならない。ずっといきっぱなしになってしまう。
残された夫も乳飲み子イはこれは大変です。自分の乳飲み子は別に母乳をもらいに走らねばならない、相思相愛の夫婦であれば、お互いによけい辛い。一生乳母役はほとんど世継の子育てのまま、子供アは丈夫に育ったが、子供イはそうはいかなかったというような場合になりがちで、健康状態や心の安定にまで影響がある。また夫も心の安定をもとめるために、いただいている報償金というのかを使ってしまう。このように家庭崩壊になりうる。それが一代だけでなく、次の世代にまで影響を及ぼすような事態もありうる。春日局が家光を育てるために、選ばれ大層その家族は恵まれたように伝えられているが、今述べた苦労もあったのではないかと想像する。このような乳母の話をある知人から耳にしました。

2009年1月28日水曜日

ちよだ区議会だよりと比べて


おはようございます。西東京市長選挙が2/8にあります。千代田区長選挙は2/1だそうですがここは住民の姿がみえないような所で選挙カーが動いている。

下記はちよだ区議会をみてたら他の地方議会の内容を比べてみると、自分の市の議会も見えてくる。西東京市とはだいぶ異なっているようです。
●定例議会の審議結果が:議員の名前・所属政党が書いてあり、法案ごとに出席者数、投票者数、賛成数・反対数・議決結果の可決か否決、各議員毎に○賛成、×反対、欠席、退席が書いてある。
同じ政党でも賛成・反対の投票は若干ことなる。欠席や退席は0でした。ただ議案の説明が概略なので、議事録をみないとよく分からない点はあります。
議長である区長は議決には加わらないとある。議長を除けば24名なので、同数の場合は議決に加わるのでしょうか?議会規則をみてもよくわからない。
●区の施設の指定管理者に区の社会福祉協議会(区役所の機能ではないが、ここからほとんどの活動資金がでている)になっているのは、内輪同士のなれあい発注ともとれる。
●介護保険料に剰余金ができたのでどうしようか(値下げか、別の使途?)千代田区に限らずこれはほとんどの市町村でいえるようです。
●グーグル社のストリートビュー:ネット環境をしらないひとが「自分の前の通りが映っていることすらしらない。」;
無許可の放映であるので、国や他の自治体の動向をみて考慮したい。
●日比谷図書館で有料特別席の設置を考えている:図書館法に抵触しないかといっている。
●東京タワーからのデジタル放送は周知のごとく2011年7月であるが、映るのでしょうがズレがあって東京スカイツリータワーからは2012年の春ということになっている。
●介護されている人にとって訪問リハビリは重要なサービスの一つ。介護保険の支給限度を超えても利用できる区独自の上乗せを検討する。
●カットに小学生の写真が何枚もあるが、小学校名・学年は書いていないがどれも可愛い。
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/

2009年1月27日火曜日

犯罪件数は増えているか


おはようございます。また景気が相当に悪化するので、犯罪が増えそうだといわれそうです・・・。デターは古いですが大きな流れはそう変わっていないでしょう。
外国人が増えると治安が悪化するのか:亜細亜大で弁護士の大貫憲介氏が言われていることは初めて治安が悪くなったといわれたのは、1989年の8月16日の読売新聞「急増する来日外国人の犯罪」それいらい、強盗が約2倍、窃盗が1.5倍になったし、ピッキングも増えたという記事になっている。ちなみに犯罪が増えたとか、減ったとかは犯罪件数ではみないのが犯罪学者の常識だそうです。いわゆる逮捕・起訴される過程において土産があります。お土産というのは、捕まえた窃盗の被疑者・被告人に未解決の事件を押しつけます。これもお前がやったということでいいなと言って押しつけて、解決したことにします。そのために検挙件数ほどあてにならないものはないといわれています。普通犯罪統計をみる場合は件数ではなくて検挙人数でみなければならないそうです。
       1993年(平成3年)外国人が刑法で検挙された来日外国人(米軍、永住権の人は除く)は7276人当時外国人入国者は約375万人、10年後のの入国者は1.5倍、刑法犯は平成14年で7690人、平成15年で8725人だそうです。犯罪の中身も、約90%弱が重要でない、窃盗だそうです。
       日本国内の凶悪犯が増えたように言われていますが、実際はそうではない。
       犯罪白書でも殺人が、1950年(昭和25年)人口8620万人中検挙3076人、それから50年経過しての2000年で、人口1億2692万人中1416人で人口も随分増えたのに半分以下になっているので治安がよくなっているのです。
       外国人労働者は一生懸命働いてくれるという経済界もこぞって受け入れを望みました。そういう時に外国事情を踏まえてで危機感をもっていたのが警察庁の三島徹というひとで1988年、外国人労働者を本格的に受け入れると、ドイツのように治安が悪くなるという趣旨の論文を「警察学論集」に書いた。この弁護士も三島氏に2回あった時に、確かめたら「いや外国人労働者が増えて、治安が悪くなったとは思わない、でも将来そうなるかもしれないという警鐘をならすのが警察官僚の役割だと述べたそうです。(平成16年武蔵野市寄付講座:特殊講義Ⅲ最新の地方自治)亜細亜大学法学部

       平成19年の犯罪白書:http:o.jp/jp/54/image/image/h003001002001e.jpg:検挙件数の伸びは急傾斜の右肩上がりになっているのに、検挙人数はおおまかにみて横ばいです。
      
入国者数: http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/54/image/image/h003001002001e.jpg(これで来日外国人数をどうみるかがよくわからないのですが?)


       
        白書を調べてみると、65歳以上の犯罪が増えているそうです。団塊の世代で従来より人口の塊が大きいからなのかという疑問があるが、この塊が時代が経過する毎にい大きな変動を起こしていたので
          検証しなければとは思います。たしかに高齢者の比率が下記のごとく、2.5%から13.3%に増えているので4.9倍というのも、うなづける数字ではある。どうも解説は警告が先で事実の説明よりも警告
         に重点をおいている。
      白書によると、平成19年の自動車運転過失致死傷などを除いた一般刑法犯の高齢者検挙人員は男子3万3255人、女子1万5350人。男女ともに同じ基準で統計がとれる昭和63年以降最高で、同年の男子6675人、女子3213人のそれぞれ約4・9、4・8倍となっている。全体に占める高齢者の比率も、63年の2・5%から13・3%と大幅に増加した。
 この間、高齢者人口自体も増えているが、63年を100とした場合、平成19年の高齢者人口は199・2と約2倍の増加だったのに対し、検挙人員は491・6、起訴人員は742・3、新受刑者数は607・7となっている。
     増加の主な原因は65%を占める窃盗の増加で、その動機では男子が「生活困窮」、女子は「対象物の所有」「節約」が多い。手口の大半である万引と遺失物等横領も含めた比較的軽微な財産犯が高齢者の主な犯罪だが、粗暴犯の高齢者比も目立って増加し、殺人(10・6%)が窃盗(17・5%)、遺失物等横領(13・2%)に次ぐ高さに。
     

2009年1月26日月曜日

下手な見舞いの手紙


おはようございます。最近身の周りで、ガンの方がおおい。田舎の親せき筋も健康診断を1月前やったばかりなのに、胃ガンと診断されたので年に3回位ガン検診をすべきだということをいっている。
前の嘱託時代4人のOB会のメンバーの一人も、また中学の医師K君もそうだ。もう亡くなったのは高校時代ガン研にいたM君もそうです。
つい2週間前に高校時代の友人T君から、H君が大腸ガンの余命いくばくもないということで、3人で見舞いに行ってきた。医療関係の会社に勤めていたので、彼は自分の実情を詳しく説明してくれたという。自宅までいって昔ばなしをしてきたとのこと。もう自宅に来られるのは疲れるので、見舞いも電話ならば歓迎するというので、ぜひ電話をしてくれという知らせが入った。昨日も弓道で稽古しているところに3人の別のメンバーW君から、電話が入って、「3月までの命だから是非電話をしてくれという。」この電話に応えて「そうタンタンと病状を聞いて、どのように慰め、受け止めたらよいか迷っている。今手紙を書こうと思っているが書き出しがみつからないでいると」答えても「」H君は病状をわきまえていて、普通にはなせばよい」のだからと緩めてくれない。H君とは4年前に40年ぶりにあった。(これは外資系の退職金1億円をもらったので、60前にゆうゆう自適の別荘70坪の建物もある那須に行こうと誘われ、半分は興味本位がきっかけでした。)しかし高校時代にそう親しくしていた訳でもないので、昔悪さをしたとか、どこか旅行にいったとかもない。話の材料も3人でいけばリレー式にできたのと違うし、3人のメンバー以外のガンを患っているT・H君は自分も同病だから話しやすい。それとは違う。手紙は書くことにしている」ということで電話をきった。
弓道の仲間や先のOB会での参考意見も同様で「あたり前のように普段と同じように、話すのは難しい。励ますのも、下手な慰めもできないし、結局何もしてあげられないものだ」ということでした。
しかし結局はW君からの催促で机に向かうことが出来た。4年前にあったことを思い出し、ドンガラ汁(田舎では寒鱈の骨も入れた味噌汁)を食べたときに、もう高校生に戻っていたねのような話題がでてきた。とても電話口ではこちらの下手な慰めも嫌味としてしか伝わらないかもしれないが、手紙だとかなり、こちらの平常心も保てそうでやっと書き上げられた。同封には柳田邦男さんの2冊の文庫本と、島村喜久治さんの院長日記のコピーをいれて今日発送することにしました。

2009年1月25日日曜日

三角山放送局



1/24の22:30からNHKの1chドキュメント日本の現場でやっていた放送です。札幌にある本当に小さなFM放送局で、名前が三角山放送局、その放送局のモットーにしているのですが、ユニークなのは弱者を大事にする放送局でした。どういうところがユニークかといえば、パーソナリティが介護者(奥さんが認知症で5年も介護している連続もの)、おばあちゃんの一人言(がんになった人が亡くなるもでの連続)、スタジオにこられな人については、テレビ電話で取材中継して話を放送したりもする。
 今度は新たな何人かの中から選考されたのは足が歩けない女性で27歳、どういう苦労があるかというようなことをさりげなく、12/25のクリスマスからの開始、2時間もの持ち時間がある。放送中にメールが入ってくる。それが弱者がとても、放送のパーソナリティの人が心をこめて話している。
今度我々の立ち上げたブログもラジオ放送ができるらしいし、カラオケやハワイアンの練習風景など、介護家庭の現場から、あるいは座談会をYOUTUBEで映像つきビデオでも放送できるとすれば、シニアかわら版にHPのアドレスをのせて取材を生で聞けるようにする、それと思ったのはシニアかわら版の参加者がこのブログを利用して、こんな話を聞いたとか、こんなことを知りたいとか書き込め、それが相乗効果を産めば面白いニュース源になるかもしれません。
写真は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の子孫です。

2009年1月24日土曜日

姥捨て伝説


おはようございます。姥捨山はそういう伝説は、実際はなくて姥捨山は「うばすて」の「うば」は巫女「すて」は住んでいたという山だそうです。とはいうものの、それではちっともですね。

昔、年寄りの大嫌いな殿様がいて、「60歳になった年寄りは山に捨てること」というおふれを出しました。殿様の命令には誰も逆らえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものと諦めていました。
ある日のこと、一人の若者が60歳になった母親を背負って山道を登っていきました。気がつくと、背中の母親が「ポキッツ、ポキッツ」と木の枝を折って山道に捨てています。男は不思議に思いましたが、何もきかずにそのまま歩きました。
年寄りを捨てるのは深い深い山奥です。若者が母親を残して一人帰る頃には、あたりはもう真っ暗闇。若者は道に迷って、母親の所に引き帰して来ました。息子の姿を見た母親は静かに言いました。「こんなこともあろうかと、途中で枝を折ってきた。それを目印にしてお帰り」、子を思う親のやさしい心に触れた男は、殿様の命令に背く覚悟を決め、母親を家に連れて帰りました。
 しばらくして、となりの国から「灰で縄をないなさい。できなければあなたの国を攻める」と言ってきました。殿様は困りはて、誰か知恵のある者はいないかと国中におふれを出しました。若者がこのことを母親に伝えると「塩水に浸した縄をなって焼けばよい」と教えられ、若者はこの通りに灰の縄を作り、殿様にさしだしました。隣の国では「こんな知恵者が居る国と戦っても、勝てるわけがない」と攻め込むのを諦めて
しまいました。殿様は、たいそう喜び「ほうびをとらす。欲しいものを言うがよい」と言いました。若者は「ほうびはいりません。実は・・・」、若者は決心して母親のことを申し上げました。「なるほど、年寄り」というものは有難いものだ。」と、殿様は自分の考えが間違っていたことに気づき、お触れを出して年寄りを捨てることをやめさせました。それからは、どの家でもお年寄りを捨てる事をやめさせましたそれからは、どの家でも年おいた親と仲良く暮らせるようになりました。

これについてみんなどう思ったかの座談会をやって「きらっと☆シニア」かわら版・西東京の記事にしようということになりました。

写真は昔なつかしい風景を醸し出すジオラマの詩人といわれる山本高樹という人です。

2009年1月23日金曜日

災害時弱者


おはようございます。高齢者など災害時弱者について調べようということになった。災害時の弱者とは、障害者、高齢者、被介護者、妊婦、幼児・子供、透析を受けている人がいますがこれら人々にはより以上の配慮というか、どこにどの位住んでいるか、それにはどの程度の援助をしたらよいかなど、緊急時でありながら詳しい情報と援助が必要です。このようなところまで対策が出来ていているか否かによって、それぞれの市民がどのように守られているか、を評価できる訳ですので、自分の市がどの程度であるかが分かります。災害弱者のリスト・マップはこのような場合の対策を作る場合に必須のことですが、個人情報の保護によって壁がありますが、この災害時に備えるということによって個人情報の保護の規制対象外になるという判断がある。これを福祉と防災をつなげて、自分らの議会で議決しておけばよいようです。そうして、日頃の見守りにもつなげていけばよいようです。

最近は1月17日の阪神・淡路大震災記念9月1日の関東大震災の時と年に2度災害注意喚起があるので大変良いと思います。「災害は忘れたころにやってくる」寺田寅彦が明言をのこしています。

昔安全衛生にも関係したことがありましたが、人間の普段の時の気持ちから見つめないと、対策を立てても浸透しないですね。
人には危険を認めようとしない心理傾向があって、大災害はめったに来ないので、過去の小災害の経験から安全だろうという判断しがちです。自分でもこの傾向はあって、わかっちゃいるけどという言い訳をしたくなります。

もうひとつは【災害現場の3つの共通点】
1.「まさか」
2.「こんなことになるのならもう少し準備しておけばよかった」
3.「やっぱり地域が大事」:無我夢中で救出・救助にあたった。お隣さんが避難を促してくれた。消防団がおんぶで避難所まで連れて行ってくれた。阪神淡路大震災時救出が必要とされた約35000人のうち、近隣住民によって助けだされたのは約77%の27000人。新潟県の山古志村の場合は、日頃の付き合いが緊密だったせいでしょう。「俺は大丈夫だ。隣のおばあちゃんの方が心配だ」といったのは大型冷蔵庫の下敷きになっている人だったそうです。
改めて「一人じゃ何もできないことを悟った」と。

 新潟中越地震の時の災害用伝言ダイアル「171」で、録音と再生で35万5000件の利用があったそうです。被災地で利用したひとは2から3%の人々だったそうで、残りの97から98%は被災地以外からということになります。そこでは被災者の安否、傷害の程度、所在地の情報が知りたい情報でもあります。それを残すには電話によって残そうとしても使える電話は大変少なくなっているし、一時集中して込み合っていますので、携帯電話のメールが一番だそうです。「171」の電話も毎月1日は練習が可能の日になっています。171にかけてみれば自動的に音声で誘導してくれます。
 長野県の松本広域消防局のように、聴覚障害者または通話困難な人が携帯電話からインターネットやメール機能によって災害の通報、災害情報の入手することができるサービスを開始しているのはすばらしいシステムですね。
結局は平時に避難訓練をやるところまで到達しないといけないようです。ここまでが大変なのですね。

2009年1月22日木曜日

シニア瓦版とブログ選択



昨日は米国大統領の就任演説については世界中から注目と期待が集まっていましたね。演説の内容の素晴らしさ、日本にも、この西東京市にもキチンと目標を掲げリードしてくれる指導者が欲しいと切に思います。

此のたびシニア瓦版という西東京市のシニアに特化した新聞を発行することになりました。独自に取材して記事にしようということになりました。
昨年はシニアがどういう情報を求めているか、ひきこもりや孤独死をどう見守るかなどのワークショップもやりました。
これは芝久保公民館というところで、情報誌の作り方講座は実際は毎日なにをやっているかの報告会でしたが、これが必要な情報だったということが分かりました。
その講座ではみんな自分の興味のあること(わが町の歴史、耳より情報、ウオーキング、サイクル、食の問題、近隣の農業、たまり場)を持ち寄って300pのものにまとめました。それから発展したものでした。この時は9人でした。
次に4人もの新聞記者や雑誌の編集をやっていた人、イラストレーター、グループ内のチームの作り方の講師、を呼んでの講座を再度やりました。それで20人になりました。この人数だけでもいろんな情報が集まりますし、珍しく構成員が半分は男性です。

そこでこれをブログにも連動してみようということになったのですが、無料のブログは21もあり、利用できる容量も5MBという小さなものから、無制限というものまで、
http://www.boraro.gozaru.jp/blog/comparison..html

それぞれが性格がちがい、使い勝手もちがい、その違いの意味も分からず、今自分の使っているものが親しみもあるし、困っています。
大は小を兼ねるということで「seesaa」なら複数のブログがつくれると、個人ラジオ放送が可能、メルマガの発信が可能なので容量が大きいということで応用がききそうだということで、試しています。これは無料ブログの選び方の記事をみてその推薦記事からえらんだのでした。あとあと情報がたまって、他のブログに引っ越しが可能ともかいてありますが・・・実際使ってみないとわからないですね。ブログを立ち上げている人はどういうことで今の媒体になったのでしょうか?興味のあるところですね。

2009年1月21日水曜日

個人情報がないと・・



オバマ大統領の就任演説がどんなものか世界中が注目していました。徹夜で中継を見た人も多いことでしょう。
今回の院長日記の時代は個人情報についてはそれほど問題にしていなかったし、療養所内の出来事も相当な内部まで披露されていて公明正大で患者と院長の関係が手にとるように分かる。またこの院長もほとんど雑務におわれいる中で、回診のときが一番心が触れ合って充実していたということです。

折田君はある町の郵便局につとめていたが、もちろん今は退職している。それなのに、郵便局の昔の同僚は、今でも折田君のことをわすれずに、見舞いに来てくれる。折田君には身寄りがない。ベッドの枕元も質素である。
そして、折田君には腎臓結核がある。個室に寝たっきりで、最近熱がある。口数の少ない人でいつも回診のとき、だまって頭を下げる人であった。その5年も入院している折田君から感謝状をもらった。考えてみると、院長になってはじめてである。
感謝状は調子の明るい文章だった。自分の病気については触れていない。生命の不安など、まるでもっていないような文章である。私はこういう重症患者の心理が、どうしても理解できなかった。生命の不安を、自分で気づかない、無知の明るさではないか、と思うときもあった。だから、むしょうに死をおそれて、しがみついてくる患者の方にこそ、共感したときがあった。しかしマユを作る前のカイコのように、脱皮を重ねて透明になった
患者のいることにもみとめずにはいられなくなった。そんな患者たちは、いつも病室の片隅で、3年でも5年でもほこりをかぶるようにして、安静の身を横たえている。つつましく、微笑をたたれている。こういう患者たちを、若い結核医はまず気の毒に思い、それからどうにもならなく思い、そのうちあまり相手にしなくなる。もっと新しくて、簡単に治せる結核の方が、若い結核医にはおもしろいからである。
しかしもっと年がたってくると、病室の片隅から、つつましい微笑を送ってくる視線を無視できなくなる。まともにぶつかってみることもあるが、まるで刃がたたない。人間の比重の差であろうか。こわくもなってくる。あせることもある。だが相手は、全然あせらない。透明なのである。
「・・・・一面緑色の草の中に、白い色のにわとりが、赤いとさかをつけて歩いている」様は、実にきれいです。こんな小さな世界でも、自然は私たちの患者を楽しませてくれます。こうした中に、私たちは明るく静かな病室に、安心して毎日の療養ができますことは、病院の皆様の並々ならぬご努力と限りない愛情とによるものと、常に感謝いたしております。どこまでも人生を貴び、気長に療養して行きたいと思っております。・・・・」
美しい文章という」のではない。表現が、そのまま人を打つ文章でもない。突き抜けた単純と平凡が、死と接触している裏側をすき通してみせる手紙であった。

院長日記:島村喜久治:筑摩書房

2009年1月20日火曜日

病院長



おはようございます。時代は違いますが、国立の病院長でこんな人がいたという記録です。あの島村さんの日記です。
「どうも、うっかりしていました」と庶務課長が入ってきていうには患者食費に30万円赤字を出したので厚生省に申請したという。課長は謝ったが、私は、治療費がや食費や研究費に赤字を出す庶務課長はりっぱだと思う。一日76円ばかりの食費で、結核患者の栄養を保とうというのが、無理なのだ。無理は患者の自炊となって現れるか、食費の赤字となってあらわれざるをえないだろう。ただ、遺憾なことは両方になってあらわれたことである。しかし30万円といったって、4月以来10ケ月間の赤字である。1ケ月200万円を超える食費予算に対してたったの3万円の赤字である。
「30万円はまずかったね」と私は庶務課長にいったが、腹の底では最も立派な赤字の出し方だと考えていた。
それでもなにやかやとののしられている私たち。そうしたなかでも珍しく、今年の正月には、9百人の患者たちが、配給のもち米を、自発的に供出しあって、病院へ感謝の大鏡を作ってくれた。30万円赤字のおわびの百万べんの叩頭は、よろこんで、私が厚生省で演じて来よう。

      院長日記:島村喜久治:筑摩書房より

2009年1月19日月曜日

エコキャップ


「ボランティアのつどい」というイベントの手伝いをしています。そのイベントでは中身が欲張りなのですが、ウオーキングをやりながら・文化財も見学・ゴミ拾いもやろう・参加者にはペットボトルの蓋をあつめよう。(集めた蓋の最終目的はゴールでゴミ分別クイズもかねて発表)結構これらの運動が環境と発展途上国への応援が素直な気持ちで参加していることがよく分かるようになりました。自分でキャップを集めてみると、毎日1ケで下記の800個集めるのには、約2.2ケ年掛かる。
コーラ1本をコンビニで140円で買わないで、100円ショップで105円でかってその差額35円の方が発展途上国の子供を救えるお金になると思いました。
でも命の値段がこうも違っているのですね。
◆なぜエコキャップなのか
 
。キャップを分別回収するだけで、環境改善と再資源化に向けた取り組みができるとしたらすばらしいことではないか、という思いに至りました。
、世界の発展途上国には、まだ栄養失調や下痢(げり)、あるいは予防できる感染症で命を落としたり、後遺症に苦しんだりしている子どもたちがたくさんいます。ワクチンさえあれば命が助かる子どもたちは、世界で1日に約6000人にも達しているそうです。その子どもたちを救済することが、世界の友人として私たちの役割ではないかと考えました。私たち1人1人が共生の立場でワクチンを届けることができれば、それは国境を越え、未来へのすばらしい贈り物になると思っております。  皆様から集めたキャップはリサイクル事業者へ1kg(400個)10円で売却し、売却益をNPO法人「世界の子どもにワクチンを日本委員会(JCV)」へ寄付しております。JCVでは発展途上国へワクチンを供給しています。キャップ800個分の20円で1人分のポリオワクチンが購入でき、1人の子どもの命が救えます。

http://bokururu.jp/award/index.html#no1

2009年1月18日日曜日

自立支援法


おはようございます。昨日は障害者の自立支援法※についての茶話会があって聞いたところ、やっと外に出られるようになった人、作業所で一月3000円(桁違いではありません)の給料をもらうのもやっとの人が多い。作業を援助する人があって生活している訳ですが、応能負担(その人の負担できる能力に応じて)が応益負担(サービスを受ける内容に応じて、負担能力は関係なく)、また補助が月払いから日払いになったので、どうしても日割りで削られるので作業所の収入を圧迫しているのが分かるので、勤めを楽しみにしている障害者でもきちんと毎日出勤できる障害者も少ないのですが、作業所の経営を安定させるのは無理してでも仕事をせざるをえなく、風邪をひいても1日でも休みにくくなった。
作業所も収入が現実に減って、職員の減員(職務内容の激化)・給料のダウン、障害の軽い人を受け入れていては補助による収入が少ないので重い人を入所させるが、こんどは重い人には職員の援助が多くなるという事態がある。となると軽い人と敢てみなされた障害者は、無理にも、自立できるような収入の仕事をして働きなさいというので6ケ月間「」自立して仕事する訓練期間はあるが、指導員がついて働いている状態から、(元来働ける人は働いている訳で、)いまさらに無理を言われ、現場は不安と混乱を来している。

下記はないないという厳しい時代ではあるが、こんな人がいたということでも救いになりました。

あのころは、窓の外はいっぱいの青空で、東京府立清瀬病院に威厳をたたえていた黒光りのする屋根・屋根を超えて、形のよい赤松が数本、ちょうど辞表を懐にしている私のように、背伸びして焦っていた。振りかえってみれば、5年の間は夢中であった。患者用も食糧が翌日の朝までしかない日があった。看護婦が足りなくて手術を制限せねばならぬ時もあった。病棟も戦災をうけた病棟が復旧できたのがやっと去年の8月(昭和27年)から5年半の間、瓦が落ち、天井のぶら下がったままだった4つの病棟がやっと復旧したという時代だった。そこの若い院長の日記です。

昔結核病棟は死に近い病棟だった。そこで療養に励み、幸運にも退院できた矢口さんがやってきた。
「平塚の細嶋さん親子はとてもいい人だったので、いい所をお世話していただいたとことと思って喜んでいます。」と矢口さんは綺麗な二重瞼の眼が笑った。
全く心当たりない細嶋さんから手紙をいただいた。子供と2人結核で寝ているので、食事の世話に困っていますという書き出しで、部屋と食事をつけて月3千円差し上げるから、理解のある回復者を一人紹介してもらえないかという手紙だった。(ここの病院長には、読者からの相談事が多く寄せられて、多忙の中で、キチンと返事を出す人でした)

どんな女中を頼んでも母子2人の結核なので、数日で嫌がられて逃げられるという。
そのころ病院では回復期の患者を常に七十数人も抱えて、就職と住宅に弱りぬいている回復者にとって素晴らしい話だった。医務の事務官が自分でその話を調べに出かけていって、会って話を聞いた結果、平塚の海岸の温かいところで17歳になる息子さんと、お母さんが2人とも大した病状ではなく、いい人らしいという報告を受けて選ばれたのが矢口さんだった。「細嶋さんもとても喜んで下すって、今まで方々の療養所にお願いしたけれど、返事も頂けなかったのに、とても嬉しいと涙を浮かべていらっしゃった」との細嶋さんの様子も矢口さんから聞いてよく分かった。
院長日記:島村喜久治:筑摩書房より

※自立支援法:障害をもった人に、サービス料の原則1割負担を導入。それまで所得に応じた応能負担で収入が低い大半の障害者は自己負担がなかったが、サービス利用障害者の9割に負担が生じた。利用抑制が相次ぎ、2度の負担軽減がとられた。見直しに向け、社会保障審議会障害部会が今月もとめた報告書は1割負担の可否を明言せず。
サービスといっても一例でいいますと、福祉作業所で仕事のことをいう(紙袋に手下げを付けるような単純で決まり切った作業(そうじゃないと出来ない)は機械化・自動化・省力化の世の中ですから、仕事の量が一定せずあったとしても一つ1円位の仕事の場合が多い、これを利用するということは指導員がいて、仕事の注文を受けて、その段取りや納期の管理をする人がいる。障害者である入所者は、3000円の月収の中から、たとえ1割負担でも、作業所で働くことのサービスを受けると、1万円とか2万円になって負担しきれないという問題になっている。大会社が特別子会社をつくって大量のパンフレットの仕事を出す場合で障害者の雇用も図る場合は税金の特典が得られるケースもあるが、こういう例は極めてすくなく、一般の作業所では仕事量の確保が難しいのが現状である))

2009年1月17日土曜日

青梅市の赤塚不二夫館





青梅市にある「赤塚不二夫館」にある写真はいい顔をしていました。皆さんも私も
若い時代の何かを目指している顔はこんなだったのでしょうか?

2009年1月16日金曜日

アジアの優しさ





寒さも厳しくなりました。剣道場は暖房あり、弓道場は暖房なし、日射しのところとそうでないところの差が歴然、また日差しが低く眩しいので

シャッターの上部だけ下げます。靴下などもどうしても厚めになります。その点アジアは 温かくていいですね。

インドネシアにのめりこんだ男だった。もちろんインドネシア語ができ、インドネシアの各地に長期滞在している。しかしなぜかインドネシアを訪れるたびに、不運に見舞われるのだ。置き引きにスリに強盗、コレラにチフスにマラリアと「災害の見本市」と呼びたいくらいひどい目に遭っている。アジアの多くの地域に共通することだが、インドネシでもイスラムの教えから富者が貧者に施しをするのは当然とみなされ、それがしばしば「タカリ」や「物乞い」となって現れる。彼も日本人であるということだけで

金持ちと見られ、何かにつけてタカられたり、ボラれたりする毎日に辟易としていた。

その彼が、旅先の田舎町でコレラに罹った。所持金も途中、窃盗にやられたりして底をつき、とうとう行き倒れ同然となって、地元の病院に担ぎ込まれる。ところが、この瞬間からインドネシア人の態度ががらりと変わったというのだ。

隣のベッドにいる患者の見舞いに来た人が、入院費をかしてくれたり、

見ず知らずの人々が食べ物を差し入れてくれたりするようになったのである。

インドネシア人に固定観念を抱きかけていた彼には、すべて信じられないことばかりだyった。友人は、しみじみとした口調でこういったものだ。「自分が本当に弱者になったとき、インドネシア人の心が初めてわかったような気がしたよ」と。

インドネシアにのめりこんだ男だった。もちろんインドネシア語ができ、インドネシアの各地に長期滞在している。しかしなぜかインドネシアを訪れるたびに、不運に見舞われるのだ。置き引きにスリに強盗、コレラにチフスにマラリアと「災害の見本市」と呼びたいくらいひどい目に遭っている。アジアの多くの地域に共通することだが、インドネシでもイスラムの教えから富者が貧者に施しをするのは当然とみなされ、それがしばしば「タカリ」や「物乞い」となって現れる。彼も日本人であるということだけで

金持ちと見られ、何かにつけてタカられたり、ボラれたりする毎日に辟易としていた。

その彼が、旅先の田舎町でコレラに罹った。所持金も途中、窃盗にやられたりして底をつき、とうとう行き倒れ同然となって、地元の病院に担ぎ込まれる。ところが、この瞬間からインドネシア人の態度ががらりと変わったというのだ。

隣のベッドにいる患者の見舞いに来た人が、入院費をかしてくれたり、

見ず知らずの人々が食べ物を差し入れてくれたりするようになったのである。

インドネシア人に固定観念を抱きかけていた彼には、すべて信じられないことばかりだyった。友人は、しみじみとした口調でこういったものだ。「自分が本当に弱者になったとき、インドネシア人の心が初めてわかったような気がしたよ」と。

アジア定住(11ケ国18人の日本人):野村進、井上和博より

2009年1月15日木曜日

アメリカの鏡・日本④


都心の市ヶ谷の街路樹の楡けやきは若い芽の葉がでていたのですが帰宅途中に確認してみると、郊外の西東京市ではそういう気配はない。違いは市ヶ谷のは太い幹までに刈り込んであった。西東京のは今年はそうはなっていないで、小枝が垂直にのびたままです。そうすると両者の距離の差は35キロくらいで極端な温度差はないとすると、刈込の有無で、市ヶ谷のほうはびっくりして若芽をだしたのでしょうか?

アメリカの鏡・日本も④になりました。中国の革命指導者孫文は「三民主義」のなかで次のように書いている。

ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席についた。日本はアジア問題の代弁者だった。他の諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。白色人種にできることは日本人にも出来る。人間は肌の色でことなるが、知能には違いがない。アジアには強い日本があるから、白色人種は日本人もアジアのいかなる人種も見下すことはできない。日本の台頭は大和民族に権威をもたらしただけでなく、アジア全民族の地位を高めた。かつて我々はヨーロッパ人がすることはわれわれには出来ないと考えていた。いまわれわれは日本がヨーロッパから学んだことを見、日本に習うなら、我々も日本と同じように西洋から学べることを学べることを知った。

これからまた彼女の主張にもどりますが、とりわけ民主主義大国と日本、中国の関係は優れた教材である。日本との関係では、西洋列強は1894年※2(明治27年、清国に宣戦)から1899年(明治33年)にかけて治外法権を相次ぎ放棄していった。しかし、通商特権をなかなか放棄せず、日本が自分の手で関税を管理できるようになったのは、やっと1912年(明治44年は大正元年)からである。中国の場合、教育は日本より早く始まった。しかし中国は西洋の厳しい要求水準を満足させることができず、教育の修了はずっと遅れた。(どういうことでしょうか※3、分かりずらいのですが、

日本は54年で関税の自主管理権を取り戻したが、中国は88年かかっている。それでも完全に管理するにいたらなかった。日本は治外法権を完全に外すのに45年かかったが、中国は実に104年(※2)かかっている。中国が完全に卒業したと認められたのは、1943年から1946年(中国での国共の内戦)にかけてである。「遅れた」国でも指導大国の意にそわない国を戦争で打ち破るまでに成長すれば、対等な主権国家として独立が認められる。

1第一次世界大戦後の19196パリ講和会議の結果として連合国ドイツとの間で締結された講和条約1919628ベルサイユ宮殿で調印。1920110批准。

 ドイツは全植民地と本土の10%以上を失い、軍備の制限を受け、多額の賠償金を課せられた。

 この条約ドイツ民族意識を高揚させ、ナチス政権誕生を導いた原因となった。以降の戦争ではその反省から敗戦国に多額の賠償金を課すことはなくなった。

 1935ヒトラー政権がこの条約を破棄。

3

日本の場合1872年(明治5年)学制頒布(ゆきわたらせる)、1879年教育令制定、1882年幼学綱要頒布、1886年小学・中学校令公布。

中国の場合:清国があった1850年代に学制の前身、1872年米国への留学生派遣、科挙の制度はまだ生きている。その後の教育事情が清国が倒れてから不明なのは1949年の台湾の政権しかないためである。

「アメリカの鏡・日本」ヘレン・ミアーズ著より

2009年1月14日水曜日

チャプリンのステッキ


ホトンドの街路樹は葉がおちていますが、楡けやきは都心だから温かいためか、今年は暖冬なのか小さな若い葉をチラホラと付け出してていました。

「週刊朝日」の名編長だった扇谷正造が“喜劇王”チャールズ・チャプリンの独創性を次のように評したことがある。

チャプリンの笑いは喜劇映画に革命をもたらしたと言われるが、道具立ての山高帽、誇張したメーキャップや付け髭にしても、だぶだぶのズボンにしても、それにあのドダ靴だって、従来の喜劇でお馴染みの代物に過ぎなかった。だがチャプリンが違っていたところが、ひとつだけある。それはステッキを取り入れたことだ。あの一本のステッキこそ、山高帽やつけ髭にと統一感を与え、いままで見たこともないコメディアンが出現したと観客に印象づけたというのである。この平和主義のチャプリンの全く逆の例を引いて、アメリカの世論の錯覚のさせ方が次の通りだそうです。

 

NHKデュレクター・高木徹の「ドキュメント戦争広告代理店」はユーゴスラビア崩壊後のボスニア紛争の際、アメリカがコマーシャリズムの発想と手法を駆使して、サルビア側を一方的に悪玉に仕立てていった経緯を、徹底した取材によって浮かびあがらせた。それによると、セルビアのナチス的なイメージを決定付けた「民族浄化」という言葉は、アメリカのPR会社の社員が案出したキャッチコピーで、セルビアが「強制収容所」を建設したという誤報とともに、全世界に流布し、アメリカの反セルビア戦略を後押ししたのだという。

ちなみに、1991年の湾岸戦争における石油まみれの海鳥の写真や、イラク兵にわが子を虐殺されたと訴えるクエート人の母親の映像も、ずいぶんあとになってから、アメリカ側が意図的に演出もしくは捏造し、世界に流したものだと明らかにされている。イラク戦争でも、同様の手口が使われてきた可能性は極めてたかいという。事実証拠なきまま戦争が開始されました。

検索円エンジンのグーグルは知らない人はないくらいであるが、アスキー・ドットPC編集部編「グーグル最新検索術」と、内外の新聞やニュースをネットで読みたいときに役立つのは「moriken・org」で朝日、毎日、読売、日経、産経、東京、の各紙、共同通信、NHK、ニューヨークタイムズ、ワアシントンポスト、ニューズウイーク、CNN、BBC、ロイターのニュースを手軽によむことができるそうです。

調べる技術・書く技術:野村進著、講談社現代新書から

2009年1月13日火曜日

川越の喫茶店



10年前に比べると、町並みも整備されて人気のでている蔵づくりの町埼玉県の川越市まで足を延ばし「喜多院」ところに行ってきたら、まだ新年の参拝客が大勢いました。

その帰りに喫茶店に立ち寄ろうと辺りを探しあるいたのですが、大通りのアンティーク風な店はどこも混雑して、満席なので丁重断って

いるところでした。しかたなく駅の真じかのところで、かろうじて空席がありそうでしたのですが、その手前の隣の店のガラス窓に「赤飯まんじゅう」

と赤い紙に書いてあり、お茶をどうぞは小さく書いて張り出されています。ここも喫茶店だった訳で、お菓子やさんではないのでした。一人のお客さんもいない店で入店にちょっと躊躇したのですが、ゆっくり出来そうなので敢てこちらを選びました。ところがサービス満点の店でした。応対も丁重でコーヒーを頼みましたところ、もう一杯お代りができますという。又カップも選べますとの説明でした。カップのリストには毎月の人気ベスト10まで書いてあります。私もどれにしようか迷ったのですが、一番シンプルなデンマーク王室でつかっているのを選びました。しばらくし運んで来たのはポットに被いがしてありました。これは2杯目飲むまでに冷めないようにするためという。又赤飯まんじゅうを追加注文しようとしたら、小豆入りのは品切れで、芋餡でよければということなので、川越はサツマイモを餡にした饅頭が有名なので、それでもよしということで頼みました。

それからひっきり無なしにお客さんが、喫茶のためでなく、店先に赤飯まんじゅうを買いにくるのでした。食べてみるとこれは美味しいものでした。程がよく、薄味でした。米粒が一つ一つ

光っています。なかなかに美味しいのに、来店がすくないのは観光客に目立つようにではなく、平日に地元相手に精を出しているからなのでしょうか。きめの細かいサービスにであい、これを独占できたのですが、一面気の毒でもありました。

2009年1月12日月曜日

日本の音楽教育の側面


ネットでみつけたのですが、演題が「日本における音楽の在り方を、学校で習わない音楽から考える」ということでこれは面白そうだということで行ってきました。

なかにはやはり、分かりにくいところもあったので省くよりも※や?をつけたところがありますのでご容赦ください。

徳丸吉彦略歴:音楽学と美学は東京大学で、日本音楽と西洋音楽の実技はある程度個人的に学びました。国立音楽大学・お茶の水女子大学・放送大学での勤務ののち、現職。放送大学客員教授・お茶の水女子大学名誉教授。

放送大学東京多摩学習センター[西武線の一ツ橋駅:一ツ橋大学の国際センター]

開口一番に話されたことはこうだった。経済学者に、音楽について聞いてみると、教育面でいうと、歴史的にも一番成功しているのが、音楽界である。(但し西洋化の面で)世界中で活躍して指揮者やコンクールやブラスバンドをみても分かる」と。しかし何故日本の音楽教育に自国の音楽を教えなかったのかは明治維新で西洋崇拝でこれにに追いつけ主義からだった。今日は日本の音楽も教えることになったが、音楽の先生が、日本の音楽をしらないので、伝統的な音楽を教えるには、ボランティアで協力願っているそうです。

日本はいつから音にかかわっているかという研究を音楽考古学という。下記のようなまことに簡単な楽器でも結構多様な音が出せる。海外でも類似の石楽器があり、日本のも、けして孤立していないことが分かる。

【古代】

縄文時代:石笛(玄界灘の島で発見、形状ビール瓶の先が空いている。口笛みたいな・鳥が鳴くような音色で、管の突端の開閉と息の強弱で調節)、土笛(秋田県で発見、尺八のような音色)

弥生時代:陶けん(陶器でオカリナみたい)、銅鐸

中国や韓国から雅楽がわたってきている。この雅楽であるが、現在宮内庁だけにしかないようにおもわれているが、全国に30もある。宮内庁では晩餐会の演奏もあるので、雅楽と西洋音楽の両方やらなければならないそうです。外国人のために雅楽のままでで洋楽の演奏は可能であり、やれば外国人も喜ぶ筈なのに、それを勧めても、宮内庁は許さないそうです。

●学校での起立・礼が和音階であるかのように定着している?。

●民族音楽的教育をやっている沖縄の話である。加出納基地付近の学校では宮良長包(1883から1939)この人は滝連太郎と山田耕作の中間位の年代の人で1924年に作曲した郷土風な《えんどうの花の咲くころは》、サンシンでも演奏できて郷土的でありながら洋風にこなしている。沖縄での音楽教師の採用条件ではサンシンがひけることが条件になっているが、音楽教育をうけた人は10%、それ以外の普通学科を先専攻した人は50%がひけるという逆転状態がある。

●音楽の教科書にのっている音楽家は、日本でも名前がそれほど知られていない人でも一覧表にのっているのに、日本人でのっている人はたったの2人で、滝廉太郎と山田耕作だけで、教科書検定で出版社に文句をいったら、但し書きとして(西洋音楽の場合)といれられ論理的は筋が通っているのでそのまま出版された。

それぞれの国の民族音楽を教科書で教えていない国は少ない筈。

●お寺の梵鐘を楽器としてみないのは困る。西洋において教会の鐘を鳴らすのが難しいということでテープを流すこともある。鐘は単一であっても余韻とか、初心者ではその余韻を残すようなつき方は本来難しい。

●外国から異なった音楽に触れて、自国の音楽が変化を起こすことを「文化触変」といい、それが自分なりに十分にこなして新たな変化を起こすことを内発的変化という。

このような例に《春庭花》(しゅんでいか)は日本人による雅楽である。

宮城道雄の《春の海》1929年は箏と尺八の日本式の2つが同じ調べを引くのではなく、別べつにのパートっだたので国内では最初不評をかったが、同じ曲を来したフランスのヴァイオリン奏者シュメールが尺八パートをヴァイオリンが演奏したらこれは好評で、そのことがあってから、だんだんと理解された。

初代米川敏子(1913-2005)の《御羽車》貴人がのる御輿を意味した曲は、13本弦の箏と17本の箏(別の例であるが、ピアノ88弦に近い80弦まで増やした人もいるがこで演奏されたのは一回きりだった。)これは極めて独創的。ほとんど内発的であった。三味線も低い音を出すために大きくしようとしたが、2人で弦を抑える人、弾く人での分担が必要で限界があった。

●音色の組織化と音高の組織化(よく理解できなかった※)

最初の三味線の楽譜が印刷されたのは『糸竹初心集』1664年、一般に楽器の音を口で唱える唱歌(しょうが)。三味線の場合は口三味線がいえれば、キチンと曲がひけた。

歌舞伎に関係する長唄の序とその他の口三味線と音色の関係※

●日本例ではシラビックはそうらん節(手拍子がうてる)、メリスマは江差追分(手拍子が打てない)。宗教活動と音楽は不可分で、東大寺修二会(お水取り)。音楽が視覚や臭覚とも関係している例。練行衆。差懸(さしかけ)もうこの辺りから分からない。※この放送大学で、初心者に5線譜まで分かるように教えようという教科が07年にあったようです。

●モーツアルトについては、演奏されていない曲はないので、日本人はよく知っている。もう100年もかけているのだから。

大阪音楽大学の音楽博物館:http://www.daion.ac.jp/museum/enkaku/index.html

浜松市楽器博物館:http://www.obra-p.co.jp/eggs/0307/4_1_0307.html

武蔵野音楽大学:http://www.enjoytokyo.jp/OD003Detail.html?SPOT_ID=l_00022976

東洋音楽学会:http://wwwsoc.nii.ac.jp/tog/nishi/regular_2007_2008.html

徳丸吉彦の書籍:「音楽とはなにか。「事典 世界の音楽の本」。いずれも岩波書店。

2009年1月11日日曜日

アメリカの鏡・日本③

ありあけの月をこぼるゝちどりかな  飯田 蛇笏


下記の説明は「アメリカの鏡・日本」という本の著者であるヘレン・ミアーズがアメリアの行動した道と、どうすればよかったかを述べたもので、最初は日本の言訳の論拠にするには好材料だちと思うぐらいだし、このような理想的な議論は現実的ではないと思ったがそういう軟弱なことではないと思ったし、そうすべきだったと思うが力の力学の世界がこれを許さなかったといえるようです。

国際問題は「道義的」かどうかではなく「合法」かどうかなのだ。欧米列強は韓国問題では日本を無罪とし、満洲事変は有罪とした。しかし侵略行為で有罪としたのではない。国際連盟も、アメリカも、日本が満州を侵略したことを非難はしていないのだ。日本は国際条約を破り、条約当事国の満州における権利を侵したから有罪なのだ。それだけではなく、中国も日本と並んで有罪とされた。しかも中国にいわせれば、日本と中国を非難している欧米列強も同じぐらい罪が重いのだ。国際関係も正しく議論しようと思ったら、道義と国際法はまったく関係ない事実を直視すべきだ。日本を有罪とするアメリカの世論は、満洲事変を明白な侵略行為と考えている。しかし事実はまったく違うのである。アジアからみればこれこそ日本と欧米列強が合法性を装い合う伝統的パワー・ポリティクスなのだ。

中国からみれば、欧米列強も日本も、極東の権益を守り、あるいは拡大しようという本音を覆い隠しているからのだ。

   日露戦争までは、ロシアがイギリスと並ぶ勢力だった。1904年から5年にかけて、日本はロシアと戦ってその勢力拡大を食い止めてくれた(日露戦争のとき起債に積極的に応じた英米両国にはこういう背景があった投資なのだったのでしょうか)。そして、日本は活動の場を朝鮮半島と満州に限定していたから、イギリスをはじめとする西洋列強は、中国本土でほしいままに振舞うことが出来た。しかし第一次世界大戦で力の均衡が崩れた。敗戦国ドイツがもっていた山東省を獲得しようとする日本の試みはアメリカに妨げられたが、日本は大戦を利用して、強引に中国での権益を求めていった。それ以上に極東の「安定」を揺さぶったのは、共産主義革命という形をとって再び出現したロシアである。中国に権益をもち、アジアとその周辺地域に植民地を持つ大国にとって、共産主義ロシアは帝国ロシアよりずっと危険な対抗勢力だった。帝政時代の「不平等条約」を認めず、西洋列強が特権を享受しているシステムの基盤そのものを直撃してきたのだ。加えてソ連の革命的スローガンが中国の革命的大衆に火をつけた

2009年1月10日土曜日

酒は勉強より飲むもの?



発酵は大気中にある野生酵母を使って自然におこる。ある種類の鳥や動物は定期的に腐敗した果物を食べ、酔いを楽しんだようにみえる。(鳥が酔っぱらったら飛べないし、動物は酩酊したら捕まってしまうだろうに。それほど強くないのでほろ酔い程度なのでしょうか?猿が飲むという、木から落ちる理由が分かった?)それを横取りした人間は同じ体験をしてワインの作り方を学んだ。穀物を原料とする酒の歴史は違う。野生の草という形をとった穀物の実そのままでは、余りにも堅く、乾燥しており、とげだらけで食べられない。しかし、洪水で水浸しになり、その後日光で干されると、カリットして食べやすくなることがわかった。穀物は水に浸して溶けやすくされねばならなかった。これはビールとウイスキー(ケルト人の語から)を作るために発芽させねばならないのと同じだ。昔アフリカでのシュメール人が飲んだビールは牛乳のような濁った姿で、ウイスキー蒸留所の発酵槽の中味と似ている。ヘビーなビールを飲んで受難節を生き延びるドイツの修道士は「液体のパンと呼び、「ブレッド(パン)」「ブリュー(醸造された)」と同じ語源をもっている。酵母を加えることをいう言葉「ピッチング」は平ったいピザとかピタの表現に関係があるそうです。

「蒸留」の語源は暑い太陽が、引潮の海岸に残す塩を思い起こす。フェニキア人は海水を蒸留することから塩を得た。アルコールと蒸留(ディストレーション)はアラブ語に

語源があるそうです。ムーア人がジブラルタル海峡を渡って、ルネッサンスの初期に蒸留酒とその技術を運んだのだろう。錬金術と中世医学で使用され、蒸留酒をあらわす言葉としてAqua vitageまたは「命の水」ができたのだろうということです。

ウオッカ:ライ麦か小麦、ジャガイモから。ブランデー:果物ならなんでも、ブドウが典型的、オランダでは蒸発させ・焼いたワインの意味。ジン:穀物を蒸留し柑橘類の皮で風味。ラム:サトウキビ、糖蜜。

ウイスキー・エンサイクロペディア:マイケル・ジャクソン著・土屋他訳[かの有名な人とは別人でウイスキーの大家]、小学館より

a.wikipediaの説明、古代オリエント地域では、ビールを日常消費用、ワインを高級品として飲み分けていた。中世ヨーロッパの時代にブドウ栽培とワイン醸造を主導したのは僧院であった。イエス・キリストがワインを指して自分の血と称したことから、ワインはキリスト教の聖餐式において重要な道具となった。ただしこの時代、ワインは儀礼として飲むものとされ、むやみに飲んで酩酊することは罪とされていた。ルネサンスの時代以降、娯楽としての飲酒が発展する。17世紀後半、醸造や保存の技術、また瓶の製造技術が向上し、ワインの生産と流通が飛躍的に拡大した。

酒の起源:http://akira-chin.com/search2.php?res_id=447も簡単で面

2009年1月9日金曜日

眼と眼の出会い


健康診断の結果を聞きにいったが。何でもないと思ってはいましたが、医院の扉を開ける前に急に心配になってきて緊張しました。
 友人が健康診断が終わって3月後に具合悪く、胃がんと分かったという話を思い出したからでした。結局は何でもありませんでしたが、水はよく飲んで老廃物は流しなさいといわれました。

黒人兵テリーと眼と眼を合わせたるベトナム兵はテリーを撃たなかった。

鶴見和子:テリーはアメリカ兵で相手はベトコンです。そうして眼と眼を合わせて、ツーット行っちゃったのよ。それはわかったのよ。あ、お前さんは黒人だ、アメリカでいじめられて差別を受けている黒人だな、自分はいまアメリカと戦争している。だけどこの黒人はアメリカにいじめられている人だといって、撃たないで行っちゃったの。そこではテリ-はもう至近距離にいたから、彼が撃てば自分は殺されるところだったと。それを殺さないで行っちゃったということはどういうことかと考えて、これはもう殺し事なんかできないからといって、脱走兵として来たの。テリー本人から聞いたのよ。この話を。言葉は通じないのよ、ベトナム語なんかわからない、向こうも英語はわからなから、一言も交わさないでお互いに了解した。これはすごい感動的な話だった。目と目をみたの。

大石芳野:大岡昇平さんもそういう体験があったことを書いておられますね

鶴見   :フィリピンの。

大石   :そう。戦争という殺すか殺されるかのなかにおいてもそういうことがあって・・・。

鶴見   :其れから通常のところでは、水俣病患者の、もう亡くなったけれども川本輝夫さん、グラッシーーナローズというカナダ・インディアンの居留地に、水俣病のようなことが現われているって、行ったのよ。そうして酋長の夫人ジョゼフィンの家に行った。あの人英語喋ったわけじゃないのよ。ソレデカナダ・インディアンの酋長の夫人が日本語をしゃべるわけはないでしょう。ところが、私がその後にその酋長の夫人と英語で話をしたときに、ここにあんたが座りなさいっていうの。それでテルオはここに座って、こういう話をしたというんのだけど、それから私が水俣に行って、輝夫さんに「あなた、英語でしゃべったの?」「ううん、英語なんて」って。通訳がいた訳でもないのよ。「それなのに、あなたがこういうことを言ったって、まるですっかりあなたの言うことをが分かったみたいにジョゼフィンは言いましたよ」といったら、ポカンとしているの。手真似か何かで話したのでしょうけれどね。

      目と目が合わせれば心が通いあうということは、言葉を通さないでできる。

大石    そういうことあると思います。

鶴見    ところが言葉が分かっても心が通じないことがあるの。

大石    ええ、ありますね。

鶴見    言葉が分かったからお互いに通じ合うんじゃなくて、言葉が分からなくても

      目と目が合わせて通じあうことがある。それをあなたの写真は示している。あなたがレンズから自分の目で相手の目をぎゅっと見るとわかる。そういうことなんじゃない?

大石芳野・鶴見和子「魂との出会い」女流写真家と社会学者の対話:藤原書店より

鶴見さん:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E5%92%8C%E5%AD%90

大石さん:http://www.mbs.jp/portraits/portraits/2004/2004_3/y.oishi.html

2009年1月8日木曜日

アメリカの鏡②・日本



何時も思っていたのは第二次世界大戦になぜ無謀にも参戦したのかの謎解きの材料の一つになる、アメリカ側の公平な見方のように思えたからです。本からそのまま引用しています。

戦争を通じて、徐徐に明らかになってきたことは、私たち(米国)が戦っている目的について全体的合意がないことであった。この戦争は至る所におそろしい破壊をもたらした。憲章を制定し、国際関係を根本から組み替えるという当初の言葉は戦争が進むにつれてわすれられ「戦いに勝つ」という単純で安直なドクトリンに置き換えられた。この矮小化された目的は、日本の戦争機関を壊滅させたことで達成されはしたが、所詮は短期的な目的である。失った人命と財産を償うためには、この短期的目的を世界の非武装化、人類全体の幸福を含む幅広い長期計画の中に位置つける必要がある。しかし、そのための計画つくりは容易なことではない。しかし、そのための計画づくりは容易なことではない。戦争に必要なものすべてもっている国が平和を創造するのは戦争に勝つことよりむずかしい。私たち(米国)はこの戦争から得たものは、避けようとした結果だけだったことが分かってきた。枢軸国は本性から侵略的だと聞かされていた。彼らを捉えて罰しさえすれば、世界は平和になるはずだった。しかし彼らが壊滅したというのに、本当の平和はどこにもない。内戦と革命戦争がアジア全域と太平洋の島々で吹き荒れ、世界のいたるところで第二次世界大戦前夜と同じような不安と爆発の前兆が感じられる。私たちがパールハーバーの報復からどんな満足感を味わおうが、報復の繰り返しという歴史の挑戦を受けるのだ。報復の繰り返しはもうたくさんだ。報復はけして平和に至るものではない。ところがアメリカは平和のための計画を創出するのではなく、最高の科学者と技術者に20億ドルを注ぎこんで、恐ろしい兵器を作りだした。「恐怖からの解放」というスローガンを戦いの旗印にしてきた国が、誰も逃れられない死の恐怖を世界に持ち込んだのだ。

戦争における私たち(米国)の役割と平和への提言をはじめから考え直す必要があるだろう。それには日本は第一等の資料である。日本と私たちの関係を客観的に見直すことは、私たちがアメリカの外交政策を再検討する鏡となるだろう。

次のHPはこの著作とは別ですが、比較するととても興味深いものがあります。

日本占領研究者の訴えはイラク戦争は歴史を無視する戦争であるという検証の記録です。http://japan.indymedia.org/newswire/display/29/index.php

2はポーリー報告の概略内容;この「アメリカの鏡・日本」に書かれている部分からいうと、ポツダム宣言やすべての米国文書は断固として日本を「罰し・拘束する」といっていた。懲罰によって「野蛮な人間どもの戦争好きの性根を叩き直し、金輪際戦争できないようにする。そのために生きていくのがやっとの物だけを与え、あとはいっさい剥ぎとってしまおうというのだ。つまり、極めて広い範囲にわたって徹底的な締め付けと「改革」が進められるというのだった。改革には、日本を非武装化し、日本の資産と海外領土を没収し、エドイン・ポーリー賠償委員長がいう「輸出物資の量を最低限必需品の輸入が辛うじて賄える水準」にまで削減するという報告のようです。

ミアーズの『アメリカの鏡・日本』

2009年1月7日水曜日

フィリピン事情



もうずいぶん古い話になりましたが、マルコスが追放されてから、アキノが大統領になってそれからラモスになってもフィリピン人もフィリピン社会も変わらないですね。他力本願のところが相変わらずですね。それは、カトリックのせいだと思うんですよ。何か問題があっても、心のどこかで神様とか親兄弟とか誰かが助けてくれると思っている。それとけじめがないのも同じですね。悪いことをしてもきちんと処罰されないし、言っても無駄とみんながあきらめているみたいです。うち(「ザ・ペニシュラ・マニラ」ホテル)のロビーを見ても、ですか?元大統領ラモスとエンリレ(元国防大臣でマルコス追放のクーデターを起こした有力政治家)やイメルダが同じ場所にいる?(さすがホテルのセールスマネージャーをやっているので、笑ってこたえず)財閥支配も全然かわりませんね。ここはものすごく厳しい階級社会で、それはむしろひどくなっていますよ。日本なら努力すれば上がってゆくところがあるが、ここではそうじゃないんです。自分の仕事に誇りをもつとか、どうすれば能率的にできるか自分で考えてみるとか、そういった姿勢を持ちにくい社会なんですよ。私が通っていたUP(国立フィリピン大学)にしても、昔は貧乏な家の成績優秀な子が入れたのに、今は金持ちの子ばっかりです。むかしのUPの問題は学生運動だったけれど、今の問題は、学生が乗ってくるクルマのための駐車場が足りないということですから。(笑い)

 「マルコスが逃げた」というテレビの報道があったとき、群衆の中から、自然発生的に「バ・ヤンコ」(「我が祖国」といスペイン植民地時代につくられた独立運動歌)が始まったんですよ。「あっ、この国は私の国じゃないんだ」と感覚的におもった。

日本は給料がいいのに、「貧しい」感じがするんですよ。人間らしい生活がしにくいじゃないですか。自分で考えて行動しようとすることが、なかなかできない。日本で一生懸命働いて、日本で死ぬのが当たり前という価値観はまだまだ強いし、その価値観を疑わせない社会になっているでしょう。私は、物の見方がもうこっちの人の物の見方になっているところがありますから、日本に帰ったとき、駅のホームでみんなが同じ方向に向いて電車を待っている姿なんか見ていると、フィリピンのほうがのんびりしていいなと思いますと。

アジア定住(11ケ国18人の日本人):野村進、井上和博、5つ星ホテルの女マネージャー/来田喜子より

のんびりしていながら、クーデターがあったりしたのは行動力のある上層部内の対立があったためなのか・米軍撤収などやることはやるんですね。

2009年1月6日火曜日

アメリカの鏡・日本①



日本人の頭に詰まっているのは、脳ではなく、同じレコードを繰り返す蓄音器だった。日本の指導部は平気で万州と華北を侵略するつもりなのだ。根拠のない非難と、事実をねじ曲げたプロパガンダで国民を脅かし、ついてこさせてようとしているのだ。私はごく自然にそう思った。日本人は実に影響されやすい民族で、指導者が決めたことなら何でも黙って従うが、アメリカ国民は違う。そのときはそう思っていたのだ。ところが、アメリカに戻り、1938年からパールハーバーに至るアメリカの危機の日々と、その後の推移のなかで自分の国もまた同じ道をたどっていることを知ったのである。大統領が1939年に「制限的非常事態」を、ついで1941年5月28日には「無制限非常事態」を宣言した。国民はラジオ、新聞、演説にあおられ、パニック状態におちいった。乱暴にねじ曲げられた歴史記述が、当然の事実として受け入れらた。

訳者の伊藤延司さんのあとがきから引用させていただくと、かつてマッカーサーが日本での出版を禁じた本があり、それは著者の米国の女性歴史家ヘレン・ミアーズ※1が豊富な資料をもとにした詳細に描いた太平洋、沖縄における日本兵と民間人の死、大空襲と原爆による一般市民の死の惨めさをアジアの人々に強要した近代日本の運命が無性に悲しかったとあり。

ミアーズがこの『アメリカの鏡・日本』をかいた動機がいつまでも問われる「日本はなぜパールハーバーを攻撃したか」「なぜ無謀な戦争をしなければならなかったか」の疑問であある。答えは簡単で「日本は侵略者だった」からだというものではなく、果たしてそれほど単純なことなのか。ミアーズが描いた動機も同じ疑問である。この疑問は多くの日本人が戦後50年間、心のどこかで抱き続けてきたものではないだろうかと近代日本は西洋列強がつくり出した鏡であり、そこに映っているのは西洋自身の姿なのだ。つまりそれを裁こうとしている連合国の犯罪であるという。しかし、ミアーズは「合衆国政府は」とか「連合国は」というような三人称では批難してはいない。アメリカ合衆国、連合国、西洋列強を日本との関係で言い表すときは「私たち」という一人称をつかっている。ミアーズの「私たち」はアメリカという国家であり、アメリカ国民であり、あるいは欧米植民地主義国家であり、西洋文明であり、キリスト教社会である。そして、その総体としての西洋の価値観が、日本の伝統的価値観を完全破壊しようとしている。それが日本占領だ、とミアーズはいうのである。

1は著者略歴:1900年生まれ。1920年から日米が開戦する前まで二度にわたって中国と日本を訪れ、東洋学を研究。戦争中はミシガン大学、ノースウエスタン大学などで日本社会について講義していた。1946年に連合国最高司令官総司令部の諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定にたずさわった。1948年「アメリカの鏡・日本」を著す。1989年89歳で没した。

http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/book_mirror.html#chosha

2009年1月5日月曜日

関西人


こんな人種はいないのに、なぜか関東と比較するときは「関西人」といいますね。

日本とアジアを何度か往復するうちに、うすうす感じるようになったことがある。アジアで出会う日本人はなぜか「関西人」がおおい。

●なぜ関西人はアジア志向なのか。どうしてアジアに「強い」のだろうか。一般的に言われるのは関西商法の駆け引き・値切りなど華僑の商売の共通点や、見た目よりも実質を選ぶところが似ているといったところやね。食べ物屋でも、安くてうまくないと通用せんから」あとよく言われるのは関西の「コテコテ」がアジアの美意識と似ているとか、何でも許容する懐の深さが一緒やということかな」こういう表面的なことでなくとも、(もう韓流れもあってくなっているかもしれない)東京の人間には「在日朝鮮人」とか「被差別部落民」とか、関西では見えるんや。小さい頃の遊び友達だったり同じクラスにおったりしてそういうことをしっている。頭ではなくて体でわかっているし、関西の人間もアジアの人間も、声がデカいし行列に平気で割りこめるわけか」もうひとつはサービス精神の違いやな。笑いでも食いもんでも、お客が腹いっぱいになるまでサービスするのが関西の流儀なんや。両者の最大の共通点は「国家」や「政府」といったものを基本的にまるで信用していないということであある。この歴史体験に根ざした生理的といってよいほどになっていて大本のところで方向づけているのではないだろうか。

●笑いを説明する場合、東京の落語と大阪の落語とは、言葉に対する向きあい方が正反対なんだ。東京の古典落語は余分な言葉をもうこれ以上削れないというところまで刈り込んでいく。そうやって選び抜いたひとつの言葉が、聴き手の想像力を広げるんだね。これにたいして、大阪の落語は、同じことを違う表現でいってみたり、会話にバリエーションをつけながらエスカレートさせたりして、言葉をあとからあとから積み重ねていく。だから、笑いもにぎやかで厚みのあるものになる。彫刻に例えれると、東京の落語は一本の木を彫って、その中に本来眠っていると考えられる“仏性”を仏像という形にして浮かび上がらせるような形。大阪のほうは、粘土を何重にも張り重ねながら、自分の表現にしたい像を完成させてゆく。東京の落語が『引き算』とするなら、大阪のは『足し算』といったらいいかな。そういう目でアジアの笑いを見てゆくと、おれのしるかぎりことごとく『足し算』の笑いなんだ。よくいえば元気で派手、悪くいえば露骨でクドい(笑い)。

アジア定住(11ケ国18人の日本人):野村進、井上和博、より

2009年1月4日日曜日

写真は明治の群像


多摩センターの近くの瀬戸物販売のところでこんな写真が陶板になったものが8万円でうられていました。明治のほとんどの群像がみられて圧巻なのです。写真の人物に名前の説明がついています。拡大しますと読み取れると思います。

ネットで探してみたら同じものが見つかりました。

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html

説明はそのまま転載します。

これは、勝海舟が志士達を長崎に招集して撮影したものだと言われています。
坂本竜馬、高杉晋作、西郷隆盛、桂小五郎、勝海舟、etc
幕末・維新に活躍したメンバーが一同に会した写真だと言われています。
しかし、実はこの写真は志士達が集合した写真ではないのです。
本当は「英語塾『敬遠館』の若者達」という写真なのです。
よく見てもらうとわかるのですが、竜馬と言われてるものも、海舟と言われてるものも、
巷でよく知られている顔とは少し違うと思います。


これだけの人物が一同に会することができる時代を考えてみてください。
どこかで矛盾が生じてくるはずです。
例えば、この写真が薩長同盟後に撮られたとしたら、「何故この場に幕臣の勝がいるの?」ということになるはずです。
また、大政奉還後だとしたら、「どうして死んでるはずの竜馬や高杉がいるの?」ということになるはずです。

2009年1月3日土曜日

浅草寺へ


昨日は家内の実家の菩提寺は浅草にあり、ここのお参りも兼ねて浅草寺の参拝に車で出かけました。この寺の御縁は曽祖父が散歩でを通りかかったときに散水が着物にかかり、そのお詫びの仕方が見事だったということがきっかけだったという。

例年は西方面の忍通・昭和通りから、浅草寺の北付近で駐車していましたが、今年はたまたま道に迷い、反対側からでした。すぐ東の隅田川沿いで駐車し、二天門から入りました。こちらが随分空いていました。

参拝するのは進路規制が敷かれ両脇が閉じられているので、すぐには入れず南側に戻って中央の仲見世通に入ります。

御堂の階段ではいままで3区分の誘導でしたが、今回は中央を閉じて、左右だけに絞っていました。今までの中央の誘導は左右の流れにのれないので、滞留が起こり、オシアイ・ヘシアイが起こって「おしくらまんじゅう」が起こっていました。今回は見事それが解消されていました。いままでの警察の誘導ではなくて、警備会社の誘導でした。警備会社の多くの事例から検討して、こういう誘導方法に落ち着いたのではないかと思います。警察でも多くの事例があるでしょうが、それが共有されていないためかよくわかりませんが今回の警備会社の誘導は見事なものでした。又面白い現象ですが、進行方向から左右に分かれる場合に左(西)がスムーズにぬけだすことができるということでしたが、本当に1.5倍位スピードでした。またさい銭箱に投げたら、一度バックしてくださいという呼び声もありました。誘導規制が「止まって下さい」「進んで下さい」の誘導の波を作っているので多少の余裕が生まれるようでした。

昨年から比べると20分位の時間で終わり、地元の氏神さんと変わらない時間で済ますことができました。

2009年1月2日金曜日

初参り



大きな神社よりも、近所の氏神様や産土神のほうが親しみがわきます。そんな神社にお参りしてきました。長い列なので、順番を待つ間、辺りを見回してきました。

●だいたいに神社の正面は南を向いているようなのに、天祖若宮八幡宮は東向きでした敷地が東西に長いのでそうなったのかもしれないが、通常は南向きです。弓道場の神棚も東向きになっているが、他の神社は大概に南向きであるのに。しかし北向きのもあるそうです。下記の「教えて」をみると案外制約がないようです。http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3741129.html

おみくじが大人向きと子供ようと2つあった。書いてある文面が子供に読みやすいようにでもなっているのか?結婚早しというのもやはり子供には無関係かもしれない。

●狛犬の左右にあるのは左犬は天邪鬼(なのか子どもの獅子なのか)を右足で踏んずけて、右犬は左足で玉を抑えている。※古代エジプトにまでつながるとは

●絵馬の提げてある掲示板に小さく、「裏面は個人情報です、みるのはご遠慮ください」とある。そのうち、隠しシールでも貼るようになるのかしら。

※古代インドで、仏像の両脇にライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。また、古代エジプトメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされるそうです。

日本には仏教とともに中国から朝鮮半島を経て入ってきたために、高麗(こま)犬という字が当てられ、のちに狛犬に転じたと言われている。

一般的には、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角はなく口は開いている。そして、向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多いが、厳密には、角のない方の像を「獅子」、角のある方の像を「狛犬」と言い、一対で「獅子狛犬」と称するのが正しいとされているそうです。

2009年1月1日木曜日

あけましておめでとうございます。


あけましておめでとうございます。日本海側は雪のようですね。太平洋側は晴れです。富士がよくライブカメラから見えるとのことで探していたら、10以上はあるようです。

その中のベストワンと思われるものです。

これは三つ峠で富士山の東北方面の川口湖の近くです。そこからのライブの写真です。

現在NHKのFMからメンデルスゾーンの無言歌でグレングルードの演奏を聴いています。

これから姪から送ってもらった田舎山形の荘内の酒「初孫」をお屠蘇を入れていただこうと思います。今年も穏やかな歳でありますようにとお祈りします。