こんな人種はいないのに、なぜか関東と比較するときは「関西人」といいますね。
日本とアジアを何度か往復するうちに、うすうす感じるようになったことがある。アジアで出会う日本人はなぜか「関西人」がおおい。
●なぜ関西人はアジア志向なのか。どうしてアジアに「強い」のだろうか。一般的に言われるのは関西商法の駆け引き・値切りなど華僑の商売の共通点や、見た目よりも実質を選ぶところが似ているといったところやね。食べ物屋でも、安くてうまくないと通用せんから」あとよく言われるのは関西の「コテコテ」がアジアの美意識と似ているとか、何でも許容する懐の深さが一緒やということかな」こういう表面的なことでなくとも、(もう韓流れもあってくなっているかもしれない)東京の人間には「在日朝鮮人」とか「被差別部落民」とか、関西では見えるんや。小さい頃の遊び友達だったり同じクラスにおったりしてそういうことをしっている。頭ではなくて体でわかっているし、関西の人間もアジアの人間も、声がデカいし行列に平気で割りこめるわけか」もうひとつはサービス精神の違いやな。笑いでも食いもんでも、お客が腹いっぱいになるまでサービスするのが関西の流儀なんや。両者の最大の共通点は「国家」や「政府」といったものを基本的にまるで信用していないということであある。この歴史体験に根ざした生理的といってよいほどになっていて大本のところで方向づけているのではないだろうか。
●笑いを説明する場合、東京の落語と大阪の落語とは、言葉に対する向きあい方が正反対なんだ。東京の古典落語は余分な言葉をもうこれ以上削れないというところまで刈り込んでいく。そうやって選び抜いたひとつの言葉が、聴き手の想像力を広げるんだね。これにたいして、大阪の落語は、同じことを違う表現でいってみたり、会話にバリエーションをつけながらエスカレートさせたりして、言葉をあとからあとから積み重ねていく。だから、笑いもにぎやかで厚みのあるものになる。彫刻に例えれると、東京の落語は一本の木を彫って、その中に本来眠っていると考えられる“仏性”を仏像という形にして浮かび上がらせるような形。大阪のほうは、粘土を何重にも張り重ねながら、自分の表現にしたい像を完成させてゆく。東京の落語が『引き算』とするなら、大阪のは『足し算』といったらいいかな。そういう目でアジアの笑いを見てゆくと、おれのしるかぎりことごとく『足し算』の笑いなんだ。よくいえば元気で派手、悪くいえば露骨でクドい(笑い)。
アジア定住(11ケ国18人の日本人):野村進、井上和博、より
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