2010年2月10日水曜日

男女平等の効果


おはようございます。男女平等の会主催の講演会にいってきましたが、200人中10人の男性でした。しかし女性の視点は現実を直視し、介護や高齢化については男性も勉強し、知っておくことは大事なことと思った。
講演会:樋口恵子※「あしたの老いは大丈夫か」:高齢社会をよくする女性の会代表理事長、東京家政大学名誉教授:※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E6%81%B5%E5%AD%90
練馬区の豊島園に在住。

介護保険制度ができて10年
日本の平均寿命は世界でも第一位、高齢化のスピードは記録保持者(現在韓国の出生率の激減、中国も一人っ子政策により、高齢化のスピードが速まっている)
よくいわれることですが、日本の65歳以上の総人口に占める割合は22.8%(北欧の場合は15%)、
●どの国も平均寿命はすこしづつ延びている。
●高齢化の国の存在に注目するよりも、アフリカでは平均寿命40歳台は局地的な戦争による難民やエイズ患者は人口の20%にも達していることに注目すべきである。
●出生率:フランス2.0%、米国2.0%。日本は1.29%(現在多少持ち直して1.39%)
韓国では1.19%
●韓国の女性の大学進学率90%、男子よりも少しながら上回っている。特別に難しい外交官試験の合格者では50中30人が女性。日本の衆議院で女性の割合が2ケタになった。
●日本は男子の給与100として女性は60。世界的にみても日本は、女性の勤務が難しい国である。女性の高学歴が就業環境の改善に連動しなかった。
●女性が妊娠して退職する割合は70~80%。男性がもっと子育てに参加したくとも、1日の勤務が10H超えているのは4人に1人の割合である。男性も本来は病気や失業もあるだろうに、また、中堅管理職にもあり、離婚にあうこともあり、その時点で親が高齢化しての介護のために退職しなければならない事例も増えている。会社で妊娠時の女性や、男性の親の介護のために、短時間の勤務体系があれば、退職なしで勤務できる。このように多様性( diversity)の雇用継続があるべき。家族が幸せになれる社会は高齢者を大事に、子育てが容易になるようにする、このことが男女平等から始まる。
●親の代の家を改築した。350万円の支出だった。マンションは管理費3万円や修繕積立金1万円で、戸建てより費用がかかるので戸建有利の考えでいたが、どうも高齢期に達してみると、累計するとそのような費用がかかり、平均寿命が人生50年の時代ならともかく、現在90年ともなると、高齢期になっての一時金は仕事をもっていないと大変な支出になる。
また木造は耐用年数30年で、平均寿命がはるかにこえているので、退職時に建築するようなことも考えておく必要があるということになります。
この平均寿命について自分で事実を直視しなければならない。また年金も男性が残る場合>女性が残る場合の差が、かなりあることも考慮しておく必要がある。
●人口の推移と平均寿命:江戸時代3000万人、明治維新3300~3500万人、敗戦時は6700万人(植民地もいれれば9000万人)が1億2千600万人。
昭和15年のころの平均寿命は男性46歳、女性49歳でお嫁さんが姑さん見取るのはせいぜい半年かそこらだった。戦争がなく平和で豊かなので平均寿命がながくなって当然。
高齢化社会という定義は高齢者の割合が7%をを越えて場合で1970年の万博の年だった。

2010年2月8日月曜日

程よい温度


おはようございます。今日は午後から雨で春雨の生温かい雨のようですね。
向田邦子との20年:久世光彦より

私は向田さんのドラマについて話すことがあると、必ずこの話をする。あるお天気のいい午前、貫太郎が大きな背中を見せながら縁側で爪を切っている。パチン、パチンと気持ちのいい音が聞こえる。新聞紙を敷いたその上に大きな足を
置いて切っているのだが、勢い余って貫太郎の足の爪は弧を描いて庭先や茶の間や、あちこちへ飛んでいる。お勝手の方から足音がして妻の里子が現れ、貫太郎の脇を通り抜けようとして「あ痛ッ」と小さな声をあげて立ち止まる。鶴の
ように片足を上げて、素足の足の裏に刺さったものを摘んで取る。畳に飛んでいた夫の爪である。そして誰言うともなく、ポツリと呟く。「男の人の爪は固いから・・・・」これは名台詞の一つかもしれない。素足の女の感覚である。生
活の隙間からひょいと拾い上げた台詞です。
里子は「爪を飛ばさないでくださいね」などいと無粋なことはいわず、そのままスタスタと行ってしまう。聞こえたのか、聞こえなかったのか、貫太郎も知らんで顔で爪を切り続ける。それだけのシーンである。そこがいい。向田さんの
好きだった人生のほどよい温度がここにはある。

ジャガイモは怖い


おはようございます。戦後の食糧難のときは、ご飯にジャガイモや、大根の葉や、サツマイモがはいっていました。皆お祭りどきに食事が賑やかになるのが楽しみでした。
じゃがいもの話:スペイン人で神父で植物学者であるジェロニム・コルダンや同じくスペイン人のペドロ・シェザ・デ・レオンが異口同音に絶賛しているような食材、あっという間にヨーロッパ人の胃袋を虜にしたかのように思われるだ
ろうが、実際は逆だった。
大体人々は初め気味悪がった。土にまみれた不細工な塊、こりゃ、悪魔の食いもんじゃないか。
たびたびヨーロッパ各地を襲った不作や飢饉の年にさえ、どんな厳しい気象条件にもまけず、どんな貧しい土壌にも根付き、多さんで栄養価の高いジャガイモは受け入れてもらえなかった。当時の絶対君主は食糧問題の解決につながると
みて、普及のために最後は暴力や脅しを用いて強制的手段に訴えた。1756年のジャガイモ戦争でルイ16世の治下のフランスでジャガイモの普及に尽くしたオーギュスト・ハンバルマンチェはプロシャの捕虜になったおかげでジャガイモ
の美味に気付かされた。しかしジャガイモンの普及は遅々としていて、市民権を得たのは18世紀も末のことである。
日本には1601年には今のジャカルタからオランダ船で長崎にもたらされた。ロシアに入ったのはこれよりも遅いのだ。17世紀末兄弟との政争にかったピョートル1世は職工に身をやつしてオランダやイギリスの先進国の技術を学びな
がら、ジャガイモの美味も体得して持ち帰った。しかし誰もが気味悪がって食べないし、作付もしない。大帝が目の前で食べてみせても、さらには食べないと打ち首といっても苦しみ悶えながら死ぬのは嫌と拒否していたが、実際食べて
みて美味しさが分かったのことだった。しかしそれでも翌朝には冷たいムクロになるとおののいた。
アダムとイブが楽園を追われた原因となったのは、リンゴではなく、ジャガイモだというのだ。花が咲いて実がなるのではなく、土中でクローン型の増殖をするのが、気味悪がられたのである。「悪魔の果実」を食した者には地獄が約束
されている、と。
もうひとつ農民に普及しなかったのは味が薄く、バターやソースをかけると高く付いたとういうこともあった。
武装蜂起した首謀者が不毛の大地へ流刑になった。ここでやんごとなき身分の首謀者も農耕にはげみ、ジャガイモを取り寄せ栽培した。それが農民にもやっと伝わった。それがジャガイモを栽培しそれを食したものには金貨を与えた。こ
れは絶大な効果があった。それが全土に伝わる始まりだった。

2010年2月7日日曜日

近縁


おはようございます。案外他人だと思っていても、次の話を聞くと近縁だという可能性があるのかもしてません。昔家庭教師をやっていたときの先の生徒が一人っ子でした。
その子がハムスターを籠にいて、新聞紙をちぎっては底にしいていましたし、ハムスターの運動はグルグル回る輪でした。今はペットショップであまり見かけませんね。

イヴの7人の娘たち:ブライアン・サイクス著:大野晶子訳
まだ幼いころだが、こども向け百科事典で世界中に散らばっているペットのゴールデンハムスターはたった一匹のメスの子孫であるという記述を思い出した。嘘に決まっていると思いつつ、」だが本当だったら?
おどろくべきことに、ハムスターは1年に最高で4回から5回子どもを生むことができる。その割合がでいけば1930年からすくなくとも250に及ぶ世代が誕生したことになる。
1930年に動物学の調査隊がシリア北西部のアレッポ(現在ハラブ)近郊の丘に「でかけ、みたこともない金色がかった茶色い毛並みの小さげなげっ歯動物を4匹捕獲したという。1匹はメスで3匹はオスだった。彼らはそれをエルサルムのヘブライ大学に持ち帰った。メスはすぐに妊娠し、こどもを生んだ。やがてその子どもたちは世界中の研究所の送られるようになり、それまで研究に使われていたラットやマウスの代わりとして人
気を呼ぶようになった。スタッフがもはや必要がなくなった研究動物を家に持ち帰り、殺すくらいならとペットとして飼いはじめることがときおりある。時間とともに、ハムスターは家から家へと広がってゆき、人気が高まると商業ブリ
ーダーがカタログにハムスターを加えるようになり、ハムスター愛好家が増えていった。それが世界中にひろがった。
今日世界中で3百万匹以上が飼われている。事実世界中から集めて調べてみると、一匹のメスから連綿とDNAがつながっていたのです。

2010年2月6日土曜日

○につけても



おはようございます。新潟の様子では85cmもの大雪だそうで、田舎山形の叔母の家も心配です。除雪車がきて公道は通行できるようになるが、玄関の前に除雪の大きな塊が寄せられて、それの処理が又老人の手には、屋根の雪下しも合わせて大変な作業です。雪かきなどどうしているか心配です。
昔毎朝玄関から公道も含めて、雪踏みで道をつけてからの朝食でした。

向田邦子との20年:久世光彦
どんな上の句にも(それにつけても金の欲しさよ)という句が下につくという話がある。
たとえば《山ひだのゆるき流れを上りつつそれにつけても金の欲しさよ》とか、《月を待つ高嶺の雲は晴れにけり それにつけても金の欲しさよ》といった具合である。どんなに高楊枝をくわえていたくても 、
財布のほうが一人で寂しがるということがあるものである。私が長年勤めた会社を辞めて独立したといえば聞こえはいいが、不安なものである。よりかかる大樹が今日からはないのであり。半年先までの当
てはあっても、1年先となると目処などついているはずもなかった。それでも、いろんな人から励ましの言葉を添えて、絵や時計や置物やそれに花をたくさん貰った。どれも嬉しかったが、お金をくれた人
が一人だけあった。何尾の色気もない茶封筒に入っていた。中に手の切れるようなお札で、びっくりするくらいの金額が入っていた。封筒の表には〈おめでとう〉と面倒臭そうな字で書いてあった。
普通なら〈入学祝〉とか〈寿〉とか祝儀袋にかいてしまうものだが、留学の人へは〈好日〉とかパーティなら〈花束〉と書いてポケットへ忍ばせてやる。そんな向田さんでも不祝儀の場合は人並みに〈御霊
前〉〈御仏前〉と畏まって書いた。悲しみの日には、人と同じ顔をして粛然とうなだれるのが礼儀と心得ていたのである。

2010年2月5日金曜日

善意の怖さ



おはようございます。私には経験がないのですが、地位の高い方にとっては、有難迷惑より一段上の善意の怖さというのがあることがわかりました。

社長の顔が見たい:曾野綾子より
ローマ教皇ヨハネパウロ2世が生前故郷のポーランドへか帰られた。両親と兄弟の墓参りのためであった。父母の墓の前まで来た教皇がもはや車から降りることができなかった。車n周囲にびっしり人がいた。墓がどこにあるのか、地名も書留られず、地図も手元になかった。しかし、そこには地元の人々がびっしりと墓を取り囲むようにして立っていた。市長か村長、村の教会の神父たち、村の顔役、近くにある女子修道院のシスターたち。皆善意に溢れた人ばかりだ。教皇がこの田舎町とゆかりのあることを光栄に思い、教皇を人目見たくて、盛装してやって来た人だろう。
しかし教皇が本当に久しぶりに、父母の墓をじっと見つめた時、墓の後ろには子どもたちの一団がいて、歌を歌った。もちろん慰霊の歌だろう。しかし教皇は無言の輝くような沈黙の中にしみ透る親子の会話が奪われた。なぜ歌なんか歌ったのか。なぜ教皇を、風と野の草だけが立ち会う野辺の語らいの中において上げ、彼らはその場を去らなかったのか。
教皇には自分の時間がなくても仕方がない。「子どもたちが両親のために歌を歌ってくれた優しさをお喜びになったでしょうよ。あなたはそう感じられない?」と言った人もいたが、私には感じられない。死、親子の思いは、個人のものに還してあげたかった。悪意は拒否できるが、善意は拒否する理由がないからだ。だから曽野さんはは悪意のよりも人よりも善意の人が怖いのだそうです。

2010年2月4日木曜日

父の偏屈


おはようございます。昨日の朝の出がけに、庭のバケツに入っていたのが、凍っていました。相当に寒かったのですね。これを見て急に寒い思いをしました。

任那や百済や、秀吉の朝鮮出兵や朝鮮通信使など相当に古い歴史は聞いていましたが、近代の韓国や朝鮮との日本について状況についてはこの本を読むまではよく
分かっていなかったようです。被害を受けた側からの事実の発表がないと分からないものですね。

生きることの意味(ある少年のおいたち):高史明より

1900年以降の朝鮮との事情

時期   出来事      朝鮮人の日本国内人口  
1900年   日清戦争※          
1910年:日韓併合   790人         

1919年  3.1事件(朝鮮独立運動)
1931年満州事変
1932年       390,543人
1940年      1,000,000人
1945年敗戦    2,365,263人
※この戦争は日本と清国が朝鮮の支配をめぐって争った。
韓国における所有権のない土地を土地調査事業という名目でありながら、
朝鮮の農民は長年にわたって耕作してきた土地を取り上げられた。
朝鮮の農村においては土地とは部落の人々のものという考え方が強かったり、個人の所有がはっきりしている場合でも、その保障を慣習にたよることが多っかた。多くの土地が地主のものであっても実際に耕している農民のものでなかっ
たという事情がかなり一般的だった。所有権を申告すると、かえって土地を奪われるのではないかと疑い、申告しなかった。このために土地が容赦なく取り上げられた。こうしておびただしい流民が生まれた。この流民が日本に来たこと
になる。
▲労働力や兵隊の要員として強制的につれてこられた朝鮮人
▲うばわれた朝鮮語(朝鮮の学校で朝鮮語禁止)
▲削られとられた朝鮮の歴史や文化
▲創氏名改名は朝鮮風の名前を日本風に変えさえした。

父の偏屈こそがわたしたちを守ってくれました。母親のいない私たちを、いじけた子にすまいと思ったら、偏屈にならざるを得なかったのです。そして、それだけが、きっと父の気持ちを引き立ててくれる“つえ”だったのです。
父の偏屈とわが家のきまりは、
カミ一枚 トッテクルナ
ハシ1本 モラッテクルナ
クギ1本ヒロッテクルナ
これが、父がいつも口にしていた鉄則です。
父がしばしば口にしていた教えがあります。
人ヲナグル者ハ、背中ヲチジメテネムルガ、
人ニナグラレタ者ハ、手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。
「人間ハ、ドロボウシテ楽ヲスルヨリ、貧乏シテモ、手足ヲノバシテ暮ラスホウガ、長生キスルモノダ」