2010年1月31日日曜日

演技の小道具


おはようございます。速いですね。もう1月が終わりです。暦のねじがまだ1月だと強いからでしょうか。

大遺言書 :語り・森繁久弥:文・久世光彦より

「7人の孫」という森繁出演のドラマがありました。森繁さんは食卓の小皿1枚にも、書斎の万年筆1本にもうるさかった。このドラマでも役は便器を製造している会社の会長役であった。
書斎で自社の製品の使い勝手について、あれこれ思案しているシーンがあった。
台本には《会長、商品カタログを手に考えている》とだけ書いてある。間もなく本番というとき、突然、森繁さんが《岩波の漱石全集を全巻欲しい》といいだした。
何のことかわからなかった。分かったところで、5分や10分で揃うわけがない。そのシーンの撮影を夜に回して、私たちは知り合いに電話をかけまくり、ようやく深夜に全何十巻がスタジオにもちこまれた。――森繁さんは嬉しそうに書斎の床に漱石全集をコの字に積み上げた。つまりそれを<キンカクシ>の便器に見立てて、あれこれ座り心地を試すシーンにしたかったのだ。
実践タイプの経営者なわけだ。カタログをみてブツブツ云うよりも、何十倍も面白いシーンになったのは言うまでもない。よろけながら便器に昇ったり降りたりする姿は可愛らしく、真摯で滑稽だった。便器が漱石全集でできている可笑しさがようやくわかった。

2010年1月30日土曜日

招き猫


おはようございます。メル友かの春の訪れの便りです。

青空に
  枝交叉して
      梅開く

獄中記:佐藤優:岩波書店より

訪露の時にブリーフィングの要求があって伺った。小渕外務大臣が質問したのは、「ネムツオフ※露第一副首相が前回訪日したときにロシア大使館のレセプションで会ったが、あいつは自分からきちんとした
挨拶もしない。わざだと思うか」
※当時39歳で最若手でエリツインも可愛がっていた。また鼻っ柱が強かった。
露担当の佐藤優氏「わざとでしょう。一種のハッタリで、相手にあいさつをさせて優位性を保とうとしているのです。ロシアの若手政治家にはこういうパフォーマンスをする輩がときどきいます」
「そこでだ、ネムツオフを『アツ!』と驚かせるような土産をもっていきたい。何がいいと思うか。起き上がりこぼしダルマはどうだ。政治家は何回転んでも立ち上がるというメッセージになる。」
「それはむしろエリツイン大統領に贈った方がいいでしょう」
「“招き猫”がいいでしょう」
「どうしてだ」
「インタビューでも『なによりも猫が好きだ』と答えています。「あなたが猫好きなので、私の故郷の特産品の“招き猫”をもってきた」といえば彼に《日本側はあなたについて徹底的に調べているだから猫
好きという趣味まで知っている》というシグナルをさりげなく送ることになります。こうすれば彼は今後少しは礼儀正しくなると思います」
小渕氏はニタッと笑って「そうだな。どういう“招き猫”がいいか」
「彼はわびさびが分かる人間ではないので、金箔のピカピカの猫がいいと思います。」
1998年2月21日にモスクワ日本大使館で夕食会が行われた。
「ネムツオフさん。あなたにプレゼントがある」といって大きな招き猫を渡した。彼は驚いて絶句した後、「どうして僕が猫好きだと知っているのか」と尋ねてので、小渕氏は「われわれの専門家がきちんと
調査している」と答えた。ネムツオフは実は猫が好きなんだ」といって、その後かつてのような尊大な態度はとらなくなった。

2010年1月29日金曜日

バスク人


おはようございます。叔母の連れ合い(難病)の介護の受け入れ施設状況については、患者側の要望よりも、施設側の判断が優先されるようですね。自分の周辺状況の情報収集が大事だと分かりました。

イヴの7人の娘たち:ブライアン・サイクス著:大野晶子訳より

第一次大戦、第二次大戦が終わると、DHAをしらべるために血液型データー集めの仕事はイギリス人のアーサー・モーラントへと受け継がれることになる。ヨーロッパ大陸でいちばん影響力の大きな遺伝学的人類集団、フランシスコ・ザビエルなどで知られるバスク人※の正体をあきらかにする上で、中心的な役を演じようとしていた。バスク人はスペイン北西部とフランス南西部にくらす、非常に独立心の強い民族だ。「エウシカラ」という共通の言語によって固く団結している。この言語は現在使われているどの言語ともつながりを持たず、ヨーロッパの中でも独特の存在だ。
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AF%E4%BA%BA

モーラントはバスク人が現代ヨーロッパ人より、約2万年前の人類化石の共通点が多いという指摘する研究に注目した。さらに考えをすすめ、バスク人はヨーロッパもあらゆる人類集団のなかでも、かけ離れてB型血液の割合が少ないということは周知の事実だった。ならばRHー型を古代から保有する宿主だという可能性はあるだろうか?さっそく調べてみると、この割合が非常に高いことが判明した。じっさい世界一高い割合だ。モーラントはその結果を踏まえて、バスク人は最初からヨーロッパに暮らしていた民族の末裔であろうし、ほかのヨーロッパ人はすべて、先住民ともっとあとになってから到着した民族との混血であると結論づけた。モーラントに「よれば後者の民族とは、近東からやってきた最初の農耕民族である。そして西ヨーロッパの「中で彼らだけが独特の言語をはなすという事実と、そのほかの言語が西ヨーロッパ諸国の言語を包含するインド=ヨーロッパゴ語族に属さないという事実が、かれらの特別な地位を高めることになった。

2010年1月28日木曜日

宮中で


おはようございます。メル友の便りの中ですが、[氷柱剪り]は初めて聞く言葉ですが、出入り口の前にある人の顔にまで垂れ下がった氷柱は邪魔で危ないから切らなければならないのでしょうね。
氷柱が長くなってきたのも、春に近づいている証拠なのでしょう。そう思うと切る時に春の音が聞こえるのですね。
大遺言書 :語り・森繁久弥:文・久世光彦
控え室で長々と聞かされたのは、『侍従長の入江さんがうるさいんです。直立不動で、あまり無遠慮に陛下の顔を見てはいけない。ご質問には、簡単明良に答える。咳やくしゃみは、精神力の問題だから、我慢する。前傾35度位の礼が好ましく、90度までいくと転倒するから気をつけるように。――いい加減に聞きながら、私は誰もしたことのないという「陛下への質問」の台詞を考えていました』
招かれた人たちは、立ったり座ったり、控え室から緊張のしっぱなしで連れのおかみさんが何か話しかけても上の空。もちろん森繁さんは泰然自若とその時を待っていました。
みんなヒッキリなしにトイレに立つ。宮中のトイレは老人たちの長蛇の列が出来ていた。
玉砂利を踏んで、両陛下の足音が聞こえてきます。
前傾35度の視野の中に、陛下の御御足がフレームインしてきました。入江さんが怖い声で言います。《これが森繁久弥でござます》、<これ>っていうんですよ。私のことを《いつもみているよ》《ハッ》《テレビはいろいろ大変だろうね》《ハッ大変です》《アッ、そう》もすこし洒落たことをいうつもりなのに、汗が出ます。陛下の質問は矢継ぎ早です。《舞台も大変だろうね》《ハッ、大変です》《アッ、そう》、入江さんが目で、先を促しているようです。私は意を決して《ところで陛下、この御殿は大奥だったそうですが、御手打ちになった女の幽霊がでるなんてことは----》《アッ、そう》陛下のお姿は、私の前から
消えていました。陛下は下々に質問されることはあっても、質問されることはないのだそうです。

2010年1月27日水曜日

祖先からの連鎖②


おはようございます。メル友から時々送られてくる俳句です。江戸川区の句会の会誌にも投句している。 四隅より 冷気寄せ来る 蒲団かな  まだまだ寒いですね。

イヴの7人の娘たち:ブライアン・サイクス著:大野晶子訳より
その後10年に及ぶ研究の結果、たった7人の女性へとつながった。その7人の女性こそが、6億5千万人にのぼる現代ヨーロッパ陣の直接的な母系祖先にほかならないことがわかった。ジニア、ヘレナ、
ヴェルダ、タラ、カトリン、そしてジャスミンであり突如彼女たちの存在が現実味をました。
わたし自身はタラ※の末裔だ。だから彼女等について暮らしていた場所、時期について推測できた。タラは1万7千年前の北イタリアにすんでいたと考えられる。当時のトスーカーナでは最終期の氷河期の
猛威のころで、大陸内の最南端だけが人間の生活可能区域だった。ブドウ畑も農家を飾るブーゲンビリアもなかった。丘の斜面にはマツやカバノキが鬱蒼と茂っていた。小川では小さなマスやザリガニが見
つかった。そのおかげでタラは男達が鹿や猪をしとめられなくても、家族を養い、飢えをしのぐことができた。タラの子供たちは海沿いにフランスに入り、北ヨーロッパの凍原を横切る大きな獲物を追って
移動する大勢の狩猟民と合流した。最終的にタラのこどもたちはのちにイギリス海峡となる乾いた土地を歩いてわたり、アイルランドまで移動した。その古代ケルト王国から、タラ一族は家名を
得ている。この研究結果が発表した直後から7人の母たちに関するニュースが世界各国の新聞やテレビに紹介されるようになった。
メディアは想像力を膨らませ、現代人のなかに母たちを見つけようとした。ブリジッド・バルドーはヘレナの生まれかわりで、マリア・カラスはアースラ、モデルのヤスミン・」ル・ボンは当然ながらジャ
スミン、ジェファー・ロペスはヴェルダという具合に。自分の母を知りたいという人たちからの電話が殺到した。
話は飛ぶが、現代から、農耕のはじまりへと、さらに祖先がネアンデルタール人とともに、狩りをしていた時代にまで旅することになる。誰もがそうした歴史を遺伝子のなかに秘めている。実質的にわれわ
れの中のDNAが受け継がれているのだ。
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%81%AE%E4%B8%98 

2010年1月26日火曜日

祖先からの連鎖①


おはようござます。下記の本を読むと、自分の身内については名前をしっている3代前位しか祖先のことはわからないが、考えてみれば今の自分は生物の誕生からつながっていることになり、不思議に身近な存在に感じます。
イヴの7人の娘たち:ブライアン・サイクス著:大野晶子訳より
1991年9月19日の木曜日にドイツのニュルンベルグのベテラン登山家、ジーモン夫妻はアルプスの高地で裸の男の死体を発見した。とても古めかしいアイスピッグがあったので転落事故によるものかと思われた。行方不明の記録
で1941年にそのあたりの事故はイタリア人の音楽教授ではないかと思われた。しかそこのアイスピックは現代のものではなく、数千年前のものであることがわかり、国際的な重要な考古学的発見ということになる。このユニークな発
見物の精密調査にあたることになった。オクスフォード大学に属する私(著者)はアイスマンのDNAを調べることになった。
炭素14代測定法によって化石に含まれる放射性炭素原子の微小な崩壊を測定する方法で5千年から5千3百50年前の人間であることがわかっていた。氷の底で凍っていたので、水や酸素にさらされていないので破壊されずに保存され
ている。
1912年にイングランド南東部サセクス州の砂利層で発見された類人猿のいようなイタズラでもない。このDNAが現代ヨーロッパ人のなかにDNAがぴったり一致する人がいることもわかったので、『サンデー・タイムズ』の知るこ
ととなり、しかも著者の知人マリーであって、(イングランド南部にドーセット州ボーンマスの郊外で経営コンサルタント)「アイスマンの親戚、ドーセットで発見」という記事が掲載された。
私はマリーとアイスマンのようにDNAが何千年にもおよぶ、何百世代の間で無傷で受け継がれていくならば、今日生きている個々の人間は、発掘された土器や青銅の短剣と同じくらい頼りになる証人になる筈と信じて疑わなかった。(こ
うした主張は一般にはピンとにわかには、理解しにくいようだった)

2010年1月25日月曜日

「顔見しりが一番もてる]はずなのに!!


おはようございます。昨日は清瀬市まで行ってきました。いつもは小金井街道沿いで車でいっていましたが、そこはほとんどの店が開店休業のあり様でゴーストタウン、ところがその一本なかに入った道が商店街で、ここは活気があり、車も通らない通りで、買い物しやすい雰囲気でした。こうも見逃していたのかと驚きました。
「顔見しりが一番もてる」
韓国人の発想:黒田勝弘:より

ある韓国在住の外国人神父は「儒教では公衆道徳を教えていない。関係ある者たちだけはお互いに道徳的にふるまうけれど、知らない人とは関係がなく、道徳がないようだ。知らない人については人でないように扱う」と書いています。「友人同士では情愛の深い韓国人だが、はじめての人たちには、なんともうさん臭く、無愛想で排他的だ。見知らぬ人には絶対に挨拶しない。そればかりか、面識のない者同士はささいな問題でも譲歩しない。知り合い友なると、かくも礼儀正しく、かくも情がこまやかで温和であるそうです。
そこで韓国の料亭やサロンに日本人が案内された場合、この店の主人たちは接待すべきお客よりも案内してきた馴染みの客を大事するから困るそうです。
案内したなじみの客もつい申し訳なさそうに、「実はこれが韓国文化なんですよ・・・」と。
ところが韓国人がカウンターの韓国人の板前にスシを握ってもらう際に、マッチ箱にそっとチップを入れて渡す。すると板前さんは採算を度外視していいネタをどんどんサービスしてしまう。
ところが行きつけの店のマダムや支配人から「このごろ客の入りが悪くてね。時間を見つけてきてください。」などと電話があって行ってあげると、内心サービスがいいだろうとか安くしてくれるだろうとの期待感を日本人ならもつが、実際の結果は逆で勘定書くも普段以上に高いのだそうです。これはみず知らずの人には甘えられないが、知った仲には甘えられるという感覚があるのだそうです。

2010年1月24日日曜日

親の涙


おはようございます。昨日は陶芸教室でした。2月5日に窯入れ(年3回)があるので、おおわらわで追加の作品を制作した。最近造形に凝るよりも、楽焼の茶碗をみてから簡単なものでも、一生けん命で
ありながら素直というか、作為が抜けているものが出来たらいいなと、まぁ失敗してもとももとと考えるようになってきました。いつも二度と同じものができません。今回もどおのようなものが出来るでしょうか?
マイミクの「馬頭観音」さんの読後感のあって紹介されている本はいつも素敵で、じわっとくる本です。

大遺言書 :語り森繁久弥・文久世光彦
森繁さんといえば、女である。この人の傍にいると、私たちは絶対そういうことだと思い込んだものだ。だからこの人が、賢い脚本家だといって、向田邦子さんをつれてきたときも、森繁さんの、沢山ある
<小指>の中の1本だと思った。「七人の孫」というドラマをやっていたころの話である。このころ森繁さんはちょうど五十で、向田さんは三十半ば、男と女の色っぽい盛りだった。そう思わない方が不自然
だ。だけど、お二人と私と三人で話すことが多くなるうちに、これは珍しいケースかなと思うようになったが、それでも最後まで半信半疑のままだった。疑いが晴れたのは、向田邦子さんが死んでからであ
る。森繁さんが声をあげて泣いた。<男と女>の男の泣きではなかった。<親>の涙だった

2010年1月23日土曜日

自信


おはようございます。子ども手当が支給される予定ですが、これは親がいる子に支給されるもので、親がそんな中、「児童手当は 親のいない子どもには支給されません。
  親への支給の形をとっているからです。いま全国で5000人いる 親のいない子どもたちに  子ども手当てを支給する仕組みづくりを検討しています。」という長妻大臣を補佐
している山井議員のメールマガジンがありました。
父(作家・新田次郎)への恋文:藤原咲子
私は自分を美人だとは思っていなかった。雑誌『ひまわり』の表紙を飾る少女に心奪われていたから、現実には打ちのめされ,自信がなかった。通学に利用していた中央線の電車から、整形美容の看板が黒い雲のしたに幾重にも揺れて目に飛び込んできた。電車の席はできるだけ隅にとり、目立たないようにじっとしていることが私を落ち着かせた。そんなころは正面から父と対峙するには耐えられない不安定な状態だった。
 そんなある日「咲子はとくに美人というわけではありませんよ、まぁ一般的ですね、絵のモデルですか、承知しました。咲子に伝えておきます」即座に私の意見も聞かずにでした。それは知り合いの美術大の卒業制作のためのモデルだった。
「いい思い出になるよ」、しかしどうしてもモデルなど出来る筈もない。愛想がない。眉間に皺をよせる癖。人前で必要以上にはにかむ癖があった。憂鬱は家族に向けられることがあって、兄のなんでもなような揶揄が引き金になり、泣きじゃくり始め、何日も尾を引いた。そんな時隣の老人が洗濯はさみで鼻が高くなることを教えてくれらので、早速試してみたが3分も我慢できない痛さだった。
父が「簡単に盛り上がるわけがないじゃないか、顔の美醜なんて問題ではないのだ。要は中身、チャキ(咲子の愛称)には可愛い目と口があって、なによりも可愛い・・・」
2カ月後画学生のモデルになった私の絵は畳2枚ほどの巨大なものに完成されていた。気になっていた天井を向いた丸い鼻はふくらんだピンクの両頬の中に、すっぽりと隠れ、尖った口元は口笛を吹いたように楽しそうだった。私が、前を歩いている私にささやき、後ろの私は、恥ずかしそうに風に膨らんだ紺色の制服のスカートを押さえている。何人もの私は全部私だった。夕暮れのキャンバスには、憂鬱も無愛想も眉間の皺もなかった。出来あがった構図の説明を興奮気味に話す私に、父は大きくうなずいた。

2010年1月22日金曜日

1億1回目の質問


おはようございます。昨日は弓道場で「出世的(しゅっせまと)」という半分余興てきなゲームをしました。通常直径1尺の的ではなく、8寸かや3寸まで5段階の的を、幼稚園から大学と称して、的中すれば、段階的に進むという競技でした。11時からの2時半まで7人で行いました。
1人だけ2巡回、4人が高校段階の4番目で1時間半も足踏み、あと10分というところで最終の5番目に向かい、これはものの5分で卒業しました。いつも4番目で脱落する例がおおいのですが、
そろって3人が卒業できたので、手を取り合って喜びました。

蹴る群れ:木村元彦

1966年7月30日サッカーW杯イングランド大会決勝で伝説となったジエフ・ハーストの”疑惑のゴール”。それはゲルマン蹴球人の民族的トラウマ。2ー2で迎えた延長戦。英国選手のハースト(後に大英国勲章とサーの称号をいただく)が右足で放ったシュートはバーに当たり、ゴールポストを結ぶ線上に落ちた。すぐさま西ドイツのDFがヘディングでクリアーするも、スイス人主審ゴトフリード・ディーンストが下した判定はインゴールだった。西ドイツ選手は、猛烈な勢いで抗議に殺到するが、ジャッジは覆らず。その後も加点されて2ー4で敗れた。
「線審があの位置から見えるはずがない」とドイツ人がいえば「詰めていたロジャー・ハントがプッシュせずに喜んでいたから割ったはずだ」とイギリス人が返す。
ところで後日談でハーストの2001年にだした自伝で「ビデオを何度も見返したが、やはりあれは入っているとはいえないな」と。
さらには著者の木村元彦は2003年ドルトムントに行ったついでにドイツ人のGK・チルコフスキの居場所を突き止め、インタビューした。
ーーその1966年のW杯について質問すると、愉快な質問ではないとことを承知しながらもう一億回訊かれたということですが、1億1回目の質問ですがと、尋ねてみた。「あのゴールが入っていたかですね」彼のカプチーノを持つ手も笑っている。「ハハッ。もしこの質問にドイツの著作権法が適用されていたら、私は大金持ちになっていたでしょうね。あれはゴールではありませんでした、。私は、ボールを指先で触っていました。わずかですが、向きを変えられたボールはバーに当たってそこからラインの上に落ちたんです」拍子抜けするほどの小ささ、左手の中指を差し出して説明してくれた。主審のゴトフリードには何も見えなかった。そこでロシア人の線審にきいたのですが、線審はそのときコーナーにいました。その位置からゴールだと言ったのです。これはジクジたる思いだったろうと思った。
しばらくしてチルコフスキがいうのには、「この主審にテレビでトークショウの時二「訊いてみたら、あのロシア人が決めたんだ。今でもあれが、ゴールかどうかわからない」と答えてくれた。
これでまだ続きがある。
あなたもご存じでしょうが、一番訊きたい質問は、「ハースト自信があれはゴールではなかったことを明らかにしていますが・・・。」
35年ぶりの冤罪が晴れたことの喜びなのかどうか、跳ね返ってきた反応は「ハハッ、きっと奴は、そういって本の売り上げをのばしたかったんだろうなあ」
サッカー界の英・独の因縁はここに始まったといわれるのに。

2010年1月21日木曜日

初々しかった時代


おはようございます。ここ2・3日は温かな天気ですね。弓の仲間が自宅から蝋梅をもってきた。ほとんど満開に近いくらい花開いている。
いい匂いするでしょうというが、小生鼻が悪く、春の匂いはオアズケでした。
雑誌記者・向田邦子:上野たま子
見た映画は『誰が為に鐘はなる』(監督サム・ウッド)だった。
邦子(向田さんが前勤めていた教育映画の会社から、転身し雄鶏社(おんどりしゃ)に入社、そこの雑誌『映画ストーリー』の創刊まもないころだった)
邦子さんは試写会を終え、喫茶店の席につくやいなや上野さんに問いかけた。
「イングリッド・バーグマン、あなたどう思う?」
「初々しいじゃない」
「ゲーリー・クーパーとキスするところ、いかが?」
「“鼻はどうなるの?いつもそれが不思議だったの”っていうところ?」
「鼻が邪魔にならないかって心配するのね、まるで14、15歳の小娘ね。バーグマンは当時28歳よ。ちょっと、われわれは騙されてはいけません」
そういった邦子さんの口調がワン・オクターブ上ずっていた。この人は既に接吻の経験があるのだろうか。一瞬私の頭のなかをそんな想いが横切った。邦子さんは、ゲーリー・クーパーがお好きなのだと、
私は気がついた。あの愁いを湛えた細い眼と、“オチョボ口”のクーパーが・・・。
今井正監督の名作『また逢う日まで』の、ガラス戸越しの接吻場面が観客に強い衝撃を与えたように、当時、キスはまだ“秘められるべきもの”であった。そのころ多くの日本人は、戦中からの封建的な倫
理観を捨てきれず、特に性の問題では一歩踏み出したところを逡巡している人と、何の抵抗もなくやってのける人と極端に分かれていた。

2010年1月20日水曜日

国内トラスト運動の先駆け


おはようございます。犬鷲が都下で小金井公園や東大農場で生息していることは分かっていましたが、練馬区の武蔵関公園にもいますよとの、口づて情報が入った。棲むところが無くなっていることもあるでしょうが、
これらも公園も相当に大きな公園があったからこそです。そのほかに下記のような立派な運動があることが知らなかったのはウカツでした。
国内トラスト運動の先駆け
「1 人の 100 万ポンドより 100 万人の 1 ポンドずつ」という言葉から生まれた。自治体だけでは不可能なことも、熱い思いを持つ多くの人々の力を少しずつ集めることで、不可能を可能にできるかもし れないと考えたのだ。
運動に対する反響は予想以上に高かった。活動開始から 5 年で、運動そのものが国内だけでなく、世界から注目を集め、日本におけるナショナル・トラスト運動の先駆けのひとつとなった。
そして、活動から 10 年目には、この運動の現地業務をはじめとする、知床の自然を末永く守っていく活動を行う実働部隊として財団法人知床財団 (旧名称:財団法人自然トピアしれとこ管理財団) が設立された。全国から寄せられた信頼に応え、知床国立公園の自然環境に関する調査・研究や、自然保護の考えを普及、啓発し、知床の自然を「知り・守り・ 伝える」を目指した活動組織が、地元発の創意工夫で立ち上げられたのだ。
2006 年 10 月には、羅臼町が知床財団の共同設立者として参画。両町にまたがる半島全体を守る組織として、さらに大きな一歩を踏み出している。
そうして運動から 20 年目を迎える 1997 年には、約 5 万人による 5 億円近い寄付金が集まり、目標のほぼすべての土地の買い取りが完了した。現在は運動の第 2 ステージとして、この土地に自然の生態系を再生するための活動が進められている。
買い取られた土地は、譲渡不能の原則を定めた条例が制定されており、未来永劫を守り続けられることになっている。その敷地内には、「しれとこ 100 平方メートル運動ハウス」という展示施設が設置されているが、なんと壁一面が、運動に貢献した人達一人一人の名前で埋め尽くされており、永久保存されてい る。
知床は、今や本当の意味で人々の共有資産となったのである。
http://www.discovershiretoko.org/ja/stories/02/

2010年1月19日火曜日

群れる動物・群れない動物


おはようございます。毎日、温度計をみながら、暖房の機能と、自分の暖まり具合を比較したりしています。富士山の冠雪した美しさは格別で、この時期に美麗な富士を一周してみたいと思いますが、
段々億劫になってきました。そしたら都内から見える富士山の見える場所、それも高層ビルではないところもあるとかで、なるほどそいう見方もあるのかと感心しています。
クルマの渋滞、アリの行列:技術評論社、西成活裕より

群れる動物・群れない動物
地上ではシマウマなどの草食動物から、ペンギン、アリ、ハチ、やバッタなども群を作って行動している。逆に群れない動物もいて、その身近な例ではネコがいる。ネコ科のライオンだけは例外的に十数頭の群を作って暮らしている。オオカミなどのイヌ科の動物は基本的に群をなす。この意味でネコとイヌは対照的。また熊も群を作らないが、もし群れていたら恐ろしい光景だろう。
動物にとって群=渋滞な単純な図式ではなりたたない。
人間は混雑時に他人を邪魔だと感じる場合が多いが、動物はどうもそうではないらしい。たとえば1匹でいるよりは何匹かでいる方が周囲の餌を発見する確率が高くなる。また個体どうしが近くいたほうが繁殖に有利ということも考えられる。さらに補食者が潜んでいるときには、これも仲間の誰かが発見し逃避行動がとれる。

2010年1月18日月曜日

サッカー3話


おはようございます。サッカーの強い国、英国でもW杯に出場できなかった。たかがサッカーのようですが、そうともいえない人生そのもののような一面もあります。
ワールドカップ予選を巡る64の話:大住良之より
1973年10月、イングランドが初めて[W杯地区予選落ち」を経験した日、あるイングランド人記者はこんな記事を書いた。
●「バスはいつもと同じように走っているし、人々は食事をとり、働きに行く。だが彼らの生活の中で、極めて重要なものがどこかに行ってしまった・・・」
ワールド」カップ予選突破に失敗していないのは、ドイツとブラジルだけである。
また1966年にW杯で優勝し、監督はエリザベス女王から勲章を授与され、サーの称号まで受けたが、73年だけはなく、78年のアルゼンチン大会も、94年のアメリカ大会も(日本のドーハの悲劇の同年)も出場権を獲得できなかった。
●GKは人間の持つ普遍的な業、表面的にはみえずらい意図が浮き彫りになる瞬間が幾度もあった。ミスが許されず、勇気が必要とされ、そしてたった一つしかない特異で繊細まポジション。唯一、手を使えるポジションは、背負わされ最も大きなポジションだからなのではないか。

●「ゴールこそはサッカーの祝祭。シュートを蹴り込む選手は歓喜を生み出す者であり、ゴールキーパーは祭りに水を差す者、喜びを台無しにする役まわりだ。彼はゼッケン1を背負う。真っ先に取り立てる立場か?いや、真っ先に償う立場だ。結局何でもキーパーのせいにする」エドウアルド・ガレアーノ著「スタジアムの神と悪魔」に書いてあるそうです。

2010年1月17日日曜日

向田邦子さんのこと



おはようございます。向田邦子さんの作品は周知されていますが、作家個人の人柄についてもより知りたいと思っていましたが、下記の本はそれがよく分かりました。
雑誌記者・向田邦子:上野たま子
入社の日に総務部長が「こちらは、向田邦子さんです。『映画ストーリー』に入られます」と紹介された。邦子さんは深々と頭をさげ丁寧に頭を下げ丁寧に礼をした。耳の下で切り揃えた漆黒の髪が頭を上下するとき、ハラリと揺れて女
らしかった。
高木編集長がいたずらっぽくユーモラスに邦子さんに
「こんな忙しい会社によくきたね」
邦子さんは一瞬戸惑ったが、すかさず答えた。
「歩くより走る方が好きですから」
「じゃ走っこしようか」
「小学校のとき短距離の選手でした」
邦子さんは走るポーズをとって見せた。さきほど挨拶のときみせたしとやかさとは打って変わった活発さに周囲の編集部員たちの間には、一瞬しらけた時が支配した。慶応大学ラグビー部出身の編集部長は煙草に火をつけながら磊落に大
声で笑った。その高木さんの笑いがなかったら、周囲はしんと静まりかえったかもしれない。入社の日いきなり編集長に対して、これほど意表をついた対応をする邦子さんを周囲は茫然と見つめたといっていい。邦子さんはその反応を素
早く感じ取って、高木さんの鷹揚な笑い声にあわせるかのように、甲高い声でさも嬉しそうに笑うのだった。高木さんはもう一度笑い、周囲もどっと笑った

2010年1月16日土曜日

日本人の親切心


おはようございます。毎日の挨拶は「寒いですね」の繰り返し、おでんとかシチューとかの料理メニューが浮かびます。
韓国と日本の風景の講より
韓国からの久しぶりの帰国者は日本の夜が明るいことを感じます。街や商店にしてもたしかにピカピカ、キラキラ磨きたてられた感じで清潔なのですが、なにかに疲れます。清潔さに神経が逆なでされるというか神経質でスキのない感じに疲れるそうです。
また韓国帰りの日本人が、日本で感じる最大の違和感は、日本人の“親切”です。日本を旅行した韓国人の日本への印象は必ず、「日本人は親切」ですという。ほとんどの場合「日本人は「日本人は悪い奴」という先入観をもっていますから逆な印象を持つそうです。
日本で見ず知らずの人間に対する一回きりの接触での親切に韓国人はとくに感心します。
ところが韓国にながくいたことのある日本人は逆に、見ず知らずの人間に示す“親切心”に奇妙な感じを持ちます。日本人の親切は本当の親切さなのか、たとえばレストランでお客が立って帰るときに、従業員や店の主人が一斉に声を」合わせて「ありがとうございました!」といいます。ところが従業員や店主が極端にいえば、客の顔など見ておらず、客にシリをむけて「ありがとうございます」といっているに過ぎないのです。つまり実態は条件反射の職業意識からきた声に聞こえます。
韓国人の発想:黒田勝弘より

2010年1月15日金曜日

武術と野生動物


おはようございます。私がやっている弓道は、段を取得しようとか、競技会に出ようかという志まではないが、本来の武術はどういうものかは興味があった。
生きるか・死ぬかのところにあったようです。野生の動物の動作は自然にそのように鍛えられているようです。」
古武道入門:日野晃
武術:1敵は一人か複数かは決まっていない。
   2敵はいつ攻めてくるか決まっていない
   3敵の武器は一つとは限らない
スポーツの場合、剣道の場合を例にとれば相手が突然乱入して攻めてくることはない。ルールの上になりたっている。武道の3原則がないのがスポーツである。
敵は目の前にいる人間だけと思っていたら、後ろからも横からも来た。まだ相手が攻めてこないと思っていたら、後ろからいきなり攻めてきた。敵が武器として持っているのは刀だけと思っていたら、懐から手裏剣を出して投げてきた。後ろから弓で狙っていた。横から槍で突っ込んできた。これをクリアするのが「技」である。ただし「達人」には対戦相手との身体と「相互が接着している」「相互に接着していない」にかかわらず、相手の意識の変化・攻撃の意志の起こりを察知するための能力が必要なのだ。敵の攻撃の意志の起こりを攻撃という具体的動作が起こる前に察知し、それに対応する能力が必要。武道では一瞬のミスで生命を落とすという条件が常にある。街を歩く、喫茶店で座る、座敷に座る、風呂に入る、食事をする、日常生活すべての動き・行動が直接自分の生命とかかわっている。という自覚をもっているのが武道家なのだ。「武芸十八般」の剣道、居合術、短刀術、槍術、薙刀術、手裏剣術、鎖鎌術、杖術、棒術、弓術、馬術、柔術、砲術、十手術、捕縛術、三道具、忍術、水泳術、これらの武術を体得し、精密な動きが形成されていくと力をフンダンに出せる身体になる。
日常において洗顔するとき、手を小刻みに動かそうととか、上下に動かし顔の表面にあまり圧力がかからないように、などと考えながら、もしくは意識しながら洗顔してはいないだろう。それが「手を使っている」ということなのだ。その「手を使っている」というなかでも「丁寧な手」と「粗雑な手」がある。その丁寧な手で目的が何よりも早く達成されなければいけない。それが手を「使えている」という。武芸一八般の効用は身体運動からスキを排除していったことにある。無駄な動きを無くしていったのだ。猫の動き、犬の動き、ライオンの、トラの、キリンの、なにか対象に対しての一切の無駄のない動きがそれである。

2010年1月14日木曜日

女子サッカーの熱き思い


おはようございます。来週は高校のクラス会があって、40年以上もあっていなかった人との再会があります。ここは段々参加者が増えます。しかし持病の無い人は少ないようで、どこが悪い、ここが悪いというような話もすくなくありません。それはそれで楽しみであることは確かです。
蹴る群れ:木村元彦より
女子サッカーもアメリカでプロチームに参加している人も出ていますし、かなりのレベルですね。
西ドイツ1部のチーム<ビーレフェルト>を指導していた鈴木良平が帰国し、女子サッカーの初代代表監督に就任、当時の女子連盟の年間予算は50万円。それも全国大会開催の補助費だった。なきに等しい予算の中、カネ集めから始めなければならなかった。代表合宿は東大の持ち物であり千葉・検見川のグランドを一般申請で押さえて行われた。
選手達はそこで2週間の共同生活に入る前、必ず必死のジャンケンをした。宿舎の2段ベッドの上か下かを決めるためだ。口のきけないほど疲労困憊する練習後、ハシゴを上らずに就寝できるかはまさに死活問題だったの0だ。合宿の食事の肉は”ケミ肉”と呼ばれたのはいくらかんでもかみきれない肉であった。
選手達はこのような環境に対する不満はなかった。過呼吸で倒れるほど走らされようが、ケミ肉で顎が疲れようが、代表合宿にきて、初めて芝のグランドに立つことができて、専門の指導者に教わることができる喜びはなにものにも代え難かった。早くサッカーで世界と戦いたいという熱い思いのほうが強かった。

2010年1月13日水曜日

熱心な人々


おはようございます。今日のサッカーの盛んなるのはいろんな人が努力しているからですね。山形ですらJ1に所属しているのですから。このチームは誰が熱心なのでしょうか?
蹴る群れ:木村元彦より
小幡は宮城県塩釜に戻った。空手指導員の試験に落ちたからである。アルコール一滴飲めない男がエネルギーの発散の場所として酒場で喧嘩に明け暮れた。やがて破天荒な肉屋の長男の行動を案じた行き先に、子供好きな彼に防犯野球大会を見学させた。野次飛び交うにあきれ果て、「なんちゅう下品な野次を許したんべエ!」の声での突然の乱入者の抗議に、「無関係なものは黙れ」「おう俺が作ってやる」の買い言葉が産声の始まりだった。いろんなスポーツで遊んでいたが、サッカーに到達したのはカネがいちばんかからないからだったから。そこの熱心で抜群にうまい加藤久(元日本代表キャプテンでベルディ川崎の黄金期を支えた、NHKの解説者)
この小幡が指導者として先見の明があった。電車に乗っての遠征でいきなり強豪相手に2連戦を挑んだ。ペレが来日すると聞けば、子供たちを飛行機にのせ、ブラジルの英雄が滞在する赤坂東急ホテルに泊まらせた。「ほらこんなのは全日本選手になって無料で乗んだぞ」周知のとおりこの予言は見事に当たることになる。サッカーが世界に通じることで子供の目線を外に向けさせる柔軟な考えをもつ一方、鉄火な性格は相手がどんな肩書きの人間であろうが、ひるまなかった。
地元にできた4つのスポーツ少年団を統合したのも、小規模集団のレベル向上と体系的指導が目的だった。そのなかから加藤久、鈴木武一などの優秀なフットボーラーが排出してゆく。

2010年1月11日月曜日

踏切の一時停止


おはようございます。中央線武蔵境駅の踏切で、見張りの警察官がいて一時停止違反で捕まったことがあり、近くの西武線東伏見駅の南側にL字型の道のところに、一時停止のラインがあり、南方面へ行く場合は一時停止の必要がなくて、
北進する場合が一時停止の必要があったり、歩行者の通行に注意したり、注意の連鎖があるところにも、交通違反キップをきる警官がまっていた。このように紛らわしい、混乱しがちな場所なら、違反キップの草刈り場ではなくて、を起こさないような指導をすべきだと思う、自分の不注意も勿論あるが、事故防止は安全学の立場からいうとフールプルーフ(お馬鹿さんでもわかるように)の道標であ..るべきで、点数稼ぎ優先のこのような措置はあまり気に入らない。
クルマの渋滞、アリの行列:技術評論社、西成活裕より
鉄道踏切において、日本では遮断機が開いているときでも一時停止しなくてはならない。1日のべ5千台以上が踏切を通過しており、この一時停止の交通流に与える影響は大変大きい。一時停止は道路交通法第33条でさだめられており、また自動車教習所でも厳しく習うので、なかばドライバーの常識になっている。しかしあまり知られていないが、実はこのような法律があるのは日本と韓国くらいで、その他の国では遮断機が開いていれば乗用車はノンストップで走り抜けられるのだ。海外で車を運転するときにこれを知っていないと危険で、追突されるかもしれない。いうまでもなく踏切を立体交差すればよいのだが、膨大な時間と費用がかかる。
まずこの一時停止による都市交通の流量低下の影響は、逆にいえば踏切のノンストップ通過にすると、最大で約2倍の交通量が消化できるそうです。このノンストップの日本での経済効果は、約1800億円にもなるそうです。二酸化炭素排出量も年間100万トン減にもなる。これは30万世帯以上の排出量に匹敵するそうです。

横並びはない


おはようございます。昨日の弓の稽古は本当の寒げいこ。隣の剣道場では暖房が入っている。こちらの弓道場でも別のグループは矢が通過できる穴のあいたビニールカーテンを降ろしてやっている。
これは鬱陶しくてならないので我々は利用しない。弓も寒いと硬くなっていて弓を開く力がずいぶん違うようです。
韓国人の発想:黒田勝弘:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%BC%98より
“負けるが勝ちはない”
夕焼け小焼けで  日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで みな帰ろ
カラスと一緒に 帰りましょ
ソウルにいたとき、韓国人の年輩の知り合いがしみじみいったものです。「日本ではカラスまで一緒にさそって、みんな手をつないで仲良くしようというんですよねえ・・・。
それに比べると韓国人は、この“お手々つないでみな帰ろ”ができないんです。」_____
.。日本人の“横並び”の発想あるいは協調志向は、韓国人からすると際立ってみえるというわけです。
韓国人の人が日本在勤を終えて韓国に帰ってきたため、子どもたちも韓国の学校に通うようになりました。ところが、子どもたちが学校で何かにつけて遅れをとって困るというのです。ボール遊びとか陣とり遊びといった遊びから、列を作って順番を待つとか、ワーッと教室に先を争って入るとか、学校で何かを受け取ったりするときとか、さまざまな場面でほかの子どもたちに先を越されるケースが目立つといいます。
 イジメというのは集団による特定個人に対する攻撃ということですが、どうしてもその背景には日本人の度の過ぎた横並び主義、極度の協調志向があるように思えます。つまり日本人の協調主義が異端めで包み込んだ絶対的な仲良しではなく、協調しない者、横並びに合わない者を排除・疎外するという排他性を伴っているのではないかという気がするそうです。
気候風土がその地の人々の物の考え方、感性、行動様式などに与える影響は絶大で食べ物、も飲み物もうまいからといっておみやげに持って帰っても意外においしくなかったという経験はよくあります。
風土そのものの違いでいえば、たとえば南回りの飛行機でエジプトあたりから日本に戻ってくるとき、タイのバンコックあたりに降りるとホッします。中東とは全く異なる木々の緑と湿った空気に、日本人は落ち着きます。同じ東アジアでのモンスーン地帯なのに、韓国のソウルを「たって成田あたりに到着しても同じ感じを受けます。日本の濃い緑、うるんだような風景は海峡をはさんですぐそこの距離にあるにもかかわらず、比較的乾燥した半島の風景とは異なっています。

2010年1月10日日曜日

蹴る群れ②領土よりサッカー


おはようございます。サッカーは庶民感覚の歴史が感じられて、とても面白いように思えます。
蹴る群れ:木村元彦より
アルゼンチンの独裁者ホルヘ・ラファエルビデラ将軍がクーデターによってイサベル・ペロン大統領を追放し恐怖政治が始まった。そういう政治情勢下なので、78年のアルゼンチンWC杯大会でのアルゼンチン監督のメノッティはそれまで姑息で汚いといわれたアルゼンチンサッカーをクリーンで攻撃的なものに仕上げ、優勝に導いた。このアルゼンチンチームがオランダとの対戦でキックオフの時間に業と1時間も遅れて入場しプレッシャーをかけたという言説があるが、それは事実無根とオズワルド・アルディレス監督(オジーといわれてヴェルディ監督だった)。メノッティはオシム監督がナショナリストの突き上げに屈せず、多民族チームをまとめた名将だとして尊敬してやまない。かたやメノッテイは独裁政権の圧力から選手を守った知将、徹底したフェアプレイを選手に求める点で共通している。
イギリスとアルゼンチンが戦ったフォークランド紛争時の有名な逸話。オージーが<トットナム※>でプレーしていた1982年の4月2日。アルゼンチン軍4000名が英国領フォークランド諸島に突如上陸。イギリス海兵隊60名を捕虜にする。アルゼンチンはフォークランドを24番目の州として軍政下におき、イギリスはアルゼンチンと国交を断絶した。互いに国民の憎悪は頂点に達したかに見えた。しかしその翌日FAカップ、対<レスター>戦。アルゼンチン人初の入団した英国内のチーム<トットナム>のサポーターはわがチームでプレイーするアルゼンチン人にブーイングどころか」、最大の敬意を表した。彼らは」「オージーがいてくれるなら、フォークランドなんかくれてやる」と横断幕を掲げたそうです。※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BCFC

2010年1月9日土曜日

蹴る群れ


おはようございます。昨日は89歳の叔母の入所先にお見舞いでした。午前中はお風呂、3時の食堂でオヤツのあとで、3人の仲間といながらおしゃべりしていました。
きくとところでは、皆気の合うグループのようで、皆ニコニコしていました。我々の顔を見ると、ニコットして待ち受けていた様子でした。談話室から帰り際席に戻ると
もう一人増えて4人になっていました。

「蹴る群れ」::講談社
木村元彦http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%85%83%E5%BD%A6  より
サッカー選手:ヨアン・アンドネ
1960年ルーマニア出身。1983年ルーマニアのトップチーム<ディナモ・ブカレスト>に入団。長い間、控えに甘んじ、19990年W杯、宿敵<ステアウア=s>とのダービー戦の時だった。観戦中のチャウシェスク大統領の長男(sチームの会長)ルーマニアカップでも対抗チームが勝っていると、試合をボイコットさせたり、優秀な選手は自分のチームに入れてしまうような強引そのものの人物はヴァレンティン。こういう人物に腹だたしく思っていたが、じっと我慢するしかなかった。
しかしこの試合は3ー0の文句のない<ディナモ>の圧勝のときだった。自らも得点を決めたアンドネはこのチャウシェスク大統領の長男に対して、パンツからお尻をだした侮蔑行為をした、いったいどんな恐ろしい粛清が待ち受けているのか。アンドネにとって幸運だったのはヴァレンティンのお気に入りだった<ステアウア>のFWマリウス・ラカトシュが試合さながら快足をとばしてヴァレンティンに駆け寄り、必死に友人の非礼をわびた。結果アンドネは3試合の出場停止の信じられない軽い処分だった。以後国内でこの事件を語ることはタブーとなっていた。
それが、どんな権力者も終わりの時を迎える。1989年12月25日あの独裁政権が終焉を告げると、アンドネの逸話は「あの時代にあんな勇気のあるやつはいねえ」

2010年1月8日金曜日

ユヌスの主張②


おはようございます。田舎の山形では又大雪で大変です。やはり電車やバスへの影響もあるのかもしれません。除雪が大変でしょうね。
ユヌス、貧困のない世界を語る:金融危機は変えるチャンス、貧困が博物館でしかみられない状態にしたい。貧困を運命の一部として受け入れるしかないという状態を改善したい文明社会を達成させたい。貧困は貧しい人が作ったものではなく、社会のシステムが作った。まず貧困を半減させよう、更には半分にすることが出来るなら全廃もできるはずだと。ソーシャル・ビジネス
ユヌスは、利益の最大化を目指すビジネス(PMB)とは異なるビジネスモデルとして、「ソーシャル・ビジネス」 を提唱した。ソーシャル・ビジネスとは、特定の社会的目標を追求するために行なわれ、その目標を達成する間に総費用の回収を目指すと定義している。また、 ユヌスは2種類のソーシャル・ビジネスの可能性をあげている。一つ目は社会的利益を追求する企業であり、二つ目は貧しい人々により所有され、最大限の利益 を追求して彼らの貧困を軽減するビジネスである[2]。
具体的には飢餓・栄養不良を失くす。フランスのダナンという年商2兆円の会社から招待され、共同でグラミンのダノンを設立しようということになった。これはバングラディシュでヨーグルトの生産と販売を行う。この会社は株主への配当もなく、利益は全て慈善事業に投資しようというものである。この会社に招待されたときに、サッカーのジタン選手にあったが、それほどに有名な選手であることすら知らなかった。
(フォックスワーゲンもこの類の事業に参画する用意があるのだそうです)
ヨーグルトは1ビン9円、350万人(人口は1.5億人)の供給したい対象の内、冷蔵庫がないので、48時間以内に届けられる範囲の6万世帯に供給する仕事量で出発し、現在もう2ケ所建設中であるが、全国に50ケ所増設計画している。近隣には牧畜している農家があり問題ない。供給は商店だけでなく、配達は9円の売値の内1割が販売員のもうけである。
その他目指すはもうけで、保険や医療(とくに白内障が多く、失明になるケースあり、治療費用2500円がない患者は半数にも上り、)それらの人には無料にしている。
●グラミン・シャクティ(エネルギー):国土の電化率は6割:ある村の半数の家庭にソーラーパネル一枚取り付け、50Wの発電力であるが、バッテリー充電でテレビも見られるようになっているし、携帯電話も使用できる。パネル一枚3ドルを2ドルにすれば全家庭に普及できる目途があるという。
●マイクロクレジット:マイクロクレジット (Microcredit) は失業者や十分な資金のない起業家、または貧困状態にあり融資可能でない(商業銀行からの融資を受けられない)人々を対象とする非常に小額の融資(ローン、クレジット)である。これらの人々は担保となるものや安定的な雇用、検証可能な信用情報を持たず、通常のクレジットを利用するための最低条件にさえ達しない。マイクロクレジットは、少額保険、少額送金など少額ファイナンスサービスの一環であるため、貧しい人々への金融サービスを意味するマイクロファイナンスの一部分である。
マイクロクレジットは開発途上国で生まれた画期的な仕組みで(特にバングラデシュで始まったグラミン銀行が有名である)、貧窮のどん底にある人々(ほとんどは女性)が個人事業に従事し、収入を得て、貧困を脱することを可能にさせ、成功を収めている。

2010年1月7日木曜日

ユヌスの主張①


おはようございます。NHKの「未来への提言」から:
リーマンショク後の世界同時不況は確かに限界をみせました。それがユヌスの主張は、この不況下でも揺るがないし、首肯させるものがあります。
資本主義の限界:今日の世界不況は資本主義の限界を示したものである。お堅い銀行ですら全てギャンブルに走った。紙切れの上の利益に過ぎなかった。空中の城は崩壊した。ユヌスは、現在の資本主義が、人間について利益の最大化のみを目指す一次元的な存在であると見なしているとする。これに対して人間は多元的な存在であり、ビジネスは利益の最大化のみを目的とするわけではないとユヌスは主張する[1]。

ムハマド・ユヌス(1940年6月28日 - )は、宝石商の息子に生まれる。現在バングラデシュにあるグラミン銀行総裁、経済学者である。英国統治下にあったバングラデシュの南部チッタゴン(英国植民地の港町)に生まれる。ボーイスカウトにも参加。チッタゴンカレッジを経て、ダッカ大学を卒業。フルブライト奨学金を得て渡米し、1969年にヴァンタービルト大学で経済博士号を取得した。
1969年から1972年までミドルテネシー州立大学で経済学の助教授を務める。その後、パキスタンからバングラデシュ独立後の1972年に帰国し、チッタゴン大学経済学部長に就任した。1976年にグラミン銀行プロジェクトをジョブラ村にて開始し、1983年に同プロジェクトはバングラデシュ政府の法律により独立銀行となる。グラミン銀行は多分野で事業を展開し、「グラミン・ファミリー」と呼ばれるグループへと成長をとげた。2007年2月、新党「市民の力」を発足。
2006年ノーベル平和賞受賞
バングラディシュは国土の5分の1が海抜1m以下で地球温暖化の影響で、海面上昇が及んでいる。安く誰でも購入のできる車があれば、そのエンジンは取り外してポンプの動力に使えるものにできないかと考えている。日本が供給しているODAの一部を下記のソーシャルビジネスに回すことができれば大きな励みになる。

ソーシャル・ビジネス
ユヌスは、利益の最大化を目指すビジネス(PMB)とは異なるビジネスモデルとして、「ソーシャル・ビジネス」 を提唱した。ソーシャル・ビジネスとは、特定の社会的目標を追求するために行なわれ、その目標を達成する間に総費用の回収を目指すと定義している。また、 ユヌスは2種類のソーシャル・ビジネスの可能性をあげている。一つ目は社会的利益を追求する企業であり、二つ目は貧しい人々により所有され、最大限の利益 を追求して彼らの貧困を軽減するビジネスである[2]。
具体的には飢餓・栄養不良を失くす。フランスのダナンという年商2兆円の会社から招待され、共同でグラミンのダノンを設立しようということになった。これはバングラディシュでヨーグルトの生産と販売を行う。この会社は株主への配当もなく、利益は全て慈善事業に投資しようというものである。この会社に招待されたときに、サッカーのジタン選手にあったが、それほどに有名な選手であることすら知らなかった。
(フォックスワーゲンもこの類の事業に参画する用意があるのだそうです)

ブラインドサッカー


おはようございます。
ブラインドサッカー:毎日新聞2009.12.29号に掲載されていました。
視覚障害者が伴走して走るマラソンがあるのは知っていました。しかしサッカーまでやっているなんて。
来年注目されるのは8月に行われる世界選手権(英国に於いて)です。調布市で行われたアジア選手権で日本チームは中国、韓国、イラン、マレーと競り合い2位になった。北京パラリンピックで優勝した強豪中国と、アジア選手権で3位になった韓国とともに世界に挑む。ピッチに立つのは5人、キーパーを除く4人は視力差を公平にするためにアイマスクを使用する。ボールから出る鈴の音やガイド役の指示を頼りにプレーする。ゴール手前にはシートが敷いてあってゴールが、近いことは分かる仕組みになっているようです。その他次から次にどうしてという質問点が出てきてURLを見ただけでは理解しずらいのです。(別の資料で分かったのはキーパーだけは晴眼者のようです)
http://www.b-soccer.jp/
youtubeもあってフットサル位のスピードで競技している。想像以上の動きです。

2010年1月5日火曜日

野菜の味


おはようございます。野菜に特にモーツアルトを聞かせると、その野菜の味が奥ゆかしいものになるという話を聞いたことがありましたが、そういう事があるのですね。
11月21日、東京・目黒にあるイタリアンレストラン『グースト』で、新潟県三条市産の食材を使った料理を楽しむイベント『BUONA ESPERIENZA DI SANJO 豊穣の三条 -晩秋2009-』が開催された。

 新潟県のほぼ中央に位置する三条市は、日本の棚田100選にも選ばれた美しい風景が残る自然豊かな食材の宝庫。この日は同市出身の小松岳史オーナーシェフが郷里の魅力的な食材を手の込んだフルコースでもてなした。

 三条市下田産のサツマイモ『越の紅』を使った野菜チップス、三条縄文ドジョウをフライにしマリネ風に仕上げた前菜、炊きたての棚田米にメインの下田産和牛――。そして、中でも注目を集めたのが、三条産の洋梨『ル・レクチェ』とスカモルツァチーズの組み合わせ。

 実はこの『ル・レクチェ』、栽培元の渡辺果樹園が収穫後の追熟期40日間に1日3回モーツァルトの曲を聴かせ、愛情をたっぷり注いで育て上げたもの。こ れにより味わいが深まるという効果も立証されているそうで、口に入れると芳醇な甘みとまろやかさが広がっていく。また、チーズとの相性も抜群で会場には感 嘆の声が響き渡った。
http://news.ameba.jp/domestic/2009/11/50786.html

2010年1月4日月曜日

野球の重い話


おはようございます。王元監督とイチロー選手の話は含蓄があります。
●王貞治元監督:
最初のころ、選手からみて王監督のホームラン記録が大きすぎて、ついていけないという認識があったようで、これをやれという強制は出来なかった。
巨人軍監督をはなれて休職期間は、習字などいろんなことをしたが、その充電期間をすぎると、再び野球をすることはワクワクしてなんとも言えない楽しいことに思えた。
ダイエーホークスに入って:
最下位の原因の解決は、やるべき練習をキチンとやるという自覚を植えさせることだった。観客から生卵を投げつけられ、移動バスの窓が見えない位な時もあった。小久保選手には、勝てばこういうことはなくなると説明した。2年間は最下位だった(背中に湿疹がでていた)。3年目は4位、4年目は3位のAクラス。
勝つ信念が生まれると、もう数cmグローブを伸ばせば捕球できる、この差は極めて大きい。
●イチロー選手:現役監督がWBCの監督を兼任するという決意をしたので、自分も最初は消極的だったが、参加する勇気が湧いた。
●王監督:WBC監督を引き受けたのは、野球の輪が広がればいいと考えた。イチロー選手がWBCの練習ノダイエー球場にきたが、通例は誰がリーダーシップをとるのか遠慮しがちであるが、なにをいわなくとも、練習開始の最初から全力疾走だったので、おのずと皆も右に倣えだった。厳しさに対する抵抗力があった。仰木彬監督もそうだったが、人間心理「やれといわれればやりたくない。ゆっくりやろうなどと何も指示しないと、不安があって自分で工夫してやるしかない」のようなことを応用する両監督だった。
●イチローの話:王監督がイチロウの大記録を達成したときの祝いの電話:
米国においての人種差別、文化の違い、習慣の違い、記録達成への恐怖など乗り越えた大変さを労ったものだった。他の人から言わるのと違い、王監督の言葉は重かった。

●王監督の次女:母が聞いたのは、父が1日に4本のホームランを打った時に、こんなに打てた喜びではなくて、明日は打てるだろうかという心配の言葉だったという。

2010年1月3日日曜日

江戸の優しさ


おはようございます。いま足利事件で菅谷さんが再審になりました。裁判の前段階について取り調べも密室でなく、証人や参考人の取り調べも「可視化」の検討が行われているようです。
裁判員制度もしっかり機能しているようで喜ばしいことだとおもいます。江戸時代の町奉行の優しさが載っていましたのご紹介します。
八百屋お七
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E5%B1%8B%E3%81%8A%E4%B8%83
この人物は幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、それが後に浄瑠璃等芝居の題材となったことで有名である。
生年は1666年で生まれとする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。下総国千葉郡萱田(現・千葉県八千代市)で生まれ、後に江戸の八百屋太郎兵衛の養女となった。
お七は天和2年12月28日(西暦1683年1月25日)の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎とも、または武士であり左兵衛とする説もあり)と恋仲となった。翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられて鈴ヶ森刑場で火刑に処された。遺体は、お七の実母が哀れに思い、故郷の長妙寺に埋葬したといわれ、過去帳にも簡単な記載があるという。
その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため町奉行・甲斐庄正親は哀れみ、何とか命を助けようとした。当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐庄はこれを適用しようとしたのである。厳格な戸籍制度が完備されていない当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。 甲斐庄は評定の場において「お七、お前の歳は十五であろう」と謎を掛けた。それに対し彼女は正直に16歳であると答えた。甲斐庄は彼女が自分の意図を理解出来てないのではと考え、「いや、十五にちがいなかろう」と重ねて問いただした。ところが彼女は再度正直に年齢を述べ、かつ証拠としてお宮参りの記録を提出することまでした。これではもはや甲斐庄は定法どおりの判決を下さざるを得なかった[1]。