2007年10月31日水曜日

武士の倫理







武士の倫理 徳川の平和を支えたもう一つの柱は、社会の倫理原則に儒教が推奨されたことです。儒教の伝来は5世紀前半に百済の王仁博士が漢字(千文字)と論語十巻を持って渡来した時と言われますから、仏教伝来より約百年(?)早いものです。しかし個人救済の宗教ではありませんから、仏教のように広がることも無く、公家、僧などの中に伝わってきたものです。それが戦国時代となると、従来にない新しいリーダーである武将達は、競って孟子や大学・中庸などを読み学びました。
彼等、戦国の武将達は部下の侍達、また広く領民全体の強い信頼を得ることが何より必要であり、いわば全人格的リーダーであることが必要でしたから、儒教の学問、儒学は必須の教科書となって来たものです。 家康公も深く儒学を学んでいます。彼は今川家の人質として駿府(静岡)で育ちますが、同地の名刹「臨済寺」の雪斉師より教育をうけ、終生旗印として「厭離穢土欣求浄土」を掲げて戦ったことでも解かるように、深く仏教に帰依していたと思われます。晩年の手紙には「平和になって自分は暇になってしまったから、1日六万回念仏を唱えている」と書いています。
しかし幕府設立時に藤原惺窩を呼んで儒教の進講を受け、国家を運営する倫理としての儒学の大切さを認識して、惺窩の弟子である俊英、林羅山を顧問として起用したところから幕府と儒学の深い関係が始まります。四代家綱の後見人であった保科正之、五代の綱吉、と儒学に深く傾倒した人物が登場したことにより、儒学は幕府の公式な学問になりました。
日本中の大名もこれに倣いましたから、江戸期を通じ武士の学問は儒学となりました。儒学の教育は知識の教育であるよりも、社会の指導者である武士階級の人格と品性の教育でした。 
江戸初期の軍学者で儒者である山鹿素行は、「農は耕し、工は造り、商は交易に従事して夫々額に汗して働く」のに対し、武士は「不耕、不造、不沽の士」であるから、その職分に自覚が無ければ「遊民、賊民」であるとして、武士の職分は、「主人を得て奉公の忠を尽くし、朋友と交わりて信を厚く、身を慎んで義を専らにするに有り。農工商はその職業に暇あらざるを以って、常住相従って其の道を尽くし得ず。士は農工商の業を差し置いてこの道を専ら勤め、三民の間苟も人倫をみだらん輩を速やかに罰して天下に天倫の正しきを待つ。これ士に文武の徳知、備わらずばあるべからず」と書き、この士道論は広く武士に影響を与えました。
こう言うものを読みますと、青木英夫氏の「西洋くらしの文化史」にあった17世紀フランス貴族の日記の一節と比較したくなります。そのラ・ブリュイエールと言う貴族は「これらの動物は、牡も牝も田畑に散らばり、青黒く日に焼けている。夜になると彼等は巣に帰る。そこで彼等は黒パンと水と草木の根とで生きている。」と書いています。これらの動物というのは無論農民達のことです。フランス革命が起こるわけです。 江戸時代は265年にわたる長い時代ですから、一口に「江戸時代とは」と定義付けるのは難しいことです。戦国の余韻が残る江戸初期と、江戸文明爛熟の文化・文政期とはまるで別の世界のようです。この長い時のなか、武家階級は貧困化し、農工商の経済力は飛躍的に増加しました。しかし武士の倫理は基本的に最後まで変わらぬものが有りましたから、社会としては大変に洗練された経済社会の上に、この武士の倫理が上級規範としてあった訳で、江戸時代を考えるときには、この絶妙な「経済と倫理のバランス」を理解する必要があると思っています。
ブログ「学際」から(このブログも中断しているようですが、記録は残っているようですが・・・

2007年10月29日月曜日

トルコ航空の救援機


左写真は「ゆんフリー」を利用しています。
チューリップとサクランボの発祥地トルコの国と日本のおつきあいについてのお話です。
三笠宮殿下とトルコ駐日大使の列席があった10月28日のイベントでした。
以前NHKのプロジェクトXでも報道されたことで、ご記憶に新しいことだと思います。

1985年3月、イラン在留邦人達がイラクのフセインによる空軍機の空襲によって2軒先に爆弾が落ち現地の人に死者が出て、日本人家族は宿舎の地下で過ごす人も現われる事態に追い込まれていた。イランから脱出しようにも、各国の航空会社は、いずれも「自国民優先搭乗」方針を掲げ、しかも自国民の乗客で満席である」であるとの理由で、日本人の搭乗を拒否したのであった。日本の航空機はテヘランに乗り入れていなかったし、野村大使も外務省を通じて自衛隊は海外へは無理であったし、日本の航空各社へ交渉した。しかしイランの安全保障と攻めてきているイラクからの安全保障を得られるのならという、事実上の拒否であった。

野村イラン大使はイランでトルコ大使とは腹を割って何事も相談できる、同期に赴任したもの同士の昵懇の間柄であった。隣国トルコでは★伊藤忠の森永尭支店長はトルコの大統領から委託をうけているオサ―゛ル首相と「パジャマの友」というほど早朝や遅い晩に首相の私邸赴いて付き合う昵懇の相談相手だった(トルコはそのころ経済的に行き詰まっていた。これに手助けしてトラクターの自国生産ができるような道をひく協力など惜しまなかった)。

こういう下地があって★野村大使は先のトルコ大使にも話していたし、森永氏は本社から要請があり、首相へトルコ航空に特別機をだしていただくように懇願した(森永氏も他国同様に首相としても、自国民もまだ全員収容する処置が終っているわけでもなく、無理な要請であることは重々分かっていながらのことであった)。
オザール首相は日本人を優先救援したというトルコ国民からの批判が巻き起こらないか、イランへ救援機を派遣するにしても安全を確保出来るのか?問題点が種々指摘される中で敢えて派遣するのだから、将来政治問題化した場合の対応策は?しかし日本の親友が懇願するように、脱出を図る日本人に危機が迫っており一刻も猶予ができない。さまざまな思いをめぐらせながら、遂に派遣を決断した。

今日のシンポジュウム・パネリストは★の方々:
★エミネ・キョプルル(当時のトルコ航空客室女性乗務員:日本人は駆け足で・真剣な顔で座席についた。
 日本に来るのは嬉しい。道を聞いても丁寧に教えてくれる。長時間の日本乗客にゴミがない、トラブルもない。日本で忘れ物してもチャント残っている。

この救援機がトルコに着陸したときは食事やお酒はとくにお酒は残っていませんでしたという発言がこの女性乗務員からあって、感謝の念のこもった聴衆から暖かい拍手が沸きあがった。
★オルハン・スヨルジュ(当時の機長):イラン上空を通過して、「ヨウコソ トルコヘ」といわれた215人は頭から足の芯まで安堵感が染みとおった。救援機なのに、女性客室乗務員だけであった、ここで★毛利東京銀行員の奥さんがお礼を言うと、その乗務員の目に涙がうかんでいたという。緊張した任務から解放された気持ちが目元にあらわれた(結婚もしていて、夫には救援の仕事はつげ、父母には心配をかけるということで内緒にしていた)。

司会者がどうしてこんなに日本に好意的な理由が知りたいという質問があった。機長の発言も友達というのは困ったときに助けるものだ。

オザール首相に森永氏があとで尋ねると、誰も、どの国も、(貴方の国さえも)助けがどうしても得られない事情がよく分かるから助けたのだと。

トルコ地震に見舞われた時、1万人以上の死傷者もでて、これに215人の各人は会社内にしらせ、毛利さんは500万円もの義捐金があつまり、これをトルコに届けた。これを随分後で聞いた機長らは、こういうふうに気持ちが通じ合えるので又要請があればまたフライトしますといっていました。
野村大使:日本人を帰国させたが、自分は残り、大使館員にも帰国を勧めたが誰一人帰国するものはなかった。大使の子供も同様だった。
日本人学校の県先生はこの事実をしり、のち単身赴任で残った子供へ教育にもどったという。

トルコが日本に超好意的なのは

①ロシアのピョートル大帝との戦争でトルコは連戦連敗であるがアジアの小国日本の海戦の勝利にトルコ人が驚嘆した。
②明治時代にも交流があったので、トルコの軍艦・エルトウール号が来日したものの、紀伊半島の串本で遭難し、犠牲者がでてそれをねんごろに慰霊碑もつくったこと等厚かった友情に多とした。
③朝鮮戦争はトルコは4.5万人を派遣し、米国兵を驚かせ、帰国時に日本経由したときは復興の有様がすごいので、祖父がいっていたのは本当だったと。これらの4万5千のトルコ兵が故郷に帰り、日本の状況をはなしている。
④発言をもとめられた人がいうには、トルコにいって外国人として、嫌な目にあったことはない。又同じ血筋や気質ではないかと思われるところがある。西にいったのがトルコ人、東にいったのが日本人だと思いたいという。
⑤司会者は許可をとらないでトルコで発掘調査していたところ、地元警察につかまったが、そこの上司が日本人と分かっただけで一月朝・昼・晩食事にこの庁舎に来てくださいとの厚遇を、ただ日本人であるというだけでしてくれるのだった。まるで地獄に仏とはこういうことだと理解したという。

以上の話を聞いて、一度はトルコを是非訪れてみたいという気持ちになった。
気持ちのよい実話が聞けた同時通訳のある中近東文化センターでの行事であった。

2007年10月28日日曜日

風のような物語(写真家・星野道夫)

フリー写真はゆんふりー提供
アラスカに米兵として駐留していたが1948年兵役から解除される。そのときボブはエスキモーのキャリーと結婚していた。21歳のボブはある決断をしようとしていた。
軍隊の生活に疲れたが、アラスカにとどまることで燃えるような生活が満たされるのではないかと考えていたのだった。そしてキャリーとの狩猟による自給自足の生活が始まった。


ボブの話し方は自然だった。今の時代に投げかける疑問も素朴で、かえってそれが説得力を持っていた。
「昔、エスキモーの生活の中心はカリブー(北米ではトナカイをこう呼ぶ)であり、カリブーがすべてだった。エスキモーは季節とともに、カリブーを追った。
人はカリブーとの関係で精神的な充足を得、そこには完成された生活があったんだ。しかし、いつしかそこに西洋文明とともに貨幣化経済が入り、人とカリブーの関係が弱まる中で、人々は精神的な充足を新しい価値観に求めるようになっていった。けれどもその新しい価値観はカリブーと違い、求めてもつかまえることができず、完成された生活からはどんどん遠去かっていってしまった」いつしかボブは、彼の生活観を話し出していた。

「何もなかった時代は自分の生活圏以外のどこにも刺激を求める必要はなかったんじゃないかな。それは日々の暮らしの中で向こうから飛び込んできた。日常生活で求めたいたのは、刺激より休息だったんだ。けれども、今の時代、すべてこのことが決まりきっている。明日のことも、その先のことも・・・・・。それでも生きていくことができるというのは、自分にとって大切なことだった。
カルフォルニアにいた頃、生活はすべて他人から与えられていた。食べるもの,着るもの・・・。そんな生活はおかしいと思っていた。人生にはもっと意味があるはずだと思っていたんだ。」

アラスカ「風のような物語」写真家星野道夫著より
素晴らしい写真集です。生命の愛おしさが伝わってきます。
http://www.michio-hoshino.com/

2007年10月27日土曜日

ブログの継続



㈱エフ・ピーアイという新潟にある会社(消防器具の販売会社)のコラムでした。というのは


面白いものや楽しいブログを「お気に入り」として登録しているのですが、昨年の5月に登録していたのにもう継続されていません。残念なことです。継続は力なりということですが、小生も何とか面白い・楽しいブログを見つけてご紹介したいとおもいます。
これはあくまでも個人の好みでえらんでいますので、皆さんにも気にいっていただけると嬉しいわけですが・・・



旅行先で特急に乗ったYさんが本を読んでいると、ワゴンサービスの女性が「お勉強ですか」と気さくに声をかけてきました。 一言二言会話を交わした後、Yさんは「○○に行くには、○○先の停車駅から戻ったほうが早いですか?それとも手前で降りたほうがいいですか?」と問いかけました。この特急は、目的地の○○には止まらないのです。 女性は調べに行ってくれましたが、比較的込んでいたためか、すぐには戻ってきません。いつしかYさんは眠ってしまったのです。目覚めたとき、かばんの上に手書の「お乗換えカード」が置かれているのに気づきました。 その女性に会えないまま列車を降りたYさんでしたが、彼女のくれたカードのお陰で安心して目的地に向かえただけでなく、その後の一日がとても軽快な気持ちで過ごせたといいます。そして、誰かに親切のお返しをしたくなったのでした。 ちょっとした親切が、お客様や同僚など、相手の心を明るく朗らかなほうへ導き、伝播して、やがて自分に返ってきます。まずは自分から発してみましょう。

2007年10月26日金曜日

日本の国は破綻するか





みんなの仕事塾から:


まだ多少皆さんの心の奥に何年前かの心配が残っているかもしれませんが、国会でも議論されていたとは露しりませんでした。韓国はIMFの過酷な勧告に応えて見事に立ち直りました。その勇気は素晴らしいと思います。


●質問 こんにちわ。アメリカのIMFに近い筋の専門家がまとめたネバダレポートなるものがあります。国会において、これを取り上げながら、「日本が破綻した場合にどうなるのか?」ということを論議しています。


以下、「衆議院議事録第10号平成14年2月14日」の論議の内容の一部です。 このレポートは、「もしIMF管理下に日本が入ったとすれば、八項目のプログラムが実行されるだろう」ということを述べているのであります。 


手元にありますが、その八項目というのは大変ショッキングであります。公務員の総数、給料は三〇%以上カット、及びボーナスは例外なくすべてカット。二、公務員の退職金は一切認めない、一〇〇%カット。年金は一律三〇%カット。国債の利払いは五年から十年間停止。消費税を二〇%に引き上げる。課税最低限を引き下げ、年収百万円以上から徴税を行う。資産税を導入し、不動産に対しては公示価格の五%を課税。債券、社債については五から一五%の課税。それから、預金については一律ペイオフを実施し、第二段階として、預金を三〇%から四〇%カットする。大変厳しい見方がなされている。」 ということで、ここから質問です。日本国家は破たんするのでしょうか? 日本を脱出したほうがいいでしょうか? 外国籍をとるのは難しいのでしょうか? 東南アジアは比較的取りやすいと聞いたことがあります。でも、日本の家には思い出が詰まっていて処分する気にはなれません。どうしたらいいでしょうか。具体的にどういう対策をたてていますか。


 ●答 日本経済は破たんする。よって、早めに手を打たないと大変だぞーー。というような趣旨で書かれた本に、たとえば、『2003年、日本国破産 対策編―YEN(円)と国債が紙クズとなる日が近づいている!?』(ISBN:4925041606、217p 19cm(B6)第二海援隊 (2001-05-07出版)・浅井 隆【著】)があります。これは小松左京の『日本沈没』みたいな本で、最悪の最悪の最悪の事態を書いた本です。 


こういう最悪の最悪の最悪のことを、いわゆる普通の人が考えても仕方ありません。日本人は馬鹿ではありませんから、最悪の事態へ行く前になんとかするでしょう。心配されている年金については、一円も年金が貰えなくなるというような極端なことは起こりえず、年金の支給が遅らされたり、支給額が減ったりという程度に落ち着くでしょう。国家財政の悪化という事態は、円安そしてインフレという事態を招くでしょうが国はつぶれません。将来の増税は必至ですが国は存続します。 こういう本に書いてあるような最悪の事態に陥るよりも、関東・東海大地震や北朝鮮からのミサイル攻撃、イスラム原理主義によるテロで命を落とす確率の方が高いのではないでしょうか。


後者の方は防ぎようがないですから。 国家破産はあり得ない。国としての信用が低下するだけ。しかし、大型増税とインフレは避けがたい。全体のことはどうでもいい。自分の事を考えろ。海外で資金を運用するのは誰にでも出来ることではない。それなら国内株式で運用する。インフレや増税以上に運用で稼げばいい。 さて、脱出した方が良いかどうかについてです。これはあなたの状況にもよります。あなたがもし、資産がウン十億あって、英語が日本語と同じぐらい出来て、国際的に通用するスキルがあれば、状況を見ながら逃げることはできるでしょう。でもこういう人生が幸せだとは思えません。思い出や友達は海外へは持っていけませんからね。 


この答えを書いた人は投資を勧める人でしたのでその部分は割愛してあります。

2007年10月24日水曜日

本当の贅沢





金がかかればかかるほど、たちまちにエスカレートし分に過ぎたおごりになって限度を越えて行く。欲望は限りがない。




私はこれが本当の贅沢と教えられた体験があった。




私はかつて砂漠の絵を描きたくて、アフリカの砂漠を遊牧民と車で何日も動き回った。




あるとき突然遊牧民が車を止めた。ボロボロの絨毯を広げ、紅茶をいれてもてなしてくれた。茶碗は所々かけていた。下手をすると、唇を切ってしまいそうになる。




仰ぎ見れば、無限の空と何処までも広がる月世界のような砂漠で振舞われた一服の茶は例えようもない美味なものだった。星の上にポツンと一人置かれたような壮絶な世界、この時得た経験は「時間」「空間」に対する尊敬だった。




千住明という画家の話しです。

2007年10月23日火曜日

言葉と心で見る美術館









平成一六年一二月四日富山県立近代美術館で、視覚障害者と健常者(晴眼者)がおしゃべりしながら絵を見る「言葉による鑑賞会」が開催された。
講師役を務めたのはNPO「エイブル・アート・ジャパン」(東京)である。 従来、視覚障害者の美術鑑賞といえば「触って鑑賞する」という方式しかなかった。しかし、立体彫刻ならば触って感じ取ることも出来ようが平面絵画ではそうもいかない。
そこで考えられたのが、視覚障害者と晴眼者が「一緒にことばで鑑賞する」という方式だ。通常は視覚障害者一人に対して三、四人の晴眼者がついて美術館の中をまわる。 絵の前に立った晴眼者はまず第一印象を話す。
「何か暗い感じの絵・・・」「人がたくさんにいて賑やかな感じ・・」「きれいな女性が座っている」など何でもいい。
視覚障害者はその言葉によって全体のイメージを頭の中に描く。次に絵の大きさ、色づかい、構図、遠近感などについて話す。
そして間を取って障害者の言葉を待つ。障害者はいろんな視点から質問をしてくる。
晴眼者はその質問に答える。そして再び間を取って言葉を待つ。「やっているうちに分かったのは、間をとる余裕を忘れないことです。自分の解釈をそつなく伝えるよりも言葉のやりとりを楽しもうとする態度が重要だということです」 当日、ボランティアとして参加したM・Aさんはこう話す。 一
一般的に他人の解釈を引用したり、あらかじめ勉強してきたことを話すと視覚障害者は違和感を持つ。それよりも視覚障害者は晴眼者自身の中から湧きでてきた言葉を好む。晴眼者によって解釈の違いがあっても構わない。むしろ障害者はその違いを楽しむのだという。「言葉による鑑賞会」は何ともNPO的な活動である。企業ならば絵を解説するテープが自動的に流れるようなシステムを考えるだろう。企業は機械に頼り、NPOは人(ボランティア)を頼りにする。こんな違いが見えてくる。
 
Mさんだけでなく、当日ボランティアとして参加した健常者はプログラム終了後に何とも言えない満足感を覚える。その満足感は視覚障害者に喜んでもらえて自分の存在感を確認できたこと以上に、絵をしっかりと見るきっかけを与えてくれたということだ。目を開けていることと、見ていることは実は同じではない。健常者は、視覚障害者の質問に答えるために真剣なまなざしで絵を見つめる。そして自分の言語能力を駆使して絵の説明を試みる。このプログラムの凄いところは、視覚障害者が健常者の潜在能力を引き出している点がはっきり分かること、「助けるー助けられる」という関係が一方的でなくて相互的であることだ。

ブログ「みんなの仕事塾」より

働くことが尊敬される社会へ



写真はSQUALLより
おはようございます。昨夕の夕焼けも見事なものでした。この頃は夕日が落ちると急に肌寒く感じるものですが、
そうまでなりません。菊の花が近所の畑に見えます。植えてというよりも育ったという感じですが逞しくそだっています。

山田昌弘東京学芸大学教授の「私の仕事・私の生き方」文芸春秋季刊秋号より

ある記者に「昭和30年代にあって今ないのもを挙げてください」と質問された

私は昭和32年生まれである。子供の頃は、小遣いを握りしめ駄菓子やおもちゃを買いにいったとき、店の人に「ありがとう」といっていた。家でご飯を残そうとすると、「汗水たらしてお米を作ったお百姓さんに申し訳ない」と親にしかられた。大人になってなりたい職業は都電の運転手だった。このころは働く人にたいする尊敬があちこちで感じられたものである。今はどうだろ。お店の人が子供であっても「ありがとうございました」と頭を下げる。買ってやっているという態度で売り手に臨む消費者が多くなっている。農家は米余りだから作らなくてもよいといわれる。電車の運転手は少しでも遅れる「お客様」より罵声を浴び、経営者からはもっと効率的にしろと圧力がかかる。


 こういう状況は、今までないがしろにされていた消費者や納税者の権利が尊重されるようになったという意味では進歩であろう。それがお金を持っていて使う人が「偉い」という意識が広がっているとしたらどうだろう。お金を払えば、サービスをうけて当然、文句が言える。一方、お金をもらって働く側は普通に仕事をしてあたりまえ、少しでも不都合があると、本人の責任でなくとも文句を言われる。その結果、働くことへのやる気とプライドが失われて行く。フリーターから社会保険庁問題、今起こっている仕事がらみの問題は「働くことへの尊敬」が失われていることが根にあるのではないか。
歴史的にみてみよう。前近代の身分制度では、貴族や領主、聖職者は働かずして生活を)楽しむことができた。一方、庶民や奴隷は朝から晩まで働かされ、その成果は搾取されていた。当時は、働くことは単なる苦役であったのだ。当時はお金を儲けることは卑しいこととみなされていたし、「ベニスの商人」に見られるように、お金を貸して利子を取るなどはもっての外だったのだ。


西洋社会で、働くことの意味が逆転するのは、15世紀の宗教改革以降のことである。プロテスタントの創始者であるマルティン・ルターは働くことは、「神に呼ばれて行うものである」との説を唱えた。今でも召命(calling)という英語には、職業という意味がかすかに残っている。働くことは、それが「他人の幸福を増やす」ことだから、働いたお礼として
お金を受け取ることは悪いことではない。それが「社会全体の富」を増加させるために効率よく分業して働くというアダム・スミス思想につながり、ベンジャミン・フランクリンの「勤勉)を尊ぶ思想となり、資本主義を発展したのだ。
そして近代社会では、他人を幸福にした見返りとして儲けたお金は、神様からの預かり物だから、大切に使わなくてはいけない。快楽にふけることを慎み、投資や寄付をすることによって社会に還元しなければならない。今でもキリスト教倫理が強いアメリカでは、たくさん儲けてたくさん寄付する人が「尊敬」されるのだ。


日本でも、江戸時代には勤勉を尊び、享楽的にお金をつかうことを戒める倫理が成立していたと考えられる。それが明治時代には日本社会が近代を急速に成し遂げ、戦後復興を果たすことが出来た。
近代社会は日本でも西洋でも「働くこと=他人を幸福にすること=尊敬されるべきことという意識、快楽のためにお金を使うことは「軽蔑」されるという意識から出発した。今それが逆転し、働くことへの尊敬がうしなわれつつある。


理由の一つには、近代社会が成熟し、ものを作ってもなかなか売れない「豊かな社会」になったことが挙げられよう。生産者は、消費者にモノを買ってもらうために、頭をさげなくてはいけなくなった。また金融の発達により、勤労がお金を生むというより、お金がお金を生む様相が強くなって行く。また仕事の現場が見えにくくなっていることも一因だろう。お米なら作っている人の姿が想像できる。しかしパソコには設計する人にから部品を作る人、運ぶ人など何千人の努力が詰まっている筈だが、その姿は目にみえない。土地やの株の値上がりで金儲けをすることが奨励されたこと。そして高級品を身につけることが「えらい」という意識が一般化した。つまり働くことではなくて、「お金」そのものが敬意の対象となってしまったのだ。ホリエモンが「お金で買えないものはない」といえたのもこの)延長線上にあることはいうまでもない。


市場原理に罪があるとすれば、お金を使うことは、働くことよりもえらいという意識を広めたことである。
その結果,働くこと自体が尊敬されなくなった。働くことの意味を見つけなければならなくなった。それは、働いた、結果としての「お金」か、仕事自体が面白いかのどちらかとなる。逆に言えば、収入が低かったり面白くない仕事はしても意味がないとい意識が広まる。仕方なく働き続ける。その感覚はフリーターや正社員にも広がりつつある。
 本来は、あらゆる仕事(単純労働でも家事でも)は、社会にとって不可欠であり、他人の幸福を増すために役立っている。きちんと仕事している人を褒め、フリーターも含めそれを評価する仕組みを作る。働くことそのものが尊敬される社会に)戻るためにはそのようなことが必要だろう。

2007年10月22日月曜日

鶴見俊輔と上野千鶴子の対談




おはようございます。対談を要約しましたが、話の受け渡し・発展などの流れが切れて読みにくいかもしれませんことご容赦ください。

鶴見俊輔(T)と上野千鶴子(U)との対談の要約
U:入院した父は夜寝れないので戦争中の話を聞いたりしました。介護の悩みを分かち合える兄弟がいることを父に感謝しました。付き添いの人を頼みましたが、費用がかなりかかりました。父のお金は生きている内に使おうと決めました。
T:私が耄碌したと自覚したのは70歳のころです。今は耄碌を濾過機として使っています。細かいものは通して、重みのあるものだけが残る。

U:自尊心の強い男性が家族や他人に介護される体験を言語化した例はすくなく、問い直ししなければなりません。介護保険は家族革命でした。私事とされていたことが公のものとなりました。高齢者の理想はPPK(ピンピンコロリ)。介護されても自立できるんだと自立の概念がかわりました。
T:老いた覚悟を持っている女性は多いが、男性は少ない。
U:日本は壊れたといわれるが、わかい世代は生き抜かなければなりません。国が壊れても、家族が壊れても、生きていける場所をつくり、支えていこうという人たちが沢山いるから私は希望をもっています。

上野千鶴子:58歳、95年東大教授、家族・介護・福祉問題・女性学の視点から。著書「老いる準備」
鶴見 俊輔:84歳46年「思想の科学」を発刊、べ平連の活動も担った

2007年10月21日日曜日

あるがん患者の手紙から


関原健夫様※1
                    
お電話での会話で、実は一番気になったのは、あなたがご自身の状況を十分に把握していらっしゃるかどうか、という点でした。

たとえば、日本にお帰りになって「閑職に置いてもらう」ことは、本当にあなたがいまなさりたいことですか?ほかの病気でしたら、手術が成功したら九分通り闘病が終わったことを意味するでしょう。でも癌の場合は、闘病はこれからなのです。そして重要なことは「治療は成功するより失敗する確率の方がずっと高い」ということを認識しておかなければならない、という点です。これは厳粛な事実です。

もちろん、私たち癌患者は治療が成功することに賭けて生きているわけです。でも人生の設計を治療の成功だけに基づいて立てておいたのでは、そういかなかったときの失望が大変でしょう。
医師を恨んだり、肉親を恨んだり、自己嫌悪に陥る結果になるのです。そして絶望のどん底で死を迎えることになるのです。
癌患者はふた通りの人生設計を持たなければなりません。治療が失敗した場合と成功した場合と。その二つの仮定に立って、今自分にとって何が一番大切かをえらばねばならないのです。
もし5年いきられたら、本当にもうけものなのですからね。

中略

私の経験と数百人の癌患者との会話を通じて、次のプラクチカルな方法が大変効果のあることを知っておりますので、お伝えします。紙に、何を自分がしたいかを書き出すのです。もし10年生きられるとしたら、5年だとしたら。2年だとしたら。十でも二十でもやりたいことを書き出して、優先度をつけます。私は1年と6ケ月のプランも作っています。最初の6カ月生きられたあとの喜びは忘れられません。

つまり「もし治ったら」「治ったときには」という幻想の世界に住んでいたのでは、そうならなかったとき(その方の確率がたかいのに)の幻滅が大きすぎることを指摘しておきたいのです。この手紙があなたを落胆させないことを願っています。現実をしっかり踏まえてこそ人間は強くなるのですからね。カラ勇気はいずれ馬脚を露します。
ニーチェのことば、「私に死をもたらすものでない限り、何であれ私をより強くする結果となる」をあなたに贈りたい。夜も更けました。もしご希望でしたら、私の癌に関する著作をお貸しします。勿論人はそれぞれの人生観をもっているわけですから、あなたが私と違う考え方を持っていらっしゃることは大いにあり得ることですし、どのような理由であれお読みになりたくないかも知れませんのでご希望がなければ送りません。
あなたのよりよい人生のために、この手紙が小さな貢献が出来れば嬉しく思います。

                          千葉敦子※2

※ 1:1945年北京生まれ、京都大学卒業後69年日本興業銀行入行。2001年のこの本の発行時はみずほ信託銀行営業部執行役員。著書「がん6回 人生全快」朝日新聞社
※ 2:ジャーナリストで週刊朝日の連載「女ひとりニューヨークで闘う」乳がんで再々発して,化学治療を始めたという苦しい闘いの報告を著者はみて旧知の間柄であったので文通などが始まったその当初のものです。。

2007年10月20日土曜日

新聞の凋落(ドイツでの例)




東京経済大E101号古川順一郎先生(朝日新聞・外交国際グループ・エディター代理)
ドイツケルン放送に出向・テヘラン支局長・ベルリン支局長の講義(マスメディアについての連続講義で毎回先生が変わる無料公開講座)より


9月より外交部が外交国際部に変更したのは、新聞の存在基盤を危うくなっているのを
効率よく垣根を取り払って自由に取材させようという、例えばイラン特派員が外務省まで取材できる組織にしたのです。
 この古川さんが、朝日新聞に入社してときに、先輩より言われたのは、この朝日新聞でさえ20数年先には存在しているかどうかという可能性があるのに、よく志望して入社してきたなあという。今は自分も新入社員にそういう言葉を呈したい。
インターネットの普及やテレビ等の媒体の登場により、新聞を読まなくなっているし、特に夕刊はそうです。
 

今日のこの教室で○○の件について知った媒体は?70人中わずかに数名が手をあげ、そのうち公開講座であるため、聴講生の我等の年代を除くと、新聞で知った学生は2名だった。産経は夕刊廃止しているそうですし、朝日も夕刊はほとんど読まれていない。
このように新聞が読まれなくなったのは、何も日本だけでない。
 

ドイツでは新聞の宅配制度がないので、1960年代にテレビの登場により、存亡の危機に立たされた。日本は宅配制度があったので、根本的な改革はおざなりだった。そのツケが今来ている。
 ドイツの新聞は解説中心に紙面が構成されている。ドイツの記者はすぐで、現場には飛ばない。例えば火事があって、現場では火の気があるだけで、放火、火の不始末、などはすぐには原因がわからないので意味がないという考え方である。こういう場合はわかるが総選挙の時に大変な問題が起き上がった。


2000年の秋の総選挙のとき、与党であった社会民主党や緑の党の連立による首相シュレッダーのが予想されていた。選挙会場の出口調査でもその劣勢が伝えられていた。
ドイツの新聞は午後6:30分が締め切りである。選挙のときは多少締め切りをのばすものの、1時間くらいのものであって日本のように夜中までに延長することなく、帰宅してしまう。

ところが翌朝社会民主党が僅差9千票で勝利を勝ち取った。シュレーダーが勝利したのはブッシュのイラク戦争に反対である国民のほとんどの声に、密着した発言を土壇場で繰り返した。これがこの僅差の勝利に結びついた。それが午後6:30の前日まで位の調査からは予想もつかなかった。いざ蓋を開けてみると大波乱であった。

従来のクリントンの時代ならば 米国にNOとはとてもいえない状況であったが、アフガニスタンに軍隊を派遣したものの、成果は上がっていない、逆に派遣の効果が退歩に向かっている。これではイラクへの派遣も同様な結果に終わるという危惧を抱いている大多数の国民の声にこたえたからこの逆転劇につながっていたので、この午後6:30からの開票結果は微妙な線であることに段々に分かってきたが、新聞ではもう即時に対応しきれないことが決定的にあきらかになった。

2007年10月19日金曜日




広報の役割

写真はhttp://sozai-free.com/より東京経済大学の駒橋助教授の講義(武蔵村山市の公開無料講座)から以前尼崎の列車事故がありました。記者会見での対応の仕方が、プラットホームをオーバーランした距離の発表が①40m・②80m・③石ころもあったとか2転・3転しました。ますますイメージを悪くしました。東京電力もバスで原子炉の安全性の見学会をやりながら、事実は事故を隠している。どうもこの企業に変わる会社がない場合に、独占的企業は隠そうという傾向をもっている。折角広報が一般の理解を得ようと努力しても、会社の姿勢・経営理念が変わらない場合に起こりがちになる。99年の事故も今になって報道されていたようです。だれがこの古い事故を見つけるのでしょうか不思議といえば不思議です。
 業界も構造の変化、ビッグバンにより、金融も護送船団からはもう守られていません。運輸も宅配便の会社(利益よりも安全確実優先)が従来からの企業よりも業績をのばしています。流通業界もセブンイレブンがデパートを越えています。企業が優位性を保つためには、ヒト・カネ・モノ+情報です。
例えば広報の優れた場合の例としては、洗剤メーカーのライオンの話:6chの土曜日9時からのブロードキャスターで取り上げられた話題。この会社の研究・商品企画室に園田という女性がいました。何を企画したかというと、洗濯物を部屋内で干す方が84%、そうすると部屋内がすえた匂いが立ち込めるのを解消すべきニーズが見つかった。
①味噌・ごま②にんにくとカメ虫③コーヒーとねぎ④納豆と靴下が入ったビンを目隠しして中身を言い当てる。
取材のアナウサーはひとつも判別できなかった。しかし園田さんは全部言い当てた。匂いも計量する方法はあるが、人間がどう感じるかは人間の鼻の嗅覚しかない。あらゆる洗濯物を集め3ケ月残業しながら、洗濯ものの匂いの原因究明に一人頑張った。共通する匂いはヤギのチーズの匂いの感じに似ていた。この原因が特定されて、除去する酵素が入った洗剤も開発された。 この商品開発の過程が取材されて、マスメディアによって報道された。この放送の合間にライオンのコマーシャルが流されても、宣伝臭は感じられない。このような好感が持てる会社姿勢が視聴者の共感を呼んだ。当然売れ行きが良くなった。だいぶ売れ行きが伸びたが、この方法は冬だったのでそう長くはなかった。梅雨にキャンペーンをやったところ再度売れ行きの山が高くなった。
日本人は会社の姿勢で商品を判断する。米英の場合は会社の良し悪しではなく、製品自体の便利さなどで判断するという違いがある。会社の不祥経済事件・謝罪事件・隠蔽事件は91年を境に新聞も隠さず発表するようになった。この不祥事のときトップが記者会見しない会社は危機管理がなされていない。70年代の不祥事といえば警官・公務員の関連がほとんどだったのが、様変わりした。企業の評判の情報源は日本の発行部数の多い新聞(英国の経済専門のフィナンシャルタイムズは38万部→日経320万部、一般紙TheSUN300万部→読売だけで1020万部等の比率がたかい。
強壮ドリンクのCMは飲めば元気溌剌と言う具合であるが、これは誇張が許されているようだが(だれも本当とは思っていないから)、あるある大辞典の例はメディアのあたかも研究機関などの取材結果であった如くがデッチ上げのウソだったことは許されない(しかし被害届や制裁がない)。

2007年10月18日木曜日

犬の隠れた才能


犬の隠れた才能

写真はhttp://sozai-free.com/より
フリーソフトの「新聞つんどく」で検索してなんとなく出会った記事です。捨て犬から奇跡の転身-。山林で拾われ、あと数日で処分される運命だった1匹の犬が、飼い主の愛情と訓練士の厳しいしつけを通して「災害救助犬」として“生きる道”を見つけ出した。昨年7月には長野県で発生した土石流災害の現場に派遣されるまでに成長した。新たな使命を胸に今年も訓練に励んでいる。(星直樹) 新聞名を写すのを忘れてしまいました。平にご容赦ください。 
■処分まで数日 犬の名はジェニファー。ジャーマンシェパードのメスで、推定6歳。平成14年1月に神奈川県愛川町の山中で保護され、処分まで2、3日のところで、神奈川県藤沢市の歯科医、伊野千恵子さん(64)が引き取った。 飼い始めは苦労の連続だった。捨てられた恐怖感から、人に飛びかかったり、ちょっとした物音にもほえ、近隣から苦情の手紙が届いたりするほどの暴れん坊だった。
優しい表情を取り戻そうと、伊野さんは自らのしつけのほかに、ドッグスクールにも預けた。ここでジェニファーは、担当訓練士の松元律子さん(34)が「捨てられていた犬とは思えない」と驚くほどの成長をみせた。 
■隠れた才能 訓練中、松元さんはジェニファーの「足場の悪い場所を全然怖がらない」という隠れた才能を発見する。震災現場などで活動する災害救助犬に向いていると、伊野さんに勧めた。伊野さんは「危険な現場での活動は死と直面する」と一度は躊躇(ちゅうちょ)したが、「助けられた命で、今度は人の命を救う番かもしれない」と考え直した。 
■3席に入賞 16年11月、実力が試される国際救助犬の試験を受けて3席に入賞。昨年10月の同じ試験では、がれきが敷き詰められたアパート内から人を捜し出す難度の高いテストで唯一の合格犬となった。松元さんは「人を捜し出すことに喜びを感じている」と救助犬として高く評価する。 高い捜索能力と集中力が認められ、これまでに3年続けて神奈川県警の災害救助犬の嘱託を受け、今ではヘリコプターや電車を使った訓練や河川敷での野営訓練などに参加し、万が一に備えている。昨年7月の長野県岡谷市の土石流災害の際には松元さんと現場に駆けつけた。
 「喜々とした表情で訓練している姿を見ると、本当に救助犬にしてよかった」とわが子を見るような表情で伊野さんは話す。伊野さんのあふれる愛情を受けるジェニファーは、助けられたことにこたえるかのように、訓練に励んでいる。

2007年10月17日水曜日

百彩の旅:油井昌由樹



















写真はSQUALLより

夕日は海・山・田舎・都会どこでも古代の昔から何かを語ってくれます。

油井さんの「サンセットの旅人」より
  
目の高さに降りてきた夕陽をじっと見ていると、いつも不思議な気持ちになる。これまでの人生が長い一日であったような今はじまったばかりのような・・・・

夕風が立ち、やがて夕凪が訪れる。
今しがた目の前で太陽はその呼び名を夕陽に変え、地平線に降りるのを踏み止まってぐっと我慢をしている。オレンジ色の顔の下半分を紅くして、大地まで見た目でほんの10センチ辺りで耐えている。本当に動かない、気がするのだ。前からずっとみているような、よく知っている感じ、なのにいつも新しい。

オレンジと赤の境目だけがじくじくと揺らいでいる。そこから湧き出す紅い光子が地上のすべてを満たし、音を呑み込む。その紅い光子の密度に寄りかかり、身を委ね思うのだ。とにかくオレは今生きている。夕陽とオレの間を満たす、ますます赤みを帯びた光子の中を猛禽の鳥が過ぎる。気は付くと、オレンジ色から赤になった夕陽は更に下半分を真っ赤にして地平線に近づいている。こうなると沈下速度は速い。みるみるあっという間に地平に接してしまう・・・
そしてサンセット。
「サンセット」の瞬間、ほんとに一瞬、夕陽は地平線に留まるのだ。この時、万物は赤い光子が創る、永遠の長さの影を持つ。
オレの影も小石の影も、地平の東の果てまで延びて行く。オレたちの影は真っ直ぐに地平を横切り、大地を離れ、宇宙へ飛び出し、太陽系の外へと向かい、光の速さで瞬時の旅をする。それからきっとオレの影は、地球の11倍も大きな木星あたりに像を結ぶ。
地平線にセットした夕陽が沈みきるのに3分とかからない。確かな球体であるはずの夕陽は揺らぎ、つぶれながら没してゆく。すーっと沈み、強い輝きの点を残像に夕陽は消える。気分で言うなら数十秒の感覚で「あーぁ、お終い!!」である。しかし、夕陽のショーはここで終わらない。実のところ、ここまではほんの序章と言っていい。

全天空を使う、第2章が始まる。

夕陽が完全に隠れ、東の間を置いて眼球の絞りが緩んでくると、隠れた夕陽を要の位置に後光が現れ、濃いオレンジ色から始まるグラディーションの光の扇が、西の空いっぱいに広がるのだ。そしてその上空には扇の光を飾る、動かぬ煙のような紫光が表出する。
眼を凝らす。と、その紫光を貫き、後光の広がりが天空を指している。その束光を追い頭上を仰ぎ、更に目を凝らすと、後光は東の空にまで届いているではないか。しかも夕陽の後光は東の空で一点に収束しているのだ。そしてそこに、今度はピンクのグラディーションでできた小振りの扇であった。対日点を要した反対薄明弧である。西の空の夕陽が創る薄命が東空に映っているのだ。反対薄明の美しさは格別である。夕陽の西の空のブルーは、逆光のために白濁しているが、真順光の東の空は深いブルー、藍色なのだ。そこに、最も深く濃いブルーの空の真ん中に、ピンク色に輝く光の扇が広がっているのである。
その上、扇の上空にはマイナス等級の星が瞬いている。
なんと素敵なんだろう。反対薄明から目を離すことができずにいると、ピンクの扇の下から、いや、東側の地平線全体からずっと大きなブルー・グレイの弧が競りあがり、扇を消してゆく。なんとそれは地球の影だった。オレ動くことができずに、360度地平線に囲まれた大地の真ん中に立ち続けた。

2007年10月15日月曜日

印刷機の効果その2



昨日の続きになります。本など無い時には、物語を聞くときは吟遊詩人から耳で聞いた。吟遊詩人が広場でなんらかの文学作品を語っているときに、おしっこがしたいと思ってその場を離れる。そうすると、そのときに、ほかの人たちもみんないるわけですから、吟遊詩人は1人がおしっこに離れたからといって、その離れた人間に遠慮して話をやめることはないんですね。


そうすると、おしっこへ行って帰ってきた時、もう吟遊詩人は話の先の方へ行ってしまっているわけです。自分が不在だった部分はスポーンと抜けてしまって、そこを聞きたければ、またあらためて吟遊詩人が語りにやってくるまで待っていなくてはいけないという、そういう面倒くさいことが起こるわけです。


これは非常に単純化して言っているわけなんで、まあ、詩人も一箇所に長らく滞在した可能性も高いですから、翌日にはまた聴けたかもしれませんが。 


ともあれ、我々が耳だけで文学作品を聞いていたころというのは、具体的に自分の生活、時間の中で、それを黙ってじっと立ったり坐ったりして耳を傾ける以外に方法はないんですね。いまで言うと、お芝居と同じことです。何日もやっているお芝居というのもあるわけですけれども、それでも毎回そのお芝居を芝居小屋でやっている役者さんは、必ず微妙に違った演じ方をおそらくするわけですね。ですから、例えば初日に観たということと、それから最終日に観たこととは多分違っているわけです。そこが芝居のおもしろいところで、1回制ということなんですね。たった1回しかその行為は行われないというのが芝居の原則であって、そしてそれと同じように、昔の耳から聞く文学というのは、たとえ元になったテキストがあったにしても、吟遊詩人の肉体を通して語られる時、それは唯一無二の1回性だったんです。その場で聞いてしまわない限り、もうあとはない。


 ところが、本ができました。本に書かれてあることは、いま言ったように途中でやめて、そしてまた帰ってきてからそこから読み始めることができる。この効果は
何回でも読めるという楽しみが出来たことになります。単純ですが国内のどこへでも、外国でもあらゆる国へと伝達できる効果は絶大です。

東京経済大学:大岡教授の講義録より(ネット掲載がしてあります)

印刷機の効果その1



毎日ダイレクトメールや新聞などで印刷物は溢れかえるばかりです。印刷物は当たり前になった今、最初にテレビを見たときと同じ位の衝撃があったようです。以下講義録をのせます。

グーテンベルクの印刷機で「42行聖書」は最初は 200部刷られました。 200部刷るというのは、当時では大変なことであります。いまは1万部とか10万部とか平気でバンバン刷ってしまうのですけれども、簡単に200部刷れてしまうというのは画期的・革命的な出来事でした。


これによって、本が多く流通するようになり手に入れやすくなる、多くの人々が本というものにふれる機会というものを持つようになったんですね。 これが15世紀半ばの大革命です。これがなければ、実はいま私が書いている小説というのもそうですし、一般的に皆さんがお読みになっている本そのものというのが成立しなかった言っても過言ではない。いずれは多分成立したのでしょうけれども、さまざまな意味で、開発の速度というのは遅れただろうというふうに言えるだろうと思います。 


また、このグーテンベルクの刷った『聖書』というものが、社会的にそのあと非常に大きな影響を及ぼした典型例は宗教革命です。マルチン・ルターという人が宗教改革を起こしました。堕落したカトリックの教会に対して挑戦状をたたきつけるという形で、16世紀の初めに、ドイツの僧侶であったマルチン・ルターが宗教改革というものを行ったのですが、そのときにこの印刷術で印刷された『聖書』というのはすごく大きな役割を果たしました。 つまり、上層部の腐敗している人たちが『聖書』を独占していた時は、民衆は本当の意味で『聖書』に触れられなかった。『聖書』の内容がどんなものであるか、普通の人にはわからないわけですね。お坊さんが言うこと、教会の神父さんが言うことをそのまま信じているしかない。


ところが、自分でその本を手に取って内容を読むことができるとなると、話はちがってくる。識字率がそう高くないですから、ある程度知識のある人しか読めないのですけれども、でも、あまり身分が高くない人々が、自分でその『聖書』を手に取って読むことができるようになったということはものすごく大きなことでありまして、これによって人々は、聖書に書かれていることといわゆる神父さんたちが言っていることのあいだには、ずいぶん開きがあるということに気がついてしまうんですね。いわば、今日で言う情報公開というか情報開示がなされて、みんな真実に気がついてしまったというふうに考えてもいい事態でありまして、こういう意味で印刷術というのは、社会そのものに大きな影響を与えている。  


東京経済大学 大岡教授(芥川賞受賞)の講義録よりの抜粋

2007年10月7日日曜日

人生って!!







写真はhttp://sozai-free.com/より


毎日新聞のもう終了した「しあわせのトンボ」という一節です。

 ある女性が介護の施設で働き始めた。
 事情があった。夫が浮気して家を出た。後日、「離婚してくれ」と何度も電話がかかってきた。
 2人の間には小さい子が1人いる。夫は子どもの養育費も送ってこない。
 彼女にも意地があった。あんな勝手な夫の言うことなど、聞いてやるものか。そう言い聞かせて、黙々と働いた。
 施設での仕事は、介護士のお手伝いだった。おじいさんやおばあさんのおむつの取り換えも、彼女は率先して引き受けた。
 寝たきりのお年寄りを抱きかかえてベッドから車椅子へ、また車椅子からベッドへと移動させる仕事も、かなりの力がいった。
 生半可な気持ちではこなせない厳しい毎日だった。
 そんなある日、彼女は自分の中から夫へのこだわりがウソのように消えているのに気付いた。そしてその夜、帰宅するや夫から送られていた離婚届に判を押した。
 その時の心境について、彼女は親しい友人にこう話したという。
 「施設で毎日仕事をしているうちに、何か意地を張っている自分がバカらしくなってきたのよ」
 その話を聞いて、ぼくは彼女の心境の変化がなんとなくわかる気がした。
 おそらく彼女はおじいさんやおばあさんの世話をしながら、生きていくとはどういうことか、身をもって実感したのと一緒に、実のない夫に執着することの無意味さも実感できたのだろう。 彼女は友人にこう言って、小さく笑ったという。 「人生をやり直すわ。新しく」
 話は変わるが、先日ぼくは大病を患う友人のお母さんを見舞った。 病院から帰宅を許された折にお訪ねして、近所のコーヒー店にご一緒できた。
 小一時間、雑談を交わして、「お疲れでしょう。出ましょうか」と言うと、お母さんは窓の外で舞うケヤキの黄葉を眺めながら、ぽつりと言った。
 「人生って、ずっと途中ですよね」
 ぼくはその時、そうですね、といった顔でうなずいていたが、じつは今もその言葉の意味を考えている。
 いろいろあって自分と向き合っている人の口から出る「人生」という言葉には、年々敏感になるような気がする。
(専門編集委員)毎日新聞 2006年12月20日 東京夕刊   生という言葉=近藤勝重

人間はどういう動物か?




写真はhttp://sozai-free.com/ より

人間はどういう動物か
京都大学名誉教授 日高敏隆氏公演
動物行動学:(生物学の一部〕

<疑問に思いませんか>


象の鼻:何故長く、くるくる巻くことができる。鼻で池の水も吸い上げ、それうぃシャワーのように使える。重い材木も運べる。何故このようになる必要があったのか?
キリンの首:これだけ長くする必要はなぜ。脳まで血液を運ぶには強力な心臓が必要(血圧を高くしている。そうすると、足には血がうっ血するはずであるがそうはなっていない。
熊にはふさふさした毛があり、これを獣という又哺乳類である。

人   間:まず立っている(レッサーパンダはたまたま)。他にこのような動物がいるか?
     他の動物なら横ばい歩行で頭と脊髄は水平で目も前方を見るようになっているのに、人間は垂直、目は脊髄の直角 

     方向を見る。 獣で哺乳類であるのに、一見毛がない、(もだたないで、薄い短い毛の本数はゴリラ、チンパンジーより  

     多いそうです)。このような毛が無い哺乳類は、クジラかイルカであるが、それならば水棲であるが、古い年代でもその 

     ような形跡がない。
     強力な牙や爪がない。・つまり武器がない。脚も早くない。石位は投げることが出来た。
    猿は頭髪が長くはならないが、人間は長い髪になる。毛髪は頭と大事なところだけ2ケ所だけあるのは何故。
    動物ならば、メスのお尻の後を追うが、人間は乳房を追う、動物の雄(例:牛)は乳房には興味を示さない。人間の丸い 

    乳房は子供は吸いにくい、動物は細長く吸い付きやすい。
    人間は立っているのでお尻を見せられない。そこで乳房はお尻の擬態であるという考えも成り立つ。
   

人間は元来、森のなかに住んでいたようだ。この中にいれば果物に手を手軽に伸ばせばよいのに、草原に出た→太陽の光を浴びる暑さ、植物もトゲがあるものがほとんど、そうなると 動物を集団で捕獲する(一人の人間ではライオンにやられてしまう)のでどうも人間は集団を好む(講堂には300人の聴講生がいたが、チンパンジーやゴリラはこのように長時間ジットしていることはできない。)

動物は食料が不足すると争う。じっと我慢することはなく、争わない動物はいない。動物はわが子でも殺すことがあり、一対一の争いはあっても、人間のように国と国の命を懸けた闘争・戦争はない。

動物との関係:犬が主人になつき、散歩の催促は、動物は安心であることを第一とする。しかし主人が大声や棒をもって追いかけたら、犬でも恐怖を感じるだろう。虐待された犬はしばらく怯えがぬぐいきれない。
   


英国のギルバート・ライブという人の話:大森林があってその中に土着の人がのどかに暮らしていた。そこに蒸気機関車が乗り入れたとする。なんだろうと不安になるのが人間です。その機関車の中には馬が入っていたと推測する。
 しかし中には馬の姿はない。酋長は祈祷師の長老を呼んで、何か究明せよといった。その長老は姿の見えない幽霊だとのご託宣。皆はあっそうかということで納得した。このような納得・イマジネーションは人間の特有現象である。人間には想像力があるというけれど、これは想像力があったからではなく、ただの屁理屈であったという見方もできる。
   人間はそれぞれ考え方が違う。人間らしく生きる・これが動物の世界では、猫を例にとれば猫らしく生きると考える猫はいないが、人間にはいる。こうなってくると、理屈で説明できないことが出てくると、神とか宗教の世界になってくるが、人間はここで、ややっこしくなる。このようにどうしてというものの、そこが人間なのだそうです。

ダーウインの進化論も目標や目的があって動植物が発展したか?偶然の産物だという見方もあり、眼球の仕組みをみただけでも、このような精巧な機能は偶然でできたということにも、ならない。

蝉:7年は地面の下にいて、地上に出てきて2週間で死ぬ。何故地上に長年いないのか?
木の根に寄生して栄養分を吸収するにしても、まだ地下なので、水分が多く滋養分が薄いので成長に寄与するには7年の時間を必要とする。何故この地下にいるかは、他の生物との競合がないので、ここを選んでいるのではないか。
   又蝉によっては地下に13年・17年というのもあるが、これは13も17も素数といって自分の数字でしか割り切れない。例えば12だと、2、3,4,6,12と5個も割り切れる数があると、盛り上がりのある年をあわせてくる生物が現われる頻度がたかくなる。「草せみ」といってこれは草の根は浅いので栄養分の濃い部分を吸収することができるので、地下には1年と大変短い年数のものもいますということでした。

2007年10月6日土曜日

やきものの効用と歴史


みなさんはやきものはお好きですか。日本人は茶器にみられるように歪んだ方が好きなんだそうです。博物館でも中国の陶磁器になると、入場者が減り、日本の焼き物になると増えるという現象があるそうです。
生活に大事なものは次のようなものです。壷(大事なもの、蜜、お金、茶つぼ)・甕(みずがめ、酒つくり、味噌、醤油、藍染)・すり鉢
平安時代の末期から大量につくられた。甕により水汲みの頻度が減った。すり鉢は料理の誕生(つみれなど、備前のすり鉢は筋が減らないのでブランド品であった。当然偽物ができたが筋が磨耗した。)を促した。桃山時代になると茶の湯ブームが到来し、素朴・重厚が財をあかして珍奇や希少価値をめでようとした。 時代は現代になって水道の普及で甕の需要が減ったし、ビニール管ができて土管もところを譲った。こんどは自分でも陶芸をする。旅行先でも陶芸をやれますとか、リゾートマンションでも陶芸の部屋まで用意されています。
季節ですので、オギとススキの違いがわかりました。

神頼にもソロバン勘定







彼岸花が咲いています。赤のついでに中国の神社仏閣は赤色の賑わいです。中国では神様のランクによって線香の大きさも異なるそうです。最高位の天公には1本でも10本位の太さ、神明には3本、祖先には2本、レイ鬼には1本と言う具合です。



今度は中国の民俗宗教〔道教でもなく仏教でもなく〕:文化大革命で寺廟の約80%が破壊された。そこで破壊を免れているところは、香港や台湾や華人が渡ったアジアの地域に残されている。祖先はあの世では生活物資〔食料・衣料など全般〕が用意できないので現世に生きている人が助ける必要あり。




この供養次第で子孫を守る度合いも異なるという。あの世でもお金が必要で、偽札束を燃やすのもその表れであるそうです。祖先といえどもギブ&テイクの関係だそうです。頂点の神様は厳しそうなので、下のランクの神様の方が手心もいただけるということで、マリア様のような優しいところに寄ってゆくそうです。



人の屋敷が塀で囲むのは盗賊から守るのも勿論であるが、レイ鬼等から守る為です。しかし開けた門から入ってくるとき、門の内側の直前に衝立を置いておくと人間は迂回して家に入れるが、レイ鬼等は直進しか出来ないので、ぶつかって先に進めないそうです。祖先や神々の力を認めているものの現世の人の力も必要だというのが面白いではありませんか。こういうのも多少不心得かもしれませんが、中国人の現実的な生活習慣の元がこの辺にもありそうですし、すごく人間的ですね。


市民講座:中国通史門講座―前近代における宗教、政治体制国学院大学栃木短大教授松本隆晴教授より 

2007年10月5日金曜日

裁判員制度の正体

2009年から開始が予定されている裁判員制度は国民の司法への参加によって裁判に「健全な社会常識」を反映させることができる。建前の裏側に、ある種の危険性が隠されていると著者は警告している。昨年行われた新聞の世論調査では7割以上の人間が裁判員制度にはなりたくないと回答したという。そんな法律が何故成立してしまったのか?





西野氏によれば終戦直後にできたいまの裁判制度を戦後半世紀を経て根本的に見直そうという趣旨のもと、司法制度改革審議会にその発端がある。
審議委員13名のうち、法律専門家の数を敢えて半数以下の6名とし、ずぶの素人の委員を多くしたこの審議会で、最初から特に重要とされいたテーマが陪審員制度の導入だった。





陪審員導入論者と、反対論者が激論し、「陪審制への思い入れが強すぎる委員が審議中に興奮のあまり、反対論者が口汚い罵声を浴びせるといった事態にまで発展した審議会は、結局両者を調整しきれず、妥協の産物として参審議制度(市民参加型司法だが、陪審員制度とはかなり異なっている。)に極めて近い裁判員制度というものを提案した。言い換えれば委員達にとっても不満足な法律が、妥協の産物として出現したと著者は書く。しかも「審議会では裁判員制度を採用すると、刑事裁判のどこに、なぜ、どのようになるのか、という議論」は全くされておらず、それは現行制度の手直しで対応できないものなのかという検討もされなまま、一足飛びに新制度への移行が決めれたのだ。まことに軽はずみな審議過程としか言いようがない。





さらにこの最終意見を受けて政府が作った法案はわずか3ケ月で可決、正式に公布されたという。その結果「手抜き審理が横行」し「真相の追求がはかられなくなる恐れがある」上に被告人にも、犯罪被害者にも辛く苦しい思いをさせ」裁判員制度に動員される国民の負担があまりにも大きい」という制度が生まれたという。そんな裁判員制度に選ばれて貧乏くじを引きたくない人のために逃れ方を詳しく指南してくれるのがこの本の読みどころだという。



裁判員制度の正体:西野喜一著:講談社現代新書:朝日新聞書評欄:大岡 玲評から

2007年10月4日木曜日

ねじれた絆


産院でうまれた赤ちゃんが間違いによって別々の親に育てらた事件。

1年(昭和46年)に沖縄市の産婦人科病院で起きた。
城間照光、夏子夫婦の子・美津子。
伊佐重夫・智子夫婦の子・初子(のち真知子)
いずれも仮名。

出産後間もなく、看護師のミスで取り違えが生じ、両方の親とも6年間、そのことに気付かないまま育て続けた。そして小学校入学前に血液型の検査から、わが子と思っていた育ててきた子供が、実はよその子であることがわかった。両方の親とも,かわいがって育てた子の愛情が濃く、また子供の気持ちへの配慮もあって、家族同士の交流を重ねたうえで子供を交換した。


城間照光と夏子の生き方と2人を取り巻く一族の関係は複雑だ。夏子は20代で4人の子を生みながら、子育てを放棄して遊び歩き、浪費し、酒に溺れている。
照光は夏子の姉と関係を持ちながら、子まで作ってしまう。


取り違えによって伊佐家で育てられた照光・夏子の長女である美津子は城間家にもどってからも、実の親である照光にも愛情も愛着も抱かないで、“育ての親”の伊佐家に入り浸り、智子を「お母さん」と呼び続ける。人はそれぞれにのっぴきならない人生を生きてしまっているという視点で著者は書いているという。これは柳田邦男氏の推薦していることばです)当然のことながら美津子と真知子が身に降りかかった不運をどのように乗り越えていったかであるが。その詳細や機微は本書に譲る)


本来の伊佐家に引き取られ小学校に入学した真知子は、先生に呼ばれてもポカンとしている。いつも孤独感を漂わせていて、「一度病院に連れていって診てもらったほうがよい。と担任の先生が言うほどであった。泣くのもワーワーではなく、シクシクで父親の重夫にも恐怖感を抱き、髪の毛一本触らせない。智子もどう対応すべきか途方にくれたという。


美津子の方は見かけは城間家に順応しているようだったが、伊佐家にやってくると、「ただいま!お母さん、帰ったよ」といい時間が来ても、「(城間家)帰りたくない。帰りたくない。」と戸にしがみつく。真知子と全く同じに扱われることを要求する、中学生になると、真知子に対抗心を燃やし、何事おにつけても、負けん気を起こした。こういうことが子供からの目からすれば深いトラウマを刻んでいるし、親からみても暗たんたる思いである。
この本を推薦している柳田氏もよんでいてハラハラしたのだから。


子供らが高校を卒業し、職を見つけて前向きに社会にでてゆくことになった。美津子も中学時代に真知子に向けた対抗心を笑い話にするほどになったばかりか、結婚した真知子の子供にあれこれと差し入れをして世話をするなど、心の底からの仲良しになっている。



まるごと2人を抱擁し、体当たりで愛情を注いだ智子の無償の愛によるものではなかろうかと結ばれている。奥野氏が週刊誌の取材だから通常1月間であるが25年間(あとがきで。得たものが想像以上といってるそうです)も続けたことに柳田氏が感嘆もし、結末に安堵の気持ちを抱いたのではないだろうか。
実は小生もこの本はこれから読むのです。一日も早く紹介したかったから。


「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の17年」文春文庫奥野修司著を推薦している『柳田邦男著人生の答えの出し方』から
写真は砂漠で出来る花

2007年10月3日水曜日

教育交流と衝突の和解 




教育交流と衝突の和解  南京大学総長 洪 銀興

人類の歴史とは事実上、戦争と平和の歴史であると言えます。20世紀の戦争により失われた命は、それまで行われた戦争で亡くなった命すべての合計値にも及びます。アインシュタインは「もし人類が存続を願うなら、斬新な思考が必要である。人類は根本的に他人に対する態度、と未来に対する観点を変えなければならない。武力を政治の手段とすることをやめなければならない。

東洋の伝統思想の文化には豊富な平和思想が存在しています。中国の儒教に“中庸の道”という思想があります。そして中庸をとおして“仁”と“礼”を調和統一しました。
道教の創始者である老子は軍事力は人類が守るべき“道”と“方法”に値しないと強調し、水と風の平和の形象を賞賛しています。水と風は両方とも柔軟でなめらかであるが、最後には石や鉄のような硬い物質にも勝ると考えています。これらの思想は“和而不同”に総括できるでしょう。

平和とはすべての形式の暴力の減少である。加害国は自分の犯した歴史的な過ちをみとめ、被害国は自らが負った被害の歴史に憎しみを深めるのではなく、平和を求めることが大事です。加害国が反省することが出来ず、被害国の国民に歴史的災難に合わせたことを認めずにさらにその戦犯の亡霊を参拝するとすれば、被害国の国民の民族感情を傷つけることにしか考えられないません。民族間の隔たりも深まることでしょう。ドイツのシーメンス会社の南京にあった代表のラーベさんは日本が南京を占領する前に南京難民区国際委員会長になり、世界平和を呼び掛けた。全力で中国の25万人の国民を守り、救済しました。その後ラーベ日記が日本で出版されました。南京大学にはラーベと国際難民区記念館を創立しました

1991年8月6日に交付された広島平和宣言には戦争がないことだけでなく、飢餓、暴力、人権への脅威、難民問題、地球環境汚染など平和に対する脅威をなくすことを意味し、またこうした社会環境を作ることは人々が社会で裕福な生活を意味し堂々と生きることが出来るようになることを意味しています。地球村となり人類同士の関係は密接になっています。

南京大学はジョーンズポープキンス大学と協力して、毎年50名の中国人学生と50名の外国人学生を中米両国の政治、社会、経済、法律、歴史、文化、また国際問題を研究課題とする学生を募集している。学生、教師は授業中に限らず、放課後にわたっても親密な交流をしています。

20数年来1000名を数えることになったそうです。そろそろその辺から芽がでてくるのではないでしょうか。

2007年10月2日火曜日

町おこし




町おこし:東伊豆の稲取温泉観光協会事務局長
渡邉法子さんは、以前話題になった観光協会の事務局の応募に1281人があり、その中からNPOで地域活性化に取り組んできた女性がえらばれた人です。以前はNPO法人全国まちづくりのサポートセンターの事務局長であった。
この人と成田重行(東北福祉大学特任教授)との対談の抜粋です。



w:わたしは池袋在住なのですが、地元のカルチャーの街づくりの講座を修了したメンバーが中心になったNPOがほぼ出来上がっていた段階からかかわるようになりました。たまたま登記や経理などの事務的な事が出来たので事務局にはいりました。地域の歴史・特性・資源・人などを生かした街つくりをやってきた先生方とお会いし、教えていただいた。それでいろいろ街作りにかかえわるようになった。NPOは会費で運営するので、事務局の経費もなかなか捻出できない状況のなかで智恵と汗で何とか生き抜いてきた。


w:大学時代はロックバンドをやっていました。

n:約20年前、オムロン㈱勤務の時、創設者の立石さんに「オムロンは科学技術を中心に仕事をしたが、これでは偏った会社になる。もっと人間の問題を研究する部門を作ろう」ということで田舎の疲弊で大変だから地域に元気を作る方法論を考え実践した。

w:女性のパワーが大きいのは田舎に行けば、いくほど男性社会なんですが、奥さんが陰で段取りしているので、地域のサークルに行って表にでる仕掛けを考えるのです。実際女性が中心になっているところはしごく元気になる。

n:村おこしは生活おこしなのです。道路や鉄橋をつくるのは男の仕事かもしれないが、観光客はどんな食べ物があるといったような村の生活、過ごし方を見に来るわけです。村の威張ったおじさんが仕切っていたのでは生活のシーンがみられないので、結局もてなしの部分ができないんです。
町おこしは自分自身が誰よりもこの町が好きなんだというようにならないと駄目。


古代ロマン街道:丹後は京都府の中でも1番京都に遠い。
過疎の地域です。西陣から丹後ちりめんを買いにくるときは潤っていた。知れがだんだん駄目になって若い人も外に出て行ってしまう。商工会を中心にして資源調査うぃしたら丹後半島には古代、大和朝廷ができる前から丹後王国画ありたくさんの遺跡や古墳がある。また浦島太郎、徐福の渡来した跡があり、中国の道教思想がからんでいる。それをロマン街道として、ビジョンは大きく、行動は現実にできることから少しづつということです。


稲取の新石器時代から縄文・弥生・を経由して大陸や朝鮮半島との歴史がすごく深いところなのです。大陸とつながりのある神社などもあり、そのような集客もビジョン化しながら一つ一つ手を打っていきたい。
観光は「光を観る」ので光を見せ素材が沢山あるが、地元の人たちは見せる方法がよく分かっていないので「いにしえ」をもう一回現代につなげて、わかりやすく見せることが大事だそうです。
写真稲取の「つるし雛」だそうです。

「東京経済」NO316号から:19年5月号の同窓会誌を受講の際に入手。

2007年10月1日月曜日

出版市場の変化








日本の出版市場は大きく変化しており、現在も変化の過程にある。90年代半ば出版物売上高がピークに達し、97年、98年にからは長期的に売上高がマイナス成長になり、現在も下降低迷している。不況に強い出版業という円本※時代につくられた神話は完全に終焉した。



(※大正15年、改造社の『現代日本文学全集』の刊行をきっかけに、一冊一円の廉価版の文学全集を予約出版する「円本」ブームが起こった。これにより、大部数を廉価で出版・流通する)



かつて明治以後の出版業の歴史を回顧すると、2つの大事件、危機的状況があった。
最初は関東大震災によるもので、1922年の13081点がこの年は10946点の出版点数にとどまった。しかし翌年には14361点に急速に復興している。
次に大空襲による。米軍のB29による爆撃であった。敗戦後1947年印刷用紙が乏しいなか新刊公・重版1万4664点、雑誌7249点も発行された。1953年には出版点数は2万点を超えた。それからは右肩上がりの成長をみせている。
かつての2度の大事件・危機的状況は天変地異、戦争という外部要因によるものであった。また別の市場の変化は大店法規制緩和・撤廃、デジタル情報革命、新しいメディアの登場、消費社会の進行、新チャンネルの誕生、書店の大型化、超大型化、売り場面積増加、出版点数大幅増加、という一般的にはプラス要因とみなされる事態が起きている。



●書籍の販売部数が長期的に減少(88年がピーク、05年は75年の水準)



●週刊誌の販売部数:05年は大幅減少ピーク時93年の59%。約30年前の75年の水準。



●月刊誌は8年連続減少など出版物売上高・販売部数の長期的減少・低迷、書籍・月刊誌・週刊誌の大量返品の発生、高返品率のピークが98年の43.2%、書店大量閉鎖、書店業再編成、大手取次店の減収減益と一時的赤字転落という現象は日本の戦後の出版産業にとって初めての経験である。



●日本の書店数が大幅に減少している。1986年に12935店あったものが06年で6683店と半減している。



●日本図書コード(ISBN)によって書店のPOS売上データー・返品データー、取次の送品・在庫データー、出版社の出荷・在庫データーの一元化することで書店の品ぞろえ、取次の商品供給、出版社の需要予測などを的確におこうことを目指している。電子取引としてのオンライン書店の登場も日本図書コード(ISBNは本の裏に戸籍番号に類似したもの)の導入抜きでは考えられなかった。



●CD-ROM出版:辞書類の便利さは皆さんが承知の通り。



●電子書籍:電子書籍は取次・書店を介さないで直接ユーザーと取引出来る。刊行点数約6万点、毎月の新刊タイトル約1300点と推定。書籍販売の1%で9197億円将来の成長が期待される。



●アマゾンやgoogleでは書籍の書誌情報だけでなく、本文の全文検索を出来るサービスを開始している。
アマゾンは「なか見!検索」、googleでは「ブック検索」検索語をいれるとダウンロードはできないが、その単語を含んだページ画像を試行段階のようだが、みることができるという。このようなサービスは従来の出版社や図書館の役割を根底から揺さぶる可能性がある。



日本の出版市場の変化:杏林大学 木下修と日本の出版流通におけるデジタル化とコンテンツ流通の展望  京都学園大学 湯浅俊彦より抜粋