武士の倫理 徳川の平和を支えたもう一つの柱は、社会の倫理原則に儒教が推奨されたことです。儒教の伝来は5世紀前半に百済の王仁博士が漢字(千文字)と論語十巻を持って渡来した時と言われますから、仏教伝来より約百年(?)早いものです。しかし個人救済の宗教ではありませんから、仏教のように広がることも無く、公家、僧などの中に伝わってきたものです。それが戦国時代となると、従来にない新しいリーダーである武将達は、競って孟子や大学・中庸などを読み学びました。
彼等、戦国の武将達は部下の侍達、また広く領民全体の強い信頼を得ることが何より必要であり、いわば全人格的リーダーであることが必要でしたから、儒教の学問、儒学は必須の教科書となって来たものです。 家康公も深く儒学を学んでいます。彼は今川家の人質として駿府(静岡)で育ちますが、同地の名刹「臨済寺」の雪斉師より教育をうけ、終生旗印として「厭離穢土欣求浄土」を掲げて戦ったことでも解かるように、深く仏教に帰依していたと思われます。晩年の手紙には「平和になって自分は暇になってしまったから、1日六万回念仏を唱えている」と書いています。
しかし幕府設立時に藤原惺窩を呼んで儒教の進講を受け、国家を運営する倫理としての儒学の大切さを認識して、惺窩の弟子である俊英、林羅山を顧問として起用したところから幕府と儒学の深い関係が始まります。四代家綱の後見人であった保科正之、五代の綱吉、と儒学に深く傾倒した人物が登場したことにより、儒学は幕府の公式な学問になりました。
日本中の大名もこれに倣いましたから、江戸期を通じ武士の学問は儒学となりました。儒学の教育は知識の教育であるよりも、社会の指導者である武士階級の人格と品性の教育でした。
江戸初期の軍学者で儒者である山鹿素行は、「農は耕し、工は造り、商は交易に従事して夫々額に汗して働く」のに対し、武士は「不耕、不造、不沽の士」であるから、その職分に自覚が無ければ「遊民、賊民」であるとして、武士の職分は、「主人を得て奉公の忠を尽くし、朋友と交わりて信を厚く、身を慎んで義を専らにするに有り。農工商はその職業に暇あらざるを以って、常住相従って其の道を尽くし得ず。士は農工商の業を差し置いてこの道を専ら勤め、三民の間苟も人倫をみだらん輩を速やかに罰して天下に天倫の正しきを待つ。これ士に文武の徳知、備わらずばあるべからず」と書き、この士道論は広く武士に影響を与えました。
こう言うものを読みますと、青木英夫氏の「西洋くらしの文化史」にあった17世紀フランス貴族の日記の一節と比較したくなります。そのラ・ブリュイエールと言う貴族は「これらの動物は、牡も牝も田畑に散らばり、青黒く日に焼けている。夜になると彼等は巣に帰る。そこで彼等は黒パンと水と草木の根とで生きている。」と書いています。これらの動物というのは無論農民達のことです。フランス革命が起こるわけです。 江戸時代は265年にわたる長い時代ですから、一口に「江戸時代とは」と定義付けるのは難しいことです。戦国の余韻が残る江戸初期と、江戸文明爛熟の文化・文政期とはまるで別の世界のようです。この長い時のなか、武家階級は貧困化し、農工商の経済力は飛躍的に増加しました。しかし武士の倫理は基本的に最後まで変わらぬものが有りましたから、社会としては大変に洗練された経済社会の上に、この武士の倫理が上級規範としてあった訳で、江戸時代を考えるときには、この絶妙な「経済と倫理のバランス」を理解する必要があると思っています。
ブログ「学際」から(このブログも中断しているようですが、記録は残っているようですが・・・
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