2009年2月28日土曜日

もう一人立ちを!!


おはようございます。昨日は雪でしたが、積もるまでには至りませんでした。しかしもうもう春近い兆候だそうですね。

この国のけじめ:藤原正彦著(新田次郎と藤原てい夫妻の二男、お茶ノ水女子大教授)より2006年発行より

GHQの一大目標は日本を「二度と立ち上がってアメリカに歯向かうことのない国」にすることだった。彼らは暴力的に日本人の価値体系を壊し彼らのものを押しつけるのではなく、周到な洗脳作戦を展開させたのである。
 教科書の不都合箇所にスミを塗り、歴史授業を中止させ、自ら用意した『太平洋戦史』なる宣伝文書を新聞各紙に連載させ、その内容を「真相はこうだ」としてNHKで10週間に渡って放送させた。ここでは大東亜戦争を日本の一方的侵略と決め付け、悪いのは軍部や軍国主義者である、国民は彼らに騙されただけである。2発の原爆投下や東京大空襲で合計数十万人の市民を殺戮する、という戦慄すべき蛮行も、アメリカでなく、軍部や軍国主義者のせいである。と同時にアメリカにおける日本人資産の凍結などにより、選択肢を失った日本が、国民一丸となって戦った戦争であったのに、国民を軍部に騙され踊らされた被害者に仕立てあげた。国民に「本当に悪いのはあなたではない」とささやきつつ、「騙されて馬鹿なことをしてしまった」と罪悪感がわいてくるように仕向けたのである。「戦争を憎んで、敵を憎むな」や広島にある「この過ちは二度と繰り返しません」はその影響であろう。「国家意識は戦争につながる」とか「国を愛する心は危険思想」などという、世界の」どこにも見られない妄論が支配的になる。最近の調査では「日本が侵略されたときに戦うか」という質問に答えた大学生のうち当然と答えた者はたったの数パーセントで、あとは「海外に逃げる」とか「すぐ降参する」であったという。戦後60年近くたつのに、いまでも洗脳効果を払拭できないでいるどころかさらに深く浸透させつつあるようなのである。国家意識が欠けた場合、危機意識が低下するのは当然である。
アメリカが変貌したのである。外交軍事では盟友であるアメリカが、経済では敵国に回ったのである。90年代から今日にかけて、ビックバン、市場原理、グローバルスタンダード、小さな政府、規制緩和、構造改革、リストラ、ペイオフ、新会計基準、不良債権処理など矢継ぎ早に登場し、日本を席巻した。経済においてアメリカが庇護者が敵に変わったことに気づかなかった、お人よし日本の悲劇だった。

2009年2月27日金曜日

藤原正彦は数学者


おはようございます。昨日は「きらっとシニア瓦版」のための取材でした。老人何でも相談所である地域包括センターに行ってきました。仕事ぶりを聞くと、「電球を取り換えるにはどうしたらよいか」などの相談もあるそうです。介護保険で何でもできる訳ではないので、対応に苦労するようですが、結構きめ細かく相談にのってくれているようで、大変だなと思いました。
やはり業務の民間委託のほうが妥当だと思いました。東京老人センターというところが、委託を受け、特別養護に個室を日本で最初に導入したところだそうです。西東京市に限らず、隣接の市にある事業所も介護業務を提供しているところもあるそうです。何時介護保険を受けるようにもなってもよいように、ときどき顔を出したり、質問したり連絡を取っておくとよいということでした。ケアマネージャーは一人39人(要介護35人、要支援8人)を面倒みているそうです。

秩父の小学校で6年生を相手に算数の授業を依頼された。初めてのことで自信がなく迷ったが、好奇心から引き受けた。何を話すかでまた迷った。
 当日ぎこちなさを感じながら教室に入ると、驚くほど小さな生徒たちが張りつめたまなざしで一斉に私を見つめた。私語を交わすものも、微笑するものもいない。緊張と緊張の対面である。まずリラックスと、用意してきた問題として、教室の隅にあった新聞紙を実際に折って見せた。8回折ると厚さは2cm以上になった。ついで2を10回かけると1024になることを黒板でたしかめた。「10回折ると約千倍の厚さになるということですね。それでは20回折ると何倍の厚さになりますか」と尋ねたら、一斉に「2000倍」(正解は1048576)と可愛い声で答えてくれたので、やっと緊張がほぐれた。大学生ではこうはいかない。何を問うても押し黙っている。ここで26回折っただけで富士山を越し、42回折るとはるか月まで行ってしまうことを計算してみせた。「家で実際に折ってみてはだめですよ。天井も屋根も突き抜けちゃうからね」といったら、参観の先生方は笑い、生徒たちは神妙にうなずいた。この国のけじめ:藤原正彦著(新田次郎と藤原てい夫妻の二男,お茶ノ水女子大教授)

内館牧子の怖さについて教えてくれている。
例えば結婚以来20数年、私に会った女房の友達のほとんどが「優しそうな人ね」と後日女房に伝えた。私は「そうか、やっぱり隠しきれなかったんだ、ボク」などと喜んでいた。ところが内館さんの『女は三角 男は四角』という数学的な本にこうかいてある。「女たちにとって取って置きの言葉がある。この言葉は脚が短かろうが、頭が悪そうであろうが、ファッションセンスがメチャクチャであろうが、全く問題ない。どんな男にもピタリとはまるほめ言葉があるのだ。『優しそうな人ね』これである」さらに追い打ちをかけてこう書く。「もしも、これを読んでいる男性読者が、妻か恋人から『友達があなたのこと、優しそうな人ねといってたわ』と伝えられたら、それは『ほめようのない男』ということに等しい」ウルサーイッ。

2009年2月26日木曜日

市場原理


おはようございます。80年に一回はこういう経済破綻を起こすサイクルがあるといわれているようですが、アメリカ流儀の市場原理は日本だけでなく、世界中を席巻しているようですね。

この国のけじめ:藤原正彦著(新田次郎と藤原てい夫妻の二男)より2006年発行


バブル崩壊以来、市場原理が恐ろしい勢いで日本を席巻している。市場原理さえ浸透すれば経済は回復するとの神話が国を覆っている。催眠にかかったごとく、規制緩和、ビッグバンなどはいうまでもなく、「官から民へ」「小さな政府」「中央から地方へ」なども中央の規制を除き、市場原理を保障するためである。
株主中心主義や株主交換による企業買収の解禁などは、会社は従業員のものではなく、市場のもの、ということである。大騒ぎとなった郵政改革などは、市場原理に参加しないものは存在を許さない、ということである。市場原理と自由競争は一体だから、その結果、我が国は激しい競争社会に突入した。勝つか負けるかは2つの内一つだから、確率は半々と錯覚しやすいが、実際はそうではない。一人の勝者に9人の敗者というのが普通である。その最先進国アメリカをみれば上位1%の人が国富の半分近くを占有する状況になっている。自由競争では勝者が10人に1人というだけではない。能力の低いもの、差別されている者、運の悪いものなどは、負けるのではなく、負け続ける。必然的に貧困層を形成することになる。ニューオリンズを襲ったハリケーンの被害者のほとんどは貧困層、大多数は黒人だったことは記憶に新しい。彼らは退去命令を知っても、乗って逃げる車もなければ、長距離バスの切符さえも買えなかった。そもそも裕福な白人はあんな低地にはすまない。乳幼児死亡率を比べれば、アメリカは貧困なキューバより高い。一般労働者の平均年収は300万円で、企業経営者はそれの431倍の13億円。1983年には42倍に過ぎなかった。OECDによると、アメリカはメキシコについで2番目に格差の大きい国となっている。ちなみに日本は一億総中流は過去のものとなり、5番目にまで上がっている。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-07-21/2006072101_04_0.html、ともう2番目になっている)

2009年2月25日水曜日

皆頑張っている


おはようございます。友人の家が火事になって、ほんのホテル住まいをやめて、自分の空家のアパートの家作に落ち着いたとのことであるが、OB会で励ましの会に誘うとしたら、
もう2週間は後始末の雑用があるとのことです。そのあとにしようということになった。

結婚帝国、女の分岐かれ道:信田さよ子と上野千鶴子:講談社より

今の2.3歳児の子供をもっている親たちは10年先を見越している。自分が再就職するときに、子供が生活面で自立していないと、自分達の足を引っ張る、だからどんどん生活習慣を身につけて、早期に自立を促し、手のかからない子供にすることに享楽し「40歳になったら一旗あげよう」と考えているわけです。それがどんどん短縮して、出産後3年で再就職の時期を考えている。生活自立を子供に強いるメソッドって、保育園や幼稚園のメソッド、そのままで家庭に逆流している感じだそうです。学校的価値が家庭に浸透して、親が親としてでなく、教育者としての眼で子供を相対評価する。もうそうなったら家庭にこどもの居場所はありませよ。子供にとって家庭も学校も同じ「職場」になっちゃうかも。

総合職の娘は「女の顔をした息子」
母親は常識的に染め上げられて結婚しているのに、独身で働いている娘に対して、結婚についてはほとんど何も言わない親が結構いることですね。自分達が元気なうちは、娘のパンツなど全部あらって、朝ごはん作って、このまま亭主みたいに働かせるつもろなのかなあって。女が総合職になる条件はブランド大学をでることだし、母が娘の主婦して「めし、フロ、寝る」で総合職をやっているわけですよ。母の方でもそれが生きがいになるから娘に手放したくない、このまま仕事を続けていいのでしょうかというカウンセリングの娘からの相談が多いと

2009年2月24日火曜日

江戸時代の商人


おはようございます。介護講習は昨日3日目でおわりました。昨年は6日間だったそうですが、介護している人はそんなに長く講習をうけられないということで短縮されたそうです。
しかし、出席者13名中介護している人はわずか1名でした。

江戸豪商100話、江戸店持ち京商人の多角経営:柏原三右衛門、萩原裕雄著より
初代柏原家は熊本の加藤家の家臣だったが寛永期(1624から449)に京都に出て、京呉服や小間物類を扱う店舗を設けた。天和・貞享期(1681から88)に江戸進出したもくろみは、江戸の大消費人口を相手にした木綿を中心とする幅広い消費物資の販売にあった。上級武士や富裕な町人層などの客層獲得を老舗と争うよりも、膨張しつつあった一般消費者層をターゲットにした。「欲しい品物を取り揃えてやることが、客への真心じゃ」、そのころの「一業専心」の経営原則を捨て、思いきって多角経営、多店舗経営による「薄く広く」をモットーに、今の多種類の安価の商品を扱うというスーパーマーケット的な発想だった。
柏原家の本拠は京都で、江戸では木綿問屋・呉服問屋・小間物問屋を営んだほか、別名義の名前で塗物問屋、紙問屋も経営していた。
江戸と京都の飛脚便は並便(約25日)、幸便(10日)、仕立て(4日)のうちの仕立てを料金はたかいがこれを使うことを義務つけた。
豪商間の絆をふかめるため、三井、松坂屋と婚姻関係を結んだ。
江戸末期に他の豪商と同じく度重なる御用金の徴収、貸し倒れなどによって経営状態が悪化したが木綿がだめなら染物店や紙店でしのぐという多角経営で幕末を無事乗り切った。
柏原洋紙店として現在も東京と大阪で健在である。

2009年2月23日月曜日

仏像を彫る


おはようございます。今回の窯だしは、陶芸作業がだんだん初心を忘れたようで、一歩後退の感じです。心せねばなりません。
東京雑学大学はほとんど毎週、講師を呼んできて年間50回も、これで667回目を迎えています。

今回は仏像を彫る:小金井在住の仏像彫刻家:増田章夫氏:早稲田出身のお話です。

彫る段取り
1下図を描く
2木取り
3粗彫り
4小作(造)り=いわゆる仕上げ:師匠が最終的にやる作業ではなく、台座の蓮の花びらなどはある程度の力量になったら、仏像の何かを知るように仕向ける作業

砥ぎがうまくなると、彫りもうまくなる。砥ぎを失敗しないと上達しない。砥いで切れなくなる角度もある。砥石もつかってゆくと、粘りが出てくる。砥ぎは必要な作業(浅く・深く・鋭く・鈍くなど)に合わせて刃先を調整する。
天然の砥石は浅草の仁丹の塔があったところの砥石屋さんはいい山を持っていた。通常は4から5万円、砥石を研ぐ砥石も必要。初心者は5000円程度。砥石もピンキリで一軒の家が買える位のもある。
砥石のいい山をもっていると、裕福に暮らせる。
木取りは芯から割れやすいので芯を中心に割るようにノコをいれる。
板目を表にする場合とそうでないときがあり使い分けする。
薬師寺のものは寄せ木ではなく、1本の木で作った。
彫りの失敗はノコギリの粉を練り込んで、その部分を彫る。欠けた部分の修復も同様です。
楠は安いが、運賃がたかくつく。水分を抜くのに10年位はかかる。木がねじれる。
家具類にはつかわない。
杉は反り返る。
入魂はお坊さんがやる、修理のときは魂抜きをやり仏師に渡し、戻ってきたときは又入魂式をやる。
仏像は約束事を外さないで彫るので、工芸品の芸術家とは違う。彫ることは力仕事なのでまたがったりすることもあるので、法悦に浸るということではなく、無心になることはあるそうです。

練習に彫る木はヒメコマツがよい。お菓子の型にも利用する材木です。
木目が見えるのは硬い。表面がモヤしたような木が彫刻にはよい。檜は30cm角で200万円もする。
仏像の目をいれる・これをきるというが生命力を与えるこれは最後の作業。

2009年2月22日日曜日

30歳代はおんなの分かれ道?:


おはようございます。昨日は介護講習でした。保谷苑という包括支援センターも併設されているところでした。
皿も底が斜めになっていて、深い側の淵が垂直に近いので、スプーンに載せやすいとか、お茶も液体だと誤飲があって一部肺に入ってむせることがあるが、
ゼリー状や、くず湯状にすると美味しく、無理なくいただけると思いました。相当に工夫されているのに、感心しました。

結婚帝国、女の分岐かれ道:信田さよ子と上野千鶴子:講談社
30歳代はおんなの分かれ道?:
30歳代では意識の上では、親の価値観・「身持ちを良くせよ」をすりこまれていながら、自分の性行動となると変わってしまっているので、意識と行動では「股裂き状態」となっている。
20代、10代になると、これはなくなる。20代の若い娘たちと、40歳代以上の母親の世代は異文化といっていいほどセクシュアリティについて断絶があるという。

30歳代は前半で女の3分の2、男の2分の1が結婚している。
結婚とセックスの分離の性革命については、30歳代の「かまわない」と「どちらかといえばかまわない」の合計が急増し、80%を超えていて、40歳代の約2倍だそうです。それでも婚前のセックスに寛容な30歳代以下は婚外のセックスには非寛容。

30代の結婚は、現在平均初婚年齢は27歳。30歳になったときの女性のシングル率は
25%位なのですが、首都圏では30歳代半ばをキープしています。
40歳代になると、これが10%以下に落ちます。また30歳代では離婚率が高まっているので、シングルアゲインも増えています。離婚件数が最も高いのは結婚後1年以内、離婚率が結婚後3年でいったん減少しますが、また第二のピークがきます。30歳代の離婚の一つの特徴は子供が低年齢であることが離婚を取りやめることはなくなった。
パラサイトシングル(成人になっても親と同居生活費や家事を親に依存の寄生生活。また親も不況とリストラが深刻化する前に退職金も満額回答で養える余力あり)

ポスト均等法世代になると、初めて結婚する自由としない自由の選択の自由を持った。
周囲が結婚しているばかりなら比較することはなかったが、35歳位になると、就労継続した女と子持ちである女との間、自由な時間と貨幣資源に差がついていることに気づく。働いていれば同窓のあの人は自分の名前で勝負しているということが分かる。それを言われて女房のきつさが分かったと厚生労働省の官僚がいったそうです。
昔は「結婚できなかった かわいそうな人」は今はそういえなくなりました。結婚を選ぶもか仕事を選かどちらも地獄か。
1970年代から全世界的に性革命が進行し、性と結婚の結び付きが崩れて愛も崩れたと。
詳しくは「データーブック NHK日本の性行動・性意識」1999年調査

2009年2月21日土曜日

金融危機はチャンス!


おはようございます。昨日は嘱託の5人のメンバーのOB会がありました。一人欠席でしたが、理由は自宅が火事で、その原因は電気のコンセントにホコリがたまっていたのに、発火したからとのことでした。タンスのよこで、掃除機の筒の先が入りにくいところなど点検の必要があります。気をつけたいものです。

ジャーナリスト・桜井よし子「日本の課題と今後」から

「東京経済」という東京経済大同総会誌のN0.326、21年1月号より抜粋
ユニークな主張というか、考え方でこのようにも変わりうるものか

●『今回の金融危機はチャンス!』
今や政治が激しく経済に引っ張られている。今まで米国により設計された制度を大きく修正を余儀なくされている。
●『日本の特質を生かした世界のモデルに』
ひとつは個人の「まじめなお金」が1500兆円あります。これは米国にはありません。産油国をはじめとする各国の政府ファンドが30兆円と比べてもおわかりいただけるはず。
米国の家庭は借りることがいいことだというで、借金出来ることが信用度という文化。
2つ目は世界一の水準を誇る「環境の技術」は、米国でも原発技術も今や日本の技術なしではやってゆけないそうです。
3つ目は「働くことはよいこと」例えば日本の経営者は工場へ下りて行って指導します。
●会社は誰のもの?:株主のものという色彩が強くなりつつありますが、会社は株主だけのものではありません。同時に経営者だけのものでもなく、社長と社員、株主、関係者全員のものです。円高のデメリットばかり考えるのではなく、日本の力が上がったのだと考えればよいのではないでしょうかと。
●『米国と中国の関係』
同時多発テロ以来アジア政策がかわった米国は、中国封じ込めの側面が、「中国は米国の利害共有関係者」とステークホルダー国務副長官が2005年にいったそうです。
●『中国の力』
中国の領土拡張への執着は根強い。毛沢東の共産党は建国のときから軍事大国を目指していた。尖閣列島も沖縄も中国のものだといっているのです。北朝鮮も昔は中国の地方都市だったと。北朝鮮は経済の8割を中国に頼っていると言われているそうです。
中国は韓国も実質的支配下におきたいという戦略をもっていることでしょうと。
中国は軍事力、経済力、政治力、文化力、人口力で米国はじめ国際社会に力を及ぼしたいと。一例ではラオスの首都ビエンチャンは人口60万に広大な土地をもらい受け、チャイナタウンを建設中、事実上ラオスを人口力で支配しようとしている。
●『米国の事情』
フォリンアフェアーズの論文をみると、オバマ大統領はアジア政策を多国間関係をより重視する方向へ転換する。米国の世界への影響力が相対的に弱まる時、中国はどう動くか、米国の力の衰退と中国の力の増強を注意深く分析する必要があると。
●『ロシア』
石油価格の上昇で一時は非常に潤ったロシアの財政も、国際的な金融危機と石油や天然ガスの下落で相当な打撃を受けています。その結果軍事力の増強に急速なブレーキがかかっている。北方領土への資金もつづかない。この領土を取り戻すチャンスになるかもしれなと。国家とは自ら自国を守る存在です。集団的自衛権を確保しながら自主防衛を考えるべきです。米国のいうことを聞くだけでなく、日本からの提言をしてゆくことですと。

2009年2月20日金曜日

戦争広告代理店⑥最終回


おはようございます。昨日は陶芸窯で、素焼きが終わり、本焼きのため窯入れも終わり、今日は火入れで交代で当番し、日曜日の窯開けをまつことになります。

ボスニア・ヘルツゴビナの問題は国際政治ほんの一端のようで、長い複雑な歴史によって出来上がったようです。日本みたいに、島国で単一民族なので、
戦争に走ったりの弱さと、戦後の復興が一致団結できたりする良さは表裏一体のなせる技でしょうか。しかし今の政局のだらしなさはどうしたのでしょうか?

しかしそれ以上のことが準備されていたのは下記の出来事であった。
PR会社の提案でゲストとして招いた難民風の女性が記者会見に登場した。シライジッチ外相の紹介が終わり、この難民の女性を奇跡的に強制収容所から逃れてロンドンにたどりついたのです。と司会役のハーフが通訳した。「セルビア人たちは私をなぐりました。」女性は自分の服をはだけ、肌をさらし、お腹を突き出した。皮下脂肪で膨らんだ腹の上には、たしかにやけどの痕があった。カメラマンが壇上に殺到した。あまりにも多くのカメラマンが殺到したため、即席の舞台は音をたてて崩れてしまった。あまりにも手際のよさと見事な演出に信じられない思いだった。このように効果的にあげるように持って行くのがプロの技術なのだ。
  パニッチ首相を指名した任免権をもつ大統領を更迭できるはずもないのだが、パニッチは「西側諸国からの命令を受けて動き、ユーゴスラビア連邦を売り渡そうとしている」との不信任案が提出された。パニッチは「自分だけがアメリカと話をつけ、経済制裁を解除させることが出来る」といった。事実経済制裁の効果は顕著で、物価はあがり闇経済がはびこった。調査の結果、国民はこの苦しみを軽減してくれるのならとの期待で、パニッチが一位45.5%、ミロシェビッチの32%を大きく引き離していた。こうして不信任案は撤回された。
しかし国連ではユーゴスラビア連邦は追放する決議案がだされ、紆余曲折はあったが可決された。其れまでの紆余曲折は
パニッチは中国やロシア訪問で大きな成果をあげ、北京では中国外務省の報道官に「ユーゴスラビア連邦の議席は維持されるべきある」という声明を発表した。
ところが、ボスニアヘルツゴビナのイゼトギビッチ大統領はイスラム原理主義者で、モスレム人以外の国民の意見は反映されていないということをパニッチに主張され、はたと困り果てた。ハーフの戦略は柔軟で、相談のうえ、ボスニア・ヘルツゴビアの将軍でセルビア人ディビックは軍の中では阻害されていたが、記者会見にでて、米国とおなじようにボスニア・ヘルツゴビナも「多民族国家」というのは同類項である旨訴えて、イスラム原理主義者である主張を打ち消した。パニッチはロシアに依頼して5大国の外相を集めて説得した結果、米国を残すのみところまでこぎつけたが、米国が無言の同意の判断を誤り、焦ってブラフをかけたが、逆効果で他の4大国も同調しにくくなってとん挫し、ユーゴスラビア連邦の国連追放が可決され、パニッチも国民の支持を失った。
 昨日のBS1のニュースでセルビア共和国から独立したコソボは1周年だそうですが、まだ問題は残っているようです。(詳細はhttp://hb6.seikyou.ne.jp/home/iura/kosovo.htm#コソボ問題ってそもそも何?)

2009年2月19日木曜日

戦争広告代理店⑤


おはようございます。長い長いドラマになってしまいました。もう一回で最終回です。

このドラマの続きです。
包囲されたサラエボの38万人の市民に援助物資を運ぶために空港(その周囲は最も戦闘の激しいところだった。)を確保した国連軍の部隊の将軍マッケンジーが任務を終えての記者会見で質問されたのは、「包囲されたサラエボでの日々はどうでしたか?」と思っていたが、「あなたは強制収容所について何をしっていたのですか?」→「何ひとつ知りません、私が知っているのは、モスレム人とセルビア人の双方が、相手の側にこそ、そういう収容所があると言って互いに非難している、ということだけです。」
メディアにとって「何も知らない」といったのは収容所の存在を将軍が否定したものと受け取られても仕方がなかった。こうなると「強制収容所」がデッチアゲという逆宣伝のPRになりかねなかった。事実将軍は代表的な報道番組にでて、「収容所については、何も知らない、情報がない、見ていない」を繰り返した。そこで危機感を抱いたハーフは外相と一緒に将軍に抗議するにあたって、将軍の母国の外務大臣バーバラ・マグドゥガルに「世界はナチスの虐殺を再び目にしている。同じような恐怖を連日目撃している。人種差別主義がはびこるのをこのまま座視してよいのか」と。この抗議は逆効果となるリスクもあったのだそうです。マッケンジー将軍の発言は、これまでのカナダ外相のセルビア非難の発言と大いに異なっていますという外交文書を送付した。この外交文書は世界各地のメディアでのマッケンジー発言を把握していなければできない芸当だった。そうなるとカナダ外相の立場を危うくすることも十分に考えられる完璧な内容だった。そしてタイミングを逃さずに、メディアにも伝えた。
セルビア共和国のパニッチ首相の次の一手は、フランスのミッテラン大統領とに直談判によって主要国の首脳が一堂に会してボスニア紛争の解決策を話し合う一大会議を開催することとし、それがロンドンで行われることになった。パニッチ首相はこのチャンスをものにするために、セルビア共和国北部の「ハルトコプチ」というクロアチア人が多く住む町でセルビア人の町会議員長とその仲間4人を「民族浄化」を行っているとして逮捕させた。これは国内で不人気な処置であったが、パニッチ首相は国内で自分の政治基盤に傷をつけてでも、国際社会にアピールしようとした。他なりふりかまわず連邦政府のケルテス内務次官を更迭した。これはミロシェビッチ共和国大統領の逆鱗にふれることだった。それはセルビア、そしてユーゴスラビア連邦に対する悪のイメージをミロシェビッチ一人に負わせ、すべては彼の責任であるとする覚悟を決めたPR戦略の一環だった。
1992年8月26~27日のロンドン会議で、共同議長の一人、ガリ国連事務総長がミロシビッチ大統領に質問を発した時だった。パニッチ首相は「議長、その質問は私にしてください」一瞬議場は何が起きたかのか分からなかった。パニッチはすぐ続けて「君は座りたまえ。この国を代表するのは私だ」と言い放った。大統領も怒りで顔を真赤にし、すぐには言葉が出なかった。「だまれ」とさらに一喝した。前代未聞のできごとだった。これはヤラセではないかとも思われた。パニッチは会議の休憩時間に「この場で、ボスニア紛争の責任をとって辞任したまえ」と衆人環視の前で叱責した。これはセルビア陣営で地殻変動が起きているというニュースとなるはずだったが・・・。しかしそれ以上のことが準備されていた。

2009年2月17日火曜日

戦争代理店④


おはようございます。③のシリーズでジム・ハーフの紹介が抜けていたようですので追記してあります。。この物語で外交とPRの苦労と真髄を覗き見た感じです。
このようなセンスは、本当に危機管理に無頓着な日本にも是非必要だとおもいました。
それだけに情報操作もされているなあとおもいます。イラクとの戦争開始のときにもそれは感じられます。


この物語は、ここでセルビア側が窮地に落ち入ってしまい、終わりと思っていたら、
1992年7月24日ユーゴスラビア連邦の新首相になったのは米国にあこがれ、亡命し、カルフォルニアに住んでいたセルビア出身のパニッチ(自転車の選手で、所持金200ドルであったが、ICN製薬という会社を興して、成功し国際的大企業に育て上げた。米国財界にも精通)だった。セルビア共和国のミロシェビッチ大統領が指名、日毎悪化するセルビアのイメージを挽回しボスニア・ヘルツゴビナ政府とのPR戦争に逆転勝利したがためだった。
彼は大慌てでプロのPRマンを探そうとした、米国籍のままに他国の新首相の件はその頃のブッシュ(父)大統領の了承をかろうじてうけたが、PR会社については経済制裁措置がすでにセルビアにたして行われていたので、引き受け手がいなかった。しかし在米のセルビア系住民の団体が独自にPRする方法を考え出した。そうしてハーフに対抗できるPR企業パウエル・テート社との契約がなった。しかしそのとき、「民族浄化」につぐ恐ろしいキーワードは「強制収容所」、それはナチスのイメージだった。
セルビア人がモスレム人を収容している「強制収容所」があり、そこでは8000人の非セルビア人が銃殺され、あるものは餓死しているという63歳の元囚人の顔写真と収容所の見取り図が添えられた記事が「ニューズディ」の一面に「死のキャンプ」という見出しで掲載された。
それがどんどん続報が集まってきてついには「合計45の強制収容所がセルビア人によって運営され、95万人以上が拷問されている」「すべては今世紀の初めにすでにヨーロッパで起きていることだ。それなのに、世界は何もしようとしないというのはどういうわけなんだ」という発言が掲載された。こうした記事は国連と米国議会の反セルビア決議案を練る作業に発展した。しかし取材クルーはオマルスカにいったがそこも衛生状態は悪く、拷問や殴打が行われているという証言もあったが、実物写真を撮影すべく、頑張ったが、「捕虜収容所」の概念にあてはまるものでしかなく、「強制収容所」に該当するような行為の証拠はどこかに隠されてしまったのかもしれないが見つけられなかった。それでも何とか見つけようという努力がなされていた。
ただ真夏の暑い時期であって上半身裸ですごしている人も多かった。その中でひどくやせている男性もおり、あばら骨が浮き出していた。記者とその男の間には有刺鉄線が張られていた。戦後の調査で分かったのだが、此の有刺鉄線は、閉じ込めるためのものではなく、紛争前からあったものだが、結果的には有刺鉄線の向こうにやせさらばえた男がいる構図の写真になっていた。この構図がきわめて重要意味を持った。この映像をアメリカ中の放送局や新聞、雑誌社が争うように購入した。そしてブッシュ大統領は「世界は二度とナチスの“強制収容所”という神を恐れぬ蛮行を許してはならない」とホワイトハウスの記者会見で話したことで完全に流れが決まってしまった。

しかしまだこのドラマには続きがあった。

戦争広告代理店:(情報操作とボスニア紛争)高木徹:講談社

2009年2月16日月曜日

戦争広告代理店③



おはようございます。いろいろな記事は事実を書いていることも確かですが、その中には幾分か報道機関がそのように書きたいという意向を言うか、読んでもらいたいがために、仮説のような意図に基づいて書くようにも感じられる。また偶然の連鎖も重なっているようです。
あの湾岸戦争でクエートがイラクに侵攻されたときに、大手PR会社ヒル&ノートン社は在米のクエート大使館員の15歳の少女を使ってその目でみたというイラクの残虐ぶりはデッチアゲというPRがなされ、PR業界そのものイメージが損なわれたので倫理問題には敏感だった。

外相は活動家に相談し、PR戦略の専門家のジム・ハーフを紹介された。
ジム・ハーフは大手PR企業ルーダー・フィン社の幹部社員だった。米国の広告代理店は政治的に影響力のある圧力団体をも動かす。ハーフが得意としていたのは外国の国家をクライアントにすることだった。
太字部分追加

しかし紛争当事者の片方と契約し、顧客の敵セルビア人は極悪非道の血も涙もない連中で、モスレム人は虐げられた善意の市民たちというイメージを世界に流布することに成功する。
しかしながらそう簡単にはいかなかった。

●この紛争の経緯について外相は詳しく話したがったが、これは最もしてはいけないことだった。これまでのどういういきさつがあったか、そんな話は誰も耳を貸しません。とくにアメリカのメディアの視聴者が退屈してしまうのです。
●外相は大学で詩的表現をつかっていたが、米国では陳腐に聴こえる。
●時には沈黙し、声の調子を上げ、話すスピードを速くすることもあれば遅くスルテクニックの教授がった。かなり長い間沈黙してから話し出すことが多いのは計算ずくにした。
●サラエボを離れてから外相は一度も国に戻っていなかったが、サラエボの悲劇を人間の普通の感情として恐怖さめやらぬ状態であるはずなのに、キャスターの質問に滔々と答えてはリアリティを欠いてしまう。のであたかも見たかのように演出した。
●およそ一時間の番組に招かれた外相は、プライドがたかく他のゲストが何人かいて、彼の出番は最後の方だったが、誇りを傷つけられたと誤解して、信じられないが突然スタジオからスタスタ出て行ってしまったので、やっとのことで連れ戻した。外相の顔は爆発しそうな顔であったが、その顔がサラエボの事態が深刻なのだという印象を与えた。
●外相は女性によくもてた。PRマンのハーフの女性や有力メディアの女性記者の身体に
触ったこともあった。それは何よりも母国で市民が血を流しているのに、悲劇の目撃者のイメージを覆してしまう。
このようなつい本性を画面でみせてしまうことが多い。その差は訓練次第である。
国際情勢は激しく動き、サラエボはこの世の地獄とかしていた。ガリ事務総長はボスニア紛争に関する報告書では「セルビア人だけが悪いわけではない。又セルビア共和国の政権の指示もうけていない。「セルビア人がすべての悪の根源である」というメッセージを発しているので許しがたい報告だった。
一週間後に「ナイトライン」という数ある中の報道番組の中でもハーフが一番重視した番組にでられることになった。
シライジッチの顔が画面に映った瞬間、番組は彼のものとなった。たった今、流血のボスニア・ヘツツゴビナからやってきた人間の悲しみと怒りが現れていた。司会者のコペルも圧倒され、「アメリカが何故かかわらなければならないか。又米国のメリットは?」と聞いたが、「これは馬鹿げた質問になりますが」という必要のないことを付け加えてしった。
外相は「サラエボでは毎日無実の市民が殺され、血を流しているからです。怪物のような」連中がはびこっているのです。こういう人道に背く行為を、決して傍観して見過ごしたりはじないのが、アメリカの責任と誇りだからです」そして「Enough is enough that’swhy(もうたくさん)それが理由だ」と続けた。これも計算されたテクニックだった。
「戦争広告代理店」というNHKの高木徹さんという書いた本より

2009年2月15日日曜日

戦争広告代理店②


おはようございます。昨日のあたたかさは春を通り過ぎていました。車の中の暑さも格別でした。又昨日の続きです。前置きが長いので待ちくたびれますが、辛抱のほどをお願いします。

この変質した政府の外務大臣はシライジッチでモスレム人であり、その敵セルビア人は人口ではモスレム人より少なかったものの、軍事的には隣の本国セリビア共和国の支援を受け、はるかに強大だった。セルビア人が力をもってモスレム人主導の独立国家の成立を阻もうとすれば、これを防ぐのは困難だった。こうしたことからボスニア・ヘルツゴビナ政府は、ボスニアに戦火が及べば、その紛争を「国際化」すること、つまり可能な限り、他国々、できれば力の
ある西側先諸国を主体とした国際社会をこの紛争に巻き込み、味方につけることによってセルビア人たちの軍事力に対抗するという方針をあらかじめ決定していたのである。
この決定が正しかったかどうかは分からない。なぜなら4年近くにわたる紛争で数十万もの市民が命を落とし、ボスニア・ヘルツゴビナの地に今も消えることのない民族間の憎悪が残ったからだ。すくなくとも圧倒的な優位にあったセルビア人の軍事力を西側先進国の力を使って相殺するという目的は果たしたことになる。
ではいったいどうすれば、国際社会をボスニア紛争に巻き込むことができるのか?
それが大統領イゼトベコビッチの外相に「一人でも多くの国を訪問し、一人でも多くの首脳と話して彼らを説得してきてほしい」が命令だった。この意を受けまずヨーロッパで数カ国を回って後で国連本部のあるニューヨークに渡ったのである。その間事態は切迫していて、米国に渡る直前サラエボで起きた市民平和デモへの発砲事件がきっかけとなりセルビア人とモスレム人の戦闘が連続して発生、本格的内戦状態へと突入した。
ニューヨークで期待どおりの成果をあげることができなかった彼は首都ワシントンを訪れた。彼の政府にはワシントンに大使館もなかった。彼はアメリカ人の活動家デビッド・フィリップスに電話して活動家の家に呼ばれた。活動家は世界のさまざまな国の政治家とも面識があったし、サラエボも訪問していたし様々なサポートをしてくれた。4月14日には米国務長官ジェームズ・ベーカーと国務省で会談することに成功した。
外相との会談で長官は魅了されてしまった。「セルビア人たちは無辜の市民を動物のように殺しているのです」どんな外交上の美辞麗句より雄弁にボスニアの人々が直面している苦しみを語った。ベイカー長官は一つのアドバイスを外相に与えた。それがタトワイラー報道官に伝わり、そのタトワイラーは長官の腹心の部下だったので「メディアを味方につけること」という長官の意図を解説した。
米国は世界中から助けてくれというのが日常茶飯事なので、世論形成した案件でないと応援出来ないと言われた。ボスニア・ヘルツゴビアにはCNNのクルーは入っているのですか、何を置いてもメディアを通して訴えることですといわれ外相はすぐに行動を起こした。
会談後メディアの前で記者会見した。外相はずっと歴史学者だったので、メディアとの接触は最も彼の世界から離れた出来事だった。「泣かない赤ちゃんは、ミルクをもらえない」ということわざが浮かんだ。

「戦争広告代理店」というNHKの高木徹さんという書いた本より

2009年2月14日土曜日

戦争広告代理店①



おはようございます。昨日はメル友さんからもう蕗のとうがでていますよという写真までみましたので、散歩がてら黒目川の川沿いの土手周辺を探しました。
あったのは、福寿草、水仙、蝋梅、梅で蕗のとうは見つけられませんでした。まだなのか、もう終わっているのか、蕗の姿がないのでまだなのでしょうか。

「戦争広告代理店」というNHKの高木徹さんという書いた本で
以前から分からなかったバルカン半島のユーゴスラビア連邦崩壊の情勢が分かりにくかったのが、この書籍でかなり明確になったようです。

ユーゴスラビア連邦の2つの都市、東側に位置するセルビア(ルーマニアに接する)、西側に位置するボスニア・ヘルツゴビナの都市はそれぞれベオグラード、サラエボである。
1990年代の最悪の民族紛争となったボスニア戦争が実際にどのようなものだったか、誰が加害者で誰が被害者なのかそれを百パーセント客観的に述べられる人は世界中のどこを探してもいない。もとは同じ連邦の2つの都市の市民の両方にこの紛争について聞くと、善玉と悪玉が完全に入れ替わった正反対のストーリーを聞かされる。とにかく米国・ロシア・日本の研究者やジャーナリストに聞いても自分の立場によって見解が分かれる。
 偉大な指導者チトーのもと、40年あまりにわたり存在してきた社会主義国「ユーゴスラビア連邦」は多民族国家である。チトーの死とそれに続く冷戦構造の崩壊は、人々の心の奥底に生き続けていた民族独立への渇望をよみがえらせた。1991年連邦を構成する6つの共和国のうち、最も西に位置するスロベニアが独立、次にクロアチアが独立した。これに対し連邦政府と連邦軍は軍事力で独立を阻止しようとし、連邦軍と各共和国軍との戦闘が始まった。そのころの連邦政府は、実態としては各民族共同の政府ではなく、連邦首都のベオグラードがあるセルビア共和国の大統領ミロシェビッチらセルビア人によって牛耳られていた。したがって、この紛争は、セルビア人で運営される「ユーゴスラビア」の版図を維持したいというセルビア人と、そこから脱却をはかる各民族との戦い、という構図になっていた。
いちはやく独立したスロベニア共和国はその人口のほとんどがスロベニア人で占められる。だから彼らの独立戦争は自らの領域から、少数のよそ者を追いだせば完結した。
だがボスニア・ヘルツゴビナにはそのような圧倒的多数を占める一つの民族はいない。最大民族といっても4割強を占めるモスレム人がおり、それに匹敵する勢力として、3割強のセルビア人が領域内に住んでいた。そして第3勢力のクロアチア人も2割弱いた。
セルビア人やクロチア人には隣国に本国があるが、モスレム人は一言でいえば、中世、この地域を征服し支配下においたオスマントルコの影響をうけてキリスト教から
イスラム教に改宗した人々の末裔である。モスレム人は多数をたのんでボスニア・ヘルツゴビナはモスレム人の国だと強引に国民投票にかけて決めてしまった。これでセルビア人が反発した。自分たちを迫害するだろうと、それはいやだというのである。政府には他の2つの民族の議員などが引き揚げモスレム人だけの政府に変質した。

2009年2月13日金曜日

100ショップへの手紙


イエローポスト 様

平素よりローソンをご愛顧くださいまして
誠にありがとうございます。
ローソンお客様相談窓口 北山でございます。

このたびイエローポスト様よりお申出いただきました件につきましては、
お客様からの貴重なご意見として担当部署に伝えさせていただき、
今後の運営の参考とさせていただきたいと存じます。

これからもお客様にご満足いただけるサービスをご提供できるよう
努力させていただきます。

お申出いただきましてありがとうございました。
今後ともローソンをよろしくお願い申し上げます。


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ローソン お客様相談窓口
Tel : 0120-07-3963
ローソンホームページ
     http://www.lawson.co.jp/
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内容:
西東京市でシニアに特化したミニコミ紙を無
料で発行(月刊の予定)で取り上げたニュー
スは、西武新宿線の東伏見駅北のエリヤのこ
とです。
昨年10月に天神丸正が閉店しました。ここ
数年の間に、伏見団地にあった「かめ屋が閉
店し、次に「岡田屋」がなくなりました。歩
いてゆける所にあった店が次々に姿を消し、
ついには東伏見駅から西武池袋線保谷駅の食
料品店がなくなりました。自転車にのれない
高齢者にとって死活問題です。このまちかど
難民をなくすなにかよい知恵はないでしょう
か。「買い物難民」杉田聡著:大月書店
それでお便りしましたのは全国初の移動ロー
ソンなるものが鳥取県安達商事とフランチャ
イズ契約を結び販売車で巡回しているとの
記事をネットで拝見しました。
配達の方法もあるようですが、買い物が一番
楽しみな老人にとっては大事なことです。
「ささえあい」という援助組織も知恵を探し
ていますので、関東地区でもこのような方法
がかんがえられませんでしょうか。
近所の新鮮市場系列の100円ショップもミニ
ストップやAMPMが去ったあとでも繁盛し
ています。老人が店員となって販売するとか
御社の100円ショップの盛況ぶりをみて相談
してみましょうと思い立ちました。なにとぞ
よろしくお願い申し上げます。

2009年2月12日木曜日

はるの匂い


「春に触れる野草を摘みに」から
草摘みでは野の草を活花のために摘んでくることが多かったのだが、数年前の春、家族で連れ立って川の土手を歩いていると母がよもぎを見つけた。川の水は少なく、流れの音は聞こえない
。その代わり、遠くで雲雀が大変な勢いで鳴いている。
ピーチクパーチク
ある友人は「ああでもない、こうでもない」と聞きなおした。
アチコチ アチコチ 必死 必死  必死
チイチャクチイチャク ホレホレ
意味は「あちこち行く小さな小さな鳥だけどここにいるよ、ホレホレホレ」というような感じ。
息もつかずに鳴いている。
水気と春泥の湧き立つ匂いを含んだ風が、余寒の冷たさと早春のほの温かさを同時に運んでまっすぐに吹いてくる。その音が
耳元でボワボワと鳴るのを聞きながらそろそろ歩いていたとき、ふとヨモギの香りが立つのが私にも分かった。
「ヨモギが生えている。摘んで帰ってテンプラにしましょうか」
「それはいいね。摘んでみよう!!」
ヨモギの葉はチクチクした周りの草の手触りから葉の冷たさがじんわりと伝わってくる。その葉を少し揉むと
、美味しそうな餅草の香がパッツと生まれて手元の空気をさわやかに澄ませる。その充実感でポリ袋にいっぱいにした。
三宮麻由子の季感体感より

2009年2月11日水曜日

ある老人ホームでの出来事


私立の学校では試験のようで、校門の前で担当が大勢で出迎えています。もう夕方には発表が掲示されています。号外なみの早さです。
身体が弱い作者の安宅さんは全国から自分の予算に合う所を探し出し、3つ目にだ会った讃岐の老人ホームでの出来事でした、。

ある日土井さんの顔に大きな青あざができています。どうしたのだろうとみんなが思わずにはいられないほど目立っています。パーキンソン病だということを知りました。
この病気は足がもつれたり、身体が不随意に動いてしまったりという症状がでます。
それから間もなく土井さんにおかしな行動が目立ってきました。ふらつく足で大きな荷物をもって玄関に現れたので、へんだなと思いながらも、
「どちらにお出掛け?」「高知までいかなならんの」、彼女の子どもさんは東京と名古屋方面にいるときいていましたが、彼女は高知に行くと決めています。
なんだか様子がおかしいので、職員が部屋につれて帰りました。そのうちに土井さんは、他の人の部屋に入ってそこで寝込んでしまったり、意味不明のことを言うようになりました。かなりひどい痴呆の症状ににています。土井さんは自分のやっていることのおかしな行動のつじつまを合わせようとします。その様子がなおさら痛々しく感じられます。皆も土井さんのことをボケたと噂しています。彼女の性格から考えるとその噂を気にしてより症状がひどくなることが目にみえています。
そこでケアハウスの所長はこれ以上皆の目にさらすのはしのびないと考え、併設の特養に彼女を移しました。診察した精神科の医師の診断ではパーキンソン病による症状を他人に見せまいとする緊張感が彼女を追いつめたのだという。
私はこの処置がどのような結果を生むか心配しながら、毎朝食事の介助にいくいたび声かけをしていました。特養の痴呆の人たちのなかには外見るとびっくりするような人もいます。廊下を這っている人、一日中泣き続けている人、寝たきりで一日中天井を向いてボーツとしている人、何か訴えたくても言葉がでないので「あー、あー」と声だしている人様々光景がある。
ある朝土井さんが隣のベッド・元女医で気難しい人の食事の世話をしているではありませんか。ケアハウス時代には他人の世話もならないし、他人の世話もしない。そいう生活態度を貫いていた。このあり様は土井さんの心のなかに何か大きな変化が現れだしたことに気がつきました。
しばらくすると、土井さんの症状はパーキンソン病によるわずかな足ももつれをのこすだけになりました。意識障害はすっかり治っていました。
所長が「土井さんが買い物にいきたいというから付き合ってあげてくれない?」というので、もう一人のケアハウスの友人と3人で買い物に出かけました。土井さんはきれいにお化粧して、一番おしゃれで誰が付添かわかりませんでした。
「あっちよ、こっちよ」と彼女が先に進みます。帰りには彼女のいきつけのコーヒーショップで「コーヒーおごるわね」と御馳走になりました。このころから土井さんは、今まで見せたこともない私たちに素直に甘える一面も見せてくれるようになりました。
他人にものを頼むなどということはしなかった人です。ああ彼女の心は自由になってきたにだなと思うと私は胸が詰まるほど嬉しくなってきました。土井さんは特に精神科の治療を受けたわけでもない。彼女をいやしたのは息子さんの気持ちとそして特養でみた悲惨な人たちのなかの静かな優しい心だったのではないかと。悲惨な姿を見ることによって、自分のありのままを見せることが出来る心が育っきたのではないでしょうか。こうしてできた素直な心が高井さんの介助をすることで、自分もまた必要とされているという充足感がもてたのではないかと。特養の痴呆のお年寄りたちが一人の心病む人をいやすことが出来たのです。この特養の経験が」これからの土井さんの精神を強くしてくれるでしょうと。住んでみた老人ホーム:安宅温著:ミネルヴァ書房より

2009年2月10日火曜日

AC&DV:信田さよ子さんの講演からその②


もう梅もあちこちで咲いています。又今年の桜はどこがよいかなど思案する時節になりました。昨日の続きになります。
防止法には虐待する親を逮捕するという条項はない。今まで法的にも「法律は家庭に入らず」という原則があって、家庭は放っていても治まるという考え方があった。これでは日本でも
いけなという反省から生まれた法律であるが、加害者の意識改革をさせるカウンセリングに、妻の意向によって連れてゆくのは、修復を望む男性側の同意をうるのは難しい。台湾や韓国の方が先行しているのは、裁判所が命令することによって可能となっている点である。
吉野川DV事件のDV(家庭内暴力)被害者である妻は子供をつれて逃げたが、加害者である夫は私立探偵に依頼して居場所をつきとめ、子供の目の前で暴力をふるい死亡させた事件である。
やすやすと、おれの女房をおれが殺してなにが悪いとうそぶいていたという。
今度できた法律によれば、実効性はどうでしょうか、保護命令によって、一定距離、近づいてはいけない・退去命令があるそうです。2ケ月[逃げる準備をさせるために]場所を退去しなさい。

AC(アダルト・チルドレン)は親から被害やコントロールを受けたと思っている子の感覚で、親の感覚ではない。
それが日本の場合20歳を過ぎると、子供自身の頼りのなさに評価がいって駄目扱いされる。しかしずっとのマンイドコントロールを受け、逃げられないでいるのであるから20歳になったから自主独立できる訳ではない。
明治になって家族ということが認識されたので日本では100年の歴史、欧米では300年の歴史がある。
家族は永遠ではない。男と女が愛し合って結婚して子が出来て、おのずと家庭ができるようにとくに男性は簡単に考えているが、そうではない。何故家族が必要で男の役割、女の役割が必要かといえば、資本主義が安定した家庭の労働力を期待していたからである。(大量生産においては、作業開始は一斉であり、同一レベルの早さ・品質が要求されているからでしょうか)
最近は量的に拡大するか、製品の寿命が短く、絶えず新製品を必要とし、これを生み出す人間が働ける人間であるので、常に緊張を強いられている。その人間になってもならなくとも、近代の家族は常に裏側にはDVを背負っているのですという。
世間では被害者は暴力を受けて大変だと思って居るはずと考えるが、その本人はそうは思っていない。支え合いたいのに、どの部分が私がダメなのかしらと思っている。殴られたり、けられたりしても、フツフツとした抵抗しようということにはならないのが不思議なところです。夫がそういうから私が悪いんだという思い込みになっている。これから離れて解放されてしばらくしてから、あれがDVだっと分かるのだそうです。夫が満足している家庭はDVに走りがち、そうではなくて、日曜日で休みなのに、子供を連れて外出するような、子供との前からの約束を守り、子供が満足している家庭ではDVは起こりにくいそうです。
結局は家庭では母親が食卓の場をコントロールして、気分よく子供らがゆったりと食事している風景が望ましい。
それは夫が妻を、親が子を養っているわけなので、権力はその側にあるので、恐怖を抱き、従わざるを得ないのは弱者なので、そのことを権力を持っている側が認識していないと、自分をコントロールできない状態におちいったときに、ウップンのはけ口は弱者に向けられることになる。
どうも聞いている趣旨はDVの加害者は、実は被害者意識をもっている・内心自分が甘えたい気持ちがあるのに、社会で去勢をはって生きている緊張感を自分では気がついていないままに、解放しようとして出てくるのがDVとして現れるのだそうです。
ACも母に応えたい・いい子にならなけりゃと思っている方向に固定されているので自分の内心の気持ちは解放されないまま、表面に出てこれない。
DVは子供が父親が暴力をふるっているのを見た男の男性が、自分が結婚して同じことをやるのが日本では90%、米国では70%あるそうです。
説明がカウンセリングのやり方がそうなのかもしれないが、ズバットはいわないで、聴くものにも考えさせ、感じさせるようとしていて、なれないと、遠まわしのように感じられますが、じわっと残ってくるような話しぶりでした。
2009.2.8講演【家族の未来をみつめて】:信田さよ子原宿カンセリングセンター所長

2009年2月9日月曜日

AC&DV:信田さよ子さんの講演から①


おはようございます。男女平等センターでの講演がありました。
家族関係の悩み、人間関係の悩み、摂食障害(拒食・過食)、アダルト・チルドレン、共依存、DV(ドメスティック・バイオレンス)、子どもへの虐待、親への暴力、不登校、引きこもり、子育ての悩み、依存症(アルコール・薬物・ギャンブル・買い物など)、各種ハラスメント(職場・学校)PTSD、生き方の悩み などがある。

カウンセリングはアディクションアプローチを基本としながら、カウンセラーの特色ある技法を活かして援助を、たとえば解決志向アプローチ、心理劇などです。また個人カウンセリングだけではなく、グループカウンセリングを積極的におこなうそうです。

勇気をもって相談の場に足を運ぶことができたひとは、すでに問題解決の第一歩を踏み出しているのです。病理をえぐりだすのではなく、そのひとの持っている力を信じ、伸ばしてくれるのが仕事なのだそうです。

009.2.8講演【家族の未来をみつめて】:信田さよ子原宿カウンセリングセンター所長
1946生まれ、臨床心理士。来年で15周年記念、有料のカウンセンリング、30分6,000円、
初回12000円、カウンセラー13名

薬も注射も聴診器もあてないで、形に残さないので、満足をいただいた上で、料金をいただくことは大変。精神科医でも治療の難しく、不十分な問題をあつかう。
地方都市では頼るのは宗教か精神科医であってカウンセラーがいない。こういう場合には医療は無力のようだ。依存症(アルコール、酒、ギャンブル)
地元の名士は精神科医には、地元故(なのかプライドなのか?)相談に行かない。
立派な精神科医は中井久夫先生だそうです。

1989年AC(アダルトチルドレン)という言葉がはいってきてそれが紹介された。
96年ACブームがおきた。(そのころ97.1.17の阪神大震災、サリン事件)
いままでの関心は加害がどういう人間かということであったが、被害者がどういう被害を受けたかということに関心がよせられるようになった。
それで95年を被害者元年という。95年には北京で女性会議があって、DV(家庭内暴力)、男から女への暴力、夫から妻への暴力、兄から妹や姉へ、姉から妹へ、これら被害者をバターロールマン(詰られる人)という。

なぐられ妻症候群はそれまでもあったのですが、そのときも日本で流行語にならなかった。
95年の女性会議でDVが世界中にあり、世にその存在が公認された。
そのDVからのトラウマが共感されたり、トラウマを受けたつらい症状が意識されるようになった。
加害者の言訳:これはしつけであるというが実態は暴力(義理の父に多いようなことをいっていた)

日本では1950年から1960年ころはこのようなシツケは愛情といわれていたし、そうおもわれていた。誰も虐待とは思わなかった。
その前の1945年の敗戦直後には「捨て子」こそが虐待と思われていた。
70年代になると、コインロカーに赤子を入れた事件があった。これが近代的捨て子というのは経済的に親が追い詰められての捨て子であったのが従来と違い、異質であった。
このように時代によって注目するところが変わってくる。阪神淡路大震災によって、被害者に注目するようになった。
DV(内閣府)、虐待には扱う官庁がことなり、DVは国の機関でも小さな部署である。
急に虐待が出現したのではなく、前からあったもので、注目されたがゆえに世の関心が引き寄せられた。虐待への関心はヒューマニズムで個人的にも誰しも共感できることであった。
DVで肋骨が3本おれてもニュースにはならなかったが、子供の虐待の扱いは大いに異なる。DVは愛し合ったもの同士の中に生まれているという認識にあり、助けてといってもどうにもならなかった。交番に暴力をうけた妻が駆け込みして、夫がすぐ飛んできて「お世話になっています」というと巡査のほうも妻にむかって、ほらそうは言っても、すぐ迎えにきてくれるじゃないか。一緒にお帰りなさい」と言われ、帰宅後の暴力は何倍にもなる。それが虐待防止法が出来て、配偶者間暴力防止法(夫が妻を虐待しているが夫からの妻虐待を防止する法が実態に合致しているが間という表現になったとのこと。)ができて世に認知された。
社会がこのようにぶっ壊れてくると、いっぽうで「うつ」が減少するという副次的効果が生まれる。それどころじゃないのかもしれないが、いっぽうで、倒産、リストラで自殺する人も増える。

信田さよ子さんのブログhttp://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/2008_12.html  からも引用しています。

2009年2月8日日曜日

吉武輝子さん


おはようございます。ウーマンリブの人ということであったが、なかなか本音で生きている素敵な人でした。

人生50年がいまや100年という時代という出だしから始まり、
国家指定の難病(膠原病・左肺きしゅ、酸素ボンベ使用)など難病は沢山経験しました。(下記のHTLをみましたら、ガンにもかかっていました。)
おととし、急に熱、膠原病菌が血液にはいってしまった。娘が厚生年金病院の看護師長で自分の家にきて、私の顔色が悪い、生きている人間の顔ではないよ。→
緊急入院、十中八・九ヤバイヨの状態であったので、この状態を本人に言うべきかで相当迷ったという。というのは五日後には静岡で講演を予定していたり、(ステロイド※注入が命の綱に。但し効き目もあるが、副作用もある。)それも杞憂だった。
3/15には出版パーティ歌って・踊って・の大サービスから帰って翌日が娘のいる病院に入院し、ステロイド点滴だったのだそうです。とにかく帰宅後は命優先で点滴後に体温40度が平熱の36.5度にさがりました。しかし顔は副作用で膨れ上がっていた。
自分はコツソショウなので、筋肉で骨を支える必要があって朝昼晩とトレイニングに励みました。筋トレしているところを医師と看護師が面白半分、人並以上の努力ぶりという評判を聞いて見物にくるが見物料を置いて行った試しがない。性分として、病気についてアレコレ考えない。あれこれ考えても、心配した状況には至っていない。その時々に最善を尽くせばよいのだから。これはとても健全な考えよという。
病気でいながら大分県にいって勉強になったことは、酸素ボンベ2本ホテルに前もって送ってあった。それが部屋に設置されていた。日本の飛行機は酸素ボンベの携帯を認めるが、米国では爆破事件に関連するので認めめられない。寝ていては酸素マスクを、起きてはボンベ携行。
最近医療器具の発達が便利にもなったが、それに伴い、利用する人間の意識が育っていない。こういう医療器具をつけると、余命いくばくもにないような気になってしまうようだが、それは便利で有難いもので、おまけの命をもうひとつ頂いたようなもだから、その分楽しむことが大事。最高の晩年期だとおもえばよい。これらの医療器具をつけて圧倒され、事実ひきこもった母親がいる人が私の話を母親に聞かせたら、ピンシャンと元に戻った。気持ちで負けてしまうことないわ。後期高齢者医療は、持ち点600点をこえると、打ち切りになるの。600点なら9000円の自己負担がこれを超えると16万円になってしまうのが問題だそうです。
孤独死が問題になっているが、動物は其れが当たり前、臨終で枕もとにきても、一緒に死んであげるという人はいないでしょ。それと孤立死は違う。
いろんな人から夜電話くるけれど、電話口に出たら、思いきり元気に輝子よ大きな声をだすの。そうしていると、だんだん自分の気持ちも高揚し、相手も大きな声になってくるの。最初の一声の返事がとても大事。

モットーは病気のデパートではあるが「病気にはなるが、病人にはならない」
オシャレでいること(鏡を見て、下手な揶揄やケナシがないところで、自分
をほめろ。B型は自分でほめてオダテに乗る得な性格よ。
ハードルを高くしなさい(コジンマリまとまるな)
医者とはいい関係をもて。
人と合いエネルギーを交換し合う。
肉体は衰えるけれど、頭の学習能力は使えば使うほど息づいてくる。

http://www.gsic.jp/survivor/sv_01/22/02.html

2009年2月7日土曜日

ほめることよりも


おはようございます。アドラーがいっているのは「私は、自分に価値があると思う時にだけ、勇気をもてる。そして、私は、自分に価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時だけである」と述べているそうです。
深い人間関係を避けたがる子供が多いと言われる今日、子供のしつけにあたってどのように提言しているか抜き書きの一部だそうです。私は「ほめることよりも」とかきましたが、これだと押し付けになりそうですね。


ほめることと、勇気づけることは違う

「『絵の展覧会で入賞したのね。偉いね』がほめることで、『私もその絵はとても素敵な絵だと思うわ』とか『私もとても好きだわ』が勇気づけることです。子供が一番勇気づけられるのは、ほめられたときではなく、お母さんが世間を気にしたような評価の気持ちは入っていなくて、好きだわと喜んでくれたと分かると、子供は嬉しくなって、また頑張ろうという気になります。30点の答案をもってきて見せた子供に、『隠さずみせてくれて、お母さん嬉しいわ』と試験の結果ではなく、その後の過程を勇気づけることも大切です」

とのことですが、テクニックで直せるものではないので、こころでもそう感じて対応できるようになるのは、母親も自分を立て直す勇気が必要だなと思いました。

家庭問題情報情報誌第46号で紹介している星一郎・順子著「アドラー博士の子供が素直に伸びる20のしつけ法」サンマーク出版・2001年にかいてあるそうです。
訳した方々も夫妻ですが、著者もアドラー心理学を実践する心理セラピスト夫妻ですと紹介されています。

2009年2月6日金曜日

ゴミ処理


おはようございます。
西東京市の可燃ごみ1kgの処分費は52円、不燃ゴミは84円です。
また一世帯(2.2人)あたりの年間では35661円、一人あたりでは16167円でした。
ごごみ処理にはお金がかかる→当然ゴミ処理がタダで出来ることではないのですが、ゴミ袋を買うことによって、自分らも処理費を負担したことになるので、ゴミの量も減り、さらにはゴミ捨て経費が少なくなるのではないかという思いで納得しようとしたのではないかと思います。まずその辺の理解からの出発です。
市報の2/1を見ましたところ、平成19年度のゴミ処理経費が31億759.1万円で前年比9.4%増でした。平成18年度は28億4897.61万円でした。結果は思惑が外れて3.2億円の増加になります。

そこでゴミ問題に詳しい人に聞いてみますと、まだそうなんだと納得していないし、分かりにくいのですが、分かったようなことを、聴いたままお伝えすれば、次のようになります。

分かったことは市民の出した約4億5000万(2億6000万+袋代と販売費)は結果として「資源を無駄にしない社会」づくりの施策にちょうどぴったりの金額だったということですね。市の数字をみてもらうと1トンあたりの処理経費が「不燃ごみ」だと8万3000円ですが、それを「金属」として集めると16万7000円「プラスチック」として集めると10万6000円です。資源化するほど経費は増えるのです。でも資源化しないと仕方ないのです。アルミも鉄もペットも、埋めてしまうわけにはいきません。プラスチックももう燃やしてはいけない。
 では資源として集めたら売れるのかというと、プラスチックは売れません。引き渡すだけです。(法律で行政が集める責任になっている)ペットも紙も黒字になるか、集めても赤字になるかは中国の景気次第です。紙が余ってくると、市がお金をつけて業者に引き取ってもらうわけです。中国景気以前はそうでした。
 もし有料化しないで、戸別収集とプラスチック回収をしたら、税金が2億6000万円使われたということですね。
 そのときは税金がごみをたくさん出した人も、少ししか出さない人の税金も同じに使われていたのが、有料化はその費用をたくさん出すか倹約するか、自分の判断で出来るようになったということでしょうと。

となると、武蔵野市はプラスチックも回収せずに燃やすことになったのは何故か、ゴミ処理経費を減らすことは、プラスチックのゴミを減らせば減るはずは→そう簡単ではなくて、資源ゴミを回収して再利用することがコストがかかりますよ。プラスチックは燃やすのか資源化するのがよいのかまだよく分からない状態です。

2009年2月5日木曜日

消えた年金


おはようございます。振り込め詐欺の防止にヤッキになっています。しかし「振り込まない怠慢」という社会保険事務所所の問題があるようです。
そのまま引用です。ああまたかと思わざるを得ません。日常茶飯事なのでニュースの価値もなくなったような気がします。

     

 103才の男性が、消えた年金被害500万円


 ~しかし、支払いは「1年先」! こんな怠慢が許されるか!~
  「ご安心ください。お父さんがお亡くなりになられたら、
     ご遺族に支払います」と、社保事務所は説明


 メルマガ読者の皆さん、こんにちは。

 私のところには、多くの消えた年金の被害者から相談が来ます。
 今回来たケースは、被害者が103歳。

 「消えた年金」が原因で、500万円の未払い年金が発見されました。
 きっかけは、「ねんきん特別便」です。昨年4月のこと。
 その際、社会保険事務所職員は、「半年後に支払います」と約束。

 しかし、半年経っても連絡がないので、
 息子さん(66歳)が、問い合わせたら、
 「もう半年待ってください」とのこと。

 ただし、もう半年待っても、つまり、合計1年待っても、
 本当に未払い年金500万円が支払われるかは不明。

 「父は103歳です。耳も遠いし、身体も弱っています。急いでください」
 と懇願する息子さんに、職員さんは、
 「ご安心ください。お父さんがお亡くなりになっても、
  ご遺族に支払いますから」
 と、ニッコリ説明。

 息子さんは、「私たち遺族がもらっても仕方ない。
 生きているうちに父に払ってほしい。もう103歳ですから、
 高齢者から優先的に支払ってもらうことはできませんか」と懇願。

 しかし、社会保険事務所は「無理です」とのこと。

 「では、本当にもう半年待てば、4月には払ってもらえるのですか」
 と念を押しても、「わかりません」とのこと。


 そこで、息子さんが、私に相談に来られました
 (詳しくは、ご本人の了解を得て、巻末に事情を載せました)。

 皆さん、どう思われますか? 

 私はこの半年、
 消えた年金被害者に1日も早く未払いの年金を支払うように、
 麻生総理などに予算委員会で要望してきました。
 麻生大臣も舛添大臣も「3ヶ月くらいで払うのが常識」
 と私に答弁しました。

 しかし、口先だけの「やるやる詐欺」です。
 実際には、1年以上、支払いにかかっています。

 いまの日本は異常です。

 社会保険事務所のミスで、年金が消えていた。
 それが発覚しても1年以上払ってもらえない。
 国会で追及しても、改善されない。

 このケースについては、
 今日、予算委員会で同志の長妻昭議員が、
 麻生総理に質問しました。

 しかし、前向き答弁はナシ。
 しかし、私たちはあきらめない。

 年金保険料を支払うのが国民の義務ならば、
 生きているうちに正しい年金を受け取る権利が国民にはあるはずだ。

2009年2月4日水曜日

パチンコ


おはようございます。集合郵便受けの高さは一番下段は40cm位、その高さに合うように腰を曲げるのが大変だということと、鍵が番号合わせの鍵は覚えていられないので、開放したままですが、5mmも動かしただけで、もう開かなくなるので、元に戻すのが大変。それでテープで番号が動かないように固定して一安心したという人がいました。こういう郵便受けの設計にも高齢者への配慮が必要だということがよくわかりました。


コリアン世界の旅:野村進:講談社より
総務庁の調査によると、全国パチンコ店の年間総売上が94年11月の時点で30兆4778億円に達したのである。あまりにも巨額すぎて実感がわかないが、トヨタ、日産、ホンダ、三菱自動車などの売上総額の2倍近く、韓国の国内総生産にほぼ匹敵し、平均すると、日本人は一人当たり年間25万円ものカネをパチンコにつぎ込んでいることになる。パチンコはすでに押しも押されもせぬ日本最大規模の産業になっている。
射幸心を煽る新機種の導入が“パチンコ依存症”を生み、母親がパチンコに熱中している間に幼児が事故死したり、サラリーマンや主婦が多額の借金で家庭崩壊させたり、する事件が大きく取り上げられてきた。これまでにも、「脱税」「暴力団」「政治家へのヤミ献金」「北朝鮮への不正送金疑惑」とパチンコをめぐる報道にはネガティブな言葉が氾濫していた。しかし日本最大規模の産業でありながら情報公開の姿勢がほとんど見られない。
プリペイド・カード導入にパチンコの許認可権をもつ警察は「業界の健全化」を錦の御旗にかかげた。脱税の一掃と暴力団の排除である。パチンコ業界の経理が明瞭になれば、暴力団のつけこむ隙もなくなるだろうという理屈だったが、まったくそうはならなかった。絶対に変造や偽造が実は簡単にできた。被害額630億円にのぼると、カード会社自ら公表した。これが純粋に「業界健全化」を推し進めようとしたあげくの失策なら、警察ばかり批判するのは酷かもしれない。だが大手商社とくんで警察庁幹部が大量に2つのカード会社へ天下りして高額所得を手にする受け皿としたのは「業界の健全化」は建て前にすぎず本音は天下り先の確保ではないかと言われた。

2009年2月3日火曜日

民族


おはようございます。昨晩のクローズアップ現代の難病は後半しかみていませんでしたし、衛星放送も見ていないのですが、追い込まれている患者やその家族が極めて選択肢が狭まれているのに、このような問題について病院の倫理委員会や学会や医師会や国会で刑法を超えるような審議が尽くされうるのか・・・・・。生命を感じとってもいないのに、自分自身がどういう風に かんがえられるか途方にくれます。

在日であることを隠し続けるのがどうにも息苦しくなって、日本人の親友に打ち明ける。すると、親友と思っていた日本人からは、「韓国人も日本人も関係ない」
「そんなこと気にしない」といった答えが返ってくる。
「わかった。あんたが韓国人いうことは誰にも言わんからね」と言われる場合もある。
それが日本人側の「善意」から出ている言葉であることがあかるだけに、なおさら在日や帰化者の子は日本人の友人との絶望的な隔たりに孤立感を深めていく。その時の心理は「私の母が韓国人であることを話すときに、どれだけ勇気が要って、どれだけ友達の反応を気にしているか。それに対して当たり障りのない答え方をされると、「もう何を話しても、どうせわからへん」という気持ちになるんです。
そこで友達との関係を切った思い出があるんです」
この人は父が日本人で、母が韓国人のいわゆる「ダブル」(一般的にいう「ハーフ」で日本国籍を持っている。

ほとんどの韓国人や朝鮮の人の2世は、日々の生活に追われて最も経済的な負担の少ない日本の学校に入れる道を選ばざるをえず、日本政府の同化政策とも相まって、子供たちの「日本人化」に一層拍車が掛った。
子供に自分の民族性を大切にしてほしいと願う2世の親は、大別して、いわゆる「民族学校」(総連系の朝鮮学校が圧倒的に多い)、民団系(在日本大韓民国民団)の韓国学校へ通わせるか、日本の学校に通学させながら民族学級や民族クラブ(日本の学校内にあるし、生徒数が多い場合にある)の課外活動、あるいは地域や家庭での教育によって民族性をはぐくむか。(根強い就職差別や、各種学校扱いの朝鮮学校の卒業しても、一部の私立・公立大学を除いては日本の大学を受験する資格が与えられていないといった不条理な現状を変えてゆかねばならない。
いずれの親にも共通する意識は、もし何もせずに日本の学校教育に我が子を任せていたら、自分の民族性ばかりか親や祖父の民族性も否定する、つまり自分自身を否定する歪んだ人間になってしまうのではないかという危機感である。日本人からよく発せられる、在日はなぜあそこまで「民族」にこだわるのかという問いかけに、日本人である私が答えるなら、もしそうしなければこの国では人間らしく生きられないと彼らが考えているからなのある。

コリアン世界の旅:野村進:講談社より

2009年2月2日月曜日

もも太郎


おはようございます。地元のミニコミ紙が2つめが3月から廃刊だそうです。それぞれ10万部の発行部数でした。
そういえば、先に廃刊したのは、市のイベント情報情報をどのように媒体でしりますかのアンケート注目度の高い、一番のものでした。
そういうことを聞いたときに、これほど注目されているのに、意外に感じました。そういえば地元企業の折り込みチラシや投函チラシが少なく
なってきています。それとネットの激安と称している「おしらせ」が頻繁に送信されてきます。
ここ2年の間に近くのスーパーが2店閉店しました。ファミレスのメニューの値下げで話題になったスカイラークが同じグループの
より庶民的なジョナサンに変わったのも、つい1週間まえです。
また日産武蔵村山市にできた何社もでていた「ダイヤモンドシティ」は先日いってみると、車の置くスペースが周囲を何周してもみつからないで、スゴスゴ帰って
来ました。それが名称がイーオンに代わり、三越は撤退だそうです。かなりの地殻変動が起きています。


話題にできるトリビア  VOL.146

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【本日のお題】



『桃太郎は昔、桃から生まれなかった』



桃太郎といえば、川から流れてきた大きな桃の中から桃太郎が生まれた、

いわゆる「桃から生まれた桃太郎」というのが通説になっていますが、

明治時代初期までは、桃太郎は桃から生まれていなかったのです。


以前は桃を食べたおじいさんとおばあさんが若返って子供を生んで

桃太郎になっていたのです。

桃太郎については地方によってさまざまな物語があるようですが、

今のような「桃から生まれた」となったのは明治20年に国定教科書に

掲載されることになった時からのようです。


http://jouhoustand.sakura.ne.jp/

2009年2月1日日曜日

焼肉


おはようございます。一昨日の武蔵村山市にある「かたくりの湯」では、どこでもあるように、食堂もありビールも飲める。そのオカズに「モツの煮込み」を頼んだ。チョット塩辛かったが、他の皆も同様な注文だった。田舎の山形では芋煮会の肉は日本海側では豚、内陸のが月山をこえたところでは牛肉なのです。そのような違いが東西であったということです。
田舎の同級会で聞いた話は餌の残飯の違いで、多ければ豚の飼育、少なければ草中心の牛飼育
の違いだというがどうでしょう。
 こういうホルモン焼きとか焼肉について
「ホルモン」について広く流布しているの説、関西弁で「ほうるもん=ホルモン」だということではなく、神戸山手女子短期大学教授の奥村教授の調査によればドイツ
の医学用語のホルモンは内分泌物を意味し、ホルモンは内臓から分泌されるので、内臓を食べると精力増強につながるという具合に結びつけられていった。
1941年に大阪の「北極星」という店が「ホルモン煮」を商標登録していたそうです。「もつ鍋」「コテッツチャン(豚の内臓)」といった言葉のまざましい普及ぶり、日本人は空前の勢いで内臓料理を食べ始めている。日本国内の牛だけでは到底まかないきれず,欧米やオーストラリアから内臓を大量に輸入している。
焼肉の普及は下記の無煙ロースターと、焼肉のタレだった。
焼肉も韓国ではテーブルの外で、それが日本においては、テーブルの上で食べるようになり、無煙ロースターの普及によって衣服への匂い吸着が防げるようになって、女性の抵抗も薄れた。また焼肉の大衆化は「タレ産業」・エバラ食品工業は経営の再建に乗り出したときは従業員10名の零細企業だった。ソースやケチャップを作っていたので、肉屋さんと縁が深かったことによる。
そのころは関西では牛肉、関東では豚、タレも67年第一号「朝鮮風焼肉のタレ」牛肉に浸みこみやすく、豚用は牛肉にはむいていない。じょじょに関西にも浸透し、78年には牛肉用の「エバラ焼肉のたれ・黄金の味」が関西地区で爆発的にうれるようになったのは、10年以上もかかった。東西の食文化の違いがあったが、やがて西を狙って出した「黄金の味」が東でも一番のヒット商品になり、肉料理の主役が東日本でも豚から牛に交代したことを告げていた。
(焼肉を食べることで、キムチも食べるようになり、韓流ドラマ、世界サッカー大会の二国同時開催など随分日韓両国は近い関係になったのでしょうね)

日本人の牛肉の消費量;(一人当たり年間):1960年1.1kg、70年2.1kg、80年3.5kg、92年6.7kgになっているそうです。
コリアン世界の旅:野村進:講談社より