2009年2月20日金曜日

戦争広告代理店⑥最終回


おはようございます。昨日は陶芸窯で、素焼きが終わり、本焼きのため窯入れも終わり、今日は火入れで交代で当番し、日曜日の窯開けをまつことになります。

ボスニア・ヘルツゴビナの問題は国際政治ほんの一端のようで、長い複雑な歴史によって出来上がったようです。日本みたいに、島国で単一民族なので、
戦争に走ったりの弱さと、戦後の復興が一致団結できたりする良さは表裏一体のなせる技でしょうか。しかし今の政局のだらしなさはどうしたのでしょうか?

しかしそれ以上のことが準備されていたのは下記の出来事であった。
PR会社の提案でゲストとして招いた難民風の女性が記者会見に登場した。シライジッチ外相の紹介が終わり、この難民の女性を奇跡的に強制収容所から逃れてロンドンにたどりついたのです。と司会役のハーフが通訳した。「セルビア人たちは私をなぐりました。」女性は自分の服をはだけ、肌をさらし、お腹を突き出した。皮下脂肪で膨らんだ腹の上には、たしかにやけどの痕があった。カメラマンが壇上に殺到した。あまりにも多くのカメラマンが殺到したため、即席の舞台は音をたてて崩れてしまった。あまりにも手際のよさと見事な演出に信じられない思いだった。このように効果的にあげるように持って行くのがプロの技術なのだ。
  パニッチ首相を指名した任免権をもつ大統領を更迭できるはずもないのだが、パニッチは「西側諸国からの命令を受けて動き、ユーゴスラビア連邦を売り渡そうとしている」との不信任案が提出された。パニッチは「自分だけがアメリカと話をつけ、経済制裁を解除させることが出来る」といった。事実経済制裁の効果は顕著で、物価はあがり闇経済がはびこった。調査の結果、国民はこの苦しみを軽減してくれるのならとの期待で、パニッチが一位45.5%、ミロシェビッチの32%を大きく引き離していた。こうして不信任案は撤回された。
しかし国連ではユーゴスラビア連邦は追放する決議案がだされ、紆余曲折はあったが可決された。其れまでの紆余曲折は
パニッチは中国やロシア訪問で大きな成果をあげ、北京では中国外務省の報道官に「ユーゴスラビア連邦の議席は維持されるべきある」という声明を発表した。
ところが、ボスニアヘルツゴビナのイゼトギビッチ大統領はイスラム原理主義者で、モスレム人以外の国民の意見は反映されていないということをパニッチに主張され、はたと困り果てた。ハーフの戦略は柔軟で、相談のうえ、ボスニア・ヘルツゴビアの将軍でセルビア人ディビックは軍の中では阻害されていたが、記者会見にでて、米国とおなじようにボスニア・ヘルツゴビナも「多民族国家」というのは同類項である旨訴えて、イスラム原理主義者である主張を打ち消した。パニッチはロシアに依頼して5大国の外相を集めて説得した結果、米国を残すのみところまでこぎつけたが、米国が無言の同意の判断を誤り、焦ってブラフをかけたが、逆効果で他の4大国も同調しにくくなってとん挫し、ユーゴスラビア連邦の国連追放が可決され、パニッチも国民の支持を失った。
 昨日のBS1のニュースでセルビア共和国から独立したコソボは1周年だそうですが、まだ問題は残っているようです。(詳細はhttp://hb6.seikyou.ne.jp/home/iura/kosovo.htm#コソボ問題ってそもそも何?)

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