2007年12月31日月曜日

進歩の時間から循環の時間へ


写真はゆんフリー

地球に駆動力があった段階が産業革命以前、我々が人間圏の中に駆動力をもった段階が近代です。
地球によって駆動されている時代は、ものの流れをただバイパスさせ成立させているフロー依存型人間圏ですから、これはいくら右肩上がりの動態を抱いても物理的に大きくなれない。江戸時代の日本が糞尿の利用したような肥料として活用された。
ところが近代になると、人間圏内部に駆動力を持つ、石油などの化石燃料や原子力です。その結果地球システムの他の物質圏の中にあるストックを利用することができる。もともと持っていた右肩上がりの動態とあいまって人間圏が爆発的に大きくなった。地球の駆動力が循環しているスピードに比べると我々が(人間圏の駆動力を利用して)駆動させているスピードというのは実は10万倍にも達する。地球が10万年かかってやることを我々は1年でやってしまう。今なすべきことはこのスピードを抑えなければならないんです。地球の循環型の方に人間の循環を合わせてゆくことです。近代の西洋では時間をもっぱら進歩の時間と考える、しかし日本では昔から時間を循環型と考えてきた。日本は明治以来、進歩の時間論を採用しながらどこかで循環論的な時間論に従っている。そしてまた循環の考え方は「この世」と「あの世」との永遠の循環という考え方があることが知った。
稲作農業の場合森と水が大切だから制限されている。農業イコール森の破壊をしていないと思っている。
神仏のすみか梅原猛「神と仏」対論集より

2007年12月30日日曜日

観光街のない湯布院


写真はゆんフリー


湯布院(由布院から変更):
大正13年にこの由布院の村の小学校に東京大学の本田静六という林学博士を招いた「由布院温泉発展策」という講演会をやっている。その記録には歓楽型の温泉になるのではなく、ドイツのような保養型温泉になるべく努力せよと書いてある。その例としてバーデン・バーデンをあげています。公衆トイレはここに、散歩道はこういう風に作りなさい、果物が四季それぞれに生ったほうが愉しいからどこそこに柿の木を植えなさい、子供たちが元気でないと町が寂しいから、どこどこに児童公園を作りなさいとかきちんと書いてあるんです。
中谷健太郎氏は1934年(昭和9年生まれ)明治大学を卒業され東宝撮影所で稲垣浩、千葉泰樹監督の助監督もつとめる。62年父の死により帰郷、旅館亀の井(この地は別府の油屋熊八※という人の亀の井の別荘地)別荘を継ぐ。
湯布院は田圃のなかから滲み出してくる温泉で他の温泉地のようにひとところに集まってまちをつくる必要がなかった。そいう意味で不思議な観光街のない観光地でした。
湯布院映画祭は自分の映画時代の引き継ぎで、建物の配置、デザイン、宣伝でもセンスがよいと自負している。
宿屋の親父だけは何も出来ない立場にある。庭掃除と風呂掃除はできるが。
こっちに帰ってきて板場にギャンギャン言われたら「てめえがギャースカ言っている頃から包丁握っているんだ!」の声をきいてこれは撮影所と同じだ、これは撮影所の監督と同じだ。
旅館の親父はいろいろいうが何もできないし、やってもらうだけだと。いろんな人が変な癖をもちながら情熱をもち、苦手をもちながら得手もやっている訳ですから、それらを一つひとつ取り持って上げるとか、出会いの場を作るのが大事なんです。全部集めて「それーっ」って 号令をかけるというのでは力が分散してしまうので、それはしないんです。
一人ひとりに聞いてみると、じっくりと声をかけられた思いがあるという、そういう関係が紡がればいいんです。だんだん力が落ちてきたり、仕事の量が多くなると、それぞれの人との出会いを丁寧に残せないようになる。よくないですね。
『湯布院幻燈譜』によれば客室は15で、これは旅館として小さいですが、従業員が100人近くいる。ふつうは従業員の数は客室の数より少ない。
企業の採算に合わないから「おまえは出てこなくてよろしい」というと地域の「お迎え力」は縮小する。能力を網羅してみんなでおまんま食っていけるようにするのが勝負だ。いまは予備軍をいれて21室従業員100名をちょっと超えました。
例えばイタリアのワインがいい、北陸の酒がいいといって消費していただいてお帰りいただくのはプチ東京になってしまう。この窪地の地形を利用し展望大温泉をやるのは男の妄想だ。そうしないで自然を受け入れる仕組みですね。

「まちづくりは面白い」ふきのとう書房。より

※この人はクリスチャンで“旅人をもてなす心を忘れてはいけません”聖書の中の「旅人を懇ろにせよ」という言葉を大切にしていました。創業は明治44年です。我が家の延長と思っていただきたいといっている。

2007年12月28日金曜日

一橋慶喜・渋沢栄一・岩崎弥太郎







渋沢栄一という人は埼玉の篤農家の生まれで、江戸末期の世の乱れに嘆いて、国家の憂いをおのが憂いとして、京都の実情に赴いた。ゆくりなくも一橋慶喜公に召され、3年の激動の春秋を過ごした。その後将軍となった慶喜公の実弟なる徳川民部公子はフランスでの博覧会でナポレオン3世への礼式出席と留学することとなった。その随行役をせよとのことで赴いたのが1867年(慶応3年)のことであった。その随行役として何くれとなく心を砕き、公子からも何事も相談を受ける身になっていた。ある程度予想はしていたものの、折しも故国での政変・幕府崩壊(大政奉還)により留学などの志も遂げ得ず,空しく帰国することになったのが明治元年のことであった。江戸に到着し、公子とも別れ、託された手紙を、慶喜公の幽居している駿河に届けながら、残生を送る気持ちであった。そこに落ち着く前には、託された手紙には返書があるので、それを公子に持ち帰るように命をうけていた。ところが返書は届けなくてもよいし、静岡での超緊縮財政の中であるが、有り難くも、ここで勘定頭の職に励めよという達しがあった。栄一は自分でも職欲しさに戻った訳でもなく、返書も届けなくてもよいというご指示に立腹してどうにもおさまらなかった。再三に渡って督促したが、その理由を説明しようということで召された。これは昵懇の家来になった栄一を、水戸に返書を持参させたら、公子が放さずに自分の相談役にするであろう。そうした場合には水戸の内部では嫉妬されて立ち行かない状況になるは必定という心配をされていた。これが引き留の深慮遠謀であった。徳川慶喜公はこういう人であった。

以上と以下は渋沢栄一の雨夜譚(あめよがたり)による。

渋沢は岩崎弥太郎に船遊びに誘われた。二人は合本組織(株式会社組織)の是非をもって激論を交わした。渋沢は合本法を是としたのに対して、岩崎は専制主義経営を唱えた。岩崎は渋沢と組めば日本の実業界を牛耳ることは易いと説いた。この思想の対立により、この結託は成立しなかったが、後に三菱が組織の三菱と言われる合本経営体になったということはいうまでもない。

2007年12月26日水曜日

こんなに便利なGOOGLE


グーグル」の名前は「10の100乗」(無限大)を意味する英語の[GOOGLE(ゴーグル))に由来する。皆さんご存知のように“ただの検索サイト”ではない。この本をあらわした創藝舎の《グーグル完全活用本》・知的生き方文庫・三笠書房を紹介します。
世界中の衛星写真を楽しんだり、英語の翻訳、添削までしてくれる「特別検索」機能。ここまで来ると、その機能の存在すら知らないという人も多いのではないだろうか。まさにそういう一人の小生です。本書はいう「人生の可能性」が無限大に広がることを願っていると記している。
①たとえば「隠れた名店を探す」には?
→「穴場□ 隠れ家□ 良心的 □おすすめ 」と入力 (以下□は空白)
②税金を調べたい時?「税金」だけでなく→「税金□ 源泉 □控除」と入力すれば効率がよくなる。
③結婚式の祝儀の相場?→「結婚式 ご祝儀 相場」→「最近 結婚式 祝儀 が相場」:が相場は =「最近は10000円が相場」というように「が相場」をつけて説明しているページが多いかから。
④「検索が不要な情報」はマイナス記号で指定・カット!「ビジネスマナー」で検索すると「冠婚葬祭」「就職活動」まで拾ってくられるので
→「ビジネスマナー-冠婚葬祭」とすれば冠婚葬祭部分は除外される。
⑤「渋谷公会堂」の「クラシックコンサート」を調べたい場合、渋谷のロックコンサート情報や、渋谷と関係ない情報がでてきたりする。→
 これは「渋谷公会堂□ クラシックコンサート」と入力すると、グーグルが勝っ手に「渋谷」「公会堂」「クラシック」「コンサート」と分解してそれぞれの情報を検索してくる。→“渋谷公会堂”“クラシックコンサート”とすればよい。
⑥「今見ているサイトの信頼性」を簡単に確認する法とは?
アクセスしたURLを右クリックしてコピーして検索ビックスに貼り付けて「http://」のところを[link」に書き換えて、たとえば国立研究所とか信頼がおけるtころにリンクしていれば信頼性も高いといえる。
⑦これ以上説明するには大変ですので、GOOGLEのトップページに出ている字句をクリックしてみるかこの本を購入する(何冊かみたがこれが一番優れている):ウエブ、イメージ(写真)、ニュース、グループ(ニュースのグループ掲示板)、ディレクトリー(カテゴリーがあるので便利)、more(グーグルの色々なサービス)、検索オプション(複雑な検索)、ウエブ全体からの検索(世界中)、日本語のページを検索、パーソナライズドホーム(自分流アレンジ検索)

その他「キャッシュ」をクリックして「今はないサイト」を読む方法、ある時期のニュース記事だけを読みたいとか、歌詞の一部が分かっていて、歌の題名を知りたいとか、思いつくことはほとんどといっていいほどの方法論が紹介されているので小生も購入予定です。

マスコミの現場:週刊誌の巻


マスコミの現場から:週刊誌編「週刊現代」の巻
週刊現代 藤岡雅記者
●週刊誌は定期購読が少ないので毎回が勝負である
●週刊誌等の発行部数:※は印刷証明付き部数:日本雑誌協会2006年9月1日~2007年8月31日の間の調査。
一般週刊紙:週刊文春798、344部※1、週刊新潮765、713部※、
週刊現代690、398部※、週刊朝日319,562部※
※1は女性購読者が多いので、いわゆる女性の写真はない。
月刊誌:文芸春秋620,850部※
写真週刊誌:FRIDAY409,082部※
●週刊誌の評判は、新聞にかけない反骨精神と悪文しか書けない捏造記事が多い。
●週刊現代は取材がキチンとしているという評価がある。
●JRの色々ある組合によっては、元革マルもいるという記事を書いたら、電車の中吊り広告が契約解除になって利用できなくなっている。
●編集部は50から60人:編集長・編集員、デザイナー、カメラマン、アンカーマン?、
記者(外部ジャーナリストと対になるケースも多いようだ)
●新聞には発売広告の見出しを金曜日までだして売り出しは火曜日である。
下記の取材1はこの見出しをみて新聞社が取材されてスクープを逃したようだ。
ここ実家は事務所ではありませんとの発言や、公開されている政治資金報告書で架空事務所経費の金額まで、先に報道されたが、業界ではジャーナリストの松岡さんの功績であるとの評価をえている。
●ネタ探しは記者の経歴もあるし、その人の感性やその人の鋭敏さで随分差がでるようです。
◇取材1(今年世を騒がせた人取材赤城農林大臣・バンソウコ王子)写真もとれ、取材面談のせよとの社命:取材依頼したが拒否されたがアタック。金曜日に今週の記事ネタプランを提出、月曜日どこにいるかを探す、自宅マンションもいない、火曜日、朝7時から夜遅く自宅前待機、永田町議員會舘も不在、議会に不在届がでているのを発見、水戸のマンションにもいない、実家は後援会事務所ではないと父が発言したものと、質問状も出していおいたのが戻っていたもので、木曜日締切最終原稿pm4:00校了。その後はお宅に自由に出入りできるようになった。翌週は別件下記キャノンを大分取材となる。
◇取材2・いじめ教師:記者クラブは横並び取材で勇み足はできないが、週刊誌はその規制外にある。新聞・テレビなどの取材開始後3日遅れで開始し出遅れた感じでした。毎夕方に一日の状況報告があったし、出尽くしたころであった。規制外で駄目元で直接電話したところ、母上がでて子供についての親の意見を話したかったようだった。おりよく取材に応じても良いとの許可がでた。記者風でなく、弔問客を装って、意外にも独占インタビューが2hもできた。キチンと取材依頼をして許されることがある場合もあるのが分かった。
◇取材3:ボクシング亀田兄弟の独立計画:亀田兄弟のことがカラマイとデスクにプランが」認められない。かけば売れる要素もおおありなので、取材するが、関係者の証言だけで、証拠がみつからないので、事実関係は結局わからなかった。

◇取材4:御手洗経団連の会長でもあり、キャノンの社長でもあるが、請負形態であれば、2年継続勤務の本採用への義務をのがれることによって人件費の抑制ができるのを、偽装請負の形態をとった。いわゆる格差社会の問題であるが、広告上でキャノンから講談社に圧力がかかった。これもタッチマックをくんだ斉藤貴男ジャーナリストの大分へ取材した記事であった。
◇取材5:徳島刑務所での変態医師:恐怖の肛門虐待、被害者80人集団告発、担当弁護士にも取材しありえないようなことが、告発数がかなり多いことも分かった。この医師はえり好みで診察放棄もしていた様子で、矯正教育の部署であって、厚生や保健衛生の部署でなかったために、矯正の圧力で悪いことをしていたようだ。

2007年12月23日日曜日

アフリカの現代紛争ミリシア(民兵)の大地から


写真はゆんフリー

2007/12/17亜細亜大学:大津司郎:アフリカの現代紛争ミリシア(民兵)の大地から:
大津氏は日本人がアフリカについてあまりにも無知であることや、これらの問題の国際的認識のギャップについて説明するには日本では基本的ニュースソースがほとんど知られてないので、早くしってもらいたいようであった。それであれもこれも言いたい・伝えたいということで空回りしている面の感じもありました。それに応じるには聞く側も自発的に問題を日頃から吸収しないととても追いつかない。アフリカのアジャンダ(国際問題という意味)は公然の事実として世界的にしられていることであるが、日本のメディアは全くといっていいほど、伝えていない。
視聴率1%は100万人がみている計算になるが、日本の民放は視聴率が低く、広告収入のの少ない国際問題の報道にはとくにアフリカについては関心がないし、事実なにも報道していない。
国際的には核問題のほうが大きく取り扱われているが、地上での戦いのほうが問題なのだそうです。それはテロリスト、ゲリラ(強い相手にたいして小規模の移動性の動きのある戦闘集団)、ミリシア(民兵組織)による戦闘である。たとえば93年の南スーダンの内戦(政府軍・イスラム原理主義と南部独立解放のための民兵との戦)によって、一番の被害者は老人と女性と幼児で100万人の飢餓は1ケ月も食料援助がとどかなかった。この内戦に加え、干ばつによる二重の食料難である。今年ようやく平和の兆しがみえてきているが、食糧や水道、電気、住居は昔の状態とかわらない。元来アフリカは豊な国であるのに。
このアフリカ問題は国際問題のテーマが沢山つまっている。
92年のソマリアの100万人の飢餓問題のとき、米軍が3万人派遣された。その理由は飢餓状態の人々を救うにもその周囲を武装勢力が取り囲んでいるので届けられない。
そこで周囲の武装勢力を除去するために軍隊が必要になる。緒方さんが、「人道問題に人道的解決はない」といった真意はこの意味であった。話し合いをしても武装勢力にも半分は食料を渡す必要に迫られるし、それが戦いの長期化につながりかねない。
(聞いた生徒もどう考えるかの問いがあったが・・・)
●南部はクリスチャンが多い
●政府の援助から南部は取り残されている。

アジア諸国(中国・韓国・マレーシア・シンガポール・インド等)は自主的判断でこのアフリカに沢山の娼婦もふくめての出稼ぎしている。中国は投資した利権を守る意味、将来の展望、を探る意味で軍隊のPKOを常時派遣している。
◎南部スーダンであるがすごい量の石油埋蔵資源がある。これに中国13億人のエネルギー資源の一助になるべく長期的戦略的に取り組んでいる。
◎コンゴではレアメタルの埋蔵量に期待がかかっている。
◎自然観光ではなく、国情視察のため、拓殖大とアフリカのエイズ患者の交流になるか危ぶまれたがコミュケーションが問題なくおこなわれたし、5000人のうち3人が生き残った人からジェノサイドの現実を直接きくことがブルブル震えながら聞いたとのこと。
◎中国の援助はタンザニアで2500kmにおよぶ鉄道建設をおこなっている。その枕木の本数は3000万本におよぶが、中国の印がくっきりと押されているのでタンザニア国民へのインパクトが大きい。日本のは箱もの・土木の援助については非難の的になっていて、こころ面・教育面の援助になっているが日本の国連の理事国への投票への吸引力にはならなかった印象をもっている。
◎現地での取材は一人でやっている。車の運転手が危険回避の90%以上の鍵を握っている。
この運転手の危険予知能力は顔をしげしげみてそのオーラがでているかの判断をする。それほど出ていない運転手であればテンションを高める意味で、運転手の横でまめに危険の回避のエピソードを話をしょっちゅうしている。

2007年12月22日土曜日

シュリーマンの外国語の覚え方


写真はゆんフリー
H・シュリーマンと講師の外国語の覚え方
中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所の大村幸弘氏の話
シュリーマンは1822年にドイツで生まれている。トロイア遺跡があるということを証明した人でもあるということになっているが、この遺跡は7層にもなっている古代遺跡で、各層の発掘した遺物も混じり合っていて、純然たるトロイアであるということを証明するにはヒッタイト粘土板による必要なものが出てきてもよいが未だである。

1841年ハンブルグを出帆したが難破、生死をさ迷った挙句、奇跡的に助かっている。砂浜に辿りついたといたとき、眼前に自分の大事な手荷物のカバンがあることに気がついた。これには次の仕事の紹介状がはいっていた。
次の幸運はペテルブルグで仕事していたとき、自分の会社の倉庫が全焼した。事務員が走ってきていうには、「船に積み荷として残っていたのは商売の大事な価値のものはあります」だった。
短期間に莫大な財産をつくったのはクリミア戦争(1854-56年)でインド藍、硝石、硫黄、鉛などの戦時品を取り扱った故と多くの外国語を駆使したからであると思われる。
1842-3年アムステルダムにいたころに、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、修得。修得方法は、「非常に多く音読するころ、けして翻訳しないこと、毎日1時間をあてること、つねに興味ある対象について作文を書くこと、これを教師の指導によって訂正すること、前日直されたものを暗記して、次の時間に暗唱することである」
これに基づいて講師がならった。シュリーマンの場合は1外国語に1日3時間これを繰り返し3月を要した。
(のち現代ギリシャ語、古代ギリシャ語、ラテン語、アラビア語、ヘブライ語も修得した。)

一方大村講師の場合はこの方法を利用して、最初はクルド語(労働者に通用)、アラビア語(労働者に通用)、は駄目だった。トルコ語(隊商に通用)については単語を覚え、覚えの早い人で2・3日、遅い人で1週間200~300語は覚える。毎日覚えた単語を教師に報告する。この先生は必ず褒めてくれて「あなたは覚えが早い」とおだてられた。そうして単語+単語で表現するが覚える限界に達する。次にこの単語を動かす動詞を覚える。講師の場合24時間その外国語に浸り、8ケ月でしゃべれるようになった。
(トルコの遺跡発掘の仕事に就くことの目的、日本語を話さない環境、年齢などの要素も影響をうけている)

2007年12月21日金曜日

聖なる山頂

写真はゆんフリー


35年ほど前のバーミアンで南斜面の岩で、アフガンの兄弟と午後の陽射しを腰を下して楽しんでいた。
「なあ、ムハンマド、あの峰、誰か登ったことがあるだろうか・・・」
紺碧の空につき上るように水晶のようなコー・イ・ババの主峰をうっとり眺める私に、兄弟はひややかな調子で言い放った。
「登って何になるの・・・」
なるほど、登って何になるものでもない。すでに誰かが登っていたからどうなるということもない。かつて陸上競技の話題にこの兄弟は、急用でもないのに、何故走る、といった。スポーツを兄弟に講釈するつもりはなかった。兄弟の一言に私は逆らわず、登山を考え直すことにした。エヴェレストに登るわけを問われた英人登山家マロリーのそこに在るからとの伝説的な返答から100年、名言と錯覚しかねないその言葉がどれほど傲慢な言葉だったかに気づく。人々が神の座と信じ、崇め畏敬する山頂に立って自国の旗を翻し、征服なれりと表現して憚らなかった。私達の世界の西欧近代の傲慢さを嬉々として擬ってきたのだのではないか。そして今日もまだ頂上に旗を掲げ征服を口にする者が少なくない。頂上直下1m、いや30cmでもよい,静かに佇む、そんな登山家を見たいものである。
まだ30歳代ながら無酸素の単独でナンガバルバットの7800m地点まで登高した山びとがいる。この友は聖い山の頂はけして踏みたくない、という6000mまでの“岡”は別だけどねとひげ面が笑う。欧米のクライマーたちをガイドしながらも、彼と仲間が山を犯すことはない。登山の心と行動もまた、近代を見直す時に至っている。
ペシャワール会報甲斐大策より

2007年12月20日木曜日

乱高下のドーナツ

写真はゆんフリー

5ルピーのドーナッツが「乱高下」
ペシャワール会報(日本で寄付を募って、中村哲という医師がアフガニスタンでらい病や灌漑用水の土木工事を無償で援助している活動家発行の会報)NO94、2007・12.5に隊員が寄稿しているのを読むとどれも素晴らしい文章です。

10時頃になると工事現場に少年がドーナッツを売りに来る。
「ミスター買わないか。1個5ルピー(日本円で10円相当)だ。」
ちょっと高い気がしたが焼き立てで味は美味しかった。
翌日、現地人スタッフ達といるところにドーナツ売り少年が再び通りかかると、スタッフの一人がドーナツを奢ってくれた。「4つくれ。1個いくらだ。」
「2個で5ルピーだよ。」
えっ!?昨日自分が買った時と違うじゃないか。「おい、なんで昨日の半額なんだ」と尋ねると、「昨日のは、大きかっただろ。今日のは小さいから2個で5ルピーだ」堂々と答える。
うーむ、食い意地に長けている私の記憶が確かなら、大きさはさして変わらなかったと思うが、納得はいかないものの、美味しかったからいいかと仕事を再開している私のところに商売を終えた少年が戻ってきた。「ミスター、1個余ったから買わないか」「いいよ。2ルピーかい?3ルピーかい?」「なにいってんだよ。1個5ルピーだ」
自称12歳の少年だが、大人顔まけの商売根性だ。だが、そう感動してもいられぬ私はカール・ルイスになったごとき全力疾走で逃げ惑う少年を追走しひっ捕えたが、振り返ると少年の弟が兄の身を案じておお泣きしていた。
それ以来、少年は私を見ると怯えていた時期もあったが、今は常連客として仲良くしている。ちなみに、1個5ルピーの大きいやつが続いている・・・。
灌漑用水路建設担当 本田潤一郎。

http://www.la.biglobe.ne.jo/peshawar/
ペシャワール会事務局〒810-0041福岡市中央区大名1-10-25上村第2ビル603号室
TEL092-731-2372
[以前もエジプトの床屋での話:お客の所得によって床屋の料金がことなる。このドーナツの値段がことなるのはイスラムでは名誉なことかもしれない]

2007年12月19日水曜日

河合隼雄のラストインタビュー前篇その3


写真はゆんフリー


対人恐怖症、赤面症の人がものすごく減りました。
赤ん坊のほかにままならぬものに恋愛がある。今大学生でも、いっぱい相談室にくるんです。だけど、昔みたいな形で悩んでる子はほとんどいない。」たとえば恋人ができてうまいこといかへんでしょう、そうすると「先生、なんとかしてください」ってくるんですよ。「あの子に言うったってください」「どうしたらいいんでしょう」とか言うて。つまり好きやけど告白できなくて、悩んで悩んで、もうフラフラになって死にそうになって、とはなっていない。そういうのはなくて、なんかええ方法があるはずやから、おまえら考えろ、という格好で相談にくるですよ。それがものすごい多い。
対人恐怖症はいまないんですよ。対人恐怖症ならただ引っこんでのや。人前に出なければならない、でも出られないのが、そういう葛藤があるから対人恐怖症になるんでしょう。今は葛藤なしにポンと引っこんでしまう。途方もない引きこもりになるか、バンと深刻な犯罪になるか。葛藤保持能力がなくなったのと一緒でまんなかでうろうろできないんですね。両極端ですね。
昔は知らぬが仏でうまくいっていた。お母さんも知らない間に悪いことをしたりして。それが今ものすごくできにくいんですよ。ちょっとさぼって図書館にいるのが分ったらものすごく怒られて「ほら塾に行きなさい」とか「成績落ちた」とか。ぼくら自分で考えても成績落ちることがあるんですね、そら怒られてるけど今ほど怒られてないですよ。上手に引きこもりができなくて追い込まれるほど、今度はガタンと引きこもってしまうわけでしょう。引きこもってる人は気の毒なことに引きこもりの意味がわからなから(どうやってい意味を教えたらよいでしょう)、それで自分が嫌になってるから余計引きこもりですよ。意味のある引きこもりやっていると思ったらもうちょっと悠々としていればと思うんだけど、いつも非難されるからがんばりたい。がんばれるはずないでしょう。さなぎなんだから。でもなんでがんばれへんか自分で分からないから、「おれ駄目な人間だ」とか「もう駄目だ、こんちきしょう」とか余計ひきこもる。親がしらん振りをするはなくて、何もかもわかっている。黙っておこうという訓練も親は必要。豊かになるとか、個人主義になるということはものすごい心の負担を各人に負担をかけているのです。貧乏で忙しくしていたら、子供のことなんてほおっておくから、ちゃんと上手くゆくのですね。ただ大事なことは待つとか葛藤かに厳しさがでてくるべきなのに、間違う人は厳しくいわれたら、「分りました!きびしくしつけます」とぱっとやるんです。それと人間関係がないのに、やったらムクアクチャになります。大事なのは人間関係の深さです。それも子供が小さいときにきっちり関係をつくらないとダメですね。子育てやって失敗したなと思ったり、30分くらいは悩んだっていいんですよ。そういうものがあるからおもしろいですね。親が「あのときはすまんかったな!」と思って暮らしているのと、「おれはみんな一生懸命やってんだ。おまえはなんだーっ」といつも怒っているのと全然ちがうでしょ。

2007年12月18日火曜日

地方テレビ・放送の自由と倫理


写真はゆんフリー

メディアの現場から:テレビ神奈川・野口宏幸1976年入社
報道の自由と放送倫理(2007.12.16の講義)
現在厳しい目でみられている。全国に日本テレビ・フジテレビ・TBS・テレビ朝日・テレビ東京のキー局以外の地方局は120社ある。
テレビ神奈川の場合は全社は、120名で報道部門は記者13名・カメラ等運転手11名計24名でうごいていて、選挙速報時は全社総出だそうです。
●行政関係のニュースは民放の地方局では伝えるのは難しい、税金関係は視聴者が関心あるので報道しやすい。飲酒運転禁止も報道しやすいし、首都圏では事故率を下げにくいがこのキャンペーンは効果がある。
●民放の報道番組が面白いのは自局の社員が伝えるにはいろんな意見を公平に扱うように放送法で規制されて、コメンターターや外部委託(10chの古舘、久米)はその人の意見が言えるが、NHKの場合はキャスターは自分の意見は言えず、コメントを求めたものならよいが、そうはいかないので、ニュースを読み上げる調子になってしまうハンディがある。
●ネタが内部情報によるものが多くなってきている。(関東学院大の大麻吸引もフジ屋も)
●火事など一般人がカメラで現場を撮影したものを、PCで送ってくれるようにもなってきている。
●以前秋田県で母親が最初は自分の子供が殺されたという同情を買ったが実は自分が殺し、挙句に他人の子供まで殺害することがあったが、これを連想して
香川県の祖母・孫2人殺人事件で、評判では乱暴な言動がある父親が問題ではないかということで、犯人に仕立てる間違った報道がなされたが、このような過熱取材の是正方法の取り組み。このようなワアっと取材陣があつまるのをメディアスクラムとよんでいるが、カメラ台数,固定した連続取材の記者1名制度などの規制(雑誌やフリー取材はこの規制に入っていないが今後どう組いれるか)
●犯人が未成年者の場合の匿名:19歳で殺人を犯した場合でも個人情報保護法により、安易に情報を隠すことが行われるようになってきたが、実名公表の意義は事実の核心である・知る権利・犯罪の抑止力や事故を助けあう要因の面もあるのでバランスをどう取るかである。
●実名報道は肉親や親類縁者に多大な影響を与える。会社に取材しにいくだけでその対象に問題があるようにとられる面もあるので細心の注意を払っている。
●ニュースを読むアナウサーのスピードは1本1分前後で一定していないと、一定の原稿量が報道できないし、計算ができない。素人の人はバラバラで一定しない。1本で10秒で10本では100秒では1分を遙かにこえている。
●現場取材の必須道具:報道倫理手帳、実名報道要領を携帯させる。月1回は研修を行う。
●ニュースで同じ画面を何回も繰り返す理由:毎回新規で撮影するのは経費がかかる。決定的場面はそうザラにはないものです。プロのカメラマンはアングルや撮影チャンスは類似しているもの。
●報道取材の各社のカメラ撮影、報道でないカメラが状況証拠(過剰撮影防止)の
ために保管しておく(けして報道されることはないが)
●愛きょうある・美人ニュースキャスターの起用は何もニュースがない場合にはグルメ情報や不美人であるよりは美人のほうが視聴率アップにつながるから。

2007年12月17日月曜日

河合隼雄のラストインタビュー前篇その2


写真はゆんフリー


ちゃんと悩んだり、迷ったりしないのが問題です。
 「子育て、このままにならないのが面白いや、練習や」という気になったらだいぶ違うでしょうね。
人生に悩みや迷いがあるのが問題なのではなくて、問題があるのに、ちゃんと悩んだり迷ったりしないことが問題なんですね。そういう悩みや迷いを持ちこたえる力をぼくは「葛藤保持力」といっているんです。それが今すごく弱くなっていると思いますね。腹がへっても、お母さんに「ちょっと待ってて」といわれたら待っとるよりしょうがないかわけでしょう。スナック菓子があるわけじゃないからね。待っていたらおいしいものを食べさせてもらえる。葛藤保持力の練習でしょう。待っていたらいいことがあることをちょっとづつ練習する訳です。ちょっとしたものがほしければ「こんどの誕生日まで」とかやってるわけでしょう。
辛抱の経験の足りない子は物事を思うようにならないと、それを我慢できない自分が悪いのではなくて、だれかが悪いからだと考える。だから誰か悪いやつを探すわけです。お父さんが悪い、お母さんが悪い、やっつけろと短絡的にいくわけです。
どこかに入るときに、自分で戸を開けて入るか自動で入るかで、だいぶ違うと思いますね。ドアがなにもしないで開くようになっている。そのことに今,平気になっている。だから平気で他人の心のなかにズカズカ入り込んできたり、そういうことが起こってくるのは当たり前でしょう。
スーパーやコンビニで「おはよう」もいわず、レジにポンと渡して、金はらってパパットと。何も言わんでも、生きられるんです。今は便利になりすぎているんです。世の中便利になったから、みんながちゃんとやったら自分の思い通りにうまく行くのが当然と思いだした。ところがそれは物に対してはそうじゃないんですよね。それを間違って、自分の子供でも、ちゃんと育児すれば泣かない子ができる、とみんな思うわけですよ。そんなん、絶対子供は泣くわけ、そうすると、これはわたしが悪いんじゃないか、という自責の念がわいてくる。でも自分が悪くないでしょ。それでなんかむかむかしてきて「なんやこいつ」と子供をパンとたたいてしまう。子供はわっと泣くでしょう。それでお母さんはそれこそキレてしまうんです。そうなってらもうムチャクチャになるんです。だから子供を憎んでいるとかそんなにないのに、虐待してしまうんです。そして虐待した辛さを子供にまた向けるんです。はじめから嫌いでやっているのとは違うんですよ。その根本で「ちゃんと上手にやったらうまくいく」と思いすぎているんです。そういう虐待が増えているんです。

2007年12月16日日曜日

河合隼雄のラストインタビュー


写真はゆんフリー



河合隼雄ラストインタビュー:子供を守る母性が弱くなっている:論座・朝日新聞の雑誌。前篇ですが4回にわたって。今回はその1
子育てが両親にとって、エネルギーと工夫のいる時代
日本の場合、地域・世間が抱き込んでいたわけです。昔のお百姓さんの家は忙しいから、お父さんもお母さんも、そんな子供にべたべたとしとられんですね。けれども、家全体・地域全体が母性をもっていたわけでしょう。それをさらに自然が取り巻いて、いろんなものが子供を守っていたわけです。都市の周りもまだ自然が山ほどあって、東京でも、三角ベースで野球をするところがあって腕白坊主がおって、ということでみんな守られていたわけでしょう。そういう守りを補償するシステムを戦後になって全部壊したということをみんな気がついていないんです。空き地をなくして子供同士で遊べなくして、塾にいかせて、そういう人生にしておいて、お父さんお母さんが父性も母性も弱かったら、子供が弱くなるのは当然ですよ。だから今、子育てはお父さんお母さんにとって、ものすごいエネルギーがいる時代になっている。なにもかも個人でやらないといけないから大変なんですよ。ところが戦後の日本では「個人が大事や」となったとたん、そういうシステムを「しがらみや」といって捨てていったでしょう。「個人が大切や」といったときに個人が楽になった、自由になったと思ったわけでしょう。大間違いですよ。しがらみを捨てた分だけ、個人の責任がものすごく重くなっているんです。

2007年12月14日金曜日

特捜が挑む日米防衛利権の闇


写真はゆんフリー


特捜が挑む日米防衛利権の闇:以前購読していた「選択」という雑誌で、各新聞の記者が記事にしたいが通常没になるようなきわどい記事を集めて切り口鋭く、かつ分析力によって知の空白感を補ってくれる。2007・12号通常本屋には置いていないので定期購読が必要であるが、武蔵野市や西東京市の図書館に置いてありました。

記事を要約すると、
次期輸送機CXエンジンの商戦を巡って守屋の口利き疑惑の立件をうけ特捜部は政界ぐるみともいえる重大な国家機密について宮崎と守屋に口を割らせようと考えている(東京地検関係者)
特捜の狙いはメディアが注目する防衛族政治家たちの接待疑惑や便宜供与解明にとどまらない。本命は日米防衛利権の汚れたカラクリなのだ。「小沢が『久間は助からないだろうか』と福田にもちかけたらしい」11月2日の党首会談に関するこんな情報が自民党内に伝わっている。かつて経世会(竹下派)に所属した複数の国会議員たちは次のように証言する。「福田は、テロ特措法をめぐる小沢の強硬姿勢をブッシュ政権が快く思っていないと伝え、訪米に先立ち、小沢の意向を質した。この際、山田洋行事件が議題に上がったようだ。もし久間が捕まれば米軍再編計画が実は米国の意のままにつくられた疑惑のスキームだとばれてしまい、頓挫する。そうなれば日米関係は悪化。やはり疑惑にフタをするには大連立しかない、と」
疑惑のスキームとは何か。関係者の証言と入手資料によって総合すると、昨年9月に米退役軍人らによって創設されたプラント開発大手「ショー社」の首脳陣が来日、日本政府もまだ承認していない在日米軍再編の詳細をしるしたプランだった。米軍再編の大枠は昨年5月の日米安全保障協議委員会(2麻生外務大臣・額賀防衛庁長官プラス2ライス国務長官・ラムズフェルド国防長官)において合意したが、日本側は3兆円もの資金を投じるように約束させられ、なかでも在沖縄海兵隊8千人のグアム移転は、米国内の米軍基地建設を日本側が費用負担するという「国を売るようなプラン」(野党幹部)としても国会でも追及された代物である。
「ショー社はブッシュ政権の後援企業で、イラク戦争後の石油プラント事業でも名乗りを上げた。グアムへも移転には世界大手の建設会社ベクテル社なども参入を表明し、日米間のパイプを使い、有利な再編プランを獲得しようと水面下で動き出した」(防衛庁関係者)
ショー社首脳が来日したのは最終合意からわずか4月後、政財界の要人と接触」発注者を「米軍」と位置づけ日本側の財政負担と日本企業の取り分について要求を突きつけたというのである。塩崎官房長官をトップに政府高官や自民、公明の3役たち24人が名前を連ねる「在日米軍の兵力構成見直し等に関する政府・与党協議会」が設置されるに至り、一連のスキームへの政府のお墨付きが明らかになる。
昨年12月25日、協議会は初会合を開き、住民の反対運動で進まない再編事業を促進させようと1千億円もの地元交付金制度を盛り込んだ再編促進法案を発表。このときの協議会のメンバーの一人久間が会見に臨み、日米関係にもプラスになるんです」と喜々として語った。{米国にこれだけ卑屈になる理由がよくわからないし、結構推論がおおいというような気がする。しかし読売新聞の渡辺が画策したこと、小沢が突然脈略なしに、大連合を組もうというのもわからないし、この小沢が辞任すると言い出し、それを引きとめたとか何かがあるからという気がしているがこれら全体を納得させる理由がよく分らない}
小沢は党首会談の前後から捜査の足音に敏感になっている。その背景には小沢の自民党幹事長時代に、湾岸戦争時、多国籍軍に90億ドルの資金援助をしたとき、下働きして走りまわったのが久間だった。「小沢は父ブッシュ政権で国務長官シュルツと深い親交を結んだ。このシュルツがベクトルの経営者だから小沢は米軍再編をつぶすわけにはいかない。ショー社に近い久間とウリ二つだ」(自民党議員)
別々の政党ながら米国の巨大企業をバックにする小沢と久間。
小沢と久間の師匠にあたる金丸信は瀬島龍三らとともに、「日本戦略研究センター」を設立、自民防衛族や防衛庁制服組、軍需産業が集まるタカ派の拠点となった。これを小沢が引き継いだが1993年に金丸信が不正蓄財で逮捕された後自民党が分裂、小沢は脱党、自民党防衛族が新たな拠り所は、金丸信の鞄持ちや綿貫民輔の秘書もやった秋山率いる「日米文化協議会」だった。ここに民主党の前原誠司や公明党議員らも引き入れ一大防衛族グループが形成される。「この団体はやがて権威ある組織と認知され、コーエン元国防長官やアーミテージ元国防次官補たち米国国防族を理事に迎え、さらに安倍晋三、福田康夫も加わり、残るは民主党の小沢を招くばかりだった。つまり日米安保を御旗に一足先に防衛議員たちの再編統合がおこなわれていたのだ」(自民党議員)
守屋の証人喚問を執拗に求めた民主党内の会議で、証人喚問について想定問答をつくろうとしたとき、小沢グループ「一新会」のメンバーは国会の質問に2つある。
真相を究明する質問と党利党略を計算にいれた質問。山田洋行事件は一歩間違えると危ないとし、同僚議員たちを驚かせた「この直後ですよ。大連立話が噴き出したのは」と民主党議員の一人。「秋山の団体をつつけば、民主党も返り血を浴びる」
民主党の非小沢グループは「離合集散でできた二大政党維持はもはや無理」とし、次の構想を打ち明ける。
「親米派の自民党清和会と防衛族の多い旧竹下派に民主小沢グループが合流する新自民党、もうひとつは非防衛族の宏池会と民主党非小沢グループがドッキングする新生民主党の2つに再編すべきだ」
久間や秋山を追い込めば追い込むほどいっそう政治のねじれが表面化するというジレンマがある。このねじれが今後の政界の再編の原動力になる。
山田洋行事件の捜査は「守屋利権」・普天間基地移設問題で守屋とその一派である那覇防衛施設局長が地元出身の議員や地元業者と癒着して移設事業を独占しようとした事件である。この事件は「久間・守屋ライン」は守屋が地元出身議員と組んだことから久間がきれているので、久間逮捕にはつながらない。特捜は久間捜査班を別に設けている。但木検事総長は官房長官=法務政事務次官として長くパートナー関係にあった。「政治的配慮」は不可避である。八木宏幸特捜部長は辞表片手に捜査に臨んでいるというが政界ルートへの踏み込みは心許ないのが実情である。さてこの予測・推測はどうなるものか。

2007年12月13日木曜日

米国における写真機

写真はゆんフリー

12/12成蹊大学での共立大学教授生井英考の講義
近代写真術に誕生は1839年でフランスで生まれた。
ダゲレオタイプという金属板に直接露光する方式で非常に鮮明に見えて浮き上がったみえるものだった。画像の保存には優れていた。しかしシャッターを数分開けて光を取り込む必要があり、人物写真をとるときは、白くするためにメリケン粉を顔に塗ることや動かないように、頭を抑えておく道具が椅子についていた。
写真の歴史は光を取り込み、それを露光する物質を受ける板が必要で、これを必要以外の光を遮断し、定着させるための暗室や暗箱をどう小さくするかの歴史である。モールス信号を作ったモールス(絵描き・科学者・発明家)がフランスに滞在中にこのダゲレオタイプの写真技術を米国にもたらした。この写真技術により、その当時の社会現象・事情・服装が撮影され貴重な資料として残っている。米国ではこの写真に敏感に反応している。モールスに出入りしていたブラディは流行写真家であった。この写真は銀でつくられていたので銀板写真を使用していた。スコヴィル社とアンソニー社は銀板写真市場で競争(1840-50年)を始めた。スコヴィル社は1840年米市場を席巻していたが、アンソニー社が加わることによって競争が始まった。このころはボストンが文化や事業の中心地だった。
1840年代初仏製銀板1枚2ドル
1842-3年は米製銀板2枚1ドル35セント
1845年米製銀板1ダース3ドル50セントと大幅なコストダウンになった。
このようになると米国では新しい街ができると、写真館も併せてできるようになった。
単価がどんどん下がった面、大きさを大きくすることで、売上を落とさないようにし、又米国人は写真の大きいのを好んでいたし、市場が一期に拡大した。
モールスの弟子でもあった土木技師のエドワード・アンソニーはマンハッタンに
写真館を創業。消費者のニーズを察知し47年には写真用品の卸会社を設立した。1850年にはボストンの器械業者が開発した電気メッキによる新しい銀板製造技術をとりいれ本格的な写真用品の製造業へ参入し、西部市場の積極的開拓を実現した。これによって製造元から出発したスコヴィル社と並ぶ最大手の写真用品製造・流通・販売業者になった。
大量生産の元祖のようにいわれるフォードであるが、この写真用品でもテーラーの科学的生産技術のように、職人技術を分解して誰でもできる作業に置き換えて(鉄砲鍛冶→ウンチェスターのように)、部品ごとに製造技術を分散したので熟練度と精密度が各段に向上して、大量生産の素地は機械のウエイトは低いができていた。1851年イギリスの彫刻家フレデリックは硝酸と硫酸の化合物を使い、ガラスの板のその場で薬剤を塗布して撮影する方式を発明した。画像が不鮮明でガラス板も重く壊れやすかったが、陰画・陽画法であること、コストが安いことで徐々に普及し1880年代までに陰画・陽画法が一般化した。これをコロジオン法という。1870年代にはセルロイド素材の実用化・産業化。並行して1880年代末には紙のロールフイルムが、部分的に普及し、大衆市場向けのものも発売された。米国はヨーロッパで発明されたものを更に性能の良いものに発展させる力があった。アメリカの労働観はベンジャミン・フランクリンにいわせると{時間・信用・貨幣}も貨幣と同じである。
ライト兄弟の大西洋横断飛行は有名であるが、元来自転車屋であったが、いろんな飛行機に関する技術の特許を取った。があんまりがんじがらめに取ったので周辺企業は利用しにくく、米国の飛行技術の発展がヨーロッパに比べ遅滞した。この特許の守勢と技術の発展の調和は難しい面がある。1895年映画をスクリーンに移す技術がフランスで発明された。フランスではブルジョアのための先進技術であるが米国は庶民へのものに力をいれるという違いがあるしマスマーケット指向である。具体例でいうと、フィルムのコダックと、
映画等のエジソンであるという。

2007年12月12日水曜日

映画「流れる」


写真はゆんフリー
「流れる」成瀬巳喜男監督、原作は幸田文、昭和31年の芸術祭参加作品
先日の東京経済大での榎戸耕史(エノキドコウジ)映画監督の講義で推薦をうけたdvd映画を借りてきて見てみました。

場は清元のながれてくる隅田川近くの花柳界(浅草2丁目と画面の一部でちっらと分かる)
山田五十鈴の若いころの奇麗さ、田中絹代の清楚なそぶりなど人間の品格がでている俳優陣がそう揃いした映画でした。
●乗り物は人力車はタクシー代わり
●電気代節約のため早くねる→顔に皺が出来ないの(ちょっと意味が解しかねる)
●子供が注射するときは母親が目を背ける
●女子職業安定所
●男が頼りにされていた時代(法的・金銭的アドバイスや援助)
●芸者はプロとして襟足は素人より際立った奇麗さを誇りにおもっていた。
●芸者置屋の世渡りの下手な「つた奴」(山田五十鈴)のところに亭主と子供を亡くして身の置きどころない、女中として働きにきた梨花(田中絹代)。「つたの屋」には芸者の「染香」(杉村春子)は近所のアパートに10歳年下の男と住む。OL上り現代感覚のある「なな子」(岡田茉莉子)がいる。30代を超えたら婆といわれるこの界隈であった。
つたの屋には芸者は嫌いという娘の「勝代」(高峰秀子)と往く当てのない・妹親子が住んでいる。「ぽんこ」と言われる「つた奴」にかわいがられている猫がいる。
芸者でもう一人いたが、給金の不足に嫌気がさして逃げた「なみ江」と左前になった「つたの屋」とに関してのトラブルがあった。そこに「なみ江」の石屋である叔父(宮内精二)が乗り込んできた。粘りに粘り半ば脅迫気味なので5万円を払ったが納得せず。
そんなとき、経済的不如意を気遣って、「つた奴」の腹違い妹の金貸しはいいスポンサーを紹介するが、気に沿わないので遠慮する。
●一流の花柳界では、私事で警察のやっかいになると没落に近い・落ち目というか名折れになって業界での評判を相当に落とす。最後に警察の沙汰によって、解決し自宅の「つたの屋」にもどり後腐れないように酒杯をかわす。
こんな場面に染香となな子がお呼ばれ先から帰る。つたの屋に帰ると唄い踊りだす。
「座敷は明るすぎるほど。床の間には黄色いスイートピー、お膳には美味しいものが並び、こんなによい商売はない。ジャジャンガジャン。ジャジャンガジャン」
しばらくすると、染香はふらふらっとなってしゃがみこみ吐きそうになる。このことが花柳界に身をおく身の危さを象徴している。
外目は華やかであるが、つた奴の世渡りの下手、勝子の潔癖と将来の暮らし方の不安、妹親子は板前(加東大介)の男に捨てられているのをわかっているのに、すがりつく、時代に流されないのは「つた奴」の金貸しの腹違いの姉(加原夏子)と、現実を見すえた姉さん芸者(栗島すみ子)の2人以外はどれをとっても時代に流されている。これがしみじみと人生の流れを物語っている。

2007年12月11日火曜日

日系社会青年ボランティア

写真はゆんフリー


2007.12.10亜細亜大学JICA日系社会ボランティアOB鈴木彩見(同大学OB)
このひとは未だ若い女性の卒業生であった。
青年海外協力隊とボランティアの2つの流れがある。
シニアでもシニア海外ボランティア、日系社会シニアボランティアは40~69歳まで可能であることが分かった。それにはこの道一筋のキャリアが要求されるようです。
海外派遣は43年目で累計3万人にのぼる。約80ケ国職種Ⅰ20種、教育文化、小学校や青年活動、保健衛生(エイズや感染症)60日間の現地語中心の訓練期間がある。
派遣終了後に要請等により、小学校や大学へ経験談のPRが必要である。

日本人の海外移住は、最初は1867年ハワイだった。戦前は77万人、戦後は24万人で海外の日系人は約260万人だそうです。最初は北米であったが段々南米へ移行していった。海外移住は農村不況と日本の食料事情の悪さのための出稼ぎだった。ブラジルでは1908年が最初で来年100周年だそうです。
この鈴木さんはアルゼンチンの日本語教師として派遣されたが、事前にわかるのはラテン系、アジア系、アフリカ系のおおまかな地区分野しかわからない。
アルゼンチンでは三番目のサンタ州ロザリオで100万人の大都市だった。だから必ずしも辺鄙なところへの派遣とは限らない。ラテン系の名称は日本人には同じような地名と思うらしく、相当確認を必要とする。
●南半球なので南風が吹くと寒いということに慣れるのに手間取った。
●イタリアから母を訪ねて3千里でマルコ少年がこの町に滞在した
●スペインやイタリアからの移民多し
●食事は牛肉をやいたアーサド、こればかりではビタミンがたりず、金属製のストローでホストを中心に飲む野菜といわれるマテというお茶をよく飲む。休日で公園でも仲間とつれだってこのマテ茶を飲む。
●女同士だけでなく、男女でも初対面でもベシートという挨拶が頬をつける礼儀であるが、日本人はなれるまで恥ずかしい。慣れると、これをしないと帰るのが物足りなくなる。友達との約束よりも、家族との食事が優先する
●日本人会や日本語学校の年間行事:1月新年会、3月敬老会、5月総会・バザー、6月ボーリング、?月移民祭り(各民族の出しものがあり、10夜連続)、12月忘年会。日本人の会館では席が男女別れる、アルゼンチンでは夫婦は何時も一緒なのに。
●日本語学校の生徒;日系2.5:以外7.5。児童館みたいなイメージもあるし、多勢に無勢ということか、日本人は劣等感と差別化感を感じている。日本人同士の交流の場、日本文化を継承させようという意図もある。
●日本の7.5倍の面積に4分の1の人口3910万人。
●日系人の言語:コロニア語日本語とスペイン語のmix、明治か大正、昭和初期の日本単語を使っている部分もある。
●アルゼンチンへの移住は戦前は5398人、戦後12066人、日系人約三万人、沖縄出身者70%。パラガイやボリビア、ブラジルから転住してくる移民おおし
1990年から日系人の入国ビザなしは日本の労働人口の補いである。
●JICA横浜 海外移住資料館http://jomm.jp/
JAICAホームページ:http://www.jica.gp.jp/
「世界の笑顔のために」http://jica.go.jp/partner/smile/index.html

2007年12月10日月曜日

運が歴史を作ることも

写真素材より



人生に運のよいときと悪いときがある。運のよいときは大ていうまくゆき運の悪いときは十分に用意をしてかかっても思いもかけないことから失敗しがちだ。
長篠合戦は織田信長が鉄砲という新兵器を多量に用いて大勝利を得、日本の戦術を一変させたということで、戦術史上で有名である。
信長は長篠城西方の有海ケ原の中間を北から南に流れる小川を前に三重に柵を結い、柵の内側に一万人の銃手から選抜した三千人の銃手を3段に配置し、かわるがわるに千挺ずつの銃を間断なく撃てるようにして、殺到する甲州の精騎が柵にせき止められ柵を破ろうとしてひしめくところを霞網にかかったツグミを撃ち取るようにした。ついに甲州勢に全滅にひとしい打撃をあたえたので、以後の歴史家の激賞するところである。
当時の火縄銃は先ごめ銃なので、雨が降ったら使えないのであるが、戦のあった天正3年(1575年)の5月21日は太陽暦でいうと7月9日だ。梅雨があけるか、あけないいかの時だ。現にこの前夜、織田・徳川の連合軍支隊が長篠城の東方にある鳶ケ巣山の砦を奇襲しておとしいれたのはしのつく豪雨を冒してであった。それがその翌日は梅雨があがって思うがままに火器を活用することができたというのは信長の幸運である。
史談「切捨て御免」海音寺潮五郎の武将雑感より

2007年12月9日日曜日

映画の現場から


写真素材より
東京経済大・マスメディアの現場から:榎戸耕史(エノキドコウジ)映画監督(桜美林大学映画学科教授)
●監督の職業:質問される仕事で、助監督・照明・カメラ・美術・音楽係などからこれはどうしたらよいかと問われたことに応えるが仕事。手に職があるわけではないが
このシーンではこの季節で俳優の演技を引き立てるにはこういうふうな花にしたいという雑学が必要。映画を沢山みるよりも、今自分がやっていることに充実感や疑問をもっていれば、それが映画を作る糧になる。
●答えるにはなんでも知りたい・知っていることが自分のプライドになる
貯めこんでおくだけでなく、どう伝えるかは頭で考えてでてくるものではなく、
人と会い、会話のやりとりから観察眼が生まれる。

●映画は映像・美術・音楽・小説・バレー・彫刻などを総合した芸術である:集約すれば「労働」「戦争」「不正(悪)」「孤独」「別離」「愛」「死」の7項目を表現する。これらを次の世代に自分達はどういきたかを継承してゆくことである。

●興行収益と映画の内容充実は両輪であるが、ハリウッドのようにマネーがパワーという経済が価値感を左右している。しかし豊かさだけが充実度ではないように良い意味での後戻りする傾向がでてきたのは喜ばしい。
●映画は他人の人生をともに過ごせる。耳・目をふさぐことはできないので、
視覚と聴覚に訴えるものは人間の記憶にとくに仕舞い込まれている。ショット・ショットを見せてそれぞれの情緒・情感を導くことである。そいうことは日常の中に溢れていることが環境問題などにもつながっている。現在は映像による情報が溢れすぎて、麻痺を起している。デジタル技術が加速度的に映像を増加させている。
●書かれている物語は勝者の物語が多く、これらの我田引水の嘘を見破る
●人生ということには人類が何千年の歴史を経ても、これっという答えはない。
又人間は物語を欲しがるものである。
●オールウエイズなど時代回帰があるが:誰でも抱えている問題はリアル過ぎて
みなに訴える物語にはならないし、今そういう際立った日常と非日常のある物語がないので昔のストーリーを利用している。
●映画ができて110年位経過している
●小津安二郎の映画もよいが畸形な部分がある。人間の良いところだけで、悪の表現がない。推薦する映画は成瀬己男監督の「浮雲」、「乱れる」・「流れる」。一番は清水宏監督の「蜂の巣の子ども」これは浮浪児のものがたりで小学生にみせればイジメはなくなるという位の映画であるそうです。
●映画自身で自分の映画の解説をする:情報をだすことによって映画の意図を伝達しようとの親切かに見えるが、余り深くや広い視野でみられると荒がみえてくるので、目立たないようにしようという情報操作である面がおおい。

2007年12月8日土曜日

企業の社会的責任

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2007・12.6亜細亜大学の企業トップによる講義
今日は化粧品とサプリメントの会社で、横浜の関内にあるファンケルという会社の宮島和美社長のおはなしでした。
この会社の好感度が52位だったのが、現在200位以下となっているので、会社を磨きたいということから話が始まった。
グループで現在1000億円の売り上げ1980年創業。
以前の顧客層は25から35歳であったが、今は10歳年齢があがっている。
商品の差別化は無添加ということですが、防腐剤・殺菌剤・香料、の不使用ということだそうです。
ペットボトルの蓋をあける力は10kgだそうですが、この会社の容器についていえば、化粧品は防腐剤をいれていないので固く締めて置く必要があったが、固いので顧客から緩くしてほしい要望等がでていた。技術の向上により有効期限は1週間を1月分とした。容量を5mlから30mlにし、あける力は、6kgを4kgにしたそうです。
102品目許されている防腐剤等について一切使用されていなかったのが「売り」だったのですが、法が改訂され、化粧品の場合は含まれている内容をすべて表示することになっているそうです。口に入る食品よりも、厳しいことを表示していることになります。
とにかく防腐剤がはいっていないし、顧客に早く届けたいということで、配達を速やかにということで、日本通運による「指定場所配達」というのをやっているそうです。
大和運輸は顧客に直接渡すということなので、応じていないそうですが、留守であっても予め了解を得て郵便ポストや自転車の籠にいれて置くことにより運送の迅速性を達成しているそうです。
前の社長で現名誉会長の70歳になった池森氏は会社を潰した経験があるそうです。
出典は分りませんが、「落ちたところが出発点という」のを見て、元来楽天的な性質なので、なるほどとおもったそうです。当初は無添加[防腐剤の入っていない化粧品だけなので14億円の売り上げであったのを、アメリカでは、スーパーで普通に売られている健康食品を見て、この商品の将来性を見込んで、売上と同額の広告費をつぎ込み、価格破壊を試みたのが成功のきっかけだった。この池森氏からダイエーの仲内社長の辞任にともない、秘書であった宮島氏も退職してこのファンケルに秘書として再就職し、今年社長を委嘱されてまだ8月だそうです。
講師に招かれたのはCSRという「会社の社会的貢献」についてこの会社はどう考えるかだそうです。尊敬するは明治の企業家渋沢栄一が「倫理と利益の両立の提唱、経済発展は国を富ませ、社会に還元する」いっているそうです。

ことしに2回ほど実害がなかったが、1回目の5月はは供給される原料に異物混入よったニューアレルギーの発生する事態が起こった。クレームの電話500件、2回目の6月には米国の大豆にガンマー線照射(日本ではジャガイモの発芽抑制のみ許されている)のが分かって記者発表し2500件のクレームの電話をいただいたそうです。
CSRというのは日本で始めたのは1995年よりトヨタだそうです。CRSについては
簡単にゆうと、小学校の教科書にも載るほど関心高まっていて、「正直で嘘をつかない」ことに尽きるという。
会社は社会にいかに貢献しているかの配慮が当然に必要であるが、連日とくに食品の嘘が老舗においても行われている現実は呆れるほどである。
●この会社は近隣の朝も清掃をやっている。会社の会議は取締役の会議でも全て立ったまま最高7時間に及ぶこともあって辛いこともあるが・・・・
●軽度の38名の障害者による完全に自立させる特例子会社ファンケルスマイル、親会社は通信販売をやっているのでカタログの発送,DMの封入・発送、廃棄書類の処理等をおこなっているそうです。給料もボーナスも会社も黒字経営の子会社は親会社の廃棄する事務書類のシュレッダー処理する会社だそうです。重度の障害者の施設「朋」に賛助金をだしている。これは年1回株主[4300人]優待で1万円の商品をプレゼントすることにしているが、それに相当する分を不要ということで寄付に回してもよいということなら会社がその分負担しましょうということだそうです。これで108名、1万円でなく2500円分にしたら2500名に増えたそうです。
●ファンケル化粧品の海外進出はあるかの質問には:欧米ではスッキリすることを化粧品に望むが、アジアでは美白、クスミ、シワを改善する目的の化粧品を求めているので有望だそうです。
●会社の会計も透明度を高めるために来年の3月より、内部統制をたかめる仕組みとなり、その次の年の3月には決算に反映しなければならないそうです。

2007年12月7日金曜日

生命の糧

 
写真素材より

グッチン・インディアンの古老が語る部族とカリブーの関わりに星野道夫は耳を傾ける。
自分もそうやっていつもカリブーを待っていた。老人と同じくらい何週間も同じ場所で待っていたことがあった。ツンドラの彼方から、その大群が現れたときは震えるような感動があったが、それは老人が見たカリブーではない。飢餓に襲われ死期がもう目に前まで迫ったとき原野の果てからやってきたカリブーを僕はしらない。きっと老人のみたものはカリブーという形ではなく、もっとボンヤリとした自分自身とカリブーとの境も消えた大きな生命の流れのようなものではなかったか。アラスカ先住民の人々がかつて何を考え、どんな自然とのかかわり方をしてきたのか、そして近代との接触の中で何を失っていたかが気になりはじめていた。そのことを人々の声や気配を通して感じとっておかないとどうしても前に進めないような気がした。

2007年12月6日木曜日

福沢諭吉の武士気質


写真素材より

福沢諭吉は咸臨丸がサンフランシスコにゆくときに、諭吉は伝手をもとめて総督海軍奉行木村摂津守喜毅にあい、従僕としてお連れいただきたいと懇願して一議に及ばず快諾をえた。
 かれは藩主である豊前中津奥平家の中屋敷の長屋で英語塾を開いていたが、慶応3年の秋に、新銭座の木村家に遊びに行くと、木村家の用人の大橋栄次が「そこの先の有馬家の中屋敷が売りにでている」と話をした。塾が繁盛で手狭になり、敷地400坪は格好と思った。そこで用人にたのんで数回の折衝をへて355両に値切り、支払は12月25日とし、武士と武士の約束で証文も作らなかった。
諭吉は苦心惨憺の末、お金を整え木村邸に向かった。戸じまり厳しく、門前払いをくうところであった。門番小屋に来意を伝え、取り次いでもらった。諭吉ならあいましょうということになった。戸じまりの理由は、三田の薩摩屋敷の浪人が幕府を激発させようとご用盗みを江戸中荒らしまわっていた。幕府はこれに堪忍袋の緒がきれてお雇いのフランス砲兵士官ブリューネの戦術によって薩摩屋敷を焼き討ちにしたので、いわば戦闘状態を避ける意味だった。大橋用人はこの江戸が焼け野原になるかもしれない、いくら約束とはいえただ同然の今、約束の値段を払うこともなく半値とか100両にしてもと助言した。
しかし諭吉は約束は約束だ。戦乱がおわり平和時にこの脇を通る人は、戦乱に乗じて叩いた価格で屋敷を手をいれたあの諭吉だと指をさすに違いないという。さすれば
約束は約束を守るべきが大事という。それほどまでにいうならば、ということで、そのまま支払をした。明治以来諭吉の伝記や諭吉を評論する文章が数多くのひとにかかれているがかれの儒教嫌いや「封建制度は親のかたきでござる」ということばや少年時代にわざと神のお札を踏んだこととか、金銭をいやしむ武士の風習を誤っていることとしたことや「天の上に人をつくらず」といったことやそんなことばかりを最も大事なこととしているのが不思議でならないのだ。彼は生涯借金をしたことがなかった。それは志をまげることがないようにという配慮からだった。
「時代遅れの人」あるいは「愚直で出世の見込みのない人」と軽蔑的似みる傾向がある。この傾向は戦後に始まったものではない。戦争はるか以前、明治のはじめころから始まって次第に傾斜の度を強めて来て、この大戦後に一層強くなった。これは日本が明治初年以来当面した課題にも原因がある。できるだけ急速に欧米先進国においつかなければ、日本の存在は危ないという国家の要請が最短距離をとって出来るだけ効果をあげようとの気風を日本人一般にうえつけてしまったためとも思われるのだ。敗戦後一層そうなった。海音寺潮五郎著:史談:切捨て御免;文春文庫の「大西郷そのほか」よりそのまま引用

2007年12月5日水曜日

もう一つの時間

写真はゆんフリー提供
東京で忙しい日々を過ごす編集者だった彼女は,何とか仕事のやりくりをつけて、クジラを撮影する僕の旅に一週間だけ参加した。前日の夜遅くまで東京で仕事していた彼女にとって,南東アラスカの夏の海はページをめくるように現れた世界だった。
ある日の夕暮、ザトウクジラの群れに出合った。僕達は小さな船で,潮を吹き上げながら進むクジラのあとをゆっくりと追っていた。クジラの息が顔にかかってくるような近さで、それは圧倒的な風景だった。あたりは氷河と原生林に覆われ、悠久なるときの流れの中で、すべての自然が調和し、息づいていた。彼女は船べりにもたれ、心地よい風に吹かれながら、力強く進むクジラの群れをじっと見つめていた。その時である。突然,一頭のクジラが目の前の海面から飛び上がったのだ。巨体は空へ飛び立つように宙に舞いあがり、一瞬止まったかと思うと、」そのままゆっくりと落下しながら海を爆発させていった。それは映画のスローモーションを見ているような壮大なシーンだった。
ずっと後から彼女はこんなふうに語っていた。
「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったって?それはね、私が東京であわただしく働いているとき、同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛びあがっているかもしれない、それを知ったこと・・・・東京に帰ってあの旅のことをどんなふうに伝えようかと考えたけれど、やっぱり無理だった。結局何も話すことができなかった。」と
旅する木:星野道夫著:もう一つの時間

2007年12月4日火曜日

お墓の行方


写真はゆんフリー提供

お墓の行方
東北大学大学院文学研究科教授・日本思想史佐藤弘夫:211世紀くらいまでは、天皇家や高僧など限られた人々を除いて、墓が営まれることはなかった。庶民層の遺体は特定の葬地に運ばれ、風葬の状態だった。墓を作っても定期的に墓参が行われることはなかった。時がながれれば、天皇稜でさえだれのものかわからなくなってしまうのが当時の実情だった。
 12世紀になると新しい葬送儀礼がはじまる。聖地=霊場に対する納骨の信仰である。身内のものが火葬骨を高野山などの霊場に収める風習が確立する。しかし納骨した以降は行方に関心がはらわれることはなかった。
日本において遺体・遺骨に対する態度の大きく転換するのは、戦国時代から江戸時代の前期にかけてのことだ。庶民層にまで「家」の制度と観念が確立されて家の墓地が普及し、子孫による定期的な墓参の習慣が一般化してゆき、墓には先祖が眠り、そこを訪れればいつでも故人に合うことができる現代人に通じる感覚がしだいに社会に定着してゆく。
逆のいいかたをすれば死後は墓の中から懐かしい人々の生活ぶりを見続けることもできる意識の目覚めにほかならなかった。
このように人々の死者に対する態度は、これほどに激変している。
今また変化のとき、自然葬はこまかく遺骨を砕いた上、海や山に散布する。一方樹木葬は墓地と認定された里山に遺骨を埋納するもので永続的な墓標はいっさい建てない。大自然の中での散骨はすでに「万葉集」にも見えている形式であり、一種の先祖返りの意味をもっているようにも見える。
墓参り:有名なマルクス、アダムスミスの墓を訪れるものは日本人だけとか、ヘボン博士の墓を所属した教会の牧師がしらなかった。生きている人格を大切にして天国のことは死者にまかせようという気持ちかもしれない。とはいえマルチン・ルター・キング、インドのガンジーの墓には参詣人が絶えないし、リヒテンシュタインの美しい田園にあるオードリー・ヘップバーンの墓は尊敬している村人だけでなく、ファンが押し掛ける。
長崎外海のキリシタン墓地には、ハンセン病者600人と一緒、看護に生涯をささげた井深八重が葬られて「一粒の麦」と墓に記されている。
阿部志郎横須賀基督教社会館会長
共に2007年明日の友170号より

2007年12月3日月曜日

日本のマスコミの問題点


写真はゆんフリーより
東京経済大学ホルバート特任教授ホルバートの話以前お話ししたアミュエル・ジェムソン氏と同様に外国特派員協会[外人記者クラブ]の会長だった。
●NHKの放送禁止用語:帰化人→渡来人、おちこぼれ、ジプシー、エスキモー→イヌイット、人種差別はよくないが、NHKはどうしてこうも、堅苦しいのか
●英国の新聞の始まり:コーヒーショップで、船は何時入港するか?を知らせるものだった。入港リストの横にはあらゆるものをのせる。ゴシップものる
日本でも瓦版はいろいろのせるものだった。しかし日本で始まった新聞は国の啓蒙するものに使おうという意図があった。報道の用語は報導だったとのこと。
外国人の記者は読者より上の目線ではいけない、あなたのためになることを載せる。
●ダイハツが米国進出に失敗した:ウオールストリートジャーナルいわく、日経はダイハツを少しも批判した記事を書かなかった(進出は国益になるからという配慮から、悪い面を書かなかった)米国では悪い面もかかないと、読者が間違った判断をするから両面のせる。
●いまはないが、英字毎日で記事をかいていたころ:被害者が新聞社前で座り込みを続けた。結局は新聞社がおれて記事を撤回した。
●野球でワールドシリーズが行われているが、いまはないが「ワールド」が主催したからこういう名前が残っている。日本のように新聞は高校野球やトルコ美術の後援をけしてしない。どこかで公平性欠くことにつながるから。中立でいたい。(広告がないか、少ないか?)
●1960年中国の文化大革命のとき、周恩来と田中首相、日中間の支障をきたすことは書かないという新聞社の協定(サンケイは反対した)が行われた。
●以前カナダの新聞の特派員をやっていたとき、お金に困って指を切る→一時補償金をもらえるという日本の記事を書いたところ、日本の駐在大使が抗議にきた、日本の恥だからよくないと。記者と編集者は大使がいなくなっての話はの内容は「真実は真実。」隠すこともない。
●日本の全国版の高級紙は真面目な記事をかく、日本人はやはり本当のことを知りたい・週刊誌は本当1割でも面白可笑しい記事でも読みたい。新聞がいい面や悪い面の両方をかけば週刊誌の存在はなくなるだろう。英国でもこの傾向はなくはない。
●「プレイボーイ」にコラム:を書いていたとき、香港の三越の地下の施設のディスコでドイツビール祭りをやるので、ナチスの軍服をきて参加してくださいの記事をかいたら、三越が電通をつうじえ抗議してきて、「プレイボーイ」
が折れたので、辞退した。
●慰安婦問題も米国下院議院で決議案が作られたが、どういう風に問題になったかの日本での詳細な報道はない。
●外国の新聞の社説に反対する記事も並立してのせるのが、公平。こうしないと信頼性が失われる。
●新聞の価値:編集して、記事の信ぴょう性も判断する、ブログの記事はそういう篩がまったくないので、将来これがはびこるようだと、相当問題になるし、結構新聞の存在を脅かしている。
●安倍首相がいなくなった途端、批判が集中する。何故前にも出ないのか。田中首相のときも政界との癒着に近いことを感じる。
●政治問題で勇敢に批判もする、右翼もいるがいろいろな社会問題について応援する部分は危険性を感じる。事実を書くのが大事。
●1分の価値:新聞は100字、ラジオは450字、
ラジオで1分以上継続して聞かせるのではなく,耳に聴かせるのは大変。

2007年12月2日日曜日

好きということ・嫌いということ

写真はゆんフリー より
好きということ嫌いということ:ディスカヴァー21伊藤守より

好き嫌いについてこれだけ項目を並べられるのは大したことに思える。
「グループの中で一番好きな人と嫌いな人を選ぶコミュニュケーショゲームしたことがあります。其のあとで聞いてみると、ちょっと面白いことが分りました。多くの人が本当に好きな人ではなく、二番目に好きだったり嫌いだったりする人を選んだというのです。まず好きな人を選ぶばあいほんとうに好きな人を選んで、相手が自分を選んでくれなかったときのショックを思うととても怖くて。」思い当たる節がありましょうか。
下記は目次だけ載せました。答えはあえて書きませんでした。
●嫌いな人はなくならない
●嫌いな人を好きにならなくともよい、でも自分は好きになる必要がある
●嫌いな人がいることは悪いことではない
●好きと嫌いの境界線は危ういもの
●嫌いといえるのは二番目に嫌いな人、ほんとうに嫌いな人はは嫌いとすら言わせてくれない
●不安に揺れる自分が許せない、そういうあいつが許せない
<嫌いな人から自由になる方法>
○嫌いな人のところにゆかない
○好きになろうとしない
○仕返ししようとしない
○相手を変えようとしない
○嫌いな人から逃げ出さない
○嫌いでないふりをしない
○嫌い!反応を味わってみる
○嫌いなままでいた方がいい相手もいる
○嫌いだということは嫌いだということで嫌いということだ
○大丈夫ずっと嫌いでなんかいられないから

2007年12月1日土曜日

日本民芸館


写真はゆんフリー

弓のお仲間が木工家具に励んでいて、その作品を日本民芸館に出品し、今回は残念ながら準入選であったが、展示されているというので、見学にいってきました。


その作品は和文机と引出でした。その他、陶器、織物、竹細工、漆器、籐細工などもありました。写真撮影はできませんでした。下記のhpをご覧ください。(京王井の頭線駒場東大前下車5分。周辺は駒場公園があって日本近代文学館や前田侯爵邸があり、住宅街も設計のすぐれた建物があり目を楽しませてくれます。)
http://www.mingeikan.or.jp/html/mingeikan-ten.html


中にはこれを職業としている人の作品もありましたが、純然たる趣味で出品されている方がほとんででした。準入選以上であれば、出品者が材料費など総合的に値段をつけて、さらに館が上の鑑定料も勘案して値札がはってある。


入館料は1000円ですが、陶器などは1050円の小壺、直径30cm中皿、で3000円、大皿で7000円からという具合で一般のひとでも購入できるものです。初日の23日にあらかた買い手がついたと思われます。織物の反物は100,000円からはするので、買い手はすぐにはつかないようです。2日でもう終わりですが、ここはもう来年になりますが、初日にゆくことをお勧めします。


センスのよいものが見つかる筈、コーヒー茶碗や湯飲みなど日常利用できるものが、


デパートなどでは手がでないものでも、ここなら手が出ます。見学がてら楽しい買い物ができます。





日本民芸館をご紹介しておきます。





歴史 ・ 思想 HISTORY & PHILOSOPHY
自刻像木喰明満 (1718-1810)江戸時代 1801年(享和元)高 75.5 cm × 幅 26 cm日本民藝館は、民藝美という美の認識の普及と、新しい生活工芸品の振興によって美の生活化を目指す民藝運動の本拠として、大正15年(1926年)に宗教哲学者の柳宗悦 (1889~1961) らにより企画され、実業家で社会事業家の大原孫三郎氏をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、昭和11年(1936年)に東京・駒場の地に開設された。初代館長には柳宗悦が就任し、宗悦没後は濱田庄司、続いて柳宗理が館長(現名誉館長)を務め、現在は小林陽太郎が館長を務めている。「民藝」とは、「民衆的工芸」或いは「民間の工芸」の謂いであり、無名の職人達が民衆の日常生活の為に作った実用品を指す語として、大正14年(1925年)に柳と彼の同志である陶芸家の濱田や河井寛次郎によって作られた。彼らは、それまで美の対象として顧みられることのなかったそれら民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった、人間生活に欠かせない大切な美の相が豊かに示されていることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見たのである。風土と伝統の力に護られ、自然の恵みを受けながら、虚心に仕事をする無名の職人の手になる作物には、時として芸術家が作り出す作品に勝とも劣らない美が宿るのであった。柳の主唱した「美の他力道」とも言える民藝美論は、従来にない新しい美意識を提示するもので、その工芸観は多くの共鳴者を生み、実用を離れた当時の工芸界の在り方に一石を投じるなど、日本の近代工芸に大きな流れを作っていったのである。当館が収蔵する日本及び外邦の新古工芸品は、柳宗悦の美思想を形成させた品々で、陶磁器・染織品・木漆工品・絵画・金工品・石工品・竹工品など各分野にわたり約 1万7千点 を数える。なかでも、丹波・唐津・伊万里・瀬戸の日本古陶磁、東北地方の被衣や刺子衣裳、アイヌ衣裳やアイヌ玉、大津絵、木喰仏、沖縄の陶器や染織品、李氏朝鮮王朝時代の陶磁器・絵画などの諸工芸品、英国の古陶スリップウェアなどは、質量ともに高い評価を受けている。また、民藝運動の同志として、民藝品から美の滋養を汲み取りながら、それぞれに新しい表現の道を拓いていった、バーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢銈介、棟方志功ら個人作家の作品も数多く収蔵されている。なお、陳列には物の美しさを活かすように意が注がれており、館全体が統一された調和のある空間となるよう配慮されている。ちなみに、本館の建物は柳宗悦が自ら設計したもので、平成11年に国の有形文化財に登録された。 

2007年11月29日木曜日

"夢追い人の往く道”

写真は
ゆんフリー

大事な人との別れ:本当に伝えたいことは別れてから出てくるというようなセリフがある。googleで探した紹介文も利用しながら・・・

この映画のビング・クロスビーの歌を聞いていると本当に幸せ気分になってしまう。「人助けは心豊かににするし、幸せが近くなんだ。角をまがると標識“夢追い人の往く道”幸せはすぐそこだ。わが道を往こう」
今日は時間が随分あったので、武蔵野市図書館に立ち寄りDVDブースも運よく空いていた。何気なく手にした「わが道を往く」という1944年にアカデミー賞をとったものだった。この作品の押しつけがましくないヒューマニズムに感ずるものの無い人でも役者クロスビーの人柄に負うところ大で、クルーナー(囁くように歌う)第一人者である彼の深みのある温かな歌声は、それこそアメリカ音楽の至宝なのだが、その歌声同様に真摯な演技者としての才に全く驚嘆させられるのが本作。NY下町の教会を自ら築き45年護ってきた老神父フィッツギボンの後任を命ぜられ赴任した神父オマリーだが、老師の心情を察し、あくまでも表立たず行動しようとする。そこへ、若い彼の実践主義に違和感を持った老師は、司教にその転任を願い出て逆に真相を知らされて衝撃を受ける。一度はオマリーの奮闘で経営危機を脱した教会が焼失。オマリーは自ら結成した聖歌隊(構成員の悪ガキたちにごく自然にハーモニーの楽しさを教える場面も素敵だ)をバックに、実はかつての想い人だった(眼差しだけでそれが分かる)、今はメトロポリタン・オペラのプリマのジェニーの協力も得て、自作曲の売り込みを図り、再建の資金を得ようとする。自信作“我が道を往く”は高尚すぎる--と受けなかったが、その後、何気なく歌った“星にスウィング”(オスカー受賞曲)が買われる。その他、家出娘の歌手志望キャロルと家主の息子テッドの若い恋の応援もさらりと描かれ、オマリーの人間味をあぶり出す。そして、新しい任地へ赴く彼が老師に贈ったクリスマス・プレゼントとは…。この素晴らしいラストは他言無用。名優フィッツジェラルドの人間臭さがまた一気に吹き出る名場面だ。続編は「聖メリーの鐘」。

ジョニー・バーグ作詞、ジェームズ・ヴァン・ヒューゼン作曲による「星にスイング」やタイトル・ソング「我が道を往く」など5曲で自慢の歌声を披露。

2007年11月28日水曜日

地方自治体の情報化

写真はゆんフリー
情報化シンポジュウム・イン・西東京[役所の情報化に関して] 2007.11.27
西東京市のHPは最優秀賞を受賞したとの市長のあいさつから始まった。
<総務省の自治行政地域政策室長井上知義Z>の話
●今の日本のITのインフラは世界の最高水準にある。
●自治体のオンライン利用は図書館・公共施設の利用予約の利用率は合わせて48%
 入札は16%、港湾手続き25%、中には内容はよく分からないが、暴力団による不当な行為の防止等に関する責任者選任届が11万件0.03%の利用率というのもあった。

<市川市情報政策監・井堀幹夫氏の話>
●証明書等の交付はオンライン申請しても受取のために役所にゆく必要がある(市川市はコンビニで受け取れる)
●情報漏えい:どんなにがんばっても0にはならないが、市川市はISO取得で職員のセキュリティレベルは各段にあがった。
●民間のITのセキュリティ会社を利用するのも手だそうです。
●社会保険所へ分厚い紙データーを持参で照合チェックし、又持ち帰るのはIT時代にはお粗末で改善の余地あり。
●市川市はベッドタウンで選挙の投票率も20から30%で地方政治への関心が希薄であるが、ネットによって意見やクレームが寄せられるようになってきて有り難い。
●イギリスではパスポートも旅行代理店から受け取れるようになっている。
●市川市では市民の意見を全部ではないがパソコンで自動解析してグラフ化まで出来るソフトを利用している。
◎地域のポイント制度:ボランティア・リサイクル・市政モニター等に参加したらポイントを付与し、公共施設の利用料にも使用できるが、一番期待したいのは、そのポイントを望ましい団体に寄付することもできる。そうすることによって、なにかやるときに補助金をください→活躍する・喜ばれる団体に集まる。自ずと好ましい団体の評価ができることになる。(ハンガリーで考えられた制度で納入税金の1%をポイントにしようという。しかし老人や子供にはポイントがでないが、市川市の場合はこれにも出るポイント制度にしている)
神奈川県藤沢市は電子市民会議という自治会や静岡県掛川市生涯学習センターが小中学校に併設刷るように作ってあるそうで、時間がなくてここは聞いていない。

2007年11月27日火曜日

こころの距離

写真は「ゆんフリー」より

以前こんな話を読んだことを思い出しました。たしかアンデス山脈へ考古学の発掘調査に出かけた探検隊の話だそうです。
大きなキャラバンを組んで南アメリカの山岳地帯を旅していると、ある日、荷物を担いでいたシェルパの人々がストライキを起こします。どうしてもそこの場所を動こうとしないのです。困り果てた調査隊は給料を上げるから早く出発してくれと頼みました。日当を上げろという要求だと思ったのです。それでも彼らは耳を貸さず、全く動こうとしません。現地の言葉を話せる隊員が一体どうしたのかとシェルパの代表に尋ねると、彼はこう言ったというのです。“私達はここまで速く歩きすぎてしまい、心を置き去りにして来てしまった。心がこの場所に追いつくまで、私たちはここで待っているのです”
旅する木:星野道夫著:ガラパゴスより

2007年11月25日日曜日

フラット化する世界

写真はゆんフリーより
フラット化する世界
ロボコン(ロボットのコンテスト)は20年前から国立高専の大会をNHKがサポートしてきたが、99年からアジア53カ国の放送組織(ABU)がアジアの大学生を対象としたロボコンを開くこととになった。これは大変な仕事で、アジアは政局が不安定で、言葉や宗教の違い、通信などのインフラの未整備、それにお金がないなどのマイナス要因が沢山ある。01年9月の同時多発テロの時は中止になるかと思った。
 この時モンゴルから国内大会を開くというビッグニュースが、ありこれをネットで流すことにより、アジアの若者達が刺激されたことと、02年の東京の第一回の大会で、」ベトナムの大学が優勝するという番狂わせによって、ベトナムの学生がやれるなら自分たちもできるという挑戦する意欲が、アジアの若者達に湧いてきたと思います。東工大の森教授がいっている「ロボコンには正解がないからアイディア勝負になる」と。アイディアは強制されて出てくるものではないので任せるしかない。これがロボコンの基本精神であり、今大変評価されている。又ITの普及がロボコンを成功に導いてくれた。
 米国のトーマス・リトン氏の「フラット化する世界」によると、00年頃から世界が様変わりして、コロンブスの時代は世界が丸かったというのが発見でしたが、今や世界はフラットになり、ITのお陰で様々の障害がなくなり、いつでもどこでも最高水準の技術情報が得られるようになり、まさに独創性とアイディアの競争になりました。
これは母校の同窓会報に記念講演をしたNHKプロモーション常務取締役栗田実氏の要旨から。

以下は心の深みへ河合隼雄と柳田邦男の対談集より
●日本の大正時代の総合雑誌「日本及び日本人」が「百年後の日本」を予測していますが、学者、政治家、行政官の予測は全部はずれている。唯一当てたのが漫画家。新婚旅行は飛行機でハワイに行くようになりとか、工場の乱立で都会では公害が問題化するというものでした。何故あたったかというと,発想が奇想天外で、しかも勘が鋭かったから。
●いのちとか福祉とか医療といった現実生活に根ざした要求、ミクロではあっても、やむにやまれぬ大事な要求を起原とした小さな集団が、政治とは別の次元で実に多様な活動をして、地域社会を変えつつある。

2007年11月24日土曜日

食料自給率


写真はゆんフリー

食と農をめぐる今日的課題:食料自給率から読み解く
以上は東京大学・農学部長、農学生命科学研究科長生源寺眞一教授の東大農場公開セミナー11月23日から

農林水産省の発表によれば8年間食料自給率が40%を維持していたが、昨年度39%に低下したと発表した。
●日本人の栄養は現在摂取しているのは1900kcalであるが供給過剰で2600kclで、その分冷蔵庫を見ても、食べきれないほどにあふれている。

日本の穀物自給率は28%
1980年代半ば頃までは食生活の大きな変化が自給率低下の主要因
1980年代後半以降は農業の衰退が自給率低下の主要因
      <農業生産指数の推移>
1960-64年    1985-84年  2000-04年
総合     100        134         115
米      100         87         70
麦類     100         55         40
豆類     100         57         46
いも類    100         70         53
野菜     100         147        121
果実     100         194        150
畜産物    100         307        286   
ここに示していないが、1986年がピークだった。このときはバブルの年だった。

<1人1年当たりの供給純食料の変化>単位kg
1955年は高度成長に入った年
 1955年    2005年   2005年÷1955年
米       110.7       61.4      0.55
小麦      25.1        31.7      1.26
いも類     43.6        19.7      0.45
でんぷん    4.6         8.3      3.8
豆類      9.4         9.3      0.99
野菜      82.3        96.3      1.17
果実      12.3        43.1      3.5
肉類      3.2        28.5       8.91
鶏卵      3.7        16.6       4.49
牛乳・乳製品 12.1        91.8        7.59
魚介類    28.3        34.6        1.32
砂糖類    12.3        19.9        1.62
油脂類    2.7         14.6       5.43
●米は約半減、果実や肉・卵、乳製品類が3.5倍から8.倍強もの伸びをしめしている。
その頃育った人の実感は、梅干し弁当が幕の内弁当に、外食は年に数回程度であった。
●農地があまってきていますよ。米・芋などのカロリー生産型農業は国内消費の減少と
輸入農産物の増加とともに後退し、施設園芸(ビニールハウス)や加工型畜産・高品質の果樹が健闘した。

<品目別自給率の変化>単位%
      1960年       2005年
米     102           95
小麦    39            14
いも類   100           81
大豆    28            5
野菜    100           41
果実    100           41
鶏卵    101           94
牛乳・乳製品89           68
牛肉    96           43
豚肉    96           50

飼料   1970年38       25

 <ふたつの食料自給率のかい離>
1960年①   2000年②    
カロリー自給率      79%     40%        
生産額自給率       93%     71%        
②÷①          1.18     1.78
参考:カローリー対比で経済的価値がたかく自給率の品目はレタス、同種の輸入品にくらべ消費者の評価のたかい国内農産物で自給率は牛肉、飼料などはカローリーベースでと生産額の自給率に開きをもたらす要素がある。

●アジア農業は労賃や地代がこれまで農業の競争力を支えたが、長期でみると徐々にそうではなくなるでしょう
●中国・インドなど成長著しく・人口の多い国が食料の質のレベルを上げてきたら、影響は相当大きなものになるでしょう。
●土地余りの状態の下で、安定兼業農業や定年帰農のホビー農業とビジネスとしての農業経営は十分に両立可能
●水田農業の持続性に注意信号:水田農業は平野部でも耕作放棄地が広がり始めている。
それでも水田が持ちこたえているのは昭和一桁世代の頑張りによるが、後10年もすれば80代になるので、期待できないし無理である。集約して1農家あたりの耕作面積を広げることも大事。
●日本の農業品目の輸入は7兆円、輸出は3500億円で20対1の比率しかないが、将来アジア地区でそれぞれの国の得意な農産物に特化してゆく方向もあってしかるべき。
<稲作と酪農の経営規模の推移> 単位a.頭
       1960年     2005年
稲作   55.3           96.1
酪農   2.0           59.7
※酪農は約30倍にもなっている。

●「イネイネ・日本」日本のバイオ燃料は稲、休耕田数10万ha、このうち2万haにおいしい米でなく、収穫量の多い品種にして年間30万klのエタノールが作れる試算がある、政府のバイオマスの総合戦略は年間50万kl、東京大学がスタートさせた

2007年11月23日金曜日

崇高な顔のインディアン

写真はゆんフリー


おおはようございます。昨晩は相当の寒さで、田舎の山形では雪の天気予報までていました。今日はアメリカのインディアンのお話です。
ユングという臨床心理学の学者がいましたが、彼が訪ねたネイデイティブアメリカンはプエブロ族。1920年代だったから誰にも注目されませんでしたが、プエブロの長老のような崇高な顔をした人はヨーロッパにはどこにもいない、ヨーロッパの老人たちはみな貪欲な顔をしている、言っているんです。たましいのことを忘れて物質文明ばかり追求している点で、これでは絶対にだめだになるということをその時いっています。そのアメリカも最近になってやっとそのことに気づくようになって、急にネイティブアメリカンから話を聞き出したりするようになったわけですが、ユングはもう80年前にそういうことを指摘していたんですね。
2001年6月第1回日本統合医療学会で伝統療法と西洋近代医学の統合を目指すシンポジュウムを行ったとき、議長役の東大名誉教授の渥美和彦教授はもとは人工心臓の研究者ですが、ヤギに人工心臓をつけてなが生きの世界記録を作った人ですが、ある日突然「先端医学は人を救わない」と言い出した。ほんとうに人間を救うとなったら、どうしても心の問題に到達するということです。
悪いものを摘出して医学的になおっても、自分の心のなかのもやもやしたものがあると、ついつい家族にあたったりする。家族も「医者に聞いたら、治ったと言っているぞ、健康なくせになにぼやぼやしているんだ」と怒る。そこさえほんとうに解決したら普通に生きている筈の人たちが、そういうことでとても不幸な人生を生きておられる、それがすごく多いと思います。(これは臨床心理士が徹底的に聴いてくれるそうです。)



心の深みへ河合隼雄と柳田邦男の対談の第7話より、
(下記の祈りはまた別です。どういう顔だったかに関心がありますが見つかりません。これらの祈りをしていた人の顔がそうではなかったかと想像します。)イエローポスト


おお父よ、わたしはあなたの声を風のなかに聞き、
あなたの息はこの世界中のすべてのものに生命を与えています。
お聞きください。
 わたしはあなたの前に、あなたのたくさんいる子供たちのひとりとして、 
今、立っています。
わたしは小さくて弱く、
あなたの力と智恵とを必要としています。


どうかわたしを、美のなかに歩ませ、
なにとぞこの眼に、赤と紫の夕陽をお見せください。
この両手が、
あなたの創られたものを、尊敬させるようにしてください。
この耳を、
あなたの声が聞こえるように、鋭くしてください。
そうすればきっと、あなたがわたしの一族に与えられた教えを、
一枚一枚の木の葉や、
ひとつひとつの岩のなかにあなたが隠された教訓を、
このわたしも、理解するかもしれません。


父よ、わたしは力を求めています。
偉大なる敵と戦うことができるようになるための力ではなく、
その力で、汚れのない手と、濁りのない眼をもって、
わたし自身があなたのもとを訪れる準備をさせてください。
もしそれがかなうのなら、
日没の太陽が姿を消すように、わたしの生命が終わりを迎えたとき、
いささかも恥いることなく、
わたしのスピリットはあなたのもとを訪れることができることでしょう。

アクエサスネ・モホーク・ネーションのセント・レジス・リザベーションの
なかに立つ「トム・ホワイトクラウド」という名前のひとりのネイティブの
墓に刻まれている祈りの言葉・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「虹の戦士」  北山耕平 翻案 太田書店 より

2007年11月22日木曜日

ケアと触れ合い

写真はメル友yamazakiさんから

おはようございます。コケを玉にしたものを作ったものが、今までは黒ずんでいましたが、本来の緑を取り戻してきています。

介護講座にいったら、同じ机のに学生と市民が並んでください。これは世代の違うもの同士が3分位交代で自己紹介もします。

ケアで大事なことは、自分が一番やってもらいたいことを相手にしらせることです。これはなんとなくしか考えていないことがわかりました。
まず書き出してみると、結構曖昧でした。書くことによってもっと自分でも鮮明にすることが大事だと思いました。こういうふうにいわれなかったら、オボロゲナガラしか自分のことが分かっていないことが
分ったことと、これを隣の人に説明する・相手はヒタスラじっと聞くという作業でした。

●ちょっと歩行がおぼつかなくなった人:あと堤のところの桜の木のしたで、存分に花に触ってみたい。→それでは今からそれができるようにリハビリをしましょう。
こうすると、目標ができるので頑張り方が違ってきます。
叔母が最近介護施設に入所しました。お隣の82歳のオバアチャンでしたが、介護4が訓練によって介護1になったそうです。

又弓の仲間で月に1週間は博多にいって母上の介護の応援にゆくそうですが、脳梗塞の治療が終わったら、別のリハビリ専門に移るべきだととのこと、これは
専門のリハビリにゆくと、厳しいが3倍もはやくよくなるそうです。

柳田:最近おもしろい話を聞きました。指圧マッサージの得意な女性が中学校をたづねていって、生徒同士で肩もみをやらせる。丁寧にツボとかのもみ方を教えてね。すると、もまれている側は当然
だんだん気持ちがよくなってきますが、上手にやっていると指圧をしている側も心地よくなってくるというんです。マッサージの先生が「指圧していて気持ちよくなった人」と聞くと
半分以上が手をあげるそうですよ。
河合:はいわかります。
柳田:触れ合うことでやさしさや思いやりを共有するコミュニケーションは、医療の現場にゆくともっと大事なんです。悩んで苦しんでいるお年寄りを看護師だんがさすってあげる。あるいは手を
握ってあげる。そのことが信頼と癒しにつながっているんですね。いりいろなデーターや処置ばかり教えられるが、こういうヒューマンな原点を忘れがちなんです。


河合隼雄と柳田邦男の心の深みへ:講談社より

2007年11月21日水曜日

コスト削減

写真はゆんフリー
ゴミ問題にも関連します。単純に節約・節約だけでなく、策をねり、同意をえて、智恵をあつめ、目にわかるようした上なんらば、企業の力になるようです。

今日はコピー用紙の裏は使うな!(コスト削減の真実)朝日新聞・村井哲之:コスト削減総合研究所社長1957年生まれ
まず問題です。

1◇コスト削減に最も効果があるのは人べらしだ。
2◇ミスコピーの裏紙を再利用すると、コスト削減になる
3◇事務用品をカタログで一括注文すると事務用品費が下がる
4◇蛍光灯を交互や片側間引くとコストが下がる
5◇クールビズのキャンペーンをすれば、夏場の電気代が削減できる。
6◇現場が暗くなるので、コスト削減はやりやくない

答えは全て×です。

1→不要のところはよいのだが、企業の生命力を阻害することはいけない。企業が苦しいときに陥りがち。
2下記参照
3カタログをみて百円ショップではないが不用品や量的に多くの在庫になる
41本間引いても回路の関係で電流がながれてしまうものもある。朝の最初の出勤者が全部点灯しないで、自分のいるところだけ、あとは順順に昼の消灯はイっセイにする。
5同じ環境でクールビズとそうでないところと[総務と営業]などと、2つの指標比較を作り実績がどうかというふうにしないと、見えない。
6→会社が苦しくなってからではなく、日頃から、企業の業務が始まればそのときから衰退の兆しはあるので、コスト削減は永遠のテーマ
。営業のノウハウ本は沢山あるが、確実に売上を上げる“100%成功の法則はない”がたとえ5%でもこのコスト削減は純益である。経営と現場の距離を様々な形で縮小できる。

まず1は社内文書用になど涙ぐましい努力を重ねていた。→ある日突然「裏紙を本日から禁止」というエライ人の鶴の一声で裏紙用の箱が無くなった。
 理由:大事な文書を社内に流して、今生きているのが表裏どちらか分からなくなっていた。「君この前指示したこのFAXを未だ処理していないのか」→部長
裏表逆です。机の上に逆におかれていた。ある時ホチキスの針がついた紙が使われてコピー機にが壊れた。急ぎの大事なコピーができなかった。

2007年11月20日火曜日

ゴミ問題を考える



写真はゆんフリー

おはようございます。随分肌寒くなりました。夏から冬で中間の秋が大変短くなったようです。
芝久保公民館まつりでゴミについてのクイズと講演がありました。
西東京市のこれからのゴミ収集の有料化に伴いかんがえようということでした。ゴミから地球温暖化も見えるし、経済の動きも見えてきます。
多摩地区のゴミについては日の出町のゴミ埋め立て場があと何年もつかに、驚いて隣接の青梅市が積極的になり、これが近隣に波及したということです。
池田千城さん(西東京市在住)はNPOのごみ問題に取り組んでいて多摩地区の理事でもある。どうしてこうことを始めましたかときいたら「家庭のゴミなども自分一人でも
努力」できるからという。又お孫さんもオジイイチャンの仕事はゴミ捨てといわれているそうです。イエローポスト
ゴミの量:
1人1日当たりの可燃ごみの量[持ち込み事業を除く、市の収集分]
 有料化  日野市355.4g、東村山市399.2g : 未有料化 西東京市445.4g
有料化にすると約15%は減るだろうというもくろみ、日野市が東村山市に比べて少ないのは
市長自ら率先していたからである。

●有料化したときのゴミ量の変化の推移(単位g)

   日野市             清瀬市の推移
年度      収集量  99年度比    収集量   00年比
1999年  670      0
2000年  546     -18.5%     503      0
2001年  380     -43.3%     453     -10.0%
2002年  381     -43.1%     438     -13.0%
2003年  374     -44.2%     441     -12.3%
2004年  353     -47.3%     420     -16.5%
2005年  355     -47.0%     424     -15.7%

●容器包装リサイクル法の役目[容器を作る業者と容器に飲み物などを入れて販売する業者が負担した金額
単位億円
品種       13年度     18年度
ビン        22        18
ペットボトル    91         2※
プラスチック    145        476
※はペットボトルは中国に売られていた。日本にも再生工場があるが、原料がないので立ち行かないそうです。
●白いトレーはこれだけ特別あつめてもコストがかかりすぎるので「容器包装プラスチック」と一緒の扱いでよい。


●クイズ:Aさんは下記のように分別しましたが、いくつか間違っていますどれでしょう

容器包装資源プラスチック:1シャンプーボトル、2プラスチックの弁当ばこ    3アルミのようなお茶・のり袋

不燃プラスチック    :4荷作りの紐    5ポリ手袋    6CD    7黒いプラスチックのハンガー

資源雑紙        :8写真    9はがき    10コーティング紙   11金箔のある紙
             12紙コップ    13複写カーボン
正解:1、3、5、6、9、
誤答:2、4、7、8、10、11,12、13
考え方:プラスティックは販売するために容器としたか・・・たとえば味噌がはいっていたのは容器の方に、形や材質が似ているが、
    2の弁当は容器ではあるが、中味はないので不燃の方になる。とにかくリサイクルで使うかであるから、洗っていないものは
    包装容器としては認めないという業者優先の考え方。
    紙のほうも、紙の大半になにか塗られていると再生しにくいので資源ゴミにはならない。

2007年11月17日土曜日

環境保全に即効薬はない


写真はゆんフリー

「環境保全」というキーワードを入れて検索すると、2002年でGOOGLEで約42万が約半年後47万件のヒットになっている。情報量が多いと人々の間に環境問題が社会の中で重要なテーマであることが伝わり、社会的コンセンサスの形成につながる。この情報量の多いのはよいのですが、意外な盲点になっているのは、この情報にどう向き合うかということではないか。ドイツの情報も多いが環境保全のための仕組みも運営もドイツの風土や歴史,習慣があってこそ成り立っているからだ。
三重県の環境研修;
もう10年も前になるが、ドイツへ地域で環境保全運動を行っている10人あまりが1年間の研修に参加し、最終的には政策提言まで力をつけたことだ。一般家庭ヘのホームステイでドイツ語も英語もおぼつかない中年以上の参加者が多かった。その熱心は取り組みには頭がさがった。
そうした難しい研修結果の活用:賞賛はするが「どうせ外国でやっていること」という雰囲気になる。このドイツの例を日本で適用するには難しいと回答した人もいる。
海外研修で何が変わるか:まずは「驚き」で、自分の住んでいる世界とは異なる建物,街並、生活ぶりである。「わあすごい」という驚きが感動となり環境保全運動の大きな原動力になるが情熱の空回りもある。それから日本とドイツとの比較して自分たちの取り組みや考え方を整理することで根源的な見直しができる。なぜ驚いたかの自分達の言葉ではっきり表現する。こうすればドイツで学んだ事例を血肉とすることができる。
日本は仕組みや概念の「輸入大国」である。とにかく日本風にどんどんアレンジする。
下手をすると勘違いしたまま、器用に適用する。日本の介護保険はドイツを見本にしているが、年齢や性別にかかわらず介護が必要なすべての人に適用される。ところが日本では介護保険は高齢者介護になってしまう。(これは急激な高齢化を迎え、老人介護をどうするかに関心が集中している面もあるし、財源を若い世代に押し付ける可能性大ということもあるようにおもいます)
環境保全には即効の処方箋はないことを肝に銘じることが必要だそうです。
エコライフ(ドイツと日本はどう違う:高松平蔵:化学同人発行;2003年6月10日発行)より

2007年11月15日木曜日

遊牧民と砂漠


写真はゆんフリー

遊牧民といえば満天の星を見上げ、昼は馬を乗り回し、羊を追うイメージですね。中国・新疆ウイグル自治地区でのこと。


農林水産省の一部であったが、緑資源機構海外事業部の上原有恒氏の話(亜細亜大学のインターナショナル・フォーラム講義録2006から)からです。

●昨今の砂漠化の原因:過度の農耕は従来の草地を農地にしたり、家畜を殖やしての過度による。これは中国の市場経済化により、遊牧民もうかうかしていられず、農地や放牧地を増やし収入を増やす目的・食肉需要の増大→水源の枯渇(遊牧民は牧畜しかしらないから)→
悪循環に陥っている。砂漠化対策は新しく砂漠になることを防止することで、砂漠になったところを緑地にすることではないそうです。

●「アルタイ」という言葉はモンゴル語で金の山という意味。アクアマリンや柘榴石という宝石があるそうですが、掘り出すのではなく地上に落ちているものを羊の糞と間違えないように拾うのだそうです。

●話は飛びますが、オーストラリアのダーウインという町があるそうですが、そこからさらに海を渡っていくとバサートという島がある、そこの島で「泉」という言葉は「幸せ」という言葉と同じ意味で、泉がみつかると、一人でも多くの人が生き延びるので喜びをあらわす。片やイギリス人がオーストラリアの内地で見つけた泉は「黄金にも値する」と言ったそうです。人間は文明が進んでいくと人間と人間のつながりよりも、人間とものとのつながりが重要視されるという研究結果もあるそうです。遊牧民の社会では自給の生活がなりたたず、お米やパンを購入するので、交易の接触をもち、人間と人間のつながりを大事にしている。

2007年11月14日水曜日

主夫になって若返った元舅


写真はゆんフリー

働き蜂が居場所を失った悲劇はよくいわれるところだが、何をヌカすか、妻子のために辛い苦しい会社勤めを嫌々ながら続けてきたのではなかったか。「誰に食わせてもらっているだ」などとバカ丸出しのセリフを吐いて妻に愛想をつかされてしまっている。会社の居場所ナンテ幻想だったことを、離れてもまだ気付かない?人間生きるためにしなければならないことが山ほどあるんだ。
男はもう20年来自立していないといわれている。定年後は退職金と年金を半分にされ、離婚されるより、家事を分担するなど、妻に見直された方がよい。
  ここから物語が始まる。
主夫になって若返った元舅:おおかた83歳になって姑に急死されたこの人は、パンツの置き場所も知らないオトノサマだった。長男の嫁故に、子育て終了時に逃げたくて離婚した。ところが彼は関西から私を追って、上京してきたため、いたかったら自分のことは自分でやれと自立の特訓をした。リュマチで少し不自由な脚に巨体が乗っかり不器用な手と衰えた五感で皿を割り、鍋を真っくろにし、洗濯機の水をあふれさせては後始末もできず、元嫁に怒鳴られるザマ。関西に親思いの息子や娘に親族もたくさんいるのに、彼は帰ろうともせず、泣き泣きひとつずつマスターしていった。米を洗って火にかけることでご飯ができることもしらなかった男が釜に米を仕掛けている。私はメインのおかずを拵えることでよくなった。それだけではない、役所や郵便局へいくのも、留守中の電話番や荷物の受け取り,集金の支払も、洗濯物ものの取り込みも、私のフリーの仕事が入りだすと秘書役もこなし、何時の間にか私とOLの娘はおじいちゃんがいないといきられなくなった。嫁として同居した時彼は七六歳だった。生きているのか死んでいるのかわからないムサいジジイだったのに、一家の主夫となり、家族の必要な一員となったとき、体は不自由ながらいきいきして若返ってしまったのだ。家事は企画力、判断力、決定・実行力、創造力、経済観念、後始末の責任能力などあらゆる能力を要し磨くものである。日本の男社会がどんづまりになってしまったのは、個々の男が“生命の営み”に根を下ろさず、子育ても含めて関わろうとしなかった当然の結果だろう。
退職したら子供の結婚式も子供ら自身で、2分22秒に一組が離婚する時代に親がかりの盛大な挙式も不要、葬儀代を残すのも、本人は立派な葬儀が見えるわけでなく、坊主を喜ばすより、生きているうちに自分のために使って喜べ。孫にいろいろ買ってあげたいというのも、孫で金・モノまみれにするジジ・ババ害はつつしみ、モノ抜きの愛情を眼いっぱい注いだら。

ここまでくると過激ではなく極まともに感じます。
門野春子[NHK連続小説:天うらら]の原案、」寝たきり婆あ猛語録の著書もある。定年後「もうひとつの人生」への案内:岩波書店編集部編

2007年11月13日火曜日

人間の歴史の短さ


写真はゆんフリー

このごろ柳田邦男先生の推薦された星野道夫という写真家の文に魅かれている。
図書館から「イニュニック(生命)」の貸出の連絡がくるのを待っている。湯川豊氏が星野道夫とのインタビューの本「終わりのない旅・星野道夫インタビュー」に抜粋されていた部分です。

星野は語る「過ぎ去った時代に思いを馳せる時、人間の歴史がもつ短さに僕は圧倒される。今一緒に旅しているキャサリンやスティーブンのわずか数代前の人々はまちがいなく神話の時代に生きていた。僕はいつのころからか、歴史の長さを人の一生で考えるになった。今自分がここに在るということは、歴史のどの時代にも自分の分身がどこかに「いたということだ。親からスタートして自分の分身が一列にずっと並んだなら、例えば2千年前の弥生時代の分身はわずか7,8十人先なのだ。振り返り、少し目をこらせば、その男の顔をかすかに読み取ることだってできるだろう。僕達人間の歴史とは、それほどついこの間の出来事なのだ。
不安なことは、人の暮らしが変わってゆくことではない。その速さである。暗い予兆を内包する、加速度的な速さである」湯川さんがいわれている七、八十人というとちょうど学校の二クラスよりちょっと多いくらい。つまり、もし一部屋に集められているとしたら、ひとりひとりの顔がはっきりと認識できる範囲なんですね。血筋をたどってゆくとすればその位の認識の範囲内なのですね。
二千年前の分身だって「少し目をこらせばその男の顔をかすかに読み取ることだってできるだろう」というのは実際二千年前の自分の先祖の消息をしるかどうかではなく、二千年前の人間をそう感じること、人間の歴史にそのような感じ方が僕には驚きだった。 」と。

2007年11月12日月曜日

自主規制する日本は我慢比べの社会

写真はゆんフリー

養老孟司(y)と荒俣宏(a)との対談
自主規制する日本は我慢比べの社会
y:日本人は世界のレベルでは“生きられない”
a:日本社会は全部我慢社会=世界レベルで“生きていない”と言われます。
y:本当に自分のやりたいことがあって、それで生きているのが世界レベルで“生きている”ということ。
世間に迷惑をかけないかはどこでも当然の規範だけれど日本で拡大解釈されて自主規制になっている。そうすると半分はしんでしまっているのです。逆に、だから日本人は長生きできるんだよと。
a:風水の話になりますが、その極意は“同じことの繰り返すことなんですね。最近は幸せになる方法だと勘違いしているようだが、風水は朝飯でいえば、おいしいビフテキをたらふく食べるより、ご飯とみそ汁で一生食べつないで行く方法なのです。そのために、これなら一生変えることなく、暮らせるという丸適マークの場所を探す、でもこれは消して幸福な状態ではなくて、同じことの繰り返しのですからおもしろくもないのです。風水を作った中国人の理想は不老長寿、つまり仙人になることで生きておもしろいかとか面白いとかは別問題なのです。風水も面白いことは求めてはいけない。まさに我慢大会に通じます。
つまり東洋では半分死んでいることが生きていくことになる“おしん”みたいな生活が長生きするんです。アメリカ人はナンセンスというが一つの生き方ではある。
a:勝手がどんなに楽しいか、最近はやや変化してきたけれど、大学というのはどうも勝手な研究をしてはいけないらしい。不思議なもので勝手をやると必ず排斥されてたり、クレームがついたり、指導がついたりする傾向がある。
y:現象的には我慢大会です、全員我慢している、我慢していない人がいるとそれが我慢できない。
まさに日本は自主規制ですよ。権力規制をやると嫌われる。
「研究は自由です」
a:その代わり予算はつけない“世のため、人のため”という市民権を得ている研究にはつかない。自分がやっている博物学には絶対つかない。(便法で薬草学ならOK)
見える日本、見えない日本:養老孟司対談集(荒俣宏・作家で博物学に詳しい)より

2007年11月11日日曜日

暦の話


写真はゆんフリーから

どうして2月は日数が少ないか
太陽暦はローマ時代から続いている。その頃の1年の始まりは今の3月であった。
ローマの元老院はユリウス・シーザーにゴマをする意味で、7月をJuly・ユリウスにした。そのシーザーを継いだ養子のがオクタビアンヌスであったが、同様に8月のAugustとしたが、通常であれば31日・30日を交互に繰り返すことになるが、7月の31日にならって、8月も31日にした。そうなると365日を超えることになる。元来2月は縁起の良くない月とされていて、そんな月なら日数が少ない方がよかろうということになって2月の日数を減らしたのだそうです。フランスで30日・31日の交互の暦が実施されたが、隣国はどこも従わずに、従来のグレゴリオ暦にもどった。その後世界も2月も少ない日数のまま使用されている。

中国の皇帝は天の代理人だったので、日蝕はかならず1日に来るような設定にしていた。同一の暦を永年つかっていると、端数の時間がたまって帳尻を合わせるために新暦を作る必要とか、王朝が変わってその覇権をしらしめるための暦の改変がおこなわれた。
日本では692年持統天皇に時代から中国の暦を利用していた。1600年代になって渋川春海が江戸幕府に暦の改訂を進言したところ、823年も使っていた中国の宣明歴と渋川の暦の案の優劣を計算し比較することとなった。意外にも結果は従来からの宣明暦が優れていた。これは中国と日本の緯度の違いによるものが原因であることがようやく分かった。1685年から貞享歴が採用されたが、それまでは全国結構まちまちであったが、天文方が作った暦を使うような統一が行われた。
日本の暦の経過は木簡や実際の暦を地方の役所に配布していた。其の紙が1年経過すれば無用になるが、貴重なので、習字の練習などに使われ、土器に漆を塗り、これを包むものにも利用されていたものがのこっていたものが何かわからなかったが、赤外線を照射して字が浮かび、その結果暦の存在も分かってきた。これが漆紙文書といい、これから暦の歴史を探るのです。

イスラム教では1年が354日か355日になっているので、
この不足分がグレゴリオ暦とくらべて(実際の季節ともくらべ)、ずれるので、イランやエチオピアなどでは断食のラマダン実行時期も移動するので、長期でみると、夏になったりするときは飲み水も日没後でないととれないので大変なんだそうです。一生を計算すると日本人より2年は早く年をとることになる。
マレーシアにゆくと。民族というか、宗教がことなるので、3つそれぞれの休日を平等に採用しているそうです。
ともあれイスラム教の国に旅行するときは、大使館に正月で混雑しているか否かなど事前に問い合わせしたほうがよいとのことでした。
岡田芳朗女子美大名誉教授の暦の話を聞いた中から。

2007年11月10日土曜日

米国の愛国心

写真はゆんフリーより
思想としてのアメリカ(武蔵野市寄付講座)2007年11月7日成蹊大学宮村教授(日本政治思想史に詳しい)続きです。

トクヴィル(仏国の貴族、仏革命のあとの時代の学者であるが保守的)とアメリカ:

仏国ではカトリックは自由の敵だった。やはり米国は信仰の国であるとの評価を下している。
「私は宗教の精神と自由の精神がわれわれにあってはつねに反対の方向に進むのをみてきた。ここ米国では両者は親しく結びついている。」
「合衆国には数え切れないほどの宗派があるが人間の義務にかんしてはすべての宗派が一致している。合衆国のあらゆる宗派はキリスト教として一体性の中にあり、キリスト教道徳はどこでも同じである」

米国人の「愛国心」の偏狭さ:米国人はこの国でなされるどんなことにも関わりあいがあるので、米国に対する批判は何事であれ、反駁しなければならないと考えている。国が攻撃されるだけでなく、自分が攻撃されることになるのである。米国人のお国自慢は手段を選ばず、児戯に類する個人的虚栄をあまさず発露するところまで行くことがある。
[西欧にゆくに従って宗教的感覚が薄れてゆく]こと米国に関しての自由はない。
米国の場合,市町村単位のレベルなら合理的であるが、大きな政府レベルになると、盲目的になる傾向がある。多数は専制方向になびくが、孤立する不安を抱え込んでいる。それを修正しようという動きはあり。
愛国心は個人のエゴイズムに相当する。国のレベルではそういう評価にならないで、当然という評価になる。

昨日も書きましたが、江戸幕府は儒教でしたから治める側の治国はあっても、各個人の愛国心はなかったが、天皇崇拝に進めたという説明をされていました。

日本もそうですが、米国の国民全体の考え方では時代が100年経っても変わらない面があるようです。

2007年11月9日金曜日

明治維新のころの知識欲

写真はゆんフリー提供
明治維新のころはいろんな知識を取得したいという意欲のにまさに燃えるがごとくでした。イエローポスト

思想としてのアメリカ(武蔵野市寄付講座)2007年11月7日成蹊大学宮村教授(日本政治思想史に詳しい)より

岩倉使節団は1871年12月(明治4年)の出発で(廃藩置県を終えたばかりで国が発足したばかりのころ)米国・英国・仏国・露国・西欧への歴訪の旅で時期的には無謀ともいえる使節団だったが、それほど列強の知識など早く吸収したという意欲に燃えていた。帰国1873年9月であったが、これの詳しい内容は岩波文庫に5冊の米欧回覧実記という記録集がある。

この一行に久米邦武という後帝国大学教授がいてその記録もある。

米国は「信仰の国」である。南北戦争や普仏戦争の終結したころであった。
大統領はじめ有力者が日曜日に率先して教会にゆき、説教を聴いているのを知った。またニューヨークの出版社ではバイブルを印刷するのを見たが、数はものすごく、どこの家庭にも、ホテルにもバイブルが置いてあるのをみた。それは民心に浸透して、米国人の勤勉とモラルの基本になっていた。教義をきけば「処女懐胎」、「死囚の復活」など久米の表現を借りればまるで「瘋癲の戯言」としか思えないほどだと。しかしその信仰の篤さには感心せざるを得なかった。そこで伊藤博文らの急開化組は、この際日本でもキリスト教になってしまえという始末さえあった(四書五経の読解できるのは士族でも僅かであるとか、仏教についても、宗教心についての批判は厳しい)。米国における愛国心は建国間もないのにもかかわらず、(江戸幕府は儒教なのでこういう思想は含まれていないので国を治めることであった。この愛国心を天皇崇拝に導いた糸口であった)米国民の愛国心は特別なものであった。


この10年後であるが、自由民権運動がおこった。2つの潮流があり、土佐の武士から展開された反政府士族と、もうひとつは豪農民権家を中心とするものであった。
その学習運動がいかに熱烈だったか、五日市学芸講談会のときは2・3里の遠方より200人に及ぶ。議論妙所に達するや手拍ち声を揚げて賛成を表し、僻地に稀なる盛会なりし。奥多摩の孤島といわれた檜原村の南郷からさえ通ってきた青年がいた。ちなみに1881年(明治14年)五日市学芸講談会は会員百余名で月2・3回の定例演説や報告の学習会を行っていた。こうした集会で使用したとみられる当時の新刊書は216冊にも及び、半分は政治・法律書であった。これにより憲法草案の起草の準備を行っていた。これらの蔵書は豪農深沢家に残っており、当時の米国のエール大学の教科書に相当する内容のものを翻訳したものだということが分かった。
日本で最初の政党自由党は多摩の人たち、とくに豪農と言われる人たちだった。

2007年11月8日木曜日

学校の格付け

写真は ゆんフリー


学校のHPを何気なくみていたら、学校の格付けというのが目にはいりました。
学校が用地を取得したりや校舎を建設したりする場合に資金調達をするので、当然寄付も募集しているようですが、学校債をも募集する。この場合、学校であっても返済能力が どの程度あるのかを第三者が評価した資料が欲しいということになります。
学校の経営がうまくいっているか、少子化が叫ばれる中、学生数の保持は大きな課題です。社会情勢の合致した学科や教授陣がそろっているか、職員の退職金の準備はきちんとされているか を総合的に判断した上での格付けなのでした。これをみれば親はこの学校はNOVAみたいに、入学金を集めながら破たんに至る学校ではないとか、それ以上に未来に向かっても 学校運営がきちんと見分けられる資料になるのではないかと思いました。教育の場に「お金」の評価も現実的かなとおもいますが、大事な一面でもあるようです。
具体的な例は下記の学校でした。イエローポスト

平成18年10月、学校法人武蔵野女子学院(武蔵野大学、武蔵野女子学院中学高等学校、武蔵野大学附属幼稚園)は、長期優先債務格付けにおいて、平成16年、17年に引き続き「A(シングルAフラット)」をR&I(格付投資情報センター)より取得いたしました。
【参考】
■R&I国内法人長期優先債務格付け<A> (平成18年9月30日現在)
三菱UFJフィナンシャルグループ、伊勢丹、テレビ朝日、KDDI、清水建設、ヤクルト、帝人、田辺製薬、東芝、NEC、ヤマハ、コクヨ 他

2007年11月7日水曜日

食感について

ゆんフリー写真集より



養老孟司の対談集より



田崎:
日本人は味わっているものに対して、表現方法が触覚に頼りすぎているところがある。
テレビのレポーターが肉料理を食べて「柔らかくておいしいですね」という。それならマシュマロでもよいか(笑い)
「こりこりして美味しい」とか「さくさくして美味しい」とか「温かくておいしい」舌ざわりや熱などの触覚を美味しいと判断している。逆に臭覚に対する言葉がすくなく、曖昧だ。
養老:
それはおそらく日本の約束事であるのでしょうね。匂いや味よりも物理的性状を大事にする。カマボコの硬さは柔らかいといえば柔らかい、噛むと切れたままの塊が絶対に溶けないで残っている。ネコは必死にいつまでも噛んでいる。

田崎:
もし私がカマボコの味を聞かれたら、噛んだ瞬間の歯ごたえでなくて、先ず香りを嗅ぐ、そして何系統の魚を使っているとか、うま味と甘味のバランスというような多分ワインと同じような表現をしてしまいます。日本料理は刺身も触感が大事ですし、それに他のアジア人もですが、食べ物の温度帯が広い。冷たいものは冷く、熱いものは熱く、ですから「熱っかい料理」と聞いただけでも「おいしそうだな」と思う。ヨーロッパ人はやけどしそうな熱をいうと、「そんな物のめない」という違いがある。
見える日本、見えない日本:養老孟司対談集(ワインのソムリエ田崎真也)より

2007年11月6日火曜日

介護保険のケアプラン

写真はゆんフリー提供

武蔵野大学で公開講座があって学生よりも、一般の人の参加が多かった講座でした。イエローポスト

介護給付ケアプラン作成模擬演
介護保険は規制が厳しいので分かりにくくなっているので、不明な点は自分の属する包括支援センター(老人問題何でも相談室との理解しても間違いないので、気軽に電話での相談や質問が可能です)
自分でも電話に次の電話番号は貼っておくと役立つ。
最低:包括シエンセンターと救急病院の2つ。
全国ケアプランネットワークという組織(http:www.mycareplan-net.com)があり、そこの方武蔵野大学で佐藤先生の指導のもと、講義が行われた。
資料入手の場合は
① マイプランの玉手箱、②あたまの整理箱各500円がある。
090-8451-4540(島村)かFAX042-405-5950
メイル;info@mycareplan-net.com

●介護報酬は地域によって単価が異なる(中央と地方とで物価がことなるからという理由で調整が行われた。)が、福祉器具など全国一律の部分もあります・・・。
●在宅サービスの支給限度:要支援1では4970単位~要介護5では35830単位以内で介護保険の対象が限られている。
●身体介護1:30分未満      231単位
 身体介護4:1時間半~2時間未満 667単位
1は30分が4は30分×4=2時間
身体1生活2は身体介護0.5時間、生活介護1時間です。
身体1生活2と、身体2生活1では397単位、485単位とことなり、生活介護[食事や掃除]よりも、身体介護[入浴、トイレ補助]が単位数が多い。
●介護保険をつかわないほうがよい場合がある。
 介護保険は規制が厳しく、使いにくい面があり、単価の安いNPOやシルバー人材センターの利用も組み合わせたほうが利用しやすいこともある。
●同居?家族がいると、家事援助は頼めない。国は緩い指導ではあるが、運用する自治体は厳しい指導をする。市町村によって異なる。杉並区や調布市では家事援助ではだめですが、府中市はある程度柔軟な面があるので、ケアマネージャーと一緒に窓口と相談したらよい。
生活援助で2人家族で一人が介護保険を受ける場合、食事を作ってもらえる場合に1人分しかつくってくらない自治体がある。

●就寝前の入浴は可能か:時間帯によって単価がことなるようです。また事業所が受け入れてくれるかによる。
●介護保険は自立支援であって、丸丸の援助ではない、やりたいことを何でもやってもらうことではない。
●身体介護でも手を直接だすことだけでなく、自立のために程度にもよるが傍らで見てもらうや、危険なtきの手助けしてもらうこともできる。
●ケアプランは月毎作成[要支援や介護の度合いの認定有効期限は半年から2年で市町村が判断する]し予定と実績と金額が記入できるようになっていて、事業所とも相談のうえ、予定をきめて窓口に提出して承認を受ける。これを事業所に伝える。変更は可能で、実績欄があるのはその為である。通常ケアプランは包括支援センターか事業所のいるケアマネージャー(この選択も自由で、良い人に巡り合えるとこちらの事情を理解)がプランの作成をしてくれる。自分等でも可能ではあるということです。
●種々のサービスがあるが、それぞれの自治体によってサービスの単位の制限数が異なるので問い合わせが必要(ほとんどの場合問題はないそうです)。

マスメディアの現場から

ゆんフリー写真提供


東京経済大学
アミュエル・ジェムソン氏の講義から
米国の報道機関の特派員として活躍、シカゴ・トリビューン[1963~1971年]及びロスアンゼルス・タイムス(1971~1996年)の両新聞の支局長を歴任。在日外国特派員協会[外人記者クラブ]の会長や元在日フルブライト教育員会の委員も。現在は日本についての本を著作しながらコラムニストや評論家として活動。
●日本では二大政党になるとは未だ思えない。可能性はあるが判然としない面がある。福田さんが最後の自民党の総理になるかもしれない。政権交代すればワイロ問題が一掃されるとも思われる。自民党が参議院でも多数を取り戻すとしても、たとえできたとしても2019年にならないとそれはできない。参議院で民主党等の野党が過半数をえたが、衆議院でも国民が信任するかはわからない。(小沢代表は福田総理と連立を話し合い、党に持ち帰って否認されて、代表の辞任を申し出ている。民主党が公約に掲げた年金問題などの実現するには連立で果たすことしかできないし、政治を実際に担うほどの実力はもっていないことを認めた故の行動だったようだ)
●昔は警察が発表した記事がほとんどだったが、独自の取材した記事もでるようになったのは、リクルート事件1989年や文芸春秋での立花隆さんの田中角栄追求の記事あたりである。
1971年、毎日新聞の外務省の蓮根秘書から得た情報を西田記者は新聞にかくことはしないで、72年に社会党代議士に渡し国会での追及の資料に提供した。欧米なら記事を政界に渡すことは、ジャーナリズムの否定を意味した。一審では無罪、最高裁では有罪、記者の取材の権利は相当に大事にされなければならないと思う。
●大新聞は一通り取材するが、週刊誌にある事実は本当にお粗末で、サミュエルさんにコメントを得たような記事があり、謝礼まで送ってきたのは突返し、極めて小さなお詫びの記事をやっとかかせたこともあった。昼さがりの情事ということで、橋本総理が中国の辺鄙なところにいって病院の援助を申し出たことがあった。橋本総理は雑誌に対してコメントしていないのがあたかも回答した如くになっている。報道機関は自民党が10%の支持率以下に落ちたら、とやかくの記事を書くがそうまでになっていないときは、まずい事実があっても記事にしていなかった。
●自民党も大臣をえらぶ場合で派閥からの選出から脱却したかのように見える(今回の福田首相の場合?)
小選挙区制はかなりの変化を起こしている。
●日本の首相の任期は平均2年2ケ月、戦争のとき米国は首相交代はあり得ないが、東条秀樹のときも2年9月、これでは何もできない。日本人は指導者を信頼することが希薄である。
日本の強力な指導者は暗殺される。織田信長、大久保利通、原敬。日本の首相の21人、小渕さんら途中死去された人は3人で、残18人のうち、任期満了したのは大平・中曽根・小泉で、あとの15人は辞任に追い込まれている。
●憲法でも時代の都合で解釈が変わる。小沢さんも湾岸戦争のときには賛成しているではないか。

2007年11月4日日曜日

中央構造線と日本海の拡大


詳しくは「大鹿村中央構造博物館」をごらんください。
日本海の拡大とフォッサマグナ地域の沈降日本列島の骨組みは、アジア大陸でできました。日本列島の「もと」は、新第三紀の2000万年~1200万年前ごろに、アジア大陸から離れ、太平洋へ向かって移動しました。西部は時計まわりに回転、東部は反時計まわりに回転し、大陸との間が開いて日本海が拡大しました。そのとき、折れ目になった部分が引っ張られて落ち込み、海底の地層が厚く堆積しました。 西南日本の骨組みが大きく落ち込んで、新第三紀の海の地層に厚くおおわれた地域を「フォッサマグナ」 といいます。フォサマグナとは、ラテン語で「大きな窪み」「大きな溝」という意味です。骨組みが大きく落ち込んでいる構造から、新第三紀の変動に注目するときは、フォッサマグナ地域で東北日本と西南日本に分けることもあります。フォッサマグナ地域西縁の糸魚川-静岡構造線フォッサマグナ地域の西縁の断層を「糸魚川-静岡構造線」 といいます。糸魚川-静岡構造線は、西側の古い岩石と、東側の新しい地層の、境界になっている断層です。フォッサマグナ地域の東側の境界は、もっと新しい火山や関東平野を埋めている地層におおわれて見えません。新発田-小出線と柏崎-千葉線が候補のひとつです。飯豊・朝日山地、越後山地、足尾・八溝山地には、西南日本の古い岩石が再び現われています。一方、棚倉構造線に沿って、西南日本の骨組みが引きずられ、新第三紀の地層が堆積しています。そこにも大きな構造運動があったと思われます。 ⇒フォッサマグナって何ですか?(フォッサマグナミュージアムホームページ) 糸魚川-静岡構造線の位置は、北部では糸魚川~松本平~諏訪湖~小淵沢へ続きます。しかし、その先を 富士川沿いにたどるのは誤り です。武川から~夜叉神峠付近~早川~安倍川をとおって静岡市へつづきます。静岡市付近では、安倍川沿い~高草山~焼津の線と、竜爪山地稜線付近~静岡市安倍川河口の線と、2つの考えがあります。 ⇒糸魚川-静岡構造線山梨県早川町新倉露頭見学記(2002/12/24) フォッサマグナの地層に埋まっている中央構造線西南日本の古い骨組みを食いちがわせた中央構造線は、フォッサマグナ地域では、新第三紀の地層におおわれて、地表にあらわれていません。破砕帯もおおわれているので、破砕帯が侵食されてできる直線的な谷もできません。そのうえ佐久地域では、新第三紀の地層の上を、現在の火山(浅間山と八ヶ岳)の噴出物がおおっています。隆起して古い岩石が露出した関東山地と中央構造線第四紀に大きく隆起している奥多摩~奥秩父には、西南日本の骨組みが露出しています。新第三紀の海の地層は、群馬県富岡や、秩父盆地、五日市盆地などに残っているだけです。関東山地の岩石は、赤石山脈にあらわれている岩石のつづきです。関東山地北部の群馬県下仁田には、中央構造線が露出しています。
投稿者 イエローポスト 場所 8:28 0 コメント

2007年11月2日金曜日

福祉施設の第3者評価


福祉施設の第3者評価

前から気になっていたのですが、宿泊先の評価は結構わかりますし、せいぜい1・2泊ですからたいした問題ではありませんが、福祉サービスについてはどこがよいか分かりませんでした。
まだ内容はみたことはありませんが、ちょっと心強い感じがします。
東京都における「福祉サービス第三者評価」ってなに?いざ福祉サービスが必要となったときに、どの事業所、施設が自分にとっていいのか等、自ら選ぶのはとても難しいものです。 サービスを受ける前に十分確認してと言われても、何を確認すればいいのか、どうやって調べればいいのか、どの情報をあてにすればいいのかなど、悩んでしまうのではないでしょうか。 東京都における第三者評価制度は、「自分の利用したい事業所の特徴はどのようなことか」、「サービスの質はどのような状態にあるのか」など、利用者の皆さんがサービスを選択する際の目安となったり、都民の皆さんが事業所の内容を把握することが可能となるように、各事業所の評価結果が公表されます。 公表される内容は、評価講評、利用者調査の結果、事業評価の結果のそれぞれについてあらかじめ事業所が公表に同意した内容を、また、評価結果に関する事業所の皆さんのコメントもあわせて公表しています。