2007年12月30日日曜日

観光街のない湯布院


写真はゆんフリー


湯布院(由布院から変更):
大正13年にこの由布院の村の小学校に東京大学の本田静六という林学博士を招いた「由布院温泉発展策」という講演会をやっている。その記録には歓楽型の温泉になるのではなく、ドイツのような保養型温泉になるべく努力せよと書いてある。その例としてバーデン・バーデンをあげています。公衆トイレはここに、散歩道はこういう風に作りなさい、果物が四季それぞれに生ったほうが愉しいからどこそこに柿の木を植えなさい、子供たちが元気でないと町が寂しいから、どこどこに児童公園を作りなさいとかきちんと書いてあるんです。
中谷健太郎氏は1934年(昭和9年生まれ)明治大学を卒業され東宝撮影所で稲垣浩、千葉泰樹監督の助監督もつとめる。62年父の死により帰郷、旅館亀の井(この地は別府の油屋熊八※という人の亀の井の別荘地)別荘を継ぐ。
湯布院は田圃のなかから滲み出してくる温泉で他の温泉地のようにひとところに集まってまちをつくる必要がなかった。そいう意味で不思議な観光街のない観光地でした。
湯布院映画祭は自分の映画時代の引き継ぎで、建物の配置、デザイン、宣伝でもセンスがよいと自負している。
宿屋の親父だけは何も出来ない立場にある。庭掃除と風呂掃除はできるが。
こっちに帰ってきて板場にギャンギャン言われたら「てめえがギャースカ言っている頃から包丁握っているんだ!」の声をきいてこれは撮影所と同じだ、これは撮影所の監督と同じだ。
旅館の親父はいろいろいうが何もできないし、やってもらうだけだと。いろんな人が変な癖をもちながら情熱をもち、苦手をもちながら得手もやっている訳ですから、それらを一つひとつ取り持って上げるとか、出会いの場を作るのが大事なんです。全部集めて「それーっ」って 号令をかけるというのでは力が分散してしまうので、それはしないんです。
一人ひとりに聞いてみると、じっくりと声をかけられた思いがあるという、そういう関係が紡がればいいんです。だんだん力が落ちてきたり、仕事の量が多くなると、それぞれの人との出会いを丁寧に残せないようになる。よくないですね。
『湯布院幻燈譜』によれば客室は15で、これは旅館として小さいですが、従業員が100人近くいる。ふつうは従業員の数は客室の数より少ない。
企業の採算に合わないから「おまえは出てこなくてよろしい」というと地域の「お迎え力」は縮小する。能力を網羅してみんなでおまんま食っていけるようにするのが勝負だ。いまは予備軍をいれて21室従業員100名をちょっと超えました。
例えばイタリアのワインがいい、北陸の酒がいいといって消費していただいてお帰りいただくのはプチ東京になってしまう。この窪地の地形を利用し展望大温泉をやるのは男の妄想だ。そうしないで自然を受け入れる仕組みですね。

「まちづくりは面白い」ふきのとう書房。より

※この人はクリスチャンで“旅人をもてなす心を忘れてはいけません”聖書の中の「旅人を懇ろにせよ」という言葉を大切にしていました。創業は明治44年です。我が家の延長と思っていただきたいといっている。

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