2007年12月21日金曜日

聖なる山頂

写真はゆんフリー


35年ほど前のバーミアンで南斜面の岩で、アフガンの兄弟と午後の陽射しを腰を下して楽しんでいた。
「なあ、ムハンマド、あの峰、誰か登ったことがあるだろうか・・・」
紺碧の空につき上るように水晶のようなコー・イ・ババの主峰をうっとり眺める私に、兄弟はひややかな調子で言い放った。
「登って何になるの・・・」
なるほど、登って何になるものでもない。すでに誰かが登っていたからどうなるということもない。かつて陸上競技の話題にこの兄弟は、急用でもないのに、何故走る、といった。スポーツを兄弟に講釈するつもりはなかった。兄弟の一言に私は逆らわず、登山を考え直すことにした。エヴェレストに登るわけを問われた英人登山家マロリーのそこに在るからとの伝説的な返答から100年、名言と錯覚しかねないその言葉がどれほど傲慢な言葉だったかに気づく。人々が神の座と信じ、崇め畏敬する山頂に立って自国の旗を翻し、征服なれりと表現して憚らなかった。私達の世界の西欧近代の傲慢さを嬉々として擬ってきたのだのではないか。そして今日もまだ頂上に旗を掲げ征服を口にする者が少なくない。頂上直下1m、いや30cmでもよい,静かに佇む、そんな登山家を見たいものである。
まだ30歳代ながら無酸素の単独でナンガバルバットの7800m地点まで登高した山びとがいる。この友は聖い山の頂はけして踏みたくない、という6000mまでの“岡”は別だけどねとひげ面が笑う。欧米のクライマーたちをガイドしながらも、彼と仲間が山を犯すことはない。登山の心と行動もまた、近代を見直す時に至っている。
ペシャワール会報甲斐大策より

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