2008年12月31日水曜日

シンガポール事情



にわか花屋の前に人が並んでいましたが200円の門松のためでした。。スーパーのお供えの餅も大中小で小はもうありませんでした。値段に敏感になっていますね。海外旅行も随分安くなっていて、商品取引や金や為替相場と同じような変動ですね。各国の事情もその国に根を下ろした人の話は観光ツアーで得られる情報と格段に違いますね。

関西流引越し商法:森幹雄1953年、京都生まれ、日立製作所勤務後、アメリカに渡り皿洗いやハウスボーイをする。アメリカ系運送会社に就職し、シンガポールへ。

シンガポールは「なんぼやねん」っていう関西の感覚ですよ。僕は関西商法やからうまくいったんですよ。

関西商人的感覚がないと、このの中国人やインド人には太刀打ちできないです。中国人、インド人、ユダヤ人、これが“世界の三大商人”といわれいていますけれど、そのうちお2つの民族がここの商売を仕切ってるんやから、そりゃもうおカネ、カネ、カネ(笑い)。彼らの駆け引きは尋常じゃないですよ。その点僕はブリタニカのセールスなんかで、セールスのやり方も分かっていました。引っ越しの仕事をしていると、景気の変動がものすごくよくわかります。人が動き始めるときは、好況か不況か、そのどちらかなんですわ。特に中国人が動くときは何かあります。例えばタイのチャイニーズが家財をカナダとかアメリカに一斉に運んだことがあるんですけれど、1年もしないうちのクーデターが起きました。90年前後から香港から引っ越しが多いんです。もちろん97年の中国への返還を見越しての動きでしょう。とにかく彼らは、一族ぐるみ将来を考えたグローバルな戦略で動いている。

子供が3人いたら、一人はアメリカ、一人はイギリス、一人は日本に留学させていますから。僕らも情報を掴むのが早んですよ。フィリピンの米軍基地が全面撤退するという情報は2年前につかんでおったんです。あそこにいた米軍の家族がみな引越すわけだから。

機械油と女社長(シンガポール)粕谷紀美子

よく「華僑の商売が世界一」と言いますけど、私に言わせたら華僑が世界一汚い商売の仕方をするからですよ。支払は最後の最後まで引き延ばそうとするし、どんなにいい仕事をしても支払うときは必ず値切ろうとするし、きっぷのいい華僑なんてみたことがないですね。人との関係も、そのとき利用して儲けたらそれでおしまい。

たとえば、同じ品物を買うとき、私なら知り合いから買ったほうが安くなるからそうしますよね。ここでは逆なんですよ。知り合いには高く売るというのが華僑のやり方なんですよ。だから、わたしは知り合いの華僑からは物は買わないです。同じものならそれを安く売ってくれる知らない人から買うんですよ。

上記2つは、「アジア定住(11ケ国18人の日本人)」:野村進、井上和博、より

2008年12月30日火曜日

ゆったりとしたバリ島


昨日の電車は普段なら足の踏み場もないくらいなのに、乗車駅から座ることができました。又都心もタクシーばかりが眼につきました。それだける車が少ないので空気もきれいなかんじがしました。こんなゆったり感だけでも貴重です。

一時爆破事件があって敬遠していますが、その前の状態はこんなバリ島だったのだと思います。行ってみたい気にさせます。

【バリに嫁いで・樋田恵子】から

バリに来て私は久しぶりに夜の闇の暗さとか月の光のあかるさを感じたんですね。

日本にいると、先のことをいつも考えないといけないでしょう。バリの人はその日のことしか考えないんです。今日食べる分があればいいという考え方。貯金なんかほとんどしませんし、つい最近まで銀行ができても怖がって貯金をしなかったですよ。というのはここの人は飢えることがなかったし、暑いからこごえる心配もありません。先のことを考えなくとも生きていきていけるんです。がんばらなくてもいいというのは、とても楽ですよ。

その代わり、バリ・ヒンズーの神様に捧げるお供え物を毎日3時間も4時間もかけて作ります。お供えは普通、四方の神様を 表す赤・白・青・黄色の花々に、プリメイラやハイビスカスの花、椰子の若芽、それに中国の古銭を一緒にして作ります。神様によって作る順番とか作法が違っていて、それを毎朝うちの場合ですと、150以上も作るんですよ。一家の主婦たちが、とりとめもないおしゃべりをしながら作るんですけど、日本人にはまったく無駄な時間に見えると思うんですよ。バリの女性たちが毎日そうしてお供え物を作る姿を見ていると、すばらしく豊かな時間を生きていると思うようになったんです。伝統舞踊を教えておカネをとるという考え方もずっとバリにはありませんでした。踊りは神様から授かったもので、それを伝えていくのは踊り手の使命だからという考え方なんです。

そういういろんなところで、私はバリに惹かれていったような気がします。

アジア定住:11カ国18人の日本人(1996年8月出版):野村進、井上和博;【バリに嫁いで・樋田恵子】:1961年愛知県生まれ、大学職員、ユネスコのアジア文化交流センタースタッフなどを経て、88年、バリ伝統舞踊の代表的な踊り手と結婚。

2008年12月29日月曜日

母は呼ぶ


この手紙を読んでいたら、泣けてきました。

我が子 伊藤和也へ   母伊藤 順子より

母はいつも言っています。テレビ・新聞で報道されている青年は、アフガニスタンのペシャワールの農業指導員の伊藤和也さんではないような気がしますと。

息子の和也さんがアフガニスタンへ出かける時、「いつになったら、孫の顔をみれるのか?」の問いに「そんな平凡なことは考えていない。もしものことがあればこの身体はアフガニスタンに埋めてもらうから」と。

「冗談じゃない。おまえは日本人、何があっても我が家に戻ってこなければだめだ。そんなことになったらおかあさんはアフガニスタンに行き、掘り返してでも、引きずってもでもしてつれてくる」といったことをきっと和也は覚えていて、ペシャワールの村民の人に頼んでおいたのだよね。

 和也の事件を中学校の社会の時間や道徳の時間に取り上げてくれたそうです。中には感想を送ってくれた学校もありました。今度のことでお母さんを常に守ってくれた方が「お母さん、和也くんは、アフガニスタンには子供のたちが食べ物に困らないように、種を蒔いたけれど、日本の子供たちには豊かな国に育った自分に何が出来るか、何をしたらよいか、そんな事を考えることも大事だよと、心に種を蒔いたね」といわれました。そんな事いわれたら照れるよね。和也はそんな大それたことを考えていないよね。でも子供たちが将来ひとりでも花を咲かせてくれたらうれしいね。お前は伊藤の家でも、袴田の家でも初孫で本当にかわいがられていました。

こんなことがあって父の酒量が増えました。身体と心が心配です。和也から少しお酒を控えるよに言ってください。ではいつものようにいうからね。

元気でね

身体に気をつけてね

今度はいつ帰れるの

お母さんのいる時に電話してよ

いってらっしゃい

 追伸

このごろ祐介(弟)のこと「和也 和也」と呼んで「また間違えている」笑いながら怒られます。返事をしてくれない笑顔のあなたに

母の命のある限り  和也 和也と呼びかけます。

ペシャワール会報NO9820081217号より

810-0041

福岡市中央区大名1-1-25上村第2ビル603

tel092-731-2372、FAX092-731-2373

2008年12月27日土曜日

美味しいものは隠せ!!


おいしいものを目の前にあると、我慢できないのようになっているそうです。ですから見えないようにするしかないということです。とくにカロリーがある脂肪がおいしいというのですから・・・。しかも見えない油の方をしらないで多く食べているというのですから。

『脂質の役割』

食事から4.5時間後に胃の中残って割合は下記のように長持ちするので満腹感を与えてくれる。

糖   質:0

タンパク質:10

脂   質:40

『摂取される脂質量(g)』

見えない油      見える油

<植物系 >15.7        13.4

穀物、豆腐、下記動物系以外   植物油脂、マヨネーズ

                マ-ガリン

<動物系>28.1        1.9

合計 43.5          14.4

油に見える食品よりも、上記のように穀物に含まれている見えない油の摂取量が多い。

『食品の味』 

 1甘味 、2うま味※、3塩味、4酸味 、5苦味

口は食物が安全かいなかの 門番で、動物的には13は一応安全、45は危険の部類として判断する。又日本人のグルタミンが発見されて、味の要素としてうま味が認識されるようになった。日本語にはテクスチャーというパリ・パリ、サリサリ、サクサクなどの美味しさの表現する言語が多い。

『油脂・脂肪のおいしさ』

油脂(常温度で固型)・脂肪には味がないがこれらを含む食品はとてもおいしい。だからもっと欲しいという気にさせる。

『何故食べ過ぎるか』

満腹は胃内にある量ではなく、脳の満腹中枢が決める。満腹中枢を凌駕するほどの強い刺激が摂食中枢を興奮させれば食べたくなる。

『食べ過ぎを防ぐには』

長い飢餓の時代を生き抜いてきた人類は積極的に食を求める。本能的食行動においてはアクセル>ブレーキなので効かない。意志ではなく、目前からおいしいものを消す以外にない。こういう話を聞くと、節食に傾くが、年齢的な違いを考慮すべきで、メタボリックシンドロームの要素は40歳以前の問題である。

老後では小太りがよく、ご飯と煮物や味噌汁といったあっさり料理よりは、若い人に向くと思われている肉、牛乳、油が老化を遅延させる食生活であると。

『供給栄養量の国際比較』摂取栄養量ではない。

米国3604、日本2619、スエーデン2979、フランス3352

ドイツ3147、オランダ3091、英国3074.

◎世界の過重体重の人10億人=飢餓に苦しむ人9.8億人

食のサイエンス2008.12.12成蹊大原節子教授の講義から

2008年12月26日金曜日

裁判員制度のあやうさ


毎日マスコミで不可解な事件が報道されています。一週間前の事件がどういうものだったかさえも思い出せない位ですね。そうした中で、裁判員制度が始まると、一般有権者ですから、他に仕事を持っていたりすると、なかなかそんなに休めないので、審理が非常に短期間に行われる。すごく絞られて行われるということで、審理がズサンにならざるを得ない。そんなズサンな審理、短期間審理でそういった重大な判決が出さないといけないようになる。「これ、おかしいじゃないか。もう少し証人を呼んだり、いろんな物証を検証したり、もっと調べたらよいなどの事柄も当然でてくる。あるいはこれ以上にマスコミに訴えようといっても審理を外部に漏らしたら、今度は自分が逮捕されてしまうという恐れがないとも言いきれない。

この裁判員制度は、殺人とか強盗などとか、かなり重い罪に関して導入されている。今まで裁判の傍聴すらしたことがない人が、いきなり裁判官と一緒になって、ある人の運命を決める判決を出すことになる。もっと自分の身の回りで起きているような、万引きとか交通違反とか、特に市民感覚が生かされやすい事件でとりあえず、市民の方も慣れてきてから範囲を広げましょうという話ではない、軽い事件は今まで通り、裁判官がやるという、裁判を見たこともないような人達が集められて、これはもうどういうことになるのだろうかという。何故こんなにコンセンサスを得られないままこういう制度が生まれたのだろうか?後期高齢者医療の問題、障害者自立支援法などを見ると、国会でどういう審議が行われたかがお粗末だとしか言いようがないが、どの程度修正されるかもよく見えてこない。

キラキラ星通信(袴田巌さんを救う会)のジャーナリスト寺澤有さんの講演記事から

2008年12月25日木曜日

海中のロマン



茨城県の土浦市に霞浦という湖水がありますが、何気なく本をみてい見ていたのですが茨城県で何回かいったことがあり、そこが好きでヨットを習っていたサラリーマンから水中考古学者まで転身した人のお話です。   

   海水は比較的低温で克かつ温度差が少ないことや、物質が酸化しにくい性質を備えているため、遺跡を長期保存するのに、適した環境がはるか数千年前の文明さえ、今に伝えることを可能にしている。中南米のカリブ海に浮かぶ島々の海で17から18世紀名うての海賊の絶好の根拠地だった。この海域で海賊に襲われ、沈没した船は数えきれない。こういう海に眠った財宝をトレジャー・ハンティングした人、米国人、メル・フィッシャーがフロリダで引き揚げた大量の金銀、エメラルドは時価6千数100万ドルと言うとてつもないほどもあるが、海底の宝探し的行為に飽き足らなくなった海の冒険家達は、次第に水中に眠る文化財に目を向けるようになっていった。その機運が徐徐に、古代沈没船や海底都市などへの新たな学術調査への足がかりへと発展してゆくことになる。そして真打に登場するのが水中考古学ということになるそうです。葡萄酒の瓶などは海から引き揚げた後、すぐに弱酸性の溶液で洗い、最後にアルコールで乾かす。もし、何の手当てもしなければ短時間のうちにガラス層がはがれ、瓶はバラバラに名になって壊れてしまう。又木材は大量の海水を含んで、まるでスポンジのようにブヨブヨになっている。そのまま空気中にはなっておくと、やがて乾燥して縮んだり、ひびが入ってしまう。陶器類はしみ込んだ塩分は結晶となり拡大し、その物の表面を破壊してしまう。海底から持ち帰った全てのものは、新鮮な水で洗い、とりあえず水槽に入れ保管する必要がある。水中考古学で井上孝彦さんという方がいます。千葉県の勝浦市の沖合で米国のいわゆる黒船の沈没船について調べている。「井上君のやっていることは素晴らしいし、夢を形にしたという意味での第一人者かも知れないが、お金にはならないな」それほど夢とかロマンはお金にないにくい。「日本ってとにかく,お金にならない冒険している人に対する敬意が少なすぎると思うんですよ。」といっています。http://www.1101.com/archaeology/                            

        気がついたら水中考古学者:井上たかひこ

2008年12月24日水曜日

夕焼けの富士よりきれいなもの?


おはようございます。昨日はネットで探してクリスマスコンサートに行ってきました。ヘンデルのメッサイアでした。日本キリスト教団の国分寺教会でした。あの高校野球の優勝下ハンケチ王子のいた早稲田実業のすぐ近所で、路道にこの運動部の高校生と出合うのでした。全47曲で相当に長いので抜粋した22曲も一部でした。ソプラノ、アルト、テノール、バス各2人のメンバー、オルガンの演奏で,三澤寿昌氏指揮のキャノンズ・コンサート室内合唱団でした。来年はヘンデル生誕250年だそうで、記念行事が数多く行われるそうです。やはり圧巻は「ハレルヤ」で自分の口もおのずと動いていました。8人のメンバーでも鍛えられた声量はビンビンと伝わってきました。最後に讃美歌は115番の「ああベツレヘムよ」、次は知っているグロリアの言葉がでてくる105番「荒野のはてに」でこれは壁に投影された歌詞を見ながら歌いました。クリスマスソングは自分でも歌うと高揚感が違いますね。4:30に終わったのでその足で、モノレールでパノラマは夕焼けした富士を見ながら多摩センター(大きなニュータンの町]という駅前のイルミネーションを見に行きました。このモノレールで6歳位の男の子と父親がちょうど脇にいた時に聞えて来たのは「あの学校はお父さんの卒業した学校よ。それにしても富士山は綺麗だね」「あの学校学校がそうなのね。お父さん富士山よりきれいなもの見つけたよ」「何だろうね?」「ほらぽっかり浮かんでいる雲なの」「そうかそうだね」。駅に着くともうイルミネーションがこうこうとしていました。携帯での撮影のフラッショがほたるのようです。東京地区で最大の規模というだけあってこれも見事でした。コンサートまであってなかなかのにぎわいでした。

2008年12月23日火曜日

脚本家:橋本忍さん


黒沢明監督の作品もさることながら、支えていた方々のエピソードも負けず劣らず面白いのでした。

黒沢明監督没後10年の特集がNHKで組まれていますが、「羅生門」等の脚本を書いたもう90歳になった橋本忍さんが演劇関係の学生にいってます。

監督が言われるには弱いシナリオからは強い映画は生まれない。理屈は嫌いで、実証的なことだけが信用する。監督は1952年にある侍の一日の生活を脚本にしようという話になった。出来あがっている脚本や会社からの押し付けのものはやらないという監督の主義がある、朝起きて登城し、諸事務の繰り返しで帰宅する。毎日平凡な単調な生活の侍が、ある日重大事ありて、諸事務に責任問題ありて切腹沙汰となった。登城しても午前中は極めて多忙であるが、午後ともなると、親しい馬廻りの友人と釣り場、餌、糸の長さ、などの話に費やし安穏の生活である。これが一変して切腹を申しつけられる。こういう粗筋であるが、いわゆる時代劇の歌舞伎のように、型にはまったものは除外したいという意思がある。顔や月代を剃り、祖先に礼し、大事な残務を指示し、介錯は親しい友人に頼むことがら、妻や一男一女への別かれ等、友人は刀研師に頼んで今までのことを思い出しながら脇から剣に見入る。これらの切腹に至るようになってからのシーンは無声映画にする。という前提で次回の脚本にしようという打ち合わせになった。橋本さんは当時上野にあった国立図書館にいって調べ物をした。とにかく侍の一日を知らねばならない。そうすると、一日登城後の昼飯はどうだっか等のどう一日を暮らしていたかが知りたくなる。当時の食事は一日2食か3食かさえ文献にはのっていない。これでは事実に基づいての脚本は書けないので、監督に相談もしないで、調べたことはことごとく切り刻んで燃やし、庭に埋めた。ここでひとつの作品が消えたことになる。監督は概略の話からの連想で絵コンテまで書き進んでいたので、やめた事情を話したら怒られると思ったらそうではなかった。こういうようなことが無駄なような2度.3度あって脚本が出来るがもう研ぎ澄まされるた材料が蓄えられている。これらのことを目に見えるように説明してくれるのでした。これが「7人の侍」にまで発展したのだそうです。

 最後に学生達に「脚本は下手に、楽して気を使わないで書きなさい。想像力は勉強して出来てくるものではない。勉強して出来てくるのは批判力である。まず自分を抑えないで、自由に描きなさい。それが出来上がってから批判力で仕上げなさい。最初から完全なものが出来るはずがない。あの監督も一生の努力目標を作って、それを着実に実行していたから・・」

2008年12月21日日曜日

中村メイコさん


ドラマ「篤姫」をみていたら和宮の侍女として出てきた女優がみたことのある顔だという気がしたのですが、中村メイコさんだったのですね。あまり久しぶりの登場だったので、すぐには分かりませんでした。

そこは中村家の場面でした。

その昔、両親とも、親の束縛から苦しい思いをした。なるべく本人の意思を尊重した育て方はそれと無関係ではない

「ロッパの駄々っこ父さん」に出演が決まったときのこと、中村メイコさんは、男の子に扮するために、それまでにふさふさに伸ばしして美しいリボンをつけていた髪を切って、丸坊主にならなければなかった。「パパ、これは重大問題よ」と、お母さんのチエコさんは言った。「女の子にとって髪は、命の次に大事なものよ」「メイ子の意見を聞いてみるさ」「いやというに決まっているわ」「よし、それじゃ、こうしよう」と正常氏が言った。「僕が床屋にいって、先に丸坊主になろう」「パパが?」チエコさんは、目を丸くした。というのは正常氏は徹底した」床屋嫌いで、ばさばさに伸ばした髪の裾をチエコさんが切るならわしだっったからだ。床屋の椅子に一時間前後、「自分の意志を奪われて座る」ということにも、耐えきれない人だったのである。まさかと思っていると、いつの間にか正常氏は家を飛び出していた。そのあと皮肉なことが起こった。映画会社からの連絡で、メイコさんの髪はそのままでいいことになったのである。慌てふためいて、チエコさんが近くの床屋に走っていくと、正常氏は青々した、いがぐり頭になって、世にも悲しそうな顔で店を出てくるところにであった。

夫と妻のきずな:テレビ朝日元制作局長・中島力から

2008年12月20日土曜日

売れない絵=売りたくない絵


やっと1冊だけカレンダーを頂いた。昨年同様のエレベーター会社のもので日本の自然の写真シリーズでした。

この絵の前に立つと、たいていの人が「ふうん」とうなる。

小生も間違いなくそうする一人です。タタミ一枚位の大きさの画面が全面そっくりアスファルトの地面である。

次いで、人は「こういう絵を買う人があるんですか」「ないでしょうね」と画商は答える。事実ときどきこの絵を画廊にもっていって掛けておくのだ。値段を聞かれたことは一度もない。それでも敢て売れもしない大きな絵で貴重な壁面をふさいでおくのは、絵の値段の上がり下がりばかり気にして、先物買いに目の色を変えているような当節のお客に対する意思表示なのであると。傑作だの、名作だのと騒いでいるような今日の大方の風潮に対する無言の抗議だそうです。あの当時の韓国の大統領・李承晩の警察からの追及から逃れてきた韓国生まれの画家曹良奎(ジョヤンギュ)氏は、これを紹介している洲之内徹画商と懇意だった。彼が住んでいた深川枝川町の朝鮮人部落で1950年代のはじめ、共産党が極左冒険主義をとり、火炎瓶闘争を指令したとき、その熱っぽい政治闘争にまきこまれずにいるtめには勇気が必要だったろう。しかしそれを拒み通した。もし彼が安直な政治闘争の中に逃げ込んでいたら「マンホールB」のような絵は生まれなかった筈。彼が生身でじかに感じた戦後状況のイメージを凝縮した芸術作品の記録とはなった。戦後日本の絵画史に見落とすことのできない作品を一点でもとどめておきたかったからと結んでいる。

http://www.areum.org/home/lecture/haryu_kouen/index.html

おいてけぼり:洲之内徹:世界文化社

2008年12月19日金曜日

とてもさりげない応対


一昨日仕事の帰りですが、ちょっと西武新宿駅の1階にある喫茶店に立ち寄りました。そこでグラス一杯のビールを注文します。

お腹がすいた時には、20粒位のナッツも併せて頼みます。グラス一杯なら空いている片手でしっかり握れるので背の高いグラスでも倒れる心配はありません。

しかしこのナッツも頼んだので、トレイに2つのせてくれました。10歩先の5歩の地点で、床が雨で濡れていたので、つまずいて身を立て直す時に、ものの見事にグラス

がトレイから落ちることはありませんでしたが、中身はほとんどこぼれてしまいました。ひとまずテーブルにおいて、もう一杯たのもうか思案していましたところ、

カウンターから見えない筈なのに、店員さんが飛んできて「又おもちしますからお待ちください。洋服は濡れませんでしたか?」と濡れたトレイを引き下げ、布巾を置いて行きました。又別の店員さんは

床の掃除です。しばらくして新たなナッツとビールが届けられました。そこで飲んだビールの美味しかったことは言うまでもありませんでした。その気持ちの良さはずっと家につ

くまで続いていました。本当のサービスはこういうものなのでしょうか。店員さんには礼を言って帰ってきましたが、記憶にとどめられないほど

コチラがうろたえていたのだと思いますが、顔をよく覚えていませんでしたし、2人の背中だけが記憶に残っていますのが残念です。

2008年12月18日木曜日

江戸の秘薬その2



江戸時代の薬で家康も大事に使っていた中国の宋の時代の処方による秘薬の昨日の続きのお話です。マイミクさんの佐賀のナナさんから2007年4月17日のところにも紹介されていますよと連絡が入りました。

家康の手がけた万能薬「烏犀円」ウサイエン2008.12.14

小平市教育委員会 埋蔵文化財・民具担当学芸員 小川望氏の講演から

興味ある事実は

●考古学は石器時代や縄文時代の調査に限らず、江戸時代のことでも、このような例でも辿るのが難しく、時間も労力もかかるが、それが古をたどる楽しさですよと。

●明治政府になって、官許という記載ができたが、58種類はいっていたが、害になるヒ素も入っていたものなどは取り除いた

●材料の烏犀の材料は中国との貿易から入手していた。これは今でも写真で見られます。その他「狐の肝」というものもあった。これは写真がない。

●昭和17年の薬事法の改定で、秘薬が作れなくなったものも結構あった。

●江戸時代の製造元

 加賀国(石川県)、肥前国(佐賀県)、肥後国(熊本県)、尾張国(名古屋)

●今でも売られている烏犀圓のは佐賀※と金沢です

※佐賀の野中忠兵衛で売られているのは5250

●天明4年大飢饉が生じました。その折佐賀藩主鍋島治茂公は、5人の他藩者に薬をつくらせたが、その中の一人が隠密と疑われたため、多国者の製薬・売薬を禁じました。

その後佐賀藩医上村春庵らの願により、藩主は藩民のためを思い、一手製造を野中忠兵衛に与えた。

●内藤くすり博物館はhttp://www.eisai.co.jp/museum/

●何故肥前の薬が小平にあったのか:明治のはじめに多摩には品川区であったが、御門訴事件という政治的な事件があったが、これらに関係していた中央政府の九州出身の役人がこの小平にも来ていたのではないかとも推察している。

2008年12月17日水曜日

江戸の秘薬その1


江戸時代の薬で家康も大事に使っていた中国の宋の時代の処方による秘薬で現代でも売られているというお話です。

家康の手がけた万能薬「烏犀円」ウサイエン2008.12.14

小平市教育委員会 埋蔵文化財・民具担当学芸員 小川望氏の講演から

東京の西に小平市があり、新小金井街道という南北に走っている道沿いに鈴木小学校があり、ここ石器時代の遺跡があったが、その前に、これが分かった端緒は小学校の増設工事で敷地を整備していた時に、溝が出てきた。何かがあるということで工事業者が教員委員会に相談し。そこから国学院大の意見をもらったら、調査がすすむに従い、井戸3基が見つかった、さらには石器時代の遺跡があることも分かりました。ここは石神井川の源流であり、西東京市、練馬区、板橋区、北区(谷田川あるいは藍染川)を経て荒川までつながっている。

ここで「肥後 渡辺 烏犀圓」という直径4cm位の蓋のついた瀬戸物の厚さ0.8cm位の白い容器が見つかった。秀吉の臣下の宇喜多秀家の奥さんが重病を患い、曲瀬正琳という医師にかかり、見事に回復した。それで褒美として朝鮮で手にいれた「朝鮮版 和剤局方」※1を授けた。それが秀忠から健康第一の家康の元に。

1は中国の宋時代の官製の医書で「和」とかいてあるが日本のことではなく、この烏犀圓(烏犀角は黒犀の角の効用は熱さまし、烏犀圓は高価な万能薬)の処方で現在久能山東照宮博物館にある。

江戸時代の3大秘薬:紫雪、耆婆萬病圓、烏犀圓

これらを物語風に話すことは難しいので理解した範囲内でお話します。

1) どういう所から見つかっているか

2) それらの情報をどのような仮定をたてたか

3) どのような手がかりから追っていったか

4) 得た手がかりをどうつなげていったか

このような疑問を抱えながら、謎解きをしているようです。

1)烏犀圓の容器の発掘例:東京の中央区明石町遺跡、

大分県府内城下町遺跡から、四山社製糸工場跡から、広島城外から、山口県萩城から、福岡県木屋瀬本陣跡、佐賀県年木谷3号窯跡、石川県八幡遺跡から、京都市同志社大学構内から

2)資料関係があるところは、彰考館徳川博物館(水戸市)、早稲田大学図書館である、その他一番充実しているのは内藤記念くすり博物館(岐阜県)※2であり、薬包、宣伝用絵ビラ、薬屋の看板でから謎解きの端緒をつかんだようです。

これらの情報も関係者との雑談から発展して情報のありかが分かった。

そのなかに肥後烏犀圓の薬屋の看板に、製薬本家 徳光屋 渡邉敬衛門(肥後熊本本塩町裏1番(新市場とおり)と小平市で発掘したものと一致した。これがいまでも売られているのです。


次回はこれらから分かった興味あることがらです。

2008年12月16日火曜日

ミス0の介護


2つ先の駅まで自転車でなく、歩いての散歩は結構新しい発見がある。最近は駅の周辺でも駐輪が面倒で、ビル群の上下は不便なのが、歩きでなら自由自在だ。よく目につくのは、キャリーのついた買い物を曳いている人もいるが、考えて買わないとすぐ一杯になってしまうだろう。そういう人は車でも、自転車でも見落としている。

介護の会社で保険の担当をしている知人がいて、介護する人達の苦労は体力・気力に加え絶対ミスのない介護が求められているそうです。例えば自宅に伺って入浴をしていただく、3人がかりで一式入浴の湯船を運ぶそうですが、介護する人の一人がタオルをとっ振り向く瞬間に、他の2人もいろいろな準備をしているので注意が行き届かない場合があって、額に傷を負ったリ、骨折したりすると保証問題になる。その場合裁判問題になった場合に原則としてヘルパーに全責任がくるという。介護している人は薄給にあえいでいて、それでミスは絶対に許されないということでは、介護に回る人は絶望感に襲われるではないか。会社に入社する場合に、身元保証人をつけることが行なわれていますが、横領など故意に悪事をはたらいた場合は仕方がないにしても、介護は費用を頂いているプロの仕事だという前提だとして、ありがちな手抜かりも個人の責任に帰すのは、裁判官も介護の実情をしらないのではないかと思う。

産婦人科で通常の注意を払って医療にあたった医師が訴えられて、結局は無罪になったものの、補助的な介護をする人は特別な専門的知識が必要にないにしても、細心の注意を払っても、家族が手に負えない故に委託した部分も相当にあった筈、中には許されてもいいミスもあると理解してあげるもあってしかるべきである。その境界線は難しいからといって何もかも個人の責任にするのは極めて酷といわねばならない。介護会社がキチンと賠償保険に加入していればともかく、そうでない場合は介護する人は個人の責任もあるということは知っていてあげないといけないようだ。

2008年12月15日月曜日

ある骨董屋の話


NHKドラマ「篤姫」が終わった。宮﨑あおいはの演技、鹿児島にいたころのヤンチャなころから、大奥を統べるまでの風格ある演技には毎回さぞかし

こういうことだったと思わせる自然な演技ですばらしものでした。天才だという人もいたが、言われてみればこれにも納得させられる。彼女自身も此の役をやって大いに励まされ

これからの人生の指針になったといっている。

ひところ横浜のほうから、私の画廊へよく偽物を持ち込んでくる行商スタイルの骨董屋があった。古い油絵の中から物故作家や誰かの作風に似たものを見つけて、それにその作家のサインを入れてくるという種類のもので、この骨董屋の背後に油絵に詳しい奴がいるに違いなかった。だれでも警戒してかかるようなものは、その男はやらない。駆け出しの画商では名前を聞いても知らないような、名前を聞いても作品は見たことがないというような作家、たとえば吉田博だとか、国吉康雄だとか、佐分真※1といった作家の作品を持ち込んでくる。数も見ている者でなければやれるはずがない。おそらく相当の年輩の古手の絵描きの仕業だろう。いつでも言い逃れできそうなT.KOBAYASHIというサインの絵を小林得三郎※2だといってきたりする。

ずいぶんとぼけた野郎だが、この骨董屋のくるのが楽しみだった。偽物はけっして跡を絶たないだろうし、いちいち腹を立てたらきりがない。この道に入ったからには、むしろ偽物と戦うのを楽しむべきだろう。それにこの骨董屋が持ってくるものが、全部が全部偽物というわけでもなかった。そこは先方の戦術であろうが、5回に一回位はほんとうにおもしろいものを持ってきた。私が一向にひっかからず、よいものだけ抜いてとるので、骨董屋はついに来なくなった。惜しいことをしたと思う。どうせそういうものだから、たたけばいくらでも安くする。時には偽物を承知で買ってやり、機嫌をとっておけばよかった。

 その骨董屋が松本俊介※3の「コスモス」を持ってきた。俊介が花を描いたことなどということは聞いたこともない。しかし堅牢な画膚の美しさはまぎれもなく俊介のもののである。私は確信して買い取った。後に俊介夫人にこの絵の話をした。彼がいちどだけ花を描いたことがあり、ある人がそれを全部買い取って大連に持って行ったはずという。その中の一枚らしいがなぜこの一枚が残ったのかは分からないという。

1佐分真http://search-art.aac.pref.aichi.jp/p/seisaku.php?AI=ART19970717

2小林得三郎「萬鐵五郎君の遺作記録(製作とその時代)」、萬淑子編『萬鐵五郎畫集』、平凡社、一九三一年、四頁。原精一、小倉忠夫(対談)「萬鐵五郎 土着した表現主義の先駆」、『美術手帖』第二〇九号、

3松本俊介http://www.odette.or.jp/kankou/bu_c_bi_ms_i/bu_c_bi_ms_i.html

おいてけぼり:洲之内徹:世界文化社より

2008年12月14日日曜日

掛け軸の鑑定


東京テレビ12chで「何でも鑑定団」というのがありますが、期待は何百万円で、結果は何万円にしかならないという結果が多い。

結婚するときに、祖母から何時も床の間に正月に飾る掛け軸をもらった。酒井抱一※という画家でした。権威のある美術年鑑で調べてみると、かなり有名で姫路藩主の子ということでした。結婚当初最初の建売にはわずかばかりの床の間があり、その絵は福々しい女性の絵であって正月にふさわしいので楽しんでいた。

何年かして知人に奥さんが芸大に勤めている人がいて、どいう方法で鑑定してもらえばよいかを尋ねたら、ある上野にいる鑑定家を紹介してくれました。そこに数点持ち込んでみた。逸る気持ちで掛け軸の紐を解いて、おそるおそる広げようとしたところ、待って下さいという。それは「軸を広げるときは走らせるように広げるものです。」手渡してたらパット開いたのです。

顔色を見ても、何の気配もないが、一呼吸して、この画家の印鑑を見てください。見ると綺麗な縁のはっきりしたものだった。「この部分の枠が一部切れていれば本物。というのは相当数の絵を描いているので捺した印鑑の縁は切れているものです。」

「確かに緒形光琳の流れの琳派の風はあるので、その弟子たちが描いたものでしょう」という。やはり残念ながら偽物だった。鑑定料3万円を払ったのはもう30年以上も前になる。

鑑定の際にはほんの一瞬で感じ取れる訴える力によるものだということが分かった。

http://niigata.cool.ne.jp/izumi1201/private/houitu.htm

それ以来「何でも鑑定団」を見ると、同じように偽物がいかに多いかが分かるのですが、見ていて本物だという答えを出すの確率は家内の方が力量があるようだ。

このようなガッカリの鑑定結果がでた場合に皆さんはどうしているものだろう。小生も本当に久しぶりに飾ってみよう。鑑定しないで飾って楽しむのが人生幸せの感があるようだ。

2008年12月13日土曜日

望年会


もう忘年会シーズンです。年を重ねると、望年会などといって通知がきました。昨日は大手町の皇居のお堀端にあるパレスホテルでした。

このビルも相当に年数を経ているので、来年の131日をもって営業を中断して新建築に入るそうです。1月31日まで泊まれ、さようならするのは2/1です。

OB会の幹事の人の兄がこの近所の勤務で、このホテルの支配人と懇意で、兄弟で会うときに利用していたから、この機会に利用しようということだった。

例えば容積率500%といってその土地の5倍の総面積が立てられる限度まで利用していないので、フルに利用しようということで、取り壊して、新しく建て直すという

ことが行われている。昔は超高層の建築技術もなかったことであることもさりながら、皇居内部を見下ろす位の高さは不敬ということで遠慮した。ところがそういう気分

がまだまだ残っていた時期に大手の保険会社がかなりの高さのものを立てたところ、不評をかったそうです。

 このOB会の忘年会にはいつもカラオケがセットになっていますが、それが地下2階IVYというところでは、1部屋10人位入れる部屋があったし、飲み放題ということもできる

とうことだった。通常2時間というのが多いが、ここは3時間までOKでとても利用しやすいところで、再開後はそうはならないのが残念でした。

これが終わって席を変えて喫茶店に入ったが、ウエイトレスさんに建築中はどうするのですかと尋ねると、都内でもあちこちにホテルがあるので、そちらの仕事があるそうで、リストラ

の心配はないそうです。カラオケで上手く歌う人の題名を書いてメモを携帯電話に残した。毎年題名を忘れるので便利かなと思う。題名も厚い検索帳もあるが、ITの検索ができるので

とても便利になっていた。

2008年12月12日金曜日

カレーライス


2人家族になったらカレーを食べるのは本当にたまになってしまい、最近は調理された1人前の袋に入った物しか食べないようになっています。

学生のころは食堂で肉や野菜がさがさないと出てこないような、肉などが下手したらまったく入っていないようなカレーの世話になった。安いのがとりえの学食でも安いのがカレーである。月末など金が不足気味のときにはなくてはならないメニューである。それにしても、どこの大学の学食で試しても、ソースや醤油をぶっかけて舌を騙してでもしないと食べられない、伝説的とでもいっていい不味さだった。

日本のカレーを食べたインド人は「はじめて食べたけど、美味しい日本料理ですね。なんという料理ですか」という質問をされるそうです。インド人は日本のカレーをカレーだと思わない。が大人から子供まで、辛さがちょっと足りないけれど、味は悪くはないとの評だそうです。

しかし家庭でつくる本場のカレーを教えてもらおうと、いろいろな家をたづねたが、「カレーていえば、日本のものも結構美味しいじゃないですか。これが内で食べたカレーですよとみせられたのが日本製のカレー・ルウ。フォンドボーが入ってという高級タイプだ。アメリカに住んでいる親戚を訪ねて御馳走になったそうです。それ以来米国や日本に行くたびに買いこんでいるという。米国のスーパーではいくらでも手にはいるそうです。

こういう評価を受けているのでやっぱりそうかという印象を持ちました。

  カレーライスと日本人:森枝卓士:講談社現代文庫より

2008年12月11日木曜日

千日回峰行


西方面奥多摩の近くまで行ってきましたが、遠い山々が連なり自然の出迎えでした。遠出した時に、とあるお寺の掲示板で知ったので出かけました。

東京奥多摩の秋川仏教会の六十周年記念成道会(お釈迦さまのお悟りを祝う法要、ここでは75ケ寺が宗派を問わず、仏教に一致協力して住職と檀徒と一体になって励んでいるとのこと500人以上は出席されていたと思います。)で次の方・仙台の慈眼寺の塩沼亮潤住職も講演がありました。まことに清々しい塩沼住職・大阿舎利は昭和43年宮城県生まれ・62年に吉野山の金峰山で得度(お寺で生まれた訳ではないそうです)。平成3大峯百日回峰満行。11年には吉野・金峯山寺1300年の歴史で2人目となる大峯千日回峰行満行※1を果たす。12年には四無満行※218年には八千枚大護摩供満行。

1吉野山の金峯山寺を午前零時に出発して24kmの大峯山1719mまで登り、帰ってくる道のりです。つまり往復48kmのコースを約16時間かけて毎年53日から年間4ケ月決められた120日を9年間毎日あるきます。この大峯山に登った人の話では、尾根伝いに登るときは、右足、左足の順序を考えて整えないと、立ち往生する険しい山だそうです。高低差は1300m。

比叡山の延暦寺では試みた人は数十人おられるそうですが、奈良県吉野山の金峯山寺では志した人は2名、満行したのも2名だそうです。修行で線香の灰が落ちる音さえ聞こえるという。

千日回峰行にはたった一つ掟があります。いったん入行したら途中止めることは絶対に許されません。どんなに高熱であろうと、足の骨を折ろうとも、です。止めるときは携帯している短刀で腹を切るか、腰に巻いている死出紐で首をくくるか、という命懸けの行です。

2四無行は9日間の断食、断水、不眠、不臥を続ける行です。これは3人志して3人満行。(これが10日だったら死んでしまうといわれている、塩沼住職も何日かして死臭がすると言われた位だそうです)苦行というのは死んでしまっては意味がない。極限まで行き、「なるほどな」と気づいてそっから帰ってくることに意味があるのだ、と。そのような生き方をお釈迦様はお示しになられたのではないかという。会場でいただいた「致知」という雑誌の対談記録の中で、脳学者の茂木さんの話では修行僧の方々は、生命の輝きがとても強いように感じるし、永平寺の禅僧の南直哉さんをみて思い出したそうですが、厳しいスケジュールや質素な食事で毎日過ごしているにもかかわらず、皆さん、肌がきれいで内側から輝いている。睡眠、食事が満ち足りて安逸な生活を送る人よりも、生命力に漲っているというのはどういうことなのでしょう。塩沼住職がいわれるには、極限の行は別として、日々の修行は生活の原点に立ち返るものだと思うのです。朝起きる、勤行して、掃除する。ご飯をいただき、そして寝る。無駄のない生活ゆえに、精神も肉体もすべて自然に調ってくるのだと思いますと答えている。これは観念的にしかわかりませんが仏教界にも素晴らしい方が誕生しています。このような宗派を超えて集いは素晴らしいことだと思いました。

2008年12月10日水曜日

お歳暮会場



昨日の朝は相当によい天気で、午後から降雨があるというのも信じられませんでしたが、義理に厚い人のようにキチンと雨を降らせました。

帰りに新宿駅の広場に立ち寄ったら山形物産展をやっていました。荘内弁やら、新庄弁やらの説明で、品物もそれぞれの郷土色をだしていました。もうこちらは郷土食はフンダンに頂いていますので、試食をしたのは豆で、10分茹でて塩パッパこれが美味しかったし、板そばというのも美味しかったし、結構知らないものもありました。珍しかったのは鉄びんでした、味わい深く火鉢でもあったらいいななどと思いました。不思議なもので田舎の山形の荘内にいては味わえない山形物産展でした。

叔母より頂いた鮭は大ぶりでしたね。身に箸をいれると、実の締まった百合の根のように丸くはじけるようで、新鮮のカス漬けの様相でした。切り身がおおきいので、二分して頂きました。

一昨日はお歳暮を東急百貨店で頼んできました。昨年とは違い、受付会場はまるで銀行並みでした。それはあの番号札を取って順番を待つのでした。

品物を選ぶには3回ほどグルグル見回したのですが、今年は予め方針をきめて行きましたので、ほどなく決まりました。品物も蝋細工の見本はほとんどなく、電気店のような厚紙に写真がありカタログがわりになっていました。これも経費節減、受付方法も経費節減のように思いました。

これならインターネットでの選択でも同じではないかと思いました。そうは言うものの、下見が必要ですね。待っている席と、受け付けている席は隔離されているので

活気が伝わってきませんでした。あの人は何を選んだのかしらが見えると覗いてみえるのが楽しみですよね。お歳暮のにぎわいは薄らいで病院の待ちあい室のような静けさでした。


2008年12月8日月曜日

中村久子物語②


昨日の続きです。重いお話の続きになりますが、叔母の配偶者が難病で苦しんでいますので、ついこのようなテーマに目がいってしまいます。

中村久子の生涯」・4肢切断の一生:黒瀬曻次郎編述http://www.nakamura-hisako.co.jp

年表で中村久子の生涯を語っても実感が伝わらないのは承知ですが敢て・・・・・・・・・・・。

1911年(明治44年)

15歳、夏1月かかって単衣を口で縫いあげる。

20歳生きるために自分の姿をみせる見世物小屋入りを決める

24歳の524日、やっと見つけた弟栄三死亡、8月18日は母あや死去、身売りの年季明け、中谷雄三と結婚。雑誌「婦人界」に懸賞実話で1等当選。(以後別3回もの結婚を迎えるが、生活の糧の見世物興業をやる限り、興業主との交渉や運営には右腕となる夫がいないとどうにもならない不本意な結婚もせざるを得ないのだった。死神も逃げていくという表現をしているが、どうにもならない境遇であった。

25歳で義足装着

26歳時、長女美智子出産

27歳:夫が肺と腸結核の重態で倒れる。重病の祖母の病気見舞で故郷高山に帰るが、9月1日に関東大震災に出会、あわてて横浜の夫のところに戻る。9月17日祖母死亡。9月25日夫死亡。11月義兄の勧めで進士由太と結婚。

28歳:二女富子出産

29歳:夫進士由太急性脳膜炎で急死

30歳:定兼俊夫と結婚、秋久子左肺を冒される

37歳:女遊びの定兼俊夫と離婚、中村俊雄と結婚

41歳:ヘレン・ケラーと対面

42歳:書道家福永鷲那をしり歎異抄を教えられる。

   高山市は浄土真宗のきわめて盛んなところだそうです。

45歳:大東亜戦争はじまる

46歳:41歳で芸人生活を辞める決意で上京、42歳で見世物芸人に復帰したが46歳でピリオド、長女美智子に初孫の男子が誕生。

47歳:「宿命にかつ」2000部発行

50歳以降:講演や出版

1968年(昭和43年)72歳:脳溢血で倒れる。この年に死去

1993年(平成5年)高山市鉄砲町1番地の真蓮寺に顕彰碑が建立される。

歳は数え年で記載。

明治中期に生まれた明瀬ナツは久子さんより1歳年上であったが、字がかけなかった。昭和30年頃熊本県天草の本渡市の光蓮寺で中村久子さんの講演をきいたナツさんは感動した。それからカタカナで字が書けるようになるのに、何年もかかった。しかし中村久子さんは昭和43年に亡くなっている。

明瀬さんは光蓮寺の住職に昭和58年に87歳になって、中村久子宛ての手紙を書いてお願いした。「もうとっくに亡くなってなさること知っとんなはるでしょが・・・」「わかっとります。ばってんこの手紙は必ず浄土にとどきます。どうか中村さんのお仏壇に置いてきて下され」と頼んだという。光蓮寺の住職が高山にいくと聞いて、ナツさんは手紙を書かずにおれんかったのでしょうと結んでいる。

2008年12月7日日曜日

中村久子の一生




久し振りドライブに行こうと思ったが、試験のとき、拘束されているときは、あちこち行きたいところがあるのに、いざとなると、思い浮かばない。

以前歩いて見つけておいた車で30分先のケーキ屋兼喫茶店に行ってきました。これはと思ったというか、入店の多い・ケーキ屋さんの喫茶店はあたり外れがない。クッキーが美味しいところでした。

昭和12年4月17日午後2時、日比谷公会堂におけるヘレン・ケラー大歓迎会が行われた。ヘレン・ケラーの奇跡の声が場内の人々の耳朶をうった。主催者側の婦人会からの花束の贈呈のあと、中村久子さんという方が人形を呈した。付添のトムソン夫人が久子について詳しく説明した。それがトムソンの手話でヘレンに伝わると、彼女は両腕で久子をしっかりと抱き、それからあつい接吻をした。やがてそうっと両手で彼女の両肩から撫でおろし、袖のなかの短い腕にさわった途端さっと顔色がかわり、下半身をまさぐって義足とわかったとき、いきなり久子を抱きかかえ、長い間接吻し、両眼から涙をしたたらせた。

その場でヘレン・ケラーをして「私より不幸な人、そして偉大な人」といわしめた人、その名が中村久子さんという方です。

すべての幸福の条件を失ったが、しかし最終的には「なお人のために尽くすことのできる人間」になった。天災や人災、思いがけない不幸で、「すべての幸福の条件を失っても、尚人のために尽くすことのできる人間」を最高の人間という。この中村さんが言った言葉です。

中村久子さんは明治30年11月25日岐阜県大野郡高山町(現在高山市)で生まれた。両親の結婚後丸11年目にして授けられた。父は貧しい畳職人ではあったが、両親の可愛がりようはひとしおだった。数え年3歳であった。貧しいとはいえ、出来るだけの医者の手当ても行った。左足は突発性脱疽で両足の切断の憂き目にあい、さらに進行して、手は5指つけたまま自然にもげてしまった。7歳のときは、7月の豪雨の晩だった。父栄太郎は「久子、(とと)様が乞食になっても、死んで離さないよ」と叫び、息がつまるほどきつく抱きしめられた。しかし39歳の父は夜具の上で亡くなっていた。家庭には久子の病気で使い果たして1円の蓄えもない。その時2歳の弟栄三と久子と母親のあやが運命の急変の中に残された。

日中は、何代も続いた町医者の娘だった祖母のゆきが作ってくれた人形だけが友達だった。

久子が8歳になった。障害者排斥の風潮濃厚な時代で、学校につれていってもらえるとばかり信じ切っていたが、虚しい期待だった。その年の秋母は久子を連れ子にして近所の人と激しい反対にあったが、弟・栄三は叔母に預けて再婚した。その叔母も1年して脳溢血で急死した。まつわりつく弟は育児院に預託する以外の方法がなく、別れることになった。

そうこうしている間に久子は目がみえないと言いだした。

母のあやは安住の地を死によってみつけようとしたが、果たせなかった。

祖母の願は通じてか、この目だけはかろうじて回復してランプの灯がみえるようになった。

母親のあやは、両手両足のないわが娘になにか身につけてやらねばと心を砕いていた。光を取り戻した娘に一生面倒みるほど長生きできないのだから、心を鬼にして着物の糸のほどきかたを言いつけた。何回も問答は繰り返されたし、「出来ません。無理です」と答えてもけして許してくれなかった。出来るまでやらせるしかなかった。ついに、ほどきものができる!これは大きな喜びだった。こんどは縫うことに挑戦したが、できても口にくわえての作業なので、終わる頃には唾だらけになるので、外からの仕事を受けることはできない。まわりの人はといえば、母と祖母以外は誰かれなく口汚くののしった。それでもできないことの上に燃える反抗心が育てた工夫を重ねて、針の穴に糸も通し、針も運びことが成就した。

ずっとあとでは信じがたい話ですが、羽子板は左腕の包帯に羽子板の柄を挟むことによってできるようになったが体全体を動くことができなかった。しかし自分で縫ったお手玉までもできるようになった。

それでも母は自分を生活のために、連れ子をして結婚した。そこでは家じゅうが忙しいとトイレも昼の食事も空腹をかかえながらも待たされる苦行が続いた。母は肩身が狭いので、分かっていながら手出しができなかった。母親は再婚した婚家を出たが、それは経済的にも出来ないので戻らざるを得なかった。

祖母は「口汚くののしられてもその人を罵ってはいけません」といきり立つ久子が喧嘩しようとするが諭すのだった。

 これで彼女の逆境物語が終わったわけでなかった。続く

「中村久子の生涯」・4肢切断の一生:黒瀬曻次郎編述

2008年12月6日土曜日

スポーツクラブの意義


このような企業のトップによる講義を久し振り拝聴しました。1430開始のところ10分遅れで理由は明らかにしなかった。それでも学生達は待つ間多少イラダチはあったものの、辛抱強く待っていた。昨年や春と比べると、聴講する学生の態度がすこぶる真剣で、今まで全部で縦列30のうち、5分の1ほどの最前席はほとんど空席でであったが、この度は急に就職事情が悪くなったためか、前へ前への進出が見られ、最後の社会人の質問がなくて、学生の的確な質問がなされた。又全体の出席率も大分よくなっている。小生も半年位は通ったが二十日鼠のように走る、自転車をこぐ、

プールもただ泳ぐのは単調なので続かなかったが、介護予防体操でもやっている人の効果はかなりあるようです。それとスポーツ後の入浴施設がとても気持ちよい。

スポーツクラブ業界概況

2008.12.4亜細亜大学:トップによるセミナー:ルネッサンス常務執行役員・堀田利子

要約

参加率はまだ3%、トレーナーを目的や方法を明確にするためにつけてトレーニングするとリハビリにもよい。

国の方針も40歳以上のひとには生活習慣病予防のため、企業にもトレーニング方法を伝授せよと今年から言いだした。

スポーツクラブの意義:事業の根幹はホスピタリティ(一方的ではなく、共に歩むサービス)。

<リハビリ効果>北千住の小池さん60代後半と思われるおばあさんは、交差点でトラックの接触にあって背を下にして、仰向けに倒れたことで背骨の一部を損傷した。リハビリやマッサージの治療を受けたが、痛みは取れなかった。ものは試しでトレーナーのリハビリとは違って、楽しい指導を受けながら、スポーツクラブでプールで歩く練習から始めた。3週間目から効果の兆候が感じられ、今では筋肉トレーニングもやっていて、無駄な脂肪までなくなってようだと話している。

<子供の運動と母親の社交の場>水泳をやっている。一週間も休んでいると身体の不調を来すという。母親も子供の様子を見ている間、学校以外の友達が出来る。

<体力保持>大分のケースでは91歳の富成房子さんは日本スポーツグランプリ、50mの平泳の世界新記録(以前も水泳をやっていたが、60歳より再開)。今でもこの体力を維持したいと頑張っている。

【歴史的変化】1970年位が創世記、1985年エアロビクスでバブル経済崩壊後、ヨガやビューティスブームでにぎわった。

年代別参加

     20歳代           60歳代以上

1994年   48%            20.8%   

2008年  19.1%           21.7

参加の頻度は60歳以上は時間的余裕もあるため、週23回になる、子供にいわれるのは、スポーツクラブの日中はおかあさん・おじいいちゃん、おばあちゃんが多い印象を受けるとのこと。 

入会だけでみると若い世代は40%と多いが、継続性はいろんな楽しみがあるので、スポーツクラブだけにとどまることはない。ですから体重への即効性は無理ので楽しいことを次々と提供せざるを得ないようだ。

【業界の売上】

国内比較

2002年は3575億円54社、2006年では4272億円・499社大手4社※で50%のシエア(※:コナミ、セントラル、ルネサンス、ティップネス)

国際比較

日本3040億円、米国は29636億円

参加率     3.2%      14.7% 日本の成長の余地もあるという見方もないではない。

【最近の傾向】

●3種の神器:スタジオ、プール、トレーニングからプールのないドライタイプもある。目指す方向、筋肉トレーニング・リハビリは苦しい→楽しく、たとえばwilの画面のリードでリズム台での飛び。

●2008年4月1日より、特定健診、特定保健指導という40歳以上の人は生活習慣病にならないように、いままでの治療主体から予防主体に大きく転換している。運動を継続するのは、麻薬を辞めるのと同じく難しい。

●死の四重奏(内蔵脂肪、糖尿病、高血圧、高脂血症、1つの症状は予備軍、2ツはメタボ)

1運動、2食事、3禁煙、4最後に薬、

●主婦は夜の参加もある。食事の後である。

●子供が自宅の室内にいるケースが多い。ボールも投げられないし、ドッジボールも手でなく、顔で受けるというような事態なのでこの改善につとめている。

●健康を意識している人は90%に上る。

2008年12月5日金曜日

甘い話は落とし穴


振りこめ詐欺なども所得の蓄えが老人に偏っているから、それを狙っているのでしょう。フリーターなど若い世代は生活するのに大変で、3人も働いていて収入には困らないと思っていた近所のおかあさんで看護師をやっているが、父さんは退職し、息子2人が転職等して、所得が極めて不安定だし、住宅ローン残も考えると、やめられないということを率直に話してくれた。こういう若い世代が成長期のバブル時代と今の厳しさのギャップと暴力団の取り締まりによる地下に潜った知能的犯罪へと向かっているようなことも、高齢者社会の到来も、これらの事件の背景にあるのでしょうか?

<高齢者電話相談の内容>

先物取引の金融商品が多かったのは意外だったそうです。1件の被害金額は1000万円以上に

のぼる。この相談員の事例でいうと、1800と4800万円である。

逃げられないストーリー:一度1000万円の商品を買わせて、今度は被害者には分からない事情をしった別の業者が訪問する。「あら今買ったばかりよ」「そうなんですね。その業者は

手ごわい酷い業者ですが、私が業界の事情をよく知っているので、全額までは無理として取り戻してあげましょう。」「やっと700万円取り戻しました」この2番目の業者も最初の業者の仲間ですが、被害者は気がつかないまま、一時は預託金残高は1400万円になって、年末までには全額もどしましょう。この事例を知っている知人がアドバイスしても、すっかり信頼し切っている。弁護士まで法的な助言をしても、時々は配当金20から30万円を持ってくるので安心し切っているので耳を貸さないで、業者がトンズラしてやっと事件であることに気がつくが、この被害も退職直後の男性ではなくて、一人になった女性に多いそうです。

これが公に発見されるのは、税金や保険料の滞納があって分かるのだそうです。被害にあった方が消費者センターなどに相談されるのは5%程度であると思われるので氷山の1角である。

<催眠商法>

これでいい気持ちになり騙されて羽根フトンを買わされた人は知っているところでは8回も買わされている。

こういうフトンを売る業者間では1度買ったら上客リストのっている。

一度買うと、23年するとアフターサービスに来ました。あっこれは手入れが悪いので、クリーニングの必要があります。これを洗濯が戻るまでは置いてまいりますのでお使い下さい。しばらくするともう寝てしまうと返却できないと思ってしまう(8日以内にクーリングオフ解約通知すれば汚れてもなんら問題がない。)フトンのことなので寝室の奥まで案内し、タンスの財布の場所や契約書の保管場所まで記憶されてしまっている。

  クーリングオフ(火曜日契約した場合に、翌週の火曜日の消印と内容がある解約通知)をしない限り、何度もやってくるということになる。これは先に書いた業者間では上客にのっているのでクーリングオフによる解約された迷惑客にならないからです。

フトンを自宅まで配達されているのでコワイお兄さんが押し掛けてくる恐怖があるのでクーリングオフ以上のことは出来ないと思ってしまう。

下取り商法もあるが最初100万円のフトンが大負けにまけて30万円、下取りは20万円で10万円でも高いのですが、嘘でもおおぼらの金額でもなんだか大変買い得の心理を味わってしまう。

クイーリングオフで対抗するため契約書はもらっていないというが、居間での契約なので、8日すぎた契約書がタンスの3番目ということまで業者には分かってしまわれていて、グーの音もでないことすらある。1人の通行人を呼び込むので手口が巧妙で、とにかく美味い話には近寄らないし、ちゃんとしたところで買うことです。

こういう買い方は関西では顧客のほうから値引きをいうし、一見うまい話は信用しないので被害が大変少ないそうです。被害者は孫の年代にあっているので、かわいいので、別の場所に移動しても「おっかけ」して追っていって被害というより「楽しみ」という人までいて、お金がなくなるまで続けるのではないかと思うほどである。

対策:近寄らない、商売の場を提供しない。周辺に最近悪質商法要注意の張り紙を何枚も貼りだす。

高齢者の消費者生活トラブル~早期発見のために~昨日の続きです。

全国消費生活相談員協会の遠藤香世子の講演より

2008年12月4日木曜日

老人の駆け込み寺


最近話題になっている【24分に1人の振り込め被害】の実態は、サギの手段が巧妙であたかも催眠術にかかったように逃げにくい。

高齢者の消費者生活トラブル~早期発見のために~の講演から、明日は催眠商法による羽根フトンを8回も買わされた話などです。

講師は全国消費生活相談員協会の遠藤香世子さん:相談電話03-3235-1334や03-3235-3366

相談のきっかけ:本人からの相談ではなく、ケアマネージャーからの相談になる。

    ヘルパーや近所からの注意喚起の情報提供があると、余計な御世話にならないで、スムーズに防止しやすいとのことで、包括支援センターの役割は本当に何でも相談くださいということでした。

<振り込めサギ>

振込めサギ:内閣府や警視庁でもこの関連の広報活動実施中、

     警察も年間の被害総額が2億円程度では最初関心が弱かった。最近の被害総額は55億円にものぼる。強盗やドロボウによる金銭総額を上回っている。

    当初は犯人の犯罪累積総額が1000万円を超え、刑法の適用を重くなるまで待っているのが見え隠れ。

はびこる背景:証拠が残らない(サギ側の電話はプリペイド方式による携帯電話)、

       学生も手軽なアルバイトということでこの犯罪行為に参加している。

       犯人が捕まっても、この手軽な儲かる商売はないので、転業しない。

       どろ棒よりも準備が手軽。

      被害者はそうとうに年配になっている一人家族や2人家族だと情報入手が少なく、サギだという判断しにくい状況に置かれている。

サギの話題:孫の交通事故や痴漢行為のうそ→税金の還付金、年金支給の不足金の支払い

 まだ始まっていないあの給付金についても被害が発生しているそうです。

サギ被害者の内容:60歳以上が75%、(銀行のATMの機械操作の無知で誘導自在※→集金に転換も)

         20から30歳の孫の世代とは別居しているが、親にゆうよりは自分が頼られた嬉しさについ協力してしまう。

         日中留守番の母親は、娘に関する事例はほとんどないが、息子のためなら何でもしてしまうという母性愛が刺激される。

         

集金方法※:被害者が銀行のATMまで出向く代わりに集金マンがくる、公園で待つ、あるいは宅配の形で短期間利用の私書箱に送達させる。これはATMまえの監視カメラに映る危険の回避)

サギ回避の方法:①最良手段は電話をすぐ切る

        ②警察か消費者センターに電話相談したうえで応対を保留

        息子の携帯に電話しても、今のIT時代は息子にかけた電話が転送さ

れるシステムまで用意しているので、電話が息子にではなく、犯人につ

ながってしまうので息子の会社の固定電話にかけないと万全ではない。

サギ被害の額:10万や20万ではなく、100万円以上(退職金や保険金などのなかから手元

に用意されている金額が多いことを示している)