2010年2月28日日曜日

50年ぶりの有罪


おはようございます。朝日新聞で俳句欄にあった「天狼」を調べたらは冬の星シリウス※だと分かりました。

※太陽を除けば地球上から見える最も明るい恒星。
中国語では天狼 (Tiānláng) と呼ばれる。和名は『青星(あおぼし)』と呼ばれている。

 合った顔は15歳は確実に若い。思わず「髪は染めているの?」と聞いてみたが、ほとんど白髪がなかった。
高校の同級生と約50年ぶりに新顔といいますか、旧顔2人に合えました。その内の一人O君とは彼の誘いで弓道部に入ったのでした。2年か3年のときインターハイがあり、田舎は山形県の日本海側鶴岡市湯野浜近くの、大きな砂浜のあるナナクボの海岸で合宿でした。近的(約30m)と遠的(60m)があり、遠的は的をねらうのではなく、放物線の先を予測して射るのですが、広い海岸での練習の成果で鶴岡であった県大会で2位を獲得し、良き思い出になっています。ところがそのことをO君は忘れていて、逆に私が記憶違いであったのは、砂浜なので西瓜畑があって、泥棒しなかったので、栽培農家から立派ということでもらったと思っていました。ところが彼が部長だったので、失敬したのが分かり、謝りにいったときに、諭されての上のお土産だっという。彼はこの辺は俺が謝りにいって大変だったとグチをこぼさない性質で、実際の経過を明らかにしなかったのかもしれない。
 彼も今も弓道をやっていて5段の腕前という。私は段なしの愛好会の弓道なので進歩はしていないし、高校時代での経験から、退職後にふと思い出しての復活です。今の愛好会の連中もほとんどは若い頃に弓道の経験のあるものが多いですね。

2010年2月27日土曜日

先祖の昔を買うとなると


おはようございます。めっきり春が近づいてきています。暖房も時々スイッチを切っったりしています。起床も何時もなら5時位なのに、起きたら春眠暁を覚えずでのあり様で7時を過ぎていました。


贋作は小説やノンフィクションの題材としては格好のようです。
贋作者列伝:種村弘著:
葉巻王ジョージ・ハルは7トンの石膏を使って馬鹿でかい「カーディフの巨人※1(巨人の化石)」をこしらえ、硫酸で古色をつけたうえに地下に埋めてから、それを第三者に発見させてアメリカ中にセンセーションを呼び起こした。こ
れはいくぶん古代のクビト(キューピット)像を自作して土に埋めてからまた「発掘」した、ミケランジェロの故事※2に似ている。
※1http://www.genpaku.org/skepticj/cardiff.html
※2:ミケランジェロが古代ギリシャの名称と技を競うべく、自作の古代彫刻のクビド像をローマの丘に埋め、それからこれを大々的に発掘するロレンツ・デ・メディチの手を通じてラファエル・サンソニ=リアーリオ枢機卿に贈らせた美術史上名高い事件。
彼はいかさまずくめの大コレクション「アメリカ・ミュージアム」に大々的に展示して見物料をしこたまかせいだ。そこにはほかにも、ペンキ塗りの白象だの、殺人犯のアルバート・ヒックスのデスマスクだの、猿の頭と魚から合成した
人魚だの、といったありとあらゆるガセネタやいかものが押しひしめいていた。
ハル等の場合には、無邪気なホラ吹きと大道香具師的な売り逃げの動機が背中合わせになっていて、何となく憎めない。しかし彼らのいかものが空前の大衆的人気を獲得したのは、おそらくアメリカの民衆が空白になっている彼らの過去
を買いたがっていたからだろう。成金の系図買い。フロンティアの開拓にそろそろ限界がきて、さて多少のゆとりもでてきたアメリカ人たちは、いささか眉唾臭いのも承知の上で、プレヒストリアン時代の新大陸のご先祖様を買いたがっ
たのである。ペテン師はその弱みに付け込んだ。

2010年2月26日金曜日

リアルなひらがなの演出


おはようございます。田舎で葬儀があり帰省していました。帰りの車はこの暖かさでコートの中も汗びっしょりでした。
いい葬儀でした。気持ちよくお手伝いができました。あらためて田舎の山形県の二本海側の庄内の良さが再認識されました。
又一人残された叔母になりましたが、義叔父も叔母も教師をやっていましたので、教え子等大勢の見守る方がいますし、安心もしました。。


大遺言書 :語り・森繁久弥:文・久世光彦
森繁さんの49歳のとこのことである。老人を演じる時、意地悪なところはあるし、偏屈なふりはみせるし、最初はあまり好きにはなれなかった。台本にせよ、脚本にせよ、自分でどんどん直してしまうのが不遜に思えたし、こっちが素直になれるまでずいぶん時間がかかった。あんな軽口の胡散臭さに心許してなるものかという構えがあった。本当は感じるところがあったのに、あんな下世話な人情芝居に流されてたまるかという、やはり「身構えた矜持もあった。私のあのころはお芝居を漢字や横文字で考えていたのだろう。」ところが森繁さんのお芝居は平仮名だった。たとえば誰もいっしょに遊んでくれなくて淋しいお爺ちゃんが、一人雨の窓を見ているというシーンを、あの人は、日当たりのいい縁側で、田舎から出てきた愚鈍なお手伝いが嫌がるのを無理矢理押さえつけて、襟足を剃ってやるという芝居に変えてしまうのである。けれども、このほうがずっとオカシかったし、悲しかった。というようなことがいろいろあって、私も向田さんもいつの間にかあの人の弟子になっていた。
悪く言えば<際限のないいい加減さ>よく言えば<余白の魅力>というのが2人の弟子の師匠寸評だった。

2010年2月19日金曜日

贋作の仕掛け


おはようございます。3日連日の雪といっていますが、1日だけは認識できましたが、あとの2日はよくわかりませんでした。
鑑定団というテレビ番組がありますが、大概の出品はほとんど出品者の惚れ込んだ内容の評価期待と鑑定結果との間には、程遠い例が多い。これはこの番組を見ている人も鑑定予測に加わるのは、テレビ
を通してだから現物の生からのオーラや品性が伝わってこないからという言い訳はできますが、この番組を観ていて楽しいのは、意外な鑑定結果がでた場合、まるっきり傍観者の立場ですから、高い場合に
はうらやましいと思うし、逆の場合は気の毒にと、それらの出演者の表情の突然の変化がとても面白い。又当然に番組をみている人も自分の品性も分かってしまう。
案外贋作はいい商売ともいえる。しかしそれなりに社会環境の趨勢の認識に加え、血筋をともなった大変な制作する力量が必要のようです。

結局は相当に贋作者の力量は工夫をこらしているので、一般の趣味人程度の力量人にとって欲目や一目ぼれなど出来るくらいの作品になっていて、もう勝負が買う前についている。
贋作者列伝:種村弘著:「贋作を作らなかった贋作者」の項より
オークション・ハウスを舞台にして美術品詐欺をはたらく犯罪は、さほど珍しくない。
オーソン・ウエルズの映画『フェイク』のモデルになった、贋作者エルミア・ド・ホーリイと美術商フェルナン・ルグロが編み出したペテンの例がある。
普通オークション・ハウスでは依託人や売主の名前をあかすことはしない。そこでオークションのせり場に出た買い手としては、当のオークション・ハウスの実績に基づいた信用から作品の真贋を判断す
るしかない。ルグロが目につけたのはここである。一流のオークションハウス(パリでならオテル・ドルーオー、ニューヨークでならパーク・バーネットである)
まず特定の作品(贋作)を美術市場に記憶させることである。
ルグロは自分の所有になる45点をパーク・バーネットで売りにだした。(45点中数点を除いて、もちろん贋作)そしてもしある特定の作品が競売場で希望する値段でせり落とされなかったりすると、ルグロ
や共謀者のレアールが自ら買い戻し、一割の手数料を支払うのであった。彼らにしてみればこの1割の手数料は、その絵がパーク・バーネットのカタログ(、、、)に(、)載り(、、)記録(、、、)され、セールスの公式記録として遣るこ
とからいって安いものであった。オークション・ハウスの権威を信用してくれるので鑑定料にあたる1割は安いもので、あとから安物が手数料の10倍の利益をもたらすのだった。
この2人が日本にも1963年と1964年の2回やってきて、国立西洋美術館にエルミア・ド・ホーリィー、デユフィ、モジリアニの各1点ずつ売りつけた。日本から持ち帰った金額は9000万円を上回った
という。彼らが活躍した東京、ダラス、シカゴ、アトランタ、サンパウロいずれもラウル・デユフィのような近代画家で典拠が確実にみつかるパリからもっとも遠い諸都市だったという。
彼らはオークション・カタログの他に画集の中の複製画のさし替えのトリックを使った。

2010年2月18日木曜日

無精ひげ先生の授業


おはようございます。窓の外は銀世界、ボタン雪が音もなく降っています。車も綿帽子をかぶっています。通学の子供がどのような反応をしますものでしょうか?
オリンピックのカーリングの1ミリ差、スケートの100分の1秒差などの話でもするのかしら。
続日本一の私の先生:青春出版社〔編〕:入選より
学級芝居:森田真由美(東京都 会社員 .39歳)
変な先生がいた。ボサボサの髪、お決まりのように口の周りに浮かべた無精ひげ、今では見かけなくなった分厚いレンズの眼鏡。その先生は父兄会の面々が顔をしかめるほどだらしない風体をしていた。小学4年のクラス替えのとき、3年生まで教頭でもあり、父母の信頼の厚い石田先生が担任だったのでがっかりした。
変な先生は新学期で、席が決まらない状態で適当に座っている生徒たちに言った。
「席は決めないから、毎日好きなところに座れ、ただし前の日に座った席には座らないこと」「えっと!」と私たちは一斉に声をあげた。ぶつぶついいながらも従うしかなかった。
今度は各委員を決める段階になった、「みんなやりたい委員のところに名前を書け」
当時は学級委員に選ばれる人間は、成績もよく人望もある人に限られ、委員に選ばれることは自慢でもあったし、学級委員、保健委員、安全委員の漠然とした順位があり、それに入れば上流、はいらなければ一般市民というような暗黙の序列になっていた。結果はそれぞれ自分が書いた委員になってしまった。
家に帰って「ひどいのよ、こんどの岡村先生ったら」と母に文句をいっていた。
生徒間の先生の評価は「あいつ、きっと危ない実験をして、俺たちを自由に操ろうとしているんだ」などと噂をしたりもした。変な話だが、最初の頃は彼の悪口をいうことで生徒たちは仲良しになっていたのだ。1ケ月もして席替えは1週おきになった。そして新しい試練が加わった。2ケ月に一度グループ毎に自作自演のお芝居を発表しろということだった。当然「なにそれ?」「なんでそんなことをしなきゃならないの?」不満の声はあがったものの、結局やることになった。芝居を演じることも初めて、それに自分たちでつくらなければならない。グループのみんなは日替わりで各家に押しかけて、頭を突き合わせて台本を考え、稽古をした。最初は不満ばかりであったが、何かを自分たちで作り上げることの大変さと、それが出来上がっていく時の喜びを知った。そして本当なら決して行くこともなかった思われる男の子の家やそれほど親しくなかった女の子の家にいくことで、クラスの面々は急速に親しさを増していった。頭のいい秀才と呼ばれた男の子の家が小さなクリーニング屋で、稽古の途中で何度も母親に代わって客の応対をしていたこと。金持ちのボンボンに見えた男の子が古ぼけた団地で大勢の兄弟とひしめくように暮らしていたこと。おとなしく目立たない女の子の家が、とんでもない邸宅だったことなど・・・。それぞれの生活が学校ではみられなかったことが見えた、人の生きざまがみえた。発表会ではみんなに台詞を言わせるという条件があったため、誰一人欠けることなく台詞をしゃべり、照れたり、恥をかいたり、みんなは生き生きとそれを演じた。芝居をつくる作業の内に、何時の間にか変人岡村先生のクラスは一つにまとまった。「勉強にさしつかえる」と抗議しかけた父兄もあったようだが、生徒たちは必死で「続けさせて」と頼み、最後まで毎回グループを替えながらクラス全員のことも知るようになったし岡村先生は私たちの親分となっていた。

2010年2月17日水曜日

のんびり・ゆっくり


おはようございます。やはり南国のサンゴ礁のある紺碧の海は一度見てみたいものです。小島の青い海に熱帯魚のように、その魚の姿を借りて泳いでみたいですね。
旅の話:鶴見俊輔・長田弘:晶文社
ベリーズという国がメキシコの隣にあります。中米でも唯一ゆったりした小さな国※があるそうです。
長田;そこに北米から石油会社の副社長が事業をすすめようと乗り込む。ところがベリーズにきて急にいやになって仕事も会社もやめちやうんです。いまはニカラグアなんかから難民が入ってきて、いくらか変わってはいても、ゆっくり
した暮らしのリズムをなおくずしていない。要衝の地なので張りきって、ベリ-ズにやってくる人は少なくないんだけれども、ベリ-ズの暮らし方のもつ時間に魅せられて仕事のほうをおっぽりだしちゃう。その副社長はイエール大学を
出てフォーチュン誌にしょっちゅう名を出したようなバリバリだったんですが、以来北米に帰らず、背広も着ずに、のんびりすわって海を見ながら、ピカソみたいにパンツ一つで暮らしているらしい。豊かな社会が貧しい時間しかもって
いないバカバカしさをあらわにしてしまう土地というのが世界にあるし、そっち側からこっち側をみると、何もかも自明のはずの世界はちがっちゃうんですね。旅するというのは自明の社会の外に出ることなんです。

ベリーズ国:※http://www.belize.jp/:1981年に英国から独立した、アメリカ大陸で一番新しい国。
独立前は「英領ホンジュラス」で、現在も英連邦の一員。ヨーロッパに侵略される以前は、マヤ系インディアンの文化が栄え、その歴史は紀元前にさかのぼります。多様な人種と宗教の混在する国で、国土の65%を熱帯雨林が覆ってい
ます。

鶴見:西郷隆盛は奄美大島に流され、そこで西郷の構想がうまれたと橋川文三さんが説明しているそうです。流罪だから身分から放たれて島で暮らしているうちに、それまでと全然ちがう仕方で日本の社会を観るようになった。そこから
江戸城の開城なんかを無欲にやってのける、その後の韓国との交渉でも、彼は新天地をつくることができると考えていたんだと、毛利敏彦という人が『明治6年政変』(中公新書)で推測しているそうです。
明治維新で高位につける人だったのに、結局そうした俗事にしばらずに、避けたのはそこ
までの青年時代の島の暮らしが作用している。

2010年2月15日月曜日

我が師の恩は5円



おはようございます。米国のスポーツ誌の日本のメダル予想は銀が3つ、前回もピタリ予想通り、日本のマスコミの「捕らぬ狸の皮算用」でしたし、さすがにそうでない場合の残念をカバーするような取材も用意していたのか
いないのか・・・。
続日本一の私の先生
大賞――篇
5円の指輪:野村登志子(岐阜県 57歳):青春出版社〔編〕
小学校3年生の頃だった。近くの駄菓子屋で子供の指輪を売っていた。今思うと、小さなガラス玉に針金を引っ掛けてあるおもちゃだった。段々と周りの子が得意そうにみせびらかすようになった。お正月かお盆か遠足ぐらいし小遣いをもらえなかったは人並みにあれもこれも欲しいという気持ちが強かった。しかしわずか1年ほどのつきあいの義母にねだる決心はつかなかった。おさえればおさえるほど、かえって指輪がほしくて毎日言おうという思い繰り返していた。ある日とうとう必死にたのんでみた。「何を言うかと思ったら――。そげんな子供の遊びもんに5円もやれん、お父さんに言うたとか」と立て続けにがなり立てる。私はしゅんとしてしまった。泣きわめきたい気持ちでいっぱいだった。が下を向き、唇をかみしめていた。
そんなある日義母が学校の貯金日に30円持たせてくれた。そのお金を手にした瞬間、もう指輪を買うことにきめた。悪いということは分かっていながらもう怖くということもなくなってしまっていた。
次の日貯金通帳をみた義母は「30円もたせたのが、25円しかついとらん」「5円たりなかあ、学校の先生が間違うわけがなか」「じゃいば、うちわ知らんもん」と頑固に首を振って「知らんもん、知らんもん」と言い張った。次の日教室の後ろに私を見つめるように母がたっている。「どうしよう」に変わり、顔もほてってきた。授業が終わり、先生と母が熱心に話している。「今本当の事実をはなそう・・・いや・・・あやまっても怒られるのは同じだ」こんな気持ちがかわりばんこに心をゆする。母が先生に頭をさげ、ぷりぷりした顔で教室を出てくる。「お母さん」と声をかけると「人さわがせな」とさっさと帰ってゆく。
母の姿が納得できず、「先生、あんなあ、うち 貯金のぜにを・・・」と言いかけると、「ちょっとそこに座って、心配したでしょう。今お母さんに謝っておいたけど、貯金のおかねが5円余っていたの、先生うっかりしてごめんね」と頭を下げた。「先生うちがこれを」ととぎれとぎれに話しました。そうしているうちに涙が出てくる。
先生長い間は私をみつめていた。「大人になるまでつらいことあるけど、がまんするのよ」いくらほしいものでも、自分で悪いと思ってもこっそり手にしても、ちっとも楽しくないでしょう。それをみるたびわかるでしょう、貴女は・・・ね・・」
次の日先生は昨日のことは全く知らないふりで、1週間の便所掃除をやるようにいった。私は嫌なことを消す思いできれいに掃除した。「今週の便所掃除は今までの内で一番よかったです。きちんと掃除すれば使う人も汚さんように気をつけます。みなさんも見習ってください」とみんなの前で褒めてくだすった。
突然のことだった。先生は担任になって10月でお嫁に行ってしまった。2年ほどたって幼児の手をひき買い物の先生とばったり会った。
「会えてよかった。しっかり頑張って勉強しているでしょう」「職員室の向こうに図書室があるでしょ。偉人の伝記や貧しいくらい生活のなかできちんと生きた人々が書き遺した本がたくさんあるのよ。いい!本をたくさん読むの・・ね」先生にそう教えてもらってから目新しい持ち物はほしいとは思わなくなった。勇気ずけてくれる、不思議な本の魔力をすこしずつ知り、そしてわかるようになった。
遠い鹿児島の故郷をなつかしく思う時、先生は長生きして元気でおられるだろうか、会ってひとことお礼を言えたらと年を重ねるごとに強く感じている。

樹木希林さん


おはようございます。新年の写真のコマーシャルで出る樹木希林さんは今度はどうするのかと何時も興味深い。これとは違うでしょうが下記の樹木希林さんの努力が重なっての上で、独特の雰囲気が出るのだと分かって、なるほどと思った。
大遺言書 :語り・森繁久弥:文・久世光彦

樹木希林さんはドラマをやるときは、お手伝いとか、風呂屋の使用人とか家政婦の役が多い。そういうとき、この人が身につける衣装や持道具はすべて自前である。たとえばソックス一つ履くにしても、この人は決して衣装係の世話にな

らない。自宅から草臥れて色もよくわからない靴下を持参するのである。エプロンにしてもそうである。下駄やサンダルだってそうである。よくこんな使い古した物があったね、と思うくらいにリアルなのだ。どうもよその家の台所の隅

にぬぎ捨てられた物を頂戴してくるらしい。そうしたものが貯まり貯まって、この人のお邸には、古着や古道具専門の部屋が一つあるという

2010年2月14日日曜日

待ち合わせ場所


おはようございます。冬季オリンピックが始まりました。カナダにも先住民族が大勢いて、その存在の意味を発表する場ともなっていました。先住民族は自然とうまく調和して
暮らしていました。氷河期に渡った先住民族はカナダの大自然、オーロラ、雷、四季の移ろいの紅葉、白クマ、を敬っていました。その様子がうまく表現されていた開会式でした。
向田邦子との20年:久世光彦より
待ち合わせ場所
たった一度だけ待ち合わせしたことがある。向田さんから指定された銀座での場所が喫茶店でもなく、服部の時計店でもなく、デパートの屋上でもなく、4丁目の交差点に近い近藤書店という本屋の2階だ
った。どっちが先にきていて、どっちが遅れて入ってきても、なんとなく様にならない。店をでるとき、どっちが伝票を持って立つかだって、どうもうまくいかないような気がする。どっちだっていいじゃ
ないかと思われるだろうが、向田さんと私との間は、そんなつまらない、けれど微妙で危ういバランスの上に成り立っていたような気がする。何にしても気まずくなりたくないのである。その点本屋という
のは上手いと思った。

2010年2月13日土曜日

鮭いろいろ


おはようございます。故郷山形の日本海の鶴岡もお祝いのときの折に鮭が入っていて、その木目のようにきれいだったこと。それと母の実家山側の山形の家で食べた塩の塊の鮭これも美味しかった。
 青森の人も鮭好きなのですね。

大きなお世話:日本文芸家協会編:長部日出雄「鮭と縄文人」から
青森の人は三内丸山遺跡の発見で縄文時代に思いを馳せる。鮭は神から恵み与えれた大切な食糧、晩期には塩付けによる保存も始まったらしい。
●寺山修司は鮭の腹の下のほうの皮が白くなったところが美味しいと力説。
●苦労人で、貧乏生活の経験のある棟方志巧は陶芸家の河井寛次郎を家に迎えたときに、塩で凝り固まったような鮭、京都で暮らす河井は食べたことがなかっただろう。昔の青森の人間にとって、ほんのひとかけらでご飯が何杯も食べら
れるほどカライ塩鮭は大の好物。
ビエンナーレでグランプリを受賞した棟方がロックフェラー財団の招きで渡米したとき、空港に出迎えた人に、初対面でありながら「アメリカには、鮭がありますか?鮭がないと力がでないのです」
それを聞いた人は、「滑稽な感じを受けるどころか、私たちと同じでオープンで、フランクな性格の人で、親近感を抱きました」との感想だった。
●デリケートな太宰治は金持ちの生まれ:木目状に重なった身を一ひらずつはがしては、口にいれ一口毎に酒を飲む。友人の話をして、カチカチの鮭を茶漬けにして食べるのが一番うまいなんて、山家育ちなんだな」

2010年2月12日金曜日

記憶の扉


おはようございます。ふっと思い出すきっかけは、古い町並みや骨董市にいったとき、また押し入れの整理や、捨てられない手紙を整理しているときです。
向田さんの場合は、匂いをきっかけに思い出すようです。
向田邦子との20年:久世光彦から
アンチョコ:台本のネタの打ち合わせがあっても、ないときはない。そのようなときには歳時記や歌謡大全集だった。この2冊はいってみれば話の泉だった。もしかしたら、この2冊の中には人生のすべてがあるのではなかろうか。春夏
秋冬、たとえば3月なら<雛><桃><東風><啓蟄>という風に、俳句の季題とそれを用いた例句がのっている。
向田さんは流行歌をうたったことはあまりきいたことがないが、時代の出来事といっしょに実によく知っていた。一つの歌にはそれぞれいくつもの思いがあったのだろう。ほとんど聞こえるか聞こえないくらいぐらいの声で『雨に咲く花
や小畑実の『星影の小径』をいやに長いことハミングしていたのは、なにか訳があったのだろう。生きていることのいちばん大切な部分と、意外な関わり方をしていたのだ。
向田さんは匂いに敏感で、お祖母ちゃんに手をひかれて松茸を買いにいった夜道でラジオの東海林太郎の歌を聞いた話というのがあるが、まずミス・メモリー(向田さんの記憶力の良さの別称)が思い出すのはラジオの音である。その音
を反芻していると、住宅街の家々の黄色っぽい電気の光が見えてくる。お祖母さんのカサカサした掌の感触が蘇る。あれは確か松茸を買いにいったのだ。なぜそんなに夜遅くに松茸なんか必要だったのだろぷ。そうだ、お父さんの大切な
お客さんが突然見えたのだ。という思いだしの順番のようのである。

2010年2月11日木曜日

こんなときでもいい気持ち


おはようございます。メールを開いてみて、朗報でした。義叔父の難病の入所先がきまり一安心です。唯一の頼みの綱でしたので、喜びよりというよりも、叔母はまず安堵の気持のようです。これがだめなら車で雪道の2時間も先でした。ここなら10分で通えるし、よかったです。

生きる子との意味(ある少年のおいたち):高史明
極貧にあって母も幼い頃になくし、父親の手でないない尽くしのところで育ち、自分の気持ちを少しでも解放できるときはどんなときかとよんでいたら。
わたしは、毎日学用品を包みこんだふろしきを腰にしばりつけ、お古のズボンのしり(、、)に、風いっぱいにはらみこませて学校に駆け付けました。もし、学校に通うようになって楽しいことがあったとすればそんな時だったといえるでしょう。
おしり(、 、)にカギ裂きをつくっているのを忘れて、前の晩のうちに父に繕ってもらえなかったおきには、この風は、大きな破れ目からうすうすもれ出てしまって、ズボンはうまくふくらみません。でも「やっぱり気持ちがいいのです。
雨の日は、下駄を両手にもって、はだしで駆けるのです。一番いい気持ちになれるのは、そんなときでした。みんなが大きな傘をもてあましているとき、わたしだけは、身軽に「すいすい駆け抜けていけるのですから、雨に濡れことさえ
もとても楽しくなるのですから、不思議なものでした。

2010年2月10日水曜日

男女平等の効果


おはようございます。男女平等の会主催の講演会にいってきましたが、200人中10人の男性でした。しかし女性の視点は現実を直視し、介護や高齢化については男性も勉強し、知っておくことは大事なことと思った。
講演会:樋口恵子※「あしたの老いは大丈夫か」:高齢社会をよくする女性の会代表理事長、東京家政大学名誉教授:※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E6%81%B5%E5%AD%90
練馬区の豊島園に在住。

介護保険制度ができて10年
日本の平均寿命は世界でも第一位、高齢化のスピードは記録保持者(現在韓国の出生率の激減、中国も一人っ子政策により、高齢化のスピードが速まっている)
よくいわれることですが、日本の65歳以上の総人口に占める割合は22.8%(北欧の場合は15%)、
●どの国も平均寿命はすこしづつ延びている。
●高齢化の国の存在に注目するよりも、アフリカでは平均寿命40歳台は局地的な戦争による難民やエイズ患者は人口の20%にも達していることに注目すべきである。
●出生率:フランス2.0%、米国2.0%。日本は1.29%(現在多少持ち直して1.39%)
韓国では1.19%
●韓国の女性の大学進学率90%、男子よりも少しながら上回っている。特別に難しい外交官試験の合格者では50中30人が女性。日本の衆議院で女性の割合が2ケタになった。
●日本は男子の給与100として女性は60。世界的にみても日本は、女性の勤務が難しい国である。女性の高学歴が就業環境の改善に連動しなかった。
●女性が妊娠して退職する割合は70~80%。男性がもっと子育てに参加したくとも、1日の勤務が10H超えているのは4人に1人の割合である。男性も本来は病気や失業もあるだろうに、また、中堅管理職にもあり、離婚にあうこともあり、その時点で親が高齢化しての介護のために退職しなければならない事例も増えている。会社で妊娠時の女性や、男性の親の介護のために、短時間の勤務体系があれば、退職なしで勤務できる。このように多様性( diversity)の雇用継続があるべき。家族が幸せになれる社会は高齢者を大事に、子育てが容易になるようにする、このことが男女平等から始まる。
●親の代の家を改築した。350万円の支出だった。マンションは管理費3万円や修繕積立金1万円で、戸建てより費用がかかるので戸建有利の考えでいたが、どうも高齢期に達してみると、累計するとそのような費用がかかり、平均寿命が人生50年の時代ならともかく、現在90年ともなると、高齢期になっての一時金は仕事をもっていないと大変な支出になる。
また木造は耐用年数30年で、平均寿命がはるかにこえているので、退職時に建築するようなことも考えておく必要があるということになります。
この平均寿命について自分で事実を直視しなければならない。また年金も男性が残る場合>女性が残る場合の差が、かなりあることも考慮しておく必要がある。
●人口の推移と平均寿命:江戸時代3000万人、明治維新3300~3500万人、敗戦時は6700万人(植民地もいれれば9000万人)が1億2千600万人。
昭和15年のころの平均寿命は男性46歳、女性49歳でお嫁さんが姑さん見取るのはせいぜい半年かそこらだった。戦争がなく平和で豊かなので平均寿命がながくなって当然。
高齢化社会という定義は高齢者の割合が7%をを越えて場合で1970年の万博の年だった。

2010年2月8日月曜日

程よい温度


おはようございます。今日は午後から雨で春雨の生温かい雨のようですね。
向田邦子との20年:久世光彦より

私は向田さんのドラマについて話すことがあると、必ずこの話をする。あるお天気のいい午前、貫太郎が大きな背中を見せながら縁側で爪を切っている。パチン、パチンと気持ちのいい音が聞こえる。新聞紙を敷いたその上に大きな足を
置いて切っているのだが、勢い余って貫太郎の足の爪は弧を描いて庭先や茶の間や、あちこちへ飛んでいる。お勝手の方から足音がして妻の里子が現れ、貫太郎の脇を通り抜けようとして「あ痛ッ」と小さな声をあげて立ち止まる。鶴の
ように片足を上げて、素足の足の裏に刺さったものを摘んで取る。畳に飛んでいた夫の爪である。そして誰言うともなく、ポツリと呟く。「男の人の爪は固いから・・・・」これは名台詞の一つかもしれない。素足の女の感覚である。生
活の隙間からひょいと拾い上げた台詞です。
里子は「爪を飛ばさないでくださいね」などいと無粋なことはいわず、そのままスタスタと行ってしまう。聞こえたのか、聞こえなかったのか、貫太郎も知らんで顔で爪を切り続ける。それだけのシーンである。そこがいい。向田さんの
好きだった人生のほどよい温度がここにはある。

ジャガイモは怖い


おはようございます。戦後の食糧難のときは、ご飯にジャガイモや、大根の葉や、サツマイモがはいっていました。皆お祭りどきに食事が賑やかになるのが楽しみでした。
じゃがいもの話:スペイン人で神父で植物学者であるジェロニム・コルダンや同じくスペイン人のペドロ・シェザ・デ・レオンが異口同音に絶賛しているような食材、あっという間にヨーロッパ人の胃袋を虜にしたかのように思われるだ
ろうが、実際は逆だった。
大体人々は初め気味悪がった。土にまみれた不細工な塊、こりゃ、悪魔の食いもんじゃないか。
たびたびヨーロッパ各地を襲った不作や飢饉の年にさえ、どんな厳しい気象条件にもまけず、どんな貧しい土壌にも根付き、多さんで栄養価の高いジャガイモは受け入れてもらえなかった。当時の絶対君主は食糧問題の解決につながると
みて、普及のために最後は暴力や脅しを用いて強制的手段に訴えた。1756年のジャガイモ戦争でルイ16世の治下のフランスでジャガイモの普及に尽くしたオーギュスト・ハンバルマンチェはプロシャの捕虜になったおかげでジャガイモ
の美味に気付かされた。しかしジャガイモンの普及は遅々としていて、市民権を得たのは18世紀も末のことである。
日本には1601年には今のジャカルタからオランダ船で長崎にもたらされた。ロシアに入ったのはこれよりも遅いのだ。17世紀末兄弟との政争にかったピョートル1世は職工に身をやつしてオランダやイギリスの先進国の技術を学びな
がら、ジャガイモの美味も体得して持ち帰った。しかし誰もが気味悪がって食べないし、作付もしない。大帝が目の前で食べてみせても、さらには食べないと打ち首といっても苦しみ悶えながら死ぬのは嫌と拒否していたが、実際食べて
みて美味しさが分かったのことだった。しかしそれでも翌朝には冷たいムクロになるとおののいた。
アダムとイブが楽園を追われた原因となったのは、リンゴではなく、ジャガイモだというのだ。花が咲いて実がなるのではなく、土中でクローン型の増殖をするのが、気味悪がられたのである。「悪魔の果実」を食した者には地獄が約束
されている、と。
もうひとつ農民に普及しなかったのは味が薄く、バターやソースをかけると高く付いたとういうこともあった。
武装蜂起した首謀者が不毛の大地へ流刑になった。ここでやんごとなき身分の首謀者も農耕にはげみ、ジャガイモを取り寄せ栽培した。それが農民にもやっと伝わった。それがジャガイモを栽培しそれを食したものには金貨を与えた。こ
れは絶大な効果があった。それが全土に伝わる始まりだった。

2010年2月7日日曜日

近縁


おはようございます。案外他人だと思っていても、次の話を聞くと近縁だという可能性があるのかもしてません。昔家庭教師をやっていたときの先の生徒が一人っ子でした。
その子がハムスターを籠にいて、新聞紙をちぎっては底にしいていましたし、ハムスターの運動はグルグル回る輪でした。今はペットショップであまり見かけませんね。

イヴの7人の娘たち:ブライアン・サイクス著:大野晶子訳
まだ幼いころだが、こども向け百科事典で世界中に散らばっているペットのゴールデンハムスターはたった一匹のメスの子孫であるという記述を思い出した。嘘に決まっていると思いつつ、」だが本当だったら?
おどろくべきことに、ハムスターは1年に最高で4回から5回子どもを生むことができる。その割合がでいけば1930年からすくなくとも250に及ぶ世代が誕生したことになる。
1930年に動物学の調査隊がシリア北西部のアレッポ(現在ハラブ)近郊の丘に「でかけ、みたこともない金色がかった茶色い毛並みの小さげなげっ歯動物を4匹捕獲したという。1匹はメスで3匹はオスだった。彼らはそれをエルサルムのヘブライ大学に持ち帰った。メスはすぐに妊娠し、こどもを生んだ。やがてその子どもたちは世界中の研究所の送られるようになり、それまで研究に使われていたラットやマウスの代わりとして人
気を呼ぶようになった。スタッフがもはや必要がなくなった研究動物を家に持ち帰り、殺すくらいならとペットとして飼いはじめることがときおりある。時間とともに、ハムスターは家から家へと広がってゆき、人気が高まると商業ブリ
ーダーがカタログにハムスターを加えるようになり、ハムスター愛好家が増えていった。それが世界中にひろがった。
今日世界中で3百万匹以上が飼われている。事実世界中から集めて調べてみると、一匹のメスから連綿とDNAがつながっていたのです。

2010年2月6日土曜日

○につけても



おはようございます。新潟の様子では85cmもの大雪だそうで、田舎山形の叔母の家も心配です。除雪車がきて公道は通行できるようになるが、玄関の前に除雪の大きな塊が寄せられて、それの処理が又老人の手には、屋根の雪下しも合わせて大変な作業です。雪かきなどどうしているか心配です。
昔毎朝玄関から公道も含めて、雪踏みで道をつけてからの朝食でした。

向田邦子との20年:久世光彦
どんな上の句にも(それにつけても金の欲しさよ)という句が下につくという話がある。
たとえば《山ひだのゆるき流れを上りつつそれにつけても金の欲しさよ》とか、《月を待つ高嶺の雲は晴れにけり それにつけても金の欲しさよ》といった具合である。どんなに高楊枝をくわえていたくても 、
財布のほうが一人で寂しがるということがあるものである。私が長年勤めた会社を辞めて独立したといえば聞こえはいいが、不安なものである。よりかかる大樹が今日からはないのであり。半年先までの当
てはあっても、1年先となると目処などついているはずもなかった。それでも、いろんな人から励ましの言葉を添えて、絵や時計や置物やそれに花をたくさん貰った。どれも嬉しかったが、お金をくれた人
が一人だけあった。何尾の色気もない茶封筒に入っていた。中に手の切れるようなお札で、びっくりするくらいの金額が入っていた。封筒の表には〈おめでとう〉と面倒臭そうな字で書いてあった。
普通なら〈入学祝〉とか〈寿〉とか祝儀袋にかいてしまうものだが、留学の人へは〈好日〉とかパーティなら〈花束〉と書いてポケットへ忍ばせてやる。そんな向田さんでも不祝儀の場合は人並みに〈御霊
前〉〈御仏前〉と畏まって書いた。悲しみの日には、人と同じ顔をして粛然とうなだれるのが礼儀と心得ていたのである。

2010年2月5日金曜日

善意の怖さ



おはようございます。私には経験がないのですが、地位の高い方にとっては、有難迷惑より一段上の善意の怖さというのがあることがわかりました。

社長の顔が見たい:曾野綾子より
ローマ教皇ヨハネパウロ2世が生前故郷のポーランドへか帰られた。両親と兄弟の墓参りのためであった。父母の墓の前まで来た教皇がもはや車から降りることができなかった。車n周囲にびっしり人がいた。墓がどこにあるのか、地名も書留られず、地図も手元になかった。しかし、そこには地元の人々がびっしりと墓を取り囲むようにして立っていた。市長か村長、村の教会の神父たち、村の顔役、近くにある女子修道院のシスターたち。皆善意に溢れた人ばかりだ。教皇がこの田舎町とゆかりのあることを光栄に思い、教皇を人目見たくて、盛装してやって来た人だろう。
しかし教皇が本当に久しぶりに、父母の墓をじっと見つめた時、墓の後ろには子どもたちの一団がいて、歌を歌った。もちろん慰霊の歌だろう。しかし教皇は無言の輝くような沈黙の中にしみ透る親子の会話が奪われた。なぜ歌なんか歌ったのか。なぜ教皇を、風と野の草だけが立ち会う野辺の語らいの中において上げ、彼らはその場を去らなかったのか。
教皇には自分の時間がなくても仕方がない。「子どもたちが両親のために歌を歌ってくれた優しさをお喜びになったでしょうよ。あなたはそう感じられない?」と言った人もいたが、私には感じられない。死、親子の思いは、個人のものに還してあげたかった。悪意は拒否できるが、善意は拒否する理由がないからだ。だから曽野さんはは悪意のよりも人よりも善意の人が怖いのだそうです。

2010年2月4日木曜日

父の偏屈


おはようございます。昨日の朝の出がけに、庭のバケツに入っていたのが、凍っていました。相当に寒かったのですね。これを見て急に寒い思いをしました。

任那や百済や、秀吉の朝鮮出兵や朝鮮通信使など相当に古い歴史は聞いていましたが、近代の韓国や朝鮮との日本について状況についてはこの本を読むまではよく
分かっていなかったようです。被害を受けた側からの事実の発表がないと分からないものですね。

生きることの意味(ある少年のおいたち):高史明より

1900年以降の朝鮮との事情

時期   出来事      朝鮮人の日本国内人口  
1900年   日清戦争※          
1910年:日韓併合   790人         

1919年  3.1事件(朝鮮独立運動)
1931年満州事変
1932年       390,543人
1940年      1,000,000人
1945年敗戦    2,365,263人
※この戦争は日本と清国が朝鮮の支配をめぐって争った。
韓国における所有権のない土地を土地調査事業という名目でありながら、
朝鮮の農民は長年にわたって耕作してきた土地を取り上げられた。
朝鮮の農村においては土地とは部落の人々のものという考え方が強かったり、個人の所有がはっきりしている場合でも、その保障を慣習にたよることが多っかた。多くの土地が地主のものであっても実際に耕している農民のものでなかっ
たという事情がかなり一般的だった。所有権を申告すると、かえって土地を奪われるのではないかと疑い、申告しなかった。このために土地が容赦なく取り上げられた。こうしておびただしい流民が生まれた。この流民が日本に来たこと
になる。
▲労働力や兵隊の要員として強制的につれてこられた朝鮮人
▲うばわれた朝鮮語(朝鮮の学校で朝鮮語禁止)
▲削られとられた朝鮮の歴史や文化
▲創氏名改名は朝鮮風の名前を日本風に変えさえした。

父の偏屈こそがわたしたちを守ってくれました。母親のいない私たちを、いじけた子にすまいと思ったら、偏屈にならざるを得なかったのです。そして、それだけが、きっと父の気持ちを引き立ててくれる“つえ”だったのです。
父の偏屈とわが家のきまりは、
カミ一枚 トッテクルナ
ハシ1本 モラッテクルナ
クギ1本ヒロッテクルナ
これが、父がいつも口にしていた鉄則です。
父がしばしば口にしていた教えがあります。
人ヲナグル者ハ、背中ヲチジメテネムルガ、
人ニナグラレタ者ハ、手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。
「人間ハ、ドロボウシテ楽ヲスルヨリ、貧乏シテモ、手足ヲノバシテ暮ラスホウガ、長生キスルモノダ」

2010年2月3日水曜日

平凡な名前


おはようございます。雪道を滑らないように駅までいったら、ホームに電車がきていて慌てて乗り込んだ。何時もなら4分位の
余裕はある。今日は多少ゆっくりだったので時間がかかったのだと思った。しかし車内のアナンスで病人のために3分の遅れで申し訳ありませんとのことであった。
結局は前の電車に乗ったが為にいつもよりも早かった。通勤先の近くの女子中学校では入学試験で、案内の人が40人位もならんで待ち構え、ビップ扱いのようです。
父兄の待機所まで設定されていました。そういえば3日は節分でした。もう春なのですね。

向田邦子との20年:久世光彦より

向田さんは作中の人物の名前なんかどうだっていいと日頃言ってはいたが、嘘である。ただ一見どうでもいいような名前ばかりつけていたのは事実である。たとえば『寺内貫太郎一家』の石屋の使用人の名前は〈イワ〉に〈タメ〉に〈ウス〉、向かいの花屋は〈花くま〉であった。いずれ〈岩五郎〉とか〈為吉〉とか本名はあるのだろうが、最後まで誰も知らなかった。『阿修羅のごとく』の四姉妹は上から〈つな子〉〈まき子〉〈たき子〉〈さき子〉だった。そんな名前ばかりであった。なぜかというと、第一に経済的な理由からである。字を書く手間のことである。脚本には台詞の頭にいちいちそれを喋る人物の名前を書かなくてはならない。主な役だと一遍」の脚本のなかで50や百の台詞はざらだから。〈イワ〉と〈森繁〉を百回書く手間の差である。自作の「顎十郎取捕物帳」の顎などの字画が嫌なのである。そんな向田さんだから画数の多い役名をつけたことはない。
向田さんがある脚本の中でつけた名前「その子」を「忍」に直したことがあったが、ひどく怒られた。過剰にロマンチックな名前だとはじめからなんだか選ばれた劇的な女になってしまう。女はみんな普通なのだ。普通の生まれで普通の育ち、普通の名前で普通に人を好きになる。普通の顔に菩薩の笑みを浮かべ、普通の顔をして心に鬼を棲まわせる。だから女は可愛いし、だから女は嫌らしい。私は謝った。それからごく普通の名前が好きになった。

2010年2月2日火曜日

五里霧中


おはようございます。直ぐにも春と思いきや、気温は相当に下がるようで、昨晩は雪になってきました。春になるには、その前に必ず雪の洗礼がどうしても必要のようでした。
生きることの意味(ある少年のおいたち):高史明
山口県下関市七輪町(朝鮮部落)に近い小学校の入学式ででした。親がついていない、着ていた洋服は兄のお古で、カバンもなく、履いていたのは古い下駄でした。真新しいのは名札だけの私と同様、一人ぼっちの子がいました。その子
も又、同じような貧しい身なりをしていました。頬に引っ掻き傷のある、見るからに意地の悪そうな顔をしていましたが、一人ぼっちの私にはその子だけが友達のように思われました。ところが一番はじめにけんか(、、、)をしてしまいます。
下駄箱のところで彼が他人のズックを盗む現場を見てしまった。にらみあいが始まった、いきなり手にしたズックを私の顔に投げてきたのです。
もう取っ組み合いのケンカになりました。同じようにきたない身なりをしていたので、暗い領域(母がいないし、すさんだ、極貧の家庭)が鋭く感じられました。わたしだって何時その子のように盗みを働
く人間になるか分からなかったのです。ドタバタの末教室に入っていた同級生や先生までがでてきて引き離されて、仲裁が入り、サワギはおさまった。がその盗みのことは父からのつけ口を嫌った教えが生きていたので、言わなかった。
わたしたちのけん(、、、)かはその子の盗みがきっかけでしたが、わたしの前途に待ち構えていた未知の、なぞのいっぱ詰まった世界でした。はじめて人間としての道を歩みはじめたといえるのでした。

2010年2月1日月曜日

稚気と大胆さと


おはようございます。もう梅の花は満開でした。その樹は花の白さの塊のために、見た目でで空中に浮いているようにみえました。自転車に乗っていても、首筋に
空気が流れ込んでも気になりません。
ワールドカップ予選を巡る64の話:大住良之
トミスラヴ・イヴコビッチ編
1960年ユーゴスラビア(現クロアチア)ザグレブ出身。1979年のワールドユースで来日し、独特の存在感から強烈な印象を残し、日本女性ファンを魅了し、驚くなかれ、当時から20年以上経過しているのに、世紀がかわっても、
いまだにプレゼントをもってはるばるヨーロッパまで会いにくるファンが幾人もいるのだそうです。
イヴコビッチは1989年のUEFAカップで<ナポリ>と当たったときのこと。相手のPKになった。蹴るのは神の手と言われた天才マラドーナ。このときチームメイトは賭を始めた。ユーゴから来たGKがマラドーナを止められるか
どうか。賭率は圧倒的にマラドーナの勝ちに賭けていた。イヴコヴィッチPKに対して絶対的な自信を持つキーパーだった。ペナルティエリアに近づいてきたマエアドーナに「おい、俺が止められなかったら、100ドルくれよ。俺が止
めたら、逆に100ドルやるよ」相手は少し考え込んでから、この奇妙なかけに「OK」と返してきた。飛ぶ鳥を落とす勢いの当時のマラドーナが手心を加えるはずがない。八百長の勧誘というよりも心理ゲームに引きずりこんだ。
イヴコビッチは「PKを止めるには相手に考えさせることだ。右か左か真ん中か。そして最後まで動かない」彼は自らに暗示を賭けた。「今日、俺は調子がいい」精神を集中させ、ボールが動き出すギリギリまで見切った。マラドーナの
右の軸足が着地し、左足が振りおろされた。」「左っ!」体がついていった。止めた。GKの勝利、マラドーナには負けて、チームメイトには勝った。
スーパースター相手にギャンブルを提案する。かようにイヴコビッチは大胆で稚気のある大男だった。