2010年2月5日金曜日

善意の怖さ



おはようございます。私には経験がないのですが、地位の高い方にとっては、有難迷惑より一段上の善意の怖さというのがあることがわかりました。

社長の顔が見たい:曾野綾子より
ローマ教皇ヨハネパウロ2世が生前故郷のポーランドへか帰られた。両親と兄弟の墓参りのためであった。父母の墓の前まで来た教皇がもはや車から降りることができなかった。車n周囲にびっしり人がいた。墓がどこにあるのか、地名も書留られず、地図も手元になかった。しかし、そこには地元の人々がびっしりと墓を取り囲むようにして立っていた。市長か村長、村の教会の神父たち、村の顔役、近くにある女子修道院のシスターたち。皆善意に溢れた人ばかりだ。教皇がこの田舎町とゆかりのあることを光栄に思い、教皇を人目見たくて、盛装してやって来た人だろう。
しかし教皇が本当に久しぶりに、父母の墓をじっと見つめた時、墓の後ろには子どもたちの一団がいて、歌を歌った。もちろん慰霊の歌だろう。しかし教皇は無言の輝くような沈黙の中にしみ透る親子の会話が奪われた。なぜ歌なんか歌ったのか。なぜ教皇を、風と野の草だけが立ち会う野辺の語らいの中において上げ、彼らはその場を去らなかったのか。
教皇には自分の時間がなくても仕方がない。「子どもたちが両親のために歌を歌ってくれた優しさをお喜びになったでしょうよ。あなたはそう感じられない?」と言った人もいたが、私には感じられない。死、親子の思いは、個人のものに還してあげたかった。悪意は拒否できるが、善意は拒否する理由がないからだ。だから曽野さんはは悪意のよりも人よりも善意の人が怖いのだそうです。

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