2010年5月30日日曜日

街を元気にする鍼師②


おはようございます。夜の8時のまっすぐな道路の信号は8ケ所位先まで、一斉に青か赤で見晴らしがとてもよい。まるでドミノ倒しの信号の変化は見事なので車にのっている気持ちのよさを感じるし、こんなに速いもかと思ったりします。昨日の続きです。

未来を変える80人:僕らが出会った社会企業家:シルヴァン・ダニエル、マチュー・ルルー著

彼が採用したスタッフは」「理想主義で、既成概念に」とらわれていない若者たちの集まりだった。
何をいっても一言で片づける役人、変革に」けちをつけ商売を優先させる「専門家」たちにノーを突きつけた。強い意志と情熱をもちかれらは様々な分野で改革を成功させ、一見突飛に思えるプロジェクトでも市民の同意を得られるようになっていた。
そうして最初に取り組んだのが公共交通網の見直しだった。
専門家は最新技術による高額な地下鉄建設をもちかけてきた。だがジャメイはより広域をカバーするバス路線に力を入れる。彼はバス会社に対し、乗客数ではなく、路線の距離に応じて助成金を出した。バス路線が都心に集中し、採算がとれない郊外路線がないがしろにされるのを防ぐためだ。さらに路線の設定や専用レーンの設置も行った。バス停は強化ガラスを使ったエレガントなデザインはバスの待ち時間を快適な時間に変える。乗客は片側からチケットを購入し、降りる客は反対側の扉から出る(?これらは日本でも真似したものでしょうか、世界の知恵を集めることも大事ですね。)。
料金を払うために並ぶ列が短くてすみ、停車時間を減らすことができた。地下鉄建設の二百分の1の予算で、市内交通は十分機能を果たすようになった。さらにバス会社の経営業績をあげるためにジャスメはバスの切符に宝くじまでつけた。
こうした措置は30年後にはっきりと形になった。1972年の公共交通の利用者は市民の三十人に一人だったのに、今や4人に3人が利用するまでになった。バス停はバリアフリー、平均2分刻みで待ち時間がない。有害ガスの排出量も35%減。バス会社は行政からの助成金なしでも採算がとれるようになっている。彼はさらの斬新なアイディアを実現させてゆく。

「どんな街だって2年あれば変えることができる」と豪語する。彼を鍼師にたとえるのは市長の役割とは、都市という身体をつかさどる神経系統を見定め、正確に鍼を打つことの」よって全体を元気にするものであるというのだ。
彼は、ゴミ処理の問題についても、高額な複雑な自動分別可能なゴミ処理施設を建設する代わりに彼は企業や家庭にゴミの分別を呼びかけた。(西東京市ではごみ袋の有料化で20%の減量にせいこうした。またプラスチックのゴミ袋はからばるので、思ったよりも入らないし、空気を入れている感じです)
スラム街の住民にたいしては「ゴミを食品に交換します」というキャンペーンを、河川の汚濁を嘆く漁師にたいしては、網にかかったゴミを有料で買い取る、こうしてゴミの買い取り費用などは、高温焼却炉の建設に比べれば、たいした金額ではなく、巨額の投資をすることなく、河はきれいの、漁師の収入も3倍になた。

「お金がないときこそ、頭を使わなくちゃ」と彼は笑うのだった。
1992年市長の座を退いたときのジャスメの支持率は何と91%。その後大統領選に出馬してほしい声もあったらしいが、パラナ州知事を10年勤めた。現在は国際建築家連盟会長である。環境問題について意見をもとめると、「まずすべきことはふたつ。ゴミの分別と自家用車を使わないこと」でどんな大きなことでも、まず小さなことから始めなくてはと言っています。

街を元気にする鍼師①


おはようございます。昨日は背広と薄いセーターを着込むほどの気温出した。地球温暖化などは忘れてしまいかねないほどでした。
南米の情報はなかなか耳にしないが、、ブラジルのクリスバ市も一度いってみたい都市です。

未来を変える80人:僕らが出会った社会企業家:シルヴァン・ダニエル、マチュー・ルルー著(この本も世界の社会企業家等を旅する楽しい本でした)

街を元気にする鍼師・ジャイメ・レルネル

ブラジルの経済の中心は首都リオデジャネイロではなく、サンパウロでメキシコシティや東京に次ぐ人口世界第3位の都市だ。縦60キロ、横45キロの長方形の土地にびしりとビルが乱立するこの街はすでに飽和状態にある。人口増加と環境保全を両立させる難しさがよくわかった。この街は急激な人口増加が
あっても、環境への悪影響を抑制できることを示す好例としてクリスバ市の元市長・ジャイメ・レルネルに会って話を聞きたいと思っていたのが実現できた。
どんなデーターをみても、今後も都市化が進むのは明らかだ。特にメキシコシティ、ボンベイ、北京などの混乱をみるにつけ、一筋縄ではいかないことが想像できる。欧米ばかりに解決策を求めるがちであるが。
ジャイメが建築学科を卒業した60年代半ばクリスバ市の人口はわずか50万人だった。」ところがわずか30年で人口は4倍に膨れ上がった。この市はブラジルの南部に位置する工業地域。元市長は郷土の変わりように胸を痛めていた。急激な開発で、思い出深い場所が失われる一方、高速道路やけばけばしい建物や大型ショッピングセンターを建設する当時の政治のやりかたには抵抗を覚えた。「もっと人間らしいところのある街であってほしかった。
最初の挑戦は失敗に終わる。コンペに学生仲間と参加したが、フランス大手ゼネコの出した設計図の前に敗れ去った。1970年代弱冠33歳でここの市長になった。(1970年代ブラジルは民主化されておらず、市長は政府が任命していた)
彼が採用したスタッフは」「理想主義で、既成概念に」とらわれていない若者たちの集まりだった。

2010年5月29日土曜日

介護される勇気


おはようございます。介護は未知の国を探険するようなもののようですね。
おひとりさまの老後:上野千鶴子:法研
◆「介護されることを勇気をもって受け入れる」病人歴の長い柳澤桂子※さんは要介護のプロとでもいうべき存在。その人の言葉である。(詠まれている和歌は沈着冷静、よくこれほど自分を客観的にみつめられると思います。)
氷枕に頭痛をゆだね目をつぶる月をちぎって食べてしまおう      どのくらい土を踏まなかったことだろう幾年も風にも祈らなかった
※http://www.yanagisawakeiko.com/essay/index.html
◆ppk(ピンピンコロリ)が理想とはいうけれど、そうは問屋がおろさない、人間の生き死に「予定どおり」はない、という厳然たる事実がある。
この上野さんが両親を看取ってつくづく思ったのは、人間のような大型動物はゆっくり死ぬということ。小鳥ヤハムスターなどの小動物のように、ある朝突然冷たくなっていた、ということが少ない。まず足腰が立たなくなり、寝返りがうてなくなり、食べられなり、嚥下障害がはじまり、そして呼吸障害が起きて死に至る。このプロセスをゆるゆるたどるのが人間の死でそうなれば寝たきり期間は避けられない。データーによると、高齢者が死を迎えるまでに寝たきり状態で過ごす期間の平均が8.5月。寝たきりになっても長生がイヤなら衛生水準や医療水準の低い社会へ行く。(しかし介護している間にはこのように冷静でいられないのではないか。介護を終えて、振り返る余裕が出来てからの感想ではないでしょうか?)
◆介護される側にもノウハウがいる。「ケアのしかた」についてのノウハウがあるが、「ケアのされ方」を誰も教えてくれない。いくつかの答えがある。<世話されるのは針のむしろ>介護されるひと自身が「できれば介護は受けたくないものだ」と思っている。自分がネガティブな感情をもっているものに対して、多くの人が取る態度は否認、」「つまりあってもないことにするとか、できるだけふれないようにすること。女だとこの感情はもっと強くなる、もともとお世話するのが仕事だったせいで、自分がお世話されるようになることを受けいれられない。他人から責められるよいも、自分が自分を責めるほうがつらい。
介護されるひとも、両親などの介護体験をしている等以外は初体験なので判断基準がない。
どんな介護を受けても「ありがたい」「もったいない」と感謝のモードに入りがち。
プロのヘルパーさんは彼女の基準に合わせようと気をつかってくれる、結局ヘルパーさんは彼女の基準にこちらがあわるほうがスムーズにいくという経験をしている。
◆カネを払えば、経済的強者に見えるかもしれないが、カネとサービスのクオリティが連動しない。介護については「顧客満足度」はあてにならない。
今でもサービス提供事業者の選択肢は限られた地域が多い。
とくに女性は相手を不快にすることを口にしないように自分を抑えて生きてきた。イヤなことをイヤと言わなようにしていると、そのうちイヤといえなくなる。

2010年5月28日金曜日

トンチン年金


おはようございます。暇な人がいていろいろ調べたり、考えたりしている人がいます。介護に従事している人はあまり儲けようと考えている人はすくないが、
しかし旨い話で釣り、余計なことで勧誘してくる人は後をたちませんね。
おひとりさまの老後:上野千鶴子:法研

長生きすればするほどトクをする究極の年金・トンチン年金※
イタリアのロレンツオ・トンチイという人が思いついたので、その人の名前をとってトンチイ年金、日本はまちがってトンチン年金として定着した。これは同じ年齢群(たとえば70代とか)の人たちが何人かで出資して集団的な“講”を組み、その間で配当を分配するというもの。かりに70代の人が100人集まって、ひとりあたり100万円出資したとすれば、合計1億円の原資が出来る。毎年、仲間が死んでいくにしたがって分配率が良くなり、長生きすればするほど有利になる。最後のひとりになれば、分配金を一人占めできる。これを日本の金融マンが呼びかけたのは20年以上前のことだったが、普及もしていない(聞いたこともないのですが、)
長生きすることが、不幸ではなく、幸せな世に中をつくりたいという精神にはつながっているようですが、他人の死を願う気持ちを助長するから?(配当といっても今の金利1%では、出資するよりは使った方がよい。)
調べてみますと、
※http://2015nenkinhatankaihi.at.webry.info/200504/article_1.html

有名なトンチン年金というものである。トンチン年金は17世紀イタリアナポリのロレンツォ・トンチという銀行家が考えついたと言われ ている年金で、最後に生き残った人が年金を総取りするという過激なものである。トンチン年金の原理は例えば10万人が10万円を投入したとすると100億 円になる。10万人のうち最後に生き残った人が100億円をテークするというものである。実際にフランス宰相マザランにより1689年から8回にわたり戦 費調達として使われた。しかし、誰が考えても恐ろしいことに最後に残った2人は相手を殺してでも100億円をとりたいと思うに違いない。その通りトンチン 年金では殺人が続出し、欧米各国では公序良俗に反するとしてその後法律でトンチン年金を禁じた国が多いと聞いている。

2010年5月27日木曜日

ハイチのマザーテレサ


おはようございます。昨日は神頼みを2つもしました。
① は神棚のある弓道場まで自転車で出かけましたが、昼から小雨が降るかもしれないという天気予報だった。的に当てるのは個人の努力、この天気だけは神様にお願いが通じ、帰宅時の12時も降らずにすみました。
② は陶芸の釉薬を掛けるのですが、この結果は窯の中の神様のなせる業、それにしても何のお供えもしていなかった。ここ窯室には神棚がありませんでした。
2010.5.25の7:30nhkのクローズアップ現代

30年にわたってハイチで医療支援を続け“ハイチのマザーテレサ”と呼ばれる83歳の女性医師・須藤昭子さん。混乱が続く大地震の被災地で格闘する須藤さ んの姿を追った番組だった。
国谷さんがインタビューで、「もう49歳から33年間もやってお疲れでしょうから、引退の時期も考えられたら如何ですか・・・」「職業でしたら引退はあるでしょうが、使命ですから、考えていません」と応えた。
ハイチの地震のときは、丁度帰国していて、日本にいた時だったが、帰ってみると、仕事先の結核病院は瓦礫の山で、患者は内部40度もあるテントに収容されていた。
耐性をもった結核菌をもった患者が収容しきれず、自宅に帰される患者も多く、これは国内に耐性のバイ菌をばらまくことであり、ひいては世界に拡散される。
結核患者に限らず、栄養状態が悪いので、給水や畑まで面倒をみるために、80歳になって農業の勉強もされているとのこと。
「このような状態で絶望することはないですか?」に「少しだけでも、お役に立っていることがうれしいですね」と答えていた。
須藤昭子さんらを支える組織:http://www.kaigai-senkyo.jp/world/nation43.html

2010年5月26日水曜日

オ ノ・ヨーコ


おはようございます。昨日の気温は27度、天気予報の予測通りで、勤務先の部屋は狭いので、蒸し暑く今年初めて冷房にしました。
オノ・ヨーコは知っていても、日本ではどのような出身か知らなかったが、下記の本で知ることになった。安田財閥は富山の出身だったそうです。
明治時代には三菱にしろ発展の時代というか、時代にのった人のようですね。
おひとりさまの老後:上野千鶴子:法研
世界でいちばん有名な日本女性、ジョン・レノンの妻だったオ ノ・ヨーコは、安田財閥創業者のひ孫にして、銀行家・小野家の娘。ジョン・レノンのうなるほどのカネのある夫の経済力に依存して生きたアーティストだったかというと、そうではないことを知った。彼女はニューヨーク近郊の広壮な旧家を手に入れては、それを改装して資産価値を確かめ、不動産市場に売りに出し、元々大金持ちだったジョンの資産を数倍に増やしたのだという。なるほど、こういうストックゲインをビジネスにできるのも、旧華族の出身だったオノ・ヨーコの経済感覚によるものだった。
華族、現代の名家~
http://episode.kingendaikeizu.net/36.htm
安田財閥:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%94%B0%E8%B2%A1%E9%96%A5

2010年5月24日月曜日

マラソンの瀬古選手と中村清監督


おはようございます。わが住居は西武新宿線東伏見駅には早稲田の運動場があり、地元の稲門会が瀬古利彦を招いての講演会があったが、この人は落語の素質が十分ある人で絶えず
笑いを呼んでいました。

≫生年月日:1956年7月15日
≫出身地:三重県桑名市
≫主な経歴:四日市工業高校~早稲田大学~エスビー食品

野球部に所属していた中学時代、三重県中学春季陸上2000mで優勝。高校進学後に本格的に陸上を始め、2年、3年のインターハイで800m、1500m の2種目連覇を飾る。

早稲田大学で中村清監督の下、マラソンを始め、卒業後はエスビー食品に入社。福岡、東京、びわ湖、ボストン、ロンドン、シカゴといったビッグレースで優 勝。15戦10勝の生涯成績を残した。

現在はエスビー食品スポーツ推進局の局長を務める傍ら、日本オリンピック委員会理事、日本陸上競技連盟理事の要職も担っている。
●六代目・円楽披露パーティーマラソンの元五輪代表の瀬古利彦氏(53)も駆け付け、そっくりツーショットを披露し た。鏡抜きで呼び込まれ、会場は大爆笑。 マラソンの瀬古さんが楽太郎(円楽)氏に似てるというのは昔から言われてましたね
●浅田真央3.5回転、瀬古選手も地球を3.5回転は14万キロ、ハンマーの室伏選手は4回転、どの回転が優れているか、練習の距離や回転数では相当の努力をしているので、優劣はつけられない。
●早稲田の試験に落ちたので、米国留学で、南カルフォルニア大学に1年(実質10月)、寂しくて、面白くて、食べ過ぎて58kが68kgになっていた。
●箱根駅伝で、東洋大学の柏原選手の坂上りの驚異的な記録で優勝したが、この効果などがあって、東洋大学の入学試験では1万人増加、一人3.5万円の試験料で3億5万円の収入増になる計算だそうです。だから大学によっては入学金、授業料免除に加え、生活資金も出してくれるところもあるそうです。

●瀬古選手の恩師中村清が再度乞われて早稲田陸走部監督に就任したときは、ダラけたクラブだったので、当時の早大は不振の極みだった。まるで、今 の日本の縮図だ。就任したときに中村監督は以下のように部員に語りかけた。一生懸命指導するからついてきてほしい、と。ところがそれを聞いた部員たちの反 応は、馬鹿にしたゲラゲラ笑いだったそうだ。そこで中村はこう続けた。
 「中村は昔は随分、後輩を殴った。しかしこれからは、めったに鉄拳制裁はしない。ただ、どうしても1つ2つ殴りたくなったら、まず自分自身を十も二十も 殴ってからやる。これ、この通りだ」と言うなり、中村は自分の顔を力まかせに殴り続けた。唇が切れ、血が流れ出した。「部員たちは、まるで狂人を見るよう な目つきでこっちを眺めていた」とある。
 あるいは、
 「お前たちがどんなに苦しくても頑張る、という情熱を取り戻してくれるなら、俺はなんでもやる。草を食え、砂をなめろというなら、その通りにする」と 言って、地面の草を引き抜いて土といっしょに口に入れた。中村は当時、血圧250、血糖値300という半病人(糖尿病)だったのに、部員の練習の間は、た とえ土砂降りの雨でも雪が降っても、4時間5時間でも立ったまま練習を見続けたそうである。
 箱根駅伝では、選手と伴走する車の上から、ずっと「都の西北」を歌い続けることもやっていた。その映像をテレビで見たときは感動したものだった。
 まさに情熱の人であった。わが流派の最高幹部は中村清以上の情熱も理論もある方ではあるが、今日のところは中村だけに話を絞らせていただく。私も中村の 指導のあり方はずいぶん勉強になった。具合が悪くて脂汗が背中を流れるときでも、たった一人の道場生の指導のために、歯をくいしばりつつ、しかし平然とし て指導をやったものだったが、これは中村清監督を見習ってのことでもあった。
 中村清は言う「強制からは、情熱は生まれない。情熱の原点を与えるためには、何よりも監督と部員の心が彼我一体となることが肝要なのだ、という信念が、 私を支えた」と。さらに「教育とは、継続である。根くらべである。1年たち2年たつうち、荒廃したグランドは、昔の清らかさを取り戻した。部員たちの眼が 澄んできた」
 そこから早大が駅伝やマラソンに往時の迫力を蘇らせ始めたというのだ。
(中村清監督の指導者魂:
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b9bea74e670afe7760283c7aac017a8e
モスクワオリンピックが中止:子供が黄色メダルをくれた、金メダルをもらえるほど二は運がなかったから(彼一流の洒落だった)

マラソンの中村清監督


おはようございます。昨日はまた涼しくなりました。女子のマラソンは層があつく、誰かが上位に食い込んできますが、男子はもう少し新人の登場が望まれるようですね。
vol.284-1(2006 年 1月11日発行) 岡崎 満義/ジャーナリストより
2006年1月ミズノ100周年記念・スポーツシンポジウム「Sports for All Children」が、東京・新高輪プリンスホテル飛天の間で開かれた。スポーツ関係者約1000人が集まり、大盛会だった。
  その基調講演は映画監督の篠田正浩さんだった。「スポーツと子どもと教育」という講演は、大変興味深い内容だったが、その中で、中村清監督についての小さ なエピソードが語られた。
 篠田さんはリーフェンシュタール演出の「民族の祭典」という、1936年ベルリン五輪の記録映画のとりこにな り、とくに走る人の美しさにうたれた。その幼児期の記憶が、篠田さんをのちに、早大競走部に進ませたようだ。
 篠田さんは昭和25年、箱根 駅伝の“花の2区”を走った。箱根駅伝は10人で走るのだが、篠田さんの記録は14番目。だから最初は2区のランナーのアテンドを命じられた。ところが前 日、中村さんからお前が2区を走れといわれたのである。大いに驚いたが出場すると、5位でもらったタスキを4位で次走者に渡すことができたほどの快走だっ た。あとで、「なぜ14番目のタイムしかもっていなかった1年生の私を、選手として出場させたんですか」と訊くと、中村監督は「10番目までに入るタイム を持つ選手と、君のタイム差は1分。20数キロで1分差ぐらいなら、新人のとんでもない暴走があれば、わけなく超えられるものだ。その可能性に賭けた」と 言った。
 上級生の安定感、平均点の走りより、新人の暴走の可能性を信じ中村監督の人を見る目、ということを考えさせられるエピソードで あった。

2010年5月23日日曜日

ヘルパーさん;


おはようございます。昨日は家内の兄の息子(38歳)の結婚式でした。取り持った縁は故郷にいる母方の弟氏が新婦はYさん27歳を会わせたことによります。故郷からも大勢きていましたので、いわゆる庄内弁が堪能できました。

ひとりの老後を心楽しく生きる方法:吉武輝子:海竜社

「最近は自立、自立って、この言葉が流行語になっている。自分は自立しているから誰の世話にもなっていないと、本気に思っている人がいるけど、実は自立度が高くなればなるほど、いろんな人に支えられているのよね。
考えてもご覧なさいな、自立していますって胸はってみても、命のもとである米の一粒だって、農家の方たちのお力添えがあってのことじゃない。だからね、謙虚にね、自立しながら柔らかく依存するっていう生き方が、人間としてごくごく自然な生き方だと思うの」
ばばちゃんは他人に面倒を見られるようになったら死んだほうがまし、と考える勝ち気で気丈な人だった。
このようにプライドの高い「ばばちゃん」は気に入っているOヘルパーさんは、心根は優しいけれど、気のきかない嫁さんタイプで、「ばばさん」は心のどこかで、自分のほうが面倒みている、みたいな思いがあったからでしょう、その彼女に対しては柔らかく依存していたみたい。
2回目の介護度認定審査が行われた日は、わたくしは隣の部屋にいたのですが、聞いていると、「ばばちゃん」は本人にできることを聞いていて、はらはらするのは、人の手を借りてしかできないことも、全部「自力でできる」って答えるんですもの」
後でケアマネジャーが真偽をわたくしに確かめるのですが、わたくしは訂正しなかった。「ばばちゃん」が自力でできるって答えたことに対して訂正はしなかった。誰にもプライドがあるのだから。その場合まだ自分で働いてて多少の負担は可能だったので最悪自腹を切ることを考えていた。自腹を切りたくても切れない人もいくらでもいる。
できなことを自尊心のためにできるといわないように、認定審査日には軽い睡眠薬をちょっぴり飲ませてしまうんです。ぼーーっとしているから介護度の変動がない。本人には申しわけないけど、他人の助けがなくては共倒れしちゃいますもの」って。声が涙でくぐもっていましたっけ。
Sヘルパーさんは身体を動かすのが全く苦にならない人で、、月1回来てもらい、掃除と洗濯で7時間、家の中はピッカピッカ、「ご飯なんか食べている暇がないよ」とばかり。
一方Oさんは、私が外での仕事を終えて帰る途中、うれしいじゃありませんか、2人分の夕食がならんでいる。楽しかった事、うれしかった事、悔しかったことなど、ご飯を食べながらぺちゃくちゃしゃべっていると、いいな、いいな他人に助けてもらって生きるのって、なんだか心がほかほかしてくるのです。とこの著者(78歳)は呼吸障害で酸素ボンベをもって講演の旅をやっている人です。

2010年5月22日土曜日

競争社会


おはようございます。昨日は急きょ半袖のポロシャツを取り出したが、背中に汗が流れるのが分かった。また電気ストーブもあるのに、扇風機も屋根裏部屋から出した。冬ものと夏ものの交換をやったが、また明日は20度の気温に戻るという。砂漠は1日でこのような気温の変動があるそうですが、少しそんなところを感じています。
生きる意味:上田紀行著:岩波新書931

競争社会
競争には2種類あって第一にには、お互いの力を高め合うというような競争の次元があるのではないかと思っております。柔道の稽古とか、剣道の稽古を2人でしている場合に、勝ち負けにこだわるというのではなく、まさにライバル心を持って競争しあうことでお互いの力を認めあい、そしてお互い頑張ろうなといって、お互いを高め合うような競争は、これはすばらしいものではないかと思うのです。ところが、現在の日本社会が目指している競争、あるいは、アメリカナイズされた競争観というのは、勝ち負けを決めるために、勝者と敗者を決めるためにあるといった競争です。そしてその結果、勝ってしまえば勝者はすべて手に」することができ、敗者はどんな悲惨な状況におかれても、それは競争で負けたのだからしょうがないだろうということになってしまう。そうした、勝者と敗者、勝ち組と負け組を決めるためのもの」といった競争観が蔓延してきているような気がします。
米国をみると競争が完全に勝ち負けを決めるためになっています。ですので、いま勝っていても、明日は負けてしまうのではないかということで、一日たりとも心が休まることがないという厳しい現実がありました。
中国もそうです。一度負けてしまえば、もう一生おしまいなのですから。
日本社会もそういう社会になりつつあります。これまではお互いに高め合う競争でした。そこもはお互いに対する信頼があり、社会全体に対する信頼がありました。しかし今目指されている競争は弱肉強食の競争であり、そこではお互いの敬意や信頼はなく、社会全体への信頼も失われていくように思われるのです。

2010年5月21日金曜日

林檎の礼拝堂②


おはようございます。1.5月おきの手作り新聞の特集「旅」が出来ました。最近時の立つのがとても速いです。

昨日の続きになりますが、このような物語をしっていると、フランスに旅する場合に是非訪れてみたいなあと思います。

林檎の礼拝堂:田窪恭治より

初めて見た時再生前の礼拝堂のあまりも簡素な美しさにうたれた。墓碑銘の彫られた昔からの床、天井の梁の骨格、入口の前の樹齢500年のイチイの圧倒的生命力が迫ってきた。
着工の前に地元新聞の記者が「どうしてこの作家はこんな荒れた教会を修復しようとするのか、なぜ日本企業が支援するのか、何のためにここに訪れたのか」答えは結果をみれば分かることだった。
この地方の荒れ果ててはいるが、荘厳さにみちた礼拝堂をこれをどのように自己の作品にすべきか、田窪の思考の軌跡は右に左に揺れた。またそれが時代を経てどのような評価を得るのか、あるいは今日の揺れ動く時代にどのような役割を担っているのか。―――それが作家支援というものの、危うい本質であろう。
内部の壁にはほんのりと匂うよなカルヴァドスの匂いなのか、林檎の白い花が咲く枝なのか。
屋根には礼拝堂の屋根はゼリーみたいなガラス瓦でノルマンディーの光がさしこみ大層美しい感じです。
ご本人は語る
「あの11年間というのが僕にとってすごく幸せだったんですよ。というのは、余計な世過ぎしのぎとか自分の売名とかやらずに済んだんですね。とにかく楽しく てしょうがなかったんです。資金が貯まらないから僕が考えている倍くらいの時間 がかかってしまったんですけれど。この時間というのがとにかく僕にとって幸せな時間だったんです。みんなは可哀想だとか、子供はどうだとかいろんなことを 言ってくれていたんですけれど。今でもそのリアリティを説明できないんですけど、この時間は俺だけのもんだ、みたいなね。僕だって東京に残ってれば、世過 ぎをやってたと思いますよ。」

田窪氏の国内での作品は金刀比羅宮の文化顧問を務める美術家白書院に椿の障壁画がある。

製作の過程や、結果は下記の記録ビデオに詳細に紹介されている。このように過程がキチンと報告されているのも、このプロジェクトの優しさのように思います。又この紹介文も素敵です。

田 窪恭治 大型動画配信 TAKUBO PROJECT
http://sciencenet.cocolog-nifty.com/takubo_/

2010年5月20日木曜日

林檎の礼拝堂①


おはようございます。こう温かくなてくると、風も穏やかで和んで気持ちよいものです。下記の物語も同様にまことに気持ちのよいものです。

林檎の礼拝堂:田窪恭治

弓の仲間が貸してくれた本でした。テレビでも紹介された、素敵な物語でした。
この本の序文に福原義春(資生堂会長)がすばらしい率直な紹介をされています。
<天才と狂気は紙一重>、創造に携わる人物を庇護し支援することは、詐欺やまやかしに直面することと、-紙一重だ----と思っている。サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂プロジェクトを熱心に説いてまわったのはフジテレビ・ギャラリーの玉田俊雄さんであった。かねてから田窪氏の才能を評価し、支援を惜しまなかった。その田窪は玉田さんの思いを超えて、フランスの一地方の荒廃した教会の再生に、家族と生活のすべてのエネルギーを注ぐ決意をしたのだった。もともと田窪は美術館の壁面を埋めたり、商業取引の為の芸術と呼ばれる作品に生命の火を使いきるつもりはなかった。
東京の建築の解体を題材にとった「絶対現場(?)」と名付けた時間芸術(人の生活の匂いのある磨かれた柱のある旧家のような感じでしょうか?)などさまざまな試みに挑戦したあげく出会ったのがカルヴァドス地方のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂である。この遺産を再生(11年もかかることになったのですが)することが、そのまま自らの作品の契機ともなる-――という思いが、彼の決意をうながし、それが時間芸術を超えて永遠に生き続けるものの脱皮になることを、田窪は知っていたのであろうか。この何の地縁も人脈もないノルマンディーに移り住むという、その決断こそがこのプロジェクトの全てである。後に現地で田窪夫妻と食事したとき、当時の暮らしはさぞ辛かったでしょうね-----と申し上げた時、夫人の目に一粒浮かんだ涙が、その決断の容易ならざることを物語っていたろう。
日本経済はいまだバブルの時期にあったとはいえ、多くの企業にとって、遠いフランスの名もない礼拝堂に前衛作家が挑戦するというプロジェクトに参加がためらわれても当然だったそれが本野元駐仏元大使を委員長とする支援委員会の発足し、折も折世の中の風向きが急にかわり、派手なイベントの時代はさり、3年間に企業は3百万円、個人百万円を限度とする方式(総額は記されていない、善意に計算はいらないというのだろうか)は後に“福原方式”と呼ばれる今後のメセナの方向性を示唆するものとなった。
ここにかかわった私(福原さん)自身の夢は、やがて礼拝堂が再生され、数多くの支援者が村人たちとカルヴァドス(林檎酒)を飲み交わすことだった。

2010年5月19日水曜日

花の好みも色いろいろ


おはようございます。どちらのお宅でも、夏・冬両方表に出ているので、整理に困っています。もう冬ものは仕舞ってもいいでしょうね。

植物は人に頼らず生きている(年金の雑誌「長陽」2010春号):演芸家・江尻光一(NHKでも長い間出演、7月で84歳、演芸は64年間)

日本全国、花の好みも色いろいろ
暖房の完備している雪国・北海道では室内に温室で育てるようなカトレアを室内に置くと、冬でも芽が伸び、根がでます。これが北海道の方には驚きで、冬に洋ランがよく売れるそうです。陽の短いときに出た芽は花芽をつけない。カトレアにとって冬に芽が出るのはいいことではありませんが、花が咲かなくとも、気にしません。花よりも、芽や根が伸びるを楽しんでいるのです。花以外のものに、興味をもつ北海道の方の植物を愛する気持ちには深いものがあります。
不思議なことに、雪国・北海道と南国・沖縄の方が好む花の色には共通するものがあります。沖縄では気温が15度いかになることはまずありませんから、緑が一年中あり、北海道とは正反対ですが、色の濃い花が好きのようです。桜を見ても、本州の人は中間色がすきな染井吉野は薄い色ですが、北海道ではこの染井吉野はほとんど見ることができません。北海道にある桜はエドヤマザクラという色が濃い桜です。
沖縄にも染井吉野はありません。暑くて枯れてしまうのだそうです。台湾から来た寒緋桜は色が濃い桜です。
◆藤色が大好きな日本人の好み、ラベンダーが好きなのもそのためです
◆チューリップ王国オランダの理由は金曜日の男は花束を買って自宅に帰る。日常で花を愛しているからチューリップの王国の下地がある。

2010年5月18日火曜日

ティーボールとは?



おはようございます。昨日は初夏の暑さで、表にでて肌で感じる温度にあう気温に着るシャツを合わせています。自転車に乗って走ると風をよんで気持ちがいいですね。
16日は知恵遅れの37歳の子どもと一緒に、保谷小学校に行ってきました。28回目だそうで西東京市の障害者の運動会で紹介もされ、車いすの人もみんな参加しました。
高さを調整できるポールの上にボールを置き、ピッチャーはいませんので、ゆっくりボールを狙い定めて打つことができるスポーツでした。
初めての挑戦がうれしくて、うれしさの緊張でボールに当たらず空振り、3回目で飛ばすことができた人もいました。
ティーボールとは?http://www.teeball.com/


草野球やバッティングセンターに行ってボールを打ったことはあ りますか?
そんなとき、思うようにボールが打てなくて、悔しい思いをしたことがあると思います。
しかし、ティーボールというスポーツではそんなことはありません。
ティーボールでは飛んでくるボールを打つのではなく、バッティングティーと呼ばれる細長い台にボールを置き、止まっているボールをバットで打って遊ぶス ポーツなのです。
置いてあるボールを打つため、ボールを打つ楽しさを体感でき、走り、捕り、投げ、そして興奮します。
ティーボールとはそんなスポーツなのです。
ティーボールは小・中学校で行われている体育の一環としても取り入れられ、競技人口が日増しに増えてきているそうです。

2010年5月17日月曜日

「宿根草を植えよう」


おはようございます。

植物は人に頼らず生きている(年金の雑誌「長陽」2010春号):演芸家・江尻光一(NHKでも長い間出演、7月で84歳、演芸は64年間)」

「宿根草を植えよう」
樹木の種類は多くあっても、古い時代では草花は多くありませんでした。草花が少なかったのが日本です。フクジュソウやアサガオが庶民に親しまれていた位です。
春にタネをまき1年以内に枯れるのがパンジーやヒマワリです。これに対し、宿根草は一度土に植えれば何年も株が生きています。春に芽をだし、初夏から秋に花を咲かせ、冬bが到来すると、地上部がなくなりますが、冬に地上部を残す宿根草があります。日本を代表するラン科のエビネがそうです。花がさくのは5月の初めで10日から14日間咲きます。1年は54週、花が2週咲いたとはいえ、後の52週は花がありません。その52週の間、エビネは春夏秋冬に応じてからだつきを変えます。宿根草をうえようというは春夏秋冬で姿を変える植物から日本の四季が感じられるからだという。日本の花壇は季節ごと、花の咲いた植物を植えますが、花だけが植物の姿ではありません。芽を伸ばし,葉を広げ、後に花が咲く、その全てが植物です。私たちの先祖が十五夜にススキやオミナエシを飾ったのも、植物をとおして季節を楽しむためでした。四季を感じて生きてこそ人生は豊かにんさる。
洋式の庭園の最初は日比谷公園で、葉牡丹は日本で改良された傑作だそうです。フランスのベルサイユ宮殿に4月の半ばに訪ねた時、日本の公園ならいろいろな花が植えられています。ところが遠目ではこの公園の花壇は土ばかり、気になって近づいてみると、草丈3~4cmのセンパフローレンスが植えてあったのですが、遠目では分からなかったのです。日本なら冬に植えられた葉牡丹はうらぶれてくると、たちまち抜かれて、一瞬にして別の花に代わってしまいます。そういう花壇を見てきた目には咲くまで土の花壇を見せている
ベルサイユ宮殿の姿勢に感心したのでした。この草丈からすると、7月位に花が咲くとおもいました。2年位後に再訪したときには、見事なセンパフローレンスが咲いていました。
日本の花壇は常に花ばかりです。苗を植えてやがて大きくなって花を咲かせる、そのときの喜びといったら応えらえません。園芸の王道はその全てのプロセスを楽しむことではないでしょうかと。

2010年5月16日日曜日

わかば文庫


おはようございます。昨日は「わかば文庫」という子どもたちへの「読み聞かせ」を見学しました。アンデルセンの「みにくいあひるの子」の紙芝居もありました。この文庫は40年も続いているのだそうです。聞くのは自分の頭に膨らむので、随分受け取り方が違うようです。

逆境に耐えられる人、鍛えられる人の素地は少なくともこのような思い出せる童話を聞いているかどうかもあるかもしれません。「3匹の鼠とニャーゴ」というのは鼠の野外授業で、授業中にニャーゴというのは危ないから気をつけなさいという先生の注意を聴いていないで、3匹の鼠は他の事で夢中になっていて、置き去りにされた。3匹はお腹もすいたので、桃を取りに行くことになった。途中ニャーゴにあっても怖さを知らないので、一緒に桃を取りに誘う。ニャーゴは桃を食べてから、ゆっくり鼠を食べるもくろみだった。鼠3匹はそれぞれ自分の弟や妹の分も手にもっていた。ところが、鼠がニャーゴに叔父さんには「何匹子どもがいるの?」
「4匹だよ」「そうか桃1つでは足りないね。ぼくらの桃を上げれば喜ぶね」こうなると、ニャーゴはとても鼠を食べることが出来なかった。鼠3匹は「おじさん、今日は楽しかった。又一緒に遊んでね」と別れた。話手はやはり、相当の演技もあるベテランの人で4歳になる男の子は瞳きらきらと熱心に聞き入っていた。わずか子ども2人、若いお母さん達が4人の聴衆でした。窓も閉めて暗くし、紙芝居のところは蛍光灯がついていて本当に小さな劇場でした。聞き手の人数の少なさなど気になりませんでした。これは45分位で終わった3時15分に、文庫の主催者の奥さんが階下で、主人や従兄が法事から戻っているので、ご一緒に如何というお誘いで、タラバカニや日本酒のご相伴にあずかりました。ここの文庫は借りても期限がないのだそうです。ときおり童話作家も訪れるそうです。

2010年5月15日土曜日

らんを探し求めて


おはようございます。
和算の証明結果を神社などに奉納した算額(全国で900枚、3割が東北)青森4枚、岩手102枚、秋田5枚、山形県43枚、宮城48枚、福島130枚これは長い冬が関係しているのだろう、温暖な熊本や鹿児島では1枚も見つかっていない。

植物は人に頼らず生きている(年金の雑誌「長陽」2010春号):演芸家・江尻光一(NHKでも長い間出演、7月で84歳、演芸は64年間)」
野生らんを求めて世界各地のジャングルを歩いた。中南米から熱帯アジア、東ヒマラヤの南斜面、アフリカのマダガスカル、オーストラリア、54・5ケ所、ときには藪こぎをし、テント生活もした。もちろんおいしいもの
は食べられない。そこで見る植物たちの堂々とした生き方に触れると辛い旅の事など忘れてしまい、何度も何度もジャングルに足が向いてしまう。
霧の道に沿って生きているジャングルに暮らす着生ランたち。樹等につかまって食らう着生(密生したジャングルでは地面まで光が届きにくいので、わずかな陽を求めて樹上などでくらす。ところがそうなると水を吸え
るのは雨が降ったときだけ、寄生植物と違い樹木から栄養や水を奪うことをしない。では着生ランが生活する場所には、川や湖がある。ここから水蒸気が発生し、霧となって流れてくるのを利用している。この霧の道を
発見することが、ランを探す近道。
花が美しく咲き誇るのは、人を慰めるためではなく、植物自身の生存のためなのだそうです。
風媒花は松や稲は花びらが発達しないのは必要がないからです。これに対して虫媒花は花びらが発達し色もさまざま出、香りも出します。気温もほどほどになると、虫が活発に動きだすと、花はしっかり香りをだします。
〒72-0825千葉県市川市須和田2-26-20047-371-7768の江尻さんの須和田農園は年中無休で洋ランが自由にみられる。

2010年5月14日金曜日

日本人の一つの見わけ方


おはようございます。今日は2度寝をしてしまい、随分寝過ごしました。変な眠も2度寝の故でした。
正座と日本人:丁宗鐡
日本人密偵の摘発法
かつて欧米の風刺漫画に、小柄で出って歯(これがそう見えるのだろうか)でめがねをかけてカメラをぶら下げた東洋人が登場すれば、何の節の説明もなくとも、それは日本人を指すものでした。では同じ東洋人の目にはどのように映っているのでしょうか。
時代は日中戦争のころ、中国国内に潜入したスパイを見わけるポイントが中国軍側の証言で残っています。
日本人は顔を洗うとき、まず手を動かします。日本は水が豊富なので、日本人は手で水を受けて洗います。
ところが、大陸では水は貴重。そのため、中国人はまず一度手に水を掬ってから次に顔を動かします。やってみると分かりますが、そのほうが水は落ちにくく、水を節約できるのですそこで中国軍は、朝一番、兵士たちがまだ寝ているときに叩き起こして、集団で顔を洗わせます
、すると無意識に手を動かして水を大量に使っているものがいることがあります。
「あいつは怪しい」、今度は身体的な特徴をチェックそます。日本人には正座に由来するいくつかの特徴があります。その一つ。当時の日本人は足の甲に必ず坐りタコがありました。これは子どものころから習慣なので、ほぼ一生消えません。また下駄を履くために、足の指が広がっていた。どんなに中国語がうまくとも、このようにして摘発されてしまう日本兵がいたそうです。
もう坐りタコや下駄の鼻緒による足指の広がりの特徴はなくなっていますね。

2010年5月13日木曜日

左側通行か右側通行か


おはようございます。道の通行と海の通行は違いがあるようですが、米国と英国でどうして違いがあるのか不思議に思っていましたが、ご存じかもしれませんが、下記のような事情があったとのことです。

恨みの文化論・韓国人の心の底にあるもの:李御寧
左側通行か右側通行か

時折歴史学者は退屈しのぎに話題を展開することがある。昔の交通秩序は、もちろん、輪禍を防止するためにあったのではない。自動車ではなく、敵に遭遇した場合の自己防衛に、どちら側の通行が有利であるかという問題である。中世の頃から西欧社会では、原則的に左側通行を守ってきたというのである。貴族は当然のことだが、商人や旅行者たちも剣か槍を携行していた。そこで、前方から突然に敵(盗賊)が攻撃してきた場合、右側よりも左側に位置しているほうがいっそう有利であるということだそうです。すなわち剣を抜いて右手を使うためには、対手を自分の右側におびきだす必要があった。その習性が今も残っているのだそうです。ところで例外は米国ですが、米国のフロンティアたちは、剣ではなく拳銃を下げて往来していたからである。西欧では火器が発明された当時には既に治安維持が確保され、歩行者が武器を持ち歩く必要はなかったが、米国の開拓民だけは事情が違っていた。
ところで韓国人はどうであったか。歴史学者の解明がないが、辺鄙なところの老人衆の道を往く習慣をみれば、およそ正確な判断がえられそうだ。その歩行には左側も右側もまるで眼中にない。あの未知の敵の来襲をおもんばかる警戒心はどこにもみあたらない。基本的に対決の意識がない。
左側だ右側だと騒ぎたてるのはやはり万事に神経質な西欧人(日本人にしてもそうであった)の習癖である。
物事を思考する場合、道を往く習俗だけではなく、一方に偏しないのが韓国人の特徴である。永年の儒教的訓練によって、そのようになったのであるが、昔から極端なものは避け、無難な中道を選ぶというのがわれわれのセンスに合致するマナーだった。

2010年5月12日水曜日

ミートソースの町


おはようございます。通学の女子学生の服装も、白いセーター、紺色のセーター、半袖のセーラーとばらばらです。青い鞄に付けたピンクのリボンは仲間意識、傘だけは大きな傘ではなく、折りたたみの傘、これだけは青、ピンク、黄色と変化に富んで、少しばかり個性が発揮できているようだ。

井上ひさし:ボローニャ紀行

「イタリア半島は長靴をはいた脚そっくりにみえるが、女ようか男ようか」答えはイタリアは女性名詞だから、女性だろうと答えたら「きみはまじめすぎるね」と一蹴された。正しい答え?は「男の脚に決まっている。股の付根にベニス(ベネツイア)があるではないか」これに次を付け加えることもあるらしい。「靴の先でサッカーボール(シチリア島)を蹴ろうとしているから男の靴に決まっている」
人口39万人の自治都市ボローニャがある。中田英寿が活躍したところである。
ここはミートソースの発祥の地、豚肉のハムもむちゃくちゃ美味しいところだそうです。ここはもっともヨ-ロッパで古い大学の所在地。創立は1088年(日本では後三年の役が終わったころ)
卒業生はカンタベリー大司教のトーマス・ベケットがいる。詩人ダンテ、ルネッサンスの文学上の先駆者ペトラルカ、宗教改革を準備した、エラスムス、そしてコペルニクス。神学中心の学堂である。さらにいえば第二次大戦中ボローニャはナチスへのレジスタンス都市であった。ところでボローニャ大学には1563年までこれといった校舎がなかった。街の広場や教会や教授の家に通って勉強していたそうです。

2010年5月9日日曜日

隣人を知る



おはようございます。自分のことは一番わかっているようで、分かっていない面もあるので、他人のいい意見は聞くものですね。
NHKハイビジョンpm8:00未来への提言:~日本へのメッセージ~
韓国のイ・オリョン(李御寧)元初代文化相は、「扇子」「盆栽」など舶来文化を縮めることで日本文化は花開き、トランジスタなど小さな製品が世界を席けんして 経済成長を実現。一方、広がりを求めた途端、破たんすると分析する。1982年に「『縮み』志向の日本人」で鮮やかに日本を評論した希代のせき学が、韓国 併合から100年を経て劇的に変ぼうした日韓関係を読み解く。聞き手はリー・ジョンウォン(李鍾元)立教大学副総長。
李御寧さんは現在中央日報のコラムも担当し。東京大学で1981年研究員として来日し日本は縮み(扇子、茶室、日本庭園(庭を森にみたてる)、盆栽、清少納言がいう小さいほどきれい。
西洋・アジア両方で文化講演を年100回もされている。日本はグローバル化すると、失敗している。例としては豊臣秀吉の事例から見てとれる。国内で事を仕上げ、それを世界に出す前に、中規模のアジアの実情にあわせたテストをしたうえで、グローバル化すればよいのだが、このアジアでのテストが不完全のようである。
冬季オリンピックでのバンクーバーの浅田真央、キムヨナについてみれば、
日本はスケートの技術を研ぐ、韓国はユトリで演技を表現する。いままでのエネミー対立⇔ライバルの融合がするようにすれば日韓関係のモデルケースとなり得る。
小6のときは、植民地時代であった。きびから細工(不細工など、細工の字のように細かい配慮をする)に違和感があった。教科書に「小」が大事と教えているのは世界と比較しても、奇怪である珍しい。東海の小島の磯の・・の「の」は段々クローズアップしてくる「の」である。縮が最も日本的らしくなる。この縮を忘れると失敗する。
◆ワールドサッカーでの共同開催や韓流ブームがあって以来密接な関係(なかには批判もあるようだが)
◆日本は中小企業に力がある
◆日本は逆境のときに頑張る:リンゴが大風でも落ちない品種(合格リンゴ):現実に即し、凝縮してゆく。
◆韓国芸術大学(75倍の競争率)を創設し、初代文化大臣として、10ケ年計画を立案。ソウルオリンピックでの漢江の奇跡も演出した。
◆韓国は隣国と人口を比較しても軍事大国にはなれない自覚がある。
◆「工夫」という言葉についての3国の認識の差異:中国ではヒマ、韓国では勉強、日本では改良を意味するが、この3要素を組み合わせて、アジアの協力体制を築く
◆提言「山不在高、有仙即名」:仙人がいてこそ素晴らしい名山たり得る。

なんにつけてもナク


おはようございます。同じような顔つきをしているのに、歴史によって培われたモノゴトノ受け取り方はあっやはり違うところがあると思うものですね。
恨の文化論:李御寧http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%BE%A1%E5%AF%A7

涙の文化:
高麗期の歌謡「青山別曲」の句節
啼け鳥よ
目さめたら 啼け 鳥よ
おまえより悲しいわたしも
目ざめたら 泣いているよ
眠りから覚めれば涙と泣哭(きゅうこく)で日を送っている人たちがいる。
泣哭と涙を度外視して韓国を語ることは出来ない。泣くのはひとり人間だけではない。周囲の数多くのものにも「泣哭」を聴いたのである。
われわれは自ら音を発するものであれば何であれ、みな「泣く」といった。“Birds sing”という英語も、韓国語に翻訳すれば「鳥がナク」になり歌うにならない。西欧の人たちはそれを楽しい歌声と聞き、われわれは悲しい声と聞いたからである。
同じ東洋人でも中国には「鳴」・(動物)、「啼」・(鳴の常用外)があり「泣」・(人間)という語とは厳然と区別されている。
日本でも「鳥がなく」というときもあるが、「さえずる」とか「歌う」とか表現する。しかしわれわれ韓国人は梵鐘の音を聞いても「ナク」と言い隙間風でなる障子の目張りの音も、」やはり「ナク」という。
詩にうたわれていのだそうですが、部屋にある蝋燭が燃えることさえも「ナクこと」とみており、せせらぎの音も…慟哭の声と聞いたのである。
ある国文学者がいうには「泣哭で始まり泣哭で終わるのがわが民族の風俗」であった。人が死ねば<死んだ日から出棺まで><埋葬の翌日も><埋葬の3日目も>そしてその後は
月の朔日と、15日にするお祭りをするので、又泣かなければならない。それもただ泣くのではなく、しごく「音楽的様式」に格式化されたリズムに合わせてなく。よく泣いてこそ親孝行ものであり、うまくナイてこそ忠臣であり、烈女であった。さらには「泣かない者韓国人にあらず」という仮説さえ生まれたそうです。
映画や放送劇であれ、泣くくだりだけは、あえてどの国のものにも負けはしない。
われわれの芸術と文化が、すでに水晶のような涙に芽生え、その涙から成長したものである、ということも可能であろう。

何気ある異国


おはようございます。近所の大きな農家の屋敷は柊の生垣が廻らされ、その中には欅の20mにおよぶのが10本位あり、もう新緑に覆われ、昼なお暗きことになっていて、夏は涼しいだろうと思う。
そんな日常から旅に出て風光明美を愛でることが出来る場合もあるし、取り留めもない、日常に似ていても、やっぱり異国にくると違う経験がある。これも旅の一つのようですね。
旅人の心得:田口ランディより
メキシコに行くとき、トランジットでロスアンジェルス空港で5時間の時間つぶし。
空港には変な人が山のようにいる。
◆「アナタハニホンジンデスカ~」と寄ってきたイラン人は「私たち、イラン人は不当に差別されています。国連に訴えるつもりです。どうか署名をお願いします。」と紙に書かれていた。
「署名はいいけど、お金はないよ」というと、おおあなたはなんでそんなことを言うか、神を恐れぬ行為だ、という感じの大げさなジエスチャーをし、嘆き悲しむ。そしていきなり素面に戻って「では10ドルでいい」次は「では5ドルでいい」・・・「だって、私のお金はママが持っているだもん」そういうと彼はひどく冷たく去って行ってしまった。
◆次は空港のエレベーターに乗った。一緒に乗り込んできたエディ・マーフィーみたいな黒人職員が、私たちに向かっていきなり歌いだした。「上がったものは必ず下がる、下がったものは必ず上がる、世界はその繰り返しさ」というような哲学的な歌詞だったので狭いエレベーターの中でとてつもなく、ソウルフルに響いた。「あなたの歌ってシビレちゃう」みたいなことを言ったら、男はうれしそうな顔をして「サンキュー」言って降りた。
またエレベーター前にずーっと一台を待っている太っちょのアメリカ人がいた。「エレベーター来ないの?」と聞くと、「そうなんだ、どうなってるんだが」と肩をすくめる。
「こっちのエレベーター使えばいいじゃん」ところが私たちが降りたエレベーターも何故か急に扉がひらかなくなってしまった。仕方がないので、空港職員を呼び止めて「エレべーターが変!」と苦情をいったら、彼女は「しばらく待ってね」と去って行った。本当にしばらくしてから戻ってきて、両方のエレベーターに「故障中」の札を張って、「これでいいわ」と笑って去って行った。
「ま、アメリカだからさ」と、一緒にいった帰国子女は言うのだった。

2010年5月8日土曜日

願いがかなう



おはようございます。
5/7の22:00から55分までTBSのBSアンコール放送でした。
美波という女優が世界ウルルン滞在記でアフリカ大陸の北、地中海に位置するチュニジアに出かける。マホームドさんの娘さん・サミーラさん、この美波という女優と同い年に会いに行く。
しかしこのサミーラさんは5歳の時以来女友達にあったことがない。旅人の美波は、ベルベル人の穴居住宅の暮らしを体験します。農業と家畜の放牧で生計を立ててい るマホムードさん一家。学校に行っていないサミーラさんには、女の子の友達がほとんどいません。放牧中に出会う人もいますが、男性ばかり。独身の女性は家 族がいる前以外では男性とは話してはいけないため、もう何ヶ月も家族以外と話をしていないため「外国人でもいいから女の子の友達が欲しい」というのがサ ミーラさんの願い。この家族は乾いた土ばかりのところに住んでいる。この滞在記はの実現は下記白井さんの企画であるが、人間の出会いというのは、
砂漠のようなところでも、心が通じるということであった。知りあいとなり、時々とりとめもない話をしてやっと人の肌に触れるというようなシーンではあるが、丘の上に滞在記念として狼除けの石積みを積んだり、わずか1週間の触れ合いなのに、、名残惜しく帰国、再度1年後に突然の訪問となった。会うは別れの始まりを意識して1年前と違い、サミーラさんはよよそよそしかったが、すぐに氷解、10年後を期してタイムカプセルを埋めるのでした。それにしてもこれがドラマになるとプロデューサーの白井博さんは思ったのではないのではないか、どうやってこの願いにたどりついたのか分からないが、娘サミーラさんの願いを何としても実現して上げたかったのだろう。又美波という女優もまさにピッタリの適役(現地の服装と食事、、ポリタンクの水汲み、家畜の世話、タライでの水浴びも全く同じ)でした。この滞在記を見ていない人にとってはそれほど面白いものではないかもしれないが、無作為で、善意の熱意がドラマになるのですね。

• 感動!感涙!あのドキュメンタリー番組が、未公開映像を加えたBS-TBSオリジナルラインアップで登場!

• 出演 【司会】徳光和夫 【旅人】美波 【ナレーター】下條アトム
• スタッフ 白井博
• 属性情報
• その他の情報・続き
美波のホームステイに、家族を説得して名乗りを上げた のです。マホムードさんの家畜を飼い、山間の畑では、麦、オリーブ、メロンなどを栽培しています。春を迎え、畑仕事は大忙しです。井戸で水を汲み、家族の ための
・続き2
パンを焼き、朝食を作ります。そしてヤギの乳搾りをして、バターやヨーグルト、チーズを作ります。美波とサミーラさん は同い年。果たして、同い年のサミーラさんの生活に、何を感じるでしょうか?

白井 博(しらい ひろし、1946 年 - )は、テレビ番組制作会社テレビマンユニオンの現社長を務める、番組制作プロデューサーである。 現在は社長を務める傍ら、世界ウルルン滞在記のプロデューサーを務めている。
美波(みなみ、1986年9月22日 生まれ )は日 本のファッションモデル・女優。ホリプロ所属。父親はフランス人、母親は日本人。

2010年5月7日金曜日

熟練した技術



おはようございます。この暑さですから、近所にある茶畑の新芽がグングン伸びています。効き目のある養毛剤を散布したかのように急な成長ぶりです。
日本財団の9年の日々より、
日本財団は私(曾野綾子さん)が22年前からやっている「視力障害者たちの為の聖地巡礼の旅」にも職員を出してくれました。
主にイスラエルやイタリアを訪ねるこの旅は、私が50歳を目前にして、眼の手術を受けて、奇跡的に視力を取り戻した感謝を何とか表せないかと思ってはじめたものです。
年1回ずつ続けてきましたが、参加者には、車いすの人や、96歳を最高に80歳以上の高齢者や大病した後の人たちも加わるようになりまあいた。食事の面倒から、お風呂までお手伝いしてくださるボランティアがたくさんいてくれてこそ、続けてこられたんです。旅費はお世話する方も、受ける方も同じ。人生はお互い様ですから、介護を受ける側が費用をたくさん出しいたら、きっと、あの人は食べさせ方が下手なのよという苦情がでるんでしょうけれど、相手はまったくの奉仕だから、文句のいいようがない。たとえば入浴のお世話をすることでも、その日私と目が会った人にお頼みする。でも何日かすると、」「私、今日もお入れしましょうか」という専門ボランティアが必ずでてきます。
そういう方の一人と、ある時、二人だけで話をしたんです。「どうしてそんなに入浴の扱いに馴れているんですか?」ってきいたら、長い年月、お姑さんの世話をして、それも感謝されずに苛められていたらしいんですね。」でもそのお姑さんも亡くなったら、後にこうした介護の」熟練した技術が残った。「あなたのお姑さんが、あなたを通して、普段シャワーだけでなかなかお風呂に入れない方を、旅行中も気持ちよく入浴させられるような巡り合わせを作ってくださったのね」って私がいったら、その方泣かれたんです。その時、初めてお姑さんと和解して、感謝できる気持ちになれたんじゃないかと思います。

2010年5月6日木曜日

“入亜脱欧”した若き英国騎士


おはようございます。テレビを見ていたら、行楽客へのインタビューで「今年は冬と夏があって春がない」という人がいましたが、もう春の行方を指名手配ても駄目でしょうか。
気まぐれだからフラリ戻ってくることもあるのでしょうか。衣装箱の整理が何時になったら出来るのでしょうか。
 アイルランドの人には心情的に通うものがありますね。

観光文化:VOL184武士道で“入亜脱欧”した若き英国騎士
旅行ジャーナリスト沢木泰和

忘れられたジャパノロジストはフランシス・ブレンダリー(FRANNCISBrinkley11841-1912)は幕末に来日し、アイルランド生まれの英国人。.
明治の日本人が「脱亜欧入」の態勢をとるのと正反対の“入亜脱欧”の姿勢を貫きとおした。
肩書きは在日英国公使館補および守備隊長、お雇い外国人、日本海軍砲術学校主任教授、工部大学校教師、英字新聞「ジャパン・メイル」発行人、日本郵船会社顧問、『ロンドン・タイムス』通信員、さらには明治政府アドバイザー、日本美術評論家など。在日の外国人仲間からも評価されず、浮いた存在だった。
古い資料のなかから、この人の風化しそうな彼の足跡をたどる。
生まれはアイルランドのダブリンにほど近いミューズ地方に生まれる。アイルランドは政情悪化して、飢饉つづき、新天地・米国を目指す人々が続出する暗い時代です。ダブリンのトリニティ・カレッジなどを学んだ後、英国ロイヤル・ミリタリー・アカデミーで砲術を習得します。その後従兄である香港総督リチャード・マグドネルの副官で香港に駐在します。
その後長崎で彼はサムライの決闘を観てしまいます。勝った武士は自分の羽織を死者に覆い、ひざまずいて合掌します。実戦経験のない26歳の彼はこの光景は武士道への強い関心を強める発端になります。そして47年後の乃木将軍の殉死、外電は「狂死」と打電するや、彼ブリンクリーは「これぞ武士道の鑑」と欧米に発信した。
1910年発行の『ブリタニカ』で彼は「サムライは本質的に禁欲主義で、自制を存在の規範としており、苦しみを勇敢に耐えることを徹底的に実践するので、自分自身の肉体に最も恐るべき苦痛を何のためらいもなく加えることができる」

 ブリンクリーが育った時代に産業革命が起こり、騎士道のシンボルである馬が必要なくなります。乗馬してこその騎士は、国益を背に植民地での統治と金儲けに力を注ぎます。なので同じアイルランド生まれのオスカ-・ワイルドらによって「新騎士道」が論じられる有様です(この辺はよくわかりませんが・・・)
一方日本では、江戸の泰平天国で刀を忘れていた武士たちが尊王攘夷をめぐって武士道に目覚めます。こんな対照が騎士の家系にある若きブリンクリーに「美しい国ニッポン」として焼きついたようです。

2010年5月5日水曜日

財団からの追跡調査


おはようございます。やっと五月の気候になり、「つくばぼたん苑」は満開でした。あやめなや蘭どもそうですが、いろんな品種があり、素人には見わけがつきませんが、熱心な愛好家等がいて
品種改良につとめたこのの名残なのでしょう。

日本財団9年の日々:曽野綾子著

日本人の中には、人道的な目的のお金はただしく使われると、子供のように信じ込んでいる人が驚くほどいます。」そういう場合がないとわけではないでしょうが、お金の流れの大部分は泥棒と汚職で消えていくと考えるのが世界の常識です。
私は、財団の青年たちに「人にお金を出す時は相手を疑いなさい」「人をみたら泥棒と思いなさい」と耳にタコが出来るほど繰り返して教えてきました。助成金を出す相手が某国の大統領だから大丈夫だろう;なんてとんでもない。偉い人ほど盗みますと。一番多く盗むのは、大統領、閣僚、国会議員、大学の総長、病院長などで、それから市長も、軍人も、神父も、医師も、教師も盗む。」というのが現実です。
私は財団の調査路線を強化することには熱心でした。助成金が相手にちゃんと届いているかの追跡調査を厳密に行うことについてはたぶん時代の先端を行っていると思っている。またODAやNGOでも同じように追跡調査を義務つけることが大事。
日本でも老人ホームをいきなり訪問して、トイレとか台所とか、押入の中まで見せていただきます。国外では専門の調査会社を使って絶えず調査をかけて、「大変うまくいっています」という報告や迎合的な報告の場合はすぐ調査のお願いをやめ、むしろ悪いところを洗い出し、今はいいようだが、ここに注意したほうがよい、というようなレポートを出してくださいといいました。だから非常に厳しいデーターがあがってきます。中近東やアフリカでもどこでも通用するのですが、ラオスの場合「ノー・プロブレン」といったら反射的に問題があると思え」という訓練を私はうけてきました。すぐ飛んで田舎の診療所にいきなり行って、薬が届いているかを聞いて廻りました。できたら援助先の代表者の自宅を訪ね、生活状態をみればお金が漏れているか匂いはわかるんです。私の経験では末端のは正直な人が多い。

2010年5月4日火曜日

「おやじの凧」


おはようございます。スーパーの広告で、配達しますとか、弁当を1夕食530円(5日セット)などかなり便利なサービスが出来ているし、豆腐屋さんが、リヤカーで引き売りがあって、公団の4階などの高い階に住んでいるところまで運んでくれるとか、便利になってきている。「ささえあい」という包括支援センターに希望登録している人についても、訪問や見守り(新聞、郵便物、昼の電灯)のボランティア制度で伺っているところで、調理を週1回きてもらうだけででも、その日は気持ちがハレバレするという、気分転換になるのでしょうね。

「おやじの凧」

風、凪んでまた吹いて;池部良から

だが、僕もいまやいい歳になているが、この歳まで社会の枠からはみ出る人間にもならず、家内の屈辱的言動には接しているものの、お他人様からひどい嫌味の言動をなげつけられなような善良な常識的な市民として過ごして来ているし、人間としてまあまあの線にまで育ったのは、思い返してみると、おやじの倅に対した処理の仕方が巧まずしてか巧んだか、僕に浸透しちまっっていたのではないかと思っている。
小学校に上がって間もない頃から卒業する頃までつづいたような気がするが、おやじは毎朝、新聞社に出勤する間際、晴れていて都合のいい風が吹いていてさえすれば、小さな庭先で凧を上げ、上がりきると空にのびている糸の手元を縁側の柱に結えつけてから画用紙を円く切り、真ん中に穴を開けてから半径だけ穴に向け鋏を入れ、糸を差し込む。
「俺が帰るまでのはこの円い画用紙の板が凧まで届いているぞ、良が帰るころにはまだ届いていなかな」などといって出かける。凧は終日、空にあって、おやじが帰宅する夕方には円盤が高く昇ってくっついていた。このおやじのどんなサービス心なのか、教訓なのか知る由もなかったが、おやじと自分がとてもきれいな接着剤でくっついているように思え、うれしかった。

2010年5月3日月曜日

枯葉の効用


おはようございます。「和本というのは鳥のように軽いと感じることがある。」とあるが、我が家の仏壇にあったお経はまさにそうでした。和紙は丈夫で、軽いということなのですね。

書を読んで羊を失う:鶴ケ谷真一より
「枯葉」
古い和本をひるがしていると、ときおり本の間に木の葉が挟まれてのをみつけることある。
どれほど古いものなのか、手にした葉は乾ききって、もう元の色をとどめていないが、その輪郭をみれば、これは銀杏の葉、これは朝顔の葉というように見わけはつく。本に木の葉を挟んだりするのは、べつに珍しいことではない。名勝の地を訪れたおり、庭園に落ちているきれいな一葉を拾って、ささやかな記念としたり、落葉の時季に、まるで象牙に黄をにじませたような銀杏の葉や、窯変の色を思わせる紅葉の葉を手にして、読みさしの本の間にはさんだりするのは、よくあることだろう。たまたま開いた本のあいだに、色あせた一葉をみつけて、かすかになった記憶をしばしたどったりすることもまた・・・。
一部省略
それにしても、なぜこんなふうに、葉を執拗にはさみこんだりしたのだろうという疑問は、しばらく胸にわだかまっていたが、風に飛び去った木の葉のように、それもいつしか忘れてしまった。もう何年も前のことだ。
ところが最近、たまたま荷風の隋筆『冬の蠅』所収の「枯葉の記」を読んでいて、次のような一節にいたったとき、図らずも、その疑問は氷解したのだった。「古本を買ったり、虫干しをしたりする時、本の間に銀杏や朝顔の葉の挟むんだままに枯れているのをみたことがある。いかなる人が、いかなる時、蔵書を愛する余りになしたことか。その人は世を去り、その書は転々として人の手に渡って行く,紙魚とともに紙よりも軽く、窓の風に翻って、行くところを知らない。」そうか、あれは紙魚を防ぐためのものだったのか。そんな自明とも思われることになぜ気づかなかったのか、我ながら不思議なほどだった。

2010年5月2日日曜日

日本財団9年の日々④救援は迅速に



おはようございます。天気も五月晴れで鯉のぼりものどかに泳いでいます。

日本財団9年の日々:曽野綾子著 日本財団も生涯スポーツの振興と高齢者の生き甲斐づくりを目指して屋内のゲートボール建設支援(今はデイケアセンターやグループホームの建設支援)について、ひどいことを言ったことがあった。「ゲートボールできるほどの体力があるなら、ジャガイモや小松菜くらい自分で作ったら?」なんて。」」財団の」笹川陽平理事長さんが、」「曾野さん、それが実はゲートボールが盛んに」なると、」その地方では、国民健康保険の使い方が減ってくるんです」って。国家のお金が節約できるなら、ゲートボールはいいものだ。あれは太陽の光の下で、男女交際の場であり、美しくも元気にも幸福にもなるということで」あっさり容認派に廻ったそいうです。 日本人の間でボランティア活動が信じられないほど活発なっています。(中国でも若い新世代が大地震の応援に駆けつけている)財団も申請のあったボランティア・グループに最高500万円くらいの補助をだす、私はボランティアを本気で育てるのなら、むしろ出さないほうがいいと思っていた。結果的に資金援助されたグループの活動の多くは自然に3から4年間で消滅したんです。 国内で地震や水害、重油流出などの事故が発生した場合は、日本財団の職員がただちに現地に駆けつける。そこにボランティアセンターを作り、ボランティアの参集状況を確認して、自治体がすぐ用意できない活動資金(土嚢、スコップ、消毒薬などなど)を調達する。 曾野さんもすぐ一度現地にいってみると、ボランティアをやる人は今どこにもかなりいる。必要なのは、その善意をどう配分するかということがわかったそうです。必要な道具を皆に持たせて、10人くらいのグループで現地まで案内する。この場合、細かい家の入り組方までわかるのは2500分の1の地図しか役にたたない、それより細かい地図では作戦がたてにくい

日本財団9年の日々4

おはようございます。天気も五月晴れで鯉のぼりものどかに泳いでいます。
日本財団9年の日々:曽野綾子著 日本財団も生涯スポーツの振興と高齢者の生き甲斐づくりを目指して屋内のゲートボール建設支援(今はデイケアセンターやグループホームの建設支援)について、ひどいことを言ったことがあった。「ゲートボールできるほどの体力があるなら、ジャガイモや小松菜くらい自分で作ったら?」なんて。」」財団の」笹川陽平理事長さんが、」「曾野さん、それが実はゲートボールが盛んに」なると、」その地方では、国民健康保険の使い方が減ってくるんです」って。国家のお金が節約できるなら、ゲートボールはいいものだ。あれは太陽の光の下で、男女交際の場であり、美しくも元気にも幸福にもなるということで」あっさり容認派に廻ったそいうです。 日本人の間でボランティア活動が信じられないほど活発なっています。(中国でも若い新世代が大地震の応援に駆けつけている)財団も申請のあったボランティア・グループに最高500万円くらいの補助をだす、私はボランティアを本気で育てるのなら、むしろ出さないほうがいいと思っていた。結果的に資金援助されたグループの活動の多くは自然に3から4年間で消滅したんです。 国内で地震や水害、重油流出などの事故が発生した場合は、日本財団の職員がただちに現地に駆けつける。そこにボランティアセンターを作り、ボランティアの参集状況を確認して、自治体がすぐ用意できない活動資金(土嚢、スコップ、消毒薬などなど)を調達する。 曾野さんもすぐ一度現地にいってみると、ボランティアをやる人は今どこにもかなりいる。必要なのは、その善意をどう配分するかということがわかったそうです。必要な道具を皆に持たせて、10人くらいのグループで現地まで案内する。この場合、細かい家の入り組方までわかるのは2500分の1の地図しか役にたたない、それより細かい地図では作戦がたてにくい

2010年5月1日土曜日

日本財団9年の日々③クリスチャンのくせに


日本財団9年の日々:曽野綾子著

「クリスチャンのくせに、なぜ博打の金をあつかう仕事についたのか」という批判が多かった。
「聖書のルカによる福音書」16・9に「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という箇所があるのです。友人というのは天国の友人のことで、現世でワイロを使って誰かと仲良くなれ、ということではありません。
一般的にいって金は不正な富である場合が多い、と聖書はいうんです。しかし、その金が自分のところに来た時から、正しく慈悲の心で使って神に喜んでもらいなさい、ということなんです。つまりどんな金であろうと、過去のことはどうでもいいんですね。ただ今から誠実に使いなさい。ということですね。
キリスト教は本来性悪説ですからね。でも同時に立派なこともする時もある。と認めています。ただ人間は放っておけば悪いことをする。初めから正しい者も、完全に善行を行う者もない。どろどろの人間性の中から、どうしたら人間が一歩でも悪い方向ではなく、いい方向に向かって歩くということを考えているわけです。
曾野綾子さんは3つの点で日本財団と共通点があった。①「死者の海」で船の小説を書くのに、正式の船の勉強をしていた。②71・72年に産経新聞にハンセン病をテーマに「人間の罠」を連載→62年の財団設立以来、地球上からこの病気をなくすることを悲願にしていました。
③通称JOMASというNGOで途上国へ資金を送ることに関わり、援助資金が当初の目的通りにちゃんと使われているかどうか、アフリカまで自費で現地を調べにいった。→財団で、海外援助がすべてうまく行っていますという認識の少しでも是正に貢献したい。

日本財団9年の日々②【心意気】編


おはようございます。昨日は図書館から自転車で帰ろうとしたら、鍵がキーホルダーから外れて見当たらない。周囲も探し、図書館の受付にも聞いてもない。それで家内に合鍵をもって迎いに来てもらった。どうしても納得がつかず、今朝になってもう一度キーホルダーをかけていた鞄を丹念に点検したら、鞄の底に運よく残っていた。原因は鍵をホルダーにつける針金が巻きつけのところから、逃亡していたのでした。鍵も春ですから浮かれだしたのかもしれません。
今度逃げなられいように2重にしました。
日本財団9年の日々:曽野綾子著より:

運輸省を訴える
96年にヤマト運輸の元会長の小倉昌男さんを日本財団の評議員にしたいといったら、運輸省からクレームをつけてきた。小倉さんが宅急便の組織を作る時に、何かあったのでしょうね、「運輸省批判するような人を評議員にするには認められない」と言い出しました。正当な手続きを経て議決されたことを撤回することなぞ出来ません。それで私たちはやむなく処分取り消しの訴訟を起こして、運輸省と係争関係になった。
今では笑い話ですが、笹川陽平理事長にいきなり聞いたんです。「私、大臣にお会いしに行ってひけませんか」ってとにかくこういうのは常識皆無なんですから。「いいじゃないんですか」と。先方に拒否されたらそれはしれで構わない。どこかで一席もうけるにしても、官民接待絶対ににだめという嵐の時でした。「質素でいいんです。おでん屋の2階みたいなところがいいと思うですが、適当なお店をご存知ないですか?」と「いったら理事長がクスクス笑うの。通常おでん屋には二階がなそいそうです。
加藤紘一幹事長に音頭をとっていただいて、床の間風に見える工夫されたお座敷で、どっちも上座でした。古賀誠運輸大臣がいらしゃるなり、「日本財団に訴えれられびっくりしました」
そこで私の思いをお話したら、「いいじゃないですか」とおっしゃる。1週間後小倉さんの就任を承認する旨の通知が届き、訴訟は取り下げとなりました。
そのとき美人の女将さんにお願いし「受け取りは2枚ご用意くださいね。一人2万7千円でちょっと割高でした。
(船舶協会だから、運輸省がクレームをつけたようですが、国の助成はまったく受けていないのも、この腹立ちの原因だったようです)