2010年5月20日木曜日

林檎の礼拝堂①


おはようございます。こう温かくなてくると、風も穏やかで和んで気持ちよいものです。下記の物語も同様にまことに気持ちのよいものです。

林檎の礼拝堂:田窪恭治

弓の仲間が貸してくれた本でした。テレビでも紹介された、素敵な物語でした。
この本の序文に福原義春(資生堂会長)がすばらしい率直な紹介をされています。
<天才と狂気は紙一重>、創造に携わる人物を庇護し支援することは、詐欺やまやかしに直面することと、-紙一重だ----と思っている。サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂プロジェクトを熱心に説いてまわったのはフジテレビ・ギャラリーの玉田俊雄さんであった。かねてから田窪氏の才能を評価し、支援を惜しまなかった。その田窪は玉田さんの思いを超えて、フランスの一地方の荒廃した教会の再生に、家族と生活のすべてのエネルギーを注ぐ決意をしたのだった。もともと田窪は美術館の壁面を埋めたり、商業取引の為の芸術と呼ばれる作品に生命の火を使いきるつもりはなかった。
東京の建築の解体を題材にとった「絶対現場(?)」と名付けた時間芸術(人の生活の匂いのある磨かれた柱のある旧家のような感じでしょうか?)などさまざまな試みに挑戦したあげく出会ったのがカルヴァドス地方のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂である。この遺産を再生(11年もかかることになったのですが)することが、そのまま自らの作品の契機ともなる-――という思いが、彼の決意をうながし、それが時間芸術を超えて永遠に生き続けるものの脱皮になることを、田窪は知っていたのであろうか。この何の地縁も人脈もないノルマンディーに移り住むという、その決断こそがこのプロジェクトの全てである。後に現地で田窪夫妻と食事したとき、当時の暮らしはさぞ辛かったでしょうね-----と申し上げた時、夫人の目に一粒浮かんだ涙が、その決断の容易ならざることを物語っていたろう。
日本経済はいまだバブルの時期にあったとはいえ、多くの企業にとって、遠いフランスの名もない礼拝堂に前衛作家が挑戦するというプロジェクトに参加がためらわれても当然だったそれが本野元駐仏元大使を委員長とする支援委員会の発足し、折も折世の中の風向きが急にかわり、派手なイベントの時代はさり、3年間に企業は3百万円、個人百万円を限度とする方式(総額は記されていない、善意に計算はいらないというのだろうか)は後に“福原方式”と呼ばれる今後のメセナの方向性を示唆するものとなった。
ここにかかわった私(福原さん)自身の夢は、やがて礼拝堂が再生され、数多くの支援者が村人たちとカルヴァドス(林檎酒)を飲み交わすことだった。

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