2010年5月9日日曜日

なんにつけてもナク


おはようございます。同じような顔つきをしているのに、歴史によって培われたモノゴトノ受け取り方はあっやはり違うところがあると思うものですね。
恨の文化論:李御寧http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%BE%A1%E5%AF%A7

涙の文化:
高麗期の歌謡「青山別曲」の句節
啼け鳥よ
目さめたら 啼け 鳥よ
おまえより悲しいわたしも
目ざめたら 泣いているよ
眠りから覚めれば涙と泣哭(きゅうこく)で日を送っている人たちがいる。
泣哭と涙を度外視して韓国を語ることは出来ない。泣くのはひとり人間だけではない。周囲の数多くのものにも「泣哭」を聴いたのである。
われわれは自ら音を発するものであれば何であれ、みな「泣く」といった。“Birds sing”という英語も、韓国語に翻訳すれば「鳥がナク」になり歌うにならない。西欧の人たちはそれを楽しい歌声と聞き、われわれは悲しい声と聞いたからである。
同じ東洋人でも中国には「鳴」・(動物)、「啼」・(鳴の常用外)があり「泣」・(人間)という語とは厳然と区別されている。
日本でも「鳥がなく」というときもあるが、「さえずる」とか「歌う」とか表現する。しかしわれわれ韓国人は梵鐘の音を聞いても「ナク」と言い隙間風でなる障子の目張りの音も、」やはり「ナク」という。
詩にうたわれていのだそうですが、部屋にある蝋燭が燃えることさえも「ナクこと」とみており、せせらぎの音も…慟哭の声と聞いたのである。
ある国文学者がいうには「泣哭で始まり泣哭で終わるのがわが民族の風俗」であった。人が死ねば<死んだ日から出棺まで><埋葬の翌日も><埋葬の3日目も>そしてその後は
月の朔日と、15日にするお祭りをするので、又泣かなければならない。それもただ泣くのではなく、しごく「音楽的様式」に格式化されたリズムに合わせてなく。よく泣いてこそ親孝行ものであり、うまくナイてこそ忠臣であり、烈女であった。さらには「泣かない者韓国人にあらず」という仮説さえ生まれたそうです。
映画や放送劇であれ、泣くくだりだけは、あえてどの国のものにも負けはしない。
われわれの芸術と文化が、すでに水晶のような涙に芽生え、その涙から成長したものである、ということも可能であろう。

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