2009年7月31日金曜日

壁画探し


おはようございます。昨日は1階に避難しました。屋根の断熱が悪く、上下の温度差は5度位だったからです。夜10時を過ぎたらめっきり涼しい、今朝もほどよい温度です。

アフリカの白い呪術師より

ポーシャは各場面や概念の関連性が見いだせなかったが、壁画をよく観察してみると、人間がオオカモシカの上に描かれているよりも、オオカモシカが人間の上に重なっている場合が多かった。明らかに人間の上に動物を描くことを意図的に好んでいた。
石の美術を、人気のある芸術上至上主義としてかたずけるか、しかし人間が活気と生命力に溢れて,狩り、踊り、闘いをしている絵が絶妙ではあるが、どうして対象が意図的に選ばれ、重ねられるにあたって、はっきりとしたルールがあったのか説明できない。
石の美術の本質は、シンボルにあり、何らかの儀礼上の役割をもっていて、それを理解することが出来れば、宗教の起源について多くのことが知ることが出来るというのが妥当な結論だろうと考えた。
ポーシャは壁画探しの旅を続けた。
ある日岩陰でみつけた、素晴らしい多色のインパラが描いてある。」そして今までどこの記録にもみたことのない30cm大の人物が、インパラと向かい合って口づけをしていた。人間のようだったが、ネコのような尻尾と睾丸がついていた。この不思議な人物は白っぽい身体をしていたが、右側は真紅と黒の縞、左側は黄色とシェナ色になっていた。顔には真紅の目がついた仮面をつけていた。そして頭には司教の冠に似た、黄土色の縞のついた白いターバンを巻いている。(続く)

2009年7月30日木曜日

殺伐とした対応


おはようございます。殺伐な対応です。社会はちょっとでも面倒なことはやりたくないという風潮ですが、どう思われますか?


老夫婦の家庭に事情があって、2人の孫(3歳、小1の両方とも男子)が預けられた。
1) -I保育園で医者にもらった、薬を飲ませることを依頼したら、園では薬を飲ませる場合は親か家族が来て飲ませて欲しいという。
 ―Ⅱ送迎は園に登録した人以外は遠慮ください。友人に依頼するにしても、
登録していないとダメという判断なのだそうです。
2) ご主人が大腸ガンで、ある大きな病院の定期検診で6ケ月前にうけていた。その後上記の孫の世話で老夫婦は超多忙になって、結果を聴きに行く余裕すらなかった。久しぶりに時間を作っていってみると、肝臓にも転移し、内視鏡で摘出するには大きくはなっていた。6月まえもかなりその兆候はあったとのこと。どうしてそのような状態ならば、すぐにも呼びだしをかけてくれることが出来なかったかを問うた。しかし病院にはそういう呼びだし等の義務はありませんとの説明だったそうです。本人の申し出があれば別ですがという。本人は一応これで納得されたというというものの、昨日ご主人は別の病院に入院しました。

2009年7月29日水曜日

アフリカの壁画


おはようございます。暑い時にアフリカを書けばさらに暑いといわれそうですが、ちょっとアフリカの壁画の道に迷いこんでしまいました。
ヨーロッパの洞窟壁画に描かれているものは、おおむね動物と抽象的な記号である。人間象はめったになく、風景描写もないに等しい。一方、アフリカの有史以前の石の美術、人物や物語の場面でいっぱいである。動物、人間、そして両者がいっしょになった神話などで息づいている。それぞれがすべて相互に関連し、重なりあって意味の豊かな画面を作っている。

 アフリカ南部のほぼ全域にわたって,この土地に古くから暮らしてきた人々が描いた壁画や刻画が発見されている。その言語の特徴からコイサン語族と呼ばれ る人たちが,それらの芸術の作り手であった。年代測定によって,多くは数千年前のものと考えられるが,古いものでは2万年以上昔のものもある。
 壁画には,独特の文化や風習,さまざまな動物の姿,歴史上の出来事などが描かれている。狩りの様子,踊りや装身具,雨乞いの儀式などは,今でも人々の生活に受け継がれている。さらに新しいものでは,15世紀のヨーロッパ人の侵入を描いた壁画も発見されている。
 サンやコイの人々は,現在ではごく限られた地域に追いやられて暮らしており,壁画を描く手法はほとんど失われてしまった。年代測定や新たな発掘に力を注ぐだけでなく,古代アフリカ文化を伝える貴重な遺産をどのように守っていくかも重要な課題である。
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著者 Anne Solomon
南アフリカのケープタウン大学の研究員であり,同大学で博士号を取得した。サンの岩の芸術とジェンダー・イデオロギーとの関連について幅広く研究を行ってきた。南アフリカ考古学会の理事を担当し,またSouth African Journal of Field Archaeologyの編集委員を務めている。現在は,絵画の技術と年代推定の問題を中心に研究を行っている


壁画:http://www.photographersdirect.com/stockimages/k/kondoa.asp

http://www.bradshawfoundation.com/tanzania/sites_1_2.php

2009年7月28日火曜日

槿の木


夏の花といえば、槿の花、庭先にうっすらとしたピンクが漂う色です。

樹齢110年、韓国最古のムクゲの木発見 /江陵
高さ4メートル、幅6メートル
 韓国で最も古いムクゲの木が江原道江陵市で発見された。
 国立山林科学院のパク・ヒョンスン博士は23日、「江陵市沙川面芳洞里の江陵朴氏の祭堂(祭祀〈さいし〉を行う堂)の前庭にあるムクゲの木は最高110年経つものとみられ、韓国で最も古いムクゲと推定される」と発表した。
 このムクゲの木は高さ4メートル、幅6メートルで、根元の直径が0.5メートル、幹周りは1.5メートルに達する。韓国固有のムクゲで、今はピンク色の花が満開に咲き、美しい姿を誇っている。根元から地上50センチほどの高さから幹が三つに分かれ、広く枝を伸ばしている。
 国立山林科学院による調査の結果、樹齢は90-110年と推定される。ムクゲの木は通常、樹齢20-40年ほどで、それ以上経つと枯れてしまう。このムクゲが長生きできたのは、適時に薬を与え、肥料をたくさん与えたためと分析されている。
 江陵朴氏宗家のチョ・キルジャさん(79)は「16歳で嫁入りしたときから、このムクゲの木はあった。今ほどではないが、当時もだいぶ大きかったことを思い出す」と話した。
 パク・ヒョンスン博士は「こんなに大きく、多くの花を咲かせるムクゲの木は初めて見る。ムクゲは毎日花を咲かせ散るため、たくさんの肥料が必要だ。遺伝的側面から研究資料として活用し、保護樹に指定して管理する必要がある」と述べた。
 江陵市はこの木の現地調査に取り掛かり、江原道に保護樹指定を申請した。保護樹として指定されれば、今後は国や道の支援で環境改善や管理費用を充当するなど、江陵市が管理することになる。
 ムクゲの木は日帝強占期に民族精気抹殺政策で大半が損なわれたため、韓国では古い木があまり残っていない。樹齢60年ほどの保護樹は江陵市連谷面柳洞里にある1本を含め、全国に3本ほどあるという。
槿園;http://www.mukuge.com/hana/index.htm

2009年7月27日月曜日

アフリカの白い呪術師


おはようございます。イギリス人の血液の中に、冒険という養分が入っていますね。
探検家の書き記した旧きアフリカに憧れ、16歳で未開の奥地へと移り住んだイギリス人・エイドリアン・ポーシャという青年は、てんかんとヘビ取りの才能が幸いして、白人ながら霊媒・占い師の修行を受け、アフリカの内なる伝統に迎入れられた。人類の300万年の進化を一人で再現することになった男の驚異のドキュメント!

「アフリカの白い呪術師」ライアル・ワトソン著:河出文庫
同類を持たない、特殊なアフリカの鳥がいる。この鳥はコウノトリとアオサギの中間の科に属する、とされる。フットボール大の巣を中心に、そのまわりに大木を包むほどの大きな構造を作り上げるのである。
アフリカの人々は、この鳥が水たまりに映る自分の姿を凝視しているのを、よく見かけるという。彼らはこの鳥のことを、未知をしるもの、直視すれば消えうせてしまう事物としたしいもの、ととらえようとしているようだ。孤立したその姿を、指で指すことはできない。鳥の方が魔法使いをさししめし、その力を吸収するのだ。風と雨に追われて飛んでくるこの不思議な鳥は、風を呼び、雷雨を予告する使者として知られている。だから<マシアノケ>――――ライトニング・バード(稲妻鳥の意)と呼ばれている。
アフリカ人は、この鳥に丁重な礼儀をつくし、距離を置いて接しながらも、その行動をつねに観察して何かの前兆や予言を読み取ろうとする。その鳥への敬意の念には、恐怖も混じっており、同時にある信仰が感じられる。すなわち時には、おそらく何世代かに1回位の確率で、この鳥が人間の姿になって人間界に出現するという信仰だそうです。

上野動物園にも、この鳥がいることが分かりました。
http://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&link_num=12116

2009年7月26日日曜日

パニック&クローン


おはようございます。まだまだ暑い日が続いています。寝る頃になると、汗で肌が痒くなってきて、シャワーで流しています。

そういう暑い日でありながら、トンボはもう3週間まえからとんでいますし、昨日は秋茜をみかけました。


パニック障害からの快復:シャーリー・スウ



第一次世界大戦では、前線の塹壕の兵士たちが主力となって戦いました。彼らのストレスはまさに耐えがたいものでした。塹壕は絶えず砲撃を受けています。退却はできません。(退却すれば、軍法会議にかけられ銃殺されます!)。前進しても、後退しても、どっちみち死が待っています。こうした状況下で、あんなに多くの男たちがいわゆる「戦争神経症」になったことに、なんの不思議があるでしょう?神経系は断じてこれほど大きなストレスに対処できないのです。 でも奇妙なことに、イギリス兵よりアメリカ兵のほうが、はるかに戦争神経症にかかった人数が多い。食事の違いかもしれないという事で調べると、イギリス兵は牛肉の缶詰、米兵はドーナツとコーヒーを無理強いされたのです。そのころ非常に強い同士愛が絶え間ない空襲のストレスを相殺していたのです。戦争終了後、砂糖が戦前どおりに市場に」でてくると、神経的情緒的障害の発生率は戦前レベルにもどりました。

生命科学では遺伝子がおおはやりである。クローン技術などというものが確立されたので、イチローなどを沢山つくることができるようなことを言っている。日本のマスコミによって作られた風潮は“人の人生は遺伝子によって決まってしまう”ということらしい。ところが幸いにして、人間の一生はもっと面白いものである。我々自身の人生から明らかなことは、人間がどこへ行って何をするか?ということは遺伝子ではなく、運命(偶然)によって決められるということである。(出典失念)

2009年7月25日土曜日

突然の死


おはようございます。昨日はいつものOB会の予定だった。OBといっても、生え抜きの人の退職後のOB会ではなく、全く別の会社からの転職してきた嘱託が寄り集まったたった5名のOB会だった。
それが8年も続いたのは、上下関係もなかったから、嘱託というとやはり本筋から外れていて、本筋の手伝いなので、下請け的な悲哀が消えなかった。そういう背景があったのが、
余計仲間意識を引き付ける要素となっていたのかもしれないが、それぞれ分野と家族の背景が違うので、何時も話題に事欠かない楽しい会です。このOB会は毎月第4金曜日に予定されていて先月も26日に行われた。一人総務部長として残っている人Uさん、OB会の幹事役の人から、1週間延ばしましょうという連絡があったのが2日前だった。昨日再度Uさんから電話があって、メンバーのHさんに変更の連絡をしても、返事がない、何時もならすぐにわかりましたという連絡のある誠に几帳面なはずなのに、どうしたものか不思議に思っていたそうです。
携帯へのメ-ルも送信していたのに、やっとHさんの奥様からメールで返事があって、「7日の七夕の日になくなりました」というお知らせだった。以前Hさんは杉並区にすんでいて、その人の親御さんの介護が終わり、すぐに奥様の親御さんの介護になり、北区の奥様の実家に移った。それが3月前に火事で全焼、原因はコンセントにホコリがたまってショートを起こしたということだった。なぜこんなにも、連続して不幸に襲われるのだろうか。
こういう突然の死は、今年の2月にもあった、それは弓の先生の奥様の死だった。ご夫婦でこられるので週2回も稽古でお会いしていた。ある日先生達が欠席された。
翌日仲間に聞いたところ、先生の面前で、インゲンの豆の糸をとっていたのが、そっと崩れるように倒れたのが大往生だったそうです。
このような突然の死は、予告や前ぶれが全くないので、どう自分でも整理してよいか分からない。が今までのお付き合いの中で、それでもいろいろ楽しいことも思いだされる。
Hさんは恒例の年忘れOB会で演歌がとても上手、「海の男」をよく歌っていた。何か頼むとすぐに迅速に的確にやってくれる。携帯電話の新機種がでると、すぐに買い替える趣味があり、
先月私にテレビ電話が出来るのが残ったのを欲しいといったら、すぐにもってきて同じAUの私にくれ、代理店に一緒に使用できるようにしてくれた。其れが形見となってしまった。
ご自宅も火災後の立て直し中で、所有の家作の一部に移っていて手狭になっていたことだと思われる。機会を考えてお参りしたいと思う。

2009年7月24日金曜日

夜空の星


おはようございます。東京の日蝕も雲の切れ間から一瞬見えたそうですね。私はてっきり、この厚い雲のでは無理と思いこんでいました。
あの皆既日食では壱番望ましい沖縄の離れ島・悪石島では駄目だったそうですし、特別便の小笠原付近では、見事なダイヤモンドリングが見え、そこで
新婚旅行を迎えたカップルもいて、世は様々ですね。その夜の星空にが物語がいっぱい、太古の昔から夜空は神話の世界だったようですね。
山中湖のペンション「モーツアルト」のご主人は星の解説が巧い人でした。
[かたち]
 北斗七星という呼び名は中国から朝鮮を経て渡来した呼び名です。” 斗 ”は酒を計る” 桝(ます) ”のことで、日本ではひしゃく星、西洋ではビッグ・ディパー(大さじ)と似たようなもの見られていました。
 この他に、フランスでは” ソース・パン ”という深鍋で、北斗七星のひしゃくと似たような形としていました。イギリスでは農具の鋤、これと似たものがタイのダーオ・タイ(星の柄鋤(からすき))と呼んでいました。エジプトでは北斗七星の柄の三つの星を牛、次の四つの四角を人間または神様、おおぐま座の顔・前足部分をワニを背負ったカバと見て、「奇妙な行列」と考えていたそうです。
  また、車という形を想像するところもあるらしく、古代ギリシャの詩人ホメロスは、” 車とも呼ばれる熊 ” と、彼の叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」で歌っているそうです。また、バビロニアでは荷車、エジプトでは天空神オシリスの車、北欧では主神オーディンの車、イギリスではチャールズ王の車とされています。
 日本では、「七星(しちじょう)さま」、またはその変形で「七曜(しちよう)の星」、また、ただ単純に「七つ星」とも言っていたそうです。
 さらに「四三(しそう)の星」、その変形で「しそぼし」とも古くから言われています。四三の星はサイコロの3と4の目を考えたものです。群馬県では「土蔵 の鍵」。 柄の部分の5個の星で船の形、残り二つは船飾りと見て「船星(ふなぼし)」、また北斗七星が北西へ逆さまになる姿を船を操る舵の形と見て「舵星(かじぼし)」と呼んでいました。

2009年7月23日木曜日

有料老人ホーム


おはようございます。住まい方の一つですが、これを実施に移すのもかなり体力・気力を必要とするようです。

有料老人ホーム:考えるべき年齢は70歳、実際の入居は80歳位です。都で配布している「有料老人ホームの選び方」を入手(選び方の流れや要点を知ります。市役所でも入手できます)
一般的に多いのは、配偶者がなくなられ一人になり、頼れる身寄りも遠いというような場合に検討されているようです。
Nさんは80歳になっても、とても元気で、駅1分、長年診察していただいている医院も近い、住んでいる同じマンションに甥夫婦、この30年も経過しているマンション内の自治活動でラジオ体操などコニュケーションがあり、親しくして頼んでいるのは朝夕の新聞が取り込まれていない場合は、「包括支援センター等に通報してください」と相互協定している。これでもなんの不便も感じていないそうなので、有料老人ホームを検討していないそうです。
 一人っ子のkさんは生まれが九州で、母上が介護状態になったので、有料老人ホームに入所してもらい、介護サービスを受けていて、月に1回1週間は遠距離介護に赴いているそうです。これはKさんがご主人の母上を精魂込めて
介護してくれたことへの、ご主人の感謝の返礼でもあるようです。

① 体験記(とくに失敗例)を知る
② 全国有料老人ホーム協会の無料情報誌「輝きニュース」によって「有料老人なんでも相談」の実施結果報告で、ホームへの苦情や検討している人の問い合わせがわかり参考になります。(体験入居割引券、基礎講座への参加、入居時の前払い金の保全措置、事前に入手すべきは重要事項説明書で、別業種の有無でこの事業への専念度合を知る。)
経理面の財務諸表や事業収支計画書が閲覧できるので、経理に明るい方の判断を仰ぐ(同協会でない場合はその提示の有無で透明性が判断できます)

③・健常者のみの入居者だけの施設は少なく、介護面も併設している例が多く、「介護サービス情報公表システム」で情報入手し生前退去率(死亡でない個人的理由の場合の退去の割合)、福祉サービス第3者評価(利用者の意向や満足度の調査結果やサービスの質、ただしこの制度は義務ではないが、受けているかいなかで)判断の目安になります。
③ 友人などの入居しているホームで、客人用宿泊施設に宿泊
⑤市の高齢支援課より紹介機関を教えてもらう。(紹介料は無料で、その施設側から紹介に対する礼金を受領)→自分にあった条件の資料請求→体験入居→資金面の再確認(入居金0や低額の場合もあるが、比較的年齢が高い85歳以上であるが、毎月の支払いが20万円以上との場合が多い)、→高齢者支援課や包括支援センターなどで詳細な相談をしてください。
⑥契約書類の事前説明、→紹介機関の契約立ち会い・入居金の支払い。それぞれ検討をしてはいかがでしょう。

2009年7月22日水曜日

大局観


おはようございます。東京は曇りです。わざわざ皆既日食をみに、沖縄まで行った人はどうだったのでしょうか?


将棋の大山名人は若手棋士がいくら読んでもなかなか詰まらない状況にある横を通り過ぎた。「諸君お先に、ああそれは何手目で詰むよ」、これを聞いたとおりやっていくと言ったとおりでした。
大山名人に聞きました。「先生はたった数秒間で読まれたのですか?」大山名人は「いや手を読んだのではないよ。大局観だよ」
直観力や洞察力を大局観に磨いていくには、難しい将棋や実践の盤面を、読んで読んで読み抜く修練をしたからこそ、大局観に突き抜けたと思われるからです。
「感覚を磨く」ことによって直観力や洞察力、大局観を身につけるには「論理を究める」ことが王道なのです。ニュートンの引力の発見も、京セラの稲盛会長が「狂の世界」、狂人のごとく考えて、考えて、考え抜いて「人事を尽くした」状態から生まれるのだそうです。論理的に究めてこそ大局観が生まれるのだと筆者はいっています。
意志決定12の心得:田坂広志。

2009年7月21日火曜日

健常なうちに



介護施設の理事長にお話を伺いました。

一般の人にとって、介護状態のことは、体験しないと分からないのが通例ですが、健常な内に先々の準備をしたらよいものかでしょうか?果たしてどのようなものでしょうか。

まず60、70、75歳の節目のときに、じっくりご自分の末期を見据えて、こうしたい事柄をまとめおき、それを毎年に正月やお盆のときに顔を合わせたときに話し合い、修正や加筆して親の自分としては、こう思うことを、子供さんにジックリと受け止められてもらえる機会を持ちたい。
 親の生き方、今までも、これからもどのような人生迎えたいかを披露する。親が介護状態になってから、親の考え方を初めて知るようになったという方もあるようですが、自分の親らしく尊重できるような関係でありたい。
 こういう関係は、本当はもう子育てから始まっている訳なのですが、親の思いは兄に偏っていた、というふうに感じていた妹さんとの相談があっても、親をどちらの側で介護するかが定まらず宙に浮いた事例もありますし、その逆で、兄弟の仲がよく、結婚したあとでも、それぞれの夫婦が共に介護を交替する、分担し合える家族になっていて、それぞれのお嫁さんいわく、親御さんの子育てがよかったからという印象をしみじみ語っていました。
男性の場合、それは大事に育てられていた場合に、一方通行の「してもらう」習慣ができていて、今度は介護する側にまわると、親の老醜はみたくもないとソッポを見ている方もいます。むしろ一人っ子の場合にこのような軋轢はないようです。
親子関係は親の思惑を先にして、「この学校に入りなさい」という場合と、逆に子供に干渉しないで、本人の意志を尊重されて育った子供さんでは、親の老後についての共感度合いが随分違いますね。
 日本人の場合、最後のことを想定すること自体、マイナスイメージで避けてしまう。
中村先生という方の勧めは、生きているときに、お棺に入って感触を確かめる位実践派なのですが、そのような心境ともなると、己の生き様も語れるし、延命治療として、人工呼吸やイロウなどの医療行為はもう必要ないというように終止符を打ちたいのに、自分の意志や判断をこえないようにしてほしい旨の尊厳死を文書とし、署名捺印しておくことは、いざというときの書面として必要なのです。家族の経済的・精神的負担の軽減にもつながることでもあるのですが、書面でないと、医師と話し合いをもっても、実の子供といえ声を大にしても、患者本人の意思としては認められないという延命措置になってしまうのです。
そういう延命措置をしなければ、人間には自然に備わっているといわれる脳内モルヒネによって痛みもやわらげられ、朽ちる枯れ木のごとく最後を迎え、世話になった方々に「有難うございました」といって目を閉じることができることでありたいものです。
親子のコミュケーションが行われ、そうした明確な意志があれば、自宅で安らかに死を迎えたいということも可能で、西東京市においては往診、訪問看護、最後の見取り、をしていただける心強い応援体制があります。それぞれの人にはそれぞれの最後の迎え方があるべきで、望めば自分を尊重した生き方が出来るということをうかがいました。

2009年7月20日月曜日

異業種連合ことはじめ


おはようございます。事業の共同体はどの会社が責任を持つのか、建設関係で多いようですね。幹事会社が取り仕切るようになっているようです。
それが、全く異業種で、新規事業の場合はどうなるのでしょうか?


意志決定12の心得:田坂広志。より


異業種を結集して新事業を開発する事だった。あるコンソーシアの活動で、新事業開発に踏み切るかどうかに迷ったときがあった。
コンソーシシアムの市場調査もおわり、コンソーシアム参加各社の了解が得られていました。
後は、私自身が、新事業の責任者として意志決定し、経営会議での了承をとりつければスタートという段階まできていました。
それでも内心最終決断を保留していました。
新事業開発とは単に、有望な市場がある、事業計画ができた、各社の了解がえられたということで進むものではないからです。
その新規事業を牽引する「人材」にかかっています。

そういう最終決断をする前に、候補者の二人だけで話し込む機会がありました。
その折り、彼はこういったのです。
「私は、この新事業に失敗したら」、この会社をやめます!」
静かな語り口でしたが、決意に満ちた彼の言葉を聞いた時、内心最終決断しました。
「この決意なら」ば、道は拓ける」そうおもったそうです。
新事業は成功が約束されているわけでもなく、不退転の決意がことを進める。新事業に対する決意と意志のかげりが見えたならば、その新事業は即刻中止すべきです。厳しいようですが、新事業の意志決定をするマネージャーは、そう考えるべきです。

こうした決意のある人を得るのも思いこみとある種の縁です。計画ではなく、実行する「人間」が買われたのです。

2009年7月19日日曜日

直観力は過たない


おはようございます。当てずっぽうが良いという持論のようですが、それは人一倍の努力、あるいはその人の天性からの直観なのでしょうか?
頂いたメロンも食べる日の設定は、柔らかめなるよりは、チョット早目になっているようで、好みもあるでしょうが、2・3日ずらした方が美味しかった。

羽生棋士は先手であるにもかかわらず、開始後数分間、先手を指さなかった。「突然、迷いが生じたのでしょうか」ととわれ「いえそうではありません。静寂がやってくるのを待っていました。
これは決してカメラのシャッター音がそうぞうしかった訳でもなく、大勝負の一番で最大切な先手を指す瞬間に
「静寂心」でにいる、どのような「先手」を指すかではなく、どのような心境でさすかにこだわったのです。この静寂こそ「直観力」につながっているのだと筆者はかたる。
「直観は過たない、過つのは判断である。第六感が働いた答えが正しい場合が多い。
判断にはあれこれ考えると様々な「エゴ」が混入してくるからだそうです。

意志決定12の心得:田坂広志。エフェメラル

2009年7月18日土曜日

追い詰められた直観力


おはようございます。なにか会合があって、誰も意見を発表しないで、時が流れます。こういう時に活性化させる妙案はないものでしょうか?ないものですね。

ある企業の会議でのエピソード
熟練の田中マネージャーが極めて重要な商品開発プロジェクトの意志決定に直面しました。この意志決定のために、事前の市場分析も徹底的におこない、会場でも衆知を集めて議論も尽くしたのですが、それでもこの開発に踏み切るべきか否か、」メンバー全員の意見が定まらないのです。そして誰よりも、その意志決定の責任者である田中マネージャー自身決断がつかないのでした。「神様でも答えは分からない」といいたくなるほどでした。しかあいタイムリミットは来ています。何時間も前に始めた会議です。
参加メンバーは、田中さんの力を信頼しているので、「田中さんそろそろ決めてくださいよ」
最後は田中さんの直観に賭けようという雰囲気です。
こうした中、田中さんはしばらく目をつぶり「よしサイコロで決めよう」「偶数なら実施
決定」意を決したようにサイコロを振ってでたのは偶数だった。しかしその瞬間「やはり、このプロジェクトの実施は」見送ろう」
。このサイコロを振る瞬間に『いや違う』の声が聞こえたからだそうです。自分の直観力を引き出すためにサイコロをつかったのだというお話です。追いつめられた時に直観力が働くのだそうです。

意志決定12の心得:田坂広志。より

たしかに、もう時間がないよという時に、結論が出てくることがよくありますね

2009年7月17日金曜日

責任をとる覚悟


故郷から送られてきた夕張メロンのようなオレンジ色、あの太陽の申し子のようななメロンを食べることにしました。アンデスと違って、内海のプールがないのですね。道理で多少その部分が充実しているので、重そうです。テーブルの上も片ずけて、セッティングでもすれば、West  SIDEホテルのレストランで食べているような心境で、このメロンは相撲の観戦よりは、石川遼選手の全英ゴルフを観戦ですね。

もう昔の話ですが、わが故郷選出の加藤紘一が首相にえらばれていたら、今回の自民の修羅
場はなかったろうという意見もあるようですね。

意志決定12の心得:田坂広志より

多数の意見に従って意志決定を行うというスタイルは自分がリスクを取ることをさけ、責任を回避するという意味では、有効な方法です。こうした「リスク・ヘッジ」をするタイプのマネージャーが、日本の企業や組織に多いのです。「社会評論家」は増えていますが、「企業変革者」が生まれてこないという状況になっています。リスクをとる事なくチャンスを掴むことができ、痛みを伴うことなく、現状を改革できる幻想をこころの深く抱いています。企業社会だけでなく、社会全体に共通した、根の深いものなのです。
「断固たる意志決定」とその奥にある「責任をとる覚悟」というものは学ぶべき大切な姿を教えてくらます。
米国の経営トップは「直感力」「説得力」「責任力」というきわめて高いレベルで身につけています。それらを磨かないと、「衆知を集めて、独りで決める」という意志決定のスタイルを実践することはできないということだそうです。

2009年7月16日木曜日

すまいの取材から②


おはようございます。住まいについて調べると、やはり大きなテーマだということがよくわかります。
  そのなかでも、若い時に、住まいについて、準備しておくことが大事だと痛感しました。又60、70、75歳にそれぞれお祝して、それぞれの節目のときに、先の10年、5年を見据えていろいろ成功事例・失敗事例も聞いて準備しておくことだそうです。

不動産鑑定士の方にうかがいました。

【老後の資金の方法】
●リバースモゲージ(不動産担保の生活資金貸付)
日本型の場合はマンションは除外し戸建てに限る。65歳以上、担保割れ(景気の急低落、今後の少子化で極端にいうと、一人っ子同士の結婚だと、両家の家を相続することを考えても、住宅の需要が落ち込むことから考えて)があった場合に、通常連帯保証人となる相続人に負担をかける。

欧米型はマンションでもok。担保割れであっても、担保を提供すれば、
連帯保証人も必要とされていないし、別に担保物件をもっていてもそれ以上追求されない。(武蔵野市の場合は相続人の同意も必要)、これらについての詳細は信託銀行でも扱っているので、問い合わせしてみてください。



●不動産を売却して老後資金や老人ホームにはいる資金:
よく頓挫することもあるので相続人とよく相談する。
●相談事例;Cさんは月の半分は救急車の世話になっている位の病弱で、両親も他界、70歳前で独居である。自宅に訪問してみて足の踏み場もない程の家であったが売買が成立しました。買う人も家屋も含めて購入するのではなく、20年以上も経過すると、家屋を0としての評価で、取り壊し費用が減額されされる。 相談される前に友人の業者(相当経営的に追い込まれれていたのでしょうか)に相談していたが、相場より3割もやすく査定されていた。
運良くこちらに相談にこられたが、危ないところだった。今はこぎれいな老人ホームには入って、好きな音楽の聴けるコンポ等をかって満足している姿をみるとこちらもとても嬉しいとのこと。

●相談時事例ではないのですが、田舎の例で、もう結果はでていましたが、やはり独居の90歳の老人が、親戚の建築業者に増改築など何十年来仕事をしてもらっていた。地方の場合、この年代には義理を重んじるところが残っています。今までも相当面倒みてもらっていたし、今後も親戚の建築業者に頼まないといけないという気持を抜け出せなかった。義理の世界で、手間暇が通常よりも、あったとしても、リフォーム費用が相当に高かった。


●事前の相談事例:希望売却価格3億円が市場価格の1.5億円で倍も上まっている。適正な価格のアドバイスをしても、この希望価格にこだわっていて、まごまごしていて、市場価格はもっとさらに下がっている。今後心配するのは、こういう風に自己中心であると、超高級な老人ホームに入ったとしても、他の入居者と折り合いが悪く、居心地が相当に悪くなって、自分の意志で別のホームに移る選択をすることも予想され、その度に、入居金の大幅消却によって、どんどんキリギリスになるのではないかと心配しているが、まだ自己の希望価格にこだわっているようだ。

2009年7月15日水曜日

電車の安全


おはようございます。市ヶ谷の三番町からの帰りはJR新宿で降りて、西武新宿駅まで歩きます。
西武新宿駅からは何時も各駅停車に乗るのはゆっくり本が読めるから。何時もなら、東伏見駅の上り階段位置の3両目なのに、出発寸前だったので、最後部に乗ったのです。
そうすると、気合い十分の掛け声で、点検の声がしました。発車の指令をかける前の安全確認でした。

声の内容が分かりにくいので想像すると
① ホームに乗りかけの人でドアに挟まれていないか。
② ホームに酔っ払いなどのフラフラと出発の電車に傾くような気配がないか
③ 運転手席の前方も障害がないか、車掌との点検照合

剣道のような気合がこもった、復唱する声だった。出発後ホームを過ぎるまで、ホーム側の窓から上半分出して、それが終わると後ろを振り向いて、何事もないこと(後続がないかの確認も含んで)の確認が終わると、各駅停車はすぐに次の駅の案内の声は、ソフトな声に変わって、「次の駅は中井です」という案内にはいる。また次のホームが近付いているので、ホームの危険の有無の確認です。ほとんどゆっくりできる暇さえありません。
急行を待つ駅では、しばらくの休憩といっても2分程度だった。
途中トイレにも行けないから、自己規制がいろいろあるのでしょう。何時間交代なのでしょう。
この新人を指導している先輩は、もうほとんど仕上がっている新人に一切の注文はなく見守っているだけだった。
4月に入社であれば3ケ月位の地道な訓練の賜物か?さわやかな新人で、このような安全訓練と忠実な仕事ぶりのおかげで安心して乗れるのだと。
自分の例をいうと、自家用車の運転時に脇目もふらず前方を見据えている自分自身の緊張さも40歳になってから運転免許取得時の疲労の凄さを思い出した。どうもありがとうと言う気持ちになった。

2009年7月13日月曜日

すまいの取材から


おはようございます。

Aさんのお話を聞いたところをそのままご紹介します。いろんな話をきくと、それぞれに調査・検討・実踏査をしてからの建築でした。
築後25年にもなりましたので10年前建替えを考えました。
  一般的に言って女性の方が長生きしますので自分と家内の年齢差が6才、平均寿命の差は12年で、寿命の他に余命も考えたりしますと、この倍の耐用年数と、耐震性、老後の使いやすさを考えました。基礎はベタ基礎という建て物全体を支えることにし、鉄筋も2重に、屋根はカラー鉄板(塗り替えも不要で30年対応)、省エネを考え、天井にはグラスファイバーの断熱材、窓ガラスはペアガラス(遮音・断熱)、壁(?)、1階床は段差を少なく しました。ドアはほとんど引き戸にしました。トイレを内開きにすると、中で倒れた場合にあけられないのです。廊下をなくすか、どうしても必要な場合は幅を広くしました。

耐震性の相談をする場合にどのような市や公的制度:おそらくどの市町村でも同じだとおもいます。
都市計画課住宅係り(電話)に、事前予約し資格相談のある所定登録のある建築士が受ける相談会があります。。固定資産の減免、耐震診断・耐震建築の補助の説明や申請の方法が簡単にわかり、それぞれ詳細はご理解の上実施してください。相談会では既に実施されていう方で、不要な工事に800万円も費やしたということも聞きましたが、はやければ救済方法(消費者センター、国民生活センター)もあったとは思うのですが、そういう飛び込みの業者の場合は、少額雨戸の点検を口実に入りこみ、段々と床下や屋根点検に移り金額も大きくなってきます。最初のそれほどでもないことから入ってきますので、避けにくいので、実施の前に知人や2つ以上の地元業者や上記のセンターに相談し、冷静な目をもつことです。
その他住宅相談では、市民相談(遺言、登記、相続)、高齢者支援課、固定資産税課などがあります。どこにいけばよいかできるだけ相談事項をまとまっていれば、あるいはまとめるために市役所等に相談ください。

2009年7月12日日曜日

宝石さまざま



おはようございます。あの「武蔵境」でライブのネット中継で聞いた講義録です。宝石についてはほとんどしりませんが面白いですね。
この講義も中途からの聴講ですので、宝石の一端しか記録できませんでした。1ケ月もすれば記録がWEB上でいつでも見られることになります。

多摩交流センターヒューマンネットワークセンタ 第692回 7月9日(木) 「宝石さまざま」
砂川一郎氏(東北大学名誉教授)
  

まが玉;硬い石を研磨、新潟の糸魚川石は有名。
古墳時代になるとそういう宝石になるような石が残っていない。その後外国との交流により輸入されるようになった。中国の翡翠好きは有名であるが、これは18世紀になってからのことである。
紀元前のエジプトの耳飾りの宝石の色は、緑、赤、ブルーの研磨したものが、金のなかにはめ込まれているだけ。ブリリアンカットなどされたダイヤモンドは使われていない。そのころはダイヤが一番硬いので、それを研磨する方法がなかった。またダイヤの結晶は深い地球の地下層(1900度、3・4万気圧)にあって高い圧力と高熱でできたもので、なにかの原因で地表にでてくる段階で溶解しているので、表面はスリガラスのようなもので輝くようには見えていなかった。エメラルドのほうがはるかに見映えがした。ダイヤを磨くようなったのは、ダイヤモンド原石の方向によって強弱があって、ダイヤモンドの粉で磨くことができるようになった。(これでもうまいなるほどの理解しにくい)
ダイヤは白や透明色のほうが不純物すくなく、他の色があるのは多いのだそうです。
同じ炭素なのに、石炭やgraphiteが黒く柔らかいのに、ダイヤが透明で硬いのは、ダイヤの方が手をつなぐのに、結束を高めるほうに集中しているからだという。カメノコの説明があったが文科系は理解を超える。
ダイヤも合成で出来るのは、炭素だからで、金やプラチナは原石からできたもので、金属類は合成できないとのこと。
世界中のダイヤ[宝石類も含む?]の市場規模はわからないが、
日本では3兆円だったものが、3分の1の1兆円になっていて、東南アジアの興隆により、中国などの市場規模は大きくなっている。
宝石はコンピュターなどのテクノロジーの発展だけではなく、ものの見方によって類別できるいようになった。研磨などの宝石の成立過程をしっているとさらに面白くなるようです。。
東京雑学大学(http://www5.ocn.ne.jp/~tzu61017/)

2009年7月10日金曜日

シニアは勉強する


おはようございます。あちこちでシニアの勉強するところがあります。下記は山形県でもネットを組んでいました。
東京雑学大学(http://www5.ocn.ne.jp/~tzu61017/)毎週木曜日午後2時から3時半)の実際の講演は京王線府中駅に近い多摩交流センターヒューマンネットワークセンタで行われていますが、月1回ではありますが、
生涯学習ネットワークは全国ネットで遠隔地であってもPCを思っていて、メイルなどが使えるプロバイダーに加入してさえいれば、自宅にいても講演を無料で拝聴できる。これはCCC21協議会という組織(http://www.ccc21.or.jp/)が応援しています。
今回は府中(本会場の参加者は80名位)までは、中央線や西武沿線に住まいの受講者は、バス便がおもでとても不便で、中央線の武蔵境駅のちかくにある「むさしのヒューマンネットワーク0422-37-3410(tel&fax)市民交流の場において中継が行われた。FAXで質問もできる。
ここの場所には平日なので30名ほどのシニアの方々がほとんど。前は三鷹駅に近い西久保のコミセンが中継地だったが、交通のバス便が便利なここに移転したのだと思います。30人ほどの聴講生があつまるにように認知されるのに、2年ほどかかって、現在6年経過している。パソコンをもっている人でもここに来場されているのは、この講座終了後に、交流会をかねて、参加者のエジプト旅行記の上映があるということでした。個人的旅行記で、その旅行記に参加した方々のCDを集めて編集されている、最初から第三者にみてもらう意図はなかったし、ガイドの早口の説明など聞き取りにくいところがあったが苦心のあとは感じました。
こういう上映がシリーズ化されているそうです。
ここで得られた、アスワンハイダムで水没されそうになった遺跡が山の一部を切り取って60mも水没しない高さまで引き上げた話とか、絨毯の織子に小学生位の年齢も働いている、1日数センチしか出来ないし、1枚で2.3百万円だそうです。

ピラミッドも赤・黒など使用されている石の色による。
エジプトのホテルではアルコール抜きのビ-ル、列車の食堂車ではそういう酒禁止はない。ことが分かりました。ここのラクダは「ひとこぶ」で乗り降りに難しく、立ち上がる時後足からで落下する人もあるくらいだそうです。

2009年7月9日木曜日

白い象


おはようございます。昨日はシニアかわら版の「住まい」についての編集会議がありました。そこで聞いた話では配偶者をなくされた者どうしがお友達になるという会があって、結婚までには至らないが
同じ家に住んでいる男女がいるということです。又同席された方で、いつも興味深い話を聞かせてくれるのですが、その方は、娘さんは2人嫁いでいますから、同居していないのですが、そのすすめに応じて
離婚した奥さんと、こういう歳になったのだから一緒に住みなさいということで、復縁したか、籍までもどしたかは分かりませんが、同じ家に、カーテン位の仕切りですんでいて、食事も男性のほうが作っているそうです。
この男性の方は75歳位にはなりますが、男の料理教室にまなび、ホテルのシェフの指導もうける授業があったそうです。この方の話をきいているだけで取材に十分なるのでした。

生まれたばかりの男の子を亡くした若い女性の昔話?

悲嘆にくれた彼女は賢者を訪問ね、悲しみをすぐ癒してくれる薬がほしいと頼みました。賢者は答えました。たった一日でいいから、これまで一度も悲しんだことのない女性のリボンをもらって髪につけなさい、と。彼女はくまなく探し回りましたが、そんな女性はひとりも見つけることができませんでした。
そしてついに、自分の苦しみはほかのだれでもが経験していることとそんなに変わらないのだ、と気づいたのです。自分だけではないと知った時、彼女の悲しみはずいぶん和らぎました。。


●気が狂うのではないかという恐怖「ばかげたことを沢山考えたりしないというのなら、あなたは、この世の人間ではない」のです。心が酷使されて、身体が疲れ果てているとき、バカげた考えがつぎつぐ、浮かんで混乱するのは当たり前です。
車が動けなくなるとか、事故にあってしまうようなような、こんなことを考えてはいけないのは解っています。」
と彼女は続けました。「そして必死になってそんなことを考えないようにするんです。でも考えないでいられないんです。」
「必死になってそんなことを考えないようにするんです。でも考えないではいられません。心に浮かんでくるんです」。
「仮に」と私は彼女にいいました。「これから五分間、白い象のことは考えないでください。と私が言ったとしましょう。なにがあっても、どんな形であれ、白い象のことは考えるな、と・・・。あなたの心には何がうかびますか」答えは想像におまかせしますが、彼女はにっこりしたことだけは確かです。

精神病は決して不安障害や神経症に変わったりしません。深刻な心の病にかかっているだけかもしれません。「肺炎から肺ガンになるのはどのくらいかかると思いますか?、中には「6ケ月」「一年」とか答える患者がいます。別の用意した質問は「犬が猫に変わるのに、どのくらいかかりますか?」その時点で患者はたいてい笑いだすそうです。

パニック障害からの快復:シャーリー・スウ

2009年7月8日水曜日

自転車雑感


おはようございます。立場が違うと、自転車のときは、歩道の歩行者が邪魔、 車のときは、自転車のすばやい動きへの対応に苦慮、 歩行者にとって、車はキチンと待ってくれない、自転車は後からどい手てくださいというチリンチリンがうるさい。
ちょっと自転車で買い物にスーパーにいき自転車をとめました。安売り店では1万円以内、自転車屋さんでは2.5万円位ですね。日本製とそうでないものとの違いを体験しました。

盗難にあったのは2台で、1台目は、日本製の新車の変速3段式、、2台目は日本製でない、変速機がついて、灯のの駆動伝達が車輪密着型でないものであった。ちょっとしたすきに、前者は鍵をかけてあった、後者は鍵もかけなかったので止むを得ないのですが、盗難にあいました。新規に自転車を購入するとき、警察登録NOをつけますが、2台目のとき、登録義務はあるのですが、あれは盗難自転車でないことを、示すもので、盗難に遭った時に探してくれるものではないのだそうです。
時々駅前の自転車置き場を警察官が警らしています。何を探しているのでしょうか?

外国人が無灯火で走っていると、違反点数になり、滞在期間に何ら問題がなかったという判定になる。
このごろ、若い母親の前後の子供を載せたのは禁止、それが許されるのは前後どちらか2輪車なら転倒のときの、子供の頭部損傷の緩和(やはりヘルメットの効果は抜群)にもつながるが、価格が10倍の電気駆動自転車よりも高いなど、消費者の立場にたった案がなされない。本当に利用者の立場を考えない措置です。なにかどこか変です。製造社優先の措置に感じます。この値段では、そういう安全自転車にするのは、怠りがちになることは同情できます。
本来は道路の狭さが問題です。それを人間がそれぞれの立場で我慢しています。狭さが解消されれば、自転車通勤も増えるでしょう。
安い自転車と日本の大手メーカーの違いは、車輪の大きさが2周り小さめ、タイヤやチューブが粗雑なことがわかりました。それはスーパーにとめていた自転車のパンクが損傷しやすく、えぐられたような穴になって、これが原因ですとみせてくれました。
安いのはやはりそれなりの理由があり、後輪は前輪の倍消耗が激しいとうことがわかりました。パンクは車の場合でも、安いものは消耗が早いこともよくわかりました。この費用と、歯医者で一部義歯によって給付金もつかいはたした。従って私の場合、給付金が景気浮揚に貢献下は極めて少なかったといえます。

それを驚いているのは、新聞作成の仲間が、75歳でサイクリングをやっていて、日50kmから100kmは
乗るそうです。専用のサイクルにのれば、腰痛も治るそうです。

2009年7月7日火曜日

お母さんの我慢


おはようございます。あまりにも可愛いお話で、クリスマスまで待とうかなと思ったのですが・・・・。

不思議な国のトットちゃん:黒柳徹子より

ユニセフの視察で行った「アフリカの飢え」をテレビで放送して、ちょとしてから、あるお母さんから手紙があった。「家の子は、男の子で6歳です。クリスマスのプレゼントをサンタさんに入れてもうらう靴下に、私も知らないうちに子供の手紙が入っていました。

『サンタさん  アフリカにいってくらさい(下さい)ぼくはなにもいりません』。クリスマスの朝、靴下の中にサンタさんからの返事が入っていました。『ありがとうアフリカにいってくるよ』これがお母さんの手紙だった。やはりテレビを放送することには意味があると思ったそうです。

しかしもっと聞いてみたいことは、その後お母さんはなにかしらのプレゼントを上げたものか、じっと我慢していたものか、これはゲスの勘ぐりなのはわかっているが、かならずお母さんも迷っいただろうから。

2009年7月6日月曜日

郊外のホタルの復活劇


おはようございます。昨晩はもと住んでいた練馬区の西小学校でおこなわれた「ほたる祭り」を見てきました。
15年前位に石神井公園というかなり大きな公園があって、それに隣接する歴史資料館(今は検索してもみつからない)は図書館の地下室にあって、時間的に余裕がある係り員がいて、
そこで長方形の1.5m×2mくらいの水槽でほそぼそと蛍を飼育していました。本当に育つのかしらとも思うほどでした。
昨日は夜7:30からの公開ということで、ビールやフランクソーセイジを食べながらしばらく待っていました。小学生の親子ですから、親にせがんで、親を連れ来ての蛍よりは、ラムネや焼きそばを
食べるのが主目的のようでした。アナンスしても、あまり聞こえません。交通整理の赤い点電灯をみながら、あんな大きな蛍はガリバーの国へ行けば見られるのかと思いながらまた待っていした。
どこに蛍がいるのかが良く分からないので、傍の人に聞いてみました。「ほらあそこですよ。」と指をさされてもまだわかりません。指さすほうには2畳位のネットのテントがみえます。
そこに近づいてみると、中央に30cm角の水槽のような入れ物に50匹くらいの蛍が屯していて、数匹がネットにはりついています。こわがるからフラッシュはたかないでくださいと書いてあります。
私は想像していたのは、蛍をそとに、放つということを思い浮かべていました。期待と現実は相当に「ヒラキ」があります。
 想像するに、ほそぼそと育ててきたのがやっと区民がまられるようになったことでも、かなりの進歩です。これらが、石神井公園の大きな池に放され乱舞するようになるには、池の浄水から大変なことです。西東京にも石神井川で蛍を育てようという動きがあるが、蛍の飼育はやっていない。石神井川の流域の浄化のために、水底のゴミ掃除と、生活排水の浄化問題とかこれは50年は必要なことかとも思いました。
この会にはいれば各家庭でも熱帯魚の小さな水槽で飼う方法も教えてくれるということでした。祭りの
出店の収益金でもホタル事業の資金の一部になるのでしょう。そうしたい意味でも楽しげな親子活動のいい場所にふさわしいのは小学校だなと思います。中学になったらこうはいかないと思います。

2009年7月5日日曜日

マリア・コスタ



おはようございます。知的障害の一人息子も作業所が変わったことから別のグループホームへの移転を考えていて、昨日を面接は終えていて、中旬から1月の体験入居のための、室内見学にいってきました。環境が変わるとかなりの緊張を呼んでいますが、体験させる前に家内のほうがより緊張しています。考えても彼の反応次第とはいっても、より影響のないようにしたいとということを考えても、手だしはできません。今後我々がなくなってからの住処はどうしても、確保しなければなりません。
頼みの綱は、一緒に住む仲間が意地悪とはいませんし、優しいということを頼みの綱としています。

歌声は心をつなぐ・東京書籍:佐藤しのぶとマリア・コスタの対談から

佐藤:もともとマリアさんは宗教関係のご家庭の出身ですか。
マリア;いいえ、私の家はごく普通の家庭であり、男ばかりの兄弟のうち唯一人の女の子でしたから、私がシスターにありたいと言ったとき皆驚き、反対したものです。それに私は、とても活発で遊ぶことが大好きだったので、シスターのイメージとはほど遠かったでしょうね。結局はパードレ・ピオという神父様の許しをいただき、シスターにあることができたのですが、友人や家族みんなが反対するなか、父だけは何もいいませんでした。でもある日、父と二人、自転車に乗って遠出をしたとき、父は私にこう尋ねました。「シスターになることがあなたにとって幸せですか」。私は「幸せです」と答えました。すると父は「ならば私も幸せです」とうなずき、」それ以上何も言わずに見送ってくれました。こうして私はシスターとなり、サレジアン・シスターズの一人として日本にくることになったのです。
サレジアン・シスターズ※とは「青少年の父・カトリック教育の師」と呼ばれたイタリア人の聖ヨハネ・ボスコ(1815~88年)の教育法を受け継ぎ、その信念を教育の場で生かすため、19世紀に設立されたカトリック女子修道会です。本部はローマにあり、世界各国に約1万5000名以上の会員がいます。社会や家庭から見放されていた若者をかれらが納得して行動できる人間に導いていきました。「青少年が自分たちは愛されているとともに、生徒とともにいるということでした。ドン・ボスコはこれを大切にしていました。

孤児の面倒を見ているそうです。
※http://www.salesian-sisters.jp/fma/salesian_honbu.html

いろいろな愛があってエロス、セックス、フイリア、中でもアガぺーは
「敵を愛しなさい」嫌いな相手がいても、せめて挨拶だけでも、微笑みだけでも送ろうとすることでよいのだそうです。これは意識と意志がなければできないことだそうです。
http://www.sutv.zaq.ne.jp/osaka-orthodox/kotopara/kotopara02_09.htm

http://www.seibi.ac.jp/college/ist/ist_it_2a5a.html

2009年7月4日土曜日

わたしの場合の「学ぶ」


新聞の翌月号では「学ぶ」という特集号の予定です。私の場合、当初現役を退いて、3ケ月位は自由気ままな生活が出来るようになったが、それを超えて転進に苦慮しました。

そこで40年も続いている中学の同級会、高校の同級会のほうへの参加してみますと、ガンによる告別式の参加が多いし、健在の人でもなにかしら病気を抱えている。学生寮のほうでは、多忙であった仕事を無理をして片つけて、海外に旅行し、成田から車で帰宅途中、時差による眠気でトラックと正面衝突であったが、軽傷で2月で治癒。本当に万事塞翁が馬です。

私が陶芸を習ったのは、公民館の講座でした。講師は吉田先生で、1回程男の料理教室の先生でお会いしていましたから、陶芸をやっていることは知りませんでした。
そこで学んだことは、陶芸の学び方に、先生が手をとり、足をとりで本格的なものを作るように教えてもらうよりも無心に、素人が作るのは突然才能が花開いたりもあるから頑張ってくださいということでした。素人は、これは無理だろうという怖さがない、たしかにそのようです。それと「上手く見せよう」ということもなく、稚屈には味が出るというこのオダテにほとんどの人がのってしまったのです。
一番初めはコーヒーカップで、粘土の紐でカップの形にしてゆく手び練りでした。それとカップをのせるお皿の制作でした。主にこの程度しか教えていただいていませんが、12人の仲間でこの講座の修了者は、この程度では物足りないでしょうから、あらたにグループを作ってみたらという公民館の伝統的な指導があって、一時的なものではなく、継続することになった。

その後,別の公民館で「陶器の歴史」はこの講師はとても美人でしたので欠席者はほとんどいませんでした。国立博物館までいって縄文土器から、有田・伊万里、備前などなどの変遷具合などを学び、市内にある遺跡の縄文土器の縄模様をどう作るかの講座、近隣の博物館にはかならず土器が展示されている。あちこちでしった雑学がつながってきて面白くなってきました。お手本として、簡単そうに見えるものが、特に小さなとなると犬が豚になったり、そっくりマネすることが難しい。だんだん似て来るが、似せることで、犬の特徴の要点が多少なりとも分かってくる。

陶芸の吉田先生は料理を教えていますが、料理の皿はこういうものが欲しい、ということが作陶の動機だったようです。我々の作品を公民館まつりでの展示するお知らせを通知して来て頂いた時に、先生は盆栽もやっているのでその鉢も作っているとのことでした。我々の仲間には、陶芸教室に通っていた人、絵を描いている人、箱のデザイン、映画を作っていた人、などセンスが優れている人もいます。
私はひたすら、素人の怖さを追いかけていますが、、素人のマンネリになりつつ、もがきながら、マイペースで下手の横好きを続けています。またデパートや博物館で陶芸作品をみていると、どのようにして作るのかとか、縄文土器をみれば古代の人との対話をしているような気持ちです。

写真は調布市にある陶芸教室に見学にいって撮影したものです。

2009年7月3日金曜日

脳梗塞


おはようございます。昨日は親子陶芸教室の応援をどうするかの打ち合わせでした。10のグループによる応援です。

陶芸の仲間Sさんは仕事中に思うように書き難いなと思った。疲れた位にしかと思わなかったので、すぐ病院には行かなかった。

精密な陶芸を試みる人でした。仕事が箱のパッケージをデザインすることだったので、造形力は特に優れていて、例えば籠に布を敷き、リンゴを置いたものを粘土で拵え実物に見えるほどでした。

又面倒見のよい人とで、陶芸室の雑務について、陶芸室の予約・協議打ち合わせ、陶芸窯の利用時期の抽選、粘土(手頃な大きさにカット)や釉薬の手配、公民館まつりの展示、記録など、ほとんどこなしていて、人にその大変さを感じさせないでいた。3ケ月の療養中に、それをカバーしてみると、それらのことが分かった。

先月に復帰したのですが、多少話し辛そうです。聞いてみると、
絵に書いてある海老とかを食べようとしたり、生の肉を食べようとしたりする判断が弱ったりしているとのこと。又あのA子さんのお祖母さんの隣などというと、関係がこんがらがってくるそうです。(こういう説明をできるということは、相当回復しているのでしょうし、家族や医師からこういう指摘を受けて記憶しているのでしょうか)左脳の判断力が劣化しても、右脳の造形力はそのまま、陶芸も手先を動かすのでリハビリにとても良いそうです。
それでも、復帰しくれるようになって一同喜んでいます。

又Sさんの息子さんが、Sさんの指示で保管している道具の受け渡しとか、とても気のつく、娘がいたら婿さんにしたい位の素晴らしい青年でした。

Sさんいわく、一度目の脳梗塞で3割の、2度目で、3割、3度目はどの人にもお迎えが来ると医師にいわれたそうです。

私の叔母は一人住まいですが、近所付き合いの良い人です。隣の人が看護士さんで、叔母さんの歩き方が微妙にふらついたり、しているのは
脳梗塞の寸前だということで、すぐ病院に行き大事にいたらなかった。近所付き合いもとても大事ですね。

2009年7月2日木曜日

大学創設の理念


おはようございます。市民への公開講座で、出席者は武蔵野大学の沿革とか、教育理念知らなかったので、とても参考になりました。
武蔵野市寄付講座
講座名:武蔵野市寄付講座
「(武蔵野)の記憶と現在-日本語・日本学科からの発信-」第11回
学祖のめざした大自然の中の人間教育」山崎龍明先生

高楠潤次郎という武蔵野大学(旧武蔵野女学院という浄土真宗系の学校で、今は大学だけは男女共学)の創始者についての講義だった。
1866年(慶応2年)に広島県三原市生まれ、1945年、敗戦の年に没(永眠はキリスト教でいうことだそうです)。
広島県も御門徒の盛んだったところだそうです。東京帝大、ベルリン大学、オックスフォード大学にまなぶ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A5%A0%E9%A0%86%E6%AC%A1%E9%83%8E
留学の帰途、インドのタゴールと合い、そこの大学の自然に魅せられたという。そこで大自然は人間を養うということを痛感。
この創始者も同様、仏教界が天皇崇拝のため、戦争にも反対できなかったのは講師も痛恨の極みだったと思いますと言われた。キリスト教系の女子学校が盛んなのに、仏教系のそれは少ないのを憂慮して、何とか大自然のなかで女子教育をしたい理想をもっていた。この人はいう理想を持たない人間は堕落するということをいっていたそうです。(鹿鳴館とか、西洋に追いつかねばということが、キリスト教系を受け入れる素地になっていたのでしょうか。明治学院、青山学院、神戸女学院、聖心女子学院、東京女子大学、上智大学、立教大学のキリスト教系に対し、:佛教系は京都女子大学、大谷大学,龍谷大学、駒沢大学、花園大学、立正大学)
1924年(大正13年)に築地で開校、その後西東京市に移転した時のことであるが、昭和4年7月13日の東京日日新聞に、「散りゆく三十六人集」これは古筆で、宮廷に多額の寄付したことで西本願寺に下賜された家宝。それをまだ名前も知られていない学校の建設資金にすることが報じられた。
様々な批判の声があがったが、高楠学長は「教育のためですからやもう得ません」と少しも迷わなかったそうです。しかし昭和恐慌のころなので、思うように寄付も集まらず、新入生徒数もわずかに23名だったそうです。
この高楠さんの全4人娘さん全員が親より早くなくなっている。敷地内に住居を構え、いつでも生徒が相談にきていたそうです。

●親鸞の非祈祷主義:仏を真に徹底して信じているならば、祈りによって幸福を得ようとするのは不合理。祈祷する心理は、仏に対する疑いの心であると。(こういわれもこまりはててしまいます。祖母の念仏は腹からナンマイダという感謝の念が感じられました)
●近代の代表的真宗念仏者である、金子大栄先生(1881から1976)が言われているそうですが、「私達は現実に不安と苦悩との中にあって、なんとかそこからのがれようとしている。私達が求める知識と道徳は、そのために用意されているのである。しかしながら知識はこの身を支えるものであっても、生と死という人間の根源にかかる不安を取り除くことはできない。かえって、不安は知識とともに加わってくるものであると。

2009年7月1日水曜日

石坂夫妻


おはようございます。もうことしも7月を迎えましたね。中村桂子さんの本の連鎖から素晴らしい夫妻がいることが分かりました。

石坂公成・照子夫妻(奥さんは山形県出身)は主にアメリカで活躍されたアレルギー研究の重鎮で、ノーベル賞にもノミネートされたことがあったし、文化勲章などかずかず受賞され、見事にこなした「結婚と学問は両立する」に書いてあったことですが、

日本では私と照子が同業の研究をしていていることで奇異な目を向けられる。何故そうなるのかが分からなかったそうですが、日本の女性の大学教授が「日本では女性は独立の科学者としては認められず、彼女らの業績は『内助の功』のかたちで夫の業績に吸収されてしまうのが常である」と言われた。米国では全くそのようなことはなかった。やはり女性からしたら本当の意味で男女平等になってほしいのでしょう。家庭では逆転しているのでしょうが、社会ではそうなっていない。事実ネットで調べても奥さんの照子さんの功績は記録されているのは少ない。

35年間のアメリカ生活を終えて日本に帰ってきた私が感じることは、日本での女性が伸びられない理由は日米の民主主義の相違にあるのではないか。アメリカ民主主義の大変革は1950年代の後半から、70年代の初めにかけて起こった。戦後の多民族国家の政策は、それぞれの民族がその伝統や宗教や特徴を保ったままで彼らが共有する社会・国家に貢献する道を拓いたことである。それぞれの民族のもつ伝統や考え方を尊重し合わないかぎり、多民族で一つの国を作っていくことができない。人種的偏見をなくすことは“人種の差を認めること”から始まっている。アメリカには“郷に入って郷に従え”という言葉はない。またマイノリティや市民権のない私の意見も真剣に聴くし,一般民衆も自分たちの職業やコミュニティを守るのは政府ではなく、自分たちにあるという自覚がある。(しかしながら、国外となるとイラクやアフガニスタンの考えを認めようとしないのが国益優先のためか分からない)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9D%82%E5%85%AC%E6%88%90