2009年9月30日水曜日

盆おどり



おはようございます。昨日は手話の方々のお話を聞きました。指文字は指で「あいうえお」これは伝達速度が遅いので、いわゆる手話は手ぶりや顔の表情で意味を伝達する。【かんがえる】の手話は人さし指だけは伸ばして
あとの4本は握って、人さし指を頭に付ける動作、この動作だけで上記5文字を表現できるそうです。手話している同士で工夫された伝達は他人に通じない場合もあるそうですし、綺麗に伝わっているか絶えず工夫が必要のようです。又新たにでた時事用語は手話研究所が発案した手話動作によるようです。要は伝えたいという気持ちえ通じ合えるようです。その他いろんなことを教わりました。

もうとっくに終わってますが、料理をのせる盆を持って踊るという「年代ギャップ」があって、ビックリ仰天なのでしたが、一人の人でも分かってほしいということで送信してあげた内容です。
本来、盆踊りはお盆にかえってきた祖霊を慰める霊鎮め(たましずめ)の行事です。念仏踊り(自分で念仏を唱えながら踊る)から踊り念仏(念仏を唱える人と踊る人がいます)に発展した民族芸能が盂蘭盆(うらぼん。いわゆるお盆のこと)と結びつき、精霊を慰めたり送り出すための行事になりました。15日の晩に盆踊りをし、16日に精霊送りをするのもそのためです。

念仏踊り(ねんぶつおどり)とは、踊り手と歌い手が分かれているもので、自ら念仏を唱えながらおどる踊念仏とは区別される。 起源としては、菅原道真が886年から889年の4年間、讃岐の国司を勤めた時に行った「雨乞いの踊り」とされ、翌年から村人達が感謝の意味で踊ったのが今に残る。 「念仏踊り」となったのは1207年に法然上人が宗教上の争いから讃岐に流され、この踊りを見てセリフとして「念仏」を唱えるようにさせた事による。 現在でも香川県綾歌郡綾川町滝宮では8月25日に「滝宮の念仏踊」が行なわれ、全国に残る「念仏踊り」のルーツとして国の重要無形民俗文化財に指定されている。

空也:踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。
門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に、多大な影響を与えた[2]。
藤沢市にある時宗の一遍上人:各地を行脚するうち、弘安2年(1279年)信濃国で踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。弘安3年(1280年)に陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。




月が満ちるとき、その引力で海は大潮となり、人は高揚します。
●月明かりの下、人の交流を深めます
さらに、盆踊りには娯楽的な要素もあります。地域の結びつきを深め、帰省した人々の再会の場や、男女の出会いの場でもありました。盆踊りの歌詞に色恋ものやきわどい内容が多いのはそのためで、人々は年に一度の盆踊りに様々な思いを託しました。

本来、盆踊りの晩(旧暦7月15日)は満月ですから、照明のない時代でも明るく過ごせ、月の引力の影響で人も高揚するため、盆踊りに最適だったのです。
盆踊りには、楽しさと切なさがあります
盆踊りは、祖霊になった人々との別れを惜しむ踊りであり、人の出会いや別れとともに過ぎ行く夏を惜しむ踊り。子供達は無邪気にはしゃぎ、大人達は様々な思いを胸に踊ります。そのためでしょうか、楽しいだけではなくなぜか切なさを感じます。

帰省先なら、お盆の締めくくりになくてはならない行事。家族揃ってぜひ参加したいですね。旅先などでは、その土地ならではの風情にひたって踊りましょう。

2009年9月29日火曜日

世代ギャップ等三話


おはようございます。


ある地域情報誌の作り方の講座も参考にきてくださいということで行ってきました。世代ギャップがあるといわれますが、盆踊りはどういうものですかとか、どうしてそういうのですかと話がでました。ところが盆踊りは盆を持って踊るからですかということまで付け加えられました。

そうじゃなくて、お盆に踊るからですよといっても、場所場所で行われる時期が違いがあるのだから、お盆にやるからではないとっても納得しません。それは地区や地方によって旧歴と新暦のお盆を採用している時期の違いによるものだからそうなんですよという。だんだん説明するのも面倒になってきました。世代ギャプがこんなにあるんだと認識しました。あとでネットで「盆踊りの由来」を調べて送信しました。

もうひとつは子育支援ボランティアの取材をした記者の話、子育て経験が豊富な年配主婦が支援するボランティアに頼む人が多くとても人気があって、もう応募に添えないということで、ニュースにはしないでくださいとことだったのですが実情は子育ての不安解消ではなく、子育てのお母さんが支援してくれる年配主婦に子供を預けて、遊んでもらって、子育てのお母さんはもっぱらおしゃべりに熱中するための子育て支援だというので、本当ニュース価値があるのだろうかと悩んだそうです。若いお母さん方にとってはこれは普通だというのかもしれません。

もうひとつは、ある40戸位の団地で、もう子供も20歳になっているということは、その団地に通学する子供がいなくなって、その団地での集団登校だけでなく、すぐ近所の子供たちも併せてれすら、集団登校ができない規模になっているそうです。
また戸建にすんで、30年もたつと、あの子は今どうしているの、その頃小学生や中学生の人はとっくに就職したり、結婚したり、もう孫まで出来ていて当然です。現に今のところに住んで11年ですが、女子中学生だった人がベビーカーを引いて実家にときどき遊びにきているのを見てびっくりする。自分の経年変化をおきざりにしているからのビックリなのでしょうね。

2009年9月28日月曜日

密教と空海


おはようございます。昨日は陶芸窯の窯出し日でした。素焼きは1日、本焼きは2日間ですが、
それぞれ冷ましが2日間かかります。それでも開けて取り出すとご飯の盛たての茶碗
位の温かさがあります。それぞれの個性豊かな作品がみられますが、釉薬がどのように焼成
されているか、この結果は悲喜こもごもでした。しかし自分で駄目思っても、個性的などと
評価してくれるのですから面白いものです。

高野山で会社の事故にあった霊を回向していただいている坊にお参りしたことがありました。
四国のお遍路をすると、弘法大師がともに歩いているなどのお話があるようですが、密教がどんなものか、
分かったのは、日本に密教を空海がもたらした経過だけですが・・・・・・。

密教と空海:仏像と仏師の話:久野 健  学生社より

密教というのは秘密仏教の略で、奈良の諸宗はこれに対して顕教と呼ばれた。
顕教では弟子たちを講堂などに集めて講義をしています。それに対して、密教は秘密の
うちにいろいろな秘法を伝授することにもって尊しとてします。講堂のような所で暗記
するのではなく、もっぱら心の中で感じることを求めたわけです。
しかし感じるにしても、そのもとになるものは秘密の経軌ですが、それは清浄な山上
で、弟子と師が向かい合って伝授するもので、それを灌頂といいます。最初に子弟の
関係を結ぶのを結縁灌頂といいますが、そのほかにもいろいろな灌頂があるそうです。
結縁の場合は弟子と師が向かい合って、頭から五智の聖水を授けて、ごく初歩的な秘密の
経軌を教えます。
そもそもの密教は仏教の中にバラモン教の諸神を取り入れ、非常に加持祈祷を重んじる
仏教の一派です。いろいろな秘密の経軌の経典ができていますが、インドで生まれたの
はせいぜい5・6世紀ではないかと推定されています。インドの密教は比較的早くなく
なってしまい、中国とネパールに残っていますが、チベットに入ったのは7世紀ごろのようです。
また、中国に伝わったのは8世紀はじめで、インドの僧である金剛智が、開元8年(720)
つまり玄宗皇帝の頃に密教の経典を携えて洛陽を訪れて、ここで密教の経典を漢訳しました。
これが真言の第一祖といわれるひとで、その秘密の経軌のすべてをついだのが「不空」で、
不空からつぎに伝授されたのが恵果、それから空海となる。恵果には沢山の弟子がいたが、
中国の仏教は滅びゆく兆候がみえていたので、中国人でない密教を後世に伝えるのは空海
だとおもった。空海の後まもなく、会昌の廃仏がおこなわれて、中国の密教は全滅した。
恵果はまさに先見の明があった。それからこの人達の考え方は驚くほど国際的で信仰とい
うものはどこの国に残っても同じである。という非常に自由な考えをもっていたといえます。
空海は正系の密教を持ち帰ったが、最澄と南都仏教の諸勢力の衝突をみて、表だった行動を
慎んでいた。最澄は空海がほとんどすべての真言密教を持ち帰ったということを知ると彼
のほうが7歳年上ですが自分から空海に結縁灌頂を願い出て、弟子になりたいと申し出た。
京都神護寺に空海が最澄に灌頂を授けたと記録もあるそうです。嵯峨天皇は空海の教えに
非常に感動して桓武天皇が都城の鎮護のために造った東寺(教王護国寺)の経営を空海に
一切まかせることにした。

2009年9月27日日曜日

鑑真和上


おはようございます。 西東京市にある東京大学の農場があり、そこの乳牛舎が貴重な建物であることが認識され、市民が保存運動に参加し修復されました。ここで桶を水田に見立てて稲作の刈り取りでした。
ここで指導されている米川准教授は実地を重視するかたで、鎌の動かし方、束ねかたなど御百姓さんそのもままの実演で、小気味よい作業に見えました。

仏像と仏師の話:久野 健  学生社より

東大寺の大仏の開眼が行われた天平勝宝4年の2年後に唐僧鑑真が日本に到着します。東大寺の大仏ができていながら他方まだ仏教は、国際的には認められるには正式の受戒をうける必要があった。ところがそれには三師七証という正式な資格をもった僧侶の立合人が必要だった。そこで聖武天皇の天平5年(733年)にどうにかしてこの資格を持った高僧を呼んでくることが命令された。向こうの官憲にとめられたり、難破したりしてようやく10年も経過し6度目に沖縄の那覇に鑑真和上が到着したことは有名な話です。

天平勝宝6年(754年)に大仏殿の前で日本初めての受戒が行われた。
ところが鑑真は当時東大寺の唐禅院に住んでいたのですが、鑑真を誹謗する人がいて嫌気がさして、ここを出ました。当時道鏡の事件をみても、仏教界では真摯な状況ではなかった。そこで新田部親王の土地をもらってたてたのが唐招提寺だった。しかし何といっても手狭で立替の平城京の傷んだ朝集殿の建材をもらい受け、建てたのが今日の講堂で、鑑真がいきていたころはこの講堂と僧坊と雑舎ぐらいしかなかったろうと思われるそうです。
鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

2009年9月26日土曜日

モンゴル事情


おはようございます。知人でモンゴルに協力隊員でいった人の話は広大な草原と星空は夏のこと、冬の寒さは経験しないとわからないそうですが、同じモンゴル族でも遊牧民と農耕民族の違いはあるようでした。

モンゴルの今:アジア大学:鯉淵信一氏の講義
2009・9・24
もうモンゴルは雪が降っている。日に日に温度が下がって、11月になるろ本格的な冬になると、-20度になり。1年の最高気温は7月の16度。
民主化したのは20年前でちょうどベルリンの壁崩壊の時代で、社会主義の一党独裁からの脱出だった。それまでは人口270万人の内1万人がソ連に留学すりほどであった。国土は日本の4倍。
一人一人の能力は素晴らしい。集団行動が苦手だというのは、遊牧は羊をばらして放牧する必要があり、集中する習慣が希薄で、1ヶ所に集まると家畜が食べる草が不足することになる。自分のことは自分ですることになっていて、日本なら人に迷惑をかけるなということを子どもに教えるが、遊牧はバラバラ状態だからそういうことは教える必要がない。モンゴルでは朝青龍のほうが圧倒的に人気がある。モンゴルでは相続が日本とは全く逆で末子相続になっているが、白鵬は末子であったのに日本人と結婚したからもあるらしい。
日本人の力士で人気があるのは魁皇であるが理由はよくわからない。テレビ観戦、役所でもそうらしいが、モンゴル人の有力力士がでるときは仕事はほったらかしだそうです。

社会主義の時代のとき、外国人と結婚する場合に、特に女性の場合は国家の承認が必要だった。それは人口が少ないのに、生める女性は
外国人と結婚は人口増加につながらないから。社会主義の時代にはさかんだったチベット仏教やジンギスカンの信仰は抑圧された、ソ連内に散らばっているモンゴル人に影響があることに配慮したのだそうです。


今役所に結婚届けをだすと、同棲の期間はあったのかとかを聞かれる。日本でも出来た婚が当たり前位になっているが、子どもが生まれるのは結婚してからということでなくとも、平気で、子どもが惨めな思いをすることはない。本当のお父さんが誰だということも
こともそれほど気にしない。だいたいの結婚年齢はは男25歳、女23歳だそうです。
外国人と結婚するのは女性2500人にたし、男はわずかに100人だそうです。
一番は韓国人、次はドイツ、中国人とは170人、日本は119人だそうです。
社会主義の時代は親ソ連だったので、国内に中華料理店は一軒もなかったそうです。今国内でうられているのは韓国製品が多い。
やはり天幕生活ですが、ソーラーで電気をとり、電柱がなくとも、テレビもパソコンも使えるそうです。燃料は家畜のフンですが、マツムシ草やエーデルワイスを食べたので、芳香があるそうです。雨が降ると必ず虹がでる。木がなおので、洗濯物はタンポポの上においておく。家畜がいるので水は井戸から汲むこともある。首都のウランバトワールから10分でも草原がある。
冬は3から5mの水の深さでも凍るもで、それを解かして飲む。カカシがあるが、これは狼よけであるそうです。羊等を解体するとき、血を一滴もこぼさない裁き方を心得ている。

日本の米から何でも作るように、家畜から乳製品などでなんでも製造する。
モンゴルは地下資源が豊かで国境は4700kmもロシアと中国に囲まれている。
初等・中等就学率、識字率、ワクチン接種率、医者比率がたかい。
マイナス面は人口増加率が遅い、平均寿命は男65歳、女72歳。乳幼児および妊産婦死亡率がたかい。
気候が厳しく、牧畜、農業生産が気候に影響されやすい。過少人口で過疎地が多い。失業・貧困の割合がたかい。
日本のプレゼンスが下がっているのは中国やロシアとの交流が大きくなっているが自国にとっては喜ばしいことである。
モンゴルの人がいってみたい国は①は米国、②は日本。親しくすべき国は①日本、②米国
ベストパートナーは2003年(現在)日本が32%(22%)、米国35%(35%)、中国18%(22%)となっていて。
日本の輸入は0.8%、輸出は6%。モンゴルはソ連から供給されていたので自国を開発する必要がなかった。わずかであるが石油の原油をロシアに輸出している。またカシミアも原毛で加工もしていないで輸出しているのはもったいない。

2009年9月25日金曜日

奈良大仏の造り方


おはようございます。作夕の空に何百羽の群れが北の空へ向かって飛びさっていきました。高く飛んでいましたのでどういう鳥であったか判別できませんでした。

大仏は8回に分けて鋳造したと書かれています。聖武天皇※、が紫香楽宮(離宮)で大仏造ろうとしたのは、一つは沢山の燃料がいることと、技術上高さが必要で
山ぎわでなければ鋳造できないということが分かったからだそうです。東大寺の場合も山が大仏殿のあたりまでせまっていたからだそうです。8回鋳造したので、そのたびにだんだん炉が上の方にあがっていかなければならなかった。まず大体の仏像を土で造っていきます。それから別の鋳物土をあてがって型をとって、原型の銅の厚さだけ削り、さっきとった外型をそこにあてがうと、そこの間に空間が出来るので、そこに銅を流し込む。ところが銅は始末が悪くて、一回流して、その次に新しく型どりしたところにまた銅を流しても、前の銅とうまくくっつくわけではない。いったん冷めたてしまったものはくっつかないので、あらかじめ、はじめの型につぎをながす銅が流れ込むような穴をつくっておく、このようにして鋳継いでいたものらしい。こうしてつぎの銅を鋳継でいかないと造像
  が進まなかった。頭部をつくるときは、その上のとこころまで土を埋めて、炉をこの上にもってくる造り方だったろう。天平17年(745年)に奈良の地で造り始められた大仏は、天平勝宝4年(752年)に開眼供養を行ったときは、顔の部分しか金は塗られていなかったといいます。
   このころ国産の銅は周防や四国のからわずかにでた程度で、大仏使われた銅はほとんど輸入品で、もちろん金も同様だった。ですから5丈3尺に及ぶ大仏像ができたのは非常に奇跡的だったのだそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

仏像と仏師の話:久野 健  学生社より

2009年9月24日木曜日

車いすダンス


おはようございます。
障害の有無を問わず、誰でも全身を動かしたい気持ちがあります。
このダンスを障害者の方々に提案したところ、何の躊躇もなく、待っていましたという
ことで開始されたとのこと。

夕方時に、閑静な道を車いすを押して散歩しているのをよく見かけますね。そういう
姿をみているものですから、どうしても、「車イスダンス」というのはどちらかというと、
押されて踊っている姿を想像していました。ところがまずダンスの開始のために整列し
たときから、呼称はスタンディング(一応介添えらしき人)、ドライバー(車イスを運転(うんてん)し
ている人(ひと))です。車イスの後ろではなく、隣にスタンディングの人は立って、ダンスが
始まると双方対等に、手を添える程度にして回りはじめます。
練習とはいえ、普段と違って服装も明るい色になっておしゃれな出で立ちです。
メロディはあの懐かしい、「リンゴの歌」「青い山脈」「上を向いて歩こう」、等の調べ
がなりだすと、すぐにも青春時代に戻った顔をしています。
ここは東久留米市ですが、開始以来9年を数え、今日は全部で7組14人、平均年齢は
65歳から70歳で、送迎のマイクロバスで西東京市からも4組8人も参加しています。
ここでは月に2回もあるのですが、月1度の送迎がやっとだそうで、とても残念なのだ
そうです。
会場の広さは40から50畳あるものの、ダンスの動く範囲が大きいいので、7組でも
丁度よい広さでした。
来る前はダンスだから、どうしても手助けが必要だと思われがちですが、元来未経験の
ドライバーの人も、すぐにも慣れて楽しんで踊れるようになったそうです。
松本さん曰く、ペアのみなさんは心が幸せ色になるので、身体にも自ずと豊かな笑みが
現れるのだそうです。
人前に出るのを嫌がる人も、練習では時々踊る順序の間違を自主的に正しながら頑張る
そうです。だんだんと上達してくると晴れがましい顔にもなり、介護施設等でも入居者
にも見せてほしいという希望もあって出かけるようにもなりました。入居者は見物する
だけではなく、座ったままでも手を挙げ、一緒に歌いながら動きだします。月1回だ
そうですが、心待ちする恒例行事になっているそうです。
小・中・高校生の前でも演舞してくださいとのことで年代を超えた交流になっていて
御礼の便りも沢山寄せられているそうです。
打ち合わせがあった席でも打ち解け、和気あいあいで楽しそうでした。

2009年9月23日水曜日

自力は一緒に育てる


おはようござます。ときたま植木に水遣りを忘れてしまうほどの涼しさです。
昨日は屋内でデジカメで撮影したもですが、フラッシュが奥まで届かないので、暗い写りになりました。
それを明るさを修正したら、人物の表情が見えるようになり、これなら使えるということで、カメラ屋で自動プリントしたら2分もしないでできました。

ココロの止まり木:河合隼雄

カッパ先生について:河合隼雄さんが高校の先生をやっていたとき、先輩で寺前弘之助という人がいて、頭髪がオカッパ気味だったのでカッパさんというニックネームだったそうです。

あるとき、カッパ先生はある男の生徒が、机の蓋の裏に小刀で彫り込みをしているのを見つけた。落書きする生徒はいたが、机に彫り込まれたものは消しようがなく、当時の感覚からすれば、これは相当な」「ワル」であった。
カッパ先生はすぐにその生徒に「放課後、職員室に来い」と叫んだ。
彼が職員室にいってみると、そこには彫刻刀と、木版のための板がふたそろい準備そてあった。
「さっき見たけど、おまえの刀の切れ味は相当なものや、おれも趣味でこんなことを」やっているけど、おまえに負けるかもしれん。ともかく一緒にやろうや」というわけで、カッパ先生とその生徒はふたえり並んで木版を彫ることになった。といってもすぐには完成しない。
「これから、ちょいちょい続きを彫りに来いや」というわけで」、ふたりは放課後に木版彫りに熱中した。カッパさんは説教はおろか、ほとんど話をしなかった。ただ彼の作品の出来映えに感心したり、感想を述べたりするだけだった。こうしてその生徒の生活態度はよくなった。
自分の高校教師のときは、熱心きわまりない教師であった。しかしそれは時に空転するのだ。カッパ先生のやり方は先生と生徒が肩を並べて仕事に熱中することだった。そこには表面的には関係がないようで、遙かに深い関係ができていた。そして深い関係を支えとして、生徒は自分の力で立ち直ってゆくのである。

2009年9月22日火曜日

仏像にも塞翁が馬


田圃の彩の 彼岸花でも白と赤はしっていましたが、黄色もあるのですね。

仏像は語る:西村公朝(仏像修復、):新潮社より

仏像はお堂の雨漏りから厨子の屋根から仏像に伝わって、仏像の中まで湿気が及ぶとか、
虫食い、長年の線香の香の煙、仏像の頭部の螺髪(渦巻き状)の谷間や台座の蓮弁や襟元
に信者が撒いた米に鼠がきて、仏像までかじってしまう。あるいは仏像の作りで多い寄せ
木つくり」の継ぎ目の剥離部分の修理がある。
お金もちの信者の多い寺は、くすんだ金箔やいぶされた彩色を直す意味で、カセイソーダ
や石鹸で洗い落してしまう。それがせっかくの修復が、文化財の対象にならなくナなるケースもあれば、田舎の貧乏寺で結局なにもできなくて放置されていることがある。一見仏像にとって不幸なようにみえることもあるが、傷んではいても、彩色がわずかに残っているとか、古い釘がそのままなのが貴重ということで重要文化財に指定されることもあるし、指定されたことによって参拝の方が訪れるようになることもある。いったいどちらの仏像が幸せだったのかと考えさせられる。
虫食いの修理には、今はまず殺虫して、穴の中のカスを出してそこに樹脂とか漆を注入します。

江戸時代などには、“渡り仏師”とでもいうような、旅から旅へと仏像を修理して歩く仏師がいたようです。修理してそのお寺で食わせてもらうことが出来る。

虫食いの穴を隠すために、手抜きで、紙を貼ったり、土を詰めただけ、補修する材木にしても持ち合わせがないので、お堂にあった古材や廃材を適当に使ったりしている。
このように修理はいい加減なのですが、修理記録だけは残されていてこれは貴重ですし、虫食いの穴ふさぎに土を詰めるのも、糊で紙貼りするよりも虫食いの被害が少ない場合もあって、文化財保護の観点からいうと役にたっているというおかしなケースもあるそうです。このように修理の幸・不幸があってなかなか難しいそうです。

2009年9月21日月曜日

思い出


おはようございました。30年前に住んでいた松戸市の馬橋駅付近までいってきました。住んでいたマンションや近くにあった消防署以外はほとんど変わっていましたが、
それでもいろんなことを思い出しました。生まれて満州の新京(長春)もいってみたかったのですが、手がかりは都市名以外にほとんどありません。住んでいた住所の足がかりが掴めれば一度いってみたいものです。

A-yan Tokyoの「震災が残したもの」   金 音田 1995年5月15日


阪神淡路大震災が1年経過し、ボランティアのSVA神戸事務所は寺を転々とし、長田区御蔵地区に提供されたプレハブに移転していた。
聞くところによると、そのプレハブは自動車部品販売会社「兵庫商会」を経営していた田中保三さんが提供してくれたのだと言います。田中さんは、震災のあと会社の建物と商品のほとんどを火災でなくし、その被害総額は約2億円にものぼっていたといいます。でもフランスから取り寄せたという頑丈なコンテナを組立て作った仮社屋でなんとか商売を再開させる一方で、震災直後にはプレハブを4棟ほど建て、ピース・ボートという団体や私たちSVAのボランティアのための事務所と宿泊施設を無料で提供してくれていたのです。
田中さんは朝日新聞の記事のなかでこう語っています。「ボランティアたちが集まっている場所を訪ねると、中心になっている若者が、忙しい仕事をこなしながら、笑顔をたやさず、用向きを丁寧に聞いてくれた。そのさやわかな笑顔と物腰で」なんともいえぬ安心感に浸ることができた。俺にないものがこいつらにはある。それまでは、これ売ってなんぼの生活やった。若者にあって、その生活は違うな、と痛切に感じた。
「こどものころは神戸はよかった」と、少々感傷的に」なりながら「夏は須磨海岸、秋から冬、そして春には高取山や須磨アルプスを駆け回り、アケビをとったり、ヤマモモの実をもいで遊んだ。イチジクやびわ畑のひろがる山腹の風景が、自然と密着した生活体験が、阪神大震災でよみがえってきたのかも「しれんな」と。

2009年9月20日日曜日

日韓の表現の違い


おはようございます。昨日は「車いすダンス」を見学してきました。車イスの人はドライバーとよび、立っているひとはスタンディングという呼称でした。車イスの人も押されて動くのではなく、
自分でスケートを履いたような素早い動きで、それぞれのペアの表情は楽しそうでした。

ココロの止まり木:河合隼雄より

韓国の若者たちが日本映画を観て、その影響もあってか、日本語で、「お元気ですか」というのがはやったり、「愛しています!」とあいさつ代わりにいったりするという話になった。しかし日本では恋人同士でも「愛してます」などといわない、日本人は直接的表現を嫌うので、もし恋人に「愛しています」などと言うと、むしろ本気でないと思われる。しかし韓国人は直接的な表現を好むので、はっきりいうのだそうです。これには日本側から反論があって、「今の若者ならいうのではないか」ということもあったが、参加者全員「若者」ではないので「雑談」の域を出なかったそうです。

2009年9月19日土曜日

修復の難しさ


おはようございます。修復は知れば知るほど気の遠くなるような、私をむなしくして出来ることなのでしょうが、下記の話は想像以上ですね。

平成おとぎ話:河合隼雄より

修復の難しさ
京都国立博物館のなかに「文化財保存修理所」があるそうですが、彫像、織物、絵画、文書など長い年月の間にあちこち痛んでいるのを修復する。海外の美術館からの依頼もおおいとか。現場は「粛」とした雰囲気が肌で感じられる。ひとりひとりが、極めて細密で、慎重さを要する仕事に向かっている。」その空気が即座に伝わってくるのだ。修復するのに、数年かかるのもざらにあるとのこと。
布に欠けたところがあると、その布の材質を確かめ、欠損部分の糸の織り目を数え、同じものを作って補修していく。なんとも気が遠くなるような仕事だが、それはもとの布を結果的に痛めることになる。そこで補修する布は、元の布より「少し弱い」のが」いいが、その加減が難しい、と説明されている。

2009年9月18日金曜日

頑張る姿


おはようございます。ノウゼンカズラが咲き終わったら、その下のほうから長い萩が手足をのばしています。よくあれだけの太さでもほどよく流の枝をたらしています。
珠玉編〕心にしみるいい話:第2集残された人

ありがとう、溝口  菅原順子(教員・32歳・仙台市)

溝口という生徒は、小柄でぽちゃりした、おさげ髪の女の子だった。
運動には縁がなかったようで、中学一年生としての走力、跳力、投力、が残念ながら身についていなかった。
走り高跳びをすると
バーの近くで止まってしまう。バレーボールをすると、ボールの落下地点に到着したときはすでにボールは地面に落ちている。顔面でレシーブしたこともしばしばあった。壁倒立の場合でも同じ。腕でささえきれず頭を打っても、手をひねっても、練習を続ける。周りが次々壁倒立ができるようになっても、結局中1、中2と努力した壁倒立は完成されぬまま、転校していった。溝口にできるようになる感動を味わわせた買った。結局何も教えてあげられなかったと後悔した。
そしてそのうち私は結婚し、妊娠し産休に入った。初めて子供と対面し感動し、幸せだった。しかし、そんな日々は長くは続かなかった。赤ん坊がおっぱいを吸ってくれない。
泣いてしまうと吸わせるどころでなく、おろおろするばかり、母乳で育てたいと思っていた私にはとてもショックだった。何日たっても事態はかわまかった。あせる私を横目に後から入院した人がどんどん母乳をあげるようになっていく。自分でも平成ではいられなくなっていた。情けなさと悔しさで夜もベッドで泣いた。
そんな時ふと頭をよぎったのが溝口の姿だった。どんなにできなくとも溝口はあきらめなかったじゃないか。溝口はいつも一生懸命だったじゃないか。頭に溝口の姿が浮かんでか、赤ん坊に泣き叫ばれても、おっぱい拒否されてもへこたれなくなった。
「今日がだめでも明日がある。また頑張ろう」と思えるようになってきた。それでも涙が出る夜は「溝口に負けるな、溝口に負けるな」と呪文のようにつぶやいた。
結局母乳をあげられないまま退院。「いつか母乳をあげたい」と思い続けて、おっぱいを吸わせる練習はやめなかった。
1ケ月後赤ん坊に吸う力がついたおかげでついに母乳を飲んでくれた。あきらめずにおっぱいを吸わせ続けることができたのも、できなくともあきらめずに努力し続けた溝口の姿だった。溝口の孤独だった痛みも同じ立場になってやっと分かったことだった。そしてそういうつらさを乗り越えて、逃げずに頑張る姿は何度も何度もマットや跳び箱に向かっていった溝口がどんなに素晴らしかったことか。私は体育の苦手な溝口にいろいろ教えていたけれど実はもっと大切なことを教えてもらったいたのは私だった、それもなにげなく、しかも心の奥深くに。

2009年9月17日木曜日

ただ一言すごいこと


おはようございます。民主党のマニフェストは素晴らしい。一番心配されているのは、本当に財源がしっかり考えられているのかということであるが、
官僚が調べ上げたデーターが漏れて、それを根拠にしているようでした。誰が作成し、どのようなものなのか、注目したい。それでもまだ心配ですが・・。

珠玉編〕心にしみるいい話:第2集残された人:小野一也:無職:仙台市全国新聞連合・シニアライフ協議会編

還暦を前にして、高校の同級生だった永井君と電話で話している中で青柳君の名前がでてきた。それで思い出したのは卒業した翌年だった。
いつものように夜中遅く帰る途中で、「いち」と呼んでいた同級生青柳信一君が事故に会った。女の悲鳴を聞いて自転車で近づいた君は襲われそうになっている女の人を助けようとして男に刺された。
危険を感じて見て見ぬ振りなど君にできる筈はない。「いち」、君の取った行動は正しかった。が一人残されたお母さんはあまりにもかわいそうだ。「いち」、そこから見えるか?お母さんは泣いていない。
悲しくないはずはないのに泣いてない。君のことを誇りに思っているから泣かないのだと思う。私も、私たち友人皆も君を誇りに思う。安らかに眠ってほしい。
 
私もしばらく呆然とさせた永井君の電話の内容とは・・・。
青柳君が助けた女の人があれから38年間、青柳君の命日に墓参りを続けているということであり、その女の人が「信一さんにすまないので」と結婚しようとしないことを知った信一君のお母さんが説得
して相手を探してやり結婚させた、ということであった。そしてまた、信一君のお母さんが信一君を刺した男に面会をし、差し入れを続けた、ということだったのです。

2009年9月16日水曜日

おとうさん


おはようございます。今はまだ肌がけと綿毛布ですが、ふと肌寒さで目が覚め、蓑虫のように中にくるまっています。もうそろそろ薄い布団が欲しいなあとも思います。


平成おとぎ話:河合隼雄より


「おとうさんのカゲが薄い」というのは何かにつけよく聞かれる言葉である。
日本童詩研究会編「おとうさん」理論社が出版された。関西の代表的詩人の竹中郁を中心に、井上靖、足立巻一らが児童詩の選にあたり、生み出した画期的な仕事であった。
昭和三四年から昭和37年にかけて児童詩誌『きりん』に掲載されたものだそうです。


たいこ橋 服部悦子(三年)

住吉さんへおまいりにいった
たいこ橋をわたる時
胸がどきどきしました
お父さんの手を
しっかりもちました
お父さんの手は大きくて
ぬくかった


スス    桑名寛一(五年)

ぼくの父は機関士だ。
帰ってくると、
耳やあごの下にススがついている。
でも、これは、
いっしょうけんめいに働いたしょうこだ。
でも、時々、
酒によって帰ってくる。


しんぱい   前田宗一(三年)

とうちゃんは
ねていても
おならをこかはる。
おきていても すぐ
こかはる。


よそへいって
おならをこかはらんか
しんぱいです


これと同様に『おかあさん』のもあるそうです。
ところで平成の『おとうさん』はどんな姿で
子供の目に映っているのだろう。

2009年9月15日火曜日

葛藤の有無


kattouおはようございます。駅までの朝の自転車で、半袖だと、袖口から涼しげな風が入ってくる。一日一日が秋に向かって深くなってきています。

平成おとぎ話:河合隼雄より

シンガポールは一見すると、「影のない国」にみえる。おそらくこれほど清潔な町は世界にないだろう。
町で唾を吐くとすぐ罰せられる。政府の凄い統制力のもとに、全員が美しさを保つために努力している。常夏の国なので「わくら葉」のない国だということを、同行の「立て花」のデモンステレーエション川瀬敏郎※が嘆いておられた。庭の手入れも徹底していて、少しでも葉が枯れ出すとすぐ取って捨ててしまうのである。
シンガポール大学でも話をしたが、「素直ないい学生」という感じをうける。

おそらく、あまり人生に疑問など持たずに、学業に励んでいるのであろう。
ところで、私の話をしたいもは、西洋近代の環境の中で、日本人がどれほど葛藤をかかえているか、しかし、その葛藤からこそ新しいものが生まれるのではないか、というような話を考えていた。川瀬さんの」「立て花」も極めて陰影に富んだものである。こんな影のない国はたまらないな、という気もしてくしるし、そもそもわれわれの話やパフォーマンスが、この人たちに意味あるものとして受け止められるだろうかと心配になってきた。欧米の人たちには今まで何度も話をしてじたし、反応がどうなるかもおおよそ予測できる。
川瀬さんは強い人で「駄目なら駄目でいい」位の腹をもっていないと新しいことはできないと思っているようだ。
ともかくやってみた。ところが思いの外に反応がいい。これは話をしている間に感じとることができる。それに質問も非常にいいものが多かった。「河合の話を聞いてわからなかったことが、川瀬の演技をみてわかった」というような発言があって、我々は驚いてしまった。
私はもっぱら成長に向かっている国で「生きることも大事だが、死ぬことも大事」というような話をしたのだ。しかし彼らは意味あることとして受け止めてくれた。
その後のパーティである一人の方が「政府は政府で。どんどん、近代的合理主義に政策をすすめている。それはそれで結構だが、むしろ多くの民衆はそんなことと関係なく、自分の東洋的な生を生きている」といわれたのが
印象的だった。
川瀬敏郎※http://www11.ocn.ne.jp/~kawase/

2009年9月14日月曜日

落下の2種類


おはようございます。花屋さんが喫茶もやっている「夢空間」にたち寄ったら、テーブルにバラが置いてありました。葉も青いので、このバラは青色に染めたのか、青い水を吸わせたのですかと聞いたら
今朝着いたばかりですが、そのもの色ですとの説明でした。本当にこういうバラがあるのですね。

「落とされた」と「落ちた」
文部省の主催する「洋上研修」というのがあって、これは新任の小、中、高の教師で全国
から選ばれた人を対象として、豪華船にのって寝食をともにしつつ研修するものであった。(今でも続いているかどうかは分からないが、豪華船とあるのでバブルの時ではなかったのか)

講師は元広島カープで「鉄人」といわれた選手で衣笠祥雄さんである。
自分の体験を踏まえ、実に迫力のあるものだった。その話のひとつは選手になって3年目、期待に反して2軍選手として登録されたときのことである。
もちろん残念に思ったが、そのとき衣笠さんが気がついたのは、1軍から2軍に「落とされた」と思っている人と、「落ちた」と思っている人がある。「落とされた人」は必ず弁解があるし、時には恨みもある。自分は1軍にいるべきなのに、というのであれこれ言いたてながら、1軍に「あげてもらう」のを待つ。どこかで頼むことになる。
これに対して、「落ちた」と思っている人は、2軍に落ちている間になすべきことを、自分でよく知っている。「投球フォームがバラバラに」なったので立て直す」という選手もいるし、打者は打者で自分にとって課題をよく知っていて、それに取り組んでいる。なぜ落ちたかとかんがえることは、何をなすべきかという課題を見つけることになるし、努力の目標がある。
衣笠さんが多くのことを話されたが。ひとつの大きいポイントは「目標」をもって努力することがいかに大切かということであった。目標なしにただ頑張ろうでは、努力のカラマワリになるということでした。
2軍に落ちた衣笠選手は、自分の打球の「飛距離をのばす」という課題に取り組み、1年間の努力の結果、1軍にあがり、後は栄光への道を歩んで行く。一朝一夕のことで道が開かれるはずがない。
日本のことでも、二軍落ちになった日本人は「個性を尊重する」「個人の能力を最大限に伸ばす」ことだと思っている。これまで、日本人は全体として力を発揮することに成功してきた。しかしこのような在り方は、個人、とくに傑出した能力を持った人をおさえる形でなされる傾向が強かった。個人主義と利己主義の区別がつかなかったのだ。この点を自覚して子供の個性を伸ばす努力を重ねていくと、遠回りのようだが日本はしっかりした足腰をもって一軍で活躍できることになるだろう。

2009年9月13日日曜日

プライバシーの感覚の違い


おはようございます。久しぶりにシャワーでなくて、湯船に温めのお湯につかってみました。お風呂から上がっても汗もかかないのでした。
プライバシー Privacy(再放送):クールJAPAN
Bshi 9月8日(火)午後10時00分~10時44分
BS1 9月13日(日)【12日深夜】0時10分~0時54分
今回のテーマは「プライバシー」。日本には古くから「向う三軒両隣」といった
隣近所を家族同然のように親しく付き合う文化がある。
しかし近年では、個人情報保護法の施行、IT化などに伴い、プライバシーを重要視するようになった。
世界各国ではプライバシーはどのように考えられているのか?
日本的プライバシーはCOOLなのか?「家族」「仲間」「社会」の3つのカテゴリーに分け、実験を交えながら、外国人の討論を通じて日本のプライバシーはどうか。

子供の就寝方法ですが、西欧人は子供は2歳以上は別室で寝かせ、夫婦関係を大事にする。日本人なら夫婦の会話は子供が寝てからとか、日本人のある人が12歳になっても寝ているとの話を聞いてびっくり、但アジア人であるしシンガポール人の女性は10歳位まではあるそうです。この辺が文化の根本の違いのようです。

会社での上司と部下はお互いにそのプライバシーをしっている(結婚の馴れ初め、小遣い等までも)、フランス人の人が言うには会社での健康診断(体重、身長、その他)まで上司が見られるようになっているのは法律違反だそうです。

初対面同士の15分間の会話のテストをしているところを見ると、外人同士の場合ではプライバシーに触れず、どこの国の出身ですかなどと、どこそこの何が美味しい。では教えてとメール交換までしてしまう。プライベートまで知らなくても、うちとけることができるが、日本人同士は天気の話など以上に踏み込まないし、会話が途切れがち。しかしどうも日本人はプライバシーをお互い知らないと、仕事面でも、体調や家庭の事情まで知っていないとうまくいかないようだ。
学校の連絡網まで難しくなっているが、イタリアの人の発言は、電話番号は連絡の手段だから、問題にしなくともよいのにということであった。

米国人と日本人での比較をみると、裁判で当事者の写真、宝くじの当せん者、テレビで無関係な人の顔をモザイク模様にすることはないが個人のプライバシーの守り方としてはよいという発言もあった。それぞれ文化の違いによってプライバシーの受取方が随分にちがっていた。

2009年9月12日土曜日

報道の義務②


おはようございます。綾のために、食事の用意されていたのが、残念でしたね。
コスモスの花が咲いています。最近は濃いオレンジ色が盛んです。好きな色はやはり薄いピンクとか白とかが似合い、それが群生しているのが良いですね。」

昨日の続きになります。
 9/11は8回目の多発テロの日でした。オバマ大統領もグァンタナモ基地にあるイラク人の収容所の処理問題に苦労しているようですね。
パレスチナ人のとある村で1月前、銃撃事件があり、その事件の理由はイスラエルのユダヤ人が自分たちの土地を奪ったことに抗議するストライキの計画があった。そのストライキの前夜に襲撃沙汰があったのだ。家族を失った遺族に取材させてくださいといった途端に年輩の男性が顔をあげ、「あんたジャーナリストなのか」「はい」その人は叫んだ。「なぜ今頃になってのこのこやってきたんだ!
あんたがいなかったから、息子は殺されちまったじゃないか!」広河氏は絶句した。その人はなおまくしたて、「あんたがいれば銃撃事件なんか起きなかった。報道されるのをおそれて、かれらは銃を打たなかったはずだ。なぜもっと早く来なかったんだ、なぜもっと早く」広河氏は返す言葉を失った。それまで広河は起こったことを知らせるのが報道の仕事だと思っていた。しかし老人の言葉で目覚めた。それは戦争がおこりそうな場所は、みずからの命を危険にさらすことを意味していた。恐れはあった。しかし、「逃げるわけにはいかない」と広河は思った。
  イラクで米軍が戦車で封鎖を行っている場所での出来事は、米軍兵士もイラク人の言葉もわからないのだが、イラク人も英語はわからないのだし、イラク人は車を降りろといわれ、まったく理解できないのに、迷っていたのを不審な行動と誤解して米軍の兵士の機銃掃射を受けた。男性は生き残った子供と妻とともに、米軍の病院に一時搬送され、しかしすぐ見捨てられた。こどもは死に、男性は両足を失った。男性はいった、犬だってあんなひどい扱いはしないはずだと。
大手のメディアはミサイルが発射されたところは映像をながすが、その着弾しているところは報道しない。本当はそこにこそ、戦争の本質があるというのに。
戦争は恐ろさから逃げる意味で発砲することの連続で怖さを克服すると思われるのだが、敵味方は同じ思いだから終わりを告げるのはいく所までいって終結するには厭戦に至らない限り難しい。そのために雑誌『DAYSJAPAN』を発行し戦争の抑止力にしたいとの活動を続けている。また生き残った難民キャンプの里親運動も行っている。広河氏は戦争の真実を知ってしまった以上「、使命とは全く別に戦争でもたらされた人々の苦しみと無関係に生きることは僕にとって不可能なんですよ」といっています。

2009年9月11日金曜日

報道の役割①


おはようございます。診療内科などの医師は産婦人科の成り手が少なくなっているとか問題になっているが、昔から不足していて、患者は相談時間をながくとってもらいたいが、診察時間が分刻みなのだそうですね。
診療後に携帯電話で状況を教えてくれるなんて、やはり親切な医者ですね。

平和への思い感動ストーリーズの9
広河隆一:戦争を見つめ続けて

広河氏は早稲田大学卒業後、ドキュメンタリー写真を撮るサークルを立ち上げた。初めて撮影したのは盲学校に通う生徒たちの職業訓練や授業の様子だった。出会った少女が描く絵に心揺さぶられた。
その絵は眼の大きな女の子がかかれていた。学生運動もやっていたが、卒業後一冊の本ユダヤ人の国・イスラエルの歌い文句は『平和に平等に暮らす生活共同体・キブツ』という理想社会であった。
いったい苦しみ抜いたユダヤ人が一体どんな国をつくったのだろうと『キブツ』に渡って体験することに挑戦した。
『キブツ』で暮らしはじめて2週間後。ユダヤ人とイスラエル周辺のアラブ諸国との戦争が始まった。懸命に前線で塹壕掘りまで手伝った。
やがて戦闘もおわった。ユダヤ人たちの大勝利だった。ユダヤ人たちは自分たちこそ正義であると声高に叫び、勝利に酔いしれていた。1943年満州生まれの広河は命からがら45年の敗戦のあと
に大変な苦労で引き上げてきた。その経験からいって「勝とうと負けようと、多くの苦しみを生み、多くの尊い命を奪うのが戦争だ。戦闘によって命を奪ったことを喜ぶなんておかしいじゃないか」
広河氏の考えは理解される筈もなかった。いつのまにか私は戦争に力を貸していた。まもなくイスラエルが占領した東エルサレムを訪れた。
いたるところ戦争の生々しい傷跡が残されていた。サボテンが生えている場所はパレスチナ人の住跡で、もまだ『キブツ』の名前ではなく、パレスチナ人の村の名前だった。どうも『キブツ』を理想社会と
呼ぶには失望を覚え日本に戻った。

広河氏は6年ぶりにイスラエルの地を踏んだ。続く

2009年9月10日木曜日

人蕩らし


おはようございます。大阪弁は語彙が豊富ですね。田辺聖子さんの「楽老抄」より

人蕩らし:大阪で古いシャレ言葉に<乞食のシラミ>というのがある。そのこころは<口で殺す>というのだそうです。
うまいこというて、人を丸めてしまう、という意味を含むが、司馬遼太郎さんの<人蕩たらし>は、そんな軽薄なものではない。心にもないことは決していわれない方だった。人がとろっと蕩らされてしまうのは、自分がひそかに自負している点を指摘されるからである。(わかってもらえた)といううれしさに思わずとろけてしまう。
実をいうと司馬さんにたびたび、蕩らされた。<お。綺麗な服やな>・・・小説をほめられたのではなく、恥ずかしいが、うれしいのは一緒だった。
司馬さんのお髪はかなり若いときから白かった。私はあるとき、<髪はやっぱり、卵の白身かなんかで洗いはるんですか>ときいた。司馬サンは一瞬かんがえこまれたが、かたちをあらためた風情で、あんたなあ、・・・・ぼくはあんたのこと、かしこい子や思うてた、昔からなあ>    <あ、ハイ>
こういう言葉を聞くのは嬉しい。まして司馬サンにいわれると。私はニコニコする。
<そやのに、なンでそんな阿部保なこと、きくねん>ー司馬さんが亡くなられて私はいうまでも悲しいが、このときのことを思い出すと、ふと取りはずした微笑が唇をのぼってくる。死後も笑わせる、ということほど、すてきな人柄があろうか。
私の医者をしていた夫のことをほめて仙骨①とか、国手②とかほめすぎなことをいうこともあった。
夫カモカのおっちゃんなあ、あんた、そんな顔ぶらさげて会津にいったら、どやされるで。<戌辰戦争の怨みは深いとってな>   <現在でもですか?>   <いまでもや>
後に友人たちと会津へ旅行したとき、私たちは迷路のような城内の道を楽しんでいたが、夫は早々に切り上げてバスへ戻ってしまった
<司馬さんがどやされるデ、いいはった>とかたく信じ込んでいるのであった。
① 仙骨:世俗を超越した骨相。非凡な風采。
② 国手(こくしゅ):名医のこと

2009年9月9日水曜日

藤沢周平のこと


おはようござます。

田辺聖子さんの藤沢周平の尊敬ぶりは相当なもので、このように褒めっぷりがすがすがしい。

楽老抄:ゆめのしずく:田辺聖子より

田辺聖子さんが昭和四九年頃に私の故郷は山形県鶴岡市で講演会があったときに、藤沢周平に出会っている。
その時「すべってころんで」という本をだして、そのときの挿し絵の斉藤真成画伯だった。この斉藤画伯が鶴岡は「あれはよいまちでありますよ」という自慢なさったまちをモデルにした。ほんとうに典雅で品のいい美しいで私もたちまち好きになった。
講演会のあとの宴に、藤沢さんとひとこと、ふたこと話を交わした。鶴岡に関することだったと思う。私が黙ると藤沢さんはいつまでも黙っておられた。しかしそれは無愛想にも不機嫌にも思われず、つねにやわらかい和気が幾重にもの波となってこっちに押し寄せてくる、という感じであった。宴がすすんで、地元のことゆえ、旧知の人々が次々に藤沢さんを囲んだ。藤沢さんは微笑を浮かべ、その都度、髪がはらりと垂れるほど、丁寧に叩頭をされ、ときには叩頭も忘れて、おお、とあべこべに身を反らせる知己もあった。ふるさと皆有情、見ていてもたのしくなる雰囲気だった。謙抑※であり、情の濃さは抑えようもなく匂いたつような、藤澤さんのたたずまいだった。
藤澤さんの作品の登場人物には謙抑の芯と、情の濃さと感じるように思った。この2つは相反するようだけれども、人間がもっていなければいけない核のような気がする。それは日本民族の郷愁のようなもので、藤澤さんのお作品(おをつけています)を多くの人が好もしいと思うのは、日本民族の佳さを人々が失っていない証拠である。藤澤さんの一番好きな作品では「一顆の瓜」です。これはお家騒動とき大活躍をした侍二人、いくら待ってもご加増とか、ご褒美の沙汰がでない。そのうちご家老から真桑瓜が1個ずつおくられてくる。冷やして一家で食べ、それはそれで美味だったが、しかしその後もとんと音沙汰がない。あの瓜がご褒美だったのではあるまいな、と侍二人は首をかしげあう、というもの。いま読んでもやはりたのしいわらいがホノボノと読者を包む。藤澤さんのお作品は人のウッカイをほぐすような明るさと暖かみがあるが、それは氏が人しれず隠し持っていられるユーモアやお茶目なこころから出るのであろう。藤澤さんの訃報を聞いて92歳になる私の老母は、あの一緒にいった鶴岡で宴にも同席の招待されていたので、たったいっぺん、あの席でお目にかかっただけのご縁ながら<物静かな佳えおひとやったのに・・・>と悲しんだ。”佳えおひとやった”と何十年もの間記憶されるようなお人柄から、あの物語りこの物語が紡ぎ出されたのだ・・・・・と思ったりした。

※謙抑:へりくだって自分をおさえること。「常に―を心がける」

2009年9月8日火曜日

KATADUKE


おはようございます。家のなかが綺麗に片付いたらとても気持ちがよいだろうなと思う。ちょっとは片付いたと思っても物が増える速度は速いですね。
あなたの戸棚に収納されているもので半分は使われていない。ものを捨てる技術というよりも、継続する意思の有無なのかもしれないともおもいます。

ものを捨てれば掃除の手間の40%は省ける。もし掃除をプロに頼んだ場合、掃除をするために準備する移動の仕事にお金を払っていることになるのだそうだ。掃除費用の見積もりをする場合に、広さに比例するように思うが、掃除をするために、移動するスペースによって能率がちがうので、そのスペースの余裕にあるとのことです。
実際に掃除をする時間と、その掃除をするために移動する時間はなんと三倍なのだそうだ。
カミなどのゴミはゴミ箱にいれるが、それ以外の物品・つまり捨てる予定の整理箱を用意しておくとよいのだそうです。

2009年9月7日月曜日

夕焼け小焼け


おはようございます。友人の今朝の一句は

みの虫の
  命の綱を
       風あふる
叔母の難病の連れ合いが「ゴエン」で肺炎になり高熱をだし緊急入院しました。あのICU治療室にいると、叔母さんの心境もそのようだったでしょう。今は熱は熱も下がり、穏やかな状態になったのはよかった
とおもっています。

夕焼け小焼けの歌:「小焼」を敢て辞書で引いてみますと、広辞苑でものっていません。
「夕焼け小焼け」でも同様でした。

実際はどういう意味なのでしょう。夕焼けではあるが、雲が多く、ごく一部しか夕焼け
部分がないという意味なのでしょうか。
この美しい夕焼けと、山のお寺の鐘とねぐらに帰る烏のとりあわせは、日本のどこでも
見られた光景であり、その故に人々は「赤とんぼ」や「朧月夜」や「故郷」同様、自分
を生み育てた故郷の歌として懐かしむ。日本の各地に十何か所か「夕焼け小焼」の歌碑
が建てられているそうです。
私たちの村にも古いお寺があり、鐘楼もあったが、鐘の音を聞いた記憶はない。鐘の音
が小さかったのか、遊びに夢中になっていて聴きそびれたかしたのであろう。
事実作詞者の中村雨紅が晩年に「どこで、どんな場合に作詞されたについては、35年も
前のことで・・・どうもはっきりした覚えはありません」と語っているように、日本中
の田舎の全てにつながるのだろう。

日本の歌、ふるさとのこころ:由井龍三:春秋社。より

2009年9月6日日曜日

縄文時代の土偶など


おはようございます。昨日はきらっとシニア倶楽部の特養のヘルパーさんをやり、97歳の母上は認知症、
御主人は脳梗塞で後遺症で高次脳機能障害だそうで、あまりしゃかりきにならずに、やっているそうですが、
大変なことをやっています。とても優しく、明るい人柄です。その人の話は介護特集になりますので、取材しました。

梅原猛[日本の深層]から
マタギ:岩手県北上川の支流和賀川をさかのぼり、碧祥寺博物館はマタギ関係の資料がそろっている。
おそらく縄文の遣民とかんがえられ、おそらく大昔から日本の山々に自由に出入りして狩りをしていた縄文の遣民にちがいない。
しかし農耕時代の到来とともに、そのような自由が認められなくなる。熊の肝といっても疑わしいものもあったがらしいが、
この地方といい、富山といい、薬売りが多い地方は縄文文化の栄えたところであるのも偶然ではないそうです。

土偶の多くは、どこか体の部分が破壊されている。完全な土偶が出土した例はまだないという。五体完全な土偶があるとすれば、
それはむしろ偽物なのである。たいていの土偶は足がない。何のためか。私はこれは、土偶に象徴される死霊がふたたび生き返って
くるのを阻止する為であろうと思う。土偶の顔は、まことにおかしい顔である。極端に顔が扁平であったり、目が極端に大きかったりする。
とても人間のリアルな模造とはいえない。土偶のほとんどは女性であるといわれている。たしかに多くの土偶は豊かな乳と臍と女性のセックスを持っている。

みてみたいのは青森県立郷土館の風韻堂コレクションの土器1万点です。http://kyodokan.exblog.jp/7944341/

2009年9月5日土曜日

三多摩は一つの国の規模&人口爆発だった。


おはようございます。日本の国土は狭いように感じますが、なかなかどうして三多摩だけで一国に匹敵する人口があるとは思いもしませんでした。
日本も結構大きな国なんだという風に思えてきました。我々の「きらっとシニア倶楽部」主催で多摩・武蔵野を知る講座を開きました。
地元を知ることによってそこが好きになり、第二の故郷になるのだという目論見でしたが、たしかにそうでした。


多摩・武蔵野講座
2009.9.4於西東京市コールセンター
講師:保坂一房たましん地域文化財団学芸委員(たま信用金庫)

三多摩は都下の30もの市町村で構成されている。


【人口比較】
人口は400万人にも達する。この人口は、福岡県についで第10位であり、世界で比較
すると、アイルランド(397万人)、ニュージーランド(402万人)、香港にも相当する。
23区と比較すると、世田谷区84万、練馬区69万、大田区68万、江戸川区は67万、
足立区は65万、杉並区は53万、板橋区52万、江東区44万、葛飾区44万、町田市41万、
とばして港区21万、渋谷区は20万、わが西東京市はほんのわずかですが、19.29万、文京区の19.27万より
多いのです。

【人口推移】50年前の、1955年に100万→1966年には200万、→1976年300万、2003年
400万人になっていいます。地元人口の3倍になるのに、20年であり、4倍になるのに、
50年しか経過していない。こうみると他所者が多いし、その融和策としての
小・中学校や水道問題などで、場所がなくなったので丘陵部分の多摩ニュータウンや小河内ダムなど地元は受け入れに相当苦労したそうです。
【変化に富む地形】
武蔵野台地が広がる多摩東部(武蔵野市・調布市など)―――台地とハケが特徴的な
北多摩(西東京市、小平市など)
多摩丘陵が連なる多摩南部(八王子市、町田市など)―――丘陵と谷戸が織りなす南多摩
関東山地の一角をしめる多摩西部(青梅市、羽生市、奥多摩町など)――風光明媚な多摩
西部

【時代の移り変わり】
・現在2009年
  地球温暖化、 携帯電話・インターネット、少子高齢化、国際宇宙ステーション「きぼう」
・50年前――1959年(昭和34年)
  ご成婚パレード、岩戸景気、キューバ革命、高度経済成長
・100年前――1909年(明治42年)
  伊藤博文暗殺、生糸輸出量が世界一、1等国、1910年は大逆事件、韓国併合。
150年前――1859年(安政6年)
 神奈川・長崎・函館が開港、吉田松陰刑死、 尊王攘夷、 1860年は桜田門外の変

http://www.kaikou.city.yokohama.jp/anniversary/index.html
http://madconnection.uohp.com/mt/archives/000796.html
http://www.yushodo.co.jp/pinus/59/library'santiq/contents2.html

2009年9月4日金曜日

自然エネルギーで戦争をなくせるかもしれない


おはようございます。弓の仲間が旅行会社の企画で東海道53次の旅を始めたそうです。東京駅集合で、第1回目は出発は日本橋から品川まで
次回は川崎までだそうで、バスで次の出発地へ、遠くなると新幹線での旅で1年以上かかるそうです。1回目は国道1号線沿いなので、騒音がかなりあったそうです。
結構人気があって10年も続いている企画だそうです。

NHK<プレミアム8> 未来への提言 エネルギー学者 エイモリー・ロビンス~世界をエコにデザインする~
BShi 9月3日(木) 午後8:00~9:14
世界のキーパーソンに徹底インタビューする「未来への提言」
今回は、アメリカの著名なエネルギー学者で環境問題のシンクタンク、ロッキーマウンテン研究所創設者のエイモリー・ロビンスさん(61)。
いま、世界では環境に配慮した「グリーン経済」への大転換が始まっている。自然エネルギーを使い、化石燃料をなるべく使わない新しい社会のシステムのコンセプトを、今から30年前に発想し、世界に提唱し続けてきたのが、ロビンスさんだ。
「少ない資源でいかに豊かに暮らすか」というテーマのもとに数々の研究を行い、世界20か国の政府の政策アドバイザーを務め、ウォルマートや米軍など巨大組織の環境コンサルタントを歴任。現在は、アメリカの象徴たるエンパイアステートビルのエコ改修にもとりくんでいる。あらゆるモノや建築、社会を「デザイン」し直すことで、人類全員が快適で便利な暮らしを実現できると挑戦を続けるロビンスさんに、環境と経済が両立する新しい時代について話していました。
インタビュアーは、国立環境研究所温暖化リスク評価研究室長 江守正多さん。

このエイモリーさんが言われるのは、自然エネルギー(風力発電、太陽光パネル発電、地熱発電)を利用して、自動車のハイブリッド車は電気を蓄電しておくことができるので、各家庭と協力して、電力会社への供給や、受給の両方が出来るシステムが進行中であり、トウモロコシなどの植物から自動車の燃料を製造したりして、ゆくゆくは石油利用のウエイトを0にすることもできるようにデザインされている。これも進行中で軌道にのれば、石油戦略によるエネルギー源確保のための中東まで出て行って米国による統制の必要もなくなると、そうした関連の紛争に巻き込まれることもなくなるし、CO2による地球温暖化への効果も大である。それは平和への道にもつながっているとのことでした。
日本においては自然エネルギーもおおいに利用できる環境や技術的にも優れているが、独占されている電力会社は、エネルギー革命のチャンスであるのに、安閑として、市場での競争を嫌うので規制をゆるやかにし、自然エネルギーを積極的に利用されていないのは大いに残念だそうです。

中国と米国で世界のエネルギーの40%を消費していて、エコにあまり積極的でないと思っていたが、両国
も結構実施に移していて、米国の国防省の予算の大半は遠国への輸送費なので、使い放題だった飛行機の液体燃料に天然ガスも混ぜてコストとCO2削減を図っているそうです。

2009年9月3日木曜日

病院の始まり&介護と看護


おはようございます。何気なく、どうして看護でなくて、介護という言葉が登場してきたか、そういう疑問も湧かないまま過ごしていました。
そんな疑問を解消してくれた本 三好春樹著「老人介護 常識の誤り」という本でした。
病院の始まりは野戦病院である。そこは死を待つ場所だった。抗生物質のない時代に病人とケガ人は感染の予防も治療もできず死にいたった。医師にできることはわずかの治療だけだった。それも現在の知識レベルでは効果があるとは思えないような薬が与えられていただけだった。しかし看護には有効な方法があった。安静を保ち、栄養を補給することである。安静と栄養と”治療”を受けた暗示によって、回復力のある運のよい若い患者は治癒することができた。当時の看護職は安静技術をもっていればよかった。栄養を補給することを考えればよかった。だからいまだに老人に鼻からチューブで栄養を摂取させようとし、チューブを老人が嫌がって抜いてしまうからといって手を縛って安静を強制してしまう名残がある。それが老人を寝たきりと呆けに追いやってきた。そういった方法論だけでなく、問題となるのが、医療者、看護職の頭のなかで「安静を必要とする病人」というイメージが固定されてしまったことにある。人間を元気・病気という二種類に分類してしまうまなざしができたことにある。生か死かが問われる野戦病院やかつての結核療養所ならこの二元論は通用したが、近代医療の飛躍的発達でこの二元論が崩れはじめ、かつては死に至った病気が治癒できるようになった。<病気>から<元気>に戻る人も増えた。

病気と元気の間に身体障害や老化を持った人たちが増えてきたことです。
旧態依然な体質の看護体系のところでは、すでに患者ではない障害老人を安静のなかに閉じこめようとして手足を縛ったりした。そこにリハビリという救世主があらわれた。理学り療法士や作業療法士は希望の星だった。リハビリさえやれば手足の麻痺は治り、寝たきり老人は立ち上がり、老人問題はすぐにも解決するかに期待された。そういった過剰な期待があっても老化を止められるリハビリはあろうはずもない。
結局二元論ではなく、大部分の人は元気と病気の間にある。その間には健康不安、心の不安、老化身体障害、慢性疾患、精神障害などもある。とても多様性と個別性をもった人たちのニーズに安静看護という画一的な方法が通じるはずがなくなっていた。安静看護は病気の急性期と病院のICU(集中治療室)といった特殊な空間でのみ通用するものになった。そこで介護が登場したのは単に高齢者が増えてから必要とされるようになったのではなく、人々の抱える問題が多様化、個別化した現代のニーに応えるために必要とされているのである。介護の必要なのはマニュアルではなく想像力と創造力だそうである。

2009年9月2日水曜日

防災の最前線


おはようございます。防災については、火災については世界共通で、いろいろ対策がなされているようですが、地震のない国や、広い国アメリカでもカルフォルニア以外の州では関心
が薄いようです。

BSHIのNHK9/1pm10:00から10:40COOLJAPAN(再放送は6日0:10は5日の深夜)
COOLJAPNはかっこいい日本という意味だそうですが、昨日は「防災の日」だったのでそのような特集をしていた。外国人を集めて今回は防災対策について意見を求めるものであった。

防災への関心が高い日本人。家庭に家具転倒防止アイテムや避難グッズを常備している国は世界でも珍しいそうです。
地震に備え消防隊も、ハイテク設備を備えている。、、人が近 づけない。番組では防災の日にあわせて、世界最先端をゆく日本の防災事情が特集されていた。
【参考になった点:】
●防災用品は屋内の玄関などにおいているが→車の中に家族の写真と緊急連絡先もいれておく。
●小学校では毎月机の下にもぐる訓練このとき防災頭巾をかぶるようだが、ヘルメットの方が良いように思う。
●1番目が家具倒れる、2番目に多いのがガラスの破片散乱(屋内の家具のガラスも含めて)のでこのガラスにシートを貼っておく(但し屋外が見えない)
●防災フード;これは50cm角の透明ビニール袋で、火災が起きたとき、煙にまかれるので、この袋を膨らませてかぶり、5分は大丈夫だそうです。
●茨城県の土浦市にある工務店(ネットで探しても分からず)は3cmも家を空中に浮かせ、地震時の揺れは0.5秒で対応、20分の1で、震度7位でもゆうゆうとお茶を飲める
●少量の水で鎮火できるウオーターミストを搭載した二輪車「ミストドラゴン」
●危険な現場で作業する無線型消防ロボット「ロボファイター330」
●犬によるものもあるようですが、瓦礫の下にいる人を探し出す人命探査レーダー「レスキュースキャン」