2009年9月25日金曜日
奈良大仏の造り方
おはようございます。作夕の空に何百羽の群れが北の空へ向かって飛びさっていきました。高く飛んでいましたのでどういう鳥であったか判別できませんでした。
大仏は8回に分けて鋳造したと書かれています。聖武天皇※、が紫香楽宮(離宮)で大仏造ろうとしたのは、一つは沢山の燃料がいることと、技術上高さが必要で
山ぎわでなければ鋳造できないということが分かったからだそうです。東大寺の場合も山が大仏殿のあたりまでせまっていたからだそうです。8回鋳造したので、そのたびにだんだん炉が上の方にあがっていかなければならなかった。まず大体の仏像を土で造っていきます。それから別の鋳物土をあてがって型をとって、原型の銅の厚さだけ削り、さっきとった外型をそこにあてがうと、そこの間に空間が出来るので、そこに銅を流し込む。ところが銅は始末が悪くて、一回流して、その次に新しく型どりしたところにまた銅を流しても、前の銅とうまくくっつくわけではない。いったん冷めたてしまったものはくっつかないので、あらかじめ、はじめの型につぎをながす銅が流れ込むような穴をつくっておく、このようにして鋳継いでいたものらしい。こうしてつぎの銅を鋳継でいかないと造像
が進まなかった。頭部をつくるときは、その上のとこころまで土を埋めて、炉をこの上にもってくる造り方だったろう。天平17年(745年)に奈良の地で造り始められた大仏は、天平勝宝4年(752年)に開眼供養を行ったときは、顔の部分しか金は塗られていなかったといいます。
このころ国産の銅は周防や四国のからわずかにでた程度で、大仏使われた銅はほとんど輸入品で、もちろん金も同様だった。ですから5丈3尺に及ぶ大仏像ができたのは非常に奇跡的だったのだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
仏像と仏師の話:久野 健 学生社より
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