2009年5月31日日曜日

キャスターの難しさ


もう梅雨入りかなとおもわせるような気候で、寒暖の上下運動があり体調保持は人一倍気を使いますね。

インターネットがこれだけの広がりを見せると、おそらくは今はテレビあるいは新聞を通じてニュースを見る人は少ないでしょう。しかしテレビのつよさは何と言っても映像です。9.11の飛行機がツインタワーに突っ込む映像は最初は生生しいが、何度も繰り返されると、本質にとって代ろうとして不安だった。イラク戦争の従軍記者がリアルタイムでリポートするが、これはアメリカの目によるもので、イラク人どうなのか、自分たちには生中継の手段がない人々はどうなのか、しっかりした意識がないと画一的な映像におしつけられてしまいますと。

新聞にはテレビにない、一面トップ、三面記事、4段抜き、ベタ記事などの扱い方で記事の軽重評価がわかる。民放のテレビでこの新聞を画面いっぱいに見せるのも、新聞の一瞥性の良さを利用して補っている。
テレビやパソコンは相当に進化しているが、土台となる「言葉」をも進化させないと、物事がよく伝わらない。

インタビューで曖昧なことを訊くと曖昧な答えしか返ってこない。具体的に訊くと具体的に返ってくる。
海外のニュースを見るとき、自分が取り上げたテーマについて、キャスターがどういう訊き方をするかを見ていると、その訊き方でその人のテーマの扱いかたが分かる。
国谷さんがつらいのは、ほとんど取材にいけないことだという。

問う力、長田弘・連続対談(NHK国谷裕子部分)みすず書房

2009年5月30日土曜日

うねりはサポーターから


おはようございます。スポーツの内でも国際試合などをみて思うのは親が子供の運動会を見ているようなところがあって、試合の結果とかよりもハラハラどきどきを感じて冷静にみることを忘れてしまいます。

サッカーの場合、エンターテイメントを見て「お金を払うからそれなりのものを見せてよ」という人達がファンで、サポーターはそうではなくて、自分たちのチームに「ホーム」に強い愛着をもっていて、一緒に戦い、悲しみ、喜ぶものだという前提があります。この点サッカーは他のプロスポーツと違うということがあるのだと思います。観客が皆ファンばっかりだったら「ホーム」の威圧感といったものはないという。あの場内をめぐるウエーブなどを見るとそう感じますね。テレビでみてもそれがウネリとなって聞こえてきますね。
ちょっと前までは人間は、何をやっても適当に生きてゆける。こうなるとただ生きているという家畜どうようの状態になっている。徹夜してならぶのも自分の居場所を確かめるためなのだ。イタリアの場合、試合中はみんなテレビを見ていて、勝った瞬間、一斉に家を出てドーモの前に行く。日本ではそういう広場がないので、スタジアムのスクリーンでも応援するしかない。それでもこれほどの応援もきっと頼もしくなるでしょうね。

問う力、長田弘連続対談(岡田武史部分)みすず書房

2009年5月29日金曜日

熱い日韓戦


日韓戦は野球でも、サッカーでも好敵手として好試合が行われています。
ちょっと昔の話になりますが、ワールドベースボールクラシックの第1回で日本の優勝を見て楽しかったと口ぐちにいっていました。
あのとき面白かったのは韓国のニュースでした。韓国は日本に3回も勝って、肝心な最後の試合に負けた。自分たちが勝った相手が優勝したそのことをどう伝えるのか興味をもって衛星放送の韓国のニュースを見たら、その原稿は秀逸でした。
「韓国は優勝したチームに勝ちました」うまいなと思いました。「われわれは存分に楽しみました」と。
悔しいとは一口も云わない。負け惜しみも楽しみなのですね。
問う力、長田弘・連続対談(NHK国谷裕子部分)みすず書房

2009年5月28日木曜日

岡田武史監督


おはようございます。昨日の南米の強豪チリとの試合をみると、日本チームがどうしてこんなに強くなったのかと目を見張る思いでした。18歳の新人山田選手の起用といい、今まで我々が認識していない選手の可能性を発掘してくれているのですね。
岡田監督がコンサドーレ札幌にいったとき、チームは2部J2に落ちていました。
「自分でも岡田だと言われるサッカーをして勝たなければいけないと勘違いしていた。いろいろやろうとするのですが、理屈通りに蹴れない選手がいて、わたしの思い通りにはなりませんでした。でもできない選手にできないことを要求していたのでは思い通りになる訳はありません。選手はつらかったと思います。一年目の終り頃に「そうか理想のサッカーというのはこの選手らの出来る最大限のパフォーマンスのあるサッカーなんだと気付いたのです。結局やれる・やろうというモチベーションが大事なのだ。敵と味方がいる以上ドロー以外は勝負はあるが、負けは避けられない。だから負けを受け入れることも大事。」といっている。負けても長く引きずらないということでしょうか。
問う力、長田弘連続対談(岡田武史)みすず書房

2009年5月27日水曜日

調布・保谷都市計画道路


おはようございます。道路はアスファルト舗装でもいろんな対策が含まれているようです。最近K叔母さんへいく道ですが、調布・保谷線の都市計画道路では片道2車線×2と歩道も4m、自転車道路は6mとかなり余裕をもった合計36m道路の工事途上です。もう一部開通もしています。

この道路のネックは西東京市が海風と山風の中間なのでスモッグが起こりやすい範囲に入っているということで、反対されている方もいます。
① 遮熱性:夏道路上には陽炎がゆらゆらして見える。こういうのをどうやって抑えているか。遮熱材という塗料をぬっていて、それによって最大8℃の効果があるそうです。
② 保水性:お菓子の雷おこしのような表面ですが、ここにも保水材を詰め込んであって、ここの中に沁み込んだ雨水が蒸発するときに、気化熱で最大10度程度の効果があるそうです。
③ 低騒音:すきまがおおい舗装材料は、その隙間にタイヤと路面で圧縮された空気により発生する音やエンジン音を7デシベル抑える
④ 歩道の透水性:表面から下記の3段重ねで、地下水に雨水を供給しているそうです。あきらかに雨が晴れたあとの水たまりが少ないし、表面が速く乾きますね。
隙間の多い舗装4cm
砂利の層10cm
砂の層5cm
土の層

●道路舗装
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/gaiyo/08.html
●調布・保谷線の説明
http://www.city.nishitokyo.lg.jp/topics/toshisei/toshikei/tyohuhoyasen2/index.html
●調布・保谷線の範囲

http://www.city.nishitokyo.lg.jp/topics/toshisei/toshikei/tyohuhoyasen2/files/zenzu.pdf

2009年5月26日火曜日

離島


おはようございます。離島といえば山形県では酒田市から舟が出る飛島しかないが行く機会を逃しています。島では小豆島、佐渡、熱海の初島くらいしかないのですが、なぜか心をひかれますが、生活している人は大変でしょうね。最近では瀬戸大橋や、しまなみハイウエイで四国や本州とつながったところは行ってきました。
http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/ichiran.html
日本は、6852の島嶼によって構成されています。そのうち、本土5島(北海道、本州、四国、九州、沖縄本島)を除く6847が離島であり、住民登録のある離島は310島もあるそうです。
宮本常一が生まれた瀬戸内海の山口県周防大島本島とその属島の沖家室(おきかむろ)島(しま)を結ぶ380mの橋は文字通り悲願ともいうべきものだった。<橋の袂へ記念碑などを立てる計画もあるでしょうが、私は国民の税金によってできたものだから「この橋、全国同胞の協力によってできました。感謝します。沖家室(おきかむろ)島(しま)島民。」というものを立ててほしと思います。政治家や知事の顕徳碑はどこにもあるが、世話をして口をきいてくれただけです。金を出して者に礼をいった例がないのですと。
谷川雁という人が無人化するトカラ列島の臥蛇島にいく直前に尋ねた。そもそも離島というものは一体なんなのか。本土に対して同情さるべきお荷物でしかありえないのか。お荷物でない積極的な意味があるとすればそれはどんな意味なのか。
宮本は一瞬驚いた顔をし、それから微笑を崩さないように目を閉じたまま「離島が百戸以上の場合にはかろうじて発展します。しかし50戸以下ではどうにもならない」と答えたという。
資源によって人口が左右されるのではありませんか。宮本は張りのある声で「人間は条件を作りますよ」と答えた。ということです。
そこには意外な唯物論的な考えに衝撃を受けた。そこのは離島にロマンティックなまなざしもなかった。しかし経世済民の“済民”の自分で自分を救済するという志を裏切るわけにいかい意志が感じられたそうです。
宮本常一と渋沢敬三・旅する巨人・佐野眞一著から

2009年5月25日月曜日

健康食品


おはようございます。ある人から以前糖尿病に効くということで、大豆の粉(きな粉)と玄米の酵素はとても健康によいということで、効果が分かる3月位試してみたことがあったが、その他「ノニ」※という南国の果実をジュースにしたものもよいということであったが、これもやめてしまった。飽きっぽいことは自認しますが、味噌汁についてはもうなんとなく知られていることですが、伝統食品で発酵食品には下記のように効果が認められるようですね。
又漢方薬で蕃果という「ざくろ」も血糖値調整 によいということで5年位ためしたことがあった。現在ヤクルトが健康飲料として蕃爽 麗茶として発売されていて、これは無駄ではなかったと思いました。

※ノニ:http://www.dmjegao.com/noni/shohin/nonitowa.htm
結局健康食品を食べたり、飲んだりすることは健康に留意していることに意義があるということでしょうか。


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話題にできるトリビア  VOL.161

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『味噌汁は胃ガンを抑制する働きがある』



1981年に当時の国立がんセンター研究所の平山博士が

日本ガン学会に報告して話題になりました。

味噌汁を毎日飲む人は、全く飲まない人に比べて

胃ガンの発生割合が3割以上も少ないのです。


また味噌汁を一日に3杯以上飲む人は

一杯以下の人に比べて乳がんの発生割合が4割以上少ない、

という厚生労働省の調査もあります。


といっても一日3杯だと塩分のとりすぎになってしまう危険があるので

その他大豆食品をバランスよくとっていきましょう。




話題にできるトリビア
http://jouhoustand.sakura.ne.jp/
◎話題にできるトリビア

2009年5月24日日曜日

登記所もオンライン化


吉祥寺の東急デパートの近いところに商工会館があって2階はFM局があったり、一階にはPCが5台あって開放されていて自由に無料で利用できる。利用は女性の人がほとんどでした。それとは別のドアがあって、そこに出入りする人が多い。東京法務局府中支局証明書交付窓口と書いてある。
きいてみると、武蔵野市の登記所も府中の管轄なのでしょうが、ここで証明書が入手できる。土地・建物の不動産、会社の謄本や印鑑証明が5階でうっている登記用印紙と交換で渡してくれるそうです。ところが法務局のHPを覗いてみると、この証明書発行にとどまらず、登記の申請もオンラインで出来るようになっています。年々変更というよりもっと早いスピードで変わっていくような気がします。(まだ一部の登記所だけの限定です)http://www.moj.go.jp/MINJI/minji71.html#02
個人の住民票や印鑑証明が市役所でなくて、便利な場所の置いてある機械で入手できるようになってきていますが、あれは相当大きな機械ですが、みるとコンビニにおいてある銀行のATMみたいな小型機械でした。これで全国の登記所の証明書がとれるようなところまで便利になる可能性は十分にあるが、ここにはまだ専任のガイドがついていた。

2009年5月21日木曜日

カメラ道具一式の整理


おはようございます。一昨年は本棚の整理をして、ほとんどは図書館に寄付しました。随分すっきりしましたが、また増えてきつつあります。
捨てるというのは本当に決断に精力がいりますね。捨てないと買えないという原則をたてる必要がありますね。整理の工夫のノウハウはあるが、捨てて後悔しない方法とか、や捨て方の決断の事例もあったらと思います。
定年後にゆっくり写真撮影でもしようかなとあくまでも素人の手慰みとしてオートフォーカスカメラ、や望遠レンズ、ワイド、速射、近接用マイクロ、ストロボ、三脚、遠隔シャッター、フィルターを用意してあったが、ほとんど使いこなしていなかった。ましてやこれはという写真もとった覚えもない。そうなると、1枚でも、多少は満足のいくものを撮りたいと思っていた。しかし結局それは無理や無駄だとわかったのは、デジタルカメラ、手ぶれ防止、赤目修整、トリミング、ピントや明るさの調整までできるので、もうほとんど以前から用意していたものは用がなくなっていた。ヨドバシカメラの前に中古買取の店があったのを思い出し、今日寄って見た。そこに行く前は、全部で5000円位と値ぶみしていた。査定を待っている間、陳列の中古の価格の半分、あるいは3分の1位なら1万円と思っていた。しばらく鑑定の時間を待たされ、呼ばれてカウンターに行くと、大分使っていなかったですね、カビが生えているものもありますよという。以前双眼鏡でも同様なことがあった。接眼部分から人間の脂がしみていくのでしょうか。分解してプリズムやレンズも磨いても、改善は見られなかった。こういう器具はやはり日頃の丹念に手入れも必要ですね。そうはいうものの、捨てるのではなく、いくらかの買い取り額になったので、それなりに満足しました。
又高値の花だった往年の名機を知っている人なら興味深いところもあるのでしょうとも思いました。

現代の児童文学


おはようございます。また暑い日でしたね。今年はビールの売れ行きが良くなるかもしれませんね。
武蔵野の記憶と現在:「武蔵野で遊ぶ子供たち」武蔵野大・宮川健郎
ノンちゃんの前は、児童文学に東京が登場することはなく、宮沢賢治のように自分故郷の自然の豊かさをうたいあげていた。
石井桃子「ノンちゃん雲にのる」1947年の作品は四谷で生まれたノンちゃんのお父さんは、子供の健康を大切に考えて、勤め先から1時間35分もかかる武蔵野の郊外(三鷹)に居を構える。住んでいた四谷の市中にはない新しい価値は郊外にある。「山の手文化」を郊外での生活に継承したことになる。「小市民のささやかな幸福」が夢見られ、生まれ、壊され、そしてまた新たに夢見られと、夢と死の再生が繰り返される場所だった。

その後の特徴的なことを上げれば、1960年代は山本有三の「路傍の石」(けして子供向けの童話ではない)は、子供がいろんな困難を乗り越えてゆく物語で、いろんな出版されて童話全集にほとんどのっていた。
この山本有三は就学前の子供にせがまれ、カバンを買ってやったが、その中に尋常1年の国語読本もいれてやったが、子供がその本には見向きもしなかったのは、ネズミ色の粗悪な紙、内容も子供が親しめるものでないのが分かった。そこで児童図書の環境作りに精をだすことに。地域の子供らに自宅を開放してそのご各地で行われる文庫の場を提供したり、文章も有三が劇作家でもあったので、耳から入りやすい、振り仮名もない平明なものにしようとしたし、児童雑誌「銀河」新潮社などに尽力した。とにかく頑張ればなんとかできる安心感をうたっていた。

現代の児童文学はどうなっているかというと、全部ではないにしろ、
いとうひろしの「おさる」シリーズは、おさるの子供たちが、朝起きてまずおしっこをする、ご飯を食べる、蛙投げで遊ぶ、夕めしを食べる。そして寝る。毎日そういう繰り返しであるが、年に一度、自分のおじいさんの倍も長生きの亀オジイサンがきて世界中の話をしてくれる。やっと砂浜についた亀は疲れて、ひたすら寝てばかり。何事もゆったりと時はながれることが、ごく当たり前のように表現されている。
その亀ジイサンの話はこうだった。3ページに分割されて表現されている大きな船に出会いぶつかって、額に大きなコブをつくった。もうそのコブは引っ込んでない。それだけの話をして彼方へ行ってしまった。そういうようなシリーズ。これはセカセカそんなに急がなくてもいいじゃないかの思想だそうです。
もうひとつは寺村輝夫の「ぼくはおうさま」では、王様がパーティをやるので、できるだけ大きな卵、象の卵を探してこいとの命令は、象は卵を産まないということが分かった失敗談、そのような繰り返しの失敗談だそうです。

それゆけ「ガンバレ」でなく「ゆっくり」精神の表現も忙し過ぎる時代の反作用でしょうか。
児童文化財(まんが、アニメ、絵本、おもちゃ、ゲーム、児童文学)のそれぞれの作家の間の交流はないそうで、なぜそうなのかは質問しても残念ながら答えは得られなかった。

2009年5月20日水曜日

生物進化学?


おはようございます。世の中広いもので、いろんな研究をしている人がいますね。常識からかい離しているので難しそうであるが、
面白そうです。
人と殺人と男と女:日本進化学会会長;長谷川真理子
国立法人総合研究大学院大学教授、専門は行動生態学。進化生物学の観点から人間の行動性向を理解しようとする進化心理学に関する著書が多く、特に性にまつわる問題(性選択)への関心が高い。同じく行動生態学者の長谷川寿一(東京大学教授)は夫であり、夫婦による共著も多い。理学博士(東京大学、1986年)。東京都出身。学生からの愛称はハセマリ。
相当昔の人間行動は人種や言語が違っていても同じメカニズム・原理で動いているとの想定のようだ。男子の20から24歳の年代が殺人率が高いそうです。損得よりも、論理的に考えて行動するのではなく、情動や感情で、これは許せないという衝動によるもの、生物の進化の過程で、男のプライド、男と男の競争が関係しているのだろう。生物学的には世の中から殺人はなくならないだろうという想定。

統計を見ると、戦争中は殺人は極端に減っている。終わったらまたもとに戻っている。

哺乳類はメスが主で、オスとオスの競争はメスに好かれるためで、孔雀のオスが羽根を広げて目立つようにするのもそうである。
男→女>女→男、矢印の意味は注目する方向で、やはり男が女に注目しようという動きのほうがつよい。

これの放送の時間帯は睡魔が訪れる時間帯で半分も理解できていない。
25日(月)NHK15:15分から爆笑問題でこの再放送がありますのでこれもみて補足する必要があります。
この辺の主張がよく分からなかった。仕事が安定し、、退職勧告もなく、年齢相応に収入もふえて、将来も心配なく安定していたので特に20代後半の殺人が減っていた。これは現代ニッポン人は突然変異だ。

http://www.soken.ac.jp/dlabo/index.html
この大学はとても面白い研究をしている。一般人もわかるようなビデオ説明もありました。
蟻学入門:http://ant.edb.miyakyo-u.ac.jp/BJ/antStory/index.html

2009年5月19日火曜日

藤森流建築と自然


おはようございます。東京経済大学の特別講演の今年の第1回目でした。これは年々好評で、400席が満席になる位の盛況ぶりです。
今回はこの人は「建物探偵」としても著名で、デザインが自然との調和を目指している藤森照信東大教授のお話でした。
プロフィール:
http://tampopo-house.iis.u-tokyo.ac.jp/fujimori/f-keireki-fs.html

作品:http://tampopo-house.iis.u-tokyo.ac.jp/fujimori/f-work-fs.html
「建築と自然―藤森流建築の作り方
主張されていることは下記UHLに記されています。
http://machiecom-nt.swu.ac.jp/machiecom/koukai/080630.html

●究極の建築は木造と思ってしたが、アフリカのマリという国にある建物(世界遺産の複合物、ジェンネ)は泥で、大地と一体になっていて、構造を強くする意味で、柱を太くしているので、中の空間がかなり圧迫されている不思議な大規模な建物。世界中を見て回ると発想が自由になるそうです。
他に探してみると、ボリビア共和国のものは小規模だが個人の住宅として利用されているものが多い。
http://www.japandesign.jp/HTM/REPORT/bolivia/02/
●ノコギリは鎌倉時代までなかったので、割った板を使用していた。厚さ2cmのものを1cmまでにしていた。
●出雲のほうの古代では農耕の後がなく、イノシシの皮(するめのようだ)、鹿の脳みそ、ウサギの串刺し(それをあらわした建物名?)
●博物館を靴を脱いだものに。県庁でもびっくりし、公共の建物で前例がないという決まり文句の反対があったが、日本画家の「日本画をみるのに、土足ではいかがなものか」という口添えで実現できた。
床は汚れるので白い材質が使用できないのが、大理石ができて、絵が乱反射の光を浴びて浮かびあがって見える
●松の木は微妙に曲がっている。これの味が何ともいえない。柱も屋根を貫くようなデザイン、何事もやってみることです。
●いきな黒塀:関西では杉材の表面を焼いていた、関東では略して塗料を塗っていたが、焼き杉を復活させて使った。2cmの板材の1cmに焦げ目を作り、耐久性は湿気がある風土でも大丈夫。
●変わった前例のない建築:プロは費用見積もりができないものや、先々の補修の見込みが予想できないのは敬遠するので、自分の仲間が無料(有料だと楽しみがなくなるし、責任がでてくる)で引き受けた。(役所の了解をうるには相当苦労した)
●茅葺の屋根に、百合やタンポポを植える。昔の日本の家屋の屋根の頂(西洋の人が来日したときの写真に)はどの家にも植物があった。
●建築の冒険は施主の顔色を読みつつ、納得させつつ趣旨の実現を調整した。
●アメリカ白ありが蔓延しつつあるが・・・,白アリの北上は地球温暖化の影響であろう、その被害の甚大なるを何故報道機関が問題にしないのか。ブタ草の例でも日本中にはびこるとおもわれたが、カヤがなにかの影響で、ブタ草に負けない力をつけたように、自然の力は経過で耐久力をもつようになるので、それほど心配しなくてよいのではという助言。

2009年5月18日月曜日

アンネの日記最終


毎日天気が乱高下です。ちゃっと冬服を整理したら、20度、今日は27度だそうです。体調の維持が大変ですね。

アンネの日記は1944年8月1日まで書かれていて
8月4日には午前10時頃アムステルダムのプリンセンフラハト263番地にナチス親衛隊の車がとまり、8人のユダヤ人とそれを手助けしたクーレル、クレイマンが連行され、ミーブとベップの女性は逮捕を免れた。このときミーブが放り投げられていたアンネの日記を拾い、のち父に渡した。
アンネはリューネンブルガー・ハイデにあったベルゲン=ベルゼン強制収容所に送られ、ここは衛生状態が極度にわるく、チフスの大流行によってアンネ姉妹も1945年の2月末か3月初めに死亡したと伝えれている。この収容所が英軍の手によって解放されたのは姉妹の死からわずか1カ月余り後だった。
母はアウシュビツで1月6日飢餓と疲労のため死去。
父は母と同じアウシュビッツに収容されていたが、ソ連軍に解放され1945年6月3日にアムステルダムに帰ってきた。のち同収容所の生き残りの夫人と再婚し、スイスのバーゼルの郊外で1980年8月19日に逝去。死ぬまでアンネの日記を大事に保管していた。
どんどん引き込まれ、読了したあとでも、アンネが何か語りかけてくるような気持ちになります。アンネの日記:完全版、深町眞理子訳(訳本という感じは全くない本でした)

2009年5月17日日曜日

風格のあるお犬様


おはようございます。やはり千代田区三番町の出来事です。
ある日、黒い事務服をきた女性が2人、犬を連れて散歩です。これはとても妙で公務員か銀行風の事務服をきて犬ずれの散歩なのですから。
それが優雅な足取りで付添の人を先行したり、匂いを嗅いだりお犬様のペースでの散歩です。けして手綱を引いてコントロールしていない。あくまでもお犬様の自由に任せている。さてどういうお犬様かなと思ったのですが、あっそうかあそこに違いないのかと思って1分ほど追跡すると案の定、警備警官がいる屋敷に吸い込まれていきました。
横綱があるいているようなゆうゆうとした風格のゴールデンリトルリバー犬でした。
近所にうっそうとした樹木がある屋敷があります。そこは皇族のあるかたの住まいです。

2009年5月16日土曜日

アンネの日記③


昨日の空も天高く澄み切っていました。花屋には鉢に網をまいた、大ぶりの白いアジサイが見事でした。ああもう夏が近いのだとも思いました。

アンネの隠れ家の困難さといえば、人の気配を消すことだけだった。ここを出られなくなっているので、中の人は、はけ口がないので、同居人がうっとうしくなり、どうしてもちょっとしたことでも、角つきあわせたり。物資が不足している時代でを反映し泥棒が階下にきても、こちらの存在を出きない訳で、追い払うことができないもどかしさ、冬の寒い時期、夜の暖房の煙は人の存在をあらわすため使用不可、窓からの灯りが漏れる怖さ、周囲から皆見張られているのではないかという張りつめた神経、資金が底をつき闇の食料調達の困難さ、排水管のつまりを直すむずかしさ、修理作業の人に悟られないようにする、新鮮野菜もほとんどない、オランダの英国軍上陸の一日も早いことへの期待とそのジリジリした遅れ。援助者宅の警察による捜索後の影響の極度なる不安。病気になっても医者にかかれない。猛署でもけして窓の隙間さえもあけられない。ほとんどは我慢の縛りだけしかないかにみえる。
それでも息がつける瞬間といえば、誕生日のお祝品の交換は懸命に努力しますし、ラジオや援助者からの外部情報を聞く楽しさと羨み、異性者との語らいと肩をよせあうときめき、いつもなら感じない・当たり前でもある澄み切った紺碧の空、鳥たちの歌声、月光や花々にも鎮静効果があるようです。
「わたしはたびたび自問自答してみるのですが、じつのところわたしたちは、ここで潜行生活を始めたりしなかったほうがよかったんだじゃないでしょうか。そうしなかったがため、いまごろはもう死んでいたとしても、そのときはこういうみじめさを味わずにすんだはずですし、とりわけ、ほかの人たちまでも危険に巻き込むことはなかったでしょう。とはいえ、その先を考えると、やっぱり身がすくみます。というのも、まだ人生を愛していますし、自然の声を忘れてのいませんから私たちは今なお希望を---何事につけても希望を忘れていないのです。ああ、なんでもいいから、近いうちに何か変化が起きてくれますように、やむを得なければ、撃ち合いだってかまいません。なにが気を滅入らせると言って、この宙ぶらりんの状態ほど、くさくさするものはありませんから。たとえつらい終わりかたでもいい。そうなればせめて、はたしてわたしたちが最後に勝利をかちとるものなのか。其れとも一敗地にまみれるのか、それがはっきりするでしょう。」
      それが英軍がシェルブールに上陸し、ドイツの将軍5人が戦死、ふたりが捕虜というニュースや失敗したものの、ヒトラー暗殺が行われて、ドイツも崩壊間近をしると、もう気持ちは明るくなるのでした。そのような不安定な状態だった。

2009年5月15日金曜日

弁当屋さん


昨日の夕焼けは見事でした。美味しそうな夕焼けは風を吹き飛ばしたがのごとく、雲ひとつありませんでした。
火曜日は毎週三番町のマンションの管理人のピンチヒッターで仕事につく。ここは皇居は千鳥ガ淵にちかいので、市ヶ谷駅からは12分はかかり、麹町駅からは8分位。人通りは少ないが、林立するビルにはそれなりに事務所があります。店はほとんどありませんが、コンビニは4分から7分歩けば3ケ所あります。当然食堂やカフェやレストランもありますがいつも12時前にいかないと席はないのでどうしてもコンビニの弁当を頼りにしていました。そうした時に昨年の秋には出店の弁当屋さんが登場しました。そのころは頑張って小さな味噌汁までつけたり、3月かけてら味と中身の充実させた努力で徐徐にではあるが、500円か600円の弁当の値段にこぎつけた手腕はさすが商売人の見事さだった。
それが2週間ぶりにこの弁当を買いに行くと、、一律400円となっていた。景気のあおりを受けて値下げしたのでしょう。ご飯とおかずが別々になっていたのが今度は一つ容器におさまっている。その変わり身の早さには驚いている。マスコミでも弁当さんの値下げ競争が始まっていると報道していたが、なるほどそうですね。
ところが、最近は以前600円の中身であるが、500円で再登場してきているがどうもガソリンの値段に連動しているかのように、結構敏感に値段が動きますね。

2009年5月14日木曜日

紙は辛抱強い


今朝は涼しい朝です。高校生の服装も、半袖も、白いセーターもととりどりであるが、このような年代のおんなの子だったのですね。アンネの日記の続きですが、思いのたけ率直に書いています。それを後世の人が読むだろうとは予想だにしなかったに違いないが、凄い体験が伝わってきます。

原文のまま記載します

ゲーテの言葉に「天に届けと喜び叫ぶか、身も世もなく嘆き悲しむか」というのがありますけど、わたしは他のユダヤ人の子供に比べて、ここにいる自分だけが、どれだけ幸運かを考えるだけで、“天にも届けと叫び”たい気持ちになりますし、例えば今日のように、クレイマンさん(隠れ家は父の会社の屋根裏部屋で、その会社に勤めている人で、他に3人いて、命がけで中にいる8人の日常品の調達に励み、心労のために、胃潰瘍になって時々入院している。それでもこの隠れ家の中が、マンネリになっているため新風を吹き込む話題を提供しているので一番頼りにされている)その人のお嬢さんのヨービーのホッケークラブのこととか、カヌー旅行のこと、演劇活動のこと、お友達とのお茶の会のことなんか話してくれるのを聞くと、それこそ“身も世もない嘆き”にとらわれてしまいます。その人を妬んでいると思いませんが、一度でいいからわたしもそんな楽しい思いをしてみたいし、お腹の痛くなるほど、笑ってみたい。そう思わずにいられません。こういったことを胸の内におさめおくことが出来ないのです。ですからこの日記に書いています。それをもう一度くりかえしましょう。「紙は辛抱強い」と。

2009年5月13日水曜日

アンネの日記


アンネ・フランクが13歳の時の話で、私が生まれた翌年の話で1942年の同時代のことです。不思議な緊張ある臨場感があるような気がします。

こんな話を読んでいると、本来は屈託のないアンネではあるが、不吉な予言が現実となって迫ってくる。母よりも慕わっていた、生き残ったオットーという父がこれを読んだときにはどんな気持ちだったことだろう。

彼女(アンネ)はケーシング先生というお年寄りの数学の先生に教わっていた。以前から彼女がおしゃべりをしすぎるということでご機嫌をそこねていた。そうした折に宿題として「おしゃべり屋」という題で作文を書くように言いつけられた。

とりあえずその題をノートに書とめ、あとはなるべく、おしゃべりを慎むように努めました。文字を大きくして単語と単語の間を広くあければ、誰だってくだらない短文位は書けるだろう。ただ問題なのはおしゃべりの必要性を疑問の余地ないまでに立証してみせることだ。思案に思案を重ねたあげく、ふいに妙案が浮かんだので早速割り当て分の3ページを埋めてすっかりいい気分になっていた。

私の論点は、おしゃべりは女性の特性であって、できるだけ慎むように努力することはするけれど、おそらくこの癖はけっして直らないだろうというのも、うちの母も私に劣らず、いやひょっとするとわたし以上におしゃべりだから、遺伝ではどうすることもできない。これを読んで先生はついに笑い出した。それであいかわらずおしゃべりはやめなかったので、今度は「直らないおしゃべりの癖」を書いて出すとその後の2回の授業では注意をうけませんでした。

そうはいうものの、3回目には【があがあと“ぺちゃくちゃおばさん”は言います】の題を出された。これでクラス中爆笑の渦だった。私もしかたなく笑った。この問題は自分としてはもう種切れだわとおもった。ところが親友で詩の上手なサンネが手伝ってくれていうには、先生は私をからかおうとしている。そうならば先生をクラス全員の前で笑い者にしてしまおうと考えた。

詩は完成した。3羽のあかちゃんアヒルを育てている、おかあさんアヒルとおとうさん白鳥がいました。あかちゃんがあんまりにも騒がしくおしゃべりしたために、とうとうおとうさん白鳥からくちばしでつつき殺されてからしまいますという内容だった。幸いにも冗談が通じたらしく、みんなの前で注釈をつけて読み上げ、他のクラスでも読み聞かせた。それから余分な宿題もなく、先生はいまでもその詩を冗談の種にしています。・・・・と書いています。

彼女だったら芝居の脚本をかいてもうまかったろうなと思います。人物観察もするどく、的確で、冷静に13歳でよくもこんなに描けたものだと感心してしまうのでした。

2009年5月12日火曜日

天衣無縫な奥さん


このように天衣無縫で誰からも好かれている人で、小川洋子さんの推薦本にのっていましたが、日常のことを退屈しないような語り口です。肩コリも直りそうな本でした。

天衣無縫な奥さん富士日記(上)武田百合子:武田泰淳さんの奥さん(中・下と3巻もあります)
夫の没後「富士日記」により昭和52年田村俊子賞を受賞。

●親しい友人梅崎さんが、武田さんの住所字富士山の別荘の近くに引っ越しするんだという下相談まで出来ていたのであったが、急死されたという連絡があり、東京での葬儀に参列して、富士の別荘に戻ってきたら、今度は河出書房の社長の訃報が伝えられたのが、昭和47年、7月であった。

そのために原稿を書きそろえ、急きょ出来上がった原稿をその当時一番速い「列車便」で送付することになった。川口湖駅で言葉の行き違えだろうか、私鉄にはそういう制度がないということで、ことわられた。そこで大月まで車で飛ばして夕方6時半の列車便にやっと載せることができた。

ところが大月駅では私鉄でも列車便はきくからなにもここまでこなくても良いのにと言われ、腹がたったので、腹がたったまま、川口湖駅まで車を飛ばした。ねじこんでやると、ギュウギュウの目に合わせてやりたいと、飛ばして戻る。

ところが今日は交通取締の日らしく、白バイや交通取締の人らしく、白バイや交通巡査が多い。怒り狂って車をはしらせていると、取締の警官に捕捉されやすい。そうなると、大損害だと、気を取り直し、ゆったりと女神様のように川口湖駅まで行くと、中から駅長のような人と、中年の人が出てきてひたすら弁明し、今度から預かって、指定の列車に間に合うように川口湖駅から出すと約束するので半分怒ってやめる。

●花火を見るときに、地面に新聞紙を敷いて、仰向けになる。しばらく上がる花火を見ていると、首が草臥れないのでズーット終わりまで見ていられるの.という。

2009年5月11日月曜日

陶磁器は世界を翔ける


昔の交通手段はたいしたことがなかったのに、その行動は世界中に届いていた。

学習院での学習
東アジアの海とシルクロードの拠点;福建:水中考古、陶磁器、茶文化
「萩焼と私」新庄貞嗣:陶芸家・萩焼助右門窯14代当主

今回は陶芸家の話です。
萩焼は1604年李勺光という人を秀吉がつれてきて長州に預けていた。その人の弟子であるようです。
家系図は存在して14代というのが分かる。
薩摩や佐賀でも朝鮮から来たようなとがあったが、ここでは相当優遇されていたようだ。
下関と釜山は5時間、往復10000円の船賃、博多と釜山の高速では2時間、下関起点で東京から円を描くと、北朝鮮のピョンヤンや中国のチンタオや上海に相当する距離だと指摘されてびっくりした。
この地域では陶土の種類も3つ、釉薬も長石、藁灰、土灰の3つでかなり限定されていたが、この配合割合や窯の温度(酸化の焼成と還元法煙も出る程に燻らす方法の2種類※)でかなり変化を生むことができる。
 ぶらぶらしているので親が心配して、京都の窯に預けてくれた。東京から1きに田舎の萩ではなく、その中間点であるのも気に入った。萩の作陶は土練、から施釉まで全工程を一人でやるが、京都の作陶は分業制で、窯以外のところで絵付けなどそれぞれ分かれているのは織物とおなじだった。京都では染料に灰は不要、陶芸には必要など、分業することで、作業が効率的でもあり、純度の高い原料が入手できることも分かった。
萩では粘土の原料を採掘する人はいたが、この粘土と釉薬をあつかうところはなかった。
赤松を燃料としていたが、中国ではこの赤松がなくなると、10年毎に窯も移動した。萩焼きの場合は陶土が少なかったり、作陶家を制限したのかよくわからないが、その場でじゅんぐり伐採してくらいだったので移動までの必要はなかったようだ。山肌を伐採して生えてくるのが松で、岩のところにも松が生える強さもわかった。
各地の6人が集まって作陶したが、ほとんど同じような作陶かに思われたが、じっくりそれぞれの作業をみていると、微妙ではあるが違いがあり、それを工夫してみると、上記の作陶の原料が少くても、バラエティに富んだものが出来そうだということが分かって、家業に専念できるようになり楽しかった。富士山に登るのに、いろいろな登山口があるのと同じだった。

陶磁器がシルクロードによって、運ばれその美を求めてあの交通手段の乏しいときに、世界各地に伝播したのは感極まるところであるそうです。
同じ土と釉薬でありながら、温度によって青磁にも象牙色にもなる。本当に微妙である。釉薬で鉄の魅力は陶磁器にすさまじいくらいの色を提供する。
2005年に韓国で米国、ドイツ、アイルランド、オーストリア、中国の陶芸家があつまって、それぞれの粘土や窯を設置して作陶をはじめた。これも面白い体験だったそうです。
陶芸2種類:陶芸で作品を焼くとき、大きく分けて、”酸化”と”還元”という二つの焼成方法があります。

酸化とは、酸素が十分に供給された状態で焼く方法です。

還元とは、酸素の供給量をしぼり、不完全燃焼の状態で焼く方法です。

還元で焼く場合も、温度を上げるときは、もちろん酸化状態なのですが、釜の温度を下げる時に酸欠状態にして、還元をかけて行きます。

たとえば、木材をそのまま野焼きしたら、すべて灰になって跡形も無くなってしまいますよね。これが酸化焼です。ところが、炭焼きのように、窯に蓋をして酸欠状態にすると、灰にならずに炭が残りますよね。これが還元焼です。

木材の場合、灰になるか炭になるかの違いが起こるのですが、陶芸でも、こんな感じで、酸素の供給(風の入れ)具合で、出来上がった作品の風合いがすごく変るんです。それは、酸欠状態にすることで、酸素と結合する所としない所が生じ、それが釉薬の発色を変化させるからです。

それは強い還元をかけることで、より複雑な景色の作品を生み出したかったからなのだそうです。

東アジア海文明
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~asia-off/

2009年5月9日土曜日

林望さんの源氏物語


1時間半の講義で源氏物語を語ろうということ自体どだい無理があるわけですが、先生の方も不完全燃焼のようでした。
林望先生も秋には源氏物語の注釈本を出す予定だそうです。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が 数多の恋愛遍歴をくりひろげながら人臣最高の栄誉を極め(第1部)、晩年にさしかかって愛情生活の破綻による無常を覚えるさままでを描く(第2部)。さら に老年の光源氏をとりまく子女の恋愛模様や(同じく第2部)、或いは源氏死後の孫たちの恋(第3部)がつづられ、長篇恋愛小説として間然とするところのな い首尾を整えている。
今回は箒木と空蝉のところであった。女房という仕事は貴族の教育係りの役割。和歌を詠めるというのは最高の教養だった。物語にも登場する和歌を集める行為は民族のDNAがしからしめるところ。恋の仕方にも貴族のルールがある。当時貞操観念はかなり希薄であった。この物語は書籍がない時代なので中心は、作者(物語を読む・語る人)、読者(聴く人)の間で相互作用で随分長い時間をかけて出来上がったものだろうという。その過程で途中性格が変わっているところもあるし、矛盾もある。
しかし淀みなく、読んでいる文章をきいている意味は相変わらず分かりずらいのですが、リズムはとても心地よいものでした。
 高位の人にせまられても、まず「お人違いではないですか」との拒否から始まる。空蝉は中流の上の出であるが、中流の下のところの後妻であった。方違へによって紀伊のところに寄った、そこで紀伊(光源氏との関係がよくわからない)の父である伊予介がお風呂にいっている間に、チョッカイを出そうという物語だそうです。紀伊は高位の光源氏にそのような振る舞いはよしてくださいの制御もできない立場であったそうです。空蝉は、今の境遇や体は相当に小柄で、何事も引け目を感じるような性格でありながら、言い寄られたことに、拒否しながら、内心は満更という以上の嬉しさがある。結局は拒否になっているので、光源氏は、何とかして関係を持ちたいという気持ちが残留した。
そうしたやり取りで、お互いにうまくいかず、空蝉の夫の任地着任で都を下る。そのときに、空蝉は想わせぶりな手紙を出す。
結局はこの空蝉の章は描写が臨場感あふれていて、こういう表現は紫式部自身の物語ではないかとと思われる節もあるそうです。のちのち都に帰ってきて、空蝉の主人がなくなってから、光源氏の屋敷内に住まっていたような推理をされていた。
このように解説がないと、とくに貴族社会のことは分かりずらい。いずれにせよ。源氏物語がどうして出来たかという諸説があってこれの推理を読むだけでも楽しそうでもあり、日本文学の源流のようですね。またこれによって他の著者が空蝉についてどのようなことを書いているかがこれからの楽しみです。

素敵な放送


おはようございます。小川洋子さんがTOKYO FM(JFN系38局)で未来に残したい文学遺産を紹介する番組は毎週日曜日「Panasonic Melodious Library」の10:00から10:30で放送しているのがわかった。この時間帯は弓道の日なので今度から録音しておきたいと思っています。それが「心と響き合う読書案内」:PHP研究所、という本で分かったのですが、冒頭に金子みすずの詩でした。この放送のときに、選曲された音楽も流しています。こういう依頼をされて躊躇したが、紹介できる魅力で、はいやりますと答えていたそうです。
http://www.kanshin.com/keyword/1701075

「はちと神さま」
はちはお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土べいのなかに、
土べいは町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに、
そうして、そうして、神さまは、
小ちゃなはちのなかに。

神さまは空の高いところから私たちを見張っているのではなく、小さな蜂の中にいる。小さな小さな、みんなが見過ごしててしまうとこころに神さまはいるという、彼女の素朴な世界観が私はとても好きです。と紹介しています。

2009年5月7日木曜日

故郷を回る




おはようございます。
今回は山形県鶴岡市のガイドをみて無料レンタサイクルで回りました。自分の知っているところしか動いていないのがよくわかりました。映画の「送り人」に登場した銭湯の「鶴の湯」は県内でもだだ一つ残った銭湯だそうです。それが菩提寺からわずかに100mもない近さでした。

上越新幹線から新潟で特急いなほに乗り換え、日本海沿いを北にはしります。特急でも地面の高さで走るので、それほど遅いとは感じませんでした。
その新潟の特急の北隣「豊栄」駅付近まできますと、米どころの広大な田には水が張られています。それぞれ額縁のようにあぜ道で切り取ったようで、大きな磨いた鏡が数えきれないほどで、そのなかに青い五月の空と雲が映っています。汚れ一つない磨き具合です。あちこちは新緑の田植えの真っ最中で、田の一面、まだ幼い稲が水面から2・3cm顔を出していてほのかにそよいで、水面が揺れて、カルガモがすいすい泳いでいます。
庄内には、「本間様及びもつかないが、せめてなりたや殿様に」、これは大地主の本間さんをうたったものですが、同様に劣らぬくらいの地主は風間さんという事業家がいました。この風間さんお屋敷が公開されている丙午堂に行ってきました。この度気がついたのは、
この屋敷は建て坪300坪にもなるそうですが、屋敷は1000坪はあるでしょう、立派庭の木がありますが、常緑の木がほとんどで、花が咲くのは一つもありません。
庄内藩の藩主の住んでいた庭も、紅葉のように秋には散るのはあるが、花ごと落下する花は一切ありません。この風間さんの別邸がありますが、ここにはツツジがあります。別荘には花(染井吉野、山桜も)は植えてよかったのかもしれませんが、本宅にはありません。
この本宅の屋根は、瓦でもなく、藁や萱葺きでもなく、4万個の石が置いてあるのです。この石の大きさは赤ん坊の頭くらいの大きさで、下には3000本にも及ぶ杉の皮を敷いてあって、この取り換えは20年に一度行われるそうです。20年も経過すると、石は苔で緑色に染まっています。これを一つ一つ洗っている作業のビデオがありました。
この奥座敷は藤沢周平の[蝉しぐれ]で幼馴染みのお福様(ご殿に上がったしまった)と再会するシーンはここで撮影されたものだそうです。いい場所を見つけたものと思いました。

2009年5月4日月曜日

黙っていられるか?


今日の題名はよんだら黙っていられなくなってしまいましたので転記してみました。


小川:最初から適切なものをパッとクライアントの希望することが分かって選択して供給できる、という訳にはいかず、やはり無駄と思えるような迷いの時が必要になってくるんでしょうね。しかしいずれにしても、治すために不可欠なてがかりは患者さんの話の中にあると思うんですが、しゃべらない人っていうのはいないんですか。沈黙してしまう人。

河合:います、います。それが面白いんですけど、中学生や高校生はしゃべらないじゃなくて、しゃべれないんです。

小川:言葉がない。

河合:ないんです。大人はごまかしてしゃべれる。ちょっと間が悪いなと思ったら「いや、曇っていますな」といえばいい、話を続けられるんです。ところが中学生や高校生はそんなこと絶対言いたくないわけです。一番これが言いたいっていうことだけを言いたい。
こちらが「お父さんは?」「別に」って取りつくしまがない。これは拒否しているのでもなく言えないのです。

小川:いいたいのだけれどどう言ったらいいのかわからない。

河合:そんな時、お父さん、こんなこといううだろうなとか、
何とか話させようとすると、もう一遍にこちらが嫌いになるんです。

小川:呼び水を与える、ということですね。

河合:呼び水のつもりでも、お父さんなんてそもそも言葉を超えた存在なのに、何もわかっていないくせに、と、腹をたててますますしゃべれなくなります。

小川:質問する側が納得したくて、何か言ってしまう。

河合:そう質問する側が勝手に物語を作ってしまうんです。下手な人ほどそうです。
「三日前から学校行ってません」て言うと、「3日か。少しだね。頑張ればいけるね」とか。これから百年休むつもりかもわからないのにね。

小川:「もうすこし頑張れば行ける」という、こっちの望む物語を言ってしまう訳ですね。

河合:相手を置き去りして了解するんです。相談にきた子は自分の世界と違うことが起こっているから、増すます無口になります。それで最後に「まあ、頑張りなさい」で終わり。

小川:納得した格好のしたのは相談された側。

河合:そうそう勝手に降りてしまう。それとは別の経験は、「どうですか」言うても、下向いて、それでも黙っている。それで僕は「いやあ、高校一年生ねえ」ってもうお互いに分かっていることを言ったんです。

小川:ジェスチャーも交えながら

河合:ええ、それで普通は「いやあ、高校ねぇ」ってのってくるんです。向こうが言い終わるまで待つ。それで、向こうから何か言いだしたらこちらもまた乗れるわけです。ところがその子はなかなかそれ以上は言われへんのです。
そいう時に例えば、「おとうさんの職業は」言うたら、こちらが向こうの世界から出てしまうことになるわけでしょう。「高校1年生ねぇ」言うたら「いやぁ、高校ね」とその子はいいました。物は言うてんのやけど意味ないけど、その子の世界にまだいる。

小川:この場合、意味のあることをやりとするのが重要ではなく、その子のいる世界の内側にいることが大切になっているんですね。

河合:黙ってままいられたら、カウンセリングは一時間で終わりです。よっぽどの人でないかぎり、黙ったまま1分もいられないんです。黙っている間に「今日は昼飯はきつねにしようかな」なんて、心がヨソに行っているとしたら、これは絶対ダメなんです。

小川:患者さんはそれを感じとることができるんですか。

河合:心がそこに黙っていられるのだったら、なんぼ黙っていてもいいんです。ところがいらついたり、心が余所にいきかけたら、やっぱり何か言わなくてはいけない。ものをいったらそこにいられるわけです。
そういうときに、いうのが「いやぁ、高校一年生ねぇ」です。その人の世界から出ない。そうしているうちに普通はだたい乗ってくる「うーん、とりあぇずね」っていってくるともうしめたものです。

小川:その一言で。

河合:そうしたら「アホやなぁ」とか続くでしょ。だけどその子はそこから全然乗らない。50分過ぎたころには、「負けた。僕より偉大なやつが来た」と思いました。
 ところが「今日はあまり話できんかったけど来週来る?」といったらニコーッとして「はい」というんですよ。
その後母親から電話がかかってきて「いつも憂鬱な顔しているのに、ちょっと明るい顔して帰って来た。「高校生の気持ちをあそこまで理解している人はいない」というたそうです。
だって僕のことは彼のことを何も理解していない。正確にいうなら「あそこまで高校生の気持ちを大事にする人はいない」っていうことでしょうね。

小川:彼にとって言葉よりも沈黙の方が心地よかったんですね。その沈黙のなかで、目の前の先生がどの位信用できる人か、見極めようとしていたのかもしれません。

河合:それでいろいろ話出した時に、「3年分位話しました」との感想だった。

小川洋子・河合隼雄の対談:「生きるとは自分の物語をつくること」

2009年5月3日日曜日

感動する数字


数字には不思議な魅力があるのですね。完全数とか友愛数とか、おもわずこれ本当ですかと思いました。
プロのピッチャーは「球が走ったという。自分がうまく投げたとはいわない。球が切れるとか、主語が球なんですね。素人は自分の能力をそのまま投げている。
野球の江夏豊の阪神時代の背番号は完全数の28だった。
完全数:完全数(かんぜんすう)とは、その数自身を除く約数の和が、その数自身と等しい自然数のことである。例えば 6 (=1+2+3)、28 (=1+2+4+7+14) が完全数である。ピュタゴラス学派は、最初の完全数が 6 なのは「神が6日間で世界を創造した」こと(天地創造)、次の完全数が 28 なのは「月の公転周期が約28日である」ことと関連があると考えていたとされる
普通の人が花が美しいとか、星が綺麗だということで感動するように、数学者は数の美しさに感動するという。
数学者は美的センスを必要とし、数学は科学の気高い女王といわれる。数学者の頭の良さはもう人間のレベルをこえている。
だから良すぎて常識がなくなる。普通の大人の世界から言うと違う世界にいるので、そういう点で大人の社会的判断からフリーな子供
とピタッとくるのだそうです。
男性と女性、大人と子供、それに障害のある者とないものとか、みんな友情が成立するんですね。年齢が離れていても、知識の量が違っていても。
友愛数(ゆうあいすう)とは、異なる2つの自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数をいう。親和数とも呼ばれる。
一番小さな友愛数の組は(220, 284)である。
220の自分自身を除いた約数は、1,2,4,5,10,11,20,22,44,55,110で、和は284となる。一方、284の自分自身を除いた約数は、1,2,4,71,142で、和は220である。
現在まで知られる友愛数の組は、すべて偶数同士または奇数同士の組である。

あなたも死ぬ、わたしも死ぬということを日々共有していれば、お互いが尊重しあえる。相手のマイナス面も含めて受け入れられる。
それをまあ大体忘れているんですね。
小川洋子・河合隼雄の対談:「生きるとは自分の物語をつくること」
「博士の愛した数式」小川洋子、「大人の友情」河合隼雄をもとに
した対談

2009年5月2日土曜日

かかりつけ薬局②


おはようございます。あらためて取材してみますと、薬の利用の仕方が知らないことを痛感しました。
★★他にも同じ薬なのに、請求薬価が違うこと等がありますのは次の事例です。
★患者が自主的に同意すれば、自宅での訪問指導が受けられます。当然指導料がかかります。
★飲みやすくするために・粉にしてほしいとかの要望も、朝昼晩の薬の仕分け等費用、介護する人や、手足が不自由な人には便利。
★薬の効能について、毎回同様な説明であっても法定の指導料が請求されています。
★病院の横の薬局と離れている薬局の値段がことなる。田舎の場合を考えてみると理解しやすいのですが、病院の横の薬局はその病院の必要な薬品の品揃えや回転がよいので経済効率がよい。一方病院の傍でない薬局であっても同様な位の在庫を取り揃えて置くことが要請されている。そうなると回転が悪い薬品もある訳で在庫の期間が長くなるので請求薬価が多少高くすることが認められているのだそうです。
★★症状が改善されて服薬を中止したくなった場合、折角の効果があったのに、症状が戻ることはさけねばなりませんので、当たり前のことですが、必ず医師や薬剤師さんに相談してくださいと。
★★処方箋による薬は有効時期が明示されていませんので、どの位経過したものかわかりません。薬の袋ごとに保管して新・古の区別をしておきましょう。おおよそ有効が2年位とだそうです。
★ジェネリック薬品:20年の特許期間が経過し、後発の薬が三・四割安く提供されてということで、関心が高いのですが、特許がきれると欧米の場合すぐに約80%にジェネリックに変わるそうです。とはいうものの、2002年のデーターでは、実際に使われている数量ベースでは欧米50%、日本では16.9%なのだそうです。さらに分かりにくいのは日本の場合の特許期間が過ぎた薬品はジェネリックとされているのは、主成分だけにジェネリックの材料を利用しているのに対し、欧米では内容がすべてコピーされたものとの相違があります。そうなると、効き目の判断基準の吸収率が相当に異なることもあるそうですので、薬剤師や医師に聞いてみてくださいとのこと。
★薬の2面性:ガンの薬等でよくきくことですが、副作用があるといわれています。薬は、副作用が皆無ということではなくて、症状に有効の部分が大きいから利用するのだということを忘れないで下さいということだそうです。

2009年5月1日金曜日

かかりつけ薬局


ある人と話していたら、その奥さんの体調がどうしてももどらず、歯と背骨のユガミやずれが原因だったという。医者が診断を下す前に、どうしてだろうと彼が悩みあちこちの病院もてんてんと
してやっと辿り着いたそうです。その過程でそうとう無駄な散財もしたそうです。結局治療先が見つかったのは愛情以外にないですね。ところで「シニアかわら版」の医療特集号で取材した記事
の一部です。
★★薬剤師は健康水先案内人★★
★★情報は分かりやすいものに:大概の人は薬局にいくのは、キッチンの洗剤や石鹸、トイレットペーパー、ハミガキ、化粧品などの購入か、医師からの処方箋で薬をもらうときでしょうか。
薬品の情報は、雑誌・新聞、薬事典、家庭医療辞典など書籍でもインンターネットでも情報が多すぎて肝心な要点が見えにくいですね。こうした場合に気軽に常時新しい整理された情報をお持ちの医師や薬剤師、看護師の専門の知恵をいただきたいものです。
★★一つに絞る薬局のメリット:処方箋は誤解されがちですが、どこの薬局でもお願いできます。自分の最寄の薬局一つに絞りますと、数か所の医院からの指示で多くの薬を頂いている場合は薬の重複を防ぐことができます。
★★処方箋での薬は、その症状に特化して効く様になっています。それが市販の薬と違うところです。体格や年齢や体調によって効き目がことなるわけですのでその辺りが難しいのですが、不安などを感じたら相談してみましょう。薬の受取で都合が悪い場合などの時にはほとんどの薬局で配達をしてくれますので頼んでみましょう。受領時の処方箋を渡します。
処方箋の有効は受領日の当日も入れて4日間ですので、すぐ(FAXも含めて)調剤の依頼ができるそうです。土曜日の午後、日曜祭日に営業している薬局もありますし、その場合は特別のサービスなので、特定料金となるそうです。