2008年8月31日日曜日

闘牛


四国では動物の飼育が盛んですね。それも食べるのでなく、愛媛県の宇和島の闘牛、高知県の闘犬や尾長鶏などです。昔から裕福だったのでしょうね。

愛媛県の宇和島の闘牛は800kgもの牛同士の迫力あるぶつかり合いになる。その音はいかばかりでしょうか。 幼いときから角のは矯正の針金を巻き、先端を鋭くしている。闘争心を失くし戦列を離れたりすると負け、普通闘枝の結果の賞金は苦心惨憺して育て上げたのであるから、勝者に多く分配される。しかしここでは全く逆になって6:4になっているそうです。勝ったのであるからそれだけで名誉を受けているのであるので充分だ。名誉はお金に変えられない。愛媛は四国巡礼のお接待の精神というか他を先にする気持ちのが常に生きているのであろうとも思えます。

2008年8月28日木曜日

30年潜伏はどうして?


今年は連日の日照でお米は相当の豊作のようですね。
昨日の小野田さんの2回目。なぜ30年も潜伏していなければならなかったかを知りたかった。

小野田氏は1922年3月19日和歌山県海南市生まれ。中国で商社マンをしていま
したが招集後、陸軍中野学校でゲリラ戦の訓練を受けたあと、1944年フィリ
ピンに派遣され、ルバング島で残置諜者※となるよう命令を受けました。しか
し戦争が終わった後、彼らに任務終了の命令が届きませんでした。
       ※残置諜者(ザンチチョウジャ) 敵の占領地内に残留して 味方の反撃に備え各種の情報を収集しておく情報員。攻撃を予定する方面に事前に潜入し 同様な任務に付く者を「先遣諜者」と言う。遊撃指揮(ユウゲキシキ) ゲリラ戦について、未教育の部隊や兵員に実地で指導すること。 (共に旧陸軍の遊撃戦闘教令の軍用語)


当初のメンバーは4名。小野田と、島田伍長、小塚上等兵、赤津一等兵です。
このうち1949年、赤津一等兵が投降したことにより、このグループの存在が
明らかになりました。しかしなかなかその所在をつかむことはできませんで
した。

1952年、朝日新聞の辻豊記者が「戦争は終わりました。出てきてください」
と叫びながらジャングルの中を歩き回りますが、小野田らは米軍の謀略では
ないかと考え、出ていきませんでした。

1954年、地元の軍隊と武力衝突。この時、島田伍長が戦死します。

1959年には小野田氏のお兄さんが捜索に向かい、本人であることを知らせる
ため、旧制一高の寮歌を歌いましたが、彼らを信用させることはできません
でした。この捜索が芳しくなかったことから、政府は残りの二人も1954年の
戦闘で死亡したのではないかと推測。(この時兄の姿をみていたそうです)

しかし1972年、また地元民と衝突。戦闘が起きて、小塚上等兵が戦死します。
この時一人逃げた人がいたという証言から、残る小野田氏が生きている可能
性があるとして、再び捜索隊が組織されますが、見つけることはできません
でした。

この小野田氏を帰国に導いたのは、冒険家の鈴木紀夫氏です。

鈴木はルバング島のジャングルにテントを張っていて、この年の2月20日、
偶然小野田と遭遇。ここで一晩掛けて小野田と話し合い、彼に戦争が終わっ
たことを語り、一緒に日本に帰りましょうと説得しました。しかし小野田は
自分は命令を受けてここに残留しているから、その命令が解除されない限り
勝手に帰るわけにはいかないと言います。

そこで鈴木は、小野田の上官となんとか連絡を取ってみるから、後日、もう
一度会って欲しいと要請。小野田も同意して、3月10日、もう一度会うことに
なりました。そして、この日、約束通りの場所に現れたのです。

(横井にしても小野田にしても30年間ジャングルで暮らしていて暦はほと
んどずれていなかったそうです。昔の人というのは大したものです)

鈴木からの連絡で小野田の元上官・谷口義美少佐が急遽ルバングに赴きまし
た。そして、この日現れた小野田に、残留命令の解除を伝え、長年の任務遂
行の労をねぎらったのです。小野田(当時52歳)は3月12日、鈴木らとともに帰国します。

帰国後政府はせめてもの慰労金として100万円を渡そうとしますが、誇り高き
小野田は拒否。どうしてもというので、彼はこれを靖国神社に寄付してしま
います。そして天皇や首相との会見を断り、真っ先に戦闘で亡くなった部下、
島田と小塚の墓参りに行きました。彼は義理を通す人でした。

そして1年後彼はブラジルにわたり、牧場経営を手がけます。そしてそれを
成功させ、大牧場主となってから再び日本に戻り、現在は「小野田自然塾」
を主催して、子供たちにアウトドア生活の指導をしています。(現在も継続して
いるかははっきりしないが、HPは存在している。あるいは奥さんの町枝さんが
活動しているのかもしれない)

小野田は厳しい運命の濁流の中、自分の生き方を常に模索し、常に
困難と闘い続けています。ですから小野田にとってはジャングルの中での30
年というのも無意味な時間ではなかったのです。
(自らの命を60歳までと覚悟して30年間戦争を戦い続けていた。平成14年で80歳を迎えている。

2008年8月27日水曜日

空白の30年を埋める努力


秋の長雨ではないかと思ってしたのですが、久し振りで太陽が照っています。


小野田寛郎も奥さんの町枝さんもすごい人だなと思いました。

私は戦友になれたかしら:小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年:小野田町枝著より

昭和49年(1974年)3月12日のことである。
「30年間で楽しかったことは何ですか?」
「何一つありません」
「30年間で苦しかったことはなんですか?」
「戦友を失ったことです」
フィリピンのルパング島で30年間戦い続けた帰還兵小野田寛郎(当時52歳)さんのテレビ映像だった。
彼の鋭く光る目に,あんなにも潔くて、強い信念の持ち主が、この世の中に存在していたことが不思議に感じられた。私の心はその強さにひきつけられた。-この人のためなら私は死ねるー
この気持ちが繋がって、信濃町の自宅に程近いホテルニューオータニで妹と食事をしていると、すぐ近くの席に彼がいることに気がついて挨拶に立った。その席にいた陸軍中野学校二俣分校の同窓の島捜索に尽力された末次さんとまた偶然にジョギングで出会い。小野田の壮行の集いに招待された。その後も縁があって38歳で未婚の町枝さんは、ブラジル移民の義兄の勧めもあって53歳の小野田さんがブラジルに出かけたところまで赴いた。そこで結婚の意志を固めた。 小野田の牧場は7年間無収入だった。いろいろ尽力した方も東京からブラジルの奥地の牧場の半ば原始的な生活では町枝さんはこの結婚後3ケ月ともたないと思われていた。
サンパウロで農産物の展示会に招待された時にしったのは戦後間もなく、日系移民の間に起こった「勝ち組」と「負け組」との抗争事件があったことも知った。日本同士が戦争に勝ったとする人と、負けたとする人々に分かれ対立し、それがエスカレートして殺人事件にまで及んだ。
町枝さんはいう。夫がブラジルへ発った時,誰もが彼は日本を捨てるのかという思いを抱いたかもしれない。しかし夫は日本を捨てた分けではなかった。命令が受けられなかったとはいえ、30年もの間、誤った戦略的判断から戦争を続け、そのために一度ならず日本から捜索隊を派遣させてしまったことに恩義を感じ、いつかその恩返しをするための基盤を求めていたのであった。日本で起こった金属バット事件を聞いて、子供たちがおかしい。これで自然塾は子供を親から切り離して、集団の不便な生活が友達との調和、協力の必要を悟り、ひいては親、他人社会の恩恵に気づくだろうの思いからだった。この財団は創立14年を迎え参加者は累計2万人を超えた(2002年の時点)。どうも一回では語れないようです。

2008年8月26日火曜日

素人の手びねり


気象の予報ではまだ夏は終わっていないというのが時実感できませんが、一時的でも肌掛け布団など対応はそれほど面倒でなく、扇風機も休憩ですね。

今度陶芸の仲間に入ってきたYさんは、われわれの俱楽部の先生をやってくれていたが、そんな柄は窮屈だからと同じ仲間の立場がよいという謙虚なIさんが連れてきた人です。
我々の会は11人の中で、電気ロクロを使える人はIさんともう一人でしたが。今度入会したYさんは、見事に使いこなしている。厚みの薄い、きれいな器の形を作る。
何種類かある粘土もこれはロクロにはよいが「手びねり」には使いにくいとかいう。私はまだまだ初心者で「手びねり」なので粘土の水分によって固さが異なるのかな位にしか分からない。
Yさんは陶芸教室にも相当通ったが、焼くのに相当な待ち時間がかかるので此方にも参加したいということで来られたようです。そこでは白い粘土は相当に経験した人でないとまだダメだとか、釉薬をかけるとき、茶碗を逆様にして釉薬の桶にいれるが、素人は丸い底の部分がかからないので2度桶に入れる。職人ともなると、ピタット1回で釉薬が塗れてしまうという。
Yさんも入会の挨拶で、素人は頑張っても職人さんにかなわないそうですし、素人の初々しさがいいと言われていたそうです。
私たちもまだ陶芸を習い始めて3年目ですが、最初の先生が初心者の無心の「手びねり」が一番よいのですよ。何でも挑戦するというトラワレがないのがいいですよと言われていたのを思い出した。  イエローポスト

2008年8月25日月曜日

孤独の総量


北京オリンピックも終わりましたね。高校野球も終わりました。今日の涼しさみたいな間が空いた感じです。
陸上の為末大選手も、驚くほど思索的な文章を自身のブログに記している。
 これから昇る者もいれば、必ず去っていく者もいる五輪は、最高の人生の教科書だと私は思った。すべての人生に必ず訪れるだろう覚悟のとき、あるいは恐れる人物に対峙(たいじ)するとき。われわれを支えるのは、それぞれが闘った恐ろしいほどの孤独の総量でしかないと、選手が教えてくれる。
 孤独から逃げずに闘った者だけが、輝きを手にし、悔いのない決断をわがものとするのである。(さかもと みめい漫画家=さかもと未明産経ニュースから)

為末大のブログから
かつてこれほど1秒1秒を大切に扱った事はありません。ただ走れる事にこれほど感動をした事もありません。走っては子供のように喜び、痛みが出ては絶望を味わう。その狭間を行き来する中で、そのうちに生きるという事はこういう事かと思うようになりました。これまでいろんな事が普通にできすぎて、それを感じる事がなかなかできませんでした。 走る事に意味を感じているのは、小学生の時に初めてスパイクを履いた時のうれしさよりも、今の方が強くなっています。私の身にはいつも必要な事が必要な時に起こるような気がしてなりません。
 人生に何度か我を忘れて走っていた事がありました。気がつけばゴールしていた、そういうレースがだいたいにおいて最高のレースだったりしていました。競技人生で最高のレースを私自身が走った気がしていないというのが何とも不快で、自分で理解しようとこれまで努めて来ました。 ですが、30歳になった今年の日本選手権、またそういうレースになってしまいました。20年経っても結局同じ事をしていました。ふとレース後にこういうものは理解するものではなくて、もうそういうものなんではないかと思うようになりました。”don't think feel” です。 不思議な感覚ですが、うたた寝のような感じで、終わり際はわかるけれども入り際がわかりません。自分で動いているよりも自分が自分でないような感じが強まります。
http://tamesue.cocolog-nifty.com/samurai/message/

2008年8月23日土曜日

子供の携帯電話


ケイタイをさらに有効に使いたいと思っていたら、こどもとケータイなので分かり易く書いてあるとおもったら子供にケータイを持たせるには親も相当に勉強しなくてはいけないことが分かりました。便利なものほど危険も含んでいる。

2008年の2月の全国の小学校から高校3年まで2000名を対象にケイタイの普及率の調査が行われました。
小学校3・4年生19.5%
5・6年生25.8%  
中学1・2・3年生59.0%
高校生 95.2%
概ね2割程度の普及率になってくると自分の周りにも利用している人たちがいると意識され出すようになります。そして4割になると、自分の周りが使っているから自分も利用したいと思うようになります。そして過半数を超えると、周りがみんな使っているから仲間外れになりたくないと思うようになってきたりします。
子供がケイタイを持ち始めるのは中学1年がピークだそうです。
有害な情報を制限するファクタリング機能にはホワイトリスト方式とブラックリストがある。ホワイトは健全情報だけのせ、他は自由にはアクセスできない。ブラックは逆に
リストにのせた有害ものにはアクセスできず、他は自由。ブラックは子供の自主性に期待するが、年々新しい有害情報が生まれるのでこれをリストにするのに間に合わないという事態もあるそうです。
★身に覚えのない架空請求にたいしては無視することが最善の策で、いきなり請求してくるような危ないところには個人情報は入力しない。機体番号と呼ばれる固有の数字をサイト側に送信しあたかも重大な個人情報を取得しているように思わせ、不安にさせるがこれもあわてることはないそうです。
★ネットいじめの手口
パターン1:陰でこそこそ本人がいないところでメールで悪口を流して仲間外れにした  り、板に写真や悪口を書きこみます。
パターン2:悪質ななりすましは本人になりすまして、他人を誹謗中傷するメールを勝手に流したりする。
1・2は日時と内容を記録し、デジカメにも残して学校や、児童相談所などに相談する。
パターン3:ケータイを体育の時間中などケイタイを持ち歩けない状況にこっそり教室に忍び込んでいじめの対象者のケイタイを盗む。日頃ロックをかけておく。
★「30分ルール」30分以内にメールを返さなくてはいけないという独自のルールがあるそうです。だから片時も手放せない。夢中になっているわけでもない。
★WEBサイトで知り合うとき、ネット上では外見や人格を容易に変えられるので、違う人の写真を見せるというのもあるのでだまされやすいので、知っている人以外は近づかない。プロフという自分のプロフィールは悪用されるので氏名や住所や電話など書かないでニックネームにする。


まだまだあるようですが、

2008年8月22日金曜日

遺跡発掘


ソフトボールは以前の王監督が采配した世界野球試合とおなじようなハラハラどきどきの展開で3度目の正直で金メダルとなりました。しかしサッカーは残念でした。
産経スポーツによれば、サッカーの試合で開始前、中国人カップルと待ち合わせた友人との会話。「どっちの応援?」「ドイツさ。民族感情があるからね」「その通り」。試合会場の雰囲気はこの会話通りの展開となった。 日本を応援する中国人はいるにはいた。公平に両者を応援する官製の「文明応援隊」も各所に陣取っていたが、記者の近くにいた「応援隊」はどちらのチームにも応援せず機能していなかった。

 近畿や関西の遺跡発掘とちがって昔の武蔵野は都から遠い辺鄙なところだったのでしょう。
 都市計画道路の整備などに先立ち、記録保存のための発掘調査が行われており、その成果をについての現地説明会が行われました。日時 平成20年8月21日(木曜日)午前10時~場所 西東京市住吉町五丁目13番 南入経塚遺跡周辺(西武池袋線の保谷とひばりが丘の両駅の間踏切横で線路南沿いでした。
 案内があったのを11時になって思い出して自転車を飛ばしたが郷土資料室の係りの亀田さんに聞くと、何も出なかったそうです。
経塚といえば、金属や瀬戸物の中に入れられているという想像もあるが、木製ということもあるので朽ちはてたという可能性もたかい。南入経塚は、かっての下保谷村のはずれにあり、お経を埋めた塚であるなど、古くから多くの言い伝えがありますが、詳細は不明のままでした。伝承では13世紀のもので輩を供養した「板碑」と同時代だという、しかし書面で残っているのは江戸時代でそうです。
従来は東西に走る横山道といわれ、鎌倉時代は横山党という武士集団がいた八王子の横山につながるからと言われた鎌倉街道のところと南北に走る清戸道の交差するところに位置している。一番標高が高いところに位置している。
こんもりした山で周辺の赤い地山の土と違い、黒い土で人手によって盛られた形跡がある。この塚は新計画の都道路が完全に通過するので、部分的掘削ではなく完全な掘削をした。埋め戻しをして後世に残すものや移転すべき材料もない。今まではいろいろな想像をめぐらすことはできた。しかしこれで終わりではなくて、近所にもう3つ経塚があるがまだそれもはっきりしない。もともと武蔵野の原野の中で、村のはずれに道しるべか、何かの供養に埋めたものかもしれない。確かにこんもりしているので何かがあったというのは確かだという。それなりに期待したことでしたが、何の遺物も残っていないというウタカタの物語でした。

2008年8月21日木曜日

撃墜王




最近は夜に窓はあけていますが、扇風機は止めても睡眠できます。あの当時のイラクはどんな気候だったのでしょうか?

ラガ-外交官奥田克彦は平和のために懸命の努力を重ねていました。彼がイラクで銃弾に斃れる7日前、つまり2003年11月22日の臨時代理大使、上村司が妻にメールで送っていた。なぜか第2次世界大戦時の「撃墜王」に関する内容だった。
日本にはラバウル航空隊の「西沢広義」「坂井三郎」「笹井醇一」あるいは加藤隼戦闘隊の「加藤建夫」といった戦闘機のエースパイロットがキラ星のように並んでいた。一騎当千というやつだ。
米軍と空中戦になる。最初の頃は日本の無敵のエース機やベテラン機が米軍機をそれぞれ10機、20機と撃ち落としてゆく。
ただ米軍はチームとして戦う。つかれたチームは休ませ、ルーキーであっても、新手のチームを次々に繰り出すのだ。いくらベテラン機であっても不覚をとることはある。1回の戦闘で米軍機10機を落としても、日本は1機位は食われる。

日本と考え方が根本的に違うのだ。30機撃墜されると、50機があらたにやってくる。空中戦が何度続くと、さすがに日本のエースパイロットにも疲れが出てくる。集中力が薄れる。腕の差があても、ふとしたことで、敵機の銃撃に被弾してしまう。米軍のパイロットは順次交代するのに、日本はエース機を頼り、出撃を重ねる。日本の撃墜王は傷つくまで帰れない。日本がまけたのは、こんなシステムのせいではなかったのだろうか。60年経っても、日本の精神構造はさほど変わらない。欧米の国でイラクの応援組織に派遣されているスタッフは皆ながくても半年で交代している。
「奥はそういう意味で“撃墜王”ですよ、日本のエースですよ。だれも責任とらないけれど、奥も井上疲れていたんですよ」
イラクの生活での緊張は想像を超えるものだった。昼間は車で走り、夜はパソコンで情報整理。分析、連絡をする。張りつめた状態が続く。疲れているが、頭が冴えて眠ることができない状態にある銃撃事件だった。
日本を想い、イラクを翔けた―ラガー外交官・奥克彦の生涯 :松瀬学著より

2008年8月20日水曜日

激戦のあと


2000ピクセル以上のフリー写真素材集より
オリンピックの北島選手は昨日帰国していました。
オリンピックの選手の金メダルと初戦敗退と両方あります。金メダルや2種目2制覇と、
なった選手はスランプなど紆余曲折があったことを乗り越えたのも、周囲のお陰で、応援していただいた方々に感謝したいという気持ちを述べています。銀メダルは1・2位決定戦の敗者、一方銅メダルは3・4位決定戦の勝者でメダルを手にした笑顔が明らかに違います。銅メダルの方がとてもうれしそうです。
一方初戦敗退となった場合の今後の自分の処し方も金メダル以上の努力が必要なのでしょう。この辺を書いたドラマはないものでしょうか?
読みたい人、吐露する選手両方すくないでしょうが・・・

金メダルを獲得した選手はおそらく下記のごとくでしょう。あのラガー外交官・奥克彦が大変に評価していたのはジョニー・ウイルキンソンだった。
2003年3月イギリスのトウイッケナムでイングランドとイタリアのラグビーの試合があった。イングランドのスタンドオフのジョニー・ウイルキンソンが長年にわたる準備と激しい試合のすべてが終わり、故郷に帰りタイムズ紙にこんな気持ちを寄せている。
・・・・・Ihave got theze memories in my mind and they are good enough they are what I want ・・・
いろいろな素晴らしい思い出はしっかりと私の心の中にあり、それで私はもう十分なのです。それこそが、 ずーと肌身離さず、どこまでも持っていきたいものなのです。
私が振り返る時、思い出すのは、ノーサイドの笛のあと、勝利の大歓声が鳴り響く、とんでもないスタジアムの風景、やったぞ、という意気揚揚とした気持ちと、やっと終わったという、ほっとした気持ちが入り混じったものです。
そして、それまでの大変な努力の積み重ねが実を結んだ充実感です。
今日このごろ、自分が2003年のこのチームの一員であれたことが、いかに恵まれたことであり、誇りにつつまれたものであったか、神に感謝するのみです。

2008年8月19日火曜日

貧乏と金持ち


2000ピクセル以上のフリー写真素材集より
もうオリンピックも終わりに近い、もう応援するのも、数すくないが、他国の競技は自分の子供が出ていない運動会をみているようですね。悲喜こもごもで、初戦敗退の選手が早く立ち直ることを期待したいですね。


●貧乏の何が最も辛いのか。僕の好きなイギリスの作家E・Mフォスターに言わせれば「貧しい者が愛する相手にと近づくことができないだけでなく、もう愛していない相手から逃れることが出来ない」
徹底した貧民となると、泣くか笑うかどちらしかない。それならば笑う方を選ぼう。英語では極貧のことを「まるで教会のネズミみたい」という表現をするそうです。教会には住宅と違って台所がない。ネズミはさぞお腹が空くだろう。
●アラブの油田王がロールス・ロイスを買った。一週間後、代理店に電話が入って、あれはもう乗れないからもう一台持ってきてくれ」という。言われた方は故障か欠陥車かと焦って駆け付けた。お屋敷の広大なガレージの前でおそるおそる理由を聞くと、「いや、灰皿が一杯になったんだよ」。
●やはり油田のおかげで大富豪になったアラブの老人。一度も自分の村を出たことがなかった彼が、生まれて初めてニューヨークに行った。最高級のウオードーフ・アストリア・ホテルに着いて、秘書がチェックインの手続きを済ませる間、ロビーの椅子で待っていた。たまたま一人の老婆がやってきてエレベーターに入った。扉が閉まる。あの狭い部屋は何だろうと彼が見ていると、十秒後、同じ扉があいて若い美女が出てきた。そこへ戻ってきた秘書に彼はいった。「あの機械を買ってかえろう」
●ある時フィッジエラルドが言った。「超金持ちの人たちっというのはね、ぼくやきみとは本当に違う人たちなんだよ。」
それに対してヘミングウエイは、「そうさ,奴らはぼくらよりたくさんお金を持って
いる」と答えた。違いはそれだけと言いたっかったのだろう。


叡智の断片:池澤夏樹より

2008年8月16日土曜日

現状認識

2000ピクセル以上のフリー写真素材集より
オリンピックの女子サッカーの中国の応援は日本が2点いれたら、もう声援も希薄で、帰路につくという点は全くドライでしたね。
そういう意味では現実的で、戦争に遭遇しても、相手が大きいとか強い場合はじっと我慢するのでしょうか?文化大革命から想像するとそういうふうに なりそうです。日本人の場合華々しいところに目が奪われてしまう点があります。子供が褒められて嬉しがっているようです。
今日も長くなりました。私は自分の家で毎日新聞をとっていながら、一度もこの夕刊に掲載された乃木将軍について書かれた「斜陽に立つ」を読んだことも、掲載されていることもしらなかった。


旅順港の攻略
日本の初戦当時の連隊は36門の砲をもつのに、本命のクロポトキンとの戦にそなえて控える作戦は一日5発の砲弾しか許されなかった。
児玉源太郎総参謀長が直接指揮をとるようになり、28サンチ砲に装てんする砲弾はウソのような気前のよさだった。その後の両軍の肉弾戦はすさまじい限りであった。(無謀です)

水師営の会見1905年[明治38年1月1日にステッセル中将は降伏した。
投降した旅順要塞司令官ステッセル中将が白馬に乗り、陽光を跳ね返す原野の雪を蹴って、水師営にやってきたのは1月5日の朝だった。第三軍司令官乃木希典は,沿道に隊列を作って彼を迎えることを禁止した。敗軍の将を見世物にすることを避けようとしたのである。
午前11時、砲弾で破壊した民家の前庭で希典とステッセルは、互いに微笑しながら固い握手を交わした。このときステッセルと同行の副官たちに帯剣を許し、軍人に対する礼をもって迎えたので彼らの感激はひとしおだった。そのことにたいする謝辞をステッセルが述べた。彼が敗軍の将に敬意をもって接し、武士として遇しないはずがなかった。
敗軍の将ステッセルに示した乃木希典の紳士的な応対は各国から集まってきている報道陣をいたく感激させた。たちまち欧米各紙を通じて世界にひろまった。(格好しいの面)
日露戦争には観戦武官もきており、アメリカ・スペイン戦争で武功のあった米国陸軍の中将アーサー・マッカサーが混じっていた。彼が副官としてつれてきていた士官学校を卒業してまもなく、陸軍中尉は息子のダグラス・マッカサーである。親子して乃木希典
の写真が家に飾ってあったという。
マッカサーはトルーマン大統領と意見があわず1951年4月解任され帰国する。
日本を去る日赤坂乃木宅のそばにアメリカハナミズキの苗を植えた。今やひとかかえもある大木になって乃木をしのぶ緑陰を作っている。

古川薫氏はいっている
人類の歴史とは戦争が巨大な徒労な凄惨な過程を縫い合わせしたのではないかと
まで痛感した。生まれたさせられた所与の環境とある時代との遭遇が人間をいかに動かしていくのか。あるいはそれに挑戦する人の運命を見定めようとするのが、歴史小説の眼目ではないかと語っている。
対露宥和ロシア方針の伊藤博文は日本の実力をよくわきまえていて反対していた。
東郷元帥はバルチック艦隊を撃破し、セオドア・ルーズベルト大学で同窓だった金子堅太郎の努力でポーツマス講和会議となり、全権の小村寿太郎は日本の要求が突っぱねられ、敗戦国の譲歩を重ねて、ポーツマスで賠償金の撤回、樺太割譲は半分とすることとなり、悲痛な屈辱の光景となった。

日本の戦力が尽きている現実をしらない民衆3万人が日比谷公園で気勢をあげた。(正確な報道がない、弱い面の報道は国を困らせる?)
小村寿太郎に全権を与えているが、上層部は相談されても屈辱的な交渉になると予想して、答えを出せないからそうしたのではないか。又日清戦争で勝利し、こんどの戦争も、日露戦争も国力の実勢をしらない戦をする。現実認識を疎かにして感情的な戦が日本では行われることが繰り返されていると思えてならない。

2008年8月15日金曜日

テレビ観戦


2000ピクセル以上のフリー写真素材集より
オリンピックを見るには3台位のテレビが欲しい。チャンネルをカチャカチャまわしてしまいます。
今日の個人総合の体操をみて:
富田の吊り環からの落下して豆腐が潰れたような感じ、それが影響してか内村のあん馬の2回もの落下は力が抜けたというような姿だった。これでは応援するというよりも、本人の落胆ぶりが相当なものに見えチャンネルを変えた。ドイツの選手にも影響を確実に与えたようだった。
これは全く違っていて本人等はあとの競技に鋭意専念すればよいという割り切り方をしていたのだと思う。応援する側のいい加減さである。いいいところ取りだけの共感を期待しているだけでした。恥ずかしい限りである。
何かの拍子に体操の画面にもどると、相当に善戦している様子。一度失敗すると、挽回を断念してしまう。しかしこの2人はそうはならなかった、野球は9回の2アウトから始まるごとく、まさにそういう展開にしつつあった。彼らの表情は必死な形相でもなかったし、たんたんとしていつもの練習の成果を再現する演技だった、
これだからこのスポーツの醍醐味である。チャンネルを戻さなかったらこのドラマを見逃すところだった。

競技の経過は下記の通り
体操男子個人総合決勝が14日、国家体育館で行われ、内村航平(日体大)が91・975点で2位となり、銀メダルを獲得した。内村は2種目を終えた時点で22位と大きく後退したが、中盤以降に本来の動きを取り戻した。冨田洋之(セントラルスポーツ)は4種目を終えて17位だったが結局は91・750点で4位だった。優勝は、個人総合の世界選手権王者の楊威(中国)で、94・575点だった。これはメダル以上の価値のある熱意溢れる闘志であった。
 今大会の体操でのメダル獲得は、男子団体の銀メダルに次いで2個目。男子個人総合での日本のメダル獲得は、1984年ロサンゼルス大会の具志堅幸司(現男子監督)以来。
 19歳の内村は1種目目の床で無難な滑り出しを見せたが、2回落下した2種目目のあん馬で13点台にとどまって22位となり、厳しい展開となった。だが、4種目目の跳馬で16・300点、5種目目の平行棒で15・975点の高得点を連続して出し、5種目目を終えた時点で4位まで浮上した。最終種目の鉄棒では、コールマンなどの大技を確実に決め、メダルをたぐり寄せた。
 冨田も3種目目の吊り輪の着地で大きくバランスを崩して転倒したが、5種目目の平行棒で16・000点を出して追い上げ、最終演技の鉄棒でも着地をしっかり決めた。
 決勝は6種目の合計点で争われた。出場者は1つの国・地域で2人までと決まっている。エース・冨田は予選で日本の3番手となる6位だったが、実績などを考慮し、5位の坂本功貴(順天堂大)に代わって出場することになった。内村は予選4位だった。

2008年8月14日木曜日

倒幕運動につながる


2000ピクセル以上のフリー写真素材集より

長府藩にお預けになった赤穂浪士10人が屋敷の裏門より送りこまれた時、藩主
毛利甲斐守綱元は在府中だった。ただちに屋敷内の長屋を急づくりの牢屋に仕立てて義士たちを入れ、あくまでも罪人として収監した。最初は粗末な一汁一菜だった。
同じ義士を預かった熊本の細川藩は、義士を武士の鑑として、優遇し、彼らを牢ではなく、藩邸の座敷に収容した。毎日の御馳走攻めに義士たちが音をあげたという。それに比べて毛利氏のひどい仕打ちが江戸庶民の不評をかった。
長州藩の義士たちに対する冷遇を後世におよんでも侮蔑をもって語る史家が少なくない。しかし長府藩みずからが、その状況を詳細な事実として記録したことの意味、そして2百数十年にわたる面従腹背の姿勢が倒幕運動となって噴き出したことに思いをトどかせる人は少ないようだ。
関ヶ原で西軍の総大将となり、敗戦後徳川に煮え湯を飲まされたことへの屈折と卑屈な体質が、長らく毛利家の対幕府姿勢に反映したのである。
幕府に向ける怨嗟(えんさ)の視線が、幕府の警戒心を刺激した。ささいなことに因縁をつくられ、」とりつぶしになるのではないかという秘かな恐怖心を毛利氏はいつも漂わせていた。
 たとえば: 浪人(義士のこと)に爪楊枝を与えてよろしいか
       毛抜きを所望しているが与えてよろしいか
       扇を所望しているが与えてもよろしいか
       発病したとき医者に診せてもよろしいか
古川薫:斜陽にたつ(乃木大将について)より

2008年8月13日水曜日

アニメの力


写真は「ほおずき市」
アニメの力というのも相当な力ですね。マグドナルドのハンバーグを食べていれば、アメリカ風に染まってしまう。映画祭でも立派な賞をいただいている。「おしん」もあの苦労は世界各国で人気と日本文化も結構活躍しているようですが、下記のように限界はあるものの、日本文化を理解してくれる層を自然に作っているというのは凄いなあとおもいました。

アニメの力・日本の「武器」に現実の壁。
地球観察というところで(8/4朝日朝刊)クロード・ルブランが書いている。
記事はともかく、日本のアニメの力強さは大したものであるらしい。
7月3日~6日までパリ北東で日本アニメなどの文化を紹介する「ジャパンエキスポ」が行われた。会場にいるフランス人・スペイン人・ドイツ人・ドイツ人が闊歩していたが、彼らのほとんどは日本にはいったことがない。しかし日本について聞くと、顔中笑みが広がる。又日本に住みたいという。「そうなったら夢心地だよ」ともいった。
こうした良いイメージは日本政府の政治的行動の結果ではない。おそらく彼らは一度も福田首相のことも聞いたことがない。マンガやアニメ、コンピューターゲームの名探偵コナンやナナ、ピカチュウなどが大使にとなり、日本に対して無関心でしかなかった国々で日本の評価を上げるという幸運をもたらした。
今や日本のマンガは市場の約40%を占める。英国BBCなどの調査の日本が世界に良い影響を与えていると思う人は56%で、ドイツとならんでトップだ(ドイツの場合理由はなにか?)。
自衛隊のイラク派遣は同盟国である米国との協調をはっきりと示したが、自衛隊が使う給水車には人気アニメ「キャプテン翼」のステッカーが貼ってあった。「翼」は現地でも大人気で自衛隊が標的にならない装甲板の役目を果たした。このエキスポは毎年10万人前後が訪れる。こうした企画は長期の投資のようなものだ。欧州でもアジアでも若い世代はマンガやコンピューターゲームのキャラクターとともに成長し、いつかは国の運命をその手に握る。彼らはサルコジ大統領よりもずっと日本を理解している。
大統領は相撲についていえば「ポマードで光ったまげをつけた肥満男の戦いなんかに、どうしたら魅了されるんだい?まったく知性のないスポーツだ」と04年に言い放った。この発言や欧米の首脳が見せる尊大な行動は日本の「イメージ作戦」の限界をよく表している。米国が北朝鮮のテロ支援国家指定を解除する手続きに入ったのを見れば如何に日本の国益が無視されているかが分かる。

2008年8月12日火曜日

スイカ


山形で果物の有名なのはサクランボ、に加え尾花沢のスイカです。スイカはあの赤と皮の縞模様の緑はとても美しい。果物でも切った形の美しさは一番ではなかろうか。それがこの暑さの中で食べるからよいが、涼しい日はまったく目もくれない状態になってしまいます。黄色のすいかは味がとても上品ですね。小さい頃は井戸端に桶をおいて、水をくみ出してスイカを一生懸命冷やしていた。美味しさはあの努力があるからと、スイカを囲む談笑の雰囲気から出るものでした。

 日経新聞に木田元さんが「あすへの話題」で書いていました。そういえば和歌山の友人が西瓜を送ってくれた。少し小ぶりなのが2つ。あまり早いのでびっくりしたが、包丁を入れると真っ赤に熟れていて、なんとも豊醇な甘さだ。極度に皮が薄いので食べ応えもある。老夫婦で食後に一切れずつ食べ、1日で1玉半片付けてしまった。こんなにおいしいとなれば、近くに住んでいる次男一家の、せめて2人の孫くらいには食べさせたいところだ。しかるに、翌日も朝と昼、食後に大き目に切ったのを一切れづつ食べてしまい、週末だからと、夕方次男一家が立ち寄ったころには、もう4人分は残っていない。ほかの到来物を御馳走して、スイカの話はせず「じまい。
夕食後、口に出さなかったが、二人とも後ろめたさの思いで最後の2切れをたいらげたあとで、家内が「とうとう孫にも食べさせないで、自分たちだけで食べてしまって」といいながら貼ってあったラベルを見ると、「いやだ、これ ひとりじめという銘柄みたい」まるで人の気持ちを表したネーミングだった。

この「ひとりじめ」もあの黒い種がなくて食べやすいが、写真や絵に描きたい人はすくないでしょうね。アイスキャンディのスイカにも種らしきものしかも食べられるチョコレートの種が立派に入っている。美的センスのデザイナーが考えたものではなかろうか。

2008年8月11日月曜日

パレスチナの若者の心境

写真は長内デザイン室からhttp://www.snowdome.net/exhibition/s/index1.html
自爆テロの心境など理解できるものかと思いましたが、下記の映画「パラダイス・ナウ」によってならば実感できるものでした。
イスラエル人の人もみて自爆テロの苦悩がわかってこれで良いのかと動揺したそうです。
パラダイス・ナウ  http://www.uplink.co.jp/paradisenow/
「物事を“邪悪”と“神聖”にわけるのはナンセンスだ。私は複雑きわまりない現状に対する人間の反応を描いているのです」
ハニ・アブ・アサド(監督
脚本はパレスチナ人のハニ・アブ・アサド、プロデュサーがイスラエル人もヘンガメ・バナイ・アミール・ハレム他2005年;2006年題63回ゴールデングローブ賞最優秀外国語作品賞
自爆テロが続くパレスティナ。自爆攻撃者に選ばれた若者2人が決行に向かうまでの48時間。
親友である2人は自動車修理工場で働いていた。

主人公のサイード(カイ・ナシェフ)とその親友のハーレド(アリ・サリマン)はそんなある日、サイードは車を修理にもってきた美しい女性スーハと出会い、互いに惹かれ合う。ヨーロッパで教育を受けたスーハは、殉教者であった父の故郷ナブルスで一人暮らしを始めているが、ヨーロッパとパレスチナの社会の違いに戸惑いと苛立ちを感じている。主人公と友のハレードはそんな退屈で希望のない日を暮らしているある日に以前から願っていた自爆テロに選らばれたのだ。自爆テロに選ばれたことは大変な名誉であったが、国境をイスラエル側の手引きで越えたと思ったら、手引きがお金だけもらって(後払いになっているそうですが)何らかの理由があったのか、最初からそうだったのかわからないが、裏切りにあって急遽自国に引き返す。(両国にはこの浮世を裏切りによって生きざるを得ない人々がいる)
この映画をみていると、主人公と同じ環境に追い込まれてゆく。一旦とん挫したので、自爆テロの怖さとかはちょっとした弾みで逃げ帰りたい気持ちになってしまう。軍事力の弱いパレスティナにあっては自爆テロは意趣返しにはなっても、逆に強大なイスラエルからの報復の連鎖が続くだけである。侵略してきたイスラエルは歩みよりを見せることはけしてない。
どっちにころんでも、自爆テロによるしか抵抗の方法がないやるせなさ。いったん自分に装着された爆弾は外せない。2人はスーハの説得で自爆テロの虚しさも分かりかけてきている。母親は主人公には何も言わないが、主人公の父はパレスチナを裏切たことで処刑されたことは分かっていて、やりきれない少年期を過ごしている。結局、友人はともかく、主人公はイスラエルの首都テルアビブに戻って、常に自爆するためのスイッチ紐に手をかけ続ける決心もついて、あちこち探してバスにのった。そこに乗り合わせたのが目標とする大勢のイスラエル兵士だった。兵士たちもまさか自爆テロが一緒に乗り込んでいるとは思わないで・無言でバスは走ってゆく。見ていてどっちにころんだとしても早くこの緊張から解放されたいとおもう。主人公は神のご加護を自分に故意にも言い聞かせながら、紐を引っ張る。爆発で画面は空白な画面になってENDを迎える。映画を見終わっても観客はしばらく立ち上がれない。誰かに何かいわずにはおれない心境になってしまう。

自爆攻撃について、どのようなリサーチをしましたか?
自爆攻撃を実行した人にはもう話を聞けませんから、自爆攻撃者の遺族、自爆攻撃を計画するグループ、イスラエルに収容されている自爆攻撃に失敗した人を弁護する弁護士に会って話を聞きました。また、他の文化も参考にしようと、日本の神風特攻隊の残した手紙を読みました。

リサーチを通して感じたことを教えてください
私の調べたところによると、自爆攻撃をした者の遺族は自爆攻撃で亡くなったことを大きな損失だと感じています。しかし、誰も無駄死にしただなんて思いたくないので、社会の為に死んだと口にします。しかし、心の内はきっと違うでしょう。神風特攻隊の手紙は、自爆攻撃者と非常に似ている部分がありました。「良いことをするんだ、お国の為だ」と自分に納得させようとする文が多く、しかし、文字の隙間に恐怖だとか悲しみといった、人間らしい面が感じられました。そうしてはっきりしたことは、ひとつとして決まったタイプはなく、誰一人としてステレオタイプな型にはまっていないということです。
なぜ彼らは自爆攻撃をするのだと思いますか?
パレスチナの若者は占領下に生まれ、毎日のようにイスラエルの軍隊に侮辱を与えられます。希望もなく、自分達にできることは何もない、そんな無気力な若者が自爆攻撃をするのです。自分は臆病で、無力だと感じている若者に、唯一できることが自爆攻撃だと思い込んでいるのです。自分が死ぬことで敵を倒し、英雄になれる、そこで初めて生きている実感がもてるのでしょう。

自爆攻撃者の運命についてどうお考えですか?
この映画で描きたかったのは、信仰により受け入れてしまう運命というものです。Destiny(運命)とFate(信仰)は似ている単語ですが、destinyは「運命を自分で変えていくこと」、Fateは「そのまま受け入れてしまうこと」を表します。サイードとハーレドの場合、最初は組織の人間に指名されそのまま受け入れましたが、最後は結果的にそれぞれ自分で決断して行動しました。例えばサイードは、ハーレドとはぐれて単身イスラエルに向かった時、バスを吹き飛ばすチャンスがあったのにそうしなかった。子供たちを道連れにできなかったのです。でも、最後のシーン、バスは兵士でいっぱいです。兵士は自分と同一視できたのです。ここに、彼の意志と主義があります。全ての人間にとって最後に死ぬということは変えることのできない運命ですが、しかしその過程は人それぞれで変えることができるのです。

2008年8月9日土曜日

北京オリンピック

写真は長内デザイン室からhttp://www.snowdome.net/exhibition/s/index1.html
昨日ではなく確実に今日までまたがっていた北京オリンピックの開催式に圧倒されました。あのセレモニーをテレビは報道できても、新聞の活字情報はどのように表現しているかが楽しみです。
スケールの大きさはあの万里の長城そのものですね。ただの人海戦術ではなく、文化は紙・羅針盤・活版は中国が発生の地であることを想起させたり、中国が世界の中心だったことがなるほどよく分かりました。あの演出のドラマは中国のスケールの大きさそのものでした。
この祭典を見ていると世界は平和そのものという感じもしますが、、ロシアがグルジア空爆、南オセチア攻撃の記事をみると、この祭典に使われた花火のところどころ戦火に見えるような一面があります。204ケ国も参加していましたが、ソ連の崩壊によってかなりの数の国が誕生していました。
解説によって知った国がありました。星条旗の星はただひとつの旗をもったアフリカ大陸の西端のリベリア(19世紀、アメリカより解放された奴隷の移住地として発展:1847年7月独立、最近は内紛もあったが、国連の管理下2006年1月16日にジョンソン=サーリーフ大統領がアフリカ初の民選女性大統領に就任し、新政権のもと、国の再建が進められている。)


中国は大きいので、いろんな面があるようですが、この祭典で圧倒され、見失った点について日本に帰化した評論家石平氏がいっているのは
今の中国政府にも、華麗な演出をやってみせなければならないという理由がある。念願の北京五輪開催年である今年(2008年)は、政権にとって大変不本意な「厄年」となったからだ。自然災害の頻発もさることながら、チベット騒動や新疆警察襲撃事件の発生は「民族問題」の先鋭化を示した。一方、貴州省甕安(おうあん)県で起きた焼き討ち暴動や雲南省での連続テロ事件の背景に見られるのは、現代中国における社会的ゆがみの拡大と社会的不満の高まりである。
 そして、中国社会にとっての最大の「安定維持装置」である経済の繁栄と成長も、まさに2008年から、かげりを見せ始めた。株価の暴落と不動産市場の低迷が兆したバブル経済の崩壊が目の前に迫ってくる一方、折からのインフレの進行が庶民生活を圧迫し、コストの高騰などがもたらした沿海地域の製造企業の倒産ラッシュも目立つようになった。
 中国国内一流の専門家からさえも、「中国版サブプライムローン危機の到来」や「インフレと不景気が同時に進むスタグフレーションに陥る可能性」への警告が発せられ、中国経済が今年から落ち目に転じていくのは確実である。
 すさまじい経済成長を成し遂げている最中でも、この国では億単位の失業者が途方にくれ、年間に数万件の暴動や騒動が発生していた状況だから、経済がいったん落ち目となれば、社会的不安と混乱がどれほど拡大していくのか、もはや想像もつかない。
 あたかも、このような悪夢の襲来を必死に振り払おうとするかのように、昨日夜、鮮やかな花火が北京の夜空を彩り多くの国民を熱狂させた。祭りの興奮が収まった後に一体何がやってくるのか、それこそが問題ではないか。(せき へい)
こうはいっても、中国と世界はもう密接にかかわりあっているのですから気になりますね。

2008年8月8日金曜日

戦争の犠牲者

写真は長内デザイン室からhttp://www.snowdome.net/exhibition/s/index1.html
華やかな戦火のないオリンピックと、6日と9日の被爆の日は重なっている。

アジアプレス・ビデオジャーナリスト玉本英子さん(41歳)は語っている。
今のイラクは誰が正義で誰が悪なのか分かりにくい。人を殺したり首をきたりしているのが、私たちと同じ普通の人間であることを知ってほしい。米国同時多発テロ(01年9月)以降8回、イラクで取材した。4月武装勢力が流入した北部の都市モスルは、市民が公園でピクニックを楽しんでいた04年当時の様子は一変していた。ある女子中学校の学級では、半数以上の生徒が親友や家族などを米軍やイラク軍の兵士などに殺されたと答えた。日本が支持した「自由のための戦争」が人びとを苦しめている。政府側に拘束された武装グループの副隊長に話を聞いた(どうやって取材したのでしょうか?)。日雇い労働で家族4人を養う生活は苦しかった。爆弾を仕掛けて100ドルという高報酬にひかれたという。彼の仲間は05年5月に自爆攻撃を行った。狙いは警察官の採用面接会場。犠牲になった50人の多くは職を求める貧しい家庭の青年たちだった。私は現実の“かけら”として映像を持ち帰り、提示し続けている。戦争は何をもたらすのか、断片をつなぎ合わせ、考えてもらいたい。と語っている。


http://www.asiapress.org/apn/

イラクの小さな橋を渡って:池澤夏樹

2001年国連は経済制裁によるイラクの死者の数を150万人と推定するレポートを発表した。このうちの62万人が5歳以下の子どもだった。この子たちをアメリカの爆弾が殺す理由はなにもない。爆弾だけが人を殺すわけではない。
禁輸は徹底していた。本や雑誌、便せんや封筒、お棺、電球、靴、玩具、1輪車まで入っていた。

どの戦争でも犠牲になっているのは老若男女や貧しさから抜け出したい人々ではなかろうか。

2008年8月7日木曜日

レトロによる復活

写真は長内デザイン室からhttp://www.snowdome.net/exhibition/s/index1.html
2008.8.5:12ch:ガイアの夜明け
2年前にクラス会があって、「コテコテ」の大阪事情を案内するということで行ってみました。そのとき
大阪の道頓堀に昭和の町を復元して入場料もとって、昔懐かしい品々を売っていて、これに入場しているのは皆若い人ばかりでした。私はちょっと
このレトロには違和感を覚えたのですが、次の例があるのにはびっくりしました。
企画者はサンライズエンターテイメント社長久保浩:s34年品川商店街で生まれた:
レトロで町を活性化した例でいえば、お台場1丁目商店街なども彼の作品のようだ。4作品あるとのことである。:

帰りたい故郷をイメージする:
見本例3つ:
①志木ニュータウンの誕生は昭和46年3000戸1万人現在シャッターばかりは団地高齢化が主原因。
手塚トキコさんは75歳、食品の購入は生協の戸別配達で商店街にはゆかない。遠いお台場までは行けない。おじいちゃんやおばあちゃんが主役になることが活性化の条件→商店会会長の鈴木さんを訪問し、スーパーやデパートができないことを空き店舗を利用してやりましょう。駄菓子屋さんをやりましょう。昭和の人情は厚かったという・昭和レトロが懐かしい。男性ならここでビール一杯、ここにあの手塚さんが来店し、近所の孫と同年代の子供に相談してプレゼントを選定してもらい、お礼にもんじゃやきを御馳走する。久し振りに一人で食べることから解放された。次々に高齢者も訪れてきた。他の空き店舗では、ベーゴマ大会をやっている。これにはオジイチャンと子供等が参加した。

 ②千葉市にある総泉病院は認知症の診療で定評のある病院で、
70歳以上のかたがたに懐かしきは何かのアンケートをとった。女性の90%はおてだま、男性はおでん・飲み屋80%というデーターです。病院内にs20年から30年の町並み再現して思い出ミュージアムを作った・昔の道具に触ってもらい、回想法で記憶の活性化を図っている。この病院のウエルエイジセンターの高野所長が指揮をとっている。思い出療法は学会でも発表され注目を浴びている。この療法で12人の患者の半数が相当に記憶を取り戻している。長女と一緒に住みだしたオバアチャンが階段から落ちて脳挫傷になり、流動食しか受け付けない状態までなった人がここで治療を受けて普通食に戻り、また長女と一緒に住める状態まで回復している。 手で覚えたことは忘れない。事実お手玉もできる。ここで紙芝居(聴覚・視覚・飴の味覚動員)をやってみようということで、患者に聞いたところ、黄金バット、のらくろの紙芝居を神田の古本屋で探してもなく、インターネットで黄金バットをゆずってくれる人がき見つかり、病院で再現、拍子木はこのおばあちゃん、太鼓は他のオジイチャンにやってもらい・活性化につなげた。
 
③北名古屋市の民家に昔の道具を市が買い取って認知症の予防のための回想法の場所を設けた。石臼で粉をひいて、ひな祭りのオコシを作ることでオバチゃン達が昔を回想してずいぶんと喜んでいる光景があった。

2008年8月6日水曜日

探検隊

写真は長内デザイン室からhttp://www.snowdome.net/exhibition/s/index1.html
昨日の豪雨もすごいものでした。大雨注意報がでたら長靴が必要ですが、それ以上に降ります。

公民館の行事でした。親子で町探検をしようとう募集内容でした。家には災害用の非常袋が用意されていますが、実際どのように役に立つのかは案外わかっていません。
これは災害の場合の訓練の企画でした。
親子で9/6・7の2日間の探検です。本来は訓練かもしれませんが、初めての体験だから探検という冒険的要素が強いのかもしれません。

① 災害という視点でマップを作ってみよう。(災害用井戸や非常食の備蓄や病院や医院がどこにあるか。避難所はどこか)
街歩きのときの携行品はジュースやお茶よりも水がよいでしょう。とあるのは当日までの宿題ですとあります。顔を洗ったり、炊事の水はどの程度利用できるのでしょうか?

② 災害時の食事を体験しよう。アルミの缶でごはんを炊いてみましょう。緊急食を囲んでの夕食会です。寝具はタオルケットまたは大き目のタオル。
 トイレや夜間の照明はどうするのでしょうか?
③ 阪神・淡路大地震の体験をした人をお迎えして貴重なお話をを聞きます。神戸あたりでは全国にPR部隊を派遣しているのでしょうか?あるいは西東京市で呼んだのでしょうか。
④ 西東京市危機管理室の人やFM西東京の人から災害時の話を聞きます。
⑤ 避難所対策グッズの体験をしてみよう。(各家庭の非常袋の中身は使ったことがありません。非常食もいれたままです。)
⑥ 街歩きのとき、2日目の朝は早く起きて周辺を掃除してみましょう。ボランティアの試みもあるようです。
応募してみようかと思ったのですが、小学生とその親が対象でした

2008年8月5日火曜日

集中豪雨



写真は長内デザイン室からhttp://www.snowdome.net/exhibition/s/index1.html
昨日は小田急線の新宿から2つ目の参宮橋にいました。参宮橋も新宿も全く雨が降っていません。テレビニュースのテロップに西武多摩湖線(国分寺と萩山)拝島線(小平からJRの拝島)が激しい雷雨で運転中止しているという。下記路線図でもおわかりいただけますが、小平付近を中心の豪雨のようです。
うっかり天気予報はみていないので傘ももってきていない。19時に仕事の交替でその人は小生の住む東伏見の一つ手前の武蔵関で遅れないように1時間も前に出てきたという。しかし洋服も濡れた形跡はありません。こちらも帰路をどのような経路がよいか考えてもわからないのですが、西武新宿線の始発の新宿まで行ってみることにしました。駅の前はそんな混乱は見られず、構内に入ると列車時刻は相当に遅れていることを告げています。ホームも溢れんばかりです。16:30から1時間半にわたって運行を停止していましたとのアナウンスでした。溢れるほどのホームも手前はすごい混雑ですが、中程を過ぎるとそうでもありませんでした。電車もすぐにきて、途中の高田馬場も鷺の宮(5分停車)上石神井(3分停車)で通常ドアtoドア1時間10分が15分余計にかかった位でした。唯電車の中混雑は朝のラッシュ並でした。用心で借りてきた傘も不要でした。しかし駅付近はその跡形もありませんでしたが、自宅までは大きな屋敷に大木が10本位あるところの横はビショビショでした


     新宿線       多摩湖線
 新宿~22.6km小平1.5km→萩山9.2km国分寺
  
       ↓ 14.3km拝島線
      拝島
 2年前も西東京市でこんなことがあった。向台町で1~6丁目まである。これは東西で2kmの幅です。豪雨が1丁目に降って浸水までしたのですが、6丁目の人に聞くと、「えっつそんなことがあったの」という。
食料問題の記事でもこの25年間に洪水が4倍、最近では神戸の川の走水も集中豪雨のせいです。
夏の雨は集中的に降るようになり、降雨量の計算も50年に一度の確率で見ているようですが、相当大幅に見ておかないといけないように思いました。

2008年8月4日月曜日

市町村合併


写真は長内デザイン室の世界のお土産より
今住んでいる西東京市は田無市と保谷市が合併してできた街です。近隣との合併については何回も試みられて失敗を重ねてかろうじ出来た街です。
同じくらいの規模の街でしたが、いまだに市庁舎は保谷庁舎と田無庁舎と2つあります。議員や市役所職員の削効果がどの程度あったかはわからない。
便利になった点は保谷市は地形がカニがハサミを広げたような形で、ハサミで囲んだ丁度中の部分が田無市であったので両市あわせた形が格好がよくなった。
個人では図書館が数多くなったので利用できる図書の数も多くなったし、現在陶芸をやっているが、今まで田無市であった公民館でやっていますので、市民交流の幅が大きくなった点です。実感できる点はそういう点で合併の効果は長い目で見る必要がある。旧田無市のほうが財政では優良な企業を抱えていたので、よかったので、田無市のほうがシブシブであったようです。

虹の彼方に:池澤夏樹:市町村合併の本当の問題:

市町村合併によって官僚の数が減ることや、議員が減ることはそれぞれの経費が節減できてよい。村A,B,C,Dと町Xが合併する。今村は自立して地域内を自らの判断で経営
している。しかし合併後はそうはいかなくなる。人口比に合わせて議員をだすとすれば例えば、各村から3人づつ町からは10人。それぞれの村の思いは町に否定される。そんな田舎の些細な案件で自分達の足を引っ張るなといわれ、町化することが発展だといわれ、多数決での町の意見ばかりが通る。つまり、これは合併ではなく併合なのだ。例えば
石川県尾口村の文弥人形浄瑠璃は都会にいって見て、感動して持ち帰ったというような歴史がよくわかる。がこの種の公演は経済的に引き合わないことが多い。村なら援助の話しは理解されるが、合併後はどうだろうか。全国の寒村が危惧していたことはどうなっただろうか。

2008年8月2日土曜日

新しき村


自分が知らないだけなのでしょうか?西欧人は生活のエンジョイの方法をよく知ってします。探せば下記のような日本でももっと例があるのかも知れません。どうでしょうか?
武者小路実篤記念館に行った時に分かったのですが、武者小路実篤が創設した東の村(新しき村)が健在でした。一度訪れてみたいと思います。


光の指で触れてよ:池澤夏樹:中央公論社
「何なの、それ?リゾートなの?」と聞いた。
フランスの東部にエコドルフというのがある。
「ちょっと違うな。少しは働くらしいよ。いや、滞在だけでもいいけれど。働きたければ働けるみたい。畑仕事とかね。「よくわからない」
「休暇の過ごし方の一種。宿泊施設があって、畑があって、野菜を自給自足できるくらい作っている。普通の滞在客は宿泊にはお金を払うけれど、たくさん働くボランティア・スタッフになれば宿泊と食費はただになる。すきなだけいればいい」
「誰でも行けるの?」
「もちろん。ヨーロッパにはこういう施設は多いよ。みんな休暇が長いから。中身はいろいろ」「リゾート・ホテルじゃないから質実剛健だと思うよ。贅沢なものはない。でも周辺に観光地があれば行って遊べるし、安い宿と割り切って使う人も多い」

新しき村の現状(2008年)http://www.atarashiki-mura.or.jp/
●所在地〒350-0445 埼玉県入間郡毛呂山町葛貫423電話・FAX 049-295-5398(事務所)●土地約10ヘクタール(登記済) 借地約3ヘクタール●村内生活者19名(14世帯)
●村外会員約180名
●生産事業農業が主体で、採卵養鶏・椎茸・稲作・野菜が四本柱です。ほかに、季節ごとに筍・茶・梅・ゆず・ぎんなん・柿などを収穫・販売しています。土壌改良剤としての鶏糞も販売しています。加工品としては、梅干・梅サワー・ゆで卵・竹炭などがあります。村の売店で販売しているほかに、出荷しているものもあります。
新しき村の創立時から、村内生活者の日々の仕事は農業が中心でした。その理由は、実篤の言葉を借りて言えばこうです。「それは百姓の労働が一番もとだからだ。 衣食住をただにするには百姓の労働が一番近か道だ。それ以上の生活はそれからだ。」新しき村は農業にのみこだわっているわけではありません。適任者がいさえすれば、新たな事業に取り組むことができます。

2008年8月1日金曜日

後引きで気になっている。


昨日のNHKの番組にっぽん夏紀行「青い海に飛びこめ~高知・柏島~」が見終わってもまだ気になっている。
サンゴ群落に囲まれた高知県柏島。港にかかる橋が島の子どもの夏の遊び場だ。6メートル下の海に飛び込めるようになると、子どもたちは一人前と認められる。「今年こそ飛びたい」と願う小学5年生の拓也君。父のような漁師になりたいが、父は“橋ジャンプ”ができない拓也君をなかなか船に乗せてくれない。同級生が次々と飛べるようになるなか、拓也君は父との約束を果たせるか? 青い海を舞台に、少年のひと夏の成長をみつめるという前置きでした。
私も神奈川県の大磯ロングビーチというところでアルバイトをしたことがありました。50mのプールや10mの飛び込み台がありました。そこは泊まり込みでしたが、毎朝早く起きる人がいました。プールに飛び込む時に小さなポケットから小銭が落ちる。それが澄んだ水から見える。一日の日当に匹敵するくらいの収穫になっていた。これが皆に分かると早く起きるものが増えて、実入りは少なくなったようでした。そこの10mの飛び込み台に中間に5mの部分もありましたが、小生はその高さから見下ろすが、試行しませんでした。結構勇気が必要でした。ということで高さの恐怖はわかっていました。

拓也君は小さい時おぼれたことがあった。そのときの恐怖感があって一人だけ、シュノーケルをつけて30m沖のたまり場へと泳いでいた。
 泳ぎが10m→努力して検定してもらったら100mまでになった。当然シュノーケルは外すことができた。これだけでも大したものだ。
 同じく悩んでいたもう一人の友人は1年下の4年生の女子が眼の前で先行飛び込みを決行したのにつられて出来た。拓也君はだんだん追い込まれてゆく。
 とにかく周りの応援団は勇気を後押ししている。からかうものはいない。成功者はいう「一度の勇気」のあとは恐怖感が失せると。
 2m下の4mの橋げた部分まで下がる縄をつたわって恐怖感を和らげ、仲間が先導の飛び込みもやってあげたり、父も手をつないでやったが、握る手を離して一人残る。
やっとそっとではあるが肩を押されて成功。
いよいよ本番で橋の欄干の外まで出た。あと一息です。がんばれという声援があったがどうしても逡巡してできず、見守る方は気持ちはしたいが、肩押しはせず辛抱。

帰宅後の日記には6mの成功まではいたらないが、4mまでは行くことができた。何とか夏休み中に成功したいとの気持ちを記した。
この拓也君が夏休み中に是非成功して欲しいことがどうなったかが気になっている。