2008年8月22日金曜日

遺跡発掘


ソフトボールは以前の王監督が采配した世界野球試合とおなじようなハラハラどきどきの展開で3度目の正直で金メダルとなりました。しかしサッカーは残念でした。
産経スポーツによれば、サッカーの試合で開始前、中国人カップルと待ち合わせた友人との会話。「どっちの応援?」「ドイツさ。民族感情があるからね」「その通り」。試合会場の雰囲気はこの会話通りの展開となった。 日本を応援する中国人はいるにはいた。公平に両者を応援する官製の「文明応援隊」も各所に陣取っていたが、記者の近くにいた「応援隊」はどちらのチームにも応援せず機能していなかった。

 近畿や関西の遺跡発掘とちがって昔の武蔵野は都から遠い辺鄙なところだったのでしょう。
 都市計画道路の整備などに先立ち、記録保存のための発掘調査が行われており、その成果をについての現地説明会が行われました。日時 平成20年8月21日(木曜日)午前10時~場所 西東京市住吉町五丁目13番 南入経塚遺跡周辺(西武池袋線の保谷とひばりが丘の両駅の間踏切横で線路南沿いでした。
 案内があったのを11時になって思い出して自転車を飛ばしたが郷土資料室の係りの亀田さんに聞くと、何も出なかったそうです。
経塚といえば、金属や瀬戸物の中に入れられているという想像もあるが、木製ということもあるので朽ちはてたという可能性もたかい。南入経塚は、かっての下保谷村のはずれにあり、お経を埋めた塚であるなど、古くから多くの言い伝えがありますが、詳細は不明のままでした。伝承では13世紀のもので輩を供養した「板碑」と同時代だという、しかし書面で残っているのは江戸時代でそうです。
従来は東西に走る横山道といわれ、鎌倉時代は横山党という武士集団がいた八王子の横山につながるからと言われた鎌倉街道のところと南北に走る清戸道の交差するところに位置している。一番標高が高いところに位置している。
こんもりした山で周辺の赤い地山の土と違い、黒い土で人手によって盛られた形跡がある。この塚は新計画の都道路が完全に通過するので、部分的掘削ではなく完全な掘削をした。埋め戻しをして後世に残すものや移転すべき材料もない。今まではいろいろな想像をめぐらすことはできた。しかしこれで終わりではなくて、近所にもう3つ経塚があるがまだそれもはっきりしない。もともと武蔵野の原野の中で、村のはずれに道しるべか、何かの供養に埋めたものかもしれない。確かにこんもりしているので何かがあったというのは確かだという。それなりに期待したことでしたが、何の遺物も残っていないというウタカタの物語でした。

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