2008年8月27日水曜日

空白の30年を埋める努力


秋の長雨ではないかと思ってしたのですが、久し振りで太陽が照っています。


小野田寛郎も奥さんの町枝さんもすごい人だなと思いました。

私は戦友になれたかしら:小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年:小野田町枝著より

昭和49年(1974年)3月12日のことである。
「30年間で楽しかったことは何ですか?」
「何一つありません」
「30年間で苦しかったことはなんですか?」
「戦友を失ったことです」
フィリピンのルパング島で30年間戦い続けた帰還兵小野田寛郎(当時52歳)さんのテレビ映像だった。
彼の鋭く光る目に,あんなにも潔くて、強い信念の持ち主が、この世の中に存在していたことが不思議に感じられた。私の心はその強さにひきつけられた。-この人のためなら私は死ねるー
この気持ちが繋がって、信濃町の自宅に程近いホテルニューオータニで妹と食事をしていると、すぐ近くの席に彼がいることに気がついて挨拶に立った。その席にいた陸軍中野学校二俣分校の同窓の島捜索に尽力された末次さんとまた偶然にジョギングで出会い。小野田の壮行の集いに招待された。その後も縁があって38歳で未婚の町枝さんは、ブラジル移民の義兄の勧めもあって53歳の小野田さんがブラジルに出かけたところまで赴いた。そこで結婚の意志を固めた。 小野田の牧場は7年間無収入だった。いろいろ尽力した方も東京からブラジルの奥地の牧場の半ば原始的な生活では町枝さんはこの結婚後3ケ月ともたないと思われていた。
サンパウロで農産物の展示会に招待された時にしったのは戦後間もなく、日系移民の間に起こった「勝ち組」と「負け組」との抗争事件があったことも知った。日本同士が戦争に勝ったとする人と、負けたとする人々に分かれ対立し、それがエスカレートして殺人事件にまで及んだ。
町枝さんはいう。夫がブラジルへ発った時,誰もが彼は日本を捨てるのかという思いを抱いたかもしれない。しかし夫は日本を捨てた分けではなかった。命令が受けられなかったとはいえ、30年もの間、誤った戦略的判断から戦争を続け、そのために一度ならず日本から捜索隊を派遣させてしまったことに恩義を感じ、いつかその恩返しをするための基盤を求めていたのであった。日本で起こった金属バット事件を聞いて、子供たちがおかしい。これで自然塾は子供を親から切り離して、集団の不便な生活が友達との調和、協力の必要を悟り、ひいては親、他人社会の恩恵に気づくだろうの思いからだった。この財団は創立14年を迎え参加者は累計2万人を超えた(2002年の時点)。どうも一回では語れないようです。

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