2008年9月30日火曜日

水の旅


もうシャワーからお風呂になりましたが、それも蛇口から出るお湯も時間がかかるようになりました。果物も柿が美味しい。

フィリピンのマニラ北方にパンダバンガ・ダムという多目的ダムがある。貯水量23億トンで日本とはケタ違いの巨大ダムです。ところが周囲の山々には森林がない。木のないところにダムを作ってしまった。そのために降れば洪水、照れば渇水の繰り返しであった。そんな山々は見渡す限りの大森林の跡形がないのはスペイン統治領時代から100年も200年もかけて荒廃し、牛も食べぬという雑草だけが茂っている。聞けばドイツもスエーデンもフランスも緑化の試みや調査にはいったが、失敗したり難しさで断念した。そこに日本の国際協力事業団の10人の技術者が悪戦苦戦している。

日本の技術者にとっていっそう恐ろしいのが山火事であった。緑化のこの10年の歴史は山火事との戦いであった。牧草地の火入れの飛び火もあった。牧草地への火入れは、そのあとに若草が生えるからである。だが大半は放火であった。理由は木が育ってくると日本の事業所が引き揚げ仕事がなくなる不安からであった。植林の大切さを知らぬ現地人の意識との戦いであった。植林の文化を持たぬ土壌に植林の価値を分かってもらうことだった。植林地に現地人が大事にするマンゴやカシュウナッツの木を植えたが、今度は持ち帰ってしまい、自分の庭に植え直すのであった。「これは木が移動するだけのこと。植林の大切さが理解された訳だから結構です。」という理解の仕方で日本の技術者は目を細めた。「パンダバンガンの森林も、もうしばらくすれば村民の燃料に使えるようになる。そうなれば彼らも森林を大切にするようになるだろう」若い技術者がいったことばのこの確信が心に残ったそうです。  もう時代が変わって植林がうまくいっているかもしれない。

又自然とは人間が利用してこそ守られる。木を切るな、林道をつけるなの自然保護には現実には弱い面もあるそうです。

富山和子 氏の「水の旅」より

2008年9月29日月曜日

日露戦争に投資した男③最終回


随分涼しいというよりも寒くなってきましたが、睡眠は深くたっぷりとれました。どなたも布団を取り出したことと思います。

半面強大な陸軍をもつロシアが再び東アジア進出を企てないという保証もなかった。そこにあらわれたのが世界を目指す鉄道王ハリマンで戦費公債の500万ドルの引き受け手でもあり、南満州鉄道(満鉄)を1億円で買収し、シベリア鉄道経由でヨーロッパに至る構想を提示し予備協定書を結んだ。こうした予備協定書では講和条約を不満とする国民の怒りを抑えきれないと小村寿太郎は反対し、拒否となりハリマンのライバルであるモルガン商会が資金のない日本に4・5千万円の前貸しすることでの条件がでた。こうして小村も強硬にハリマン案に抵抗し、葬り去ることが出来たが、南満州鉄道の日本の独占経営となっていったことが、ルーズベルトのあとになったタフト政権が期待した満州の門戸開放は実現されず、日米関係は悪化したまま、アジア太平洋戦争へと突入していく大きな端緒となった。(日本は結果論からみると現実をしらないのか、誇り高きを選ぶのか)

ハリマン構想の挫折は日本政府が恩を仇で返すような態度にたいし、シフは激怒し、その怒りを高橋にぶつけ、来朝しハリマンの覚書の復活に多少の運動を試みたが奏功しなかった。タフトが政権をとると反日に変わった。満州の南満州鉄道[いわゆる満鉄]門戸開放し、列強の共同管理にする中立案も提案したが、戦後に日露協調に転じて[何故?]反対したので成立しなかった。シフは日本に対する厚情は理解に満ちたもので、日本には中国の資源が必要であり、日本の行政手腕が必要だということを前世紀末から対中投資を考えていた彼は判断したのだった。

なぞとして残るのは来朝時に韓国訪問がありながら満州訪問がなかったのは何故なのかが残るそうです。

1906年3月25日に横浜に上陸し、5月19日まで日本の東京、日光、箱根、大阪、京都、神戸、宮島、下関、韓国、奈良を歴訪し、天皇はじめから政財界のお歴々は日本の危機にあった時、戦費起債に対する並々ならぬ配慮に感謝の念を込めて、それぞれに心のこもったモテナシを受けた。それはとても気持ちのよい晴れ晴れするものだった。

日本を離れるときの彼の挨拶:日本の印象を誰からも質問をうけるし、帰国しても同じことですのでお話します。日本のみなさんの特質は質素と倹約にあり、かつ君主、祖国、互いへの忠誠心にあると申し上げたい。またみなさんの孝心、若者がお年寄りに払う感動的なまでの敬愛の念、お年寄りが若者を慈しむ愛情についてお話すことでしょう。私の見るところ、みなさんの強さと自信は若い頃には若い頃から男らしいスポーツに体系的に取り組んで肉体を鍛えながら感情の抑制にも習熟することに由来しております。学習意欲に加えて誰もがただ同然に受けられる教育にもその源があります。

2月前我々はよそ者でしたが、みなさんはこころから歓迎してくれてすぐによそ者ではなくなりました。

しかし日本にも欠点もあります。しかし欠点のない国があるでしょうか?骨董商のことですが、この人でさえとにかく家に帰るに必要なだけのお金は客の手元に残しているようです。

お別れに際し皆さんのことばで「サヨウナラ」のほかに適切な言葉がありません。では皆さまの健康と幸福そしてお国の繁栄のいために乾杯―サヨウナラ」

日露戦争に投資した男:ユダヤ人銀行家の日記:田畑則重

2008年9月27日土曜日

ささえあい訪問


青と黄色の混じったみかんも出回ってきています。果物は豊富でつい買ってしまいますが、食べきれませんね。

ささえあい訪問:田舎であれば、隣近所がおのずとお互いに見守れていますが、この制度は65歳以上の方で例えば独居ではなにかあった時に、本人以外の人がどうされているのか、余計な御世話にならないように、、ご本人の希望により親類縁者がいない方など、日頃の異常事態(照明が点灯しっぱなし、窓の開閉がない、新聞や郵便物の取り込みがない、洗濯物の取り込みがないなど、電気やガスや水道メーターの検針)状況を見守り、さらに希望があれば自宅訪問や緊急時の要請への臨時対応をする。市の講習を受け委託を受けた訪問協力員が、シニア問題の何でも気軽の相談所地域包括支援センターを中心にカバーする制度。

ささえあいをする訪問協力員の既講習受講者:44人、訪問サービス利用者申込者は8人。

内二人世帯が2人、一人世帯が6人。内要介護度1は1名、要介護度2が1名でした。年齢が71歳から87歳。サービス希望者よりも訪問員が多いのがいまのところの特徴です。

小生の地区では希望者0、協力員が14名で、協力しようにも需要がゼロです。ですから待機中です。

西東京市人口等(平成17年で189735人):65歳以上で、人口は35575人、親族のいる世帯は24476、単身世帯は6885(男2203、女46602

新宿でもやっているそうですが、サービス希望者はすくないが、周知度がたかまると希望者も増えてくるという。

誰しも思うのは見守られるよりは見守る側にいたいでしょうから、この心理を希望者側にも一部もてるような内容が織り込まれているとよいのですが、そんな妙案はなかなか出てきませんので皆さんのお知恵を拝借したいですね。

2008年9月26日金曜日

南国の蝶



昨日は佐渡の朱鷺が自然に放鳥されました。兵庫県のコオノトリのように自然でも生息できるようになったように成功をいのりたい。

西東京市に田無駅から7分位の東大農場は千葉のほうに移転するという話があったのですが、市民が署名運動をして19万人弱の人口で4万名も存続を願ったのが聞き届けられた。この農場を通っていたときに農場ですから蝶が結構飛んでいました。その後公民館に立ち寄ったらいつも楽しみにしている「自然を見つめる」という冊子を見つけた。市内の知らない自然の状況が分かって面白いのです。その中で見つけた蝶の話です。

西東京市に西部地区に団地を囲むように自然の状況をなるべく残した、西原自然公園がありKさんという方が8月1日草刈り作業中に蝶が舞い降りたのをみつけた。しかし蝶の知識がないので名前がわかりませんでした。

カメラがないので、急いで手帳を引っ張りだし、鉛筆を走らせた。やっと片羽を描いたら飛び去ってしまった。詳しいSさんという人に報告し、帰宅後図鑑をみてびっくり。日本では奄美大島にしかいないとのことです。どうして見たのでしょうと悩んで2週間.Sさんが朝日新聞に記事ありとの電話報告を受けた。数年前、飼われていたのが野生化して、本土に広がっていると知ったそうです。本土でも(西東京市も)熱い土地になったのでしょうか。住みやすい環境になっているのでしょうか。その名はアカボシゴマダラという蝶でした。右はオオムラサキという有名な蝶は参考です。

「自然を見つめる」2008年9月号:西東京自然を見つめる会

そうしたらネットで調べたら神奈川県藤沢市川名の新林公園にも

2006年9月9日の詳細な観察記録があった。卵から幼虫が葉を食べて大きくなり、羽化するまでの経過を記してありました。

http://insects.life.coocan.jp/Tateha/Akaboshigomadara.htm

2008年9月25日木曜日

日露戦争に投資した男②


昨日の昼間の風は湿度がなくさわやかな風で心地よいものでした。弓道は出世的(しゅっせまと)いって通常は1.2尺ですが、5つの的を並べ、8寸から3寸までを5段階に刻んで、

一つ的中すれば次に進んでゆくものです。これが小さい的でも1発で次に移行することもあれば、ひとつに難渋してしまうこともあり、毎日ではなく、月に1回は昼飯を挟んでやります。みんな大好きで一生懸命です。これだと熱中してつい疲れを忘れてしまいます。

昨日の続きです

日露戦争に投資した男②:ユダヤ人銀行家の日記:田畑則重

高橋が英国銀行団との間で政府訓令の半額とはいえ、起債の合意をとりつけた旧友のヒル邸での晩餐会でシフと言葉を交わした翌日に、今度の債権残額500万ポンドを引き受けたいというのであった。(シフは日本などアジアについても情報を分析していた)英国ばかりが日露戦争は黄白人種の戦争という点から一国だけが援助することに、なんとなく心苦しく風があったので米国もしかりということによほどの満足を与えた。その後明治38年の公債にドイツも参加し、フランスも参加するようになった。

シフにロシア側の国債発行依頼があったが、ユダヤ同胞への虐待を理由にニベもなくことわった。1904年に第一軍が鴨緑江戸渡河作戦に成功し日本の第一次戦時国債は購入希望者が募集額を上回った。ロシア公債は急落し金融市場の混乱の恐れありとして最大の債権国であったフランスでさえ難色を示し、ロシアは最後まで戦費調達に苦しむことになった。日本海海戦での露側の壊滅的敗北がロシア国内に伝わり首都ペテルスブルグで戦争反対のデモが全国に広まった。しかし難攻不落の旅順では日本軍は弾薬が欠乏し冬を迎えていたが、12月5日に1万7千人の死傷者を出す激闘のすえ、ステッセル中将が降伏した。1905年になると、ナポレオンがモスクワに向かって進軍し兵站線が延びて敗れる恐れとか兵員や財政上の理由から講和を模索するようになった。

6月9日に以前からこの時を依頼していたルーズベルトは日露両国に講和条件を提示し、両国は受け入れた。日本の4回に及ぶ戦費公債の総額は8200万ポンド(8億円)に上った。

当初の公債募集額のもくろみの8倍にもなっていた。ポーツマスでの講和交渉の実際は一時決裂しそうだったが、公債もいれて17億円の戦費と12万人近い死者があったにもかかわらず、賠償金もなく、かろうじて樺太の南半分割譲、韓国における日本の優先的権益、旅順と長春を結ぶ東清鉄道や遼東半島の租借権が譲渡されただけだった。国民感情は満足しなかった。

  続く

2008年9月24日水曜日

日露戦争に投資した男


めっきり涼しくなり夜の虫の声はつんざくばざかりですね。最近明治のころの日露戦争時代に興味があり、一人でそういう本に手が伸びてしまいます。

日露戦争に投資した男:ユダヤ人銀行家の日記:田畑則重

日露協約交渉に赴いた親露派の路線の伊藤博文でさえも、日本案「満州および韓国」ロシア案は「満州およびその沿岸はすべて日本の権益外」としていた。

日本側は対露戦不可避と考え、開戦準備の時間稼ぎのために外交交渉を続けることにした。1904年には国交断絶を決めた。戦費の調達には日銀副総裁で横浜正金銀行[外為業務]の頭取でもある高橋是清は副頭取三崎亀之助に指示した。日清戦争の軍費から想定して日銀の正貨余力5千2百万円に不足する1億円の外債募集の必要があった。この戦費は1年で朝鮮から露軍を一掃する目的だけの目的で、もし鴨緑江の外に続くようだったらさらに戦費を追加せねばならない。ロンドンの銀行団からは5百万ポンド以上無理だいわれたが、NYのスパイヤー投資銀行のロンドン支店長アーサー・ヒルから紹介されたのはジェイコブ・シフだった。

金子堅太郎はハーバート大学の交友であった米国大統領のルーズベルトに、末松謙澄は英国でケンブリッジ時代の旧友の蔵相チェンバレン(日英同盟締結時の植民相の同名の長男)に起債と広報活動をした。ロシア公使館付きの明石元二郎大佐はスエーデンに移り、帝政ロシアに盛り上がってきた革命の機運に乗じて、さまざまな工作を展開した。フランスは対露西亜の最大の債権国だったが、ロシアの旅順陥落と[血の日曜日]が重なった時期に懸念を抱くようになっていた。14歳で渡米し、だまされて奴隷をさせられる契約などの苦労して苦学した経験をもつ高橋是清はジェイコブ・シフ(シフ家はユダヤ人の500年続いた歴史をもっていた。ロスチャイルド家と一軒の家を共有していた。)に出合うことになる。シフはドイツのフランクフルトで生まれたが、読書と旅が好きで、ヘブライ語の聖書の影響を受けることは大きく又経済と歴史に関する該博な知識は商社や銀行の修行しても思いはやまず18歳で渡米した。急激に発展していたNYで株式仲介業者の事務員で頭角をあらわし、20歳を機にバッジ・シフ商会の共同経営者になった。シフが成功したのは彼の能力と南北戦争後の好景気のおかげであった。その後シフが入ったクーン・ローブ商会は国債とのちには鉄道債券を取り扱う業務をなし、欧州のマネーを米国の交通網や産業に投資し、米国近代産業国家への歩みと歩調をあわせるように成長した。シフは極東の商機を探り続けていた。シフはロシアとルーマニアでのユダヤ人迫害にたいして米国政府が公式に抗議するように嘆願していた。ルーズベルトもユダヤ票を獲得するためにシフの意見に耳を傾けた。SF作家の星新一の父(星製薬)が「明治・父・アメリカ」でいっているのは米国社会は独立心をもつばかりでなく、他人の独立心を尊重し、手助けしようとするし、現実にそれが起こりうるのであると。 続く

2008年9月23日火曜日

美空ひばりと塩屋岬




塩屋崎灯台は本来陸のはずれの岬ですから、何もない白波が寄せるだけの太平洋が望めるところでした。星野哲郎氏が作詞した「みだれ髪」作曲は船村徹、想像するに作詞の詩人の思う抒情が辺りになにはなくとも、浮かんでくるのですね。何もないから詩作が邪魔されないでよいのかもしれません。この浜辺に遺影碑があり、1.5m圏内に入るとこのみだれ髪の歌が歌い出すのでした。しかしひっきりなしに訪れる人多く夜にならないと止まらないのではないかと思いました。ひばり亡き後も続くエピソードは下記の通りです

福島県いわき市塩屋埼 美空ひばり遺影碑、コモンズ画像

http://ja.wikipedia.org/skins-1.5/common/images/magnify-clip.png

福島県いわき市塩屋埼 美空ひばり遺影碑、コモンズ画像

  • 1988福島県いわき市塩屋崎を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の(結果的にこれが最後のレコーディング曲となった)歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420m区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998に完成した。さらに2002には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立になった。現在は毎年約30万人のファン・観光客が、ひばりを偲んで訪れる。
  • 1993京都市嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、20061130に惜しまれつつ一旦閉館となったが、運営主体を「ひばりプロダクションに変更し、2008426日に京都嵐山美空ひばり座と改名のうえリニューアルオープンした。
  • 2005公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーチャン・ツィイーと共演した。
死後10数年を経た現在も尚、日本を代表する伝説的ボーカリストとして多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。レコードの累計売上は8000万枚に達する[1]

2008年9月22日月曜日

勿来のl関




昨日は同級会で常磐ハワイアンセンターに行っての立ち寄りで太平洋の見える高台の勿来の関(福島県太平洋側北端いわき市)

に行ってきました。

勿来の関は奈良時代の養老2年(718年)蝦夷の南下を防ぐ目的で」砦として作られた。福島県の

白河と山形県念珠の関も同様です。平安時代弘仁2年(811年)になると朝廷の勢力範囲も北方

に広がったため必要がなくなったのと京都―石岡(常陸の国府)―白河―多賀城(陸奥の国府)

に一本化されたものによる。

 勿来関は、平安時代の武将源義家※の「吹風をなこその関とおも

へども道も背に散る山桜かな」の和歌をはじめ、紀貫之、小野小町、

和泉式部、西行法師など、おなじみの歌人も和歌に詠んだ有名な

歌枕です。※は清和源氏の流れで頼朝の4代前の人で八幡太郎

といい、この時代は和歌も楽しむ勇者だった。

 江戸時代には、水戸と磐城、相馬、仙台をつなぐ浜街道に沿っ

ていくつかの宿場があり、勿来町にも関田宿という宿場町が形成

されていました。

 飛鳥井雅宣、西山宗因、徳川光圀、吉田松陰が、この勿来関

への想いをそれぞれの胸に風光明媚な当地を訪れています。

 近代には、源義家の歌碑や、芭蕉の句碑が建てられ、斎藤茂吉、山口茂吉、徳富蘆花、角川源義、中里介山などが当地を文学作品に残しています。

以上は勿来関文化歴史館より

http://www.iwakicity-park.or.jp/bungakurekishikan/nakosonoseki.html

写真は左関東の宮といわれ奥州と関東の境の守り神、右上段は関(砦)のイメージ、右下段は関所のガイドで見えにくいが源義家の銅像も見える。



2008年9月20日土曜日

国際ジャガイモ年


100円ショップの夕方は若者とお年寄りが食料品を買いにきている。海苔のついた冷凍おにぎりはレンジで温めるのでちょっと崩れるが安い。

今年は「国際ジャガイモ年」はペルーの発案で2005年に国連で採択されていたそうです。

又農水省が珍しく手まわしよく、「不測時の食料安全保障マニュアル」を作成していて、大人一人1日2000カロリーほどの維持を考え、現在の国内自給体制で」どのような食事が可能かを策定したものです。

<朝食>茶碗1杯のご飯と、ふかしたジャガイモ2個、これに粕漬け1皿

<昼食>焼き芋2本、ふかしたジャガイモ1個、リンゴ4分の1

<夕食>茶碗1杯のご飯、焼き芋1本、焼き魚一切れ(鮭一切れ)

上記に7日に1回目玉焼きが許され、味噌汁は2日に1度。牛乳は6日に一度。肉は9日に一度。

畑10aあたりの生産量比較

  ジャガイモなら約3(230万kcal)、精米400kg(67万kcal)

つまりジャガイモなら米の3倍以上のカロリーが得られる。

欧州ではジャガイモのことを“貧者のパン”というそうです。17世紀から19世紀のヨーロッパの飢饉のときにジャガイモで命をつないだ。(日本では江戸時代以来サツマイモが愛されました。又戦中戦後日本でも食糧難のとき空腹をしのいだ。ジャガイモでなくサツマイモなのは日本の気候にあい、カロリー数が大きいから?)ジャガイモは温暖化に弱いそうです。

 100g当たりのカロリー比較

サツマイモ:132kcal、ジャガイモ76、白飯一膳(140g)235、食パンは158

東京都の場合、戦中、戦後は小学生4年生以上20万人動員して河原での野草の採取を通達した。「蝸牛、いもり、雑草も結構いただけます」とあります。

ドイツの場合は配給食料が1000kcal分しかなかったので、ジャガイモの植え付けを命じた。現在クラインガルテンと市民農園が300㎡が約100万区画あり、セーフティネットの役を担っているそうで、食料危機を忘れていないそうです(一人当たり必要面積?)。日本の市民農園は15.6万区画“68㎡”だそうです。昭和44年から減反した分は水田の4割100万haに及んでいる。政治家はこの農地を復活させればよいという呑気な議員がいるが、農地を一度捨ててしまうと容易なことでは復活しません。英国の場合40%台から70%に自給率を戻すのに、20年もかかったそうです。まだまだ老けこんでいる場合じゃないそうです。不耕起栽培が役に立つとよいですね。

http://www.maff.go.jp/j/study/syoku_mirai/

長陽[年金受給者むけの季刊]2,008・秋[臨時増刊8月号]

2008年9月18日木曜日

江戸城散策


昨日は皇居の中に東御苑があって、ここを散策してきました。本来は大型のスクリーンでお見せしたいところです。地下鉄の大手町駅でC10の出口からになります。ここの出口から大手門は桔梗濠と大手濠に挟まれたところでそこを渡って入場します。この入口で入場札をもらい、すぐに三の丸尚蔵館には美術品の展示がありました。横山大観の富士山の絵もあります。展示数は20位ですが、素晴らしいものばかりでした。この横には大手休憩所には苑内の地図が用意されていました。これをマップとして利用してもよいですし、ところどこに案内標識が用意されているので、迷うことはありません。ここは全体が大きな濠に囲まれていて、ビジネス街の喧噪から隔絶されているのでとても閑静なところです。緑の多いところでお城の石垣の一つ一つの大きさ・高さ・重厚さにも味わいがあります。昨日は生憎の雨でしたが、ところどころにベンチが置いてあり、ゆったりとした空間のなかで、緑の風を吸いこんだら気持ちよいこと請け合いです。出口は又戻ってもよいですが、東西線の次の駅竹橋駅に向かって歩きました。忠臣蔵で有名な松の廊下や今のNHKの大河ドラマ[篤姫]の舞台はこの辺かなと想像しながら歩きました。本丸付近は芝生でおおわれ、ゴルフコースが3つは入るくらいの広さでしたし、天守閣本丸は一段と高くなっていますので見晴らしは抜群で、遠方には高層ビルが見え、この江戸城の昔から現代を眺めているので不思議な気がします。平川門をでれば毎日新聞や近代美術館が眼の前で竹橋駅も間近かですし、近代美術館か毎日新聞の地下にはレストランもあり休憩場所には事欠きません。ここにいったのは千代田区の四番町図書館のところに江戸城の数ある門の古い写真があり、幕末の衰えた姿が見えましたが、実際はどのようなものかをこの目で見たかったのでした。今現在は修復されていますので、その名残はありませんでした。しかしこの江戸城の規模はどこの城よりも規模において圧倒される広がりでした。又どこも雄大な景色で、手入れが隅ずみまで行き届いていました。

横着農業?


庭先にソーラー電灯をつけた。600円弱位で昼には蓄電し、暗くなると自動的に灯りがともる。ほのかな灯りです。

NHKの「知るを楽しむ」という番組で副題は「人生の歩き方」となっている。第1回目を見逃していたのは大変残念だった。(3chで水曜日午後1025、再放送は翌週の朝505から)

「不耕起栽培」という仰天の農法を考え、普及を進める農業技術指導者・岩澤信夫さん。千葉の農家に生まれた岩澤信夫さんは、促成栽培技術を確立するなどして農家を成功に導いた。そんな岩澤さんがコメ栽培に目覚め、辿りついたのが昔からの米作り。それも耕さない農法「不耕起栽培」技術に出会うまでの話を紹介していた。田を耕さないことで、土が固くなり、生えた稲は野生化し、たわわに実る稲を作った。そして少しずつではあるが、この農法を取り入れる農家も増え始めた。こんな楽な方法で収穫も多いということに辿り着くまで話しでした。横着農業ともいわれたがこれは本当に何もしなくて良い稲栽培なのです。勤勉な日本の農業からすると、破天荒な農業なのです。前年の稲の切り株のあとに新たな稲を植える。それで根がしっかりつくまでは従来の方法に比べ時間がかかるが、稲は野生に変えるごとく根は3倍の大きさ、白い丈夫な根であった。しっかりした生育を示しているが、田は雑草だらけで手入れの行き届いた田からみるとミットもない。最初はそういう横着な稲のコメは実物をみてもどんなものか誠意が込められていないということで買い手もつかないということもあった。

岩澤さん達は、田んぼの異変に気が付く。現在要望されている環境問題にもピッタリ、現在これを取り入れた郡山市の中村さんは、自然農法なので、藻が生え、タニシ、蛙、メダカ、秋にはアキアカネの大群が舞うようになり、白鳥も餌があることが分かったので舞い降りているし、琵琶湖の周辺でも湖水の浄化に大変役立っている。労力が大分省けているので、旅行はいけるまでになった。

田植えの頃に困ったのは切株のところに植えるので根元をしっかり押さえないと浮いてしまうので、特別の田植え機が欲しいところだったが、農機具メーカーも省力化の方向なので売上に寄与しないという危惧を抱いていたので非協力的だったが、冷害のとき一般の田が収穫0に対し、この田は平年作を維持したことで評価されて、特別の田植え機が開発された。この稲栽培については、農業の保守性も当然あるので受け入れられるのは、田植え機が田の隅の回転しにくいところの余った1坪に試作することから始まり、各農家でも主婦や年寄りの猛反対を受けることを説得することからが大変だった。

この農法を進めていると、小さな生きものが見られるようになったので岩澤さんは「耕さない田んぼ」が時代が要求している「環境を変える」という偉大な事実に気付き「不耕起」の普及に努力している。

岩澤信夫さんの略歴:1932年、千葉県成田生まれ。農業技術指導者。
旧制成田中学(現・県立成田高校)卒業。農家の長男として家を継ぐが、家業を両親と妻に任せて果物や野菜の栽培法研究に没頭。ハウス栽培が普及していなかった60年代末~70年代初頭に、いち早くハウス栽培に近い技術を試し、スイカ、メロン、イチゴの栽培などで実績を上げる。70年代後半からコメ作りにも着目し、試行錯誤のうえ85年に「不耕起移植栽培」を提唱。各地で農家への技術指導を行うなどの実績が認められ、2008年度の吉川英治文化賞受賞。著書『不耕起でよみがえる』(創森社)がある

2008年9月17日水曜日

言わなきゃだめ


西武新宿線の上石神井駅の8時台の列車は平日が23本、休日は12本でした、3分置きが5分置きなので随分本数が少なく感じましたが、目的地の市ヶ谷まで5分も違いませんでした。15日の祭日の新宿駅はカメラをもった子供らやトレン愛好家が朝早くからホームに入ってくる車両の撮影に熱心でした。

米国では「何でもやってほしいことがあれば、はっきり言って下さいね、でないとこちらには通じませんよ」ということが原則になっている。幼児のころから訓練されている。

友人が子供を保育園に預けた。毎日おやつがでる。先生はおやつの時間になると、“Do youwant some juice today?”英語が分からない友人の子供の前に来ても,他の子供同様に同じ質問をしたが、久美子ちゃんは答えられなかった。すると黙って次の子のところに行ってしまった。Pleaseと答えた子だけがもらえた。

一回りすると「では皆でおやつを頂きましょう」と言ったきり、久美子ちゃんや遊んでいた何人かの子供は、その日ジュースをもらえなかった。次の日は“How many cookies do you want?”又なんだろうと考えている間に次ぎにいってしまった。他の子は“One”“Three”とかいっている。その日もおやつをもらい損ねた。

言わなきゃ駄目の効果で久美子ちゃんは英語があっという間に上達したそうです。

「ほんのちょっとした違いなんですが」日常生活の中の日米文化比較:池田和子:タイムス

2008年9月15日月曜日

小田清兵衛


お遍路の話をきいたとき、Mさんが宿の主人からきいたのは「お四国やまい」という病になる人が結構いますと。お気をつけて道中を続けてくださいと。
この旅は大自然と同行二人の弘法大師と四国の人々のお接待や途中行きかう御仲間に守られている有難さに感謝したくなり、再度続けたくなるそうです。行脚は四六日だそうです。

日向延岡の内藤藩といえば、幕末まで「数学日本一」という評判だった。ここで数学は関係ないが学問好きであったこと。藩内に須怒江村という部落があった。田畑13町歩あまり、内荒地が3町歩、農民の戸数は25戸。明和あたりから凶作が打ち続き、村は困窮の度を加えていた。いくら働いても実が薄いので、移住させた4戸も村を見捨てて全部帰ってしまった。残ったのは半分の12戸となった。そこに天明元年(1781年)大凶作となった。藩の役人も困りはて、城下町の豪農小田清兵衛に紆余曲折を経て結局頼むことになった。200石の半分の100石の知行を返させ、あとの支配権は許すという当時として考えられない破天候な策を与えた。これは小田に領主同様のことを許すことだった。しかし小田は農業に加え、林業や漁業について総合的に治世の権利を要求し藩は承諾した。小田は残っている農民を呼び現状をつぶさに聞いた。仕事と仕事をする人間の変革がリストラの際には必要になる。非採算部門の切り捨て、採算部門の拡充強化であってけして減量経営ではない。農民はお金も食料も労力も農具もないない尽しであった。そこで彼は自分の全財産をはたいて、入り百姓も導入し、すべての農民に馬・牛を一頭づつと小屋、10ケ月分の食糧をも支給し百姓の基盤を強固にした。採算の悪い山林は保安上のことの最小限やらない、新田開発のための農業用水、10町歩の開墾は全農民が一致協力して参加させた。村全体の生活の向上と共同作業によって自分のことだけでなく、全体のことを考える土壌を作った。

川ざらえには延べ二千人、開墾丹は二千五百人に及んだ。工事に参加した人には賃金を払った。「農民はこれらの費用は村のためなのに、小田様はわれわれに賃金を払ってくれた」これは稀有なことと感謝した。それがキッカケで自分のことばかり考えていては」ダメだという気になってきた。なんであんなことまでするのか疑いをもつ者も少なくなかった。

しかしそんな疑いはひましに消えていった。そうなるとやる気がアップして仕事ガスピードアップした。

これを開始したのは天明7年(1787年)9月のことだった。諸国では大洪水が頻発し江戸でも大被害をうけていた。そうした中でも1カ年たらずで改革を成功させてしまった。

この業績もたいしたものだが、特筆すべきは小田氏という商人に完全な支配権を任せたことだった。

江戸人遣い達人伝:童門冬二:講談社

2008年9月14日日曜日

ムーンウオーク


親子ずれが多い博物館でした。子供より親が夢中になっていした。

昨日は多摩六都科学博物館(西東京市:近隣の市があつまって科学博物館を運営している)でムーンオウーカーに乗ってきました。乗ってみると月の重力が弱いのでちょっと階段の一段跳ねるだけで、4m位も飛び上がってしまいます。体感としては鳥人になったような飛び立ちができるような、本当に体が持ち上がる感じなのでした。制限体重80kgになっているが、実際は70kgにしている。これだと加減しないで走り幅跳び位の跳躍をしたら、月にオサラバする位までの高さになるでしょう。こうなると、無重力状態も体験したいという気持ちになるのは必定ですが、入館料500円ですから無理ですね。見た目はただのイスでぶら下がっているだけですが、ジェットコースターのさわりは体験でしました。後楽園の落下傘体験は落下ですが、こちらは舞い上がるのですから。

2008年9月13日土曜日

吉田清助


昨日は今年の春に四国参りのMさんという実体験者の話を聞きました。お遍路さんの途中に姓名のみを書いた道標として旧田無市の方が残していた。ともすると山道の行き先を失うような想像以上の難所だったので励みになったという。

その目印をつけたs・kさんを(10年前に実行した人)を公民館のsさんがやっと見つけ、この場に連れてきた。事前に知らされていなかったMさんも驚いたし、s・kさんも驚いたまさか10年後にこういう出会いをするとは思わなかった。実体験者同士はすぐにでも仲間・同行二人の心境のようでした。

文政年間から幕末にかけて群馬県の桐生の織物業の町に呉服屋に生まれ、学問好きだった。桐生で一呉服屋を営んでいるのは我慢がならなかった。それまでは桐生の織物はいわゆる職人芸、名人芸によって秘密保持され一部の者にしか伝えられていない。そんなことについて疑問をもっていた。そこで彼は機械を導入するに加え、極力男性を退け、女性を多く採用する方法をとった。「公開してもいいようなものをわざわざもったいをつけて、出し渋る」糸染め、撚糸、製織の工程をそれぞれに分けて分担させた。工程の仕様は清助が作った。いわゆる工場式手工業と言われる形態で、これを江戸後期に行ったいた開明性は高く評価されるところ。その結果は疑っていた桐生の人々の目を見張らせた。しかしその内織物の出来がいま一つ面白くない。かって生き生きしていた女性はウンザリした顔になってきて売上も落ち、清助の工場も窮地に陥った。解決策に没頭したが浮かばず、女性の意見を聞こうとしたが、全員無言だった。「このままでは工場が潰れてしまう。何でもいいから意見を」ようやく一人が本当に言ってよいかの確認を迫ってから「旦那様は仕事を全部ご自分で決定してしまう。これでみんなが憂鬱になっているんです。もし自分たちがこの着物を着るとしたら、どんな柄でどんな模様にしたらよいかを考えます」「「何のことだ。お前たちはこんな高額な着物を着れる筈がないではないか、織手であって客ではない。」「なぜですか」と娘たちは怒った。「私たちだってお給金から少しづつ貯めて、願はいつか自前の物の持ちたいという夢があるのです」娘たちをじっとみていた彼は自分の思い上がりを恥じた。「毎日作る着物を糸はどう撚るか、をすべて考えながらやればこんな楽しいことはないのです」「わかった今日からそういう仕事に変えよう」わっと歓声があがり、清助の工場で作る織物は今までと全く違う出来栄えになった。清助の工場の危機も脱した。「こんな素晴らしい力をもっていたのに、なぜそれに気がつかなかったのだと」苦笑した。

江戸人遣い達人伝:童門冬二:講談社

2008年9月12日金曜日

富山のチューリップ


コスモスが勢いをましています。好きな色はピンクや白で背が高いので、風に揺れていますが、それがいいですね。

チューリップはトルコ原産で→ウイーン→オランダ→幕末日本に。富山県はオランダと直接の関係ないが、新潟県の方が技術も規模も先輩格であった。

富山県の場合は、チューリップの父と言われる砺波市の水野豊造が努力された。ある日朝市でチューリップの切り花を売っていたが、畑を掘り返していると、植え付けた球よりりっぱな球根がゴロゴロと育っていた。ためしに富山市の種苗商にもっていくと一球四銭でうれた。この年は大正7年、米騒動の年だった。大正12年より本格的な栽培を始めた。富山のチューリップは水田の裏作として考えた。雪国なので春の田植えまで休耕しなければならないのでどうしたらよいか。普通なら雪の下で秋に収穫したものを貯蔵することしかできない。

しかし雪に埋もれた富山はチューリップの球根にとってまったく快適であった。この花は低温期が長くなければならず、さりとて凍ってもいけない。湿度も必要で、霜柱の立つような関東平野などは不向き。オランダの場合は凍らぬようにヨシをかけたりするが富山は雪が一切守ってくれる。

もうひとつ、オランダでは砂地で栽培されているのは本来水田に向いていない。だが富山県の場合は水はけの良すぎる砂利土、いわゆる「ザル田」であった。オランダのような運河を調節する訳にはいかないが、縦横に張り巡らされた用排水路と豊富な水があった。

水の旅:富山和子:文春文庫

2008年9月11日木曜日

チューリップと木靴


オランダはライン河の最下流の国です。この国の国土の半分は海を干拓してできた海面下の国です。スキポール空港にも「ここは海面下4m」の標示があるそうです。海に対する堤防が命綱で治水教育はこどものころからしっかりとたたきこまれる。海の波は堤防(台風がこないのでしょうね。イタリアのベネチアでは広場には台があって浸水のときはそれを渡るもというが心配な面があります。)で防ぐとして、地下からの塩水の浸入はオランダでは運河で抑えるというのです。河の水を張って軽い地下水の比重を利用して蓋をしているようです。あわせて農地の塩分を洗っているとのこと。地下水位の高いしめった農地での作業には皮靴よりも、木靴のほうがはるかにふさわしい。木材資源にも事欠く国なにに木靴の理由が納得した。チューリップの球根産業も運河のおかげだ。チューリップは水はけのよい土地に適度の乾燥を要求する。そのくせに大量の水を欲しがる、また一定の湿度が必要でそうです。水にうるさい植物なのだそうです。風車も運河の水を毎日海にかい出すことに使われていたそうです。

水の旅:富山和子:文春文庫

2008年9月10日水曜日

講談・ブログ・google


講談師の桃川鶴女さんに会いました。西東京市の芝久保公民館のメインイベントの出し物を予定していて講談をお願いするためでした。一時間をお願いすることにしましたが、前座10分で本命の講談は30分、あとは交流の一時という段取りです。講談の内容は公民館祭りの「ふれあい・深まる絆」にふさわしい話題とし、一切お任せということにしました。企画する側でも全くお任せで楽な人で満足できるコーディネートをやってくれる人です。この女性の講談師にはその生徒さんに注目すべき2人がいる。

一人は子供の結婚式で講談を一席披露したいための総仕上げ、もう一人は祖父が講談の「寛永三馬術の 曲垣平九郎(まがきへいくろう)」が大好きで、大分弱っていて講談を聞きに行く体力がない。普通ならば講談師を連れてきて、ベッドの傍で聞かせるような手段を考える。しかしこの人は自分で習って祖父に自声で聞かせたいということで頑張っているそうです。

この桃川さんは新人養成の場所としてハトバスの江戸歴史散策コースにのせて詳しいガイドができる様にしている。こんどは市のバスをチャーターして江戸城、赤穂浪士、深川周辺を案内してもらう企画はどうかといっている。武田信玄についてはバスの往復10時間以上もお客さんを飽きさせないガイドもやったことがあるそうです。さすがにプロですね。GOOGLEの凄さは公民館便りに載せるために、講談の桃川さんについて調べていたら、自分が江戸講座で聞いた桃川さんのことをブログに書いていたら、これまでまで検索結果に出ていたのにはびっくりしました。あらゆるところまで検索先が行き届いていることにびっくりしたのでした。

2008年9月9日火曜日

義眼


近所の農家ではまだ小さいですが栗を売りだしています。そして庭にはキャベツの苗を植えていました。農家の方は休む暇がないようです。

パラリンピックが始まっていますね。弓の仲間で、私は左が義眼なのといわれていましたが、言われないとわかりませんでした。問わず語りに皆に状況を話してくれました。敢て年齢は申し上げませんが女性です。

この文を書くにあたって「ギガン」は偽眼かなと思いながら、やはり違う字だなと思いました。辞書でたしかめたら「義」のほうでした。正義の義だから正しい意味のほうで、あえて当て字かなとおもいました。義母とはいうものの、偽母とはいいませんので「義」は仮という意味でした。何気なくつかっていて正確に字を書けないものですね。

義眼は片目ですから距離感が弱いので的に当てにくいわけですが、弓の標準弓の右側に矢をツガエルので右目の場合はまだ射撃しやすい。左目の場合は想定している「的」に射こむことになります。

左に弓でなく、右に弓を持てばやりやすいかもしれませんが、そういう射法はありません。

義眼の不自由な点は片目に眼帯したときに感じる段差への不安や義眼の方の死角で顔をぶつけることがあるそうです。義眼でも磁石があって両目を動かす方法もあるんだそうです。

しかしもう20年も前からそういう義眼はやめたそうです。というのは義眼がだんだん眼底の方に落ち込んでしまうので、取り換える必要があるそうです。そうすると落ち込んだ分だけ出を大きくする必要があるので煩わしいということでした。

20歳代のときに結核で目に出血があって一時は目が見えるほうも視力0.05までになって

死にたい気持ちになったが、お医者さんが一つの目でも大事に使えば大丈夫といわれたので気持ちを持ちなおし1.5までに戻ったそうです。何故一時的にでも0.05まで落ちんだかはよく分からなかったそうですが、心理的に参ったからでしょうか。

今は亡きご主人がいいますには、毎年の誕生日近くなると、メガネをかったらと。明るく淡々と話してくれました。

2008年9月8日月曜日

草原の羊


モンゴルでは相撲の人気が高く、視聴率も80%位あるというくらい信じられないくらいの人気です。

モンゴルの首都はウランバートル、そこからちょっと出ると、もう一面草原です。そこで車で走りながら、ふと気づいたんですけど、大体ヤギがいるんですね。羊の群れになっているところに。割合でいったら羊百匹にヤギが一匹くらい。絶対います。どこの群れでも。  

通訳を通して、遊牧民に聞いてみると「羊はバカだから家族が困る。ヤギはずるい。だから家族助かる」―これではさっぱり分からなかった。もう一度訊くと、遊牧民は馬乳酒飲んで酔っ払っていたんです。

要するに、羊って足元の草を食べてしまうと、そこから動かなくなる。あまり自分から動く動物じゃないんです。群れ全体がそうらしいんです。そうすると、どんどん足元の草を食べたきり動かないから毛艶が悪くなる。体も痩せます。だから家族が困る。そこでヤギが登場します。ヤギはとてもアグレッシブなずる賢い生き物で、どんどん動き回る。するとみんな羊は後についてゆく。その結果羊は常に新しい草を食べることができる。太る、毛艶がよくなり家族が助かる。あとは寒い時期は羊はボーッとしているが、ヤギが暖かいところに誘導するみたいですね。日本人は羊度が高いんです。ヤギは重要なんですね。今の不安な状態になると、人と違う行動を取ることが怖くなってしまうんです。いろんな[KY]がいますが、集団を乱しても、草がいっぱいあって暖かいところに導いてくれるKYだったらいいんですね。日本にはやっぱりどうしてもリーダーが欲しいですね。とかいている。政局もどう動くのでしょうか?

キラキラ星通信2008年8月31日号森達也映画監督・ドキュメンタリー作家)より

2008年9月7日日曜日

陶芸の仲間


昨日は陶芸の素焼きの窯入れでした。会員が10名で一人20点として200点はあったかと思います。
どんなものがあったかといいますと、

お皿(サンマ専用の長い皿で大根おろしを置けるように仕切り部分もある)
人形(ダンスパーティで着るフワットした衣装)
電気スタンド用照明(瓶状のものに星とか花模様にくりぬいて)
箸置き(エコブームでマイ箸の人も多いが、箸置きのいらない、先端が反り返っていて、転がらないようになっているので使いずらいそうです)
牛、招き猫。カエル(お土産さんの模倣
埴輪(竪穴式住居、人型)
メガネかけ(美人の頭部の形)
枝豆のカラ入れ、魚の骨入れ(皿はいっぱいあるのでもういらないといわれ、案外ないものはなにかと考えた作品)
時計(文字盤にバラの花びら、本当は12個でよいが、バラの感じをだすために試作が80個)


これを窯に入れるには何段も重ねますが、段毎に高さを合わせる必要があるので、これが結構苦労しますので2時間かかりました。
この窯入れが終わって楽しかったのは、教室で月2日で作っているので、他人がどう作っているとかは断片的にしか覚えていない。自宅で作っているひとも
いるので、どうやってその形が出来たのか、どんな苦労したかの談義が始まった。これがまた興味が尽きない話ばかり。
●普通の人は、次何を作ろうかと種切れになってしまうが、造形力のある人は次から次に作りたいものが山ほどある。
●2色の粘土を使い、したに赤色の塗料をいれて、焼きあがったら、黒色の上の部分を一部削りとって、下地の赤を浮き出させるとかまで考えている人。
●絵を描いている人もいるが、その人は先生から教わったのは「絵は人間の幅」だ。男性は女性のことが、女性の人は逆で、どれほど知っているかにかかっていると。
 この人は人物を描いているが、学生のモデルを呼んでいるが1回3時間で6000円、20分はじっと動かないこと。但しそのモデルの好きな姿勢でよい。
 10分の休憩があってこれを繰り返す。結構モデルを呼ぶ苦労はしないそうです。
●人形は10頭身でないと見栄えがしない。初心者は5頭身くらいになって短足になってしまう。
●動物を見本を見ながら作るが、その動物を猫でなく犬に見せるには、日頃動物をよく見ていないことに気がつく。特徴を捉え、真似るということは非常に難しいことが分かる。
●デパートにいって陶器売り場で買うことよりも、色・風合い・形などどうして作っているのかの不思議を見つける。テレビの「何でも鑑定団」でこの陶器はこうやって 作られているとか、陶芸をやっていることで視点ができて楽しいというのは誰も同感でした。

2008年9月6日土曜日

従順な国民性


おはようございます。私には下記のようなオーバーブキングの経験はありませんが、「何でも見てやろう」という人はそういう事に遭遇するようですね。旅に出る機会も相当に多いからかもしれません。
関西国際空港行きの飛行機は定刻がきても、もう時間がないのにアナウンスがなかった。やっとあったと思ったら、オーバーブッキングしてしまった(要するに飛行機は多めに予約を入れるのが原因)。その時はキャンセルが出なかった。「誰か希望者がもしいらっしゃれば30分後に伊丹行きがあります。そちらで良いという了解がいただければ1万円差し上げます」との追加のアナウンスがあった。しかし200人もいたが誰も手をあげない。アナウンスは悲鳴に近い。16時20分著者はたまらなくなって手をあげた。結局最初16時フライトの予定だった飛行機は16時35分だった。本来怒るはずの乗客は焦りもしない。「不思議の国のアリス」の世界に紛れ込んだような錯覚に陥った。例えばあそこに他国の人がいたら「日本人とはなんと理解不能な民族」と思うでしょうねと語っている。結局35分遅れでみんな平然と飛行機に乗っていったそうです。
キラキラ星通信2008年8月31日号森達也映画監督・ドキュメンタリー作家)

2008年9月5日金曜日

恋の隠し方


昨日は運転免許の書き換えでした。聴覚障害のある人でも条件つきで蝶マークを付けて走れるそうです。

恋の隠し方(兼好と「徒然草」)光田和伸:青草書房
韓国の諺に「恋と貧乏は隠せない」これは両方共どうしても外に出てしまうものだということです。しかし「徒然草」は自伝的な恋の告白で人に気つかれないように丸ごと封じ込めた完成度の高い物語なのだという。

東人の心がいかに都人と違うか、どんなに遠いかを徒然草が力説しているそうです。東人の言葉が率直に事実を伝えるということが信じられている世界だという。
「ぶぶ漬けでもどうどす?」→「一家の女主人はお茶漬けを食べていけといっている」の訳ではなく、もうそろそろお昼ですから自分の食事の支度をしなければならないので帰ってくれませんかということです。どんなに暇であっても「もうお昼で、私食事の支度をしますから帰ってください」ともいえず。しかし徒然草では後者のようにかなりそういうはっきりした言い方をしているそうです。この「徒然草」はいちおう隠者の書いた無常観ということになっている。そういう思い込みがどうしてもある。しかしはっきりした物言いで、恋物語も書かれているとのことです。しかも自分のことではないような隠し方だというのです。

ここではその一端の紹介です。

次の最後の105段(他には29,30,31,32,36,37,104、にもあるそうです)


北の屋陰に消え残りたる雪の、いたう凍りたるに、さし寄せたる車の轅(ながえ)も、霜いたくきらめきて、有明の月、さやかなれども、隈なくはあらぬに、人離れなる御堂の廊に、なみなみにはあらずと見ゆる男、女となげしに尻かけて、物語るさまこそ、何事にかあらん、尽きすまじけれ。
かぶし・かたちなどいとよしと見えて、えもいはぬ匂いのさと薫りたるこそ、をかしけれ。けはひなど、はつれはつれ聞こえたるも、ゆかし。

深夜から夜明けにかけて、雪が降り積もっているなか誰もやってこない場所・仏様を安置しているところで、ちょっといい男といい女が「なげしに尻かけて」並んでいる。のりつけた牛車の樫の木の柄には霜が降りて真白であると書いていますが、明らかに誰も来ない建物のハズレで男女が腰をかけてうれしそうにいつまでも話をしている。これは兼好とその恋人のことで、こんな状況描写は自分で体験しない限り表現できない。
これは男が女の部屋に行くはずだが、こういう誰もこないところで逢引は恋のごく最初のころであろうと想像できるそうです。吉田兼好は生涯独身で、30歳代に出家していますね。

2008年9月4日木曜日

江戸幕末の官僚:川路聖謨


いっきに秋とはいきませんが、交差点の明るいところの街路樹で一匹のコウロギが鳴いていました。
 
四国は高知市の宿は坂本竜馬の育った屋敷のあとでした。ちょうどそのバス旅行の前に読んでいた本です。

 甲州の百姓であった父・内藤吉兵衛は郡代が徴収する年貢を出入りの掛屋(諸大名などに貸し付け運用していた)の手代をしていて、どんなに努力しても手代止まりを解決するには江戸にでて幕史になって栄達することだった。それもいちかバチかのことであった。旗本や御家人の養子になることを考え、御徒の株を大金の300両で買った。その子供は川路家の養子になった。しかも俸禄の全部は養親のもの、生活費も吉兵衛持ち、足場とはいえないを足場を土台に勉学と剣術とに励み、運と根にゆだねて就職活動に気の遠くなるような、奮励努力を重ねた。

嘉永5年(1852年)頃の話です。アメリカが日本の扉をこじ開けるため、使節を送るというのはヨーロッパでは周知の事実だった。ロシアもそのことを知って、アメリカに対抗するため、使節として提督プチャーチンを日本に送ることになった。ロシアは2度ともロシアの国書を受け取らずに追い返した。その後であるが、すでにアメリカのペリーからは国書を受け取っている。プチャーチンからのを断っても意味がない。諸外国への均衡も欠く。幕閣の阿部は受け取ってもよいという回答を長崎奉行に大沢豊後守に送った。外交交渉については川路と筒井にゆだねられた。
ゴンチャロフという秘書・相談役は観察していて、その著「日本渡航記」に書いている。「私の気に入ったのは、川路に話しかけると、立派な扇子をついて、じっと見つめて聴く態度である。話の中程まで彼は口を半ば開いて、少し物思わしげな目付きになる
ーこれは注意を集中した証拠である。額に浮かんだ微かな皺の動きには、彼の頭の中の概念が集まって、聴いている話の全体の意味がまとまってゆく過程がはっきりと現れていた。話の半ばを過ぎて、その大意を掴んでからは、口を固く閉じ、額の皺は消え、顔全体晴れ晴れとなる。彼はもう何と答えたらよいかを知っているのだ。もし反意の質問で言葉に述べたのと別の意味が隠くれていると、川路は思わず微笑を浮かべるのであった」

プチャーチンは皇帝へ送った上奏報告書に「全権筒井肥前守と川路左衛門尉は、その考え方、表現、我々に対する丁重さと慎重さに「おいて教養あるヨーロッパ人とほとんど変わらない。ことに川路は、その鋭敏な良識と巧妙な弁舌に「おいて、ヨーロッパのいかなる社交界にだしても一流の人物たりうるであろう」と記している。
佐藤雅美著:立身出世:官僚川路聖謨の生涯より

2008年9月3日水曜日

四万十川のアカメ




昨日は埼玉県の入間川の岸辺を散歩したらもう彼岸花が小ぶりでしたが咲いていました。

先週は四国は四万十川で遊覧船に乗りました。乗る時にこれは舟下りではありませんと言われました。聞いてもどのような意味なのかよくわかりませんでした。この川は普段はとても穏やか流れです。(降雨量が多いときは、支流が40もあるのですぐに激流になるそうです。)今年は四国は降雨量がすくなく、プールで泳げないように給水規制がされているそうです。

船頭さん兼ガイドさんは40位の男性の話芸はゆったりとした四国の口調で、四万十川の流れのようで、気持ちよく聞こえました。これだと船に乗らなくとも岸辺にたってのガイドでもよいのでした。しかしゆったりした流れにのってゆったりとした話しぶりは心地よいものでした。ショウといえば投網(手元が荒い網目でさっと絞れる)は投げる美しさでした。柴漁は、川底に柴を沈め、そっと引き揚げると魚も取れる・これは天然の鰻で腹が黄色でした。

船にのった地点は海から4km、岸にそって弘法大師が行脚した狭い道が1km残っていて、その途中に常夜灯の御堂があって、お遍路さんはここに泊まれます。近所の農家の人が果物を届けておくので、まず食べる心配がないそうです。ここから先の札所は2日間もかかるそうです。
汽水域(重い海水と軽い淡水混じり合わないで、両水域に別々に魚が泳いでいる)は河口から10kmの範囲もあるそうです。
釣りに関心ある人ならきっと知っていることでしょう。淡水域にいる魚本当に魚の赤目でした。
フラッシュで写真をとったときに目が赤く見えるように、まさに赤い目でした。 (この写真は観光写真からの引用でこのような魚は写真でしか見られないそうです)
アカメのルアーフィッシングが盛んになったのは1984年、土佐レッドアイの大坪さんが雑誌に紹介して、ルアーでのアカメが全国的にセンセーションを巻き起こしてからでしょう。’70年代後半から高知県東部ではすでにやられていたのですが、ルアーの対象魚として全国的に認知されたのはそれからです。’86年頃より日本各地からアカメを求めてたくさんのアングラーが訪れるようになりました。そして「釣りキチ三平」で有名になっていた四万十川のアカメを求めてのルアーフィッシングが盛んになっていきます。現在、日本記録として知られているのは1994年8月10日、中村市伊沢で中村信夫さんがルアーで釣った、137センチ(拓寸138.2センチ)です。30キログラムを超す大型魚の記録はたくさんありますが、記録として残されているもので、わたしが知っているのはアカメ釣りの名人として有名な片山勝啓さんが舟から釣った40キログラムが最大です。1957年(昭和32年)に釣られたものでこの年には他に30キロ、25キロというアカメも釣られています。


 四国の太平洋はホエイルウオッチングは80%の確率で見られるそうです。

2008年9月2日火曜日

お遍路さん


おはようございます。アメリカに巨大ハリケーンが来ていましたが、日本の政治にもそのような様子が見えます。
参議院での野党が多数を占めるということが政局運営を相当困難にしているようですね。

道〃観光バスから見えるのは一人旅のお遍路さん、ほとんどが男性でした。お遍路さんの抱えている袋カバンに書いてある「同行2人」ドウコウニニンはひとりのお詣りの場合でもある。もう一人とは弘法大師だそうです。その場合は金剛杖が大師様ですから宿坊でわらじを脱ぐときは杖を先に洗うそうです。四国巡礼は行脚は2ケ月、バスでは2週間だそうで春は穏やかで日が長く距離が稼げるのでよいそうです。バスでいっきに一周はほとんどなく、愛媛、高知、香川、徳島それぞれ1国毎、回るのがあるそうです。服装は問わないそうですが、お遍路姿はお接待を受けられやすいそうです。それで自転車で回る方もいるそうです。又奥道後と高知の宿でもお遍路さんが宿泊していました。言い忘れたのは女性一人であっても大丈夫。お大師様が守っているから。

2008年9月1日月曜日

足と食料増産


昨日というか最近の豪雨は予測を越えています。傘位では間に合いません。
いろんな排水管などは最大50ミリ(1時間あたり)位にしか対応していないのので、最近はそれを超えているとのことで、根本的に対処方法を検討せざるを得ないということのようですね。
 ジャマイカの短期選手はヤムイモを日頃食べているそうです。この芋は長いもの系統です。先進国で食べているのは日本だけ。アフリカのナイジェリアで請われて東京農大の知和地教授は食料増産の協力をした。トウモロコシは一粒が300粒になるが、芋は3倍では叶わない。芋のツルを鉢に植えて50の種芋を作り出した。温度管理で畑の空きを利用して完全な二毛作をして大幅増産に成功し大変喜ばれているそうです。日本でももっと食べるようになれば足が早くなるようになるかは保証の限りではない。産経新聞8月28日夕刊