2008年9月29日月曜日

日露戦争に投資した男③最終回


随分涼しいというよりも寒くなってきましたが、睡眠は深くたっぷりとれました。どなたも布団を取り出したことと思います。

半面強大な陸軍をもつロシアが再び東アジア進出を企てないという保証もなかった。そこにあらわれたのが世界を目指す鉄道王ハリマンで戦費公債の500万ドルの引き受け手でもあり、南満州鉄道(満鉄)を1億円で買収し、シベリア鉄道経由でヨーロッパに至る構想を提示し予備協定書を結んだ。こうした予備協定書では講和条約を不満とする国民の怒りを抑えきれないと小村寿太郎は反対し、拒否となりハリマンのライバルであるモルガン商会が資金のない日本に4・5千万円の前貸しすることでの条件がでた。こうして小村も強硬にハリマン案に抵抗し、葬り去ることが出来たが、南満州鉄道の日本の独占経営となっていったことが、ルーズベルトのあとになったタフト政権が期待した満州の門戸開放は実現されず、日米関係は悪化したまま、アジア太平洋戦争へと突入していく大きな端緒となった。(日本は結果論からみると現実をしらないのか、誇り高きを選ぶのか)

ハリマン構想の挫折は日本政府が恩を仇で返すような態度にたいし、シフは激怒し、その怒りを高橋にぶつけ、来朝しハリマンの覚書の復活に多少の運動を試みたが奏功しなかった。タフトが政権をとると反日に変わった。満州の南満州鉄道[いわゆる満鉄]門戸開放し、列強の共同管理にする中立案も提案したが、戦後に日露協調に転じて[何故?]反対したので成立しなかった。シフは日本に対する厚情は理解に満ちたもので、日本には中国の資源が必要であり、日本の行政手腕が必要だということを前世紀末から対中投資を考えていた彼は判断したのだった。

なぞとして残るのは来朝時に韓国訪問がありながら満州訪問がなかったのは何故なのかが残るそうです。

1906年3月25日に横浜に上陸し、5月19日まで日本の東京、日光、箱根、大阪、京都、神戸、宮島、下関、韓国、奈良を歴訪し、天皇はじめから政財界のお歴々は日本の危機にあった時、戦費起債に対する並々ならぬ配慮に感謝の念を込めて、それぞれに心のこもったモテナシを受けた。それはとても気持ちのよい晴れ晴れするものだった。

日本を離れるときの彼の挨拶:日本の印象を誰からも質問をうけるし、帰国しても同じことですのでお話します。日本のみなさんの特質は質素と倹約にあり、かつ君主、祖国、互いへの忠誠心にあると申し上げたい。またみなさんの孝心、若者がお年寄りに払う感動的なまでの敬愛の念、お年寄りが若者を慈しむ愛情についてお話すことでしょう。私の見るところ、みなさんの強さと自信は若い頃には若い頃から男らしいスポーツに体系的に取り組んで肉体を鍛えながら感情の抑制にも習熟することに由来しております。学習意欲に加えて誰もがただ同然に受けられる教育にもその源があります。

2月前我々はよそ者でしたが、みなさんはこころから歓迎してくれてすぐによそ者ではなくなりました。

しかし日本にも欠点もあります。しかし欠点のない国があるでしょうか?骨董商のことですが、この人でさえとにかく家に帰るに必要なだけのお金は客の手元に残しているようです。

お別れに際し皆さんのことばで「サヨウナラ」のほかに適切な言葉がありません。では皆さまの健康と幸福そしてお国の繁栄のいために乾杯―サヨウナラ」

日露戦争に投資した男:ユダヤ人銀行家の日記:田畑則重

0 件のコメント: