お遍路の話をきいたとき、Mさんが宿の主人からきいたのは「お四国やまい」という病になる人が結構いますと。お気をつけて道中を続けてくださいと。
この旅は大自然と同行二人の弘法大師と四国の人々のお接待や途中行きかう御仲間に守られている有難さに感謝したくなり、再度続けたくなるそうです。行脚は四六日だそうです。
日向延岡の内藤藩といえば、幕末まで「数学日本一」という評判だった。ここで数学は関係ないが学問好きであったこと。藩内に須怒江村という部落があった。田畑13町歩あまり、内荒地が3町歩、農民の戸数は25戸。明和あたりから凶作が打ち続き、村は困窮の度を加えていた。いくら働いても実が薄いので、移住させた4戸も村を見捨てて全部帰ってしまった。残ったのは半分の12戸となった。そこに天明元年(1781年)大凶作となった。藩の役人も困りはて、城下町の豪農小田清兵衛に紆余曲折を経て結局頼むことになった。200石の半分の100石の知行を返させ、あとの支配権は許すという当時として考えられない破天候な策を与えた。これは小田に領主同様のことを許すことだった。しかし小田は農業に加え、林業や漁業について総合的に治世の権利を要求し藩は承諾した。小田は残っている農民を呼び現状をつぶさに聞いた。仕事と仕事をする人間の変革がリストラの際には必要になる。非採算部門の切り捨て、採算部門の拡充強化であってけして減量経営ではない。農民はお金も食料も労力も農具もないない尽しであった。そこで彼は自分の全財産をはたいて、入り百姓も導入し、すべての農民に馬・牛を一頭づつと小屋、10ケ月分の食糧をも支給し百姓の基盤を強固にした。採算の悪い山林は保安上のことの最小限やらない、新田開発のための農業用水、10町歩の開墾は全農民が一致協力して参加させた。村全体の生活の向上と共同作業によって自分のことだけでなく、全体のことを考える土壌を作った。
川ざらえには延べ二千人、開墾丹は二千五百人に及んだ。工事に参加した人には賃金を払った。「農民はこれらの費用は村のためなのに、小田様はわれわれに賃金を払ってくれた」これは稀有なことと感謝した。それがキッカケで自分のことばかり考えていては」ダメだという気になってきた。なんであんなことまでするのか疑いをもつ者も少なくなかった。
しかしそんな疑いはひましに消えていった。そうなるとやる気がアップして仕事ガスピードアップした。
これを開始したのは天明7年(1787年)9月のことだった。諸国では大洪水が頻発し江戸でも大被害をうけていた。そうした中でも1カ年たらずで改革を成功させてしまった。
この業績もたいしたものだが、特筆すべきは小田氏という商人に完全な支配権を任せたことだった。
江戸人遣い達人伝:童門冬二:講談社
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