2008年9月25日木曜日

日露戦争に投資した男②


昨日の昼間の風は湿度がなくさわやかな風で心地よいものでした。弓道は出世的(しゅっせまと)いって通常は1.2尺ですが、5つの的を並べ、8寸から3寸までを5段階に刻んで、

一つ的中すれば次に進んでゆくものです。これが小さい的でも1発で次に移行することもあれば、ひとつに難渋してしまうこともあり、毎日ではなく、月に1回は昼飯を挟んでやります。みんな大好きで一生懸命です。これだと熱中してつい疲れを忘れてしまいます。

昨日の続きです

日露戦争に投資した男②:ユダヤ人銀行家の日記:田畑則重

高橋が英国銀行団との間で政府訓令の半額とはいえ、起債の合意をとりつけた旧友のヒル邸での晩餐会でシフと言葉を交わした翌日に、今度の債権残額500万ポンドを引き受けたいというのであった。(シフは日本などアジアについても情報を分析していた)英国ばかりが日露戦争は黄白人種の戦争という点から一国だけが援助することに、なんとなく心苦しく風があったので米国もしかりということによほどの満足を与えた。その後明治38年の公債にドイツも参加し、フランスも参加するようになった。

シフにロシア側の国債発行依頼があったが、ユダヤ同胞への虐待を理由にニベもなくことわった。1904年に第一軍が鴨緑江戸渡河作戦に成功し日本の第一次戦時国債は購入希望者が募集額を上回った。ロシア公債は急落し金融市場の混乱の恐れありとして最大の債権国であったフランスでさえ難色を示し、ロシアは最後まで戦費調達に苦しむことになった。日本海海戦での露側の壊滅的敗北がロシア国内に伝わり首都ペテルスブルグで戦争反対のデモが全国に広まった。しかし難攻不落の旅順では日本軍は弾薬が欠乏し冬を迎えていたが、12月5日に1万7千人の死傷者を出す激闘のすえ、ステッセル中将が降伏した。1905年になると、ナポレオンがモスクワに向かって進軍し兵站線が延びて敗れる恐れとか兵員や財政上の理由から講和を模索するようになった。

6月9日に以前からこの時を依頼していたルーズベルトは日露両国に講和条件を提示し、両国は受け入れた。日本の4回に及ぶ戦費公債の総額は8200万ポンド(8億円)に上った。

当初の公債募集額のもくろみの8倍にもなっていた。ポーツマスでの講和交渉の実際は一時決裂しそうだったが、公債もいれて17億円の戦費と12万人近い死者があったにもかかわらず、賠償金もなく、かろうじて樺太の南半分割譲、韓国における日本の優先的権益、旅順と長春を結ぶ東清鉄道や遼東半島の租借権が譲渡されただけだった。国民感情は満足しなかった。

  続く

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