2008年9月13日土曜日

吉田清助


昨日は今年の春に四国参りのMさんという実体験者の話を聞きました。お遍路さんの途中に姓名のみを書いた道標として旧田無市の方が残していた。ともすると山道の行き先を失うような想像以上の難所だったので励みになったという。

その目印をつけたs・kさんを(10年前に実行した人)を公民館のsさんがやっと見つけ、この場に連れてきた。事前に知らされていなかったMさんも驚いたし、s・kさんも驚いたまさか10年後にこういう出会いをするとは思わなかった。実体験者同士はすぐにでも仲間・同行二人の心境のようでした。

文政年間から幕末にかけて群馬県の桐生の織物業の町に呉服屋に生まれ、学問好きだった。桐生で一呉服屋を営んでいるのは我慢がならなかった。それまでは桐生の織物はいわゆる職人芸、名人芸によって秘密保持され一部の者にしか伝えられていない。そんなことについて疑問をもっていた。そこで彼は機械を導入するに加え、極力男性を退け、女性を多く採用する方法をとった。「公開してもいいようなものをわざわざもったいをつけて、出し渋る」糸染め、撚糸、製織の工程をそれぞれに分けて分担させた。工程の仕様は清助が作った。いわゆる工場式手工業と言われる形態で、これを江戸後期に行ったいた開明性は高く評価されるところ。その結果は疑っていた桐生の人々の目を見張らせた。しかしその内織物の出来がいま一つ面白くない。かって生き生きしていた女性はウンザリした顔になってきて売上も落ち、清助の工場も窮地に陥った。解決策に没頭したが浮かばず、女性の意見を聞こうとしたが、全員無言だった。「このままでは工場が潰れてしまう。何でもいいから意見を」ようやく一人が本当に言ってよいかの確認を迫ってから「旦那様は仕事を全部ご自分で決定してしまう。これでみんなが憂鬱になっているんです。もし自分たちがこの着物を着るとしたら、どんな柄でどんな模様にしたらよいかを考えます」「「何のことだ。お前たちはこんな高額な着物を着れる筈がないではないか、織手であって客ではない。」「なぜですか」と娘たちは怒った。「私たちだってお給金から少しづつ貯めて、願はいつか自前の物の持ちたいという夢があるのです」娘たちをじっとみていた彼は自分の思い上がりを恥じた。「毎日作る着物を糸はどう撚るか、をすべて考えながらやればこんな楽しいことはないのです」「わかった今日からそういう仕事に変えよう」わっと歓声があがり、清助の工場で作る織物は今までと全く違う出来栄えになった。清助の工場の危機も脱した。「こんな素晴らしい力をもっていたのに、なぜそれに気がつかなかったのだと」苦笑した。

江戸人遣い達人伝:童門冬二:講談社

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