2007年12月31日月曜日

進歩の時間から循環の時間へ


写真はゆんフリー

地球に駆動力があった段階が産業革命以前、我々が人間圏の中に駆動力をもった段階が近代です。
地球によって駆動されている時代は、ものの流れをただバイパスさせ成立させているフロー依存型人間圏ですから、これはいくら右肩上がりの動態を抱いても物理的に大きくなれない。江戸時代の日本が糞尿の利用したような肥料として活用された。
ところが近代になると、人間圏内部に駆動力を持つ、石油などの化石燃料や原子力です。その結果地球システムの他の物質圏の中にあるストックを利用することができる。もともと持っていた右肩上がりの動態とあいまって人間圏が爆発的に大きくなった。地球の駆動力が循環しているスピードに比べると我々が(人間圏の駆動力を利用して)駆動させているスピードというのは実は10万倍にも達する。地球が10万年かかってやることを我々は1年でやってしまう。今なすべきことはこのスピードを抑えなければならないんです。地球の循環型の方に人間の循環を合わせてゆくことです。近代の西洋では時間をもっぱら進歩の時間と考える、しかし日本では昔から時間を循環型と考えてきた。日本は明治以来、進歩の時間論を採用しながらどこかで循環論的な時間論に従っている。そしてまた循環の考え方は「この世」と「あの世」との永遠の循環という考え方があることが知った。
稲作農業の場合森と水が大切だから制限されている。農業イコール森の破壊をしていないと思っている。
神仏のすみか梅原猛「神と仏」対論集より

2007年12月30日日曜日

観光街のない湯布院


写真はゆんフリー


湯布院(由布院から変更):
大正13年にこの由布院の村の小学校に東京大学の本田静六という林学博士を招いた「由布院温泉発展策」という講演会をやっている。その記録には歓楽型の温泉になるのではなく、ドイツのような保養型温泉になるべく努力せよと書いてある。その例としてバーデン・バーデンをあげています。公衆トイレはここに、散歩道はこういう風に作りなさい、果物が四季それぞれに生ったほうが愉しいからどこそこに柿の木を植えなさい、子供たちが元気でないと町が寂しいから、どこどこに児童公園を作りなさいとかきちんと書いてあるんです。
中谷健太郎氏は1934年(昭和9年生まれ)明治大学を卒業され東宝撮影所で稲垣浩、千葉泰樹監督の助監督もつとめる。62年父の死により帰郷、旅館亀の井(この地は別府の油屋熊八※という人の亀の井の別荘地)別荘を継ぐ。
湯布院は田圃のなかから滲み出してくる温泉で他の温泉地のようにひとところに集まってまちをつくる必要がなかった。そいう意味で不思議な観光街のない観光地でした。
湯布院映画祭は自分の映画時代の引き継ぎで、建物の配置、デザイン、宣伝でもセンスがよいと自負している。
宿屋の親父だけは何も出来ない立場にある。庭掃除と風呂掃除はできるが。
こっちに帰ってきて板場にギャンギャン言われたら「てめえがギャースカ言っている頃から包丁握っているんだ!」の声をきいてこれは撮影所と同じだ、これは撮影所の監督と同じだ。
旅館の親父はいろいろいうが何もできないし、やってもらうだけだと。いろんな人が変な癖をもちながら情熱をもち、苦手をもちながら得手もやっている訳ですから、それらを一つひとつ取り持って上げるとか、出会いの場を作るのが大事なんです。全部集めて「それーっ」って 号令をかけるというのでは力が分散してしまうので、それはしないんです。
一人ひとりに聞いてみると、じっくりと声をかけられた思いがあるという、そういう関係が紡がればいいんです。だんだん力が落ちてきたり、仕事の量が多くなると、それぞれの人との出会いを丁寧に残せないようになる。よくないですね。
『湯布院幻燈譜』によれば客室は15で、これは旅館として小さいですが、従業員が100人近くいる。ふつうは従業員の数は客室の数より少ない。
企業の採算に合わないから「おまえは出てこなくてよろしい」というと地域の「お迎え力」は縮小する。能力を網羅してみんなでおまんま食っていけるようにするのが勝負だ。いまは予備軍をいれて21室従業員100名をちょっと超えました。
例えばイタリアのワインがいい、北陸の酒がいいといって消費していただいてお帰りいただくのはプチ東京になってしまう。この窪地の地形を利用し展望大温泉をやるのは男の妄想だ。そうしないで自然を受け入れる仕組みですね。

「まちづくりは面白い」ふきのとう書房。より

※この人はクリスチャンで“旅人をもてなす心を忘れてはいけません”聖書の中の「旅人を懇ろにせよ」という言葉を大切にしていました。創業は明治44年です。我が家の延長と思っていただきたいといっている。

2007年12月28日金曜日

一橋慶喜・渋沢栄一・岩崎弥太郎







渋沢栄一という人は埼玉の篤農家の生まれで、江戸末期の世の乱れに嘆いて、国家の憂いをおのが憂いとして、京都の実情に赴いた。ゆくりなくも一橋慶喜公に召され、3年の激動の春秋を過ごした。その後将軍となった慶喜公の実弟なる徳川民部公子はフランスでの博覧会でナポレオン3世への礼式出席と留学することとなった。その随行役をせよとのことで赴いたのが1867年(慶応3年)のことであった。その随行役として何くれとなく心を砕き、公子からも何事も相談を受ける身になっていた。ある程度予想はしていたものの、折しも故国での政変・幕府崩壊(大政奉還)により留学などの志も遂げ得ず,空しく帰国することになったのが明治元年のことであった。江戸に到着し、公子とも別れ、託された手紙を、慶喜公の幽居している駿河に届けながら、残生を送る気持ちであった。そこに落ち着く前には、託された手紙には返書があるので、それを公子に持ち帰るように命をうけていた。ところが返書は届けなくてもよいし、静岡での超緊縮財政の中であるが、有り難くも、ここで勘定頭の職に励めよという達しがあった。栄一は自分でも職欲しさに戻った訳でもなく、返書も届けなくてもよいというご指示に立腹してどうにもおさまらなかった。再三に渡って督促したが、その理由を説明しようということで召された。これは昵懇の家来になった栄一を、水戸に返書を持参させたら、公子が放さずに自分の相談役にするであろう。そうした場合には水戸の内部では嫉妬されて立ち行かない状況になるは必定という心配をされていた。これが引き留の深慮遠謀であった。徳川慶喜公はこういう人であった。

以上と以下は渋沢栄一の雨夜譚(あめよがたり)による。

渋沢は岩崎弥太郎に船遊びに誘われた。二人は合本組織(株式会社組織)の是非をもって激論を交わした。渋沢は合本法を是としたのに対して、岩崎は専制主義経営を唱えた。岩崎は渋沢と組めば日本の実業界を牛耳ることは易いと説いた。この思想の対立により、この結託は成立しなかったが、後に三菱が組織の三菱と言われる合本経営体になったということはいうまでもない。

2007年12月26日水曜日

こんなに便利なGOOGLE


グーグル」の名前は「10の100乗」(無限大)を意味する英語の[GOOGLE(ゴーグル))に由来する。皆さんご存知のように“ただの検索サイト”ではない。この本をあらわした創藝舎の《グーグル完全活用本》・知的生き方文庫・三笠書房を紹介します。
世界中の衛星写真を楽しんだり、英語の翻訳、添削までしてくれる「特別検索」機能。ここまで来ると、その機能の存在すら知らないという人も多いのではないだろうか。まさにそういう一人の小生です。本書はいう「人生の可能性」が無限大に広がることを願っていると記している。
①たとえば「隠れた名店を探す」には?
→「穴場□ 隠れ家□ 良心的 □おすすめ 」と入力 (以下□は空白)
②税金を調べたい時?「税金」だけでなく→「税金□ 源泉 □控除」と入力すれば効率がよくなる。
③結婚式の祝儀の相場?→「結婚式 ご祝儀 相場」→「最近 結婚式 祝儀 が相場」:が相場は =「最近は10000円が相場」というように「が相場」をつけて説明しているページが多いかから。
④「検索が不要な情報」はマイナス記号で指定・カット!「ビジネスマナー」で検索すると「冠婚葬祭」「就職活動」まで拾ってくられるので
→「ビジネスマナー-冠婚葬祭」とすれば冠婚葬祭部分は除外される。
⑤「渋谷公会堂」の「クラシックコンサート」を調べたい場合、渋谷のロックコンサート情報や、渋谷と関係ない情報がでてきたりする。→
 これは「渋谷公会堂□ クラシックコンサート」と入力すると、グーグルが勝っ手に「渋谷」「公会堂」「クラシック」「コンサート」と分解してそれぞれの情報を検索してくる。→“渋谷公会堂”“クラシックコンサート”とすればよい。
⑥「今見ているサイトの信頼性」を簡単に確認する法とは?
アクセスしたURLを右クリックしてコピーして検索ビックスに貼り付けて「http://」のところを[link」に書き換えて、たとえば国立研究所とか信頼がおけるtころにリンクしていれば信頼性も高いといえる。
⑦これ以上説明するには大変ですので、GOOGLEのトップページに出ている字句をクリックしてみるかこの本を購入する(何冊かみたがこれが一番優れている):ウエブ、イメージ(写真)、ニュース、グループ(ニュースのグループ掲示板)、ディレクトリー(カテゴリーがあるので便利)、more(グーグルの色々なサービス)、検索オプション(複雑な検索)、ウエブ全体からの検索(世界中)、日本語のページを検索、パーソナライズドホーム(自分流アレンジ検索)

その他「キャッシュ」をクリックして「今はないサイト」を読む方法、ある時期のニュース記事だけを読みたいとか、歌詞の一部が分かっていて、歌の題名を知りたいとか、思いつくことはほとんどといっていいほどの方法論が紹介されているので小生も購入予定です。

マスコミの現場:週刊誌の巻


マスコミの現場から:週刊誌編「週刊現代」の巻
週刊現代 藤岡雅記者
●週刊誌は定期購読が少ないので毎回が勝負である
●週刊誌等の発行部数:※は印刷証明付き部数:日本雑誌協会2006年9月1日~2007年8月31日の間の調査。
一般週刊紙:週刊文春798、344部※1、週刊新潮765、713部※、
週刊現代690、398部※、週刊朝日319,562部※
※1は女性購読者が多いので、いわゆる女性の写真はない。
月刊誌:文芸春秋620,850部※
写真週刊誌:FRIDAY409,082部※
●週刊誌の評判は、新聞にかけない反骨精神と悪文しか書けない捏造記事が多い。
●週刊現代は取材がキチンとしているという評価がある。
●JRの色々ある組合によっては、元革マルもいるという記事を書いたら、電車の中吊り広告が契約解除になって利用できなくなっている。
●編集部は50から60人:編集長・編集員、デザイナー、カメラマン、アンカーマン?、
記者(外部ジャーナリストと対になるケースも多いようだ)
●新聞には発売広告の見出しを金曜日までだして売り出しは火曜日である。
下記の取材1はこの見出しをみて新聞社が取材されてスクープを逃したようだ。
ここ実家は事務所ではありませんとの発言や、公開されている政治資金報告書で架空事務所経費の金額まで、先に報道されたが、業界ではジャーナリストの松岡さんの功績であるとの評価をえている。
●ネタ探しは記者の経歴もあるし、その人の感性やその人の鋭敏さで随分差がでるようです。
◇取材1(今年世を騒がせた人取材赤城農林大臣・バンソウコ王子)写真もとれ、取材面談のせよとの社命:取材依頼したが拒否されたがアタック。金曜日に今週の記事ネタプランを提出、月曜日どこにいるかを探す、自宅マンションもいない、火曜日、朝7時から夜遅く自宅前待機、永田町議員會舘も不在、議会に不在届がでているのを発見、水戸のマンションにもいない、実家は後援会事務所ではないと父が発言したものと、質問状も出していおいたのが戻っていたもので、木曜日締切最終原稿pm4:00校了。その後はお宅に自由に出入りできるようになった。翌週は別件下記キャノンを大分取材となる。
◇取材2・いじめ教師:記者クラブは横並び取材で勇み足はできないが、週刊誌はその規制外にある。新聞・テレビなどの取材開始後3日遅れで開始し出遅れた感じでした。毎夕方に一日の状況報告があったし、出尽くしたころであった。規制外で駄目元で直接電話したところ、母上がでて子供についての親の意見を話したかったようだった。おりよく取材に応じても良いとの許可がでた。記者風でなく、弔問客を装って、意外にも独占インタビューが2hもできた。キチンと取材依頼をして許されることがある場合もあるのが分かった。
◇取材3:ボクシング亀田兄弟の独立計画:亀田兄弟のことがカラマイとデスクにプランが」認められない。かけば売れる要素もおおありなので、取材するが、関係者の証言だけで、証拠がみつからないので、事実関係は結局わからなかった。

◇取材4:御手洗経団連の会長でもあり、キャノンの社長でもあるが、請負形態であれば、2年継続勤務の本採用への義務をのがれることによって人件費の抑制ができるのを、偽装請負の形態をとった。いわゆる格差社会の問題であるが、広告上でキャノンから講談社に圧力がかかった。これもタッチマックをくんだ斉藤貴男ジャーナリストの大分へ取材した記事であった。
◇取材5:徳島刑務所での変態医師:恐怖の肛門虐待、被害者80人集団告発、担当弁護士にも取材しありえないようなことが、告発数がかなり多いことも分かった。この医師はえり好みで診察放棄もしていた様子で、矯正教育の部署であって、厚生や保健衛生の部署でなかったために、矯正の圧力で悪いことをしていたようだ。

2007年12月23日日曜日

アフリカの現代紛争ミリシア(民兵)の大地から


写真はゆんフリー

2007/12/17亜細亜大学:大津司郎:アフリカの現代紛争ミリシア(民兵)の大地から:
大津氏は日本人がアフリカについてあまりにも無知であることや、これらの問題の国際的認識のギャップについて説明するには日本では基本的ニュースソースがほとんど知られてないので、早くしってもらいたいようであった。それであれもこれも言いたい・伝えたいということで空回りしている面の感じもありました。それに応じるには聞く側も自発的に問題を日頃から吸収しないととても追いつかない。アフリカのアジャンダ(国際問題という意味)は公然の事実として世界的にしられていることであるが、日本のメディアは全くといっていいほど、伝えていない。
視聴率1%は100万人がみている計算になるが、日本の民放は視聴率が低く、広告収入のの少ない国際問題の報道にはとくにアフリカについては関心がないし、事実なにも報道していない。
国際的には核問題のほうが大きく取り扱われているが、地上での戦いのほうが問題なのだそうです。それはテロリスト、ゲリラ(強い相手にたいして小規模の移動性の動きのある戦闘集団)、ミリシア(民兵組織)による戦闘である。たとえば93年の南スーダンの内戦(政府軍・イスラム原理主義と南部独立解放のための民兵との戦)によって、一番の被害者は老人と女性と幼児で100万人の飢餓は1ケ月も食料援助がとどかなかった。この内戦に加え、干ばつによる二重の食料難である。今年ようやく平和の兆しがみえてきているが、食糧や水道、電気、住居は昔の状態とかわらない。元来アフリカは豊な国であるのに。
このアフリカ問題は国際問題のテーマが沢山つまっている。
92年のソマリアの100万人の飢餓問題のとき、米軍が3万人派遣された。その理由は飢餓状態の人々を救うにもその周囲を武装勢力が取り囲んでいるので届けられない。
そこで周囲の武装勢力を除去するために軍隊が必要になる。緒方さんが、「人道問題に人道的解決はない」といった真意はこの意味であった。話し合いをしても武装勢力にも半分は食料を渡す必要に迫られるし、それが戦いの長期化につながりかねない。
(聞いた生徒もどう考えるかの問いがあったが・・・)
●南部はクリスチャンが多い
●政府の援助から南部は取り残されている。

アジア諸国(中国・韓国・マレーシア・シンガポール・インド等)は自主的判断でこのアフリカに沢山の娼婦もふくめての出稼ぎしている。中国は投資した利権を守る意味、将来の展望、を探る意味で軍隊のPKOを常時派遣している。
◎南部スーダンであるがすごい量の石油埋蔵資源がある。これに中国13億人のエネルギー資源の一助になるべく長期的戦略的に取り組んでいる。
◎コンゴではレアメタルの埋蔵量に期待がかかっている。
◎自然観光ではなく、国情視察のため、拓殖大とアフリカのエイズ患者の交流になるか危ぶまれたがコミュケーションが問題なくおこなわれたし、5000人のうち3人が生き残った人からジェノサイドの現実を直接きくことがブルブル震えながら聞いたとのこと。
◎中国の援助はタンザニアで2500kmにおよぶ鉄道建設をおこなっている。その枕木の本数は3000万本におよぶが、中国の印がくっきりと押されているのでタンザニア国民へのインパクトが大きい。日本のは箱もの・土木の援助については非難の的になっていて、こころ面・教育面の援助になっているが日本の国連の理事国への投票への吸引力にはならなかった印象をもっている。
◎現地での取材は一人でやっている。車の運転手が危険回避の90%以上の鍵を握っている。
この運転手の危険予知能力は顔をしげしげみてそのオーラがでているかの判断をする。それほど出ていない運転手であればテンションを高める意味で、運転手の横でまめに危険の回避のエピソードを話をしょっちゅうしている。

2007年12月22日土曜日

シュリーマンの外国語の覚え方


写真はゆんフリー
H・シュリーマンと講師の外国語の覚え方
中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所の大村幸弘氏の話
シュリーマンは1822年にドイツで生まれている。トロイア遺跡があるということを証明した人でもあるということになっているが、この遺跡は7層にもなっている古代遺跡で、各層の発掘した遺物も混じり合っていて、純然たるトロイアであるということを証明するにはヒッタイト粘土板による必要なものが出てきてもよいが未だである。

1841年ハンブルグを出帆したが難破、生死をさ迷った挙句、奇跡的に助かっている。砂浜に辿りついたといたとき、眼前に自分の大事な手荷物のカバンがあることに気がついた。これには次の仕事の紹介状がはいっていた。
次の幸運はペテルブルグで仕事していたとき、自分の会社の倉庫が全焼した。事務員が走ってきていうには、「船に積み荷として残っていたのは商売の大事な価値のものはあります」だった。
短期間に莫大な財産をつくったのはクリミア戦争(1854-56年)でインド藍、硝石、硫黄、鉛などの戦時品を取り扱った故と多くの外国語を駆使したからであると思われる。
1842-3年アムステルダムにいたころに、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、修得。修得方法は、「非常に多く音読するころ、けして翻訳しないこと、毎日1時間をあてること、つねに興味ある対象について作文を書くこと、これを教師の指導によって訂正すること、前日直されたものを暗記して、次の時間に暗唱することである」
これに基づいて講師がならった。シュリーマンの場合は1外国語に1日3時間これを繰り返し3月を要した。
(のち現代ギリシャ語、古代ギリシャ語、ラテン語、アラビア語、ヘブライ語も修得した。)

一方大村講師の場合はこの方法を利用して、最初はクルド語(労働者に通用)、アラビア語(労働者に通用)、は駄目だった。トルコ語(隊商に通用)については単語を覚え、覚えの早い人で2・3日、遅い人で1週間200~300語は覚える。毎日覚えた単語を教師に報告する。この先生は必ず褒めてくれて「あなたは覚えが早い」とおだてられた。そうして単語+単語で表現するが覚える限界に達する。次にこの単語を動かす動詞を覚える。講師の場合24時間その外国語に浸り、8ケ月でしゃべれるようになった。
(トルコの遺跡発掘の仕事に就くことの目的、日本語を話さない環境、年齢などの要素も影響をうけている)

2007年12月21日金曜日

聖なる山頂

写真はゆんフリー


35年ほど前のバーミアンで南斜面の岩で、アフガンの兄弟と午後の陽射しを腰を下して楽しんでいた。
「なあ、ムハンマド、あの峰、誰か登ったことがあるだろうか・・・」
紺碧の空につき上るように水晶のようなコー・イ・ババの主峰をうっとり眺める私に、兄弟はひややかな調子で言い放った。
「登って何になるの・・・」
なるほど、登って何になるものでもない。すでに誰かが登っていたからどうなるということもない。かつて陸上競技の話題にこの兄弟は、急用でもないのに、何故走る、といった。スポーツを兄弟に講釈するつもりはなかった。兄弟の一言に私は逆らわず、登山を考え直すことにした。エヴェレストに登るわけを問われた英人登山家マロリーのそこに在るからとの伝説的な返答から100年、名言と錯覚しかねないその言葉がどれほど傲慢な言葉だったかに気づく。人々が神の座と信じ、崇め畏敬する山頂に立って自国の旗を翻し、征服なれりと表現して憚らなかった。私達の世界の西欧近代の傲慢さを嬉々として擬ってきたのだのではないか。そして今日もまだ頂上に旗を掲げ征服を口にする者が少なくない。頂上直下1m、いや30cmでもよい,静かに佇む、そんな登山家を見たいものである。
まだ30歳代ながら無酸素の単独でナンガバルバットの7800m地点まで登高した山びとがいる。この友は聖い山の頂はけして踏みたくない、という6000mまでの“岡”は別だけどねとひげ面が笑う。欧米のクライマーたちをガイドしながらも、彼と仲間が山を犯すことはない。登山の心と行動もまた、近代を見直す時に至っている。
ペシャワール会報甲斐大策より

2007年12月20日木曜日

乱高下のドーナツ

写真はゆんフリー

5ルピーのドーナッツが「乱高下」
ペシャワール会報(日本で寄付を募って、中村哲という医師がアフガニスタンでらい病や灌漑用水の土木工事を無償で援助している活動家発行の会報)NO94、2007・12.5に隊員が寄稿しているのを読むとどれも素晴らしい文章です。

10時頃になると工事現場に少年がドーナッツを売りに来る。
「ミスター買わないか。1個5ルピー(日本円で10円相当)だ。」
ちょっと高い気がしたが焼き立てで味は美味しかった。
翌日、現地人スタッフ達といるところにドーナツ売り少年が再び通りかかると、スタッフの一人がドーナツを奢ってくれた。「4つくれ。1個いくらだ。」
「2個で5ルピーだよ。」
えっ!?昨日自分が買った時と違うじゃないか。「おい、なんで昨日の半額なんだ」と尋ねると、「昨日のは、大きかっただろ。今日のは小さいから2個で5ルピーだ」堂々と答える。
うーむ、食い意地に長けている私の記憶が確かなら、大きさはさして変わらなかったと思うが、納得はいかないものの、美味しかったからいいかと仕事を再開している私のところに商売を終えた少年が戻ってきた。「ミスター、1個余ったから買わないか」「いいよ。2ルピーかい?3ルピーかい?」「なにいってんだよ。1個5ルピーだ」
自称12歳の少年だが、大人顔まけの商売根性だ。だが、そう感動してもいられぬ私はカール・ルイスになったごとき全力疾走で逃げ惑う少年を追走しひっ捕えたが、振り返ると少年の弟が兄の身を案じておお泣きしていた。
それ以来、少年は私を見ると怯えていた時期もあったが、今は常連客として仲良くしている。ちなみに、1個5ルピーの大きいやつが続いている・・・。
灌漑用水路建設担当 本田潤一郎。

http://www.la.biglobe.ne.jo/peshawar/
ペシャワール会事務局〒810-0041福岡市中央区大名1-10-25上村第2ビル603号室
TEL092-731-2372
[以前もエジプトの床屋での話:お客の所得によって床屋の料金がことなる。このドーナツの値段がことなるのはイスラムでは名誉なことかもしれない]

2007年12月19日水曜日

河合隼雄のラストインタビュー前篇その3


写真はゆんフリー


対人恐怖症、赤面症の人がものすごく減りました。
赤ん坊のほかにままならぬものに恋愛がある。今大学生でも、いっぱい相談室にくるんです。だけど、昔みたいな形で悩んでる子はほとんどいない。」たとえば恋人ができてうまいこといかへんでしょう、そうすると「先生、なんとかしてください」ってくるんですよ。「あの子に言うったってください」「どうしたらいいんでしょう」とか言うて。つまり好きやけど告白できなくて、悩んで悩んで、もうフラフラになって死にそうになって、とはなっていない。そういうのはなくて、なんかええ方法があるはずやから、おまえら考えろ、という格好で相談にくるですよ。それがものすごい多い。
対人恐怖症はいまないんですよ。対人恐怖症ならただ引っこんでのや。人前に出なければならない、でも出られないのが、そういう葛藤があるから対人恐怖症になるんでしょう。今は葛藤なしにポンと引っこんでしまう。途方もない引きこもりになるか、バンと深刻な犯罪になるか。葛藤保持能力がなくなったのと一緒でまんなかでうろうろできないんですね。両極端ですね。
昔は知らぬが仏でうまくいっていた。お母さんも知らない間に悪いことをしたりして。それが今ものすごくできにくいんですよ。ちょっとさぼって図書館にいるのが分ったらものすごく怒られて「ほら塾に行きなさい」とか「成績落ちた」とか。ぼくら自分で考えても成績落ちることがあるんですね、そら怒られてるけど今ほど怒られてないですよ。上手に引きこもりができなくて追い込まれるほど、今度はガタンと引きこもってしまうわけでしょう。引きこもってる人は気の毒なことに引きこもりの意味がわからなから(どうやってい意味を教えたらよいでしょう)、それで自分が嫌になってるから余計引きこもりですよ。意味のある引きこもりやっていると思ったらもうちょっと悠々としていればと思うんだけど、いつも非難されるからがんばりたい。がんばれるはずないでしょう。さなぎなんだから。でもなんでがんばれへんか自分で分からないから、「おれ駄目な人間だ」とか「もう駄目だ、こんちきしょう」とか余計ひきこもる。親がしらん振りをするはなくて、何もかもわかっている。黙っておこうという訓練も親は必要。豊かになるとか、個人主義になるということはものすごい心の負担を各人に負担をかけているのです。貧乏で忙しくしていたら、子供のことなんてほおっておくから、ちゃんと上手くゆくのですね。ただ大事なことは待つとか葛藤かに厳しさがでてくるべきなのに、間違う人は厳しくいわれたら、「分りました!きびしくしつけます」とぱっとやるんです。それと人間関係がないのに、やったらムクアクチャになります。大事なのは人間関係の深さです。それも子供が小さいときにきっちり関係をつくらないとダメですね。子育てやって失敗したなと思ったり、30分くらいは悩んだっていいんですよ。そういうものがあるからおもしろいですね。親が「あのときはすまんかったな!」と思って暮らしているのと、「おれはみんな一生懸命やってんだ。おまえはなんだーっ」といつも怒っているのと全然ちがうでしょ。

2007年12月18日火曜日

地方テレビ・放送の自由と倫理


写真はゆんフリー

メディアの現場から:テレビ神奈川・野口宏幸1976年入社
報道の自由と放送倫理(2007.12.16の講義)
現在厳しい目でみられている。全国に日本テレビ・フジテレビ・TBS・テレビ朝日・テレビ東京のキー局以外の地方局は120社ある。
テレビ神奈川の場合は全社は、120名で報道部門は記者13名・カメラ等運転手11名計24名でうごいていて、選挙速報時は全社総出だそうです。
●行政関係のニュースは民放の地方局では伝えるのは難しい、税金関係は視聴者が関心あるので報道しやすい。飲酒運転禁止も報道しやすいし、首都圏では事故率を下げにくいがこのキャンペーンは効果がある。
●民放の報道番組が面白いのは自局の社員が伝えるにはいろんな意見を公平に扱うように放送法で規制されて、コメンターターや外部委託(10chの古舘、久米)はその人の意見が言えるが、NHKの場合はキャスターは自分の意見は言えず、コメントを求めたものならよいが、そうはいかないので、ニュースを読み上げる調子になってしまうハンディがある。
●ネタが内部情報によるものが多くなってきている。(関東学院大の大麻吸引もフジ屋も)
●火事など一般人がカメラで現場を撮影したものを、PCで送ってくれるようにもなってきている。
●以前秋田県で母親が最初は自分の子供が殺されたという同情を買ったが実は自分が殺し、挙句に他人の子供まで殺害することがあったが、これを連想して
香川県の祖母・孫2人殺人事件で、評判では乱暴な言動がある父親が問題ではないかということで、犯人に仕立てる間違った報道がなされたが、このような過熱取材の是正方法の取り組み。このようなワアっと取材陣があつまるのをメディアスクラムとよんでいるが、カメラ台数,固定した連続取材の記者1名制度などの規制(雑誌やフリー取材はこの規制に入っていないが今後どう組いれるか)
●犯人が未成年者の場合の匿名:19歳で殺人を犯した場合でも個人情報保護法により、安易に情報を隠すことが行われるようになってきたが、実名公表の意義は事実の核心である・知る権利・犯罪の抑止力や事故を助けあう要因の面もあるのでバランスをどう取るかである。
●実名報道は肉親や親類縁者に多大な影響を与える。会社に取材しにいくだけでその対象に問題があるようにとられる面もあるので細心の注意を払っている。
●ニュースを読むアナウサーのスピードは1本1分前後で一定していないと、一定の原稿量が報道できないし、計算ができない。素人の人はバラバラで一定しない。1本で10秒で10本では100秒では1分を遙かにこえている。
●現場取材の必須道具:報道倫理手帳、実名報道要領を携帯させる。月1回は研修を行う。
●ニュースで同じ画面を何回も繰り返す理由:毎回新規で撮影するのは経費がかかる。決定的場面はそうザラにはないものです。プロのカメラマンはアングルや撮影チャンスは類似しているもの。
●報道取材の各社のカメラ撮影、報道でないカメラが状況証拠(過剰撮影防止)の
ために保管しておく(けして報道されることはないが)
●愛きょうある・美人ニュースキャスターの起用は何もニュースがない場合にはグルメ情報や不美人であるよりは美人のほうが視聴率アップにつながるから。

2007年12月17日月曜日

河合隼雄のラストインタビュー前篇その2


写真はゆんフリー


ちゃんと悩んだり、迷ったりしないのが問題です。
 「子育て、このままにならないのが面白いや、練習や」という気になったらだいぶ違うでしょうね。
人生に悩みや迷いがあるのが問題なのではなくて、問題があるのに、ちゃんと悩んだり迷ったりしないことが問題なんですね。そういう悩みや迷いを持ちこたえる力をぼくは「葛藤保持力」といっているんです。それが今すごく弱くなっていると思いますね。腹がへっても、お母さんに「ちょっと待ってて」といわれたら待っとるよりしょうがないかわけでしょう。スナック菓子があるわけじゃないからね。待っていたらおいしいものを食べさせてもらえる。葛藤保持力の練習でしょう。待っていたらいいことがあることをちょっとづつ練習する訳です。ちょっとしたものがほしければ「こんどの誕生日まで」とかやってるわけでしょう。
辛抱の経験の足りない子は物事を思うようにならないと、それを我慢できない自分が悪いのではなくて、だれかが悪いからだと考える。だから誰か悪いやつを探すわけです。お父さんが悪い、お母さんが悪い、やっつけろと短絡的にいくわけです。
どこかに入るときに、自分で戸を開けて入るか自動で入るかで、だいぶ違うと思いますね。ドアがなにもしないで開くようになっている。そのことに今,平気になっている。だから平気で他人の心のなかにズカズカ入り込んできたり、そういうことが起こってくるのは当たり前でしょう。
スーパーやコンビニで「おはよう」もいわず、レジにポンと渡して、金はらってパパットと。何も言わんでも、生きられるんです。今は便利になりすぎているんです。世の中便利になったから、みんながちゃんとやったら自分の思い通りにうまく行くのが当然と思いだした。ところがそれは物に対してはそうじゃないんですよね。それを間違って、自分の子供でも、ちゃんと育児すれば泣かない子ができる、とみんな思うわけですよ。そんなん、絶対子供は泣くわけ、そうすると、これはわたしが悪いんじゃないか、という自責の念がわいてくる。でも自分が悪くないでしょ。それでなんかむかむかしてきて「なんやこいつ」と子供をパンとたたいてしまう。子供はわっと泣くでしょう。それでお母さんはそれこそキレてしまうんです。そうなってらもうムチャクチャになるんです。だから子供を憎んでいるとかそんなにないのに、虐待してしまうんです。そして虐待した辛さを子供にまた向けるんです。はじめから嫌いでやっているのとは違うんですよ。その根本で「ちゃんと上手にやったらうまくいく」と思いすぎているんです。そういう虐待が増えているんです。

2007年12月16日日曜日

河合隼雄のラストインタビュー


写真はゆんフリー



河合隼雄ラストインタビュー:子供を守る母性が弱くなっている:論座・朝日新聞の雑誌。前篇ですが4回にわたって。今回はその1
子育てが両親にとって、エネルギーと工夫のいる時代
日本の場合、地域・世間が抱き込んでいたわけです。昔のお百姓さんの家は忙しいから、お父さんもお母さんも、そんな子供にべたべたとしとられんですね。けれども、家全体・地域全体が母性をもっていたわけでしょう。それをさらに自然が取り巻いて、いろんなものが子供を守っていたわけです。都市の周りもまだ自然が山ほどあって、東京でも、三角ベースで野球をするところがあって腕白坊主がおって、ということでみんな守られていたわけでしょう。そういう守りを補償するシステムを戦後になって全部壊したということをみんな気がついていないんです。空き地をなくして子供同士で遊べなくして、塾にいかせて、そういう人生にしておいて、お父さんお母さんが父性も母性も弱かったら、子供が弱くなるのは当然ですよ。だから今、子育てはお父さんお母さんにとって、ものすごいエネルギーがいる時代になっている。なにもかも個人でやらないといけないから大変なんですよ。ところが戦後の日本では「個人が大事や」となったとたん、そういうシステムを「しがらみや」といって捨てていったでしょう。「個人が大切や」といったときに個人が楽になった、自由になったと思ったわけでしょう。大間違いですよ。しがらみを捨てた分だけ、個人の責任がものすごく重くなっているんです。

2007年12月14日金曜日

特捜が挑む日米防衛利権の闇


写真はゆんフリー


特捜が挑む日米防衛利権の闇:以前購読していた「選択」という雑誌で、各新聞の記者が記事にしたいが通常没になるようなきわどい記事を集めて切り口鋭く、かつ分析力によって知の空白感を補ってくれる。2007・12号通常本屋には置いていないので定期購読が必要であるが、武蔵野市や西東京市の図書館に置いてありました。

記事を要約すると、
次期輸送機CXエンジンの商戦を巡って守屋の口利き疑惑の立件をうけ特捜部は政界ぐるみともいえる重大な国家機密について宮崎と守屋に口を割らせようと考えている(東京地検関係者)
特捜の狙いはメディアが注目する防衛族政治家たちの接待疑惑や便宜供与解明にとどまらない。本命は日米防衛利権の汚れたカラクリなのだ。「小沢が『久間は助からないだろうか』と福田にもちかけたらしい」11月2日の党首会談に関するこんな情報が自民党内に伝わっている。かつて経世会(竹下派)に所属した複数の国会議員たちは次のように証言する。「福田は、テロ特措法をめぐる小沢の強硬姿勢をブッシュ政権が快く思っていないと伝え、訪米に先立ち、小沢の意向を質した。この際、山田洋行事件が議題に上がったようだ。もし久間が捕まれば米軍再編計画が実は米国の意のままにつくられた疑惑のスキームだとばれてしまい、頓挫する。そうなれば日米関係は悪化。やはり疑惑にフタをするには大連立しかない、と」
疑惑のスキームとは何か。関係者の証言と入手資料によって総合すると、昨年9月に米退役軍人らによって創設されたプラント開発大手「ショー社」の首脳陣が来日、日本政府もまだ承認していない在日米軍再編の詳細をしるしたプランだった。米軍再編の大枠は昨年5月の日米安全保障協議委員会(2麻生外務大臣・額賀防衛庁長官プラス2ライス国務長官・ラムズフェルド国防長官)において合意したが、日本側は3兆円もの資金を投じるように約束させられ、なかでも在沖縄海兵隊8千人のグアム移転は、米国内の米軍基地建設を日本側が費用負担するという「国を売るようなプラン」(野党幹部)としても国会でも追及された代物である。
「ショー社はブッシュ政権の後援企業で、イラク戦争後の石油プラント事業でも名乗りを上げた。グアムへも移転には世界大手の建設会社ベクテル社なども参入を表明し、日米間のパイプを使い、有利な再編プランを獲得しようと水面下で動き出した」(防衛庁関係者)
ショー社首脳が来日したのは最終合意からわずか4月後、政財界の要人と接触」発注者を「米軍」と位置づけ日本側の財政負担と日本企業の取り分について要求を突きつけたというのである。塩崎官房長官をトップに政府高官や自民、公明の3役たち24人が名前を連ねる「在日米軍の兵力構成見直し等に関する政府・与党協議会」が設置されるに至り、一連のスキームへの政府のお墨付きが明らかになる。
昨年12月25日、協議会は初会合を開き、住民の反対運動で進まない再編事業を促進させようと1千億円もの地元交付金制度を盛り込んだ再編促進法案を発表。このときの協議会のメンバーの一人久間が会見に臨み、日米関係にもプラスになるんです」と喜々として語った。{米国にこれだけ卑屈になる理由がよくわからないし、結構推論がおおいというような気がする。しかし読売新聞の渡辺が画策したこと、小沢が突然脈略なしに、大連合を組もうというのもわからないし、この小沢が辞任すると言い出し、それを引きとめたとか何かがあるからという気がしているがこれら全体を納得させる理由がよく分らない}
小沢は党首会談の前後から捜査の足音に敏感になっている。その背景には小沢の自民党幹事長時代に、湾岸戦争時、多国籍軍に90億ドルの資金援助をしたとき、下働きして走りまわったのが久間だった。「小沢は父ブッシュ政権で国務長官シュルツと深い親交を結んだ。このシュルツがベクトルの経営者だから小沢は米軍再編をつぶすわけにはいかない。ショー社に近い久間とウリ二つだ」(自民党議員)
別々の政党ながら米国の巨大企業をバックにする小沢と久間。
小沢と久間の師匠にあたる金丸信は瀬島龍三らとともに、「日本戦略研究センター」を設立、自民防衛族や防衛庁制服組、軍需産業が集まるタカ派の拠点となった。これを小沢が引き継いだが1993年に金丸信が不正蓄財で逮捕された後自民党が分裂、小沢は脱党、自民党防衛族が新たな拠り所は、金丸信の鞄持ちや綿貫民輔の秘書もやった秋山率いる「日米文化協議会」だった。ここに民主党の前原誠司や公明党議員らも引き入れ一大防衛族グループが形成される。「この団体はやがて権威ある組織と認知され、コーエン元国防長官やアーミテージ元国防次官補たち米国国防族を理事に迎え、さらに安倍晋三、福田康夫も加わり、残るは民主党の小沢を招くばかりだった。つまり日米安保を御旗に一足先に防衛議員たちの再編統合がおこなわれていたのだ」(自民党議員)
守屋の証人喚問を執拗に求めた民主党内の会議で、証人喚問について想定問答をつくろうとしたとき、小沢グループ「一新会」のメンバーは国会の質問に2つある。
真相を究明する質問と党利党略を計算にいれた質問。山田洋行事件は一歩間違えると危ないとし、同僚議員たちを驚かせた「この直後ですよ。大連立話が噴き出したのは」と民主党議員の一人。「秋山の団体をつつけば、民主党も返り血を浴びる」
民主党の非小沢グループは「離合集散でできた二大政党維持はもはや無理」とし、次の構想を打ち明ける。
「親米派の自民党清和会と防衛族の多い旧竹下派に民主小沢グループが合流する新自民党、もうひとつは非防衛族の宏池会と民主党非小沢グループがドッキングする新生民主党の2つに再編すべきだ」
久間や秋山を追い込めば追い込むほどいっそう政治のねじれが表面化するというジレンマがある。このねじれが今後の政界の再編の原動力になる。
山田洋行事件の捜査は「守屋利権」・普天間基地移設問題で守屋とその一派である那覇防衛施設局長が地元出身の議員や地元業者と癒着して移設事業を独占しようとした事件である。この事件は「久間・守屋ライン」は守屋が地元出身議員と組んだことから久間がきれているので、久間逮捕にはつながらない。特捜は久間捜査班を別に設けている。但木検事総長は官房長官=法務政事務次官として長くパートナー関係にあった。「政治的配慮」は不可避である。八木宏幸特捜部長は辞表片手に捜査に臨んでいるというが政界ルートへの踏み込みは心許ないのが実情である。さてこの予測・推測はどうなるものか。

2007年12月13日木曜日

米国における写真機

写真はゆんフリー

12/12成蹊大学での共立大学教授生井英考の講義
近代写真術に誕生は1839年でフランスで生まれた。
ダゲレオタイプという金属板に直接露光する方式で非常に鮮明に見えて浮き上がったみえるものだった。画像の保存には優れていた。しかしシャッターを数分開けて光を取り込む必要があり、人物写真をとるときは、白くするためにメリケン粉を顔に塗ることや動かないように、頭を抑えておく道具が椅子についていた。
写真の歴史は光を取り込み、それを露光する物質を受ける板が必要で、これを必要以外の光を遮断し、定着させるための暗室や暗箱をどう小さくするかの歴史である。モールス信号を作ったモールス(絵描き・科学者・発明家)がフランスに滞在中にこのダゲレオタイプの写真技術を米国にもたらした。この写真技術により、その当時の社会現象・事情・服装が撮影され貴重な資料として残っている。米国ではこの写真に敏感に反応している。モールスに出入りしていたブラディは流行写真家であった。この写真は銀でつくられていたので銀板写真を使用していた。スコヴィル社とアンソニー社は銀板写真市場で競争(1840-50年)を始めた。スコヴィル社は1840年米市場を席巻していたが、アンソニー社が加わることによって競争が始まった。このころはボストンが文化や事業の中心地だった。
1840年代初仏製銀板1枚2ドル
1842-3年は米製銀板2枚1ドル35セント
1845年米製銀板1ダース3ドル50セントと大幅なコストダウンになった。
このようになると米国では新しい街ができると、写真館も併せてできるようになった。
単価がどんどん下がった面、大きさを大きくすることで、売上を落とさないようにし、又米国人は写真の大きいのを好んでいたし、市場が一期に拡大した。
モールスの弟子でもあった土木技師のエドワード・アンソニーはマンハッタンに
写真館を創業。消費者のニーズを察知し47年には写真用品の卸会社を設立した。1850年にはボストンの器械業者が開発した電気メッキによる新しい銀板製造技術をとりいれ本格的な写真用品の製造業へ参入し、西部市場の積極的開拓を実現した。これによって製造元から出発したスコヴィル社と並ぶ最大手の写真用品製造・流通・販売業者になった。
大量生産の元祖のようにいわれるフォードであるが、この写真用品でもテーラーの科学的生産技術のように、職人技術を分解して誰でもできる作業に置き換えて(鉄砲鍛冶→ウンチェスターのように)、部品ごとに製造技術を分散したので熟練度と精密度が各段に向上して、大量生産の素地は機械のウエイトは低いができていた。1851年イギリスの彫刻家フレデリックは硝酸と硫酸の化合物を使い、ガラスの板のその場で薬剤を塗布して撮影する方式を発明した。画像が不鮮明でガラス板も重く壊れやすかったが、陰画・陽画法であること、コストが安いことで徐々に普及し1880年代までに陰画・陽画法が一般化した。これをコロジオン法という。1870年代にはセルロイド素材の実用化・産業化。並行して1880年代末には紙のロールフイルムが、部分的に普及し、大衆市場向けのものも発売された。米国はヨーロッパで発明されたものを更に性能の良いものに発展させる力があった。アメリカの労働観はベンジャミン・フランクリンにいわせると{時間・信用・貨幣}も貨幣と同じである。
ライト兄弟の大西洋横断飛行は有名であるが、元来自転車屋であったが、いろんな飛行機に関する技術の特許を取った。があんまりがんじがらめに取ったので周辺企業は利用しにくく、米国の飛行技術の発展がヨーロッパに比べ遅滞した。この特許の守勢と技術の発展の調和は難しい面がある。1895年映画をスクリーンに移す技術がフランスで発明された。フランスではブルジョアのための先進技術であるが米国は庶民へのものに力をいれるという違いがあるしマスマーケット指向である。具体例でいうと、フィルムのコダックと、
映画等のエジソンであるという。

2007年12月12日水曜日

映画「流れる」


写真はゆんフリー
「流れる」成瀬巳喜男監督、原作は幸田文、昭和31年の芸術祭参加作品
先日の東京経済大での榎戸耕史(エノキドコウジ)映画監督の講義で推薦をうけたdvd映画を借りてきて見てみました。

場は清元のながれてくる隅田川近くの花柳界(浅草2丁目と画面の一部でちっらと分かる)
山田五十鈴の若いころの奇麗さ、田中絹代の清楚なそぶりなど人間の品格がでている俳優陣がそう揃いした映画でした。
●乗り物は人力車はタクシー代わり
●電気代節約のため早くねる→顔に皺が出来ないの(ちょっと意味が解しかねる)
●子供が注射するときは母親が目を背ける
●女子職業安定所
●男が頼りにされていた時代(法的・金銭的アドバイスや援助)
●芸者はプロとして襟足は素人より際立った奇麗さを誇りにおもっていた。
●芸者置屋の世渡りの下手な「つた奴」(山田五十鈴)のところに亭主と子供を亡くして身の置きどころない、女中として働きにきた梨花(田中絹代)。「つたの屋」には芸者の「染香」(杉村春子)は近所のアパートに10歳年下の男と住む。OL上り現代感覚のある「なな子」(岡田茉莉子)がいる。30代を超えたら婆といわれるこの界隈であった。
つたの屋には芸者は嫌いという娘の「勝代」(高峰秀子)と往く当てのない・妹親子が住んでいる。「ぽんこ」と言われる「つた奴」にかわいがられている猫がいる。
芸者でもう一人いたが、給金の不足に嫌気がさして逃げた「なみ江」と左前になった「つたの屋」とに関してのトラブルがあった。そこに「なみ江」の石屋である叔父(宮内精二)が乗り込んできた。粘りに粘り半ば脅迫気味なので5万円を払ったが納得せず。
そんなとき、経済的不如意を気遣って、「つた奴」の腹違い妹の金貸しはいいスポンサーを紹介するが、気に沿わないので遠慮する。
●一流の花柳界では、私事で警察のやっかいになると没落に近い・落ち目というか名折れになって業界での評判を相当に落とす。最後に警察の沙汰によって、解決し自宅の「つたの屋」にもどり後腐れないように酒杯をかわす。
こんな場面に染香となな子がお呼ばれ先から帰る。つたの屋に帰ると唄い踊りだす。
「座敷は明るすぎるほど。床の間には黄色いスイートピー、お膳には美味しいものが並び、こんなによい商売はない。ジャジャンガジャン。ジャジャンガジャン」
しばらくすると、染香はふらふらっとなってしゃがみこみ吐きそうになる。このことが花柳界に身をおく身の危さを象徴している。
外目は華やかであるが、つた奴の世渡りの下手、勝子の潔癖と将来の暮らし方の不安、妹親子は板前(加東大介)の男に捨てられているのをわかっているのに、すがりつく、時代に流されないのは「つた奴」の金貸しの腹違いの姉(加原夏子)と、現実を見すえた姉さん芸者(栗島すみ子)の2人以外はどれをとっても時代に流されている。これがしみじみと人生の流れを物語っている。

2007年12月11日火曜日

日系社会青年ボランティア

写真はゆんフリー


2007.12.10亜細亜大学JICA日系社会ボランティアOB鈴木彩見(同大学OB)
このひとは未だ若い女性の卒業生であった。
青年海外協力隊とボランティアの2つの流れがある。
シニアでもシニア海外ボランティア、日系社会シニアボランティアは40~69歳まで可能であることが分かった。それにはこの道一筋のキャリアが要求されるようです。
海外派遣は43年目で累計3万人にのぼる。約80ケ国職種Ⅰ20種、教育文化、小学校や青年活動、保健衛生(エイズや感染症)60日間の現地語中心の訓練期間がある。
派遣終了後に要請等により、小学校や大学へ経験談のPRが必要である。

日本人の海外移住は、最初は1867年ハワイだった。戦前は77万人、戦後は24万人で海外の日系人は約260万人だそうです。最初は北米であったが段々南米へ移行していった。海外移住は農村不況と日本の食料事情の悪さのための出稼ぎだった。ブラジルでは1908年が最初で来年100周年だそうです。
この鈴木さんはアルゼンチンの日本語教師として派遣されたが、事前にわかるのはラテン系、アジア系、アフリカ系のおおまかな地区分野しかわからない。
アルゼンチンでは三番目のサンタ州ロザリオで100万人の大都市だった。だから必ずしも辺鄙なところへの派遣とは限らない。ラテン系の名称は日本人には同じような地名と思うらしく、相当確認を必要とする。
●南半球なので南風が吹くと寒いということに慣れるのに手間取った。
●イタリアから母を訪ねて3千里でマルコ少年がこの町に滞在した
●スペインやイタリアからの移民多し
●食事は牛肉をやいたアーサド、こればかりではビタミンがたりず、金属製のストローでホストを中心に飲む野菜といわれるマテというお茶をよく飲む。休日で公園でも仲間とつれだってこのマテ茶を飲む。
●女同士だけでなく、男女でも初対面でもベシートという挨拶が頬をつける礼儀であるが、日本人はなれるまで恥ずかしい。慣れると、これをしないと帰るのが物足りなくなる。友達との約束よりも、家族との食事が優先する
●日本人会や日本語学校の年間行事:1月新年会、3月敬老会、5月総会・バザー、6月ボーリング、?月移民祭り(各民族の出しものがあり、10夜連続)、12月忘年会。日本人の会館では席が男女別れる、アルゼンチンでは夫婦は何時も一緒なのに。
●日本語学校の生徒;日系2.5:以外7.5。児童館みたいなイメージもあるし、多勢に無勢ということか、日本人は劣等感と差別化感を感じている。日本人同士の交流の場、日本文化を継承させようという意図もある。
●日本の7.5倍の面積に4分の1の人口3910万人。
●日系人の言語:コロニア語日本語とスペイン語のmix、明治か大正、昭和初期の日本単語を使っている部分もある。
●アルゼンチンへの移住は戦前は5398人、戦後12066人、日系人約三万人、沖縄出身者70%。パラガイやボリビア、ブラジルから転住してくる移民おおし
1990年から日系人の入国ビザなしは日本の労働人口の補いである。
●JICA横浜 海外移住資料館http://jomm.jp/
JAICAホームページ:http://www.jica.gp.jp/
「世界の笑顔のために」http://jica.go.jp/partner/smile/index.html

2007年12月10日月曜日

運が歴史を作ることも

写真素材より



人生に運のよいときと悪いときがある。運のよいときは大ていうまくゆき運の悪いときは十分に用意をしてかかっても思いもかけないことから失敗しがちだ。
長篠合戦は織田信長が鉄砲という新兵器を多量に用いて大勝利を得、日本の戦術を一変させたということで、戦術史上で有名である。
信長は長篠城西方の有海ケ原の中間を北から南に流れる小川を前に三重に柵を結い、柵の内側に一万人の銃手から選抜した三千人の銃手を3段に配置し、かわるがわるに千挺ずつの銃を間断なく撃てるようにして、殺到する甲州の精騎が柵にせき止められ柵を破ろうとしてひしめくところを霞網にかかったツグミを撃ち取るようにした。ついに甲州勢に全滅にひとしい打撃をあたえたので、以後の歴史家の激賞するところである。
当時の火縄銃は先ごめ銃なので、雨が降ったら使えないのであるが、戦のあった天正3年(1575年)の5月21日は太陽暦でいうと7月9日だ。梅雨があけるか、あけないいかの時だ。現にこの前夜、織田・徳川の連合軍支隊が長篠城の東方にある鳶ケ巣山の砦を奇襲しておとしいれたのはしのつく豪雨を冒してであった。それがその翌日は梅雨があがって思うがままに火器を活用することができたというのは信長の幸運である。
史談「切捨て御免」海音寺潮五郎の武将雑感より

2007年12月9日日曜日

映画の現場から


写真素材より
東京経済大・マスメディアの現場から:榎戸耕史(エノキドコウジ)映画監督(桜美林大学映画学科教授)
●監督の職業:質問される仕事で、助監督・照明・カメラ・美術・音楽係などからこれはどうしたらよいかと問われたことに応えるが仕事。手に職があるわけではないが
このシーンではこの季節で俳優の演技を引き立てるにはこういうふうな花にしたいという雑学が必要。映画を沢山みるよりも、今自分がやっていることに充実感や疑問をもっていれば、それが映画を作る糧になる。
●答えるにはなんでも知りたい・知っていることが自分のプライドになる
貯めこんでおくだけでなく、どう伝えるかは頭で考えてでてくるものではなく、
人と会い、会話のやりとりから観察眼が生まれる。

●映画は映像・美術・音楽・小説・バレー・彫刻などを総合した芸術である:集約すれば「労働」「戦争」「不正(悪)」「孤独」「別離」「愛」「死」の7項目を表現する。これらを次の世代に自分達はどういきたかを継承してゆくことである。

●興行収益と映画の内容充実は両輪であるが、ハリウッドのようにマネーがパワーという経済が価値感を左右している。しかし豊かさだけが充実度ではないように良い意味での後戻りする傾向がでてきたのは喜ばしい。
●映画は他人の人生をともに過ごせる。耳・目をふさぐことはできないので、
視覚と聴覚に訴えるものは人間の記憶にとくに仕舞い込まれている。ショット・ショットを見せてそれぞれの情緒・情感を導くことである。そいうことは日常の中に溢れていることが環境問題などにもつながっている。現在は映像による情報が溢れすぎて、麻痺を起している。デジタル技術が加速度的に映像を増加させている。
●書かれている物語は勝者の物語が多く、これらの我田引水の嘘を見破る
●人生ということには人類が何千年の歴史を経ても、これっという答えはない。
又人間は物語を欲しがるものである。
●オールウエイズなど時代回帰があるが:誰でも抱えている問題はリアル過ぎて
みなに訴える物語にはならないし、今そういう際立った日常と非日常のある物語がないので昔のストーリーを利用している。
●映画ができて110年位経過している
●小津安二郎の映画もよいが畸形な部分がある。人間の良いところだけで、悪の表現がない。推薦する映画は成瀬己男監督の「浮雲」、「乱れる」・「流れる」。一番は清水宏監督の「蜂の巣の子ども」これは浮浪児のものがたりで小学生にみせればイジメはなくなるという位の映画であるそうです。
●映画自身で自分の映画の解説をする:情報をだすことによって映画の意図を伝達しようとの親切かに見えるが、余り深くや広い視野でみられると荒がみえてくるので、目立たないようにしようという情報操作である面がおおい。

2007年12月8日土曜日

企業の社会的責任

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2007・12.6亜細亜大学の企業トップによる講義
今日は化粧品とサプリメントの会社で、横浜の関内にあるファンケルという会社の宮島和美社長のおはなしでした。
この会社の好感度が52位だったのが、現在200位以下となっているので、会社を磨きたいということから話が始まった。
グループで現在1000億円の売り上げ1980年創業。
以前の顧客層は25から35歳であったが、今は10歳年齢があがっている。
商品の差別化は無添加ということですが、防腐剤・殺菌剤・香料、の不使用ということだそうです。
ペットボトルの蓋をあける力は10kgだそうですが、この会社の容器についていえば、化粧品は防腐剤をいれていないので固く締めて置く必要があったが、固いので顧客から緩くしてほしい要望等がでていた。技術の向上により有効期限は1週間を1月分とした。容量を5mlから30mlにし、あける力は、6kgを4kgにしたそうです。
102品目許されている防腐剤等について一切使用されていなかったのが「売り」だったのですが、法が改訂され、化粧品の場合は含まれている内容をすべて表示することになっているそうです。口に入る食品よりも、厳しいことを表示していることになります。
とにかく防腐剤がはいっていないし、顧客に早く届けたいということで、配達を速やかにということで、日本通運による「指定場所配達」というのをやっているそうです。
大和運輸は顧客に直接渡すということなので、応じていないそうですが、留守であっても予め了解を得て郵便ポストや自転車の籠にいれて置くことにより運送の迅速性を達成しているそうです。
前の社長で現名誉会長の70歳になった池森氏は会社を潰した経験があるそうです。
出典は分りませんが、「落ちたところが出発点という」のを見て、元来楽天的な性質なので、なるほどとおもったそうです。当初は無添加[防腐剤の入っていない化粧品だけなので14億円の売り上げであったのを、アメリカでは、スーパーで普通に売られている健康食品を見て、この商品の将来性を見込んで、売上と同額の広告費をつぎ込み、価格破壊を試みたのが成功のきっかけだった。この池森氏からダイエーの仲内社長の辞任にともない、秘書であった宮島氏も退職してこのファンケルに秘書として再就職し、今年社長を委嘱されてまだ8月だそうです。
講師に招かれたのはCSRという「会社の社会的貢献」についてこの会社はどう考えるかだそうです。尊敬するは明治の企業家渋沢栄一が「倫理と利益の両立の提唱、経済発展は国を富ませ、社会に還元する」いっているそうです。

ことしに2回ほど実害がなかったが、1回目の5月はは供給される原料に異物混入よったニューアレルギーの発生する事態が起こった。クレームの電話500件、2回目の6月には米国の大豆にガンマー線照射(日本ではジャガイモの発芽抑制のみ許されている)のが分かって記者発表し2500件のクレームの電話をいただいたそうです。
CSRというのは日本で始めたのは1995年よりトヨタだそうです。CRSについては
簡単にゆうと、小学校の教科書にも載るほど関心高まっていて、「正直で嘘をつかない」ことに尽きるという。
会社は社会にいかに貢献しているかの配慮が当然に必要であるが、連日とくに食品の嘘が老舗においても行われている現実は呆れるほどである。
●この会社は近隣の朝も清掃をやっている。会社の会議は取締役の会議でも全て立ったまま最高7時間に及ぶこともあって辛いこともあるが・・・・
●軽度の38名の障害者による完全に自立させる特例子会社ファンケルスマイル、親会社は通信販売をやっているのでカタログの発送,DMの封入・発送、廃棄書類の処理等をおこなっているそうです。給料もボーナスも会社も黒字経営の子会社は親会社の廃棄する事務書類のシュレッダー処理する会社だそうです。重度の障害者の施設「朋」に賛助金をだしている。これは年1回株主[4300人]優待で1万円の商品をプレゼントすることにしているが、それに相当する分を不要ということで寄付に回してもよいということなら会社がその分負担しましょうということだそうです。これで108名、1万円でなく2500円分にしたら2500名に増えたそうです。
●ファンケル化粧品の海外進出はあるかの質問には:欧米ではスッキリすることを化粧品に望むが、アジアでは美白、クスミ、シワを改善する目的の化粧品を求めているので有望だそうです。
●会社の会計も透明度を高めるために来年の3月より、内部統制をたかめる仕組みとなり、その次の年の3月には決算に反映しなければならないそうです。

2007年12月7日金曜日

生命の糧

 
写真素材より

グッチン・インディアンの古老が語る部族とカリブーの関わりに星野道夫は耳を傾ける。
自分もそうやっていつもカリブーを待っていた。老人と同じくらい何週間も同じ場所で待っていたことがあった。ツンドラの彼方から、その大群が現れたときは震えるような感動があったが、それは老人が見たカリブーではない。飢餓に襲われ死期がもう目に前まで迫ったとき原野の果てからやってきたカリブーを僕はしらない。きっと老人のみたものはカリブーという形ではなく、もっとボンヤリとした自分自身とカリブーとの境も消えた大きな生命の流れのようなものではなかったか。アラスカ先住民の人々がかつて何を考え、どんな自然とのかかわり方をしてきたのか、そして近代との接触の中で何を失っていたかが気になりはじめていた。そのことを人々の声や気配を通して感じとっておかないとどうしても前に進めないような気がした。

2007年12月6日木曜日

福沢諭吉の武士気質


写真素材より

福沢諭吉は咸臨丸がサンフランシスコにゆくときに、諭吉は伝手をもとめて総督海軍奉行木村摂津守喜毅にあい、従僕としてお連れいただきたいと懇願して一議に及ばず快諾をえた。
 かれは藩主である豊前中津奥平家の中屋敷の長屋で英語塾を開いていたが、慶応3年の秋に、新銭座の木村家に遊びに行くと、木村家の用人の大橋栄次が「そこの先の有馬家の中屋敷が売りにでている」と話をした。塾が繁盛で手狭になり、敷地400坪は格好と思った。そこで用人にたのんで数回の折衝をへて355両に値切り、支払は12月25日とし、武士と武士の約束で証文も作らなかった。
諭吉は苦心惨憺の末、お金を整え木村邸に向かった。戸じまり厳しく、門前払いをくうところであった。門番小屋に来意を伝え、取り次いでもらった。諭吉ならあいましょうということになった。戸じまりの理由は、三田の薩摩屋敷の浪人が幕府を激発させようとご用盗みを江戸中荒らしまわっていた。幕府はこれに堪忍袋の緒がきれてお雇いのフランス砲兵士官ブリューネの戦術によって薩摩屋敷を焼き討ちにしたので、いわば戦闘状態を避ける意味だった。大橋用人はこの江戸が焼け野原になるかもしれない、いくら約束とはいえただ同然の今、約束の値段を払うこともなく半値とか100両にしてもと助言した。
しかし諭吉は約束は約束だ。戦乱がおわり平和時にこの脇を通る人は、戦乱に乗じて叩いた価格で屋敷を手をいれたあの諭吉だと指をさすに違いないという。さすれば
約束は約束を守るべきが大事という。それほどまでにいうならば、ということで、そのまま支払をした。明治以来諭吉の伝記や諭吉を評論する文章が数多くのひとにかかれているがかれの儒教嫌いや「封建制度は親のかたきでござる」ということばや少年時代にわざと神のお札を踏んだこととか、金銭をいやしむ武士の風習を誤っていることとしたことや「天の上に人をつくらず」といったことやそんなことばかりを最も大事なこととしているのが不思議でならないのだ。彼は生涯借金をしたことがなかった。それは志をまげることがないようにという配慮からだった。
「時代遅れの人」あるいは「愚直で出世の見込みのない人」と軽蔑的似みる傾向がある。この傾向は戦後に始まったものではない。戦争はるか以前、明治のはじめころから始まって次第に傾斜の度を強めて来て、この大戦後に一層強くなった。これは日本が明治初年以来当面した課題にも原因がある。できるだけ急速に欧米先進国においつかなければ、日本の存在は危ないという国家の要請が最短距離をとって出来るだけ効果をあげようとの気風を日本人一般にうえつけてしまったためとも思われるのだ。敗戦後一層そうなった。海音寺潮五郎著:史談:切捨て御免;文春文庫の「大西郷そのほか」よりそのまま引用

2007年12月5日水曜日

もう一つの時間

写真はゆんフリー提供
東京で忙しい日々を過ごす編集者だった彼女は,何とか仕事のやりくりをつけて、クジラを撮影する僕の旅に一週間だけ参加した。前日の夜遅くまで東京で仕事していた彼女にとって,南東アラスカの夏の海はページをめくるように現れた世界だった。
ある日の夕暮、ザトウクジラの群れに出合った。僕達は小さな船で,潮を吹き上げながら進むクジラのあとをゆっくりと追っていた。クジラの息が顔にかかってくるような近さで、それは圧倒的な風景だった。あたりは氷河と原生林に覆われ、悠久なるときの流れの中で、すべての自然が調和し、息づいていた。彼女は船べりにもたれ、心地よい風に吹かれながら、力強く進むクジラの群れをじっと見つめていた。その時である。突然,一頭のクジラが目の前の海面から飛び上がったのだ。巨体は空へ飛び立つように宙に舞いあがり、一瞬止まったかと思うと、」そのままゆっくりと落下しながら海を爆発させていった。それは映画のスローモーションを見ているような壮大なシーンだった。
ずっと後から彼女はこんなふうに語っていた。
「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったって?それはね、私が東京であわただしく働いているとき、同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛びあがっているかもしれない、それを知ったこと・・・・東京に帰ってあの旅のことをどんなふうに伝えようかと考えたけれど、やっぱり無理だった。結局何も話すことができなかった。」と
旅する木:星野道夫著:もう一つの時間

2007年12月4日火曜日

お墓の行方


写真はゆんフリー提供

お墓の行方
東北大学大学院文学研究科教授・日本思想史佐藤弘夫:211世紀くらいまでは、天皇家や高僧など限られた人々を除いて、墓が営まれることはなかった。庶民層の遺体は特定の葬地に運ばれ、風葬の状態だった。墓を作っても定期的に墓参が行われることはなかった。時がながれれば、天皇稜でさえだれのものかわからなくなってしまうのが当時の実情だった。
 12世紀になると新しい葬送儀礼がはじまる。聖地=霊場に対する納骨の信仰である。身内のものが火葬骨を高野山などの霊場に収める風習が確立する。しかし納骨した以降は行方に関心がはらわれることはなかった。
日本において遺体・遺骨に対する態度の大きく転換するのは、戦国時代から江戸時代の前期にかけてのことだ。庶民層にまで「家」の制度と観念が確立されて家の墓地が普及し、子孫による定期的な墓参の習慣が一般化してゆき、墓には先祖が眠り、そこを訪れればいつでも故人に合うことができる現代人に通じる感覚がしだいに社会に定着してゆく。
逆のいいかたをすれば死後は墓の中から懐かしい人々の生活ぶりを見続けることもできる意識の目覚めにほかならなかった。
このように人々の死者に対する態度は、これほどに激変している。
今また変化のとき、自然葬はこまかく遺骨を砕いた上、海や山に散布する。一方樹木葬は墓地と認定された里山に遺骨を埋納するもので永続的な墓標はいっさい建てない。大自然の中での散骨はすでに「万葉集」にも見えている形式であり、一種の先祖返りの意味をもっているようにも見える。
墓参り:有名なマルクス、アダムスミスの墓を訪れるものは日本人だけとか、ヘボン博士の墓を所属した教会の牧師がしらなかった。生きている人格を大切にして天国のことは死者にまかせようという気持ちかもしれない。とはいえマルチン・ルター・キング、インドのガンジーの墓には参詣人が絶えないし、リヒテンシュタインの美しい田園にあるオードリー・ヘップバーンの墓は尊敬している村人だけでなく、ファンが押し掛ける。
長崎外海のキリシタン墓地には、ハンセン病者600人と一緒、看護に生涯をささげた井深八重が葬られて「一粒の麦」と墓に記されている。
阿部志郎横須賀基督教社会館会長
共に2007年明日の友170号より

2007年12月3日月曜日

日本のマスコミの問題点


写真はゆんフリーより
東京経済大学ホルバート特任教授ホルバートの話以前お話ししたアミュエル・ジェムソン氏と同様に外国特派員協会[外人記者クラブ]の会長だった。
●NHKの放送禁止用語:帰化人→渡来人、おちこぼれ、ジプシー、エスキモー→イヌイット、人種差別はよくないが、NHKはどうしてこうも、堅苦しいのか
●英国の新聞の始まり:コーヒーショップで、船は何時入港するか?を知らせるものだった。入港リストの横にはあらゆるものをのせる。ゴシップものる
日本でも瓦版はいろいろのせるものだった。しかし日本で始まった新聞は国の啓蒙するものに使おうという意図があった。報道の用語は報導だったとのこと。
外国人の記者は読者より上の目線ではいけない、あなたのためになることを載せる。
●ダイハツが米国進出に失敗した:ウオールストリートジャーナルいわく、日経はダイハツを少しも批判した記事を書かなかった(進出は国益になるからという配慮から、悪い面を書かなかった)米国では悪い面もかかないと、読者が間違った判断をするから両面のせる。
●いまはないが、英字毎日で記事をかいていたころ:被害者が新聞社前で座り込みを続けた。結局は新聞社がおれて記事を撤回した。
●野球でワールドシリーズが行われているが、いまはないが「ワールド」が主催したからこういう名前が残っている。日本のように新聞は高校野球やトルコ美術の後援をけしてしない。どこかで公平性欠くことにつながるから。中立でいたい。(広告がないか、少ないか?)
●1960年中国の文化大革命のとき、周恩来と田中首相、日中間の支障をきたすことは書かないという新聞社の協定(サンケイは反対した)が行われた。
●以前カナダの新聞の特派員をやっていたとき、お金に困って指を切る→一時補償金をもらえるという日本の記事を書いたところ、日本の駐在大使が抗議にきた、日本の恥だからよくないと。記者と編集者は大使がいなくなっての話はの内容は「真実は真実。」隠すこともない。
●日本の全国版の高級紙は真面目な記事をかく、日本人はやはり本当のことを知りたい・週刊誌は本当1割でも面白可笑しい記事でも読みたい。新聞がいい面や悪い面の両方をかけば週刊誌の存在はなくなるだろう。英国でもこの傾向はなくはない。
●「プレイボーイ」にコラム:を書いていたとき、香港の三越の地下の施設のディスコでドイツビール祭りをやるので、ナチスの軍服をきて参加してくださいの記事をかいたら、三越が電通をつうじえ抗議してきて、「プレイボーイ」
が折れたので、辞退した。
●慰安婦問題も米国下院議院で決議案が作られたが、どういう風に問題になったかの日本での詳細な報道はない。
●外国の新聞の社説に反対する記事も並立してのせるのが、公平。こうしないと信頼性が失われる。
●新聞の価値:編集して、記事の信ぴょう性も判断する、ブログの記事はそういう篩がまったくないので、将来これがはびこるようだと、相当問題になるし、結構新聞の存在を脅かしている。
●安倍首相がいなくなった途端、批判が集中する。何故前にも出ないのか。田中首相のときも政界との癒着に近いことを感じる。
●政治問題で勇敢に批判もする、右翼もいるがいろいろな社会問題について応援する部分は危険性を感じる。事実を書くのが大事。
●1分の価値:新聞は100字、ラジオは450字、
ラジオで1分以上継続して聞かせるのではなく,耳に聴かせるのは大変。

2007年12月2日日曜日

好きということ・嫌いということ

写真はゆんフリー より
好きということ嫌いということ:ディスカヴァー21伊藤守より

好き嫌いについてこれだけ項目を並べられるのは大したことに思える。
「グループの中で一番好きな人と嫌いな人を選ぶコミュニュケーショゲームしたことがあります。其のあとで聞いてみると、ちょっと面白いことが分りました。多くの人が本当に好きな人ではなく、二番目に好きだったり嫌いだったりする人を選んだというのです。まず好きな人を選ぶばあいほんとうに好きな人を選んで、相手が自分を選んでくれなかったときのショックを思うととても怖くて。」思い当たる節がありましょうか。
下記は目次だけ載せました。答えはあえて書きませんでした。
●嫌いな人はなくならない
●嫌いな人を好きにならなくともよい、でも自分は好きになる必要がある
●嫌いな人がいることは悪いことではない
●好きと嫌いの境界線は危ういもの
●嫌いといえるのは二番目に嫌いな人、ほんとうに嫌いな人はは嫌いとすら言わせてくれない
●不安に揺れる自分が許せない、そういうあいつが許せない
<嫌いな人から自由になる方法>
○嫌いな人のところにゆかない
○好きになろうとしない
○仕返ししようとしない
○相手を変えようとしない
○嫌いな人から逃げ出さない
○嫌いでないふりをしない
○嫌い!反応を味わってみる
○嫌いなままでいた方がいい相手もいる
○嫌いだということは嫌いだということで嫌いということだ
○大丈夫ずっと嫌いでなんかいられないから

2007年12月1日土曜日

日本民芸館


写真はゆんフリー

弓のお仲間が木工家具に励んでいて、その作品を日本民芸館に出品し、今回は残念ながら準入選であったが、展示されているというので、見学にいってきました。


その作品は和文机と引出でした。その他、陶器、織物、竹細工、漆器、籐細工などもありました。写真撮影はできませんでした。下記のhpをご覧ください。(京王井の頭線駒場東大前下車5分。周辺は駒場公園があって日本近代文学館や前田侯爵邸があり、住宅街も設計のすぐれた建物があり目を楽しませてくれます。)
http://www.mingeikan.or.jp/html/mingeikan-ten.html


中にはこれを職業としている人の作品もありましたが、純然たる趣味で出品されている方がほとんででした。準入選以上であれば、出品者が材料費など総合的に値段をつけて、さらに館が上の鑑定料も勘案して値札がはってある。


入館料は1000円ですが、陶器などは1050円の小壺、直径30cm中皿、で3000円、大皿で7000円からという具合で一般のひとでも購入できるものです。初日の23日にあらかた買い手がついたと思われます。織物の反物は100,000円からはするので、買い手はすぐにはつかないようです。2日でもう終わりですが、ここはもう来年になりますが、初日にゆくことをお勧めします。


センスのよいものが見つかる筈、コーヒー茶碗や湯飲みなど日常利用できるものが、


デパートなどでは手がでないものでも、ここなら手が出ます。見学がてら楽しい買い物ができます。





日本民芸館をご紹介しておきます。





歴史 ・ 思想 HISTORY & PHILOSOPHY
自刻像木喰明満 (1718-1810)江戸時代 1801年(享和元)高 75.5 cm × 幅 26 cm日本民藝館は、民藝美という美の認識の普及と、新しい生活工芸品の振興によって美の生活化を目指す民藝運動の本拠として、大正15年(1926年)に宗教哲学者の柳宗悦 (1889~1961) らにより企画され、実業家で社会事業家の大原孫三郎氏をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、昭和11年(1936年)に東京・駒場の地に開設された。初代館長には柳宗悦が就任し、宗悦没後は濱田庄司、続いて柳宗理が館長(現名誉館長)を務め、現在は小林陽太郎が館長を務めている。「民藝」とは、「民衆的工芸」或いは「民間の工芸」の謂いであり、無名の職人達が民衆の日常生活の為に作った実用品を指す語として、大正14年(1925年)に柳と彼の同志である陶芸家の濱田や河井寛次郎によって作られた。彼らは、それまで美の対象として顧みられることのなかったそれら民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった、人間生活に欠かせない大切な美の相が豊かに示されていることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見たのである。風土と伝統の力に護られ、自然の恵みを受けながら、虚心に仕事をする無名の職人の手になる作物には、時として芸術家が作り出す作品に勝とも劣らない美が宿るのであった。柳の主唱した「美の他力道」とも言える民藝美論は、従来にない新しい美意識を提示するもので、その工芸観は多くの共鳴者を生み、実用を離れた当時の工芸界の在り方に一石を投じるなど、日本の近代工芸に大きな流れを作っていったのである。当館が収蔵する日本及び外邦の新古工芸品は、柳宗悦の美思想を形成させた品々で、陶磁器・染織品・木漆工品・絵画・金工品・石工品・竹工品など各分野にわたり約 1万7千点 を数える。なかでも、丹波・唐津・伊万里・瀬戸の日本古陶磁、東北地方の被衣や刺子衣裳、アイヌ衣裳やアイヌ玉、大津絵、木喰仏、沖縄の陶器や染織品、李氏朝鮮王朝時代の陶磁器・絵画などの諸工芸品、英国の古陶スリップウェアなどは、質量ともに高い評価を受けている。また、民藝運動の同志として、民藝品から美の滋養を汲み取りながら、それぞれに新しい表現の道を拓いていった、バーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢銈介、棟方志功ら個人作家の作品も数多く収蔵されている。なお、陳列には物の美しさを活かすように意が注がれており、館全体が統一された調和のある空間となるよう配慮されている。ちなみに、本館の建物は柳宗悦が自ら設計したもので、平成11年に国の有形文化財に登録された。