2007年12月6日木曜日

福沢諭吉の武士気質


写真素材より

福沢諭吉は咸臨丸がサンフランシスコにゆくときに、諭吉は伝手をもとめて総督海軍奉行木村摂津守喜毅にあい、従僕としてお連れいただきたいと懇願して一議に及ばず快諾をえた。
 かれは藩主である豊前中津奥平家の中屋敷の長屋で英語塾を開いていたが、慶応3年の秋に、新銭座の木村家に遊びに行くと、木村家の用人の大橋栄次が「そこの先の有馬家の中屋敷が売りにでている」と話をした。塾が繁盛で手狭になり、敷地400坪は格好と思った。そこで用人にたのんで数回の折衝をへて355両に値切り、支払は12月25日とし、武士と武士の約束で証文も作らなかった。
諭吉は苦心惨憺の末、お金を整え木村邸に向かった。戸じまり厳しく、門前払いをくうところであった。門番小屋に来意を伝え、取り次いでもらった。諭吉ならあいましょうということになった。戸じまりの理由は、三田の薩摩屋敷の浪人が幕府を激発させようとご用盗みを江戸中荒らしまわっていた。幕府はこれに堪忍袋の緒がきれてお雇いのフランス砲兵士官ブリューネの戦術によって薩摩屋敷を焼き討ちにしたので、いわば戦闘状態を避ける意味だった。大橋用人はこの江戸が焼け野原になるかもしれない、いくら約束とはいえただ同然の今、約束の値段を払うこともなく半値とか100両にしてもと助言した。
しかし諭吉は約束は約束だ。戦乱がおわり平和時にこの脇を通る人は、戦乱に乗じて叩いた価格で屋敷を手をいれたあの諭吉だと指をさすに違いないという。さすれば
約束は約束を守るべきが大事という。それほどまでにいうならば、ということで、そのまま支払をした。明治以来諭吉の伝記や諭吉を評論する文章が数多くのひとにかかれているがかれの儒教嫌いや「封建制度は親のかたきでござる」ということばや少年時代にわざと神のお札を踏んだこととか、金銭をいやしむ武士の風習を誤っていることとしたことや「天の上に人をつくらず」といったことやそんなことばかりを最も大事なこととしているのが不思議でならないのだ。彼は生涯借金をしたことがなかった。それは志をまげることがないようにという配慮からだった。
「時代遅れの人」あるいは「愚直で出世の見込みのない人」と軽蔑的似みる傾向がある。この傾向は戦後に始まったものではない。戦争はるか以前、明治のはじめころから始まって次第に傾斜の度を強めて来て、この大戦後に一層強くなった。これは日本が明治初年以来当面した課題にも原因がある。できるだけ急速に欧米先進国においつかなければ、日本の存在は危ないという国家の要請が最短距離をとって出来るだけ効果をあげようとの気風を日本人一般にうえつけてしまったためとも思われるのだ。敗戦後一層そうなった。海音寺潮五郎著:史談:切捨て御免;文春文庫の「大西郷そのほか」よりそのまま引用

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