2007年12月13日木曜日

米国における写真機

写真はゆんフリー

12/12成蹊大学での共立大学教授生井英考の講義
近代写真術に誕生は1839年でフランスで生まれた。
ダゲレオタイプという金属板に直接露光する方式で非常に鮮明に見えて浮き上がったみえるものだった。画像の保存には優れていた。しかしシャッターを数分開けて光を取り込む必要があり、人物写真をとるときは、白くするためにメリケン粉を顔に塗ることや動かないように、頭を抑えておく道具が椅子についていた。
写真の歴史は光を取り込み、それを露光する物質を受ける板が必要で、これを必要以外の光を遮断し、定着させるための暗室や暗箱をどう小さくするかの歴史である。モールス信号を作ったモールス(絵描き・科学者・発明家)がフランスに滞在中にこのダゲレオタイプの写真技術を米国にもたらした。この写真技術により、その当時の社会現象・事情・服装が撮影され貴重な資料として残っている。米国ではこの写真に敏感に反応している。モールスに出入りしていたブラディは流行写真家であった。この写真は銀でつくられていたので銀板写真を使用していた。スコヴィル社とアンソニー社は銀板写真市場で競争(1840-50年)を始めた。スコヴィル社は1840年米市場を席巻していたが、アンソニー社が加わることによって競争が始まった。このころはボストンが文化や事業の中心地だった。
1840年代初仏製銀板1枚2ドル
1842-3年は米製銀板2枚1ドル35セント
1845年米製銀板1ダース3ドル50セントと大幅なコストダウンになった。
このようになると米国では新しい街ができると、写真館も併せてできるようになった。
単価がどんどん下がった面、大きさを大きくすることで、売上を落とさないようにし、又米国人は写真の大きいのを好んでいたし、市場が一期に拡大した。
モールスの弟子でもあった土木技師のエドワード・アンソニーはマンハッタンに
写真館を創業。消費者のニーズを察知し47年には写真用品の卸会社を設立した。1850年にはボストンの器械業者が開発した電気メッキによる新しい銀板製造技術をとりいれ本格的な写真用品の製造業へ参入し、西部市場の積極的開拓を実現した。これによって製造元から出発したスコヴィル社と並ぶ最大手の写真用品製造・流通・販売業者になった。
大量生産の元祖のようにいわれるフォードであるが、この写真用品でもテーラーの科学的生産技術のように、職人技術を分解して誰でもできる作業に置き換えて(鉄砲鍛冶→ウンチェスターのように)、部品ごとに製造技術を分散したので熟練度と精密度が各段に向上して、大量生産の素地は機械のウエイトは低いができていた。1851年イギリスの彫刻家フレデリックは硝酸と硫酸の化合物を使い、ガラスの板のその場で薬剤を塗布して撮影する方式を発明した。画像が不鮮明でガラス板も重く壊れやすかったが、陰画・陽画法であること、コストが安いことで徐々に普及し1880年代までに陰画・陽画法が一般化した。これをコロジオン法という。1870年代にはセルロイド素材の実用化・産業化。並行して1880年代末には紙のロールフイルムが、部分的に普及し、大衆市場向けのものも発売された。米国はヨーロッパで発明されたものを更に性能の良いものに発展させる力があった。アメリカの労働観はベンジャミン・フランクリンにいわせると{時間・信用・貨幣}も貨幣と同じである。
ライト兄弟の大西洋横断飛行は有名であるが、元来自転車屋であったが、いろんな飛行機に関する技術の特許を取った。があんまりがんじがらめに取ったので周辺企業は利用しにくく、米国の飛行技術の発展がヨーロッパに比べ遅滞した。この特許の守勢と技術の発展の調和は難しい面がある。1895年映画をスクリーンに移す技術がフランスで発明された。フランスではブルジョアのための先進技術であるが米国は庶民へのものに力をいれるという違いがあるしマスマーケット指向である。具体例でいうと、フィルムのコダックと、
映画等のエジソンであるという。

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