2007年12月4日火曜日

お墓の行方


写真はゆんフリー提供

お墓の行方
東北大学大学院文学研究科教授・日本思想史佐藤弘夫:211世紀くらいまでは、天皇家や高僧など限られた人々を除いて、墓が営まれることはなかった。庶民層の遺体は特定の葬地に運ばれ、風葬の状態だった。墓を作っても定期的に墓参が行われることはなかった。時がながれれば、天皇稜でさえだれのものかわからなくなってしまうのが当時の実情だった。
 12世紀になると新しい葬送儀礼がはじまる。聖地=霊場に対する納骨の信仰である。身内のものが火葬骨を高野山などの霊場に収める風習が確立する。しかし納骨した以降は行方に関心がはらわれることはなかった。
日本において遺体・遺骨に対する態度の大きく転換するのは、戦国時代から江戸時代の前期にかけてのことだ。庶民層にまで「家」の制度と観念が確立されて家の墓地が普及し、子孫による定期的な墓参の習慣が一般化してゆき、墓には先祖が眠り、そこを訪れればいつでも故人に合うことができる現代人に通じる感覚がしだいに社会に定着してゆく。
逆のいいかたをすれば死後は墓の中から懐かしい人々の生活ぶりを見続けることもできる意識の目覚めにほかならなかった。
このように人々の死者に対する態度は、これほどに激変している。
今また変化のとき、自然葬はこまかく遺骨を砕いた上、海や山に散布する。一方樹木葬は墓地と認定された里山に遺骨を埋納するもので永続的な墓標はいっさい建てない。大自然の中での散骨はすでに「万葉集」にも見えている形式であり、一種の先祖返りの意味をもっているようにも見える。
墓参り:有名なマルクス、アダムスミスの墓を訪れるものは日本人だけとか、ヘボン博士の墓を所属した教会の牧師がしらなかった。生きている人格を大切にして天国のことは死者にまかせようという気持ちかもしれない。とはいえマルチン・ルター・キング、インドのガンジーの墓には参詣人が絶えないし、リヒテンシュタインの美しい田園にあるオードリー・ヘップバーンの墓は尊敬している村人だけでなく、ファンが押し掛ける。
長崎外海のキリシタン墓地には、ハンセン病者600人と一緒、看護に生涯をささげた井深八重が葬られて「一粒の麦」と墓に記されている。
阿部志郎横須賀基督教社会館会長
共に2007年明日の友170号より

0 件のコメント: