2008年11月30日日曜日

男の料理教室


落葉があるものの、一方シクラメンとかクリスマス用のポインセチアなども店先に並んでいます。

駅からの帰り路には花屋さんの陳列が眼にとまり、「あれ!」また新種がでているということで、名札で確かめているが、頭に

入ってもすぐ忘れてしまう。

シニア瓦版というわずか3000部の新聞を新年に発行することで初版の原稿もできました。月刊にしようという提案がでたが、最初は景気よくそういうが、多分毎月発行できると思うが、威勢が最初からよいと長続きしないからということで、慎重を期して次号は何時か明示することにした。

そんな編集会議のとき、今後のいろんな話題がでたが、次号のテーマは「食」という問題になったとき、公民館主催の「男の料理教室」に参加していますという人が2名いました。

(小生も一度は、参加したら、鯵を3枚におろす、鮎の塩焼きと最初から高度だった。これは何年も続けている人たちだった。もうひとつは義理で参加を頼まれて、ツナ缶詰を混ぜ合わせた炊き込みご飯でしたが、毎月は大変ということで隔月になったそうです)

その一人に女性から質問があった。男性が一人になった場合でも、簡単に作れる料理ですか、それとも本格的なものですかという質問がどちらですか?

ちょっと考えてから、最初は簡便にできるものだった。しかしだんだん凝るようなものになってきた。材料の選別が大事ということで、朝市にいってみると、賞味期限の短いものが

あったり、スーパーによって売る姿勢がことなることもわかった。また中国産野菜はやすいが、日本産のものは価格が数倍かかるのがやはり悩みの種だった。

自分でも公民館以外でも挑戦してみようとしたら、どこの男の料理教室は満員で、やっと1年後の講座に参加できて、これは東京会館というところではホテルのコックさんが2人の生徒毎につきっきりで教えるものだった。(暇そうな感じで心配ですが、午前中や昼までは時間的余裕があるのでしょうか)まず包丁やまな板、布巾の消毒は材料が変わる度毎に交換するということで、ホテルの衛生体制の厳しさを知ったそうです。このホテルの本格的な部分と簡便な部分をミックスしながら調理しているそうです。

又の料理は実際やってみないと分からない。そこで次の質問は料理教室は楽しいですか?これにも即答はない。しばらく考えて、これを始めて良いことは、家内からよこす小遣いの額がずいぶん増えたということであったが、しぶしぶ楽しいことを認めた。すると奥さんを愛しているからこそ料理をしてあげようという深層心理があるからではないですかとその女性に念を押された。又一人になった場合にそなえての料理勉学ではないことは、別の男性も同調した。またその別の男性はやれるが、何かと多忙なので、常時料理をするようになりがちなのでやらないことにしているという。

毎日ともなると市販のものを利用して手早くつくるのが毎日の実態ですよとこれには主婦達は異口同音だった。

2008年11月29日土曜日

老人下宿



年賀状の印刷はソフトやインクや失敗の費用総額を考えると外注にしようかなと思い比較していたら、

https://www.printpac.co.jp/nenga2009/  12月5日までの限定特別割り引きで100部では3270円で、今のところ通常4800円位ですが、これが一番割り安です。

時代が変わって下宿といえば、学生用であったのが、老人向けに行われています。

28日の8ch800からのフジテレビで「とくだね!」という番組で老人下宿で月7万円[住居費と食費こみ]ということが報道され、最後のところだけみたので、状況はよく分からないのでメールで問い合わせしているところですが、何か危うさを感じます。

そこでネットで調べてみますと、北海道のある下宿の場合は倒産してしまった。

問題になったのは杜撰な金銭管理だった。「通帳と印鑑を事務所で預かっていて、閉鎖して戻ってきた通帳をみて驚いた。

経費がどれだけかかったのか一切知らせてくれない」

又「絆」というやはり倒産した老人下宿では、82歳の女性は半年入居で、2800万円もだまし取られたという記事がある。

それは「10年分の家賃と介護費用を預けてください。一生面倒をみますから」社長にいわれ2800万円を預託のだという。

(つい甘言にのってしまうのは、誰かに預ければ気持ちがゆっくりするという潜在的な気持ちがあるからかもしてませんが・・・)

この老人下宿は入居金などの一時金を抑え、月11万円だったという(通常介護もある場合は一時金なしで食事もいれて20万円はかかるようです)。公的に支える機関があまりにも少ないため、多くの老人は先行き不安なままうろつかされている。北海道はここ数年多いという。法律では一人を預かる施設でも県庁への届けが必要だという。

こうして被害にあった人は行く先がないという悲劇にあっている。

介護がない場合の単なる下宿はどの位の費用で可能か、悪用しないでのアイデイアをキチンと運営する場合よりは、むしろ共同のリビング談話室があるような共同老人住宅がよいのかもしれません。

詳細記事は

http://pub.ne.jp/newjei/  でブログ内検索で枠に老人下宿といれます。

2008年11月28日金曜日

奴隷解放の頃


最近黒人問題を追っている訳ではないのですが、そういうところに導かれます。不思議です。

「ハックルベリ・フィンの冒険」という愉快な本を書いたマーク・トウエイン(本名はサミュエル・ラグホーン・クレメンズ)、奴隷解放宣言は1863年ですが彼の生まれたのは1835年でした。1841年トウエインの父が陪審員の一人としてに家畜や道具なみに扱うことを正当化されていた奴隷5名の逃亡を助けた3名の白人の奴隷廃止論者にたいして、12年の実刑判決を下しているような時代であった。この本は彼がミシシッピ河畔のハンニバルという小さな町の学校体験によるものが書かれている。浮浪者同然のハックが、厳しくピューリタン的な未亡人の家に引き取られて、行儀、作法、を仕込まれた時、ハックはお祈りすれば願がかなえられると教えられて、魚釣り用の釣り針をたのんでみたが一向に効き目がなかったという場面を描いている。

彼の完全なる全集が出版されるようになったのは、1970年代の公民権運動やベトナム反戦運動等と期を一にしている。

 トウエインの黒人に対する感情は、父親とはむしろ正反対であったといってよいが、これには母親の影響がおおきかった。彼がまだ小さな頃、メリーランド州の東部海岸から連れてこられた奴隷少年がいた。この奴隷は、陽気で無邪気でやさしかったが、毎日騒々しく口笛を吹いたり、叫び声をあげたり、笑ったりしたので、トウエインは我慢できなくなって、母親にやめさせるように頼んだ。母親は眼に涙を浮かべ、唇をふるわせながら、こんなことをいっている。

「あの奴隷少年が騒々しく歌うときには、両親や兄弟から引き離されている悲しみを思い出さないようにしているからだよ。だけど、あの子が黙っていると、思い出しているのではないかと思って我慢できなくなるわ。あの子はもう二度と母親には会えないだろうし、歌って気がまぎれるのであれば、それをやめさせるのではなくて、むしろ、そのことに感謝しなくてはいけないよ」と諭したという。

アメリカ文学の源流「マーク・トウエイン」池上日出夫、新日本出版社

2008年11月27日木曜日

満州その2


また満州の続きになります。満州から帰ってきたとき、医療関係で残った叔父も満州のことにはほとんど触れませんでしたね。満州からの引き揚げのとき故郷鶴岡にも立ち寄ったことを覚えています。

日本が敗れて満州が崩壊したとき、弓張嶺(奉天と、鞍山の北東60km間の山奥の鉱山)は五味川純著「人間の条件」の舞台でもある。)には満州製鉄所出張所の社員や家族が三百人いた。そこへ19名のソ連兵が入ってくると、御他聞にもれず要求してきたのが女性の提供だった。日本人側は緊張した。相手をする女性を呼びよせるまで待ってほしいと掛け合う一方、もしソ連兵が手出しすることあれば19人を皆殺しの上、全員坑道で自爆することに取り決めた。鞍山市にも柳町という紅灯の巷があった。此の遊郭の女性を動かすことはソ連軍司令部から禁じられていた。しかしここに顔がきく藤田慎治に頼むことに衆議一決した。彼は子供のころから問題児でいわくつきの不良の放蕩児だったが、事業面ではやるべきことはビシッと締めくくってていた。折悪しく藤田は黄疸で42度の高熱に浮かされていたが学校で2年先輩でもあった代表の飯泉博にひたすら懇願された。「せめて2日待って下さい」「それが待てんのだ。この場を救うのはお前しかいない、お前が犠牲になって300人の命を救ってくれ」。藤田の侠気が黙視できなかった。

すぐにも出かけ、柳町の料理組合長の岡本宅で車を降りて交渉したが、血相を変えた「無茶も無茶。わしまで銃殺だ」それは土台無理な相談だった。藤田がふらつく足取りで悄然として岡本の家を出ると、物陰から藤田に好意を寄せている「しのぶ」という女が一部始終を聞いていた。「慎ちゃん、私が行く」  「よせ」――と出かかる声を飲む慎治に「何人いるの」「そりゃ・・・3人でも4人でも・・・」いい渋りながら用意してき持参金4万円を手に握らせた。

しのぶの屈辱の日々が始まった。開き直った女の意地でしのぶたちは押し通した。相手がソ連兵だけでは済まなかった。国民党軍と名乗る馬族くずれのお相手までさせられた。

かくして弓張嶺は一見平和裡にソ連軍の引き揚げることとなった。社員家族3百人と藤田一行も同じ列車で鞍山に帰ってきたのである。しかし惨めだったのは しのぶたちだった。ビタ一文の報酬もないばかりか、贈呈されたものは元の持主に返還を強いられた。度胸の良さと商売女の意地を見せた しのぶは無事郷里の大阪に帰国したが、ほどなく病死した。藤田は昭和58年に北九州市の病院において肺がんで息を引き取った。藤田は左腕に刺青をしていた。しのぶ命―――と彫ってあった、せめてもの彼の償いの証であった。

満州慟哭:友清高志(季刊誌:味の旅の編集発行):講談社

2008年11月26日水曜日

満州


小生も満州新京の生まれで戸籍にもそう記されているが、満洲についてはいろんな手記がありますが、かなりの烈風に生き抜いた人がいたのが眼にとまりました。その頃を思いだしたくもない人も大勢いることも確かですね。

九大名誉教授の具島兼三郎はその頃助手としてファシズムの研究をしていた。国内では軍部の圧力が強く、紹介を得て満鉄の調査部で働くことになった。そこで世界34ケ国の物資保有量、生産機能、貿易状況に論及し、結論として日独伊三国同盟など無謀な軍事協定は国家滅亡の道だと論じた。米英を敵に回す愚を指摘し、現状で戦争が起きれば真っ先に脱落するのがイタリアだと喝破した。

 その後満鉄の調査が注目され具島がレクチャー役として軍部に請われ、中国の抗戦力について説明の場が設けられたのは昭和15年3月であった。兵たん線の関係からいって懐の深い中国大陸の奥地までの進撃は無理である。そこで持久戦となり、軍事的に解決する目途が立たなくなる。そこで戦争はどうしても政治的手段によって解決する以外にないと指摘した。

 この報告会が終わると一人の将校が手を挙げて「要するにどこを爆撃すればよいのですか?相手がいっぺんに参る急所を教えていただきたい。ただそれだけです」

急所のないことを今まで累々と説明したばかりだった。

 しばらくしてこんどは上海に出向いて同様の報告会を開いた。報告会が終わり、座談会になって、一見風采のあがらない人が「多くの日本人はアメリカ人を舐めてかっかっているが、自分は米国に留学していたから、どういう国かいささか知っている。海軍などキビキビしていて優秀である。米国を相手とした場合には半年は暴れて見せるが、あとは自信がもてない。とにかく米国を相手にするのは愚の骨頂である」といった。具島はその将官とこころおきなく意見交換ができた。閉会後その将官が誰かと尋ねたところ、山本五十六長官だということが分かったという。

 がこういう批判は軍部には危険な存在と映って具島の身柄は憲兵隊から長春監獄に送られた。食事も生きるに最低限を下回る家畜並の餌とあれば栄養失調で死するものは後をたたず、燃料節約のため鼻をつく大豆も生煮えで猛烈な下痢、薬を求めても罵声だった。そんな中をかろうじて生きながらえて、昭和20年3月下旬、具島は釈放。判決後6日の5月6日にドイツが降伏、三国同盟は瓦解してしまう。日本の敗戦がもう目前だった。

満州慟哭:友清高志:講談社

2008年11月25日火曜日

もう一押し


季節外れの話になりますが、ある学校図書館の司書が校長から七夕伝説について話をしてくれと言われた。

その頃、ちょうど生ゴミを埋めたところに芽を出した里芋があったので、植木鉢に入れて学校に持って行き、朝会で、七夕の朝、朝露を集めてそれで墨をすって短冊に願い事を書くと、願い事が叶うとか、字が上手になるとかそういう「いわれ」があることの素敵な紹介をした。では朝露を手取っとり早く集めるにはどうしたらよいか、それは里芋畑に行けばよいという話をした。そしてこの里芋の鉢を図書室の流し台の所においておいた。子供達に自由に水をかけさせて、表面張力で球になる様を見せた。これがことのほか好評だったという。

しかしこれでよいのでしょうか?里芋の葉で水が表面張力で球になることの面白さが分かったのはよいとして、朝露を手っ取るり早くというのがひっかかった。というのは朝露は朝早起きして庭の草むらや畑にでて必要な量といえば、硯の水いれに入るだけの量で良い筈で、鳥が鳴き出すころのすがすがしい気分を体内に取り込んで字を習うことに意義があるように思われる。子供たちも塾で大変だし、朝起きが苦手なのに配慮してのことかもしれないがもうちょっと踏み込んだ指導であってほしかったように思う。

2008年11月24日月曜日

こうばん


携帯電話の拾得物をエレベーター前で見つけました。待ち受け画面に女性の写真と発信履歴や・着信履歴に同じ名前が出ているので、かけて知らせてみようと思ったが、落とした人がNTTドコモに電話してロックをかけたところでした。3連休になるので、マンションの掲示板にお知らせもしたが、NTTドコモに相談したら、交番に届けてくださいというだけでした。そこで帰り際交番でとどけたら、自分の名前を落とし主に公開しますか、どうしますかという、ここまで個人情報の規制が行われている。大金を拾得したら場合などはどうするのだろうと余計なことも考えた。この「こうばん」をPCで打ち出すとき公番となるが辞書で確かめたところ、交番です。交替勤務するから「公」ではなく、「交」という。思わぬ字の拾いものをしました。

2008年11月23日日曜日

虹の色の数



公園の池の水も青みがかったのがとれて透明感が出ています。夕焼けの空が澄んできたので、あかみが綺麗ですね。

国によって犬や鶏の鳴き声の言葉の表現でも相当に違いがありますが、目に見える虹の色まで異なるのですね。十人十色は人種や民族にも当てはまるようですね。

虹といえば七色というように相場は決まっているとお思いでしょうが世界では七色の虹ではないところが多いのです。

アメリカ・イギリスなどは藍色をのぞいた六色

ドイツでは赤・黄・緑・青・紫の五色

沖縄では昔、明と暗の二色とされていました。

七色といわれるようになったのは、イギリスの科学者・ニュートンが太陽光をプリズムで虹色の帯に分解したとき、七色に数えたということが始まりのようです。

このために、イギリスやアメリカの学術分野では虹を七色と定義するようになり、そして日本でも恐らくはそれを受けて、虹を七色とする認識が一般に広まったとのことです。

話題にできるトリビアより

http://jouhoustand.sakura.ne.jp/

2008年11月22日土曜日

お別れ


昨日はお通夜でお参りしてきました。

一昨日は弓道場の引き戸を開けたとたん、なんか雰囲気が違う。

まずはM子さんが亡くなったという。えっどうして。M子さんはS先生の奥さんで一緒に弓道を教えている人だ。小生も毎週2回は会っているし、つい先週の木曜日に会ったばかりなのです。

しかし、本来は小生も予定していた日曜日にも会ってるかも知れないのだが、芝久保公民館祭りの手伝いで来られなかったのだ。しかし他の人は火曜日に会ったばかりだという。しかも近所の農家で美味しい葱をS先生が買ってきたのを見て、希望者の自宅に届けてくれた後の出来事だった。それは自宅で葱の皮を取り除いて分別していたM子さんが、目の前で急に崩れるよう倒れた。

水曜日も稽古の日であるが、来られないとの伝言が入って分かったのだという。小生も経過について聞き耳もあわてていたので、中途半端で脈絡がなく、聴き逃したようだ。原因は頭部の?動脈瘤の破裂だそうです。健康診断も最近終えたばかりという話も聞いている。6月前から喉に痰が溜まるので、時おり咳きこんでいた。それとは直接つながらないが動脈瘤破裂だという。今日の通夜で、M子さんの顔を拝んだ人はゆったりとした綺麗な御顔だったという。しかし通夜のナオライの最後に挨拶したS先生の声は「眼の前のあまりにも急な出来事なので納得がいかない」ということを繰り返すばかり。S先生も突然すぎて、救急車で病院に運びこんでも事態はかわらず、これはなんかの間違いだと思いながら、しばらく抱いていたという。皆には「内の家内が寝て起きないし」、諧謔的なところもあるS先生もあまりにも突然の出来事であったので、自分でも納得がいかず、先生が小金井公園でボランティアで民芸コーナーで作っている「タケトンボのごとく飛んでいってしまった」との説明で、聞いた人もしばらくしてやっと状況が分かりかけたという。

2008年11月21日金曜日

学校館司書


公園の中の道もお落葉で一杯です。池には渡鳥の数も随分増えています。

まだ公民館祭りで拾った話題があります。少し田舎自慢になりそうです。狭い公民館祭りですが、ハワイのこと、田舎のことまで分かりました。

田舎は鶴岡市立朝暘第一小学校(小生は第二小学校です)では、SLAの学校図書館賞をとったそうです。

教職員38名、児童数681名ですが、朝の登校時間には、図書館に子供が100人位くる。朝、本を借りたり返したりして教室にゆくのが日常的になっている。貸出数もすごい。その背景には司書教諭はクラス担任をもたないで、週12時間の図書の時間をもつことができるそうです。図書主任と学校図書館司書がいます。学校司書は正規の職員です。鶴岡市では昭和40年(1965年)から専任の司書が配置されています。校長が学校図書館を活用しつつ、教育を行うことを学校運営の中心の柱としているそうです。校長以下、学校図書館司書、図書館主任、司書教諭,教頭で図書館活用特別委員会を学校の中につくっていて、すべての学校教育の根幹に図書館を使うのは当たり前という状況になっています。

 600人の子供のなかには本の嫌いな子も当然いますが、司書が毎日アプローチしてゆくのだそうです。学校司書のきめ細かい働きかけで、子供が学校図書館を利用するようになったりする。もちろん学校司書はクラス担任とも連絡をとっています。市内の学校が全部そうかというと、そうではなくて、この学校の実践が他校に波及していくことで初めて、鶴岡の学校図書館の充実ということになると思いますとかかれている。小生もこの西東京市の図書館を利用するようになって、本はほとんど購入の必要がないのです。本が市の図書館になくとも、都立や国会図書館から取り寄せしてくれるのです。司書も読み聞かせとかの下地があって、さらに子供の要望によって本を探してあげれば、こんな楽しく、嬉しいことはない筈です。勉学の水先案内人は大変力量のいる仕事ですが、この役割は欠かせない大事な存在だと思います。

展示配布の子どもの本と学校図書館を考える会の会誌:広瀬恒子の講演記録より


2008年11月20日木曜日

沖縄の南国風景


自宅の前の通りの公孫樹並木も色ずいて来ました。並木の前にマンションがあるとまだ緑で、日当たりのよい方が黄色です。

また葉一枚をみると、外側からだんだん黄色になっているようです。

1970年代初頭、ハワイで椰子の実(以下ココナツ)が一万個余り集められ沖縄に送られた。」どのような経緯でそうなったか分からなかった。これを調査するプロジェクトが2004年に開始された。ハワイでの現地調査による聞き取りと若干の資料調査によって空白をひとつ、ひとつ埋めてゆく作業に取り掛かった。ココナツの採集は19712年にかけて行われている。オアフ島、マウイ島、ハワイ島、カウアイ島の4島であった。この収集の中心的人物は日系2世三国輝夫氏(現94歳)の存在は共通の認識だった。「ココナツを集めない(あつめなさいよ)」という山口県出身の人をゆったり包み込むような言い回しが当時ココナツ集めに奔走した当時の」若者たちの耳に今でも新鮮に響いている。奈良県天理市の神殿で当時那覇分教会長の山口国三が戦争で荒廃した沖縄をヤシの木でハワイのような豊かな緑生しげれる島にしたいと祈願したものであった。お互いに山口氏と三国氏はお互い親交は全くなかったし、七月の時期に三国氏が参拝するために帰国することは考えられなかった。たまたま日本航空のボーイング747太平洋就航記念に招待されて来日ししていたのである。まさにそのことを山口氏は三国氏に依頼しようとしていた矢先だった。三国氏はどのような依頼にもこころよく「OK」と答え実現してゆく活動力と実行力に対して多方面から厚い信頼が寄せられていたという。

「あの方は何か余分に頼まれてもさせてもらうことが嬉しくなるような、そんな方です」とは三国氏を心の師と仰ぐ一老婦人の言葉があるそうです。

こうした経緯でココナッツの実は沖縄で発芽させて苗木にそだて、琉球戦場跡公園や主要道路の街路樹として、また学校とか公共施設に配って植え込まれたという。

しかしハワイは沖縄にとって外国であったために、植物検疫強制規定により、ヤシ科を含めた外来植物の帰化が許されなかったことが判明し、プロジェクトの中止も覚悟したが、けして山口国三氏は諦めなかったのが結実したのだそうです。

ハワイアンの方々が掲載された日系人向けの新聞にTheHonolulu Times2008.4.1の記事から収録。

2008年11月19日水曜日

ソーラン節踊り


ソーラン節踊りをみていて、にしん漁だから勇ましいのは確かですが、民謡を踊るのは盆踊りでの老若男女とか、慰問ならば、民謡好きな婦人達が集まってゆったり踊るのが普通なのに、どうしてこう活動的なのだろうかと思ってしらべたら、下記のような経緯がありました。荒れた学校をどうにかしようということから考えだされた踊りだったことがわかりました。

「夢は自分でつかめる。自分で動けば夢じゃなくなるって事を、子ども達に伝えたかった」

●北海道の代表的な民謡として全国に名高い『ソーラン節』の発祥は、積丹半島で粋網漁法が発明された安政3年(1856年)以後の事だと言われている。鰊(にしん)場になくてはならない作業唄で、昭和27年頃から全国に流行し始めた。そして、長い時を経た今から8年程前、日本最北端の稚内市にある南中学校は、校内暴力で「日本一荒れた学校」と報道されていた。当時の校長先生から請われた民謡歌手の伊藤多喜雄氏は、校内暴力をどうにかしようと、自分のロック・ソーラン節を生徒達に踊らせ、彼らに目標を持たせる事にした。そして、北九州を拠点に全国的に活躍していた舞踏家の「春日壽升」氏に、踊りの指導を依頼した。春日氏は稚内まで足を運び、約3か月の間、生徒と共にロック・ソーラン節の振りを考え、その指導に明け暮れた。こうして誕生した『南中ソーラン』は、「第9回日本民謡民舞大賞(平成4年)」で審査員奨励賞を受賞し、翌年には過去に例のない高得点で、見事にグランプリ(総理大臣賞)を受賞した。最北の風雪、カモメ、漁師、そして海峡の町(稚内)を力強く表現した『南中ソーラン』は、日本一の栄冠に輝き一躍注目を集めた。そして、南中再生の象徴となったのである。この様子は、「ドキュメンタリー人間劇場」(テレビ東京系)で描かれ、同じ監督による映画も製作された。

●「春日壽升」氏のコメント
「南中に教えに行った当初、私の様な外部の人間が教育現場に入るという事例がなかった為、校長先生の了承以外は受入体制の整っていない状況でした。そんな中、奔走して生徒を集めましたが、結局、卒業生や先生1人を含めた15名の混合グループとなりました。その中には、悪グループや一匹狼の手のつけられない男子、成績優秀な子など、様々なタイプの子どもがいて、実にまとまりのない集団でしたね。始めの1週間は、夕方5時から夜の9時まで、ご飯も食べさせずにずっと踊りを教えていました。これには、子ども達も堪えた様ですね(笑)。このロック・ソーラン節の振りは、子ども達と共に考えました。バスケットでドリブルしながら横歩きする動作や、網引きの動作など、子ども達の生活の中から見えてくる動きを振りに取り入れています。“荒れた学校ではあるけれど、踊りで日本一になろう”って言う意味を含め、天に向かって手を突き上げるんです。その瞬間、自分と自然とだけが向き合うんです。南中で、もし彼らの強い抵抗に合わなかったら、こんな強いソーラン節は出来なかったと思います。私は彼らに踊りを教えに行きましたが、反対に彼らから色々な事を教えられました。私は、彼らに出会った事で、初めて『人』にさせてもらった様な気がします。真の出会いってこういう事なんだなと思いました。」

●春日壽升(かすが じゅしょう):日本舞踏「春日流」の二代目

春日流宗家事務所
北九州市八幡西区竹末1丁目5-12
TEL 093-642-2433(代)
FAX 093-642-2704
http://homepage2.nifty.com/kasuga2000/

2008年11月18日火曜日

幸せのハワイアン


公民館祭りの話題がつきませんがお付き合いください。

心配した雨のソーラン踊りの時は止んで、設営する側は路上の水たまりを竹ぼうきとぞうきんで拭きとって、踊り手の足元まで及ぶ法被が膝つくような姿勢のときでも濡れないようにする配慮でした。甲子園で雨時のグランドキーパーの心境ですね。

ハワイアン:昨日はとは別のメンバーでした。

スチールギターが奏でられると同時にウクレレのさざ波が立って、女性の歌手が一声を発するともうハワイについていました。なんといってもダンスの踊り手の指のしなやかさと表情の豊かさです。手先の表情は言葉以上に幸せを表現できるものですね。

前には子供が後には母親が、子育ての嬉しさはとても幸せで自然にこぼれる微笑みに溢れ、聞いている皆の頬を撫でる春の薫風です。観客席にアロハの上下を着た女の子を抱いたお父さんが座っていました。司会が「奥さんがとても綺麗に見えるでしょう」と投げかけたとところ、コックリとうなずきました。

介護施設などにも慰問に訪問している活動状況を写した写真で、ヤシの木が3本用意されています。演出も行き届いています。やはり気遣いのあるグループには入場者も多いようです。

男性の一人はウクレレも持たず、ハミングしているようでしたが、自分の番にくると、朗朗と歌いだしました。このグループは人の世の楽しさを謳歌しているようでした。

2008年11月17日月曜日

来場者数が気になる


今日も芝久保祭りの報告になりました。

もうひとつは講談ですが、事前に周辺にチラシを配布したり、市報や公民館だよりに掲載していました。丁度3時頃は来場者の数が閑散としてきてパラパラ位になります。ちょっとでも来場者を増やそうとして、一階で来館者にチラシを配って参加を呼びかけてみました。反応が弱いので企画提案者としては数の心配をしたのですが、2階の会場にいってみると、前のプログラムのコーラスに引き続いてこの講談を待っていてくれていたのです。結局は取りこし苦労でしたが、大変盛況でしたし、講談の語りにしきりにうなずいていました。

また1時間の予定が「南京たますだれ」や「判字ナゾナゾ」までやってくれ、靴下の賞品まで用意してくれていました。公民館行事にはつきものの、お願いがありまして「申し上げにくいのですが、小さい声で薄謝でなんとか」に20分も延長していただき大好評でした。市内にお住まいの桃川鶴女のプロの講談師で、一生けん命やっていただきました。感謝の限りです。

商売で新規開店の人や、演劇や音楽会の主催者側の来店や来場者数を気にする気持ちがよく分かりました。

2008年11月16日日曜日

公民館祭りその2


昨日は公民館祭りの本番の一日目でした。心配は2日目の本日のことで、昨日の夕方からパラパラと雨が降り出して、外の出店の綿あめとエスニックの雨じまいです。これは館入口のせり出した屋根の下に潜り込むにして、しのごうというアイディアに決めました。それと昼に開始する道路上の演技は、40名位の団体によるソーラン踊りです(これは米国まで踊りにで出向いているとのことでした。多少の小雨なら決行ということになりました。今のそれも雨は落ちていませんが、どんよりしています。

昨日のメイン行事の一つ「おちゃわんリサクル」は大繁盛でした。子供が家を出て、二人住まいの65歳以上の世帯では余計な食器類は不要ということで、次から次持ち込む方が多かったのです。その持ち込んだなかにも立派な品々があり、それを欲しいという方も現れます。それらの方々には一つ30円位の寄付を仰いで愛知県の多治見市までの送料とし、送った陶器は再生粘土に加工して陶芸の方々に買ってもらおうということは全国共通のニーズがあるようで全国ネットのリサイクルになっています。ゴミ収集の有料化以後、殊にゴミ問題への関心は大きいようです。

ハワイアンのメンバーは、アロハシャツを着て、ウクレレをもって、あのトローンとワワワという楽器はなんというのでしょうか、ハワイの渚で潮風を嗅いでいる気持ちになりました。楽しそうでした。

写真はペンション・モーツアルトの展示品

2008年11月15日土曜日

公民館祭り


昨日は西東京市の西側の芝久保公民館の26回目のお祭りの準備の日で本番は今日と、明日の2日間です。

発表の部(ハワイアン等、子供コーナー(読み聞かせなど)いこいの部(エスニック料理など)、展示の部(おちゃわんリサイクルなど)、プロの講談など盛りだくさんなのです。26回も重ねているので、整然と準備のことが運びます。この伝統は素晴らしいものです。一方別行事ですが3月の予定で、ボランティアのつどいは8回目ですが、歴史が浅く毎年の経験が生かせれて積み上がっていないので、まだよちよち歩きで、今年もメイン行事にウオーキングをやるということが5回も打ち合わせを重ねてやっと決まったのです。先行きがとても心配です。やはりボランティアと自分の作品や練習の発表とでは入れ込み方が違うのでしょうか。そうした意味でボランティアが大げさに奉仕の精神とならなくとも、道を教え上げるということや、自分で楽しめるというか、障害をもった方と接触をもつことによって逆に励まされることがあるでしょうというキッカケの場になれば、という皆の願いがウオーキングになりました。又日本人でなくとも皆が集うお祭りが大好きですね。とくに村の神社がなくなっていますのでその場になっているようです。それにしても何事もお祭りの飾り付け(風船やバラ作り)を見ていると、女性のそれぞれの個人の意見を尊重した連携プレーや家事で鍛えた体力はたいしたもので、机やいすを運ぶのをみても、同年齢でも女性の若々しさを感じました。例年300個の自然食品のパンもあっという間に売り切れです。明日の午後の天気が心配になってきました。

2008年11月14日金曜日

石の信仰


市でハザードマップが発行されて見ていたら石神井川の流域の両側に浸水のあとがあり、2mもの冠水の事例があったようだった。

この石神井川の源流は山でもなく、隣の小平市にある小金井公園に隣接するゴルフ場と嘉悦大学の境の窪みから発生していた。山の谷から発生しているという認識

とは違いました。近くの練馬区井頭公園からの湧水から派生している白子川もこれに似ている。より大きなものでは静岡の柿田川をみて大きさとその澄んだ水の綺麗なことびっくりしました。

今の住まいの前は練馬区の石神井だった。東北の故郷ではあったのかもしれないが、石信仰のあり様がよく見えなかった。石の信仰があった井戸なのかもしれないし、未だ良く分からない。関東より西では石の信仰が目立っている。googleは大変便利でなにがしら疑問の一部を手軽にき明かしてくれる。

日本の神社には、通常の神とは別に石が祀られていることが多い。夜泣き石など特殊な伝説が伝わるものの他、陰陽石といわれる男女を表す石のこともあり、これとよく似た方向性にはシヴァ・リンガのような陽物崇拝がある。また、イギリスストーンヘンジストーンサークルなど、多くの文化において境界を表すものとして石がおかれている。

石は古く人間の一生(人生)というタイムスケールの中では、意図的に壊そうとでもしない限り、大きな変化の起こらない、より長い時間を存在する(ともすれば永久不変の)存在だと考えられてきた。このため石は永遠性の象徴として崇められ、民俗学上ではこういった思想が世代を超えて受け継がれる原始宗教と結びついていったとも考えられている。

この方向性には、不老不死に憧れを抱いた者の中に鉱物を永久不変の元として捉え、それら鉱物から「不老不死のエッセンス」を抽出すればいわゆる「不老不死の薬」が作れると考えた者もいた。こういった者の中には不老不死の妙薬として、鉱物から抽出される水銀を服用して中毒死した者も記録に残されており、また錬金術において不老不死研究の過程でも、少なからず鉱物に永遠性の象徴を求めていったケースが見られる(→水銀)。

なお石を信仰する過程で、石仏など石を信仰するための形に加工することも行われたが、流石に石といえども風化は免れず、古くから信仰を集めた石が長年にわたる浸蝕で文化財としての価値を減じている場合もあれば、置かれている環境の変化にもよって風化が急速に進行したケースもあり、文化財保護の上で大きな課題ともなっている。

2008年11月13日木曜日

映写会の心配り


昨日は公民館の映写会でした。8月以来忙しいやら、昔見たものやらと遠ざかっていました。丁度図書館にいったついでで覗いてみました。

上映に先立ち、公民館の新担当が挨拶しました。館内の横幅の狭く、そのため両端は脇や前方に人がいないので、映写幕への視野のさえぎりがなく人気の場所です。

左側の壁際の前列2つには荷物があり場所取りされたのかなと思っていました。この荷物は公民館の担当の荷物だったのです。

開口一番この荷物占拠の詫びから始まりました。

それはこの映写会を楽しみにしている障害者の方がいて、その方は首が右方向しか回せないのだそうです。通常の映画館などは、端は通路になっているので、車椅子の障害者の方はこの部分には置けない訳でした。その点この公民館の視聴覚室の床は全体に平坦で車いすにとって便利なのだと思います。映画は始まりましたが、15分位はこの席を開けておいてくださいとのことでした。手短に粗筋と今後の予定を説明して始まりました。

しばらくして、あの場所をみると車いすが定位置を占めていました。2つ先の駅から電車にのってくるのだそうです。

韓国で非常に人気のあったドラマのチャングムの女性の主人公が主演でした。幼年時代の子役も成人してからの配役両方とも全く同じ俳優でした。映画の題名は「ラストプレゼント」という題名でした。小学校以来の幼馴染が実家は金持ちの男性の反対をおし、絶縁状態のまま祝福も受けず結婚したカップルの苦闘の物語でした。

上映する映画の内容はそれほど変わらないのですが、このような気配りする人なので、入場者も以前に比べ倍増でした。そのうち入場制限ができるかもしれません。

2008年11月12日水曜日

小笠原登先生&大谷藤郎氏のこと


昨日の新宿で目立ったのは、男性は秋の背広だけでしたが、女性はもうコートでの冬の身支度でした。やはり服装の反応速度が違いますね。

 この日はTBSで筑紫哲哉追悼生放送でした。

今日も長文になってしまいました。お許しください。

開館10周年記念特別講演「近代の論理とハンセン病」要約。大谷藤郎。

愛知県甚目寺(じもくじ)町で生まれた大谷氏の母の隣家の寺は圓周寺でした。昭和18年私(大谷氏)は18歳、その年の京都大学の小笠原登先生を初めて訪ねた。自分(大谷氏)はあまり気が進まなかったのですが、母から医学にいったのだから登様に教えて貰ったらどうかということで訪ねた。そうしたらびっくりしたのはハンセン病の患者さんが沢山おられた。

先生のお祖父さんはお坊さんだが、江戸時代に何百何千人の東海道のらい病、るい疫、梅毒の患者の専門治療をして、名医といわれる人だった。江戸の大火で脱獄した高野長英の弟子を匿って、蘭方のらい病に効くよい薬を教えて貰おうとした。  

先生も京都大学で何百人もの患者さんを診ていて、「人から人へは伝染しない」「大丈夫ですよ」と自信を持っておられた。

小笠原先生は昭和5年の「らい学会」に「らいの研究は患者の体質による」と発表をした。その頃は光田先生はじめ療養所の先生方は明治40年にできた、らい病予防の法律では手ぬるいので、患者を見つけ次第すべてのらい患者を隔離する法律に改めるべきだ」と結局昭和6年の大改悪になった。昭和10何年頃から、こんどは一般の雑誌や新聞にらいに関してそんなに怖がる必要がないことを先生は語りました。ついに昭和16年に学会での集まった学会員は二百人とも三百人ともいわれる中で大論争があった。らい学者は偉い院長だったり、教授だったり自分が間違っているとは全く考えていないので、はたから見れば、丸い地球を三角だといっているようなものだし、にせ医者を許してはならんという記録が残っている。(まるでマイミクのさざ波mooさんの言われる臓器移植の問題と酷似してはいませんか)

らい予防法で医師は戦争中は警察に、戦後は保健所に届けなければらない。先生は届けないし、警察に追われて患者が駆け込んでくると、多発性神経炎とかわけの分からない診断書をかいた(その頃の大学の先生は偉いと思われていたので、警察は釈放した)。

話は飛びに飛びますが、この著者の大谷藤郎氏は昭和47年に旧厚生省の療養所課長となり、11年後、医局長を辞めるころは患者さんは厚生省の中を大手をふって歩き回れるようになっていた。それでも昭和59年の事件では宇都宮精神病院で看護師が密室で患者二人を殴り殺した。マスコミや政府も調査に乗り出し、ジュネーブから人権NGOがやってきて告発した。

ジュネーブの報告書は、最初は病院のことを批判していましたが、それよりも悪いのは日本政府の精神衛生法という法律は人権侵害の規定ばかりで、救済の規定や地域への自立を進める規定などがないという内容でこういう立場の大谷氏も洗脳されたという。

厚生省の方でも国際人権規約にも違反している疑いがあるということであったが、日本政府はこの規約を批准しているのだが、どこがどうだか分からないのでした。

厚生省は恥をかいたが日本の精神障害者の人権を守るには結果的によかった。

この人権の問題について、法律関係の人が「人権なんて中学の教科書にも載っているぞ」しかし、それじゃなんで「らい予防上の人権上の間違いを90年にわたって日本中が見逃してきたという話になりませんか?」

それは近代というものについての認識が違う。アメリのカ独立戦争、フランス革命、ロシアのレーニン革命その他で、いろんな内乱や革命で戦われて多くの間違いや血の犠牲を払いながら、人間の権利は平等・自由にして行こうというのが近代という概念です。基本的人権は突然新しく出てきたと解するのではなく、数千年も前から人間が根元的に願ってきた人間平等への優しさがあるのに実現できなかったことを忘れるなということだと思います。「共に生きる社会」を実現していって、そこで始めてハンセン病問題の解決になったといえるの私個人の意見ですと述べられています。

この大谷氏はハンセン病の政府の要請で実態を国会で証言しました。

この政府に関係した人の証言がなかったら、小泉首相が非を認めたでしょうか。

登先生も一緒に同居していた兄の仏教哲学者・秀美先生も一生独身で朝晩必ずお経をあげていたそうです。

(先生は、ハンセン病に身を粉にしたが故に、配偶者や子供に影響あるを考慮し、敢て結婚をいない道を選んだのではないでしょうか。)そこには仏教関係の学生とかいろんな人がやってきて喧々諤々の議論をやっていたそうです。

http://www.hansen-dis.or.jp/guide/guid.html


2008年11月11日火曜日

小笠原登先生のこと



ハンセン病資料館の内容は膨大でした。そうではあるのですが、小笠原登先生という凄い人がいて、この人の行為に感化された同郷の厚生省の担当者大谷藤郎がいてあの小泉首相の決断を導きだしたということになったようです。その大谷さんの話は次回に譲ります。


甚目寺町円周寺住職 小笠原英司先生講義録

於 甚目寺小学校 

演題  小笠原登先生について

皆さん、こんにちは。私は小笠原英司と申します。今日お話をする小笠原登先生と私は、血のつながりはありません。縁があって、甚目寺の円周寺に婿養子となりました。私の奥さんの父、つまり私の義理の父親のおじさんになる人が小笠原登先生であります。ですから、私も結婚するまでは、小笠原登先生についても、またハンセン病についてもよく知りませんでした。
 皆さん、ハンセン病って知っていますか。
 私も今までほとんどハンセン病について知りませんでした。「何となく恐ろしい皮膚病で、インドなんかに多い。」子供のころの知識はそんなものでした。いや、私が結婚する12年ほど前ほとんど知識はありませんでした。それは、なぜかというと、日本では患者を強制的に隔離し患者さんを見ることもなく、また病気自体についても、テレビや新聞でもほとんど取り上げられなかったからだと思います。「らい予防法」という法律が約90年間にわたってあったためなのです。
 それが、5年前に「らい予防法」が廃止になり、また今年になって「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟により、患者さん側が勝って、小泉総理大臣が今までこの法律のもとで患者さんたちに多くの被害や差別をもたらしたことを謝罪しましたね。そんなことで、ハンセン病が急にマスコミに取り上げられ、国民も興味関心を持つようになってきたのだと思います。先日、役場の課長さんに話を聞いたのですが、小笠原登先生について役場によく問い合わせの電話があるそうです。私の家の円周寺にも、いろいろな人が小笠原先生にお参りがしたいといってよくみえるようになりました。今までは、年に2~3回だったのですが、今年は月に2~3回ほどみえるようになっています。
 これは、今までの日本のハンセン病に対する政策が誤っていたのであり、小笠原登先生の考え方が正しかったのではないかということなのです。ノルウェーのハンセンが1873年にらい菌を発見し、その後日本では、患者を隔離する政策をとっていったのです。それまで鎖国をしていた日本は、明治時代になり外国人が自由に日本国内に入ってこられるようになりました。そうすると、お寺とか神社なんかにらい病の患者さんが物乞いをしている。外国人に日本の文化が低いことを見せたくない。という理由で放浪する患者さんを隔離していったのです。そして、日本は日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦を続けていくのに、らい病の患者さんが必要でなかった。伝染性があり、遺伝すると考えられたハンセン病を日本の国内から絶滅させるには隔離しかないという、」患者さんやその家族の人権を無視し、国家の政策を優先させたのです。
 そこには大変な差別が行われたのです。たとえば、患者さんが出た家は消毒をする。親が患者であっても、子供も一緒に療養所に入る。子供は普通の小学校に通えない。親が死んでも、葬式に出られない.。名前から家が分かってしまうので、患者は名前を変える。家から手紙が来ても、すべて検閲がある。結婚していても、家族に患者がいると分かれば離婚させられる。患者さん同士で結婚したければ、男の人は、断種といって、子供ができないように手術させられる。また、赤ちゃんができても堕胎するか、産んですぐ殺す。遺伝するといけないから、子供を産んではいけないということです。療養所から逃げようとしたり、反抗したりする者は所長の権限で独房に入れられる。療養所というよりも、罪人の収容所みたいなものでした。
 それに対して小笠原先生は、「らいに関する3つの迷信」として、(1)「らいは不治の疾病である」、(2)「らいは遺伝病である」、(3)「らいは強烈な伝染病である」という3点を迷信であると断言しました。(2)はともかく、(1)と(3)は、当時の隔離を絶対化する国家の方針とは対立するものでした。国が患者を診ず国家の政策を優先させたのに対し、小笠原先生は、自分の信念をくずさなかったのです。患者さんの立場に立つ。つまり、弱い立場の側に立って、正しいことを信念をもって主張しやりとおす。普通なら、自分はやはり間違っているのではないかと思うのですが、祖父の代から円周寺には、らい病の患者さんが治療に来ていたようです。そういう体験に基づく信念があったのです。この点が大変立派な人だったと思います。
 皆さんも大いに努力して、いろいろなことにチャレンジし、その中で自分が生きる道はこれだというものを見つけてください。人の意見を聞くことは大切です。しかし、最終的に自分の人生は人に代わってもらうことはできません。どんなに苦しくても悲しくても自分で責任をもって乗り越えていかなければならないのです。苦しみを多く経験した人ほど、人に優しくできます。弱い立場の人を思いやれる人になってほしいと思います。

講義録にはありませんが登先生の兄の歌集には

足あとの 残らば 残れ足あとの

消えなば 消えね ひとり旅ゆく

2008年11月10日月曜日

篤姫のこと


「篤姫」をみていると、平和は女性しか保ち得ないという気がする。

又幕府が滅亡するにあたっても、江戸城無血開城等も西郷や勝海舟に加え、この篤姫が後押ししていたことが分かって納得した面がありました。太平洋戦争の軍の右往左往振りと比較しても、進退の処し方も自分を顧みないところ見事といわざるを得ないと思います。

小松帯刀が奥さんに支えられて篤姫が薩摩に帰るように努力、篤姫の母上の子を思う心情、篤姫の大奥を守り抜く決意と、それに応えて大奥の一体化、は心洗われるようでした。

幕府滅亡から16年が経った明治16年(188311月13、宗家邸で脳溢血で倒れる。そのまま意識が回復せず、1週間後の11月2048歳で亡くなった。死後、新政府から従三位の位階を追贈されている。

死後は、東京都の上野寛永寺にある家定の墓の隣に埋葬されている。

· 平成20年、東京学芸大学の教授により篤姫の駕籠が発見された。場所はアメリカ、スミソニアン博物館。その駕籠には、篤姫だけが使用したとされる「双葉葵唐草」の模様と篤姫の実家である近衛家の家紋「近衛牡丹」紋および「三つ葉葵」紋が散りばめられている。

· 明治維新後は、自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職・縁組に奔走していた。そのため、死後に確認された所持金はたった3円(現在の6万円)しかなかったという。 (「その時歴史が動いた」の再放送の篤姫で知ったことでした)

  • 愛犬家であり、結婚前にはを多数飼っていた。しかし、夫・家定が大の犬嫌いだったために大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。その猫のエサ代として25両/年を使っていたことは勝海舟の日記などに書かれている。猫の世話をしていたのは、天璋院と共に大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪・大岡ませ子である。

2008年11月9日日曜日

健闘している人々


健闘している人を見ていると、こちらもは励まされます。昨日は考古学同好会の月例会は東村山市にある「国立ハンセン病資料館」というところに行ってきました。

これはまた自分でも理解を深めてから報告したいと思います。

さざ波mooさんの2008年の1/15,1/17,2/1,4/21,9/11921も改めて読みなおしています。

11/8NHK1chの①2225、②1/90102つの番組

2225からのものはドキュメント現場、「もう一度学びたい」札幌遠友塾は片親になったため等により、義務教育も受けられなかった人達が、マンツーマンで授業を受けている風景。ひらがなも書けない、読めないから買い物も粉を買うにしても絵が描いてあるのを判読して買う。ス-パーの店員さんには聴く勇気もない。この人は小児麻痺で電動車イスで通っているひとでした。

何度かこの学級に溶け込めなくて、仲間の励ましなどもあって、このIさんの硬い表情が字を覚えるに従い、柔らかくなった。何年もかかってとうとう原稿用紙に200枚も書いてその発表の席は読む声も滞りがちであったが、うれし涙で生きていてよかったというものだった。

010のものは「不屈の者たちへ」毎週連続のものに思われる:江東区の工務店の社長が、発展ぶりを妬んだ誰かによって「経理状態が相当に悪化している」との根もない噂が流されて、倒産した社長の物語であった。債権者の説明会で懸命なお詫び「逃げもしません。自殺もしません」とビルのワンフロアーの自宅も引き払い、2DKの賃貸に引き取り手のない事務所のスチール棚が食器棚だった。

56歳だったので年令は1年オーバーだったが、なんとか頼みこんで近くのタクシー会社に就職した。就職して当初は平均日収5万円の7割の3万円がやっと、

半年後にはそれにも追いついて、工夫に工夫を重ねて10年後の今では10万円にもなっている。

タクシーで一番いやなのは、知り合いが乗るとかが卑屈になって嫌だった。がある日若い知り合い人が帰宅したらメールで「あんなに頑張っているのを拝見して感服しました。」これによって変な卑屈な気持ちは払拭した。

倒産直後、天ぷらと刺身、トイレットペーパー、5万円、お米20kgとか20人近くの励ましのカンパがよせられ、預金もない・借金もできない時に

大変ささえになった。これらの支えがなによりの財産ですと語っていた

2008年11月8日土曜日

面会


昨日は介護2の叔母の調布市にある叔母の自宅から15分位の距離老人介護施設に従姉夫婦と待ち合わせし顔を出してきました。ここはデイサービスで以前から見知ったところだそうです。前回行ったときは桜の時期だったので、面会者も多かったようです。従姉は自宅から毎日叔母の家まで片道40分も歩いて掃除・洗濯・買い物に出向いていました。

廊下の幅も3mもあり、喫茶室、カラオケ室もあってなかなか施設の面でも整っていました。何よりも職員の感じがゆったりして気持ちよく世話をしていました。

同一施設での入居というか・滞在期限というか、3ケ月を経過すると、別のところで「ホトボリ」を冷ますための1週間過ごして、また戻ってくるのですが、扱いやすく、手のかからない個室入居の経済的入居者が好まれるのでした。又同居していなかったので叔母一人で住んでいたのも入所にとても幸いしていたようです。

従姉の彼女もしばらく毎日片道40分通っていたようですが、週3日にしているとのことでした

他の面会者の滞在時間は30分程度が多いようです。3階にも介護事務所があって、そこの面会ノートは10日連続で彼女の記録で他は見かけませんでした。

自作の陶芸の一輪ざしを持参して枕もとの台に置いたら、とても喜んで、繰り返し誉めてくれるのでした。行った甲斐があるというものでした。

今日は習字を2枚書いていましたが、しっかりとした筆跡でした。

部屋は個室で広さは7畳くらいで、私物は洗面道具と化粧用品と着替えを入れるベビーダンスで充分のようでした。

食堂には4人がけのハナビラの形のテーブルで凹部分が食事の指定席でした。施設内は汗をうっすらとかく暑すぎるくらいで職員も半ズボン半袖姿でした。

この施設は好評で、以前隣の部屋のかたは介護4が2になったそうですし、埼玉に住んでいたそうです。

帰り際に手帳に甥が訪問と日記代わりに記帳していました。

2008年11月7日金曜日

竹の花


「いのちの米」堂島物語:富樫倫太郎に「竹の花」が記されていたし、興味があってgoogleで調べたら以下のことが分かりました。

これらの写真を撮影できた人も100年に一度の御開帳に出会った幸運の持ち主ですね。あの106歳まで生きた平櫛田中さんであれ

お目にかかれたかは分かりませんね。

ところで、テレビや新聞などで時々「竹は60年に一度花が咲く」などと報じられますが、それは間違いです。
わが国では、モウソウチクが発芽から67年目に開花したという例が2つあるだけです。
ですから、たった2例だけでモウソウチクは67年周期で開花すると断言することは決して出来ません。
ただし、マダケについては、昭和40年代に日本だけでなく、世界中のマダケが一斉に開花し、前回の開花からほぼ120年を経て起こったことから、マダケについては120年周期に間違いないとされています。
なお、最近、各地でトウチク、ナリヒラダケ、メダケなどの開花が確認されていますが、それらの開花周期については分かっていません。


竹類はイネの仲間ですから、発芽してから長い年月、地下茎によって繁殖を続けますが、ある一定の時期に達すると、花を咲かせ、種子を実られて一生を終えます。
ところで、一般のイネ科植物は毎年、春に発芽し、夏頃に花が咲き、秋に実をつけて一生を終えるのですが、竹類は花を咲かせるまでの期間が大変長く、その期間を「開花周期」と言われています。
この開花周期は種類によって異なり、またこれまでに開花が確認されていない種類があるなど、まさに神秘な状況にあります。
ちなみに、日本の竹の開花周期については、つぎのような記録があります。
















竹   種 


開花周期(年)


  備  考



モウソウチク


 67


横浜市、京都大学など



モウソウチク


 67


東京大学、京都大学など



マダケ   


120


昭和40年代に全国的で記録


詳しくは

http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkakd107/D14.html




2008年11月6日木曜日

山中湖の富士




昨日は富士五湖のひとつ山中湖にいってきました。

宿泊場所のペンションのモーツアルトという所に4時に到着し、その主から湖畔に行ったら富士の頂に日没がかかる「ダイヤモンド富士」が見られる筈の助言にしたがった。湖の南東の端に「きらら」という野外音楽堂に一筋の流れる水のない川筋を下ると、砂浜につく。雲に見え隠れする太陽はどんどん見えなくなって厚い雲に覆われてしまった。あとから夫婦連れがやってきて西湖のほうの日の出は素晴らしかったといっていたが、スゴスゴと帰っていった。湖には大型の白鳥の形の遊覧船を背に3羽の白鳥が泳いでいた。それから日没後の夕焼けも見事だということで、パノラマ台というところに向かいました。ここにも泊まり込みの車が2台待ち構えていたが、雲の夕焼けのシーンは見られなかった。夕食時にリビングに置いてあった平野昌久氏の写真集:富士山中湖周辺(出版はmoonpressのhttp:// moonpress.ktplan.jp/)を見ていたら、10年も周辺の富士を毎日、撮り続けていて飽きないという。このパノラマ台も天気予報で晴れであっても、富士が見えるとは限らないという。この写真集の撮影場所をみたら、やはり山中湖(湖面に映る逆さ富士で有名)周辺ばかりでした。冬の凍結し、雪を被った富士も見事なものだった。

 翌朝食堂の大きな窓から紅葉の雑木林の頂に富士が覗かせていた。

朝食をすばやく終えて9時出発、早速10分先のパノラマ台に向かった。大勢の人がカメラを構えて皆満足げでした。下3分の1の裾野は雲がかかっているが湖面や上3分の2の富士は空一面の大型スクリーンに地球を台に踏まえた雄姿が見えてた。この姿が通常カメラで映るだろうの心配があった。

 そのあと大菩薩峠も富士が素晴らしいということで2時間半かけてロッジ長兵衛(大菩薩峠の登山口)まで蛇行する山道を車の終点までいったらもう富士はかすんでみえない。丁度パノラマ台にいた時間がよかったとのことであった。それはそれで紅葉真っ盛りで満足でした。

http://www.moonpress.net/book09.html

2008年11月4日火曜日

おいしいコーヒーの真実


タイトルをみてコーヒーの美味しい飲み方の映画かなと思ったのですが・・・・。

成蹊大での映画:おいしいコーヒーの真実:監督マーク・フランシス、ニックフランシス。

トールサイズのコーヒーは一杯330円、コーヒー農家が手にする金額3から9円。コーヒーは6つ経由される流通経路を経るのでその中間で利潤が食われて、生産者には還元されない。生きるためにはチャット麻薬栽培のほうが何倍も収入が可能。
エチオピアでは栄養不良の子供が沢山いて、極度の栄養不良でないと国の食料援助が受けられない。援助外に振り分けられ子供は極度の栄養不良になって戻ってくるしかない。

出演はタデッセ・メスケラ(エチオピアコーヒー農協連合会)他

コーヒーは世界でも日常的な飲み物、全世界で1日あたりの消費量は約20億杯になる。コーヒー豆は世界市場において石油に次ぐ巨大な国際的貿易商品でありながら、コーヒー豆生産者は困窮している現実。

年間売上高800億ドル、エチオピアでは5人に一人がコーヒーで生計をたてている。エピオピアでは700万人の人に食料援助が必要とされる。

コーヒーの価格はNYの市場の価格で決まっている。倉庫においてあって値上がりを待っている。

食料援助よりも、コーヒーの価格を1%上げて購入するほうがはるかに多いそうです。

フェアトレードとは?

発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じ、立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す取り組み。

イギリスの会社ティニーズは市場を経由しないで生産国から直接フェアトレード取引をやっている。

フェアトレード製品には、コーヒーやバナナ、チョコレートのような食品から、手工芸品や衣服などがあります。

、フェアトレードは貧困削減、南北経済格差の是正に寄与します。このような取引に貢献しているところはあるが、スパーや商社の取引にも行われるよう

に望んでいて、このような取引によって自費も拠出して学校の建設までやろうという動きにつながっている光景もありました。

日本の鶴見良行の「日本人とバナナ」でも似たような主張がされているのを思い出しました。なかなか生産の転換ができないようになっているようです。

2008年11月3日月曜日

平櫛田中


平櫛田中彫刻美術館で「仏像インスピレーション」の講演があったので西東京市から小平まで自転車で運動を兼ねて玉川上水の脇道にそって片道1時間かけていってきました。

この平櫛田中は100歳を超え長命であったが、死の直前まで創作を続けた。1979年(昭和54年)に、東京都小平市の自宅で逝去。享年108歳。広辞苑に載っている実在の人物の中でもっとも長生きした。岡倉天心を敬愛してやまない人だったそうです。この彫刻家は「60・70

鼻たれ小僧」といった人でした。

 この仏像に関することは、今や大ブームで国立博物館で「仏像・木にこめられた祈り」、「薬師寺展」でも芋を洗うような混雑でした。今日は地上デジタルのNHKでで100から600まで仏像の特集です。

NHKでBSや1chでは源氏物語だし、これはやれば必ず当たる番組なのですね。

1.  ロダンの考える人がスライドの一番最初にでてきました。これは広隆寺の弥勒の思惟像の西洋彫刻版なのだそうです。明治時代の日本の彫刻家がフランスに勉強にいったら、日本には素晴らしい
仏像彫刻があるではないかといわれて、帰国後お寺巡りをしたという。又明治は神道をメインにすえるため、仏像も神様も同じ寺に同居していたのが、理不尽な仏像を捨てる廃仏が行われた。これは大変な損失だった。比叡山ですら相当の被害だったそうです。又この余波を受けて仏師も生活に苦労して本職をなげうって内職ばかりやっていたようです。明治の新しい女性の裸体像の手の出し方もどこやら観音様の姿に似ているのでした。この平櫛田中の前庭に3mのブリキの傘をかぶった材料の大きな楠がありました。

展示されているものは、最大の高さは1.5mでしたが、この大木から何を彫るつもりだったのでしょうか?凄い制作意欲だったのでしょう。

説明のなかで出てきた:いん‐じょう【引接・引摂】いい言葉ですね。

 仏が衆生を引き導くこと。

 臨終に阿弥陀仏が来迎して極楽浄土に導くこと

平櫛田中の作品http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/denchu_works/denchu_works.html