2008年11月27日木曜日

満州その2


また満州の続きになります。満州から帰ってきたとき、医療関係で残った叔父も満州のことにはほとんど触れませんでしたね。満州からの引き揚げのとき故郷鶴岡にも立ち寄ったことを覚えています。

日本が敗れて満州が崩壊したとき、弓張嶺(奉天と、鞍山の北東60km間の山奥の鉱山)は五味川純著「人間の条件」の舞台でもある。)には満州製鉄所出張所の社員や家族が三百人いた。そこへ19名のソ連兵が入ってくると、御他聞にもれず要求してきたのが女性の提供だった。日本人側は緊張した。相手をする女性を呼びよせるまで待ってほしいと掛け合う一方、もしソ連兵が手出しすることあれば19人を皆殺しの上、全員坑道で自爆することに取り決めた。鞍山市にも柳町という紅灯の巷があった。此の遊郭の女性を動かすことはソ連軍司令部から禁じられていた。しかしここに顔がきく藤田慎治に頼むことに衆議一決した。彼は子供のころから問題児でいわくつきの不良の放蕩児だったが、事業面ではやるべきことはビシッと締めくくってていた。折悪しく藤田は黄疸で42度の高熱に浮かされていたが学校で2年先輩でもあった代表の飯泉博にひたすら懇願された。「せめて2日待って下さい」「それが待てんのだ。この場を救うのはお前しかいない、お前が犠牲になって300人の命を救ってくれ」。藤田の侠気が黙視できなかった。

すぐにも出かけ、柳町の料理組合長の岡本宅で車を降りて交渉したが、血相を変えた「無茶も無茶。わしまで銃殺だ」それは土台無理な相談だった。藤田がふらつく足取りで悄然として岡本の家を出ると、物陰から藤田に好意を寄せている「しのぶ」という女が一部始終を聞いていた。「慎ちゃん、私が行く」  「よせ」――と出かかる声を飲む慎治に「何人いるの」「そりゃ・・・3人でも4人でも・・・」いい渋りながら用意してき持参金4万円を手に握らせた。

しのぶの屈辱の日々が始まった。開き直った女の意地でしのぶたちは押し通した。相手がソ連兵だけでは済まなかった。国民党軍と名乗る馬族くずれのお相手までさせられた。

かくして弓張嶺は一見平和裡にソ連軍の引き揚げることとなった。社員家族3百人と藤田一行も同じ列車で鞍山に帰ってきたのである。しかし惨めだったのは しのぶたちだった。ビタ一文の報酬もないばかりか、贈呈されたものは元の持主に返還を強いられた。度胸の良さと商売女の意地を見せた しのぶは無事郷里の大阪に帰国したが、ほどなく病死した。藤田は昭和58年に北九州市の病院において肺がんで息を引き取った。藤田は左腕に刺青をしていた。しのぶ命―――と彫ってあった、せめてもの彼の償いの証であった。

満州慟哭:友清高志(季刊誌:味の旅の編集発行):講談社

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