2008年11月10日月曜日

篤姫のこと


「篤姫」をみていると、平和は女性しか保ち得ないという気がする。

又幕府が滅亡するにあたっても、江戸城無血開城等も西郷や勝海舟に加え、この篤姫が後押ししていたことが分かって納得した面がありました。太平洋戦争の軍の右往左往振りと比較しても、進退の処し方も自分を顧みないところ見事といわざるを得ないと思います。

小松帯刀が奥さんに支えられて篤姫が薩摩に帰るように努力、篤姫の母上の子を思う心情、篤姫の大奥を守り抜く決意と、それに応えて大奥の一体化、は心洗われるようでした。

幕府滅亡から16年が経った明治16年(188311月13、宗家邸で脳溢血で倒れる。そのまま意識が回復せず、1週間後の11月2048歳で亡くなった。死後、新政府から従三位の位階を追贈されている。

死後は、東京都の上野寛永寺にある家定の墓の隣に埋葬されている。

· 平成20年、東京学芸大学の教授により篤姫の駕籠が発見された。場所はアメリカ、スミソニアン博物館。その駕籠には、篤姫だけが使用したとされる「双葉葵唐草」の模様と篤姫の実家である近衛家の家紋「近衛牡丹」紋および「三つ葉葵」紋が散りばめられている。

· 明治維新後は、自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職・縁組に奔走していた。そのため、死後に確認された所持金はたった3円(現在の6万円)しかなかったという。 (「その時歴史が動いた」の再放送の篤姫で知ったことでした)

  • 愛犬家であり、結婚前にはを多数飼っていた。しかし、夫・家定が大の犬嫌いだったために大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。その猫のエサ代として25両/年を使っていたことは勝海舟の日記などに書かれている。猫の世話をしていたのは、天璋院と共に大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪・大岡ませ子である。

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