小生も満州新京の生まれで戸籍にもそう記されているが、満洲についてはいろんな手記がありますが、かなりの烈風に生き抜いた人がいたのが眼にとまりました。その頃を思いだしたくもない人も大勢いることも確かですね。
九大名誉教授の具島兼三郎はその頃助手としてファシズムの研究をしていた。国内では軍部の圧力が強く、紹介を得て満鉄の調査部で働くことになった。そこで世界34ケ国の物資保有量、生産機能、貿易状況に論及し、結論として日独伊三国同盟など無謀な軍事協定は国家滅亡の道だと論じた。米英を敵に回す愚を指摘し、現状で戦争が起きれば真っ先に脱落するのがイタリアだと喝破した。
その後満鉄の調査が注目され具島がレクチャー役として軍部に請われ、中国の抗戦力について説明の場が設けられたのは昭和15年3月であった。兵たん線の関係からいって懐の深い中国大陸の奥地までの進撃は無理である。そこで持久戦となり、軍事的に解決する目途が立たなくなる。そこで戦争はどうしても政治的手段によって解決する以外にないと指摘した。
この報告会が終わると一人の将校が手を挙げて「要するにどこを爆撃すればよいのですか?相手がいっぺんに参る急所を教えていただきたい。ただそれだけです」
急所のないことを今まで累々と説明したばかりだった。
しばらくしてこんどは上海に出向いて同様の報告会を開いた。報告会が終わり、座談会になって、一見風采のあがらない人が「多くの日本人はアメリカ人を舐めてかっかっているが、自分は米国に留学していたから、どういう国かいささか知っている。海軍などキビキビしていて優秀である。米国を相手とした場合には半年は暴れて見せるが、あとは自信がもてない。とにかく米国を相手にするのは愚の骨頂である」といった。具島はその将官とこころおきなく意見交換ができた。閉会後その将官が誰かと尋ねたところ、山本五十六長官だということが分かったという。
がこういう批判は軍部には危険な存在と映って具島の身柄は憲兵隊から長春監獄に送られた。食事も生きるに最低限を下回る家畜並の餌とあれば栄養失調で死するものは後をたたず、燃料節約のため鼻をつく大豆も生煮えで猛烈な下痢、薬を求めても罵声だった。そんな中をかろうじて生きながらえて、昭和20年3月下旬、具島は釈放。判決後6日の5月6日にドイツが降伏、三国同盟は瓦解してしまう。日本の敗戦がもう目前だった。
満州慟哭:友清高志:講談社
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