2008年11月11日火曜日

小笠原登先生のこと



ハンセン病資料館の内容は膨大でした。そうではあるのですが、小笠原登先生という凄い人がいて、この人の行為に感化された同郷の厚生省の担当者大谷藤郎がいてあの小泉首相の決断を導きだしたということになったようです。その大谷さんの話は次回に譲ります。


甚目寺町円周寺住職 小笠原英司先生講義録

於 甚目寺小学校 

演題  小笠原登先生について

皆さん、こんにちは。私は小笠原英司と申します。今日お話をする小笠原登先生と私は、血のつながりはありません。縁があって、甚目寺の円周寺に婿養子となりました。私の奥さんの父、つまり私の義理の父親のおじさんになる人が小笠原登先生であります。ですから、私も結婚するまでは、小笠原登先生についても、またハンセン病についてもよく知りませんでした。
 皆さん、ハンセン病って知っていますか。
 私も今までほとんどハンセン病について知りませんでした。「何となく恐ろしい皮膚病で、インドなんかに多い。」子供のころの知識はそんなものでした。いや、私が結婚する12年ほど前ほとんど知識はありませんでした。それは、なぜかというと、日本では患者を強制的に隔離し患者さんを見ることもなく、また病気自体についても、テレビや新聞でもほとんど取り上げられなかったからだと思います。「らい予防法」という法律が約90年間にわたってあったためなのです。
 それが、5年前に「らい予防法」が廃止になり、また今年になって「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟により、患者さん側が勝って、小泉総理大臣が今までこの法律のもとで患者さんたちに多くの被害や差別をもたらしたことを謝罪しましたね。そんなことで、ハンセン病が急にマスコミに取り上げられ、国民も興味関心を持つようになってきたのだと思います。先日、役場の課長さんに話を聞いたのですが、小笠原登先生について役場によく問い合わせの電話があるそうです。私の家の円周寺にも、いろいろな人が小笠原先生にお参りがしたいといってよくみえるようになりました。今までは、年に2~3回だったのですが、今年は月に2~3回ほどみえるようになっています。
 これは、今までの日本のハンセン病に対する政策が誤っていたのであり、小笠原登先生の考え方が正しかったのではないかということなのです。ノルウェーのハンセンが1873年にらい菌を発見し、その後日本では、患者を隔離する政策をとっていったのです。それまで鎖国をしていた日本は、明治時代になり外国人が自由に日本国内に入ってこられるようになりました。そうすると、お寺とか神社なんかにらい病の患者さんが物乞いをしている。外国人に日本の文化が低いことを見せたくない。という理由で放浪する患者さんを隔離していったのです。そして、日本は日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦を続けていくのに、らい病の患者さんが必要でなかった。伝染性があり、遺伝すると考えられたハンセン病を日本の国内から絶滅させるには隔離しかないという、」患者さんやその家族の人権を無視し、国家の政策を優先させたのです。
 そこには大変な差別が行われたのです。たとえば、患者さんが出た家は消毒をする。親が患者であっても、子供も一緒に療養所に入る。子供は普通の小学校に通えない。親が死んでも、葬式に出られない.。名前から家が分かってしまうので、患者は名前を変える。家から手紙が来ても、すべて検閲がある。結婚していても、家族に患者がいると分かれば離婚させられる。患者さん同士で結婚したければ、男の人は、断種といって、子供ができないように手術させられる。また、赤ちゃんができても堕胎するか、産んですぐ殺す。遺伝するといけないから、子供を産んではいけないということです。療養所から逃げようとしたり、反抗したりする者は所長の権限で独房に入れられる。療養所というよりも、罪人の収容所みたいなものでした。
 それに対して小笠原先生は、「らいに関する3つの迷信」として、(1)「らいは不治の疾病である」、(2)「らいは遺伝病である」、(3)「らいは強烈な伝染病である」という3点を迷信であると断言しました。(2)はともかく、(1)と(3)は、当時の隔離を絶対化する国家の方針とは対立するものでした。国が患者を診ず国家の政策を優先させたのに対し、小笠原先生は、自分の信念をくずさなかったのです。患者さんの立場に立つ。つまり、弱い立場の側に立って、正しいことを信念をもって主張しやりとおす。普通なら、自分はやはり間違っているのではないかと思うのですが、祖父の代から円周寺には、らい病の患者さんが治療に来ていたようです。そういう体験に基づく信念があったのです。この点が大変立派な人だったと思います。
 皆さんも大いに努力して、いろいろなことにチャレンジし、その中で自分が生きる道はこれだというものを見つけてください。人の意見を聞くことは大切です。しかし、最終的に自分の人生は人に代わってもらうことはできません。どんなに苦しくても悲しくても自分で責任をもって乗り越えていかなければならないのです。苦しみを多く経験した人ほど、人に優しくできます。弱い立場の人を思いやれる人になってほしいと思います。

講義録にはありませんが登先生の兄の歌集には

足あとの 残らば 残れ足あとの

消えなば 消えね ひとり旅ゆく

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