昨日の新宿で目立ったのは、男性は秋の背広だけでしたが、女性はもうコートでの冬の身支度でした。やはり服装の反応速度が違いますね。
この日はTBSで筑紫哲哉追悼生放送でした。
今日も長文になってしまいました。お許しください。
開館10周年記念特別講演「近代の論理とハンセン病」要約。大谷藤郎。
愛知県甚目寺町で生まれた大谷氏の母の隣家の寺は圓周寺でした。昭和18年私(大谷氏)は18歳、その年の京都大学の小笠原登先生を初めて訪ねた。自分(大谷氏)はあまり気が進まなかったのですが、母から医学にいったのだから登様に教えて貰ったらどうかということで訪ねた。そうしたらびっくりしたのはハンセン病の患者さんが沢山おられた。
先生のお祖父さんはお坊さんだが、江戸時代に何百何千人の東海道のらい病、るい疫、梅毒の患者の専門治療をして、名医といわれる人だった。江戸の大火で脱獄した高野長英の弟子を匿って、蘭方のらい病に効くよい薬を教えて貰おうとした。
先生も京都大学で何百人もの患者さんを診ていて、「人から人へは伝染しない」「大丈夫ですよ」と自信を持っておられた。
小笠原先生は昭和5年の「らい学会」に「らいの研究は患者の体質による」と発表をした。その頃は光田先生はじめ療養所の先生方は明治40年にできた、らい病予防の法律では手ぬるいので、患者を見つけ次第すべてのらい患者を隔離する法律に改めるべきだ」と結局昭和6年の大改悪になった。昭和10何年頃から、こんどは一般の雑誌や新聞にらいに関してそんなに怖がる必要がないことを先生は語りました。ついに昭和16年に学会での集まった学会員は二百人とも三百人ともいわれる中で大論争があった。らい学者は偉い院長だったり、教授だったり自分が間違っているとは全く考えていないので、はたから見れば、丸い地球を三角だといっているようなものだし、にせ医者を許してはならんという記録が残っている。(まるでマイミクのさざ波mooさんの言われる臓器移植の問題と酷似してはいませんか)
らい予防法で医師は戦争中は警察に、戦後は保健所に届けなければらない。先生は届けないし、警察に追われて患者が駆け込んでくると、多発性神経炎とかわけの分からない診断書をかいた(その頃の大学の先生は偉いと思われていたので、警察は釈放した)。
話は飛びに飛びますが、この著者の大谷藤郎氏は昭和47年に旧厚生省の療養所課長となり、11年後、医局長を辞めるころは患者さんは厚生省の中を大手をふって歩き回れるようになっていた。それでも昭和59年の事件では宇都宮精神病院で看護師が密室で患者二人を殴り殺した。マスコミや政府も調査に乗り出し、ジュネーブから人権NGOがやってきて告発した。
ジュネーブの報告書は、最初は病院のことを批判していましたが、それよりも悪いのは日本政府の精神衛生法という法律は人権侵害の規定ばかりで、救済の規定や地域への自立を進める規定などがないという内容でこういう立場の大谷氏も洗脳されたという。
厚生省の方でも国際人権規約にも違反している疑いがあるということであったが、日本政府はこの規約を批准しているのだが、どこがどうだか分からないのでした。
厚生省は恥をかいたが日本の精神障害者の人権を守るには結果的によかった。
この人権の問題について、法律関係の人が「人権なんて中学の教科書にも載っているぞ」しかし、それじゃなんで「らい予防上の人権上の間違いを90年にわたって日本中が見逃してきたという話になりませんか?」
それは近代というものについての認識が違う。アメリのカ独立戦争、フランス革命、ロシアのレーニン革命その他で、いろんな内乱や革命で戦われて多くの間違いや血の犠牲を払いながら、人間の権利は平等・自由にして行こうというのが近代という概念です。基本的人権は突然新しく出てきたと解するのではなく、数千年も前から人間が根元的に願ってきた人間平等への優しさがあるのに実現できなかったことを忘れるなということだと思います。「共に生きる社会」を実現していって、そこで始めてハンセン病問題の解決になったといえるの私個人の意見ですと述べられています。
この大谷氏はハンセン病の政府の要請で実態を国会で証言しました。
この政府に関係した人の証言がなかったら、小泉首相が非を認めたでしょうか。
登先生も一緒に同居していた兄の仏教哲学者・秀美先生も一生独身で朝晩必ずお経をあげていたそうです。
(先生は、ハンセン病に身を粉にしたが故に、配偶者や子供に影響あるを考慮し、敢て結婚をいない道を選んだのではないでしょうか。)そこには仏教関係の学生とかいろんな人がやってきて喧々諤々の議論をやっていたそうです。
http://www.hansen-dis.or.jp/guide/guid.html
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