2008年2月29日金曜日

横浜公園物語その2


●横浜に井伊大老の銅像が建てられた訳:彦根の人たちが大老の建碑に立ちあがったのは1881年(明治14年)銅像建設まで実に28年の歳月がかかっている。薩長中心の藩閥政府に妨害されて、予定地が四転している。
当初は東京・上野公園→東照宮祀官から申請された先は農商相は西郷隆盛の実弟従道であった。隆盛は井伊大老の行った安政の大獄の犠牲者だった。
(しかし後には上野公園に隆盛の銅像はできた)→日比谷公園(このときも従道が内相で反対)→旧藩士の運動があっても内閣の反対で候補地が特定できない→内務大臣の管轄外の横浜とした。除幕式は一九〇九年(明治四二年)、旧臣らは羽織袴で参列したが、晴れの舞台にならなかった。開港50周年祝典に合わせ7月1日に行うところであったが、伊藤博文、井上馨の元老大臣の異議があって訓令を出された神奈川県知事の周布公平(元長州藩士)の指示で中止に追い込まれた。この記念日にやるのはもってのほかであった。この祝典と切り離され10日後に行われた。これから5年後(1914年)市がこの銅像の寄付の条件に旧井伊家家庭園で私園であったのを公園として設置することになった。
(この公園は掃部山公園・西区紅葉ケ丘:桜木町駅徒歩10分)

大江橋:大江卓という人名前は桜木町駅前の「大江橋」に残っている。大江は土佐藩出身で幕末「陸援隊」に入り倒幕運動に参画する。(坂本竜馬とはあっていないが竜馬の妻おりょうとあっていた時竜馬が暗殺されたときだった。)大江は倒幕運動で長州の伊藤博文や陸奥宗光を知る。この陸奥が県知事になったとき高知藩出身は冷遇されていたが、陸奥の片腕となって働いた。
彼は正義感のつよい人だった。彼を有名にしたのは、奴隷解放を実現したマリア・ルス号(ペルー船)事件である。横浜に寄港した同船には232名の清国人苦力(クーリー)が乗っていた。我が国がこの事件に介入するかどうか、政府内で意見が分かれる。大江は人道的立場から同船の摘発を主張。結局大江らの意見が入れられ、彼はこの国際裁判の審理を自から裁判長になって、清国人全員の解放に成功する。このとき清国側から大きな旗が贈られた。畳4枚ほどの大きさに圧倒されるそうです。神奈川や横浜の街の土台づくりに奔走し、近代日本を維持するための警察制度を作り上げた。その後、陸奥のあとを継いで県令となる。
写真は中近東文化センターの展示品より

2008年2月26日火曜日

横浜公園物語




横浜公園物語:田中祥夫著・中公新書
●現在私達のまわりに人々に愛され自慢されている公園は多い。
中でも封建期の遺産である上野公園(東京)、円山公園(京都)など社寺の境内や3名園(水戸、金沢、岡山)は旧藩主の庭園をルーツにもつ。
我が国の公園制度は1873年(明治6年)に始まる。ところが開港前の横浜にはこれらのルーツに見合う大寺院や城郭もない。
森鴎外の作詞の市歌に「むかし思えば、苫屋の煙、ちらりほらりとたてし処」というような半農半漁の貧村だった。横浜の3公園の山手・横浜・山下と1私園(三渓園)の誕生のいきさつ。幕末の横浜(震災前でも湿地の埋め立て)は井伊直助大老の命令で3ケ月でつくられた。
●本牧の三渓園は原富太郎という商人が各地から集めて開いた庭園で、彼は豪商、美術収集家として語られることが多い。実は彼は田園の街づくりを手掛けたデベロッパーでもあった。旧燈明寺三重塔(関東最古で室町時代のもの、京都から移築)などがある。和辻哲郎の「古寺巡礼」の出発地がこの三渓園であることは余り知られていない。
山下公園は関東大震災のガレキ捨て場の上につくられた。この公園のなかには復興記念横浜大博覧会がもようされ、船溜まりを利用し、開催期間だけ鯨二一頭を泳がせていた。生けどりや運搬の途中で死んだり生簀にいれても三・四日で死んだり鯨館がひらかれたのは60日間のうち5日間だけ、生簀にはいったのは12頭、生還したのは1頭だけであった。この中にインド水呑台があるが、関東の絹が激減し、震災後絹織物の扱いは主流だったインド商は神戸に移ったが、日本絹業協会(会長原富太郎)貸し商館16棟をつくり、入居者は神戸から戻ったインド商がほとんどだった。これに礼として児童らの水呑み台として利用してくださいという建物だった。
●寿命15年のところ倍も働いた氷川丸が係留されることになったが、船=運輸省か建物=建設省かの認定の難問:分かれ目は土地に定着するかの判断次第であった。市役所は建築物には該当しないが宿泊施設にもなるから建物同様の安全に配慮くださいのお願いがあった。それでこの建築基準をクリアして「船らしさ」を保つ改造方法如何:通路・客室・トイレなどの衛生・避難の規定にてらし改造し昭和36年公開された。これが走りで各地に船の係留が広まった。長崎のオランダ村で水上シアターは建築申請することで建設省の意見が優先されるようになった。

●山下公園は関東大地震の復興計画は国と地方自治体の都市計画(神戸は市単独)だった。内務省の技師であった石川栄耀(ひであき)はロンドンに渡った。先覚者のアオンウイン博士の水辺につての教えを乞うた。「君のプランにはライフがない。水際は市民の命だ。」とうじ海際は工場や埠頭優先の考えだった。都市景観といったことより効率第一の時代だった。
●「ガレキの山を山下公園に」の意見は横浜に長く住んでいた外国人マーシャル・マーチン(英国貿易商人)ともいうが捨て地として根岸の海岸、新山下町~小港、神奈川方面の3ケ所だったが追加された山下部分はふくまれていない。ガレキの多い港周辺からは遠く、大きな壁体などの運搬は困難だった。市役所は捨ててから公園にしようとしたのではなく、公園構想が先で、これに適したのが山下部分という見解が正しそうである。
写真は中東文化センター展示品

2008年2月25日月曜日

繁栄する貿易港



カリカット(英語:Calicut)はインド西南部、ケーララ州アラビア海に面する港湾都市。マラヤーラム語ではコージコード(കോഴിക്കോട്、Kozhikode)と呼ばれる。
1403年明朝鄭和がカリカット(古裏)に寄航している。1498年ヴァスコ・ダ・ガマが来航し、その後、オランダイギリスが支配した。インド綿織物の輸出港として知られ、キャラコの語源ともなった。
カリカット(現在のコルカッタ・旧カルカッタとも違う)の町の起源は11世紀に遡るという。この町がいかに外来の商人にとって安全だったかを伝える話が残されている。
東南インドのコロマンデル海岸の商人が、紅海(アラビア半島とアフリカ大陸に囲まれた海)方面での取引で大きな利益を得た。帰途についたとき、あまりに大量
の金を積んだため、船が沈没の危険性が出てきた。そこでやむを得ず、この商人はカリカットでその地の王に金の入った大きな宝箱を預けた。半分はあきらめていた財産であったが、再びこの商人はカリカットを訪れてみると、その宝箱は王のもとに手つかずのまま保管されていた。喜んだ商人はお礼として中身の半分を王に贈呈
しようとしたが、王は「王者として期待される当然のことをしたまでのこと」といって何も受け取らなかった。そこでその商人は町にバザールの建物を厚意に報いたという。王は宝箱の半分よりも王が公正で町が安全であるという評判をうるほうが港町カリカットにとってより重要だということをよく理解していた。
世界史の興亡15東インド会社とアジアの海。羽田正著:講談社より

黒沢監督と300羽のカラスと大江さん




おらが朝日から黒沢監督の印象を電話で取材されたとき、監督はまだ息をしていたんだ。新聞は相手が有名人だと
まだ息があるうちから死んだときの記事を用意するんだな・・・・って。黒沢監督は「カラスのいる麦畑」って題の画家ゴッホの
映画のためのロケ地を探していた。北海道の指折りの農業の女満別町でやっとの思いで辿り着き、朝日のビール麦の畑をみて
「すばらしい、起伏も緩やかで奥行もある。わたしが探していた通りの麦畑です。カラスが飛ぶシーンはここに決めましょう」
なにがなんでもカラスがいるから、是非協力してくれという話だ。かるく返事をしたがなんと、250羽も集めてくれという。やあたまげた。
田中助監督はこんな話をした。「たとえば『影武者』という映画では、合戦の場面で使う馬200頭を1億円かけてカナダから買いました。これは日本の
馬より動きが敏捷だからです。その馬をさらに1年飼育して訓練させてから撮影に入りました。つまりそれほどうちの監督は完璧主義なんです。」
そうはいうもののカラス250羽をどうやって集めるかはユルクナイ話だ。女満別はもちろん網走、美幌、のゴミ捨て場での捕獲作戦だ。多いときでも1日6,7羽だ。これを捕獲してもいくら北海道といっても真夏30度をこす、飼育方法と健康管理であって、肝心なときに足が萎えて飛べないのではないかの心配が頭を去らない。
ついには300羽にもなったので、ロケ地に近いカラマツ林の飼育場では糞の処理、飲み水、水浴び、で大量の選んだ水の運搬には難儀した。
カラスは頭もいいだけでなく、礼儀正しかった。せっせと世話するおら達にはちゃんと敬意を表して1羽たりとも、糞をひっかけることもなかった。
共食いの噂とは大違い、空から飛んできた金網の外の仲間にも自分の餌を分けてやるのだ。白いシャツを着て小屋にはいるとガアーガアー、黒いシャツのときはおとなしい。
ロケ隊がきた。礼儀ではカラスに劣ってはいけないと、だまって頭をさげた。背広ではない人が「御苦労さん、カラス順調ですか」「おうおう、見たとおり元気だよ」
誰よ、あのおやじ?」田中助監督は鳩がマメ鉄砲くらったようなあり様だった。おらは監督の写真もみたことはなかった。
田中助監督いわく「・・・・カラスがうまく飛ばなければ、この映画の完成はありえません」
そういわれてらが苦心惨憺だった。観音開きの2重底の木箱にいれて蓋をあけたらすぐ2重底の上底を持ち上げることでジャンプをさせて、願ったよ。「飛ぶ、飛ばないはカラスの勝手だども、右でも左でも、高く高く、遠く遠く、飛んでくれ頼むで」
ふたを開けたとたん、空砲が轟いた。カラスが乱舞した。大空が一瞬真っ黒になった。監督からも大江さんありがとうを繰り返しいわれ、胸が熱くなったし、帽子をとって頭さげるのが精いっぱいだった。


北の大地の無法松:語り・大江省二、構成・井上明子:風媒社より


写真は中近東文化センター展示品より


2008年2月24日日曜日

多彩なボランティア


参加者●今日西東京市のボランティア協会の主催の講座に参加された慶応大と中央大学の学生各2人がいうにはVAアジア生活という勉強会があるそうです。これは担当を国ごとにわけて、ホームレスの実情を探るという勉強です。米国の米国のスタンフォード大学にいって実情報告をして、その後に学生自身も路上生活を体験するというプログラムだそうです。実体験ほど勉強になるという姿勢です。これは米国の凄さです。

参加者●西東京市ボランティア協会の講座で知り合った人でT氏は「新現役ネット」※NPOの会員にもなっていて、今度独居住まいの人の応援する組織を作るということで動いています。
ふれまちの緑の会代表とも接触をもって包括支援センターにも話を聞きにいくとかいっていました。この組織の面白いところは何かの企画を立ち上げると、会員が1万人もいるので、この指とまれで
応援してくれる人がいるそうです。東村山市大山地区にSさんという女性がいて、1200人の独居老人を20ブロックに分けて、見守りのスタッフを置いていてそのスタッフに携帯電話をもたせ、5分以内に本人宅に伺う。24hの見守りの体制だそうです。近々にその人と会うそうです。小生もご一緒させてくださいとお願いしています。このSさんはこれらの葬儀には葬儀委員長として必ず頼まれるそうです。

写真は中近東文化センター展示品

2008年2月23日土曜日

眠れない




不眠症の大学生達を2つのグループにわけての実験です。乳糖を用いた偽薬を用意しました。
この乳糖は睡眠や不眠という点に関しては、別に特別の効果はありません。
Aのグループには「この薬は生理的に興奮を高める。体温が上昇し、ドキドキするかもしれない。」と教える
Bのグループには「この薬剤は生理的活動を低下させる。寒く感じるかも、心身をリラックスさせる。」と告げる
結果として、床に着いてから就寝に要した時間をみると、興奮するよと教えた方がむしろよく眠られたのに、
リラックス条件の方ではなかなか眠りにつけませんでした。これは普通の偽薬の場合とまったく逆になっています。
タネを明かせば、興奮条件の「能書き」は実は不眠症の症状と同じなのです。そこで被験者は、就寝時に強く自覚される
生理的興奮を100%薬のせいにできます。副作用だから寝むれないのは当然と考える。一方リラックス条件の方は
鎮静剤を飲んだのに、依然として興奮を自覚するので、不眠はむしろひどくなってしまうことになります。
この実験も生理的興奮の方からみるのではなく、不眠症の症状は両群とも同じ筈なのに、それを薬の副作用をどう認知するかによって
違うということになります。この就寝時に自分はどうでしたかを尋ねると、A群はふだんより興奮気味とこたえ、B群は鎮静気味と答えたといいます。
いわゆる偽薬効果が現われていたのです。実際の行動と、本人の意識や言葉による報告とはことなるということになります。いわゆる言っていることと、やっていることが違うのです。


人は自分の気持ち・行動の本当の理由を案外知りません。結局自分で意識したことしか自分の行動がわからないし、分からないで動いているらしいのです。
サビリミナル・マインドー潜在的人間観のゆくえ:下條信輔著

2008年2月22日金曜日

箸2本で日本を支えている。


箸:国米家己三フリージャーナリストさんは多田道太郎京大名誉教授の「身辺の日本文化」という著書を紹介していますが、それの紹介ということになります。
人間の道具というものは、すべて人間の体の延長である。手の一番素朴なものが、フォークでそれで突き刺しにする。およそ操作性のない野蛮なものです。それにくらべると、箸は二本の棒でもって其れで操作する。ある種の操作を加えないと道具として役にたたない。周知のように日本、中国、朝鮮、ベトナムとともに箸の文化圏に属します。がスプーンと箸を併用するところが多く、日本だけが箸オンリーの国。その分日本人は手先、指先の操作性がよりシャープだといえます。神の手で脳の腫瘍を開頭手術せずに、鼻孔から脳内に入れた微細なメスでかき出す。さらに高度の内視鏡開発など、ナノ・テクノロジーで他国に先行する技術者たち。みな箸だけつかう国が育てた世界的人材です。一六世紀に来日したイエズズ会の宣教師ルイス・フロイスは「日本覚書」に記しました。「われらは、すべて手で食べる。日本人は男女とも、幼児の時から二本の箸で食べる」「われらにおいては、四歳児でもまだ自分の手で食べることができない。日本の子どもは三歳で箸を使って食べる」五〇〇年前から、ちゃんと親が子供を躾けていました。しかしある統計で、正しく箸を持てる子:今は小学校低学年で10%、中学・高校で20%、いや子供だけではない、三〇歳代でやっと50%、五〇歳以上でも約65%。つまりもう親が子を躾けることができなくなっている現状がある。親の手抜き5S「叱らない。辛抱させない。仕事(家事手伝い)させない。食事のマナーを教えない。躾はなあんにもしない。」これらのことや箸の使い方があらゆる意味で生活の基本。正しい箸の使い方は頭脳の機能やモラルの問題につながっているという説もあるそうです。したがって学力の低下、少年非行の増加、社会の弛緩や荒廃などは箸の使い方の乱れに比例している可能性だってあります。
写真は中近東文化センター展示品

2008年2月21日木曜日

天正遣欧少年使節団は貴族のふるまい


天正遣欧少年使節団4名:1584年(天正12年)9月17日はスペイン国内の主だった人たちがヨーロッパ最大の政治都市マドリード(アラビア名だそうです)の街に集まっていた。少年達はいずれも15,16歳で使節の代表は「日向王の子」とされていた伊東マンショであった。かれらを派遣したのは九州における3人の王で、大友宗麟、大村純忠、有馬鎮貴であった。少年たちはそれぞれの「王」の王族というふうにイエズス会巡察士ヴァリアーノの宣伝によって称された。ただし、かれらは上記の3人の大名の遠縁であっても、家来であるにすぎず、王とか王子とかいうたいそうなものではなかった。ローマ法王庁でも金拍車の騎士という大層な待遇を与えた。少年達は気品と自律心に富み、どういう晴れの場所に出ても、貴族以外のなにものでもない印象を人々に与えた。ヴァリアーノが押して日本の有力な貴族としたのは、そういう資格の少年でなければヨーロッパの王家や貴族が対応してくれないのを知っていたからだそうです。司馬遼太郎:街道をゆく:23南蛮のみちⅡより
写真は中近東文化センター展示品

2008年2月20日水曜日

日米の飛行機の安全比較


中島飛行機物語(零千などの航空機を製作)-ある航空技師の記録-前川正男著:東京光文社
技術戦争でもあった太平洋戦争のとき、人間をすぐ召集がかけられるったったハガキ代の価値にしか認めていない、招集令状の発行システム(重要な仕事をしているかの事前の調査もしないで、ただ割り当てられた人数を赤い紙に書いて行く)は、せっかく時間をかけて養成した熟練工をつぎつぎ召集してしまうので、その穴埋めは、全く素人の徴用工や、学徒を補充してくるだけなので、生産体系に大混乱をきたしていた。
 反面米軍は日本を空襲した際に被弾してサイパンまで帰ることができない飛行機を、日本近海の一定海域に不時着させ救助していた。米軍機B29は流れ作業でどんどん完成させてゆくが、熟練した乗員や優秀な操縦士は即製できないから貴重だった。どこか適当なところに陸上の不時着の場があればと、そのために米軍は覚悟の上で、硫黄島を占領した。
米軍の戦闘機の燃料タンクには内部にゴム板が貼られていて、被弾してタンクの穴が開いても、なかのゴム板によって穴がすぐ締まり、ガソリンの流出を防ぐとともに、爆発しないように、工夫されていた。これに対してわが方の戦闘機は被爆するとそこからシューとガソリンが白い霧になって尾を引き、焔となるので、「葉巻」と呼ばれていた。
論理優先で考えれば、技術者は領空を支配する飛行機優先の時代が来ているし、それに対応する技術力も充分にあったのに、軍人上層部の地位の名誉になる戦艦大和などの大型空母建造を先にしてしまった。現状・惨状の報道がキチンとなされていて、人間優先志向や戦略や物資の豊富な米国の実力を直視し我慢し、優劣について冷静に判断されていたら、無駄な戦争を避けられかもしれないとつくづく思う。このむちゃくちゃに走る習性は充分反省されているだろうか。
写真は中近東文化センター展示品

2008年2月18日月曜日

ジョン万次郎と電信機のころ



ジョン万次郎は幸運の人であった。
漂流した先の鳥島で救助されたのは捕鯨船長・ホイットフィールド船長は黒人奴隷解放にも理解がある公平な人であった。かれの聡明さを
評価し子供同然の扱いもしてくれて、まだ公立の学校もできていない時期に測量学校にもいれてくれたので米国の事情や技術も詳しく知ることになった。
彼の心底には日本の母親が生存しているかもしれないし、なんとしてでも親孝行したいということで命をかけた帰国であった。帰国した先は沖縄の那覇で藩主の島津斉彬に蒸気汽船のことなど西洋文明の進歩の実態をきかれた。
「その蒸気船とかいうの船は火の魔術によって走る、と報告されている相違あるまいな。その速さは、潮の流れほどもあるそうじゃが・・・」というような認識レベルの尋問だった。
江戸に連行されたがやはり開港をせまられていたのでやはり時代が要求していた情報が高く評価された。
本来は異国にいったものは事情が何であれ、獄門に処せられる可能性が大だった。おりしも開港の方針になったので、結局逃亡ではなく、遭難の認定がくだされ、藩主の山内の理解もあって終生扶持米が下されることになった。
そんな万次郎が電信についての説明は大層骨折ったとしても驚くにあたらない。
電信機を発明したモース(1791-1872年)は久しくなぶりものになっていたし、「神は何をもたらしたまいしか」といった電文を初めてワシントンの最高裁判所
からボルテチモアに送ったのを機に、ようやく認められるになってからである。アメリカ人の多くも、モースの何が何だかわけがわからなかった。万次郎はこんなふうに報告している。
「電信というのは、道路上に高く張られた針金を使用するもので、そこにはつるされた手紙は、使いの者の助けがなくても、宿場から宿場へ運ばれるのです。
手紙がお互いにぶつかり合わなぬように、ある仕掛けがしてありますが、私にはそれがどんなものかわかりません。文字は磁石が書いてくれるのです。」と説明した。
ペリー提督が贈り物のなかに電信機もはいっていたが、これにたいしての反応は、「電線の一方の端から打たれた電文は疾走してきた使者が到着する前に、もう一方の端に届いた。しかも日本文と蘭文をはっきり読み取ることができた。電線をよく調べてみても、通信管などは隠されていなかった。すると魔法を使ったのだろうか。それとも何かの方法を用いたのであろうか。」
この程度の時代から今を見ると遠い空の彼方を見るようだ。

彼は藩主の承認をえて塾をひらいた。この辺鄙な土佐で新知識が得られることは革命的な出来事だった。見聞したものを西洋の生活様式の特徴など生々しく語った。塾生に後藤象二郎がいた。
また彼が持ち帰った世界地図を写した絵師河田小竜は彼に聞いた議会制のアイディアを坂本竜馬に吹き込んだといわれる。

ジョン万次郎漂流記・宮永孝訳・雄松堂・海外渡航記叢書5より
写真は中東文化センター常設展示分より

2008年2月17日日曜日

古代道路の広さ


日本の古代の道路はどのような道路だったのでしょう。箱根や日光に残っていたり、時代劇に出てくる江戸時代の街道や並木道?あるいは、より古い時代だから、もっと貧弱なあぜ道のような道路?ほんの30年前までは、古代史や交通史の専門家の間でも、古代の道路は主要道路でも、曲がりくねった幅の狭い自然発生的な道路であると考えられてきた。江戸時代の街道などから類推していたのだから、無理もないことである。答えはノー。
日本の古代道路(にほんのこだいどうろ)は、古代日本の中央政府が飛鳥時代から平安時代前期にかけて計画的に整備・建設した道路または道路網を指す。地方では6m~12m、都の周囲では24m~42mに及ぶ広い幅員を持ち、また、路線形状が直線的である(時に直線が数十kmにわたる)という特徴を持つ。当時の中国()における道路制度の強い影響が想定されている。直線道路は、まず7世紀初頭の奈良盆地で建設されはじめ、7世紀中期ごろに全国的な整備が進んでいった。そして、8世紀末~9世紀初頭(平安時代初頭)の行政改革により次第に衰退し始め、10世紀末~11世紀初頭に廃絶した。日本の古代道路を探す:平凡社新書:中村太一著などより
写真は中近東文化センターの展示より

2008年2月16日土曜日

極道が宣教師になった。


ヤクザの世界というのは、世の中で生きることのできない奴がくるところだ。
そのヤクザの世界でさえ追い出された人間たちがバラバ※の連中だ。そんな本来使い道がない、死ぬしかないんだ。それがなんで、あんなに頑張っていられると思う。あいつらの姿をみたら、これはやっぱり神がいることを認めざるを得ないだろう。
※バラバは聖書にでてくる極悪人のこと。

「悪たれ極道いのちやりなおし」という書籍・中島哲夫著より(兄も現役の幹部で元住吉会幹部・現宣教師、父は消防士。虞犯少年といって悪で悪で手がつけられない鑑別所か少年院におくられるべき少年であった。勉強もできなかったがスポーツ万能だったのでケンカだけは誰にも負けなかった。高倉健や鶴田浩二のヤクザ映画にあこがれていた)

1950年北海道に生まれる。中学卒業後、極道に憧れ上京、19歳のときに住吉会に。バブル全盛期、政財界と裏で関係しながら経済ヤクザとして数十億の利益を手にする。1985年、住吉会の相談役に抜擢され、さらに「中島組」を結成。極道稼業と酒、金、女、覚せい剤の日々を送る。1988年クリスチャの韓国女性と結婚を機に教会に通いはじめる。1990年に覚せい剤による妄想殺人未遂事件で住吉会を破門。すさまじい“悔い改め”に体験、100円にも困る極貧生活、昔の極道仲間にいのちを狙われ、その後始めた学校経営の破たんなど、数々の試練、困難を乗り越えながら生きなおす。1995年、ヤクザからクリスチャンに転身した7人の仲間とともに、伝道集団「バラバ」を設立。バラバの8人の共著「刺青クリスチャン」をエグゼブテブ・プリデューサーとして映画化「題名:親分はイエス様・渡瀬恒彦、渡辺裕之・奥田瑛二・ガッツ石松等雄出演」現在はナオス国際キリスト教会宣教師、NAOS外語学院理事長。NAOS国際宣教師神学校理事長、日本映画投資機構代表取締役として活躍中。

2008年2月13日水曜日

マルコムX伝


マルコムX伝

マルコム伝(筆者は本人、執筆協力者はアレックス・へイリー)
これを読んだり、DVDをみて黒人問題やイスラム教との自分たちの乖離が分かりますし、本質も見えてきた感じがします。

彼はニグロ(黒んぼ)であることを辞めた。アフロアメリカン(アフリカの大地から出発し、自由を意識した民)になった。
マルコムXは暴力や治安を乱したことは一度もなかった。
我ら黒人の心だった。黒人の誇りそのものだった。意見が異なっていても、いかに評価が異なっていても、かれの死が我らを結び付けてくれた。彼の亡骸は母なる大地に横たわっている。彼はもはや人間ではなく、一粒の種である。人々の前で芽吹き、真の姿を見たときに思い起こすだろう。彼は死を恐れなかった、なぜなら我々を愛していたから・・・・
写真は蒲郡市博物館常設展灯具展より

2008年2月10日日曜日

たべてみたいじゃがいも

おいしいと思ったラーメンは高知市にあるカチンエンという中国人の人がやっているチジミ麺です。スープも麺も。
■おいしい食べ物 ブログ建築談天より

中国餃子 で騒然となっている、ふと,ほんとにおいしいものは何であろうか、最後に食べたいものの問いかけがある、筆者にとって適口なもは単純なものである「蜜の入ったジャガイモ」にれんげのマーガリンをつけて食べる。
蜜の入ったジャガイモは偶然に越年したさいにできる珍しいものらしい、ジャガイモの生産者でさえ食べたことはないと云う。
その味と食感思い出すだけ、口中に唾液がたまる。
あれから20年巡り会えていない。
神戸のフロインドリーフの角食、一変が5㎝で密度があり、薄めに切って、町村のバターをつけて食べる、ライ麦パンいい。
震災後の店は行っていない。
小さいとき、おやつが無いとき母が、小麦を水で溶き、プレートで焼いて、砂糖をつけて食べた小麦の味、うまかった、いま同じ事をしても味覚が落ちたのか、小麦がまずいのか。
自分で釣って、開きにして一干しにしたホッケ、焼くと金色の油が飛び散る、今までのホッケの開きの味とはまさに覚醒感。
瀬戸田港の境内、明石のたこを炭火を遠火で霧吹きをかけながら蒸し焼きしたタコ「うまい」あのときの老人の味は次の世代に引きつがれたのだろうか。
映画「卒業」を見た帰りに食べたピザ、イタリアで食べたピザよりうまかった。
雪印から特別に調達したチーズだとその時のコックに聞いた。
※レンゲのマーガリンは昔ここで扱っていましたが・・・・
有限会社辻アレルギー食品研究所(札幌)〒060-0807札幌市北区北7条西2丁目20東京建物札幌ビル3FTEL011-726-2111  FAX011-726-2112
辻安全食品株式会社 〒167-0051
東京都杉並区荻窪2-41-12 電話 TEL03-3391-6261 FAX03-3391-6274
写真は蒲郡市博物館常設展灯具展より

2008年2月9日土曜日

星野道夫写真展


平日でしたがひっきりなしの来館者でメッセージがだせるようになっていましたが300通以上はありました。この人の文章と写真は宇宙にあそぶような」悠々とした気持ちになれます。


星野道夫展をみて:市川市文化会館
彼の言葉:たとえ親であっても子供の心の痛みさえ本当に分かち合うことはできないのではないか。ただひとつできることは、いつまでも見守ってあげるということだ。その限界を知ったときなぜかたまらなく愛おしくなってくる。

感想1:グリズリー(大熊)のうまれたばかりの子は親の顎の下がちょうど自分の屋根になるほどの大きさと高さだ。親熊共に散歩するときは背中に金太郎のようにまたがり御者になったような風体である。その親子が遠く遠く高原の谷深く遠ざかると、アラスカの大地へ点になって消えてゆき、やがて吸い込まれて行くように見えなくなる。

感想2:岬の風除けのために波打ち際に落ち葉が数え切れないほど打ち寄せられている。よく見ると一枚一枚に白い象牙の箸が添えられている。なんとそれはアザラシの牙そのものだったのです。

感想3:白アザラシの子:氷上に多少アイボリー色を残した白アザラシが片耳を下にして横になっている。
両方の眉毛の部分にそれぞれ4本、草の茎のような毛が生えている。まどろんだ瞼の下には大きな黒葡萄の巨峰大の大きさの濡れた目が眠っているはずだ。髭だけみれば、大人びた感じがするが、全身をみればアドケナサが一面である。この氷上はどんな素晴らしいベッドもかなわない清潔さだ。そこにゆったり寝ている。
星野氏の写真は残念ながら転載の許可が必要でここにはのせられません。
写真は蒲郡市博物館常設展灯具より

2008年2月8日金曜日

マザーテレサ


マザーテレサ:富士見福祉事業団の理事長枝見太朗さんは1983年に映画の仕事をしていたとき、インドのカルカッタ(今はコルカタという)に行ったときに、マザーテレサと会う機会があってそれ以来日本で寄付等を集める窓口などの付き合いがあったそうです。
この話は御存じの方も多いと思います。
マザーテレサからの質問は「愛の反対は何でしょうか」と問われた。目の前に5人の人がいて、その内の一人が顔を見るのも嫌という人がいたとしたら。
その人が早くいなくなれば良いと思うかもしれない。愛の反対に見えそうな憎しみがあっても、この憎しみは「愛」の隣合わせかもしれないといわれ益々困ってしまったそうです。この憎しみは機会があれば「愛」に変わる可能性があるとのこと。関心を払うから憎らしいのだと。愛の真逆の言葉は「無視や無関心」で路上に寝る人間の存在すら認めないように通り過ぎる。言われて初めて分かる言葉です。
もうひとつは「貴方がいなくなったら悲しむ人がいますか」こういわれ不安になったそうです。
飛行機場で映画の機材が手元に戻ってこないので撮影もできないので困り果てていた。マザーテレサにこのことをいうと「本当に必要なものなら必ずもどってくる。お祈りしましょう。」はたしてしばらくして機材が戻ってきた。
「お金より大事なものは?私のところに来るあのお金持ちを見てごらんなさい。一生かかっても使いきれない財があって、身の回りの人人に疑心暗愚の目になって心穏やかでない。そうしてここに相談にきて寄付して帰る。私はマザー、マザーと呼ばれ喜ばれているし、そう呼ばれることがとても嬉しい。」

ではどうすればよいのですか?「夜寝るときに1分でもよいから家族のこと、地球の将来よかれと祈ってください。」といわれたとのこと。

もうひとつダライラマがいった話:人間の欲望のなかで誰にもある欲求はなにか。
殺人鬼であっても「人のために役に立ちたい」これは表に出てこないからであると。
寿命はあと何年と数えられるが、余命はいつでも毎朝でもスタートラインに立てる。
けして遅すぎることはない。因みに緒方貞子さんは50歳になってから活動を再開したそうです。
写真は蒲郡市博物館常設展灯具展より

2008年2月7日木曜日

証書と証言の効力対比


誓いの精神史:中世ヨーロッパの<ことば>と<こころ>より
ヨーロッパ中世の文書と証人の関係に関すること

下記はまじめに考えると頭が混乱してきます。
証書に名が挙げられている証人が死亡した場合、証書自体の証明能力が減じてしまうので、証人の名は記載すべきではないことはなぜか。→証人が生きていても、証書に書かれていることに反する証言をした場合には、その証書は無効になってしまう。この危険を回避するために証書の中に証人の名前は記載しないようと述べている。実際には証人の生きたことばのほうが有効とされていたことの裏返しだろう。あるはずの証書を裁判において提示できない場合には証人の証言によって立証することが可能だった。
写真は蒲郡市博物館常設展示灯具展より

2008年2月6日水曜日

誓い


講談社メチェ:誓いの精神史:中世ヨーロッパの<ことば>と<こころ>より

婚姻式で執り行う聖職者のことばを繰り返し「誓い」のことばを唱える、それは言い間違えてはならないからである。言い間違えた瞬間にその「誓い」の効力は消えうせ、もう二度と同じ誓いを立てることはできない。「誓い」は厳密かつ、神秘的・呪術的性格を帯びた厳粛な儀礼の一要素であり、その強制力に人は抗うことはできない。そんな大事な局面に邁進しているとも知らずに「誓い」のことばを発している人がひょっとすると少なくないのではないのだろうか。
日本の場合しかし証書と証人のことばが異なる事実を示している場合、どちらが有効かとされたのだろうか。1084年の事例では文書優先、それではヨーロッパ中世はどうだったのだろう。書き記された文字自体、人間の手に届かぬ聖なる領域へ扉を開ける鍵とみなされた。ただしその内容を理解するために声を出して読み上げることが不可欠だった。これによって聖性を帯びたからである。
今でもヨーロッパの高等教育機関で「口頭試験」が極めて大きなウエイトを占める。教育はまず第一に口頭で論理的にその知識を説明できる能力の修得を意味しているからかいなかである。
写真は蒲郡市常設展示灯具展より

2008年2月5日火曜日

ダンディ


ダンディの服は懲りすぎてはいけない:物語イギリス人 小林章夫著より
皇太子時代のジョージ4世と出会いはブランメルが少年にしては妙に落ち着いて若者であった頃であった。この優雅な物腰な人間がオクスフォードを卒業する時に、「卒業のあとどうするか」と尋ねることからはじまった。皇太子は近衛連隊への入隊を約束した。この稀代なダンディとして一斉を風靡した人間の衣装哲学は「街を歩いていて、人からまじまじと見つめられるときは、服装が凝り過ぎているときである。」控え目こそが肝要、あらゆる奇矯、意外な色彩、大胆すぎる裁断などは、ブランメルが一番嫌ったものである。当時としては地味な古典的服装を、完璧に着こなしをするまでには、涙ぐましい努力があったことは忘れてはならず、そして努力のあとも全く見せないことが肝要なのである。彼の着付けの儀式は2時間かかるが、その支度の中心はネクタイの結び方であった。ネクタイの折り目をキチンとするために、軽く糊つけした布地を用い、シャツの襟ときちんと合うようにネクタイのひだの微妙な調整をおこなう。これは相当にデリケートな作業で失敗することも何度もあった。衣装によって目立つのではなく、着こなしのうまさをこそ誇ること、派手な模様は寄せ付けず、上着の素材は色彩において地味だが、目で見て立派であること、身体にぴったりとフィットし、身体の自然な線に従うこと、こうした美学が実地に生かされるためには、長時間の身仕度と何よりも体型を一定に保つことが要求された。寸暇を惜しんでブランメルの指導を仰いだジョージ4世はこの最後の点で失格者となり、国王とは喧嘩別れすることになる。そして国王に対しても超然たる眼差しを向けたブランメルは周囲から見捨てられ、うとんじられた。その後パリにすんで不遇で不幸な生涯を終えた
だが彼の服装哲学はその後のイギリスにも受け継がれた。
ブランメルが日本の今をみたらどういう顔をするのでしょうか?

2008年2月4日月曜日

キマル


岸田劉生の「旧劇美論」という書物があるそうです。
旧劇とは歌舞伎のことである。画家なので色彩美、とくに赤の色の使い方が、西洋的な美感からいえば野鄙ということになるが、そこがおもしろいのだというような主張をしている。その本のなかで歌舞伎の型についてさすがに鋭い指摘をしている。歌舞伎において一つのアクションが「キマル」とき、役者が例えば腕をぐうんと伸ばす。この場合力は内から外に向かって動いてゆく。だが力はそのまま無限に動いてはゆきはしない。腕が伸びきったところで、力は反転して、てのひらが反り、キキーッときしむほどに「キマル」のである。この必ず反転して歪んだ形にならないと「キマ」らないのが歌舞伎の特徴だと岸田はいう。西洋のバレーの場合はこれと反対に「放射しっぱなし」に外に向かう。無限のかなたを目指して動いてゆくヴェクトルの方向である。これは劉生にいわせると、確かに美しいけれど、「味が薄い」という評価をしているという。竹内敏晴著「ことば劈かれるとき」より
なんとなく感じはわかるような気がしますが、実物の演技をみてみたいものです。
写真は蒲郡市博物館絵手紙展より

2008年2月3日日曜日

キャピタルゼロ


一般のイギリス人は仕事を始めるとき、「キャピタルゼロ」。ビジネスは無資本から始めるものと思っているんだ。あるといえば資本は唯一自分の腕だけ。私達が考える「TOEIC何点」とか「宅建免許」といった正規の資格ではない。それは誰でももっている個人の能力をさす。たとえば人に友好的、よく気がつく、料理がすき、手先が器用、安全運転をするなど書き出せばキリがない。そこから仕事を立ち上げる。
先ごろイギリスのテレビ番組「タイムセーバー」時間節約人という仕事につく女性が紹介された。これは多忙な人々に代わって贈り物を選んだり、コンサートもチケットを手配したり、別荘を探すなど依頼人の日常の雑務を代行し、時間を節約する新種の使用人だ(ネーミングが便利屋とちがい優雅な執事の仕事に聞こえる)
依頼人の好みを十分に把握し、食品から生活用品・ドッグフードやときにはクリスマスプレゼントまで買い揃える。「パーソナル・ショッパーズ」はイギリスではミドルクラスから高齢者まで多忙な人たちの助っ人となっている。これには資格はいらない。人の気持ちがわかる常識人であれば誰でもできる。2時間2000円で1月で約2万円の出費でいつでも必要なものが家にそろうなんて有難い、銀行勤めをする多忙なシングルファーザーは言う。イギリス人が考える自分のスキルを生かした無資本ビジネスはストレスも生じない。たとえば町角のベーカリーで「イチジクとクリームチーズのタルトがあったわよ。と依頼人に教えると、おいしそうだから今度買っておいてと頼まれる。買っていくとおいしいと喜ばれ感謝される。これって私がいつも家族にしていることを同じです」一般にビジネスを始めるといえば、まず資金を作り、名刺を作り、事務所や店舗を借りなければと金策が先行するが自分を売りにすればもっと簡単なのに、日本人は形から入ってしまうケースがままある。それではどうやってこの仕事を求めている人と出会うかは書いていないが、身近な友人、知人の情報から得てゆくのではなかろうか。
イギリス人の格:井形慶子:集英社より
写真は蒲郡市博物館絵手紙展より

2008年2月2日土曜日

チョコちゃんのこと




この本はマイミクのあけみさんにのっていた本です。:「ことばが劈(ひら)かれるとき」竹内敏晴・思想の科学社
<凍りついていた喉がどうなったか>
チョコちゃんは心身障害児施設の療育施設にいる小学校6年生ですが、3年生位にしか見えない。声はでるが言葉にならないし、「知能指数不明」で発育遅れとして入学した経過をもつ。毎朝の合同の体操のときの体の動きや昼飯時の表情の豊かさや反応のしかたから見ると、学習能力はそうは低くないのだろうという職員の意見は一致して遅れの軽い方に編成替えになったのが3年生の時だった。
 ただ「アー」と声を出す稽古なのだ。「正面の黒板を付き抜けて隣の教室の伊藤先生のオデコにアーのこえをくっつける」という課題が第一(気持は隣に届くように)。正面を向いたまま、第二は頭上の蛍光灯に(気持が同様に)、第三はやはり正面を向いたまま、後ろの壁を突き抜けて秋山先生の教室にアーを入れる(気持は同様に)つまり後頭部から声が届かすようなイメージの練習である。チョコちゃんは五,六回稽古しただろうか。はじめは「ア、ア」と途切れ途切れの声しか出なかったのが一回ごとに長く張りのある「アー」になっていた。ニコッツとして伊藤先生のオデコに向かっている。「こんどはどこ?」と聞くと、ンキ」電気という。天井の蛍光灯のことをいっているのだ。自分で課題を決めて「アー」と集中する。みんながつけたがるのは特別のチューリップ型だ。これをつけた日直の当番は指示・伝達・司会をみんなの前でどの子も不自由ながら、いやおうなしで話したり問いかけするほかにない。この小柄な幼いチョコちゃんにはこのチューリップ型を幾日でもつけておいてやる。「・・・つ」とかの号令に問い返しもせず、皆も自分も澄まして起立する。こういう雰囲気に安心したのか活発に行動するようになってきた。そして朝の「アー」の息のよさ、集中のよさではクラスの第一人者になった。このように学習能力を発揮してゆくチョコちゃんは、予想どおり、力のある子だった。が意外なこともあった。いろんな面でハキハキしてしゃべれるT夫君は本気なくっきりしたこえで“黒板を突き通すことがなく、自信なげで低迷している。T夫君を労わって評価すると、彼は、すこしはうれしそうだけれど、ほかの子の発声ぶりには及ばないと彼はすぐ困った表情になる。<頭の皮で考える>どまりの教化作業であった面が多いのではないか。
夏のある朝、チョコちゃんがあんまりきれいに「アー」の声をだすものだから”アイウエオの歌”をもう歌えるのかなと思いついた。促すとたんにカスレ声になり、「アッイッ」で途切れてしまう。何回繰り返してもおなじ。おかあさんのはなしでは<大家族内の嫁として身のちぢむ思いのなかで育てたことが敏感にこの子に響いたのだ>し大学付属病院でも「そのうちなおるのをまつほかない」とい診断。”隣の先生のヒタイにくっつけよう”というのが<からだ=心を劈(ひら)いて先生のヒタイに届いた。それをまわりでは”声が出た"とみた。ところが“アイウエオの歌”は彼女にとってはなんの欲求も持てない。ちょうど村祭りのあとでタイコを見たり聞いたりしたばかりだから“タイコの歌”を「クラスで歌うことにした。ミナコちゃんと言う子が胸のあたりで小さく指で打つ時はこれをを見習って、「小さいタイコはトントン」と、逆には「大きなタイコはドーンドーン」と。10日ほどして一人ずつ歌って、チョコちゃんの番「オーターコ、ドーンドーン」とにこにこうたった。春五月にはおっかさんが「チョコがいっぱいちゃべれるようになって・・・」と変化を話してくださったものの、正直のところ判断のつかない発音のままだった。それが”タイコの歌“以来ときどき明瞭に発音するようになった。ある日の放課後、他クラスのチョロチョロさんが教室にはいってきたのをおおきなこえではっきりと「ノリユキ、出てゆけ!」と叫んだ。
写真は蒲郡市博物館での全国絵手紙展より

2008年2月1日金曜日

街を作る心


函館の色彩文化を考える会は次の趣向を考えた。洋館は外装保護を兼ねてヒンパンにペンキの塗り替えをやる。この塗った歴史をたどるためにサンドペーパーでこすり出し、年輪のように浮かび上がらせるということを実行にうつした。これが1991年トヨタ財団主催の“身近な環境を見つめよう”というコンクールで最優秀賞を得た。その受賞賞金2000万円を山わけしないで、1993年に北海道の認可をえて、「公益信託・函館色彩街づくり基金」が誕生した。これに法人や個人や寄付金を加えて信託財産としてその果実を美しく豊かな函館をつくる市民団体に金銭的支援につかおうというものである。過去の町並みの遺産に頼り過ぎることなく、新しい知恵を盛り込む発展的思考の基金になった最初だった。
町並みつくり物語:西村幸夫著・古今書院より
写真は蒲郡市博物館絵手紙展より