2008年2月26日火曜日

横浜公園物語




横浜公園物語:田中祥夫著・中公新書
●現在私達のまわりに人々に愛され自慢されている公園は多い。
中でも封建期の遺産である上野公園(東京)、円山公園(京都)など社寺の境内や3名園(水戸、金沢、岡山)は旧藩主の庭園をルーツにもつ。
我が国の公園制度は1873年(明治6年)に始まる。ところが開港前の横浜にはこれらのルーツに見合う大寺院や城郭もない。
森鴎外の作詞の市歌に「むかし思えば、苫屋の煙、ちらりほらりとたてし処」というような半農半漁の貧村だった。横浜の3公園の山手・横浜・山下と1私園(三渓園)の誕生のいきさつ。幕末の横浜(震災前でも湿地の埋め立て)は井伊直助大老の命令で3ケ月でつくられた。
●本牧の三渓園は原富太郎という商人が各地から集めて開いた庭園で、彼は豪商、美術収集家として語られることが多い。実は彼は田園の街づくりを手掛けたデベロッパーでもあった。旧燈明寺三重塔(関東最古で室町時代のもの、京都から移築)などがある。和辻哲郎の「古寺巡礼」の出発地がこの三渓園であることは余り知られていない。
山下公園は関東大震災のガレキ捨て場の上につくられた。この公園のなかには復興記念横浜大博覧会がもようされ、船溜まりを利用し、開催期間だけ鯨二一頭を泳がせていた。生けどりや運搬の途中で死んだり生簀にいれても三・四日で死んだり鯨館がひらかれたのは60日間のうち5日間だけ、生簀にはいったのは12頭、生還したのは1頭だけであった。この中にインド水呑台があるが、関東の絹が激減し、震災後絹織物の扱いは主流だったインド商は神戸に移ったが、日本絹業協会(会長原富太郎)貸し商館16棟をつくり、入居者は神戸から戻ったインド商がほとんどだった。これに礼として児童らの水呑み台として利用してくださいという建物だった。
●寿命15年のところ倍も働いた氷川丸が係留されることになったが、船=運輸省か建物=建設省かの認定の難問:分かれ目は土地に定着するかの判断次第であった。市役所は建築物には該当しないが宿泊施設にもなるから建物同様の安全に配慮くださいのお願いがあった。それでこの建築基準をクリアして「船らしさ」を保つ改造方法如何:通路・客室・トイレなどの衛生・避難の規定にてらし改造し昭和36年公開された。これが走りで各地に船の係留が広まった。長崎のオランダ村で水上シアターは建築申請することで建設省の意見が優先されるようになった。

●山下公園は関東大地震の復興計画は国と地方自治体の都市計画(神戸は市単独)だった。内務省の技師であった石川栄耀(ひであき)はロンドンに渡った。先覚者のアオンウイン博士の水辺につての教えを乞うた。「君のプランにはライフがない。水際は市民の命だ。」とうじ海際は工場や埠頭優先の考えだった。都市景観といったことより効率第一の時代だった。
●「ガレキの山を山下公園に」の意見は横浜に長く住んでいた外国人マーシャル・マーチン(英国貿易商人)ともいうが捨て地として根岸の海岸、新山下町~小港、神奈川方面の3ケ所だったが追加された山下部分はふくまれていない。ガレキの多い港周辺からは遠く、大きな壁体などの運搬は困難だった。市役所は捨ててから公園にしようとしたのではなく、公園構想が先で、これに適したのが山下部分という見解が正しそうである。
写真は中東文化センター展示品

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