2008年2月29日金曜日

横浜公園物語その2


●横浜に井伊大老の銅像が建てられた訳:彦根の人たちが大老の建碑に立ちあがったのは1881年(明治14年)銅像建設まで実に28年の歳月がかかっている。薩長中心の藩閥政府に妨害されて、予定地が四転している。
当初は東京・上野公園→東照宮祀官から申請された先は農商相は西郷隆盛の実弟従道であった。隆盛は井伊大老の行った安政の大獄の犠牲者だった。
(しかし後には上野公園に隆盛の銅像はできた)→日比谷公園(このときも従道が内相で反対)→旧藩士の運動があっても内閣の反対で候補地が特定できない→内務大臣の管轄外の横浜とした。除幕式は一九〇九年(明治四二年)、旧臣らは羽織袴で参列したが、晴れの舞台にならなかった。開港50周年祝典に合わせ7月1日に行うところであったが、伊藤博文、井上馨の元老大臣の異議があって訓令を出された神奈川県知事の周布公平(元長州藩士)の指示で中止に追い込まれた。この記念日にやるのはもってのほかであった。この祝典と切り離され10日後に行われた。これから5年後(1914年)市がこの銅像の寄付の条件に旧井伊家家庭園で私園であったのを公園として設置することになった。
(この公園は掃部山公園・西区紅葉ケ丘:桜木町駅徒歩10分)

大江橋:大江卓という人名前は桜木町駅前の「大江橋」に残っている。大江は土佐藩出身で幕末「陸援隊」に入り倒幕運動に参画する。(坂本竜馬とはあっていないが竜馬の妻おりょうとあっていた時竜馬が暗殺されたときだった。)大江は倒幕運動で長州の伊藤博文や陸奥宗光を知る。この陸奥が県知事になったとき高知藩出身は冷遇されていたが、陸奥の片腕となって働いた。
彼は正義感のつよい人だった。彼を有名にしたのは、奴隷解放を実現したマリア・ルス号(ペルー船)事件である。横浜に寄港した同船には232名の清国人苦力(クーリー)が乗っていた。我が国がこの事件に介入するかどうか、政府内で意見が分かれる。大江は人道的立場から同船の摘発を主張。結局大江らの意見が入れられ、彼はこの国際裁判の審理を自から裁判長になって、清国人全員の解放に成功する。このとき清国側から大きな旗が贈られた。畳4枚ほどの大きさに圧倒されるそうです。神奈川や横浜の街の土台づくりに奔走し、近代日本を維持するための警察制度を作り上げた。その後、陸奥のあとを継いで県令となる。
写真は中近東文化センターの展示品より

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