2007年8月31日金曜日

黄禍論は雇用環境の面も

黄禍論は雇用環境の面も
ハワイは今常夏観光地として穏やかなところです。往時は移民や真珠湾攻撃などの歴史も秘めています。米国大陸横断に不可欠な鉄道施設の労力で安い労働力としてまず求められたのが中国の苦力であった。 当時太平天国の乱で国土が荒れ職を求めて米国に出たがる者が絶えなかった。かれらは搾取に甘んじ、低賃金でもよく働いて白人労働者を脅かしただけでなく、西洋人とは異質な生活を固持した。弁髪をきらず、自分たちだけで固まって、「チャイナタウン」を作り、賭博や阿片吸引をいっこうにやめようとしなかった。こうした中国人の態度は白人社会の反発を招き、同化不能な移民として「チャイニーズ、マスト、ゴー」の黄禍論へと広がっていく。 不況がしのびより、失業者が出始めると、労働者団体が率先して中国人入国反対運動を始めた。次第に入国数が制限され、1886年、ついに中国人移民禁止令がでた。アメリカの移民制限に初めて人種問題が顔をだしたケースである。   ハワイのオーラアというところは樹やシダ類の潅木が密生したジャングルだった、10年ほどコーヒー栽培されたが、降雨量が多くて失敗、この気候は砂糖きびに適するものであった。ハワイ糖業にとって、そのスタートから最大の弱点は労働力であった。 中国人移民禁止令の1886年頃ハワイにきび畑に残っていた中国人労働者はかつての4分の1にすぎず、ハワイ糖業者は中国人に代わる安価な労働力として、日本からの最初の応募は明治元年博徒などの労働者とはいえない350名の応募者があってがっかりされた。 17年の空白をおいて日本人に改めて目がむけられた。日本人は中国人に劣らず懸命に働いたから各耕地で日本人を欲しがった。「マカロニ、米、馬、らば」と同列にかかれた注文が殺到した。又ハワイも米国法のもとに組み入れられたため、契約移民が即時自由になって、労働条件のよい米本土へ流れ出す。 当時のカルフォルニア排日協会のパンフレットによると、「低賃金をいとわず、愛国心強く、故国に送金ばかりで米国経済に還元しない。英語を覚えようとせず、固有の文化を捨てない、「立小便、花札・賭博ETC」に対する嫌悪感は好況のときはともかく、いったん不況になると、白人労働者が日本人移民をターゲットにするのは、中国人苦力排斥とときと同じ構図であった。その後も太平洋戦争のとき、米国民なのか日本国民なのかの選択を行動でしめすべきことを迫られていた。   日本の陰謀・ドウス昌代より   イエローポスト