2008年10月31日金曜日

馬の目に涙


馬は乗ってみたい気持があるが乗ったこともない。数年前になるが写真でみたサラブレッドの姿の美しさを実物でもみたいということで、府中競馬場にいったことがあったが、他の競馬場でのレースを大スクリーンでみているだけだった。小生はダービーだけお付き合いで23度買ったことがあったが、からっきしだめな成果だった。見ているだけでつまらないということで、家内が1・2.・3位を当てる当てるには難しい3連複というのでしょうか、100円一枚を当てずっぽうに買ったら万馬券で1万円以上になってビギナーズラックとことだった。でもそれ以来お付き合いは遠のいている。

興味本位で手にした「馬は、レースで自分が勝ったか負けたか、果たしてどこまで分かるのだろう」に惹かれて手に取って見た。


今にして思えば、彼らサラブレッドの感受性やと知力を随分みくびっていた。

昭和60年には五冠馬となっていたシンボリルドルフは故障あがりで6ヵ月ぶりのレースだったがそれでも圧倒的な一番人気に支持されていた。そのときの天皇賞レースで最後の200mでいとも簡単に先頭にたち、大観衆に“六冠馬”と思わせたルドルフをゴール前で一瞬にして伏兵ギャロップダイナがかわした。よもやの二着となってやぶれたのである。

気まぐれな“勝負の女神”は思いもよらぬ悪戯をするものだと実感しながら、ルドルフの馬房にわたしは足を運んだ。そのときちょうどルドルフが厩務員

に引かれて戻ってきた。ルドルフは、2つの大きな瞳いっぱいに透明な液体をたたえていた。傍で写真家の今井寿恵さんがシャッターを切る音がした。彼女も頬を濡らし、肩を小刻みに震わせながらカメラをむけていた。ルドルフの騎手・岡部幸雄はかつて私にこう語ったことがある。

「馬の性格を大別すれば二種類あって、走るだけ走るタイプと、小差でも勝てば充分というタイプ。ルドルフは後者の代表だね。」敗北の馬房でルドルフが流した涙は、ゴール寸前で気を抜いたことへの悔恨の現れだったのだろうか。人間が繰り広げる“賭博のドラマ”は無論彼らサラブレッドとは無縁の世界である。ルドルフの涙に接した後、わたしの関心は“馬の思い”へどんどん傾斜していった。

馬は誰のために走るか:木村幸治:祥伝社

写真は素材より

2008年10月30日木曜日

ユダヤ人③さらに生き延びる


昨日は成蹊大で中国と沖縄の映画という催事があり行ってきましたが、山形の叔父が関連している山形の映画祭の協力によるものだということが分かった。

文化大革命を描いた「私の紅衛兵時代」監督呉文光の上映でした。理不尽な革命でしたが、ピーター・フランクルさんの父上も同様でした。

ユダヤ人③さらに生き延びる

ハンガリー人のファシストはユダヤ人を見つけると、そのときの気分次第で銃殺してしまうことがよくあった。正式な身分証明書をもっていない父にとってブタペストはあまりに危険に満ちていた。そこで強制収容所にもどり、やがて終戦を迎えた。しかしハンガリーの兵隊とともに、ソ連の捕虜にされた。健康状態の検査があった。健康と診断されるとソ連に連行されるのだった。

今度は南部のソ連軍の強制収容所にいれられることになった。道すがら父はオーバーコートと「ハンガリー・ロシア語辞典」と交換し、ロシア語の独学に励んだ。つぎにパンと引き換えに赤十字マークのついた腕章を手に入れた。

収容所にはからだの弱い人だけが残っていた。ここの看護卒が父の腕章をみて

医者だったら自分の梅毒を治してくれないかと頼まれ治した。

父は連行される途中で知り合ったハンガリー人のトコディを看護卒にしたてて、毎日治療を行った。トコディは大柄で頑丈な男だったが、健康診断のときに湿疹ができていていたので、別の梅毒を治してあげた看護卒が触ったら「できるだけ、大声で叫びなさい」と教えた。その通りにしたらソ連行きを免れることができた。以来彼は絶対の心服を寄せるようになった。ここでソ連人の収容所長の胃潰瘍を手術した。この手術で父の地位は確実なものになったが、失敗していたら、きっと殺されていただろう。

収容所で死亡率のきわめて高いチフスが流行した。

父はシラミに噛まれるたびに、しらみをテーブルの上において調べた。ある日シラミがのろのろしか動けなかった。チフス菌に感染していたのだ。

トコディに「ぼくもチフスになるよ」といい、そして治療方法を教え、けっしてあきらめないように頼んだ。トコディの必死の看護にかかわらず、1週間後に父は意識不明におちいった。やせ細った父を見て周囲の人々は死人として扱おうとしたが、けっして諦めなかった。さらに一週間後に父の意識は回復しその2週間後には人の手をかりて他の病人の治療を再開できるまでに回復した。

世界青春放浪記:ピーター・フランクル(世界的数学者、大道芸人、11カ国語を話す、ハンガリー生まれのユダヤ人)

2008年10月29日水曜日

買い物難民





厚い布団にしたら重みも温かみの一つで、よく眠れました。

知りあった「ふれあい」を主宰している人が不便を感じているのは団地内の総菜やや近所のスーパーが閉店して困ったということでしたが、それらの人々の立場にたって調べた記録をみつけました。

買い物難民:大月書店:杉田聡より

豆腐さえ買うのに、バスやタクシーに乗らなければならないなんて。

バス停まで遠い。首尾よくバスに乗ったとしても、そもそも、豆腐の値段以上になるバス代を払って買出しにゆかねばならないという現実に目入ってくる。タクシーを呼べば楽だが、豆腐代の10倍(!)もの料金を支払わなければならない。この女性は電話口で涙ぐみながら、こう述べたのである。昔はすぐそばで買えたのに、豆腐一つハガキ一枚買うのにバスなどに乗らなければならない。

自分の家から500m以内には個人商店はなくなって、コンビニ店の閉店やスパーの統廃合による閉店もあり、群馬県渋川市のような地方都市の場合で買い物の距離が従来とくらべ距離は倍になっていて1.2km。そこでも郊外に近いところでは82年と比べて、4から5.5倍であるケースもまれではない。

買い物に片道20から40分も費やす人もいるが70歳ともなると重くて腰もいたいので辛い。雨風のときは片手になるのでとくに大変。長雨のときや真夏の時は家にある残りもので我慢するのでしょうか。杖をついている人は傘と両手が塞がれる。シルバー買い物車を押したり、荷物を背おう人もいる。道路横断がまた大変で危ない。大型店の付近は駐車場に出入りする車や自転車が頻繁にとおるのでこれを回避するだけで大変なのだそうです。歩道がない道も結構多い。道の段差も結構負担になる。信号がある横断歩道を利用すればよいわけですが、そうでないところを渡るのは体力の消耗を抑えるために、出来るだけ距離短くする意図があるからでだそうです。車を運転していて危ないのにどうしてと思っていた。

バス停まで歩くが大変、帰りは荷物が重いので、200m先のバス停から自宅まで3回休む。病院に通うのに、「乗るバスがどこに停まるか、いつもとても気に病む」というのはバスが縁石からすぐ乗り込める場所に停まってくれると、「うれしくて涙が出る」ほどだという。けれども、歩道から車道に降り、そこからバスに乗らなければならない場合、それが至難だという。低床バスが来る時間帯を覚えておいて利用したりもする。一度青壮年層は、上着の左右ポケットに1kgの重りをいれて、両膝、両足首を手ぬぐいで巻いて固定したうえで、20kgの荷物を背負ってバスに乗り降りしてみると、高齢者はそのような負担をかんじつつ、バスを利用しているのだそうです。近所の子供に頼むにしても、必要以上に遠慮しているのか、出来るだけ自分でやりたいという意思が強くなりがちのようです。

 金曜日市場→リヤカーの豆腐や・買い物バス→コンビニバス、→買い物スーパーなどや、自分たちで「なんでもや」を作っているグループもあるようです。

2008年10月28日火曜日

ユダヤ人②生き延びる


今朝は放射冷却でしょうか、朝の肌寒さが一段と違います。このあたりはハナミズキだけは赤くなっていますし、山々のもみじも一層いろあざやかに

なることでしょう。弓の先生が銀杏を片手に盛る位ですが、皆に配ってくれます。小粒ですが、新しいので美味しいです。それで教わったのは薄い紙の封筒にいれて

表面に霧を吹いて濡らして電子レンジにかけると、割らないでもよいようです。

ユダヤ人②生き延びる

44315日ドイツ軍がハンガリーに侵入した。ドイツ軍のためにソ連に赴いたハンガリー軍の8割が戦死した。ユダヤ人部隊はまともな靴さえ支給されず、そのほとんどが戦場で殺された。この時期ハンガリー(この国のファシストはユダヤ人を見つけると、そのときの気分次第で銃殺してしまうことがよくあった。)のユダヤ人は生きて戻るあアテのない強制収容所に送られた。祖父と祖母はハンガリーが完全にドイツ軍から完全に解放されたあと、戦争が終わる1ケ月まえにオーストラリアで殺されてしまった。とうとう父も強制収容所に送られ、銃殺される40人が壁にたった。父は壁の一番端にたっている人に声をかけて立つ場所を代わってもらった。代わってくれた人はどうせ死ぬに決まっているにだから同じじゃないかと譲ってくれた。この視察にきたドイツ人将校は自分の運転手相手にチェスをやっていた。それがみえたので、この将校に、ドイツ語でどの駒を動かせばいいかを教えてやった。将校はドイツ語が話せて、チェスが出来る父(医者)にびっくりした。どうやら運転手は役不足だった。運転手に代わってチェスの盤の前にたった父は、自分が勝てば「バカなユダヤ野郎にやられた」と思うのを予期して、勝負を引き分けにすることにした。2回目のゲームの途中ハンガリー人の看守がお前も来いと呼びにきた。将校はハンガリー語が分からないので何をいっているか尋ねた。父はドイツ語で「こっちに来い」といわれたといわないで「ドイツ人とチェスをやるな」といわれたと答えた。怒った将校は看守に拳銃を向けて「とっとと行ってしまえ」と命令した。しばらくして銃声が聞こえた。父の顔色が変わった。

将校も真意がはっきりと分かった。  続く

世界青春放浪記:ピーター・フランクル(世界的数学者、大道芸人、11カ国語を話す、ハンガリー生まれのユダヤ人)より

2008年10月27日月曜日

山本有三記念館


最近は博物館巡りをしています。

山本有三(栃木の呉服屋の生まれ)記念館にいきました。解説ボランティアの人が熱心に説明してくれるのでしたが、見学して湧いた疑問についてではなくて、頼む前から説明してくれるのでしたが、台所とか、お風呂とかの場所、1階には暖炉があって温かそうですが、2階はどうしたのでしょうかと今頃疑問が出てきました。

この西洋風の大邸宅(132坪・土地1000坪以上)は1946年に米軍に接収されている(鳩山邸なども)。その後この屋敷ごと都に寄贈したのだそうです。

玉川上水のほとりに建つ、旧山本有三邸である「山本有三記念館」は、大正末期の本格的な欧風建築で、晩餐客がくつろぐドローイングルーム(応接間)や、個性的にデザインされた3つのマントルピース(暖炉)があり、壁やドアにも装飾的な細部を持ち、三鷹市の文化財にも指定されています。

「路傍の石」※が門の前に置いてあるが、石ころではなく大きな黒くて3人で抱える位の大きな石だった。(写真白い門の前中央)


1974年(昭和49年)の朝日新聞1月13日号は山本有三が逝去されて3日だそうですが。

長谷川町子さんのサザエさんのマンガ:

お父さんが新聞をみながらつぶやいたのは「又明治の灯りが消えた。子孫に美田を残ずは私と同じ主義だ」

カツオ君聞きのがさず、我が家では「」と「」の違いがあると。

お父さん、カンカンになってカツオ君をポカリ叩こうとする。

おかあさんが間に入って必死に止める姿。

※路傍の石主人公の愛川吾一は勉強がよくでき、級長を務めるほどの優等生で、中学への進学を熱烈に希望していたが、がならず者で

貧しかったために呉服商に奉公に出されてしまう。

勉強をしたい一心で奉公先から逃亡し身寄りのないまま上京、様々な紆余曲折を経ながら人間として成長していく姿が描かれている。

吾一の生き様は、山本自身の生い立ちと重なる部分も多いが、本人はそれを否定しており、実際、細部において山本の生き方とは異なる。

2008年10月26日日曜日

自分の顔に似る


昨日は陶芸の日でしたが、ちょっと刺激気分転換で、くにたち郷土文化館で人間国宝・陶芸作家「故三浦小平二」をみてきました。

「青磁」の作品でした。とてもいい色でした。アフガニスタンの澄み切った青空、バンディアミール湖の青き湖面、風のささやき、人々の営み、大地を歩く

動物など旅に出会った感動を表しているそうです。作業場も再現していましたが、壊した作品や試作品も数多く並んでいました。この青磁の作品は窯の温度が高い

温度ではなくて1250度以内の近辺でないと良い色がでないそうです。又これはというものは100個作って1個しかできないそうです。壊した作品を見ると微妙に色が濃かったしてうなずける

ようでした。午後はいつもの公民館でわれらが作業でした。蓋付きの器を真似してみると、当然ながら程遠いのは当然ですが、自分でやってみると、

その偉さや才能は天賦のものなのだということが分かって気持ちがいいのです。

 一人人物を描いている中年の男性が写真の若い女性をみながら、顔の塑像を製作していました。そのうち横でみていた人が、その男性の一部にも似ている

いいだしました。なるほどちょとだけですがそんな気もしました。ある造形の素養のある人が「自分の顔を一番みているからなんですよ」と言いだした。

画家も自画像はよく描くようですが、どんな気持ちで描くものでしょうか。

三浦小平二作品は

http://www.nihon-kogeikai.com/KOKUHO/MIURA-KOHEJI/MIURA-KOHEJI-SAKUHIN.

2008年10月25日土曜日

ユダヤ人のこと①


僕が11ケ国語を話す理由というタイトルに惹かれたこと、もうひとつはNHKのFM放送の土曜日AM715から900までの「ウイークエンド・サンシャイン」での幅広い音楽の名司会・ディスクジョッキーのピーター・バラカンさんも日本語が本当に上手だ。顔の違いはどう違うのかがやっとわかった。まるで兄弟のような顔をしている。

世界青春放浪記:ピーター・フランクル(世界的数学者、大道芸人、11カ国語を話す、ハンガリー生まれのユダヤ人)より

ユダヤ人の国のイスラエルとパレスチナの問題は解決できないほどの長い歴史の問題が含まれている。

1899年フランスで反ユダヤ主義の象徴的事件は陸軍大尉アルフレッド・ドレフュス※1はでっちあげられの売国奴とされた。この大尉の名前を聞くだけでユダヤ人と分かっていた。数年にわたってフランス軍の機密書類をドイツに売り続けたとされたのだ。詳細は※1: http://www.doujidaisya.co.jp/201.htmlと大仏次郎の「ドレフュス事件」。

同じころ、ハンガリーでもチサエスラー裁判というものがあった。チサエスラー村で2人の子供が行方不明になった。ユダヤ人が宗教儀式のなかでキリスト教の子供を刺殺し、その血を飲んだという根拠のないデマによるものだった。アリバイのないユダヤ人の若者が逮捕された。村の反ユダヤ主義者が主張したものだった。当時のハンガリーの人気作家オトポスと弁護士が警察のずさんな捜査を厳しく批判した。やむなく捜査した結果、5km下流の川辺で子供らの溺死体が発見され、刺殺の痕もなかった。この無実が証明されても、反ユダヤ主義がなくなるどころか

「たまたま今回はユダヤ人は関係していなかったけれど、どうせこれだって、これからだって、彼らは悪いことをするに決まっているのだから」反ユダヤ主義は迷信に似ているので断ち切る方法がなく際限がない。

関連:2008・3.12,9・24,9・25,9・29

2008年10月24日金曜日

自転車は車両


自転車の危険回避:自転車は「車両」です!最近自転車が自分でも注意していても危ない。結論はバスの運転手さん並の運転を心掛けるということでしょうか?

その1)結構往来のある歩道でした。進行方向前方右側に人がこちらに向いて歩いてくる。

    当方は左側を自転車で走行していた。店に入ろうとして左側に少し

    寄せたところ、若い女性の自転車が小生の左側にぶつかってきた。

    それほどスピードはなかったものの、小生もそれほどスピードを出さ

ないことにしているので、追い抜こうとしたのだろう。後から追い抜

こうとする場合は鈴を鳴らすべきなのに。

その2)やはり大きな道の空いた歩道でしたが、細い脇道からやはり急いだ若い女性の自転車が停止せず、ぶつかってきた。自転車や往来する人がいないだろうと思ったのでしょう。

    両方共気遣いない人だから、詫び方もあっさりしたものだった。

弓の仲間にも話さすと、その1のケースは進路を多少でも変更する場合は手を上げること。あるいはバックミラーをつける。昼間でもピカピカの点滅する灯りでもつける。

その2のケースは脇道でも一旦停止するそうです。車と同じ運転をしているそうです。

歩行者の場合に黄色信号なら車道には出ないことも心掛けている人もいました。

<道路交通法>

◎車道を走るには車と同じ左側で白線が実線で2本ある場合は通行不可であるが、それ以外は可。

◎歩道は自転車通行可の標識がある場合(あまり見かけたことはないのですが)、歩道で自転車同士がすれ違う場合は左側によける。

▲飲酒運転&一時停止、手放し運転:

3年以上の懲役、または50万円以下の罰金、信号無視は3月or5万円以下の罰金

▲夜間無灯火:5万円以下の罰金、

▲歩行者妨害・並進(2台以上横ならび)は2万円以下の罰金、

◎16歳以上の運転者が幼児1人を補助椅子には可。▲幼児2人以上をのせたらは2万円以下の罰金または科料(大変ですね)。

過料をあやまちりょう、科料をとがりょうと呼び習わす。、過料は刑罰ではないので刑法総則・刑事訴訟法が適用されない。科料(かりょう)とは財産刑の一種であり、受刑者の財産を強制的に徴収する刑罰をいう。同種の刑罰である罰金より小額である。日本の現行刑法では、1000円以上1万円未満とされており、比較的軽微な犯罪に対して科される。科料を完納できない者は、1日以上30日以下の期間労役場に留置される(刑法182項)。

2008年10月23日木曜日

低栄養


毎週水曜日にある介護予防の講座は2時間コースです。

高齢期に考慮しなければならないのは、「低栄養」になることを予防しなさい。元気な人をみると、良く食べています。

この講座を聞いて皆は、栄養の取りすぎを心配されていることはあっても、高齢期にはむしろ栄養が足りないことが問題になるのを聞いてそうなんだと思いました。

75歳を過ぎると、肥満者が減って、低体重者が増加するのだそうです。この栄養状態が「衰弱」「転倒・骨折」「認知症」などにつながるのだそうです。

肥満者はBMI25以上、低体重者18.5未満

BMIの計算方法:体重kg÷身長m(cmではありません)÷身長m

【今までの栄養対策】     +     【これからの栄養対策】

(生活習慣病)              (要介護予防)

肥満対策               やせ対策

エネルギー制限            食品多様化(いろんなもの食べる・

12種類は食べる

塩分制限               食事を楽しむ

コレステロール※

卵はコレステロールを気にしますが、西洋人は血管が丈夫なので抑制すべきであるが、日本人は血管が脆いのでこの卵は大事な栄養源とされるとのこと。

もうひとつ言われるのは水は飲んで下さいとよくいわれる。もちろん体操もあるからだが、自分のよこにペットボトルを置いて行きなさいといわれ、15分置き

位に飲みなさいと繰り返し言われるのでした。体操もやってみると、自分の衰えている状態がよく分かります。

体操の意味、どの筋肉を鍛えるのかがやってみないと実感できないのでした。

2008年10月22日水曜日

番町界隈


私が週1回管理の応援にいっているマンションの玄関の前で皐月の狂い咲きがあった。この1輪だけでなく、辺りを見るとあと10個くらい蕾がああります。桜やつつじや皐月には狂い咲きがあるようですね。

三番町界隈[市ヶ谷]」には、女子高が多い、8時台はセーラー服の女子高校生が歩道の大半は歩いている。先生が8時半ちかくなると

校門付近で「急いで。急いで」というわりに進まないようです。東郷元帥公園には5mの高台にあるベンチに腰をかけてたばこを飲んでいる。同じメンバーではない。

これを過ぎ裏道を通ると、おいじちゃんとランドセルを背負った孫がにいつもじところで出合うところは50mと違わない。

有料駐車場は12分100円=1時間500円はとてもやすいほうで800円が多い。

この界隈の住民の買い物する場所はどんなものがあるかですが、八百屋さん、魚屋さん、ラーメン屋、高級品ではない普通の靴やさんがある、洗濯やさんは毎日来ている。外人専用のマンションには宅配の食料品がきているので聞いてみたら、1万円以上なら宅配してくれるとのことでした。

あの小さなローマ法王のバチカンの大使館もある。EUの大使館もいるが警備員が2名門に駐在している。

駅前の通りでなくとも、呑屋を探すのには苦労しない。濠を超えると神楽坂があってこちらは洒落た店が多い。お濠が近いので千鳥が淵から桜のときは九段まで歩く。

江戸地図でみているが未だ場所が特定できていない。下町なら時代小説に登場するがそういう場所ではないが、起伏にとんでいるので坂がおおい。

近くの老舗では千代田区九段南2-4-15宝来屋という生菓子屋さんは明治元年1868年で武家屋敷だから明治以前の老舗はないことになるが、先の八百屋さんなどは何時からここに住みだしたものだろうか。

2008年10月21日火曜日

昔の手習うた


おはようございます。字を覚えるのに、小さいころは「いってらっしゃい」のつまったところがとても難しかったことを記憶しています。運動でいえば逆上がりも

何度も練習して出来た時のうれしさは思わず自分の笑みがでてくるのでした。

仏教がひろまることによって「ひらがな」が広まるようになったのでしょうか

「いろは歌」は弘法大師(774年から835年62歳)が作った、という俗説は案外信じられていて、少なくともその時代に作られてものでそれも仏教関係の制作、と思っている人も多い

しかし実際にはもう少し新しく、平安時代(794年から1192年の約400年間)の成立であるということはすでに定説になっている。その論拠とされるのが「いろは歌」より以前のもものとして知られる「あめつちの(ことば)」である。【平安時代の初期のことになるのでしょうか?仏教伝来は 538年,(日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年),百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりです。その後,推古天皇の時代に「仏教興隆(こうりゅう)の詔(みことのり)」が出され,各地で寺院建設も始まりました。】

あめ つち ほし そら やま かは みね たに くも きり むろ こけ

ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふせよ えのえをなれゐて

もともとは「手習い歌」(字の練習のための詞)で漢字になおすと、

天、土、星、空、山、川、峯、谷、雲、霧、室、苔、人、犬、上、末、

硫黄(ゆわ)、猿、()ふせよ、()()を馴れ居て

「生ふせよ」は「()ふ、()よ」でもあるというが、ともかく前半は天地、峯谷、

人犬、上末、など巧みに対比させていて、ことば遊びとしてはみごとな構成をもっている。

 色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日(けふ)こえて 浅き夢見じ酔ひもせず   

は「諸行(しょぎょう)無常(むじょう) 是生(ぜしょう)滅法(めっぽう) 生滅減(せいめつ)() 寂滅(じゃくめつ)()(らく)

の意味をあらわす「今光明最勝王音義」(1079年)に見えるところから、仏教関係者であろうことは確かであろう。

「いろは歌」は47音、「あめつちの詞」はえと「え」がふたつある。そのころはア行とヤ行がeとyeが並立していた。

古典いろは随想:尾崎左永子:紅書房より

2008年10月20日月曜日

ドラマ


最近の関心は塩川亮潤大阿舎利の講演※です。

ビリー・ワイルダーはこういっている

 「役者がドアから入ってきたのでは何の意味もない。彼が窓から入ってきたら、ドラマが作れる」

「たいていのならず者国家はミサイル一発で簡単に倒れる」

「味方が撃つミサイルは敵の戦闘員だけに当たる」と信じているらしいのだ。

「男は敵の苛烈な暴行に眉ひとつ動かさずに耐えるが、その傷を美女が手当してくれる時には顔をしかめる」

※12月10日[水]午後1時から

一部は薩摩琵琶:関川鶴祐、

第二部に大阿舎利の講演

JR五日市線秋川駅北下車3分の秋川キララ(042-559-7500

吉野・金峰山1300年の歴史で2番目の千日回峰行をおこなれわれた方

聞いた方のブログ

何かに例えるなら
豊かに実った金色の稲穂のような方だと思います。

澄んだ声で、まるで一遍の詩を語るようにお話され
本当に謙虚で お話も淡々と

2008年10月19日日曜日

ふぐになった鯛焼き


秋の空は天高く、夕焼け雲も絵ごころがあって大きなカジキマグロを描いていました。

中央線の西方向立川駅で五日市線に乗り換え、あきる野市は秋川駅の北側に「あきる野ルピア」のビル1階の出店に人が並んでいる。しかも列が絶えるのは一日500個が売り切れた時になる。写真のような鯛焼きです。これを売っているのはご夫婦の木村さんです。以前たまたま立ち寄って買ったらとても美味しいので、あきる野市にくると、こちらに足が向いてしまう。

売り場のところに読売新聞の切り抜きが貼ってあります。順番を待っている間に読んでみると、タイトルの如く「ふぐになった鯛焼き」とある、鯛焼きがアンコを沢山たらふく食べ過ぎてお腹が膨れていることを表現しているのです。

奥さんが会計をやっていて「ありがとうございます」の一言で、木村さんはもくもくとタイ焼きの鉄板の54個に材料を注ぐに精一杯、定年でなにがよいか考えての鯛焼きだそうです。お客さんに喜ばれ、美味しいといわれるのがとても嬉しいのが何よりだそうです。読売の他にも2紙がはってあったが、誰しも喜ぶことなのでつい紹介記事を書きたくなるにではないかと思いました。

鉄板の型枠からはみ出した鯛焼きは尾っぽの先までもアンコが入って100円です。下手な写真なので大きさがクローズアップされていないのが残念です。

2008年10月18日土曜日

古典の楽しみ


千代田区の図書館にはいわゆる本やDVDやCDの貸出以外にWEBの貸出があるそうです。よく分からなかったので実物を見せてくださいと言ったら説明してくれました。

これはネット上でみる本でした。インターネットを通じて自分のPCに取り込んで読める本なのでした。2000冊あるそうです。2週間過ぎると自動的に見れなくなるし、返却もしなくてよいそうです。

1冊を3人限定でよめるということです。そのうち図書館にいかなくてもよい時代がくるかもしれませんが、本を手にもった重さがないので手ごたえがありませんでした。若いお母さん達がTOEICでお子さんの英語の学習に利用されるそうです。これは日本では千代田区だけとのことでした。千代田区の図書館はこのWEBは別として貸出は区民以外のものでもよいそうです。

林望(通称リンボウさんでしたしまれている。元慶応大学教授、作家、書誌学者)の講演;「古典の楽しさ奥深さ、そして新しさ」から

この人は英国事情に詳しいことで有名になっているが、本来は国文学が専門なのだそうです。高校時代にならった古典にはどうしてこんなにつまらない文法などを教えるのかと大いに疑問に思っていた。一番嫌いなのは現代物だそうです。源氏物語や枕の草紙、平家物語は長い年月を経ても残っている。人間や人生や男女の機微が表現されていて、その輝きはいまだもって失っていないから。現代物は100年後あるいは何百年後にも尊重されているかは時代によって淘汰されてみないと本当に生き残る価値があるかどうか分からない。米国の歴史は1800年代から、英国のシェイクスピアであっても16・17世紀の人です。源氏物語は平安時代中期1000年頃の作品です。

源氏物語は青年の物語です。母国語なら外国語のように辞書を引きながら意味を特定する必要がないので、瑣末を飛ばして読めば大意は分かる(小生にとってそういわれても正直分からない)。

日本は最古のときから男女の恋愛を大事にしてきた民族で、この表現には蘊蓄を傾注している。

枕の草紙の1段目は教科書にのっているように「春はあけぼの・・・」のように宮廷の貴族のあり様を描いているやに思われていましたが、雅の世界を語っているが宮廷のおばちゃんのおしゃべりの物語だそうです。

63段には暁に帰らん人は装束などいみじゅう うるわはしう、烏帽子の尾元結、かためずともありなんとこそおぼゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣・狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りてわらいそしりもせん。

これは平安の昔は通い婚であったので、昼ではなく夕方に暗くなって男性が女性の元へ訪れるときの女性からみた男性の評価だそうです。

薄くらい朝には帰らねばならい男の服装はだらしないのがよい。帯の結びや烏帽子もまがっていたり、グシャグシャであるのは別れるにあたって、キチンと服装を整えるよりも、一時も女性の元を離れるのが辛いということであるのだからそういう姿が見えるのがよい。「早く起きて・起きて、夜が明け姿がはっきり見えるのはみっともないですよ」の何度も催促され挙句に蔀をあけても、床面になにか忘れ物があるか見分けが付かない頃に、女性の耳元に別れの寂しさを囁きながら、引き戸をあけられ風の如くに去ってほしい。元気にさようならは風情がなくて嫌だわ。

一度女性宅を訪問して男性は次に何時くるとも分からないわけだし。(男性も台風の土砂降りで風の吹き荒れるころに訪れてくれると情の熱さが分かってもらえるといういうもの)

73段目のところには女性宅を訪れ情事が終わった途端に急に用事を思い出したように、そわそわ帰り支度をして、あっさりしたサヨナラは何と味気ない人なの、というようなことが書いてあるそうです。彼の高校の先生は生徒に教えるにあたってこういう事が分かっていて教えたのだろうかと思っているそうです。高校時代に入試の試験に通ることよりも、今でもけして色あせていない人間の機微を教えていたなら古典が嫌いということもなかったろうしと。

私も源氏物語を昨年武蔵野自由大学で教わったりした。貴族の世界が分からないといけないということで、イタリアの貴族出身の監督ルキノ・ヴィスコンティの作品「やま猫」のDVDをみたり、田辺聖子さんや瀬戸内寂聴さんの「源氏物語」をかじったりしていました。今度見つけたのは下記のようなCDの巻き数が112ものを図書館でみつけたので挑戦してみようと思います。関西では源氏物語千年の諸行事が目白押しで行われていたようですが、大半はもう終了しているのは大変惜しいことをしたと思います。

紫式部/原作 瀬戸内寂聴/訳 三田佳子/声の出演 中村橋之助/声の出演 山本郁子

ポニーキャニオン

2000

2008年10月17日金曜日

医療は誰のものか


夜の明けるのもだいぶ遅くなってきていて、時計をみながら何時か確認しています。

医療は誰のものか:在宅の現場から見える「いのち」・2008.10.5

武蔵野ホームケアクリニック(武蔵野市西久保)の東郷清児さん(訪問医療医)、の講演から。

まず介護保険の認定者数が6年間で倍増。( )内は2000年を100とした2006年の比率です。

            2000年       2006年

◇介護保険認定者数   218万人(100)     432万人(198

 日本の人口(千人)  126926 (100)    127770100.66

 同65歳以上(千人)  22005100)     26604120

上記のように介護保険の認定者数は介護保険を開始するときも最初から分かっていたのでしょうが、6年間に約倍増している。介護保険料が全国一律ではなく、各自治体によって異なり、サービスの良し悪しは、地方自治体の主に財政状態によるためでもある。改正介護保険法は2006年4月から予防重視をうたっ来た本当の意味は、財源の捻出が大変なので、実質サービスの内容を落とすしかない。それには診療報酬を減らす、介護内容を落とす、在宅診療(報酬を上げて開業医に往診を促す方策→24時間対応を要求されるので期待される在宅療養支援診療所全国で約一万か所の届けをだしているが、3割以上が一人の見取りもしていない。正常に機能していない。)この方式を奨励するなどである。

というとどういうことが起きているかというと、銚子市の市立病院の閉鎖に見られるように、病院経営はほとんどと言っていいくらいもう赤字になっている。一番必要とされる重度の介護や医療を必要とされる患者は敬遠され、医療側は楽な患者や利用者を選択している。医療難民や介護難民が生まれ、利用者や患者の都合よりも提供側の都合が優先されている。さ迷う人が出てきて悲惨な事態を招いている。ある医療機関が閉鎖されると、需要と供給のバランスが崩れて、周辺の医療機関がこれを引き受けてもそこも少ない医師と看護師の人数でカバーすることになるので、深刻な過労においこまれてやがてそこも廃業ということになっている連鎖作用の悪循環が起きている。

今後の療養病床の推移

2006年     2012年

療養病床 (医療保険)     25万        15万※1

老健施設・ケアハウス・在宅             15万※2

療養病床(介護保険)      13万  

計               28万       30万

1は12年には10万床が減るので報道機関は公にしていないが、大変な事態を招くことが予想されている。ベッド数も不足するので終末期は大変になるだろう。在宅死亡率のたかいのは長野県で医療費が低い、同率の低いのは北海道(雪で往診がしにくい)

◇平均在院日数

1985年   2003

日本      54.2      36.4

英国      9.1      6.5

これは在宅医療が不足していることのようである。

◇対GDP比の総医療費支出の国際比較(2004年)

米国15.3、スイス11.8、ドイツ10.9、イギリス8.3、日本8.0、スロバキア5.9、韓国5.3630カ国中21位で医療費を多く支出している訳でもない。

2在宅は医師の訪問医療であるべきなのに、家族のケアに比重をかけているのは家族だから無料であることをいいことにしている。家族は在宅ケアのために仕事をやめ収入源を絶った上で自分の貯蓄等から支出を迫られる。

上記のベッドは行くあてがない人達の退避場所であるというのに、どこへ行くというのであろうか。

無資格でも家族はケア行為をやれるのに、ホームヘルパーに見られるように家事手伝いはできてもケアが出来ない。救急医療も相当緩和されて貴重な生命が救われているというのに。

◇診療報酬は1998年を100として2006年には93.5になっている。

実質GDPは      100として      112.7になっているのに。

これからは高齢者人口の急増、認知症高齢者の増加一人暮らしや老々の高齢者世帯の増加、高齢者多死時代の到来。(本来は自宅に死期を迎えたいが、家族に迷惑をかけるから病院にする人は38%。医師や看護師は2%は延命治療の患者も望まない、病院のやりすぎの医療行為は敬遠)

◇年齢別医療費の割合:65歳以上15.9兆円、0歳から14歳2.0兆円、15歳から64歳は13.6兆円→これで後期高齢者の保険料を別に徴収しようと考えたのだろうと思われる。

まず国の財政が第1、命より金が大事、政策が将来を見据えてではなく、その場しのぎでゆき当たりばったり。日本の国民は従順すぎる。他国なら暴動がおきるぐらいの出来事。

年間六兆円もの道路を作り続けていながら社会保障費は2200億円づつ削減している。以上

2008年10月16日木曜日

やま桜発見



急峻な坂、姿勢が45度後ろに反るように登ると其処は山城でした。

戸倉城は東京の西、あきる野市戸倉の戸倉小学校のすぐ裏山に光厳寺(042-596-0361)がありその裏山一帯が城跡でした。築城時期は不明だが、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱前後に活躍したこの秋川渓谷周辺の在地武士団「武州一揆」の有力者、小宮氏の居城といわれる。その後は北条家の傘下に組み入れられた。ここにある光厳寺は足利尊氏が創建したのだそうです。

 ここの歴史の案内掲示をみて「山桜」をみつけた幹の周囲が5m強もある。

こんなただの一本だけの巨大な山桜を来年是非みてみたい。山城なので見渡すのは五日市周辺の町が見えるとてもよいところです。崖のところに立っていて掲示板がない限り発見できなかった。あきる野市の観光案内にものっていない。ここは尾根つたいに道があり健脚向きのハイキングコースのようだ。

2008年10月15日水曜日

サンバのリズム


まだ浅草でもブラジルから踊る人々がきてカーニバルをやっているそうですが、まだみたことはない。あちこちでお祭りが好きなので阿波踊りが各地で行われている。

南米においては植民地だった故でしょうか、あのサンバやカーニバルが日本の祭りとは異なる逆の意味があるとは分かっていませんでした。

宮沢和史:言の葉摘み:新潮社  http://www.five-d.co.jp/miyazawa/にこんなことが書いてありました。
村上龍氏の作品『愛と幻想のファシズム』の中で「恐怖に勝てるのは興奮だけなんだ」というセリフに出会ったとき、僕はブラジルのサンバを思い出した。貧困と抑圧に埋没している者達が、自らを解放し、歓喜の中に苦しみを隠そうとしたところからサンバが生まれた。現在のカーニバルもその延長線上にある。」一年中働き、蓄え、数日間のパレードの興奮の中に夢をみる。「生」という恐怖を忘れるために、また立ち向かうためにサンバがある。地球上で最も醜いものが憎しみや嫉妬だとすると、僕らはその中でもつれ合いもがきながら生きている。社会の中で生きている限り誰もそこから逃げられない。
タンゴにしても厳しい環境のなかからでてきた物悲しさがありますね。

2008年10月14日火曜日

野鳥写真野外展示会


練馬野鳥の会・写真展が12日(日)から26日(日)が武蔵関公園(練馬区側で西東京市との境で、西武新宿線東伏見南徒歩2分線路沿いで東方面の武蔵関方向に戻る)の広場で60点ほどの写真が展示されていて、好きなものを10点選んで投票する、抽選で当選者に後で送ってくれる。

この企画の面白いのは①野外の展示であること。(雨も降るのに)②この公園には池があり野鳥がいて、この池でカワセミが撮影されている③展示した写真を公園にきた人がどれが好きかを選んでいる→こうして写真撮影する側と公園に集まる人の交流が生まれていること。

④その交流で近隣でどこに行けば野鳥が観察できるかがわかる。これで自ずと野鳥観察のPRができているし、

このグループの楽しそうなことが伝わってくる。

みた写真の中で珍しい野鳥や撮影場所をメモしてみた。

小生もこの公園で池に写真機を向けている人が大勢いたので(この写真展を開いている人々)、カワセミが舞いおりてきているのが分かり、自宅に戻ってカメラをもってきて撮影できました。それは感激しました。2008年3月13日のカワセミのところに写真あります。

ツキノワテリムク(アフリカ、籠抜けした鳥)、ヤマセミ(都下秋川渓谷)、

オオマシコ(茨城県の筑波神社)、アオゲラ(小金井公園)、コマドリ(練馬区光が丘公園)、オガワコマドリ、カケス(練馬区石神井公園)、ミコアイサ(皇居)、

大久保農耕地:荒川の右側秋が瀬公園付近

野鳥の写真http://www.geocities.jp/turtre55/bird/bird/

        http://nyacyouen.web.fc2.com/yachoofram.htm

2008年10月13日月曜日

カストロ


ツポイントのメガネのねじがとれた。これで3回目です。特殊なネジなので、眼鏡屋さんに直しにもらいにいっていた。その眼鏡屋さんで、これに合うドライバーを買っておいた。しかし今度はネジが外れて、行方しれず又眼鏡屋さんにいかねばならない。

東急ハンズを覗いていたら、鼻とめというのでしょうかメガネの鼻に当たる部分にシリコンパッドが売り出していたので買い求めた。鼻ににおさまってメガネがズレナイので具合がよかった。

Wikipediaを見ると

カストロはスペイン移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルギツの息子としてマヤリの近くのビランで生まれた。ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。1944には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945にはハバナ大学に入学し法律を学ぶ。大学では政治活動に参加、革命反乱同盟UTR)に加入する。ギャングにも身を置き、敵対する学生運動のリーダーを射殺するなど「ゴロツキと天才が同居した男」と、周囲から呼ばれた。

他の社会主義政権の元首に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。これは、前政権の独裁者バティスタと同一視されるのを忌避するためと言われている。ただし、革命の同志であるチェ・ゲバラの巨大な銅像をサンタ・クララに建てている。 と書いてある。

下記の宮沢氏の見方と「ゴロツキと天才が同居した男」を総合するともっと調べてみたい人物です。

宮沢和史:言の葉摘み:新潮社  http://www.five-d.co.jp/miyazawa/

フィデル・カストロ率いるキューバ政府は、革命の後から今日まで、教育と医療、そして科学技術に並々ならぬ力を注いだ。国民は自分が望む教育を無料で受けることができる。家も支給される。病院での治療もただ。しかも国民に対する医師の数の割合は我が国の約5倍。エイズ感染者は近隣国の中でずば抜けて少ない。平均寿命、乳児死亡率、非識字率、いくつかはアメリカよりも優れている。「国民誰も平等」というと何か権力者が市民を押さえつけているように感じてしまいがちだが、もしかしたらカストロは資源の乏しい島国で国民全員の教育と技術力と健康を高めることで、国民そのものを国の財産であり、宝であり、これを力にしようとしているのではないか?カストロの肖像や写真は広場にないし、存命中の権力者の肖像などは飾ることが禁止されている。そしてその決まりを作ったのは彼自身なのだ。

2008年10月12日日曜日

バリアフリー


昨日は成蹊大にいったら、小学校の入学案内のオリエンテーションの時期なので父兄の姿がぞろぞろでした。

このころはまだでしたが、再度文化祭をみながら学校の雰囲気を見に来る方も多いようです。

そこで公開の武蔵野自由大学の講座がありました。

「バリアフリー・テクノロジー・ウオッチング」:成蹊大理工学部大倉元宏教授

この講義を聞いて歩いてみると、横断歩道や角、駅のホームが難所は視覚障害になったら、介助者として、ちょっと前に立って両者共平行な歩みをしながら誘導してくれないと無理だということがよく実感できました。しかも歩行ブロックがあるのは駅前だけでした。

視覚障害の見え方:日の丸旗を思い浮かべてください。

中心暗点:赤い丸の部分が見えない感じ→黄斑変性症

周辺視野狭窄:丸の部分は見えるが、白地の部分が見えない。→緑内障

視野欠損:右や左の片側等の一部がみえない

人はわずかでも残っている視覚に頼ろうとする

●盲導犬は自宅の近場にはよいが、目が不自由な方が犬にその都度方向を指示しなければならないので、行き先までの地図のイメージがないと無理なので、全く新しいところや、遠いところまでは無理なのだそうです。

日本に盲人のかたが30万人いるが1000頭しかいないし、飼育や訓練に時間と費用がかかる。

●白杖を持って歩くにしても壁からのエコーを感知できるのは幼児から目が不自由でないとその能力は育たない。

●一人で歩いているときは全神経を研ぎ澄ましているので、あれこれ他からいっても応じ切れない。

●ハイテクの携帯機器があって方向を音声の強弱で示すことができるものがあるが、杖をもっているのに、もうひとつ手にすると、両手がふさがれるので不適であって、歩行ガイドブロック等のローテクの方が使いやすいそうです。

●音源によって方向を示すのはよいが、それがどの位先にあるかの見当をつける距離感までは望めない。

●駅のホームで反対側の到着のアナウンスや電車の音は、自分の立っているホームと思って足を進めたりするので、転落の危険性があるらしい。南北線のホームは、ホーム側にも自動ドアがあって、電車が来たときに開く方式が一番安全だし、他の線にも導入されつつある。

●視覚障害者に役に立つ支援機能(誘導用ブロック・音声信号・道路横断・PICS※)の行政側の対応が道路管理者、警察、警察/道路管理者、警察と分かれている。※携帯端末を持っていると、信号などが近くなると知らせてくれる音の大きな方向に歩けばよい装置。

●音がある方向(音声信号以外の雑音)とは反対側に曲がる傾向がある。大きければその曲がりが大きい。白杖があっても直線で歩くのは極めて難しく、それてしまう。

●歩道には誘導ブロックがあるが、渡ろうとする道路横断帯にもブロックがあると非常に有効なので各地で採用されつつある。

●視覚障害の人を見かけたら、肩や腕に触る前に声掛けしないとびっくりされるそうです。テーブル上の食事のお皿はカボチャは3時のところにあるとかの説明方法等手助けの詳しい情報は次のHPをご覧ください。

http://www.pref.ishikawa.jp/bf/guide/me1.html

2008年10月11日土曜日

『スキヤキ』


昨日は茂田井武[絵本の作家]の生誕100年展が隣の練馬区のいわさきちひろ美術館でありました。絵本も肉筆でかいたものは直接対話しているようで、思い出の駄菓子屋のシーンでは、子供らがお小遣いを手に握りしめて、ワイワイいっている声が聞こえるようでしたし、手元にどれでもよいから原画が欲しくなりました。

宮沢和史(島唄のシンガソングライター、沖縄と南米が好き):言の葉摘み:新潮社より

1992年単身で東南アジアに渡り、ミュージカルの稽古をしていた時のことである。ある国のダンサーと親しくなった。まだその地に慣れない僕を彼らは様々なスポットに遊び連れて行ってくれた。夜が更けてくるとみんなの楽しみは「KARAOKE」。僕はめったに足を踏み入れたことはなかったが、その場に居合わせた客全員が盛り上がろうとするムードが次第に心地よくなってきた。

ダンサー達の一人に「日本の歌をぜひ歌ってほしい」と頼まれた。少し斜に構えて「みんな日本の歌なんかしらないだろう?」という返事をしてしまった。が即座に「『スキヤキ』ならここにいる全員がしっているよと言われたのだ。意を決して日本語で歌い出した。歌い終えると歌の本当の意味を知りたいと彼らはいう。「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」から始まり、決してパーフェクトじゃない英語で最後まで説明した。なんとダンサー達全員が目頭を熱くして黙り込んでしまった。言い忘れたが彼らの多くは同性愛者である。日頃は限られた世界の中でしか愛し合うことが許されない。どんなに誰かを愛してても報われないこともありうる。そうした生き方を選んでいる、それゆえに悲しみに耐え、涙をこらえる場面も多いかもしれない。「上を向いて歩こう」はそんな彼らの胸に、一瞬にしてしみ込み、心を抱きしめたのだ。

歌詞は聴き手が無限に広げてゆくものなのかもしれない。その夜僕は心から思った。「自分もあんな歌を作ってみたい」と。そしてその夜からこのことが自分の音楽人生における明確な、高い高い目標となった。

  http://www.five-d.co.jp/miyazawa/

2008年10月10日金曜日

超清潔病と新素材



ホッチクスを買ってきたら、中身を取り出して、上のカバー、下の台紙、両方を止めているホッチキスの針、3種類あった場合のゴミの分別

は大変面倒だ。それぞれ分解するのは大変面倒だ。買った時に、必要なもホッチキスだけをもらい包装関係は引き取ってもらいたいくらいでした。


藤田紘一郎(東京医科歯科大学医学部教授)

環境問題というと、ダイオキシンや環境ホルモンを目の敵にし、自分たちは被害者だと思っている人も多いのではないだろうか? 自分たちの健康だけに気を奪われ、バイキンを排除し、無菌国家への道を突進しているかに見えるニッポン人。実は、われわれの過度の清潔志向が、環境悪化をひきおこし、一方では、アトピーや花粉症を増やしてきたという。自らのつくりだした文明に飼いならされ、肉体的にも精神的にもひ弱になった家畜化した日本人に、「このままではあと100年ももたない」と藤田先生は警告を発する。

抗菌・消臭は、生物としての自殺

抗菌作用で皮膚の常在菌が弱ると、皮膚に障害がおきる

超清潔志向が、日本列島を汚染している

生物バランスが崩れ、悪玉がのさばる

寄生虫の駆逐によってアトピーや花粉症が登場

免疫力が低下し、いろいろな弊害が

バイキンとの「共生」が21世紀のキーワード

生きているものにはすべて意味がある

家畜化の道からオサラバせよ

人間も自然の一部であり、生き物であることを自覚すること

私がいま研究しているのは、「材料生物学」という学問です。ひらたくいってしまうと、「生物をまねた新素材」の研究です。自然界の生物は、その機能や形態を自らの体で作り出しています。たとえば、魚のエラには水中の酸素を取り入れる機能があるし、キアゲハのサナギは極低温でも凍りません。これらの生物をまねすれば、効率的な酸素富化膜や不凍液がつくり出せるのではないかというのが、材料生物学の基本的な発想です。
 この「材料生物学」という名前、実は私が勝手に名づけたもの


で、学問としても、現在まだあまり手を着けられていない分野です。新しい学問分野を開拓中と考えていただいたほうがよいでしょう。


金属性の光沢を放つ
美しい羽をもつモルフォチョウ
(写真提供/茨城県自然博物館)

 それでも、生物をまねた新素材の開発は、少し以前から、企業によって実用化されるまでになりました。たとえば、クラレが開発した「デフォール」という繊維は、中南米を中心に生息しているモルフォチョウの発色をまねてつくられたものです。モルフォチョウには、きれいな金属製の光沢を放つ羽を持ったものが多く、その発色の仕組みが大変おもしろくできていることで知られています。モルフォチョウの羽の表面は、鱗片状の特殊な分子構造を持っていて、表面に対して垂直方向から見ると輝いて見えるが、平行方向から低い角度で見ると、光沢が消えて、茶褐色に見えるのです。この企業では、このモルフォチョウの特徴に着目して、光を当てる方向を変えると、色が深みを持つ織物を作ることに成功しました。

 これはほんの一例で、動物、植物などの生物のまねをした新素材は、すでに何例も実用化されてきているのです。
 生物をまねた新素材が注目されているのは、生物の機能を形や構造から解明し、その高度な生物学的なテクノロジーを素材開発に応用しようとする新しい発想方法であること。そして、石油からつくられる合成高分子材料のほとんどが、自然には分解せずに環境に負荷を与えているのに対して、この新素材は、同じ高分子でできた物質でありながら、きれいに分解されて自然に戻ることをめざしたものだからです。