薄型テレビを検討していますが、32か37か録画付きで調べている。ブルーレイと有機テレビとか調べている間に知らないことが次々でてくる。3店舗で聞いているが店員さんも機種の多さに困惑していて、調べて質問すると、下手をすると素人の方が知っていることもあるようです。しばらく時間がかかるが、あなたの使用目的に合わせて探しますと言われるが、何ができるのかが分からないのに、使用目的をはっきりとか、通常の放送をして画素1050とか2000とか同じ鮮明なハイビジョン放送でないと、差がはっきりわからないのでした。いつも人気度の順番も参考にして納得というよりもくたびれて決めるかです。しばらく時間がかかりそうです。
「聞く」ことの力:鷲田清一より
小学校で、A君は古い卵と新しい卵を見分ける方法を習ったという。親の世代は表面がつるつるかざらざらか、水に浮かぶか沈むかなどといった外見からの見分け方を習ったとおもうが、A君の場合、割ってからの中身についての見分け方で、黄身が高く盛り上がっているのが新しく、黄身が平べったくなっているのが古いと教わったのだそうだ。後で試験にこれが出た。「図のような二つの卵があります。あなたはどちらを選びますか?」お子さんは即座に平べったいほうと答えた。クラスメートは全員、盛り上がっているほうを丸にした。正解は盛り上がっている方。こちらが新しい(選びますかではなく)ということであった。
A君の場合は平べったい方を正解としたのだった。冷蔵庫から卵を二つ取り出して、賞味期限に差があれば、まず古いほうから食べるのが当たり前だから。それがペケにされて随分傷ついた。
この設問では「どっちが新しいですか?」という問が「あなたはどちらを食べますか?」という問いに当たり前のようにスライドされている。この問いは設問として孤立していて、何のために新しいか古いかを調べるのか、それが分かったらじゃどうするのかという風に、日常生活のうちに位置つけられることがない。この知識は「身につく」ということがないし、使用されることもしない。これに対して、ご両親が共働きのために自分で料理することも多かったA君ははじめからそういう家事の文脈の中でこの問いを捉えていた。現代の「科学」や「教科」がえてして切り離している問をこのA君は捉えていた。
学校では先生が生徒にいろいろ教える。そしてそれをちゃんと憶えたかどうか験す。そう人を験すのだ。訊ねるということは、自分が知らないことを訊ねるものである。知らないから教えてほしいと何か訊くのである。他者への切なる要求や懇願がある。教える方にも何か伝えたいという気持ちがあって教えるのである。学校では自分の知っていることを他人に訊くことが、まるで当たり前のこととように教師から生徒に向けてなされる制度がある。験された生徒は「信頼の外」におかれ「訊かれた」ことに応えるのではなく、当たるか当たらないかという形で答えを意識する。両者の間には知りたい・伝えたいというやみがたい気持ちはない。言ってみれば、知識は開ける鍵をもったものだけが聞くことの出来る所有物のように考えられ、それを教師がそれを管理する守衛や寮監のような役をしていることもありうる。このような「制度化」をやめて学校では「生きるかたちに教える場」とする主張がなされなければならない。教師はもう、自分の知っていることを生徒に訊かないことにするということであると。
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